ニュースな史点2007年7月6日
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◆政界の宇宙人、星界へ
このところ「史点」更新が滞っていたが、最大の理由は「ネタ不足」だった。いや、ないこともなかったのだが、書こうと思うほどのネタが4つ集まってくれなかった、ということなんですけどね。そこへ降って沸いたのが「宮沢喜一元首相死去」のニュースだった。
宮沢喜一元首相、といっても実際に内閣総理大臣をつとめていたのは平成3年(1991)11月から平成5年(1993)8月にかけての2年弱。小泉前総理の長期政権の印象が強い昨今ではずいぶん地味、かつ短期政権の印象すら受けてしまうが、2年弱(644日)という就任期間は日本歴代首相の平均期間からすればまぁまぁの線だ。昨年亡くなった橋本龍太郎元首相はより長い932日つとめているが、亡くなった際の報道での扱われ方はやはり宮沢氏の方が大きかった。すでに晩年の段階で「歴史上の人物」扱いされていたといっていい人だったわけだが、総理大臣経験者としてよりも戦後史を政界の中心で見守り続けた「生き証人」としての意味が大きい。
宮沢元首相が生まれたのは1919年。東京帝国大学法学部を卒業後、太平洋戦争中の1942年に大蔵省の官僚となる。終戦直後の東久邇内閣から蔵相秘書官をつとめ、1949年から当時蔵相だった池田勇人の秘書官となり、その片腕として活躍した。のちのちまで宮沢の大看板となった英語力を発揮してアメリカとの講和交渉を進める池田蔵相を助け、1951年のサンフランシスコ講和会議では吉田茂首相ら日本全権の随行員として日本の主権回復という歴史的シーンの立会人となった。
その後池田勇人の強いすすめで政界に転じ、1953年に参議院議員に初当選、1962年に池田内閣の経済企画庁長官として初入閣、早くもズバ抜けた政策通の若手政治家として注目され始める。その後佐藤栄作内閣で経済企画庁長官と通産大臣、三木武夫内閣で外務大臣、福田赳夫内閣で経済企画庁長官、鈴木善幸内閣で官房長官、中曽根康弘内閣で大蔵大臣…と70年代から80年代にかけての歴代内閣の主要ポストを次々とつとめている。この間、1986年に池田勇人-大平正芳-鈴木善幸と続く自民党の名門派閥「宏池会」の会長となり、次代の総理総裁の有力候補の位置につける。中曽根政権の次代を安倍晋太郎・竹下登・宮沢喜一のいわゆる「安・竹・宮(あんちくみや)」が争い、結局「中曽根裁定」によって竹下が首相となるが、宮沢氏は副総理兼蔵相として竹下内閣に入閣する。しかしおりから起こった「リクルート事件」に名前が挙がったため蔵相を辞任、ひとまず雌伏することになる。
消費税導入とリクルート疑惑のWパンチで退陣に追い込まれた竹下内閣を引き継いだ宇野宗佑内閣も2ヶ月ほどで終わってしまい、続いて「なる人がいないからなった」としか思えない海部俊樹内閣が約2年をそこそこ無難につとめた。そしてその後継に三塚博、渡辺美智雄が名乗りを挙げたが、結局は「最後の大物」とみなされていた宮沢がついに総理総裁の地位を獲得することになる。このとき最大派閥の竹下派、とくに最強実力者となっていた金丸信の支持を得るために宮沢が自ら腰を低くして出向き、当時金丸の懐刀となっていた小沢一郎(もちろん現民主党代表)がずっと年上の大物宮沢に対して、尊大な「面接試験」を行ったというのは有名な語り草である。
ともかく長年「総理総裁候補」と言われ続けた宮沢がついに総理の座に就いたのは平成3年(1991)の秋のことだった。この年、戦後国際政治の一方の雄であったソビエト連邦が解体され、日本では「バブル崩壊」が明らかとなるなど、内外ともに政治の転換期に入っていた。ついでながら「私達はいま、歴史の大きな転換期に生きている…」とのナレーションで始まったNHK大河ドラマ「太平記」が放送されたのもこの年である。
