ニュースな
2007年6月10日

<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事

◆衆院宿舎首縊りの部屋

 前回の「史点」に急遽入れても良かったんだけど、もうネタ4つともほぼ書き上げていたためこの話題は今回にまわした。もうかれこれ10日は経ってるので衝撃度は下がってるけど…

 5月28日、僕は東京は永田町を歩いていた。国会図書館で調べごとをするのでここんとこ隔週ペースで通っているのだ。2時過ぎ、とりあえず今日の作業は済んだと国会図書館を出たら、上空をヘリが飛んでいる。永田町は国会議事堂はもちろん首相官邸、自民党・民主党・社民党の本部までが集中する地域(なお公明党は信濃町、共産党は代々木に本部を置いている)。「もしかして政治ネタでなんかあったかな」と信号待ちの間に携帯電話を取り出してニュース速報をチェックしてみた。すると「松岡農相自殺を図る。心肺停止」との見出しが目に入ってきた。「あらら〜」と驚きつつ、僕はついでに自民党本部前を歩いて地下鉄永田町駅の入り口へと向かったのだった。周囲はいつもの通り静か(たまに右翼の街宣車がガナリたててはいたが)で自民党本部も表面的には平静だったが、中では大騒ぎとなっていたことだろう。
 結局、松岡利勝農林水産大臣はかつぎこまれた慶応大病院で死亡が確認された。新築された赤坂の衆議院議員宿舎の部屋のドアの蝶番(ちょうつがい)に犬の散歩用のひもをかけて首をつっていたという。現職の大臣の自殺は戦後初、戦前を含めても前例は終戦直前の8月14日夜に割腹自殺した阿南惟幾陸軍大臣がいるだけなんだからかなりの異例。当然海外でも大きく報道された。
 現職の衆議院議員の自殺では5人目になるという。時代の近い順に並べると、2005年の永岡洋治(「郵政解散」の騒動のさなか)、1998年の新井将敬(証券疑惑の逮捕許諾決議直前)、1983年の中川一郎(原因不明だが直前の自民党総裁選で予想外の少票で追い詰められた?と見られる)…までは確認できたのだが、あと一人がまだ分からない。

 松岡利勝、という名前は安倍内閣発足直後から何度と無く金銭疑惑で報じられたため農相にしては知名度は高かった。しかしそれより前となるとどうだっけ、と思いつつ自分で「史点」過去ログをあたってみたら一度だけだが登場していた。2001年11月20日付「史点」の「センセイの走る季節」という記事で、「日本の危機を救い真の改革を実現し、明るい未来を創造する議員連盟」という長ったらしい議連の代表幹事となった松岡氏が「小泉改革に反対しようとは思っていない。開かれた議論を通じて、国民が合意できる改革を実現しよう」と発言したことが書かれている。当時松岡氏は亀井派に属していて、この議連じたい亀井静香(現・国民新党)氏がバックにいると見られており、松岡氏は農林族議員としていわゆる「小泉改革に対する抵抗勢力」の一人とみなされていた。しかし2005年の郵政民営化をめぐる分裂騒動では亀井氏には同調せず賛成に回り、「小泉後」の総裁選では安倍晋三総裁誕生のためにいち早く立ち回って、ついに農相として初入閣(当時「論功行賞人事」などと言われたものだ)を果たすなど世渡り上手ぶりも発揮していた。
 それだけにこの「自殺」という結末には意外の感があった。確かに次々と疑惑は出ていたが、「ナントカ還元水」なる名言(流行語になったもんな)をはじめとしてシタタカに逃げ切っているようにも見えたので、緑資源の談合疑惑ぐらいで…とも思ったのだが、いきなりの自殺。その直後にその緑資源の前身の団体の元理事までが飛び降り自殺してしまったこともあり、この方面は何か背景にもっと大きいものがあったんじゃないか?という憶測も呼んでしまっている(他殺説だって濃厚にささやかれている)。構造汚職の捜査過程で自殺者が出るのは江戸時代以来のパターンだが、それは自分より上の人間や属する組織にダメージを与えまいと(あるいは与えるなと暗に圧力がかかって)としてのもの。現職大臣がいきなり自殺しちゃったら政権に大ダメージを与えるわけで、それもあって首をかしげる声もある。だとすると自分が死んだほうがまだダメージが少ないと思うほどの大きな闇が背後にあったのか、それとも結果的に自分を追い詰めた「上司」に対するアテツケか。

