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2007年7月24日

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◆世界ふしぎ決定!?

 古来「世界の七不思議」という言葉がある。地中海世界各地の「これはビックリ!必見!」という巨大建築物を選定したもので、古くはヘロドトスから「七不思議」候補がいろいろと挙げられていたようだが、紀元前2世紀に生きた「ビザンチウムのフィロン」という学者が、「エフェソスのアルテミス神殿」「オリンピアのゼウス像」「ギザの大ピラミッド」「バビロンの空中庭園」「バビロンの城壁」「ハリカルナッソスのマウソロス霊廟」「ロードス島の巨像」の七つを決定した。その後「バビロンの城壁」が外れて代わりに「アレクサンドリアの大灯台」が加わり、一応の「決定版」となった。
 当たり前だがどの建物も紀元前の3世紀以前に建造されたものだ。古い順に並べるとエジプトはギザの大ピラミッドが紀元前26世紀というとんでもなくダントツの古さ。それから前6世紀はじめに建造されたバビロンの空中庭園、前6世紀中ごろのエフェソスのアルテミス神殿と続き、オリンピアのゼウス像が前5世紀、ロードス島の巨像が前3世紀はじめ、アレクサンドリアの大灯台もだいたい同じころらしい。しかしこれら「七不思議」の多くは早い段階で崩壊の憂き目にあい、アレクサンドリアの大灯台が崩壊しながらも14世紀まで痕跡をとどめていた(大旅行家イブン=バトゥータが旅行記の中で言及している)が今や跡形もない。結局21世紀の現在までその姿をなんとかとどめているのは一番古い大ピラミッドだけ、ということになっている。

 元祖「世界の七不思議」は前2世紀なんて古い段階で選ばれたものだから、時代がくだるにつれ新たな「七不思議」が選定されるようになっていく。ヨーロッパ人の世界知識が広まるにつれ、中国の万里の長城とかイギリスのストーンヘンジといったものも「七不思議」に数えられるようになった。そして本来は「必見の建物」という意味合いだったものが英語で「Seven Wonders」と表現されたため「ふしぎ」という面を強調する傾向も出てきて、ナスカの地上絵とかイースター島のモアイ像といった、オカルト的な発想と結び付けられた「七不思議」選定も現れる。実際、僕が子どもの時に聞いたいくつかの「七不思議」にはナスカ地上絵やモアイが確実に入っていたものだ。

 さて、7が3つ並ぶ2007年7月7日、「新・世界の七不思議」が決定した、との報道が流れた。とくに日本では大きな「舞台」で知られる清水寺が最終選考で落選したことを中心に報じられていたが、そもそもこの「新七不思議」の選定をおこなったのはどこなのか、ピンと来ない人も多かったのではなかろうか。これはユネスコなどの「公的」な機関ではなく、あくまでスイスで設立された「新・七不思議財団」なる民間団体によって選定されたものなのだ。
 この財団はスイス出身の映画作家にして世界をまたにかける冒険家(五ヶ国語できるとか)であるバーナード=ウェーバー氏が中心となって設立したもので、アフガニスタンのタリバン政権によってバーミヤンの石仏が破壊されたことなどをきっかけに、歴史的建造物保護を訴えるため「新・世界の七不思議」の選定を提唱したという。似たような趣旨であるユネスコの「世界文化遺産」指定の建造物を中心に候補が選ばれ(選んだ実行委員長も元ユネスコ事務局長だった)、2006年10月にそれが発表されていた。僕も今頃になって知ったぐらいだが、それは以下のようなリストだ。
 