官僚出身政治家を中心とする名門派閥「宏池会」の会長として、また政界屈指の政策通として、吉田茂から続く戦後の「保守本流」の本格総理候補と長年言われ続けた宮沢だったが、めぐり合わせの悪さはどうしようもなかった。実際に政権をとってみたら、世界情勢の変化と連動するように自民党の一党支配そのものが終焉を迎えつつあったのだ。「佐川急便事件」での金丸信の逮捕から政治改革問題が噴出、竹下派の分裂により1993年に内閣不信任決議が可決され、つづく解散総選挙では「さきがけ」「日本新党」といった自民離脱組による新党ブームもあって自民党はついに結党以来初めて野に下る結果となった。かくして宮沢は「一党支配自民党の最後の総理総裁」というあまり名誉とは思えない称号を贈られつつ、総理の座を去ることになった。在任中にめだった政策といえばカンボジアPKOへの自衛隊派遣ぐらいで、宮沢としては無念至極のことであったに違いない。
その後自民党は社会党・さきがけと組んで政権を取り戻すが、それ以来つねに他政党との連立政権状態が続いている。そうした政権であった小渕恵三内閣で、宮沢は小渕首相の三顧の礼を受ける形で大蔵大臣として再び入閣、首相経験者が蔵相となった前例にちなんで「平成の高橋是清」などと呼ばれた。もっともこの呼び名について当人は「私は高橋さんが蔵相をやってたころを知ってますからねぇ…」と困ったような顔で話していたものだ(「クーデターで暗殺されたらそう言われるだろうな」などと危険なことを僕は言っていた(笑))。
この当時の政権の最大課題はもっぱら「景気回復」で、そのために政策通の宮沢さんを引っ張り込んだわけだが、経済に疎い僕などにはどれほどの活躍があったかよく分からない。ともあれ小渕首相急死(正確には人事不省だが)という事態を受けてあとを継いだ森喜朗内閣でも宮沢は蔵相にとどまり、省庁改変により「大蔵省」が「財務省」に改称したことにともなって「初代財務大臣」になるというめぐり合わせもあった。続く小泉政権では同じ長老の中曽根康弘ともども年齢制限規定で政界引退を余儀なくされたが、中曽根氏ほどではないにしても「まだまだ」という執念を見せていたものだ。
タイトルに「宇宙人」と入れたのは、昔から映画「スター・ウォーズ」のヨーダだの、E.T.だのに似ていると言われていたことにちなんだのだが、ヨーダというのがそもそも東アジアの「仙人」をイメージしてデザインされており、「東アジアの老知識人」と似てくるのは偶然ではないとも言える。宮沢氏は有名な英語力ばかりでなく漢学の素養もかなりのもので、それを自らの行動規範の基礎としていたと言われる。初代財務大臣として「財務省」の看板の字を書くよう官僚に求められると「王羲之(4世紀中国の書道家)という人で書はもう完結しちゃったと思うんですよ。これ以上は書けない」と断ったという逸話もあり、政策通のみならず政界きっての教養人でもあった。
宮沢氏の訃報を受けて、ある大臣が「政界には珍しいほどの知識人で」と半ば皮肉交じりに語るのをTVでみかけたが、確かにこの人、自らの教養と学歴、知識をとくに意図することなく披瀝して、他人のそうでない部分をとくに意図することなくバカにしてしまう傾向があり、そのために永田町ムラ社会では嫌われ続けたと言われている。
2007年6月28日。宮沢氏は朝ふだんのように新聞を読み、周囲に「休んだら」と言われても「もう少し読む」と答えて政治・経済へのあくことのない関心を示していたという。参院選が近づいていることもあり、後継者の宮沢洋一氏(喜一氏のおい)にも「自民党がしっかりしないといけない」と語っていたとのこと。
その日の午前中に医師の診断を受け、「少し休ませてもらう」と付き添いの女性に声をかけたのが、宮沢氏がこの世に残した最後の言葉となった。そのまま眠りについているうちに心臓が止まっていた…という、まさに理想的な大往生でありました。
◆3500年前の女王様
「ハトシェプスト女王」という名前を聞いて、どれほどの人が「ああ、あの…」と思い当たるだろうか。紀元前15世紀、エジプト第18王朝のファラオ(共同統治)となっていた女性で、エジプト史上では珍しい女王ということもあり歴代ファラオの中では有名といえば有名な方なんだけど、僕だって世界史を教える立場になったためにその名前を覚えていたという程度。調べてみたら彼女を主人公にした漫画まであると知ったが…少なくともクレオパトラほど有名ではない。