 松岡農相が自殺した部屋には8通の遺書が残されていた。うち6通は安倍首相や飯島勲(小泉前首相の秘書官として暗躍した人)をはじめとする関係者たちへ直接あてたもので、残り2通は国民および後援者向けと発見者向けのものだった。この残り2通については内容が公開されており、国民向けというのが以下のようなものだった。
 
私自身の不明、不徳の為、お騒がせ致しましたこと、ご迷惑をおかけ致しましたこと、衷心からお詫(わ)び申し上げます。自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます。なにとぞお許し下さいませ。残された者達には、皆様方のお情けを賜りますようお願い申し上げます。安倍総理 日本国万歳」 
 自分にどういう罪があるかは明白にせず「不明不徳」「お騒がせした」「ご迷惑をかけた」と謝るのは実に日本的常套句そのままだ。「身命を持って責任とお詫びに代え」という文言は要するに責任をとらずにあの世へ「逃亡」したと言ってるに等しい。現職閣僚自殺の前例である阿南陸相も遺書を残していてそこには
死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」とあり、一見似ているが、少なくともこっちは「大罪(=天皇に対する敗戦責任)」は認めている。もっとも阿南陸相は死の直前に「米内(海相)を斬れ」と言い残したという話もあり、ことは単純ではないが。
 それにしても「国民向け」の遺書のはずなのに文末に「安倍総理 日本国万歳」とあるのには驚いた。これが昔なら「大日本帝国 天皇陛下万歳」となるところなのだろうが、大日本帝国→日本国はともかくとして、天皇陛下→安倍総理なのであろうか。ただ、考えてみれば安倍さんは祖父が岸信介、大叔父が佐藤栄作、そして父親は首相寸前までいった安倍晋太郎という家系であるから、周囲にとっちゃ「皇室」みたいなもんだったかもしれない。安倍首相も言っていたが松岡氏とは父親の秘書時代からよく知った間柄だったそうだし。
 この「万歳」のくだりには、先ごろ亡くなった城山三郎氏の「落日燃ゆ」のラストを思い出してしまった。主人公・広田弘毅がA級戦犯として処刑される直前に他の受刑者たちが「天皇陛下万歳」と唱えているのに対して「ああ、マンザイ(漫才)をやっているな」と皮肉を込めたギャグを言うのだ(広田は日常でもよくダジャレや冗談をいう人ではあったらしい)。実際あれは松岡さんの安倍さんへの「皮肉」という説もあるんだが。

 その「万歳」を奉られた安倍首相が松岡農相の死に顔を拝んで来てから出したコメントが「安らかなお顔」というのにも呆れたが(まぁそう言っとくもんかもしれないが自殺では…)「慙愧(ざんき)の念に耐えない。残念です」というのもどうか。僕などは「こんなのを任命しちゃって、さらに早く辞めさせなかった自分の不手際がそんなに恥ずかしいと言っちゃってるのか」と思ったものだが(「慙」も「愧」も「恥じる」意で、二つ重ねて「大いに面目を失い恥じ入る」こと)、直後に読売新聞でツッコまれていたように、どうもご本人そのつもりではなく「非常に残念」というニュアンスのつもりだったらしいのだ。「本日は誠に青天の霹靂で…」とかカッコつけて間違った漢語を入れちゃうパターンである。まぁ昨年末に「今年を一文字で表すと?」と記者に聞かれて「責任」と答えたお方で、「美しい国語力」にははなはだ疑問がついていた人ではあるんだが。
 石原慎太郎都知事の「彼もサムライだったということだな」というおバカなコメントには、サムライたちが化けて出そうだと思った(笑)。もっとも先述のように疑獄事件が起こると口封じのように下っ端が「詰め腹」を切らされる(これが慣用句として現代も残ってるもんなぁ)ことは江戸時代以前もよくあったわけで、その意味では日本は江戸時代以来そのままの構造が続いているとは言える。