アクロポリス(ギリシア・アテネ)/アルハンブラ宮殿(スペイン) /アンコール・ワット(カンボジア)/チチェン・イッツァのピラミッド(メキシコ)/ イエス・キリスト像(ブラジル・リオデジャネイロ) /コロッセオ(イタリア・ローマ)/イースター島のモアイ(チリ) /エッフェル塔(フランス・パリ) /万里の長城(中国) /聖ソフィア大聖堂(トルコ・イスタンブール)/清水寺(日本・京都)/ クレムリンと赤の広場(ロシア・モスクワ) /マチュ・ピチュ(ペルー) /ノイシュヴァンシュタイン城(ドイツ)/ペトラ(ヨルダン) /ギザのピラミッド(エジプト)/ 自由の女神像(アメリカ・ニューヨーク)/ ストーンヘンジ(イギリス)/シドニー・オペラハウス(オーストラリア) /タージ・マハル(インド)/トンブクトゥ(マリ)

 さてこのリストを見ると必ずしも「歴史的建造物」ばかりではなく近代以後に建てられたものも混じっていることが分かる。リオの「イエス・キリスト像」、パリの「エッフェル塔」、ニューヨークの「自由の女神像」、シドニーの「オペラ・ハウス」などがそれだ。まぁそれぞれ世界的な名所ではあり、いずれ保存が必要な「歴史的建造物」となるのは間違いないが。
 これら候補の中からインターネットと電話による一般投票で選出されたという「新・七不思議」は次の通り。
 
 チチェン・イッツァのピラミッド(メキシコ)/イエス・キリスト像(ブラジル)/コロッセオ(イタリア)/万里の長城(中国)/マチュ・ピチュ(ペルー)/ペトラ(ヨルダン)/ダージ・マハル(インド)

 …さて、この結果についてはいろいろと思うところがあるのだが、まず目に付くところで中南米に異様に偏っているという特徴がある。7つのうち3つがいわゆるラテン・アメリカなのだ。さらにそのうち1つが近代以後の建築物であるリオのイエス・キリスト像というのも不自然さを感じてしまうところ。そりゃまぁ世界的名所だとは思うけどさ、世界でたった七つの「不思議」の一つとするにはどうか。それならば僕の住む市内からも遠目に見える「牛久大仏」(120m!)のほうがよっぽど「不思議」だと思う(笑)。「10km先に立っている人が見える」という光景はなかなか「不思議」ですぞ。

 この選出結果について、タージ・マハルを抱えるインドは大喜びの一方で、「元祖七不思議」でありながら外されたピラミッドを抱えるエジプトはオカンムリとか。そもそもこの「新・七不思議」についてはユネスコも「それぞれ価値はあるが、七つに限られている点に問題がある。本来『七不思議』は古代に挙げられたもので、世界がずっと広がった現代の実情にそぐわない。選に漏れた多くの地域に否定的な影響を及ぼす」(マンハート広報官の発言)と批判声明を出している。
 


◆なーらんだ、なーらんだ♪

 このタイトルでいきなり何の話かといえば、「ナーランダ学院復活」とのニュースが流れたのだ。この学院、世界史の教科書でも出てくるのだが、この名前を覚えるために僕はこの歌を口ずさんでいたのである(笑)。

 「ナーランダ学院」とは5世紀ごろにインド北東部ビハール州に創設された仏教研究の最高学院。伝説によると西暦427年創設とも伝わるが、年代的なことはアバウトなインド史のこと、正確なところはよく分からないという。
 ここで学んだOBでもっとも有名なのは7世紀の中国・唐の僧・玄奘(げんじょう)だ。そう、あの「西遊記」の「三蔵法師」のモデルである。ちょうど日本でも夏休み向けに映画が公開されているが、もちろん女性なんかではない(笑)。そのむかし夏目雅子が演じてしまったのを皮切りに、宮沢りえ深津絵里と、日本の映像作品ではすっかり女性キャラクター化が板についてしまっているが(一応性別は明確にはなってないけどね)、実在の玄奘はインドに仏典を求めるために国法を犯して密出国したぐらいのなかなか骨のある傑物で、帰国後、皇帝・太宗がたいそう気に入り「還俗してわしに仕えないか」と誘ったが仏教研究のために断ったとの逸話もある男である。
 後年、彼の冒険譚が『西遊記』へと民間説話化していく過程で、玄奘、というより「三蔵法師」は実像から離れてドンドン真面目一辺倒の堅物で頼りないキャラクターへと変化していった。その代わり世界中の人々が孫悟空の大活躍を楽しめるようになり、中国を代表するファンタジーへと成長していったわけなんだけど。その行き着く先が「女性化」であったことにはさすがに本国中国でも批判が多いそうだが…