その知名度のレベルもあってか、このたび「ハトシェプスト女王本人のミイラ確認!」との報道が世界をかけめぐった際にも、彼女の名前ではなく「ツタンカーメン級の発見!」との見出しがよく使われていた。ツタンカーメン(トゥトアンクアメン)がその墓とミイラの発見経緯から世界でもっともよく知られたエジプトのファラオなのは確かで、同じ第18王朝のファラオということもあったんだろうけど、両者の在位時期は100年以上の開きがあるし、在位中の事跡から見ればハトシェプストの方が圧倒的に大物だ。
ハトシェプストが生きた期間は完全な確定ができないが、だいたい紀元前15世紀前半とされる。今からじつに3500年も前の人物であり、日本の伝説上の初代天皇・神武天皇だってムリヤリな計算によっても今から2660年程度の昔だからその古さが知れようというものだ。そんな大昔の人でもその実在と細かい事跡、さらにはそのミイラまでが確認されちゃうところがエジプト文明の凄いところだ。
ハトシェプストが生きた時代のエジプトは第18王朝(前1570頃〜前1345)。もう18番目の王朝で、伝説的な第1王朝の始まりからすでに1300年(!)もの時を経た、エジプト史ではむしろ遅い時代、「新王国時代」の最初である。彼女はその王朝の第3代ファラオ・トトメス1世と正妃の間にできた第一王女だった。トトメス1世のあとを継いだのは低い地位の妃が生んだ息子・トトメス2世だったが、彼は継承を正当化するためであろう、異母姉(妹とも)のハトシェプストと結婚している。
トトメスとハトシェプストの間には男子が生まれず、若くしてこの世を去ったトトメスは側室との間に生まれたトトメス3世を後継者とし、ハトシェプストが幼い彼を補佐する摂政として政治をみることになった。だが間もなくハトシェプストはトトメス3世との「共同統治」という形で「女王」となり、およそ20年間エジプトを治めることになる。
ハトシェプストの統治時代のエジプトは平和外交・貿易隆盛の時代であった、というのが大方の見方らしい。ハトシェプストは紅海を南に下ったプント(現スーダン南部からエトルリア北部といわれる)の地へ探検隊を派遣し、この地の乳香や象牙・黄金を交易により入手しており、その探検の模様は女王が寵臣センエンムト(愛人だったという説もある)に建てさせたルクソールにあるハトシェプスト葬祭殿の壁画に詳細に描かれている。そのハトシェプスト神殿自体がエジプト建築史上の傑作として名高い。
ただこの女王に「専横」されたという思いが強かったのか、ハトシェプストの死後、義理の息子トトメス3世は葬祭殿の壁画から彼女を顔の浮き彫りを削らせている。さらに外交方針も積極的かつ軍事的進出へと転換、17回ものアジア遠征を実行してユーフラテス川流域までエジプトの領土を拡大、トトメス3世は後世「エジプトのナポレオン」などと称されることになる。
こういう経緯を見ていると、後年のクレオパトラとか、さらには則天武后とかを連想させられる。とくにその治世は近代になると評価もされるがその死の直後から悪く言われたらしいところは則天武后とよく似ているような。
さてこのたびハトシェプスト本人のものと仮認定されたミイラは、ツタンカーメンの墓発見者であるハワード=カーターらによって、1903年にやはり「王家の谷」で発見されたもの。このとき女性のミイラが2体見つかっており、長いこと注目もされなかったが、最近になって「どっちかがハトシェプストじゃないのか」と見られるようになったらしい。とくに片方は握り締めた左手を胸の上に乗せた姿勢をとっており、女王の可能性が高いとは見られていた。
そこでエジプト考古最高評議会の事務局長ザヒ=ハワス氏らのチームがここ一年かけて、CTスキャンや歯など遺体の一部の調査を進めていた。特に注目だったのは「DNA鑑定」が使用されたこと。最近犯罪捜査でも使われるようになったDNA鑑定だが、さすがに3500年も前の人のDNAとは驚き。もちろんDNA鑑定するからには彼女の親類のDNAサンプルが必要になるが、幸い父親のトトメス1世のミイラは特定されており、これと血縁関係を比較することが可能だった。