 農相の自殺を受け、安倍首相は後任人事にとりかかったが、おりから「消えた年金」問題も発生して大騒ぎに。訪欧していた天皇が帰国してから後任を決めて認証式をとりおこなっている。ところで週刊誌の鼎談で村上正邦・元参院議員会長が松岡氏の自殺に関して「内閣の助言と承認により閣僚を任命した天皇と国民に対して(安倍首相は)責任がある」とか言ってたが、それは総理大臣だけの話であって国務大臣(閣僚)は総理大臣に「任命」されるのが正しい(儀礼として皇居で「認証」はやるけど)。中学校の公民でも習う話なんだけど、参院議員会長までつとめた人がこういう感覚だからなぁ…(記事に起こした週刊誌側の誤解の可能性も捨てきれないが)

 後任に選ばれたのは赤城徳彦氏(48)。農林水産省の官僚出身だが、その祖父・赤城宗徳氏は岸内閣の農相・防衛庁長官・官房長官をつとめ、佐藤内閣でも農相を務めている。一時は岸信介の側近中の側近とも言われた人で、孫同士でまた同じ関係になっちゃったわけ。ああ、「永田町村」は人間関係が濃すぎる。史劇的伝言板でも書いたが横溝正史の岡山シリーズを思い浮かべてしまう(笑)。
 祖父の赤城宗徳氏は防衛庁長官時代、安保改定で日本中が揺れるなか岸首相から「自衛隊の治安出動」を打診され「外国からの侵略を防ぐならともかく、そんなことでは国民の支持は得られない」として拒絶した逸話がある(おりしも自衛隊の情報保全隊が「反自衛隊活動」の情報収集やってたって話が出てきたなぁ…肝心の「情報保全」の方はからっきしなのに(笑))。それで恨まれたのかどうか、岸信介は赤城氏のライバル福田赳夫を後継者に選び、赤城氏は三木武夫の派閥に走るということになる。その流れで孫の徳彦氏は三木派の流れを汲む高村派に属しているわけ。ああ、こう書いてるとホントに『八つ墓村』とか『獄門島』とか思い出しますね(笑)。

 そんなことを書いていたら、サミット開催国のドイツの新聞で「安倍首相」の紹介記事に赤城新農相の顔写真が掲載されちゃった、なんてニュースが…。もしかして同一人物の変装だったりしないか(←推理小説の読みすぎ)



◆赤城の山も今宵かぎり

 赤城農相から、なんと見事なつながりでしょう(笑)。
 「赤城の山も今宵かぎり…俺には生涯てめぇという強い味方があったのだぁ…!」といえば国定忠治の名ゼリフ。もちろん舞台オリジナルの台詞であってそんな台詞を当人が言ったとは思えませんけどね。

 国定忠治(1810〜1851)は幕末期に多く登場した「侠客」の一人。赤城山のふもと、上州(群馬県)一帯は天明年間の浅間山大噴火により耕作地が被害を受けたこともあって養蚕業と絹生産が盛んとなり、それにともない絹を織る女性の力が強まって「カカア天下と空っ風」が上州名物などと言われた。現金を持ってヒマな男どもは賭場でギャンブルに走ってしまい、この地に多くの博徒が生まれる原因となる。またこの地方は天領(幕府直轄領)や旗本・大名領が入り乱れており、博徒集団が領地を越えて活動するため取締りが難しかったという背景もある。それで領地を越えて捜査活動ができる、アメリカのFBIにあたる「八州廻り」が設けられて取締りにあたることになったりする…余談を長々と書いているが、黒澤明「用心棒」とか、岡本喜八「助太刀屋助六」といった映画はこういう時代背景が分からないと理解不能な部分もあるのでついでに書いてみた。さらについでながら勝新太郎「座頭市」シリーズは第1話が下総・佐原の「天保水滸伝」から派生しており、赤城山で座頭市が国定忠治に出会う話もあって、幕末侠客ばなしをさりげなくリンクしていたりする。