 話を戻して、この玄奘がインドへ旅したのはそもそも中国に伝来した仏教の翻訳に疑問が多く、サンスクリット原典を学ばねばと思ったからだ。玄奘は当時はまだ仏教国家が多かった西域を経由してインドに入ったが、仏教の母国・インドで仏教がすでに衰退しつつあるのを目の当たりにする。仏教が否定した身分固定のヴァルナ(いわゆる「カースト」)制度はインド社会に根強く残っていたし、バラモン教や仏教の要素を取り込んだヒンズー教の勃興・普及で仏教は駆逐されつつあったのだ。
 だがこのナーランダ学院だけは仏教の最高学府としていまだ健在で、玄奘が訪れたこの時期にも数千人〜一万人の学生、教師の数だけでも二千人がいたという。学生の国籍も西アジアから東アジアまで幅広く、9階建ての図書館や数多くの寺院などがあり、規模的にも「世界最古の大学」と呼ぶにふさわしいものだった。
 玄奘が訪れた時期に学院がこれだけの隆盛を見せていた背景には、当時北インドを支配してい「ヴァルダナ朝」の建国者で、熱心な仏教徒だったハルシャ=ヴァルダナの支援も大きかっったようだ。ハルシャ=ヴァルダナは玄奘とも会見したとも言われ、以前「朝日百科・世界の歴史」でインドで発行されているハルシャ=ヴァルダナの漫画中のその場面が紹介されていた。そこに描かれた玄奘の姿がインド風の服装なのはまだいいとして頭が「弁髪」になっていたのには驚いたが(笑)。ああ、インドでも中国=弁髪ってイメージが流布してるんだなぁ、と。
 ハルシャ=ヴァルダナの死後、すぐにヴァルダナ朝は崩壊し、古典インドの時代も終焉する。仏教の衰退にはいよいよ拍車がかかり、西アジアからイスラム教徒の勢力が入ってくることでますますインドの宗教情勢は変化していく。ナーランダ学院も12世紀末にトルコ系イスラム国家のセルジューク朝の軍隊により破壊されてしまっている。
 
 読売新聞が7月18日付の記事で伝えたところによると、「ナーランダ学院復興」の企画はインド政府が提唱し、今年1月の東アジアサミットで参加国の賛同を得ていた。すでにビハール州に土地も確保してあり、学者たち11人が復興計画の「顧問グループ」となってシンガポールで初会合を開き、「ナーランダ復活」を2009年にも実現する見通しとなったそうだ。
 さすがに仏教専門大学ではなく、哲学・言語・経営など多くの分野を扱う大学院大学としての「復活」を目指すとのこと。



◆ゴホンといえば。

 「ゴホンといえば」とくれば「龍角散」と続いてしまうもの。良く出来たキャッチコピーとはこういうものだ。
 龍角散は株式会社「龍角散」が発売しているせき・のどの薬だが、同社のサイトの説明によると創業者の藤井家はもともと秋田・佐竹藩の典医をつとめた家柄で、その藤井家の家伝の秘薬が「龍角散」だったという。そして明治4年に東京で売り出してから全国区の定番薬にのしあがっていったということらしい。同社のキャッチコピーは「日本ののどを守って200年」というものである。
 と、いきなりニュースネタでもなんでもないところから入ったが、「龍角散」のネーミングのもともとの由来は漢方薬における「犀角」および「龍(竜)骨」から来ているのではないかと僕は長年思っている(確証はないが少なくともイメージの本はそれだろう)。「犀角」はその名の通りサイの角を材料にしたもので解熱剤に使われる。もっとも最近ではサイの絶滅が危惧されるため水牛の角で間に合わせているという話だ。そしてもう一つの「竜骨」のほうは動物の化石を「龍の骨」ということにして粉末化したもので、こちらは漢方薬関係のサイトによると心臓・肝臓・腎臓方面に効く、と出ていたが、「何にでも効く」と言ってるように見えなくもない。