で。6月27日に「本人特定」の報が流れたわけだ。もっともDNA鑑定の最終結果はまだ出ていないので確定ではないのだそうだが…。なお問題のミイラは「50代の太り気味の女性」で、死因は胃ガンと見られるという。
◆キューバの急場はしのげるか
つい先日、「ゲバラ!」(原題「CHE!」、1969年)というアメリカ映画を見た。今なお人気が持続しているアルゼンチン出身の革命野郎チェ=ゲバラの生涯を、その死後わずか3年で映画化してしまった一本。主役ゲバラを演じたのはアラブ出身の名優オマー=シャリフという一見無茶な配役だが、メイクのおかげもあり結構よく似ていた。
つい最近でもロバート=レッドフォード監督によるゲバラの若き日を描いた映画があったし、また近々二部作の大作としてゲバラ伝映画がまた製作されるとの話もあり、アメリカ人もなんだかんだでゲバラ好き。そもそもアメリカには「ラテンアメリカ革命野郎」好きの伝統があるようで、古くは「革命児サパタ」(1961)、「戦うパンチョ・ビラ」(1968)といったメキシコ革命の「革命野郎」映画があったし、ゲバラもその延長上にあるのだろう。考えてみりゃアメリカ合衆国自体が「革命」によって出来た国だった。
そのゲバラ映画でフィデル=カストロを演じたのはジャック=パランス。こちらもまたよく似ていたが、すでに死んでいたゲバラと違ってバリバリに生きてる政治家、しかもアメリカと敵対する国の独裁指導者ということで演じるのは大変だったんじゃなかろうか。ただアメリカの「革命野郎好き」の伝統もあって、カストロだってキューバ革命達成当初はアメリカ国民には結構人気があったという話も聞く。しかし革命前のキューバが実質的にアメリカの植民地状態であり、革命政府が必然的にアメリカの利権を奪う結果になったためアメリカ政府が態度を硬化、カストロもソ連に接近して「社会主義国」を標榜するようになり、あの「キューバ危機」を招くことになった。そして冷戦も終わりソ連もなくなった今もなお、キューバのカストロ政権は今や数少ない「社会主義国」として持続し続け、アメリカとの国交は今も無い。
しかしさしものカストロ議長もすでに80歳を過ぎた。昨年には体調を崩して数回にわたる手術を受け、不謹慎ながらぼちぼち危ないのではないかと目されている。とりあえず先日「復活宣言」をしてはいるのだが…。
その手術にあたって国家指導者の地位を代行することになったのがカストロ議長の弟、ラウル=カストロ第一副議長(76)。議長に万一のことがあった場合の後継者と見るのが自然だが、実の弟、しかもすでに70過ぎの高齢とあって、「カストロも後継者作りを怠ったか、それともよほど人材がいないのか」と僕は思ったものだ。ただこのラウルさん、単に「カストロの弟」というだけでなく、革命運動、共産主義運動にに兄より先に飛び込んでいた根っからの革命野郎であり、ゲバラと兄フィデルを引き合わせたのも彼であったと言われる。
6月18日、そのラウル氏の妻ヴィルマ=エスピン=ギロイスさんが77歳でこの世を去ったことがキューバ政府により発表された。これがまたなかなかの革命野郎…いや、「革命乙女」(?)なのである。
彼女は1930年にサンティアゴの裕福な家に生まれ、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学している(カストロ自身もそうだが、だいたい革命指導者というのは富裕なインテリでないとつとまらない)。帰国後に当時のバティスタ政権に対する革命運動に身を投じ、運動家フランク=バイスのグループに入った。しかし1957年にバイスは暗殺され、以後は彼女が指揮をとってキューバ東部で革命運動を続けていく。1958年にサンティアゴの山岳地帯に潜伏していたカストロ兄弟と合流し、翌1959年にラウル氏と結婚することになった。二人の間には四人の子どもが生まれている。
革命を成功させ、キューバの国家元首となったフィデル=カストロだが、離婚していたために「ファーストレディ」にあたる人がいなかった。そこで弟の嫁さんであるヴィルマさんがファーストレディ役を40年以上にわたりつとめていた。しかしここ数年は循環器系の病で療養生活を送っていたと伝えられている。キューバ政府は彼女を「女性解放運動に寄与した戦士」と称えてその死を悼み、18日から19日にかけて喪に服し、公共施設では半旗を掲げることにしたという。