 さて国定忠治の実録話だが、本名は「長岡忠次郎」といい、「国定」は彼の生まれた村の名前だ。上州・信州を中心に活動して博徒の中で頭角を現し、幕藩体制においては即刻死刑の大犯罪である「関所破り」を子分たちと堂々と行うなど、見栄っ張りと言うか派手な行動をいくつも起こしている。天保の飢饉の際に人々に米のほどこしを行ったという「美談」もあって(ま、これも社会に寄生して生きるヤクザならではの行為とも言われるが)、当時から人気があるヤクザではあったらしい。
 結局は幕府によって赤城山に追い詰められ一味を解散(上の名台詞はこの際に吐いたことになってる)、各地に潜伏するが、故郷に帰ってから病に倒れ、そこを逮捕され処刑されてしまった。その死後まもなく羽倉簡堂という元幕府の役人が『赤城録(せきじょうろく』という国定忠治伝(そして恐らく初のヤクザ伝記)を著したのを初めとしていくつかの忠治伝が江戸時代中に書かれ、明治以後は講談・芝居・浪曲・映画・ドラマでたびたび国定忠治が主役となり、先日話題を書いた清水次郎長と並ぶヤクザ史上のトップスターとなっていく。さすがに最近はヤクザ称揚への批判もあるのでこうした素材が扱われることが少なくなっているが、むかしは日本国民の「常識」とすら言っていいほど彼らの物語は人口に膾炙していて、上記の映画にあるような時代背景も説明不要でもあったのだ。

 その国定忠治の子孫と、忠治に殺された博徒の子孫とが170年にして「手打ち」をしたとの報道があった。
 「手打ち式」の音頭をとったのは「いせさき忠治だんべ会」なる忠治ファン団体。同じ伊勢崎市内に住む忠治五代目の子孫と、忠治との縄張り争いで殺された島村の伊三郎三室の勘助勘太郎父子の子孫が市内の式場に集まり、裃(かみしも)姿の奉行役の立会いのもと、「合わせの儀」「盃の儀」などが執り行われたと言う。
 忠治ファン団体の企画だから忠治の子孫の方は「そういう時期かなという感じ。応じないわけにいかない」とコメント。伊三郎の子孫は「粋なことをしてくれるじゃねえか」と何だか江戸っ子風味にコメント。しかし勘助の子孫の方のコメントは「遺恨がないと言えばうそになるが、地域を盛り上げるために水に流したい」と少々奥歯に物が挟まった感じだった。
 新聞記事中からは読み取れないのだが、とくにこの勘助殺しは遺恨を残すだけのいわれがあるのだ。三室の勘助が忠治の子分たちに襲撃され殺されたのは1842年のこととされるが、講談などでは忠治の命令でこれを実行したのは勘助の甥・浅太郎で、浅太郎は勘助を殺すがその幼子・勘太郎は助け、忠治の指示もあって自らおぶって子守唄を歌って育てる…という展開になっており、昭和初期にはこれをネタにした映画とその主題歌・東海林太郎「赤城の山の子守唄」が大ヒットしてすっかり定着してしまう。それ以後の国定忠治ものの映画・ドラマでこの話はお約束のように出てくるのだが、史実はまるっきり異なり、勘助は目明し(十手を預かり犯罪を取り締まる役だがヤクザが兼業でやってることが多かった)で、浅太郎はこの叔父との内通を忠治に疑われたため殺害を実行し、その際に勘太郎も父親もろともその場ですぐ殺害していたというのが真相。やっぱりヤクザのケンカは「仁義なき戦い」ですから。それにしてもこの勘助の子孫の方というのはどういうつながりになってるんだろう。