 こうした「竜骨」が歴史的大発見につながったこともある。清末期の1899年、王懿栄という学者がマラリアの治療のために漢方薬店で粉末にする前の「竜骨」を買ったところ、そこにいわゆる「甲骨文字」が彫られているのを発見した。調べたところこうした「竜骨」の多くは河南省安陽の小屯村の住民達が長年にわたって掘り出し、薬として売っていたものだったことが判明。これがやがて殷(商)の遺跡「殷墟」の発見につながっていった…というのは世界史の授業でも小ネタとして使われるエピソードである。

 CNNのサイトに出ていた話だが、その中国からまたも「竜骨」にまつわるニュースがあった。7月4日に中国科学院の董枝明研究員が発表したところによると、河南省汝陽県で数十年にわたり農民達が「竜骨」として売っていた化石が「1億〜8500万年前の草食恐竜の化石」と断定された…というのだ。ホントに「竜骨」だった、というオチで、ニセモノ話題続きの中国としては喜ばしいことではないか(笑)。
 7月4日の発表とあったが、ネットをあたってみたところ昨年春の段階ですでに中国国内では報じられていたようで、中国通信社のサイトにもう少し詳しい記事が載っていた。それによると現地に住む85歳の曹さんという老人がこの数十年間に私が砕いて漢方薬として売っていた「竜骨石」は、少なくとも3000キロから4000キロになる。当時は「竜骨石」が、そんなに貴重なものだとは思わなかった。非常に遺憾に思う」と取材者にコメントしていた。他の記事では村人達が過去20年間に1トン以上を掘り出して売っていたのではないかとの推測も出ていた。
 調査にあたった董技明研究員によれば、農民達はこの「竜骨」を粉末にして、市場で1kgあたり4元(約66円)で売っていたという(CNNの記事だと1ポンドあたり25セント)。これを買った人はスープに混ぜたりペースト状にしたりして、子ども達のめまいや足の痛みの治療に使っていたとか。まぁカルシウムが豊富なのは確かっぽいし、少なくとも毒ではないのではなかろうか。所詮「病は気から」ということで、古来薬なんてのは気休めに飲むものでもあった。
 
 董研究員が確認した「竜骨」は筋骨だけで2mあったことから全長20mぐらいの大型草食恐竜のものと推測された。この汝陽県から100km離れた西峡というところは恐竜の卵の化石がやたらに発見されるところだそうで、世界中でこれまでに発見された恐竜の卵の総数の実に3分の1がここで発見されているという。汝陽県での完全な恐竜化石の発見はまだだそうだが、研究者達は恐竜化石がザクザク出てくるのではと期待しているようだ。
 さすがに恐竜の骨と判明したことで昨年のうちに化石の発掘・販売・購入は地元政府により禁じられた模様。「竜骨」も「恐竜の化石」になっちゃうとロマンはあるがカネにはならないんだよなぁ。いっそのこと大量に化石が出て、恐竜ランドを作って観光地化、ぐらいのことになれば地元民も潤うんだろうけど。



◆ミヤザワならぬミヤモト

 先日、宮沢喜一元首相死去の話題を書いたが、今度は宮本顕治・元日本共産党議長が7月18日に98歳で死去した。こちらは一度も政権についたことのない政党の党首だった人物だが、やはり戦前〜戦後の日本政治史の生き証人の一人ではあり、「そういえば