…とまぁ、この話だけで記事が一つ出来ちゃってるわけだが、更新を怠っているうちにキューバネタがさらに入ってきてしまった。最近よくネタにしてる気もするCIAの秘密文書公開によって判明した「知られざる歴史」もので、「CIAがカストロ議長暗殺を計画していた」という話題である。もっとも暗殺計画があったこと自体はすでに分かっていて、今回のはその内容が具体的に分かった、というものだ。
その話は1973年に当時のCIA長官が、それまでのCIAによる非合法的活動をまとめさせた『家族の宝石』なる700ページもの分厚い文書の中にあった(それにしてもこの題名は何なんだろう)。この文書には国内の反戦活動家やジャーナリストに対する盗聴活動、民間人へのLSD投与試験、郵便物開封などといった非合法活動がズラリと並んでいるそうだが、その中に「マフィア幹部にカストロ議長を殺させる」という計画を進めていた事実が含まれていたという。
この計画が出たのは1960年。CIAは元FBI捜査官を仲介してマフィア幹部のジョニー=ロッセリにカストロ暗殺計画を持ちかけた。ただし当然のことでもあるが「CIA」の正体は隠し、キューバ革命政府によって損害をこうむった国際企業が15万ドルの懸賞金をかけてカストロの命を狙っている、という話をでっち上げた。革命前のキューバにアメリカの企業だけでなくマフィアたちも多くの利権を持っていたことは映画「ゴッドファーザーPART2」にも描かれていたっけ…と思いつつプロフィールを調べてみると、そもそもこのロッセリ自身がドン・コルレオーネのモデルの一人でもあるようだ。
話をもちかけられたロッセリ自身は気乗りがしなかったのでサム=“モモ”=ジアンカーナ(あのアル=カポネの後継者)とサントス=トラフィカントという指名手配中の大物ギャング2人を紹介。ジアンカーナがカストロ議長の食事に毒を入れるというアイデアを提案、彼らとつながりのあったキューバ政府関係者に毒物が渡されたが、当人がおじけづいて実行しなかったため失敗、その後ビッグス湾事件の失敗で暗殺計画は棚上げになったという。ここに名前の出たマフィア幹部達はケネディ大統領暗殺事件とのかかわりでも名前がしばしば挙がる連中でもあり、ジアンカーナは暗殺、トラフィカントは暗殺におびえて自殺という最期を遂げていて、アメリカ現代史の「闇」を見る思いがする。
さてこんな報道が出た直後の6月28日、ブッシュ米大統領は海軍大学校での演説で「神がカストロを片付けてくださるろう」と発言した。とりあえず退院したばかりのカストロ議長はこれを受けて「神が私をブッシュから守ってくれた」と題する論説をキューバ共産党機関紙に発表した。いちおう共産主義者ということになっているカストロさんは無神論という建前なのでこうした表題はアメリカでは注目されたらしいが…どっちにしても神様も勝手にアテにされては困ってしまうところであろう。
◆たかが名前されど歴史
6月18日、日本の国土地理院が東京都小笠原村の「硫黄島」の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」に戻すことを決定した、と報じられた。小笠原村住民からの要請を受けてのものであるという。
最近硫黄島の戦いを描いたイーストウッド監督の二部作映画が話題となったが、その中でも硫黄島「IWOJIMA」と発音され、邦題でも「いおうじま」という読みが使われていた。しかし僕の父もそうなのだが、ある程度の年代以上の人には「いおうとう」のほうがなじみがある。もともと日本では「いおうとう」という読みが一般的で、「いおうじま」と呼んでいたのは戦中のアメリカ側だった。恐らく日系アメリカ人らが漢字をそう読んだのが原因ではないかと思うのだが。
硫黄島は1968年に日本に返還され、そのときも地図上では「いおうとう」と表記されたというのだが、アメリカ経由の「いおうじま」が定着してしまったらしく、1982年に東京都の公報で「いおうじま」とされたことでこれが「公式」とされた。それから四半世紀を経て元に戻った、ということになる。