 この手の「手打ちイベント」ってよくあって、最近では小西行長の子孫と韓国の武将の子孫との和解イベントがあったりした。しかし戊辰戦争で酷い目にあった会津と、加害者側である長州の和解イベントは「まだ怨念を解くには早すぎる」と会津側からの意見でいまだ実現していない。その長州閥の流れを汲む安倍首相がさきの選挙で福島入りした際に「先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびしなければいけない」と「謝罪」したこともあったっけ。
 


◆その後の「仁義なき戦い」

 「仁義なき戦い」からなんと見事なつながりでしょう(笑)。
 ほぼ一年前になるが、2006年5月8日付「史点」で『「つくる会」仁義なき戦い』という記事を書いている。あの「新しい歴史教科書をつくる会」のおよそ一年に及ぶ凄まじい内部抗争を映画「仁義なき戦い」風味にまとめてみた二重にマニアックなものであるが、その後も内紛は続いており、いずれ「その後の仁義なき戦い」のタイトル(知らない人のために書いておくとそういう番外編的映画があるんです)で書こうとは決めていた。「新・仁義なき戦い/会長の首」「新・仁義なき戦い/会長最後の日」とかも考えなくはなかったんだけど(笑)。

 昨年その記事の段階では「つくる会」の元会長で副会長の八木秀次氏とその一派の4理事、そして八木氏解任後に会長となった種子島経氏も辞任して会を去り、藤岡信勝氏らが実権を再奪取、というところまで書いている。
 その後の経緯を簡単にまとめると、八木氏ら「つくる会」離脱組を中心として「日本教育再生機構」なる組織が作られ、これが教科書をつくることを目的の一つに掲げていたことから実質的「第二つくる会」もしくは「新しい「新しい歴史教科書をつくる会」」(笑)となったと見られている。内紛騒動を報じた「アエラ」で「朝日新聞にも嫌われない教科書になる」という八木氏の発言が載るが、その真意はともかくとしてこのことが「つくる会」残留組からの集中攻撃の対象となる。とくに「つくる会」の元会長の西尾幹二氏なんか八木氏らを攻撃し「日本教育再生機構に参加するな」と警告する内容の手紙を保守系知識人にバラまいたりしていたようだ。
 一方の「つくる会」側は小林正氏を新会長に選出しているが、この人は元神奈川県教職員組合委員長で社会党から立候補して参院議員にもなったという人。それが統一教会の集会に来賓として出席したりしているんだから、人間の流転というのは面白いものだ。それにしても「つくる会」内紛騒動を調べていくと、キリストの幕屋とか生長の家とか統一教会とか、いろんな宗教団体の名前が乱れ飛んでいて「宗教戦争」の様相を呈していて面白い。新人事を承認した7月の「つくる会」総会もかなり揉めたらしく、藤岡氏らが用意した内紛経緯の報告書も反対動議があって配布されずじまいとなっている。

 さて「つくる会」の実質的パトロンであった産経新聞は内紛の当初から八木氏側に味方しており、それまでヨイショしまくっていた「つくる会」に関する記事も激減して八木氏の団体の話ばかりが出るようになる。しかも八木氏は間もなく総理となる安倍晋三氏のブレーンの一人と言われており、これを敵に回しては「つくる」ものも「つくれない」ことになってしまうので、小林会長は早くから「日本教育再生機構」のイベントにも出席し、言い方は悪いが「二股かけた」形になった。これがまた「つくる会」内強硬派(とくに東京支部が顕著)の激怒を買い、新会長への批判の声は早い段階から強まっていた。