ところがこの呼称変更が20日になって報じられると、アメリカ国内では微妙な反応が出たという。親分アメリカの反応がいつも気になってしょうがない産経新聞が記事にしていたが、FOXテレビは「日本が歴史を書き換えた」といった表現を使い、「(呼称変更は)率直にいって好きになれない。イオウジマの名はわれわれの伝統であり、遺産の一部なのだ」(海兵隊のヘインズ退役中将)とか「旧称への差し戻しは日本のやったことだが、イオウジマの名は米国の軍事史に燦然と輝く」(退役軍人協会のデービス広報官)といった声が退役軍人らの間から上がっているという。
映画でも描かれていたが、硫黄島の戦いは太平洋戦争中アメリカ軍がもっとも犠牲を強いられた戦闘であり、そんな戦闘の中で摺鉢山(すりばちやま)に兵士達が星条旗を掲げる見事な構図の写真が戦意高揚に大いに利用されてアーリントン墓地にもその写真をもとにした像が建てられ(「父親たちの星条旗」がこのテーマを扱っている)、「IWOJIMA」の名を冠した軍艦(映画「アポロ13」で乗員救助に向かった空母が「イオウジマ」だった)があるなど、アメリカ軍人にとって「イオウジマ」は太平洋戦争の象徴的存在でもあるのだ。そんな島の名前を変えるとは!と不快に思うところはあるだろう。「旧称に戻っただけ」という説明もちゃんとされてはいるようだが、「JIMA」と「TOU」じゃ全然違う。訳すときに「IWO Iland」にしておけば良かったのにねぇ。
「史点」ではよくあることだが、硫黄島関連ではもうひとつニュースがあった。その「父親たちの星条旗」でも描かれたように、あの摺鉢山の星条旗掲揚写真は「2度目」の掲揚の際の写真で、その前にややメンバーが異なる「1度目」の掲揚があったのだが、その1度目の掲揚に参加していたチャールズ=リンドバーグさんが6月末に86歳で亡くなっている。「自分は最初の星条旗掲揚に参加した一人」と主張したためにウソツキ呼ばわりされることもあったというが、「父親たちの星条旗」によりその事実が広く知れわたったのを見届けての死であった。
歴史的地名の問題と言えば、ナチスがユダヤ人を大量虐殺した「アウシュビッツ強制収容所」の話題もある。ポーランド国内にあるこの収容所跡は「負の遺産」として世界遺産にも登録されているが(そういえば以前話題にした「石見銀山」はめでたく逆転登録が決まったな)、これがしばしば「ポーランドのアウシュビッツ収容所」と表現されるため、ポーランドでは「ポーランド人がユダヤ人虐殺をしたと誤解されかねない」として名称変更を求める運動が起こっていたのだ。しかしこの名称変更については各国のユダヤ人団体の一部には根強い反対意見もあり、昨年の世界遺産委員会でも全会一致の賛成を得ることが出来ずに先送りになった経緯がある。単に名前のことだけでなく、「じゃあポーランドはユダヤ人弾圧に一切無関係だというのか」という声もふくまれていたようだ。ポーランドに限ったことではないが、ユダヤ人差別はなにもナチス・ドイツの専売特許ではなく、ヨーロッパ各国に広く存在したもので、ナチス占領地では現地の弾圧協力者が少なからずいたのも事実なのだ。
6月27日にニュージーランドで開かれていた世界遺産委員会は「アウシュビッツ強制収容所」について「アウシュビッツ・ビルケナウ―ナチスドイツ強制・絶滅収容所」に名称変更をすることを決定した。これについてポーランドのウヤズドフスキ文化相は「これは歴史的真実の勝利だ」と喜びを語ったという。しかし政治家の口から「歴史的真実」などという言葉が出ると僕などはどうもスッキリしないものを感じてしまうのだ。
政治家と歴史の発言と言えば、日本国内ではなんといっても久間章生防衛大臣(もう「前」になっちゃったけど)が「原爆しょうがない発言」としょうもない略し方をされてしまう発言をして結局辞任に追い込まれるという騒ぎがあった。これは麗澤大学での日本の国防に関する講演の中で「日本がドイツのように米ソで分割占領されなくてよかった」という文脈の中で出てきたもので、報道によると、そのも少し細かい要旨は以下のようであったという(朝日新聞サイトから)。
米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。
アメリカが原爆を投下した背景に戦後のソ連との関係をにらんでの意図があった、という説は昔からあり、ある程度事実とみていい。だがこの久間さんの発言にあるように「ソ連参戦阻止」となると歴史事実として完全に間違い。そもそもヤルタ会談に出席したルーズベルト大統領は日本を早期に降伏させるためソ連の参戦を積極的に望んでおり、スターリンに千島や満州利権ぐらいはソ連にくれてやるという約束までしていた。イギリス首相のチャーチルはすでにソ連に対して強い警戒心を抱いている中でのことだ。その直後にルーズベルトは死去して、あとを継いだトルーマンはソ連警戒の姿勢を強めてはいるのだが、ソ連の対日参戦を止めようとしていた様子はない。だいたいソ連の対日参戦は8月8日のことであり、長崎に原爆を投下するのと前後している。さらにいえば当時の日本政府・軍部首脳はソ連を仲介した有利な講和などという妄想をギリギリまで抱いており、原爆投下よりもソ連の対日参戦のショックが日本の降伏を早めたとの見方もある。
結果から言えばソ連に占領されることがなくてよかった、という意見にはうなずくのだが、「あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないなという風に」と防衛大臣の口から言われてしまうと「おいおい」とツッコみたくはなる。発言中には「勝ち戦ということが分かっていながら原爆まで使う必要があったのか」とも言っているのだが、それでいて結局は「そういうことも選択肢としてはありうる」と「容認」ととられても仕方がない表現を使っているのも確か。こうして発言全体を眺めてみても歴史事実の確認が不十分だし、何というか、頭の中でまとまらないことをノリでフラフラとしゃべっちゃってるように思える。
この「問題発言」について、当初安倍首相は「アメリカの見解を紹介しただけ」とこれはこれで勝手な解釈で擁護し、久間大臣当人も野党の辞任要求に「よくあることです」と軽く受け流す姿勢を見せていた。ところが7月3日に急転直下で辞任に追い込まれる。前日に参院選改選組から辞任要求の声も上がっていたが、どうも決定打は連立与党の公明党の態度硬化であったと思える。前日に公明党幹部の浜四津敏子議員(創価学会婦人部では圧倒的な影響力をもつと言われる)が「個人的意見」としつつ辞任を要求する発言を行い、3日の午前中に久間大臣が公明党幹部たちに「説明」をしようとしたら「党内の意見がまとまってないから」と会見そのものを拒否されている。その直後の急転直下辞任だから、これが決定打だったと見ていいだろう。安倍首相としては公明党のいいなりになったと見られるのはイヤだから当初は擁護に走ったのだろうが結局は辞任を余儀なくされたわけで、デジャブ感がありありだ。「安倍総理万歳」などと遺書書いて自殺しちゃった閣僚もいたぐらいだし、安倍さんの「論功行賞」でポストにありついた連中ってロクなのがいなかったな、と改めて分かってくる。とりあえず久間さんは「初代防衛大臣」としてその筆跡を「防衛省」の看板に防衛省が存在する限りこの世にとどめることにはなった。宮沢さんは書かなかったんだけどねぇ…
久間大臣辞任の直後、アメリカからもこの件で「問題発言」が飛び出している。ロバート=ジョセフ核不拡散問題特使が「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と発言したのだ。くしくも久間発言と似たような趣旨となっているが、別に久間発言にからめた発言ではなく、アメリカとロシアの核軍縮問題について会見する中で「原爆投下は技術の非常に無責任な利用だった」との記者からの指摘に対して飛び出したものだという。「歴史家の見解」がアメリカ国内だってそんなことで一致してるとはとても思えないのだが、アメリカ政府要人の「公式見解」は相変わらずそういうことなんだな、と思い知らされる発言だ。前は「原爆を落としたことで米兵の犠牲者が少なくてすんだ」と言ってたのが一応「日本人の命を救った」と言及してるところがまだ「進歩」かもしれんが。まぁ「本土決戦」を実行してたら確かにそれだけの日本人犠牲者が出たとは思うのだが、原爆がそれを阻止したかどうかについては大いに疑問符だ。こうした言説は「ヒロシマの論理」として『銀河英雄伝説』のはるか未来でも批判的に言及されてたような。