 現実に安倍政権が成立した秋以降、「つくる会」の教科書発行元である扶桑社(もちろん産経系列)は「日本教育再生機構と一緒にやらなきゃ教科書は出さんぞ」という最後通牒を「つくる会」に突きつけた。これに反撃する形で、「つくる会」会員の自衛隊員が自分の身分は隠して八木氏らを非難する手紙を安倍首相に直接送りつけ、防衛省内で注意処分を受けるという事件も年末に起こっている。年が明けると「つくる会」東京支部が「採択率が低いからといって扶桑社ごときに鼻面を引き回されることはないとか凄い表現の文書を出し、西尾幹二氏もブログで自分が書いた歴史教科書の「著作権」を主張して扶桑社への牽制を行っていた(もっとも本人のブログ自体は年明け後まもなく書籍の執筆専念を理由に自らの執筆は停止している)
 ブログといえば一時しきりに更新していた藤岡氏のブログはパタリと更新されなくなる。この間、表面には出さないが、扶桑社との不毛な交渉を延々と続けていたものと思われる。扶桑社側は一貫して「日本教育再生機構」との協力を主張し、「つくる会」側はプライドにかけてそれは出来ない、だけどゼロから作るより以前のバージョンを書き換えるほうが安上がりでしょ、としつこく扶桑社側に食い下がっていたのだろう。

 昨年のうちから方針は決まっていたのだろうが、扶桑社が「つくる会」に実質的な絶縁状(少なくとも「つくる会」内強硬派はそう受け取った。「傲岸不遜」とか言ってたな)が出たのは2月中のこと。扶桑社はこの採択率の低さでは採算が合わないため100%子会社の教科書出版会社「育鵬社」をつくり、そこから内容を改めた教科書を出す意向を示したのだ。幹部達は会員FAXでは初め公表しなかったがそれが明白となった4月ごろから東京支部の強硬派を中心に「小林会長解任」と「原点回帰」の要望書が出され、5月にはとうとう「小林会長と一部理事の解任を要求する」「新しい歴史教科書の換骨奪胎を阻止せよ」といった激しい文言のアピールを出した。「育鵬社」の名前に噛み付いて「鵬とは李鵬(中国の元首相)の鵬だ!」とまでイチャモンをつけていたっけ(注:「つくる会」強硬派内では八木氏らは「中国の手先」ということになっている)
 これを受けて開かれた5月30日の「つくる会」評議会および理事会で、この要望どおり小林正氏は会長を解任され、藤岡信勝氏が新会長に就任した(評議会の方では一部もめたらしい。また小林氏は混乱のなか開かれた理事会そのものへの出席を拒否し、欠席裁判で解任されたようだ)。そして翌31日に文部科学省記者クラブで藤岡新会長が記者会見を行い、マスコミに対して経緯をようやく説明した。それで昨年来の内紛をほとんど報道してなかった各新聞もいっせいにそこそこの大きさで報じたのだが、ずっとネットで見物していた僕などには「あれだけ問題になった会の大騒動なのに、記者会見やらないと記事にしないのかよ」と呆れたものだ。

 記者会見で藤岡氏は扶桑社側が「組織の分裂状態」を絶縁の理由に挙げたとしつつ、組織分裂そのものを否定したという(唖然…)。また扶桑社以外の出版社を公募するとして「いくつかの出版社に打診し、前向きな感触を得ている」と語ったが、「扶桑社も方針を撤回するなら、交渉の用意がある」と付け加えるのを忘れなかった(爆笑)。ああ、こりゃ引き受けるところは無さそうだなと思った。「つくる会」立ち上げ時に扶桑社のほかにPHPと徳間書店が候補にあがっていたらしいが(トンデモ本を出す二大巨頭という気もする)、そのときでも残り二つは躊躇したんだよね。
 扶桑社は「つくる会の動向に関しては、コメントを差し控えたい」とコメント(笑)、当事者でもあるはずの産経新聞(そのむかし全歴史教科書を勝手に採点して扶桑社のにほとんどオール5をつけたりしてたな)は事実のみ淡々と報じたが、八木氏らと共に教科書づくりに乗り出す「改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有識者の会」なる団体が「発足することが分かった」と他人事のようにヌケヌケと同じ記事中で書いている(笑)。

 ともかくこの決定で「つくる会」は完全に純化路線に突き進むことにしたわけだ。こういう風になるとあとはもう中核派と革マル派、さらには連合赤軍と一緒。ささいな意見の違いを裏切りやら転向やらと見なして内ゲバを繰り広げ、組織の縮小再生産をしていくしかない。現時点でも西尾幹二氏が中心となって書いた初版本に戻せという原点回帰派と、岡崎久彦氏の意見を入れて「反米的」記述を全部改変したバージョンを推し進める派との闘争が見え隠れしている。
 さらにこういうパターンに陥ると、「つくる会」からの分派組、産経系が新たに出す教科書に対して「つくる会」側が妨害工作を開始する可能性も大だ。最初のうちは「つくる会」系掲示板でも「保守系教科書が二つになっていいじゃない」的な声があったものだが、最近じゃそっちの採択をなんとしても阻止せよというような声が実際にあがってるし、もともとそう広くない業界だけに会員の奪い合いも確実に起こるだろう。「仁義なき戦い」はまだまだ終わらず、そのうち「新・仁義なき戦い。」とか、「新・仁義なき戦い 謀殺」といった記事を書くことになるのかもしれない(最後はマニアックかつ物騒な話になっちゃったな)



◆恒例・贋作サミット・ハイリゲンダム編

 ドイツ北部の保養地ハイリゲンダムに主要国の首脳が集まりましたとさ。 

独「ようこそいらっしゃいませ〜今年のホストは久々に女性がつとめることになります。夫は首脳夫人の案内役(笑)」
仏「女性の対立候補に勝って今年から初登場の新顔で〜す、どうぞよろしく〜」
日「私も新顔で〜す、どうぞよろしく〜」
伊「新顔ってあんた、新聞に載ってた顔写真と違うじゃない」
日「あれは新聞が間違えたの!」
独「ご免あそばせ。東洋人は顔がみんな同じに見えちゃうもんだから」
中「我が国でも主席と首相の区別がつかないってよく言われてますよ」
日「あれ?まさか4月にうちに来たのは…?」
英「私は今年でサミットとはオサラバ。十年も参加してるから、名残惜しいなぁ」
米「私も来年までか…この贋作サミットも顔ぶれがずいぶん変わるなぁ」
露「私も来年で任期切れなんだけど、憲法変えて任期を延ばせちゃえれば…(笑)」
米「そういう動きをにおわせるから「冷戦再開」なんて言われちゃうんだよ」
露「まぁベトナムの二の舞みたいなことをやってる国もあるしねぇ」
米「なんだとぉ、このアスホール!」
加「おー、出た、今となっては懐かしいフレーズだなぁ」
日「まぁまぁ、『美しい星』のためにも言葉も美しくしないと」
仏「「国」から「星」にスケールアップして、三島由紀夫か、あんたは」
独「ところでメインの議題は温暖化防止問題なんです、そっちに話題を」
露「ウチなんかあったかくなってきてちょうどいいアンバイなんだが」
伯「ウチなんか熱くて人が住めなくなるって!」
米「二酸化炭素を減らしゃいいってんなら、人口の多い国は息を少し止めればいいんじゃない」
印「コラッ」
英「息もそうだがオナラの方もバカにならんですぞ。10%は二酸化炭素だ。一人当たりの発射量を決めて…」
中「一人っ屁政策!?」
墨「自分で言うか!」
南「いや、実はオナラにはメタンが含まれてる場合があるから、大いにやって資源にするという手も」
伯「おお、それこそバイオガスだ!」
米「うっ!」
露「おや?どうしました?プレッツェルでもノドにつまらせましたかな?」
米「きゅ、きゅうに腹が…あぁっ!てめぇ、さっきの仕返しで一服盛ったな!」
伊「おっと、一発出そうならさっそくバイオガスの回収を」
仏「アスホールだけに(笑)」
独「ああ、なんて下品な!」
日「慙愧の念に耐えない。というわけで来年はウチでやるのでよろしく〜」



2007/6/10の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>

史激的な物見櫓のトップに戻る