この会見では「原爆を使用したアメリカが核不拡散について訴える道義的な根拠があるのか」との質問も飛んだそうで、これに対してジョゼフ氏は「アメリカは核不拡散で指導的立場に立ってきた」と応じたそうで。そりゃまぁアメリカとしては「不拡散」にしたいんだろうけど、どうも「オレ以外は核を持つな」という姿勢があるし、インド(あるいは北朝鮮)のように核兵器を持っちゃった相手には態度を変えるようなところも目に付くんだが。
この原爆正当化発言に対して日本政府として公式の抗議などは今のところないが、安倍首相はじめ「容認できない」とするコメントは一応出している。しかしこの件に深入りするとややこしくなるとして及び腰な気分も透けて見える。例のアメリカ下院の「従軍慰安婦決議」と下手にからまるとマズイと思ってるような感もなくはない。
そのアメリカにとっての「負の戦争」といえばベトナム戦争。そのうちイラク戦争もそういう扱いになるんだろうが。
日本ではあまり大きく報じられなかったが、6月下旬にベトナムのグエン=ミン=チェット国家主席(大統領)がアメリカを訪問していた。ベトナムの国家元首の訪米は1975年のベトナム戦争終結以来初めてという歴史的事件だったのだ。その前に、昨年秋のAPECに合わせてブッシュ大統領がベトナムを訪問しており、それに対する返礼という形式での訪米で、直接的言及は無いものの一応アメリカが先に軽く頭を下げて、という形ではある。
もっともベトナム戦争関係の話は今後に後回し、まずはビジネスの話から、というのは今風である。ベトナムのグエン主席は100人からの経済人を同行しており、両国首脳は両国の貿易・投資関係の強化をめざす合意文書に署名している。ホワイトハウスの外では在米ベトナム人(その多くがかつての南ベトナム出身者)による抗議デモも行われているが、全部で100万人はいるといわれる在米ベトナム人の経済力をアテにしたいベトナム政府はここ数年彼らとの宥和政策を進めていて、この訪米中にも主席の口から「今年9月から在外ベトナム人の一時帰国の際の入国ビザを免除」との方針が示されてもいた。
とりあえず現時点では大きく表面化はしていないが、いずれ米越両国も交流を進めて行く過程でベトナム戦争をめぐる「歴史問題」が噴出してくる予感がしますね。
「歴史問題」は何も違う国同士のこととは限らない。日本国内では沖縄戦の際の住民の「集団自決」で日本軍の命令によるものがあった、という高校教科書の記述が文部科学省の検定意見で削除されたため、沖縄県議会が全会一致で、さらに沖縄の全市町村議会までが一致団結して、この検定意見の撤回を求める決議が出されている。
この意見をつけた文部科学省の審査官は、現在この問題を元軍人らが裁判で争っていること、そして沖縄戦研究者の著作の一部を「証拠」として挙げて「有力な見解」としたというが、この著作の著者本人がビックリするほど一部の記述を恣意的に取り上げ方をしており、さらにはこの審査官自身が例の「つくる会」関係者と勉強会を通してつながりがある(正確には離脱組のほうに近いらしいが)ことも指摘されている。こういう検定意見をいきなりしてきたのは安倍政権の発足も背景にあるんじゃないかとの見方もある。
いわば日本国内版の「歴史教科書問題」なのだが、そもそも沖縄は歴史的には明治以前は日本とは別の国だった。そしてこういう話を見るにつけ、今も日本の一部(それも為政者に近い範囲で)には沖縄を「日本の属国」的に認識してる人がいるような気がする。そもそも沖縄戦の悲劇じたいが日本軍人の多くにそうした意識があったために起こったものだったし。
2007/7/6の記事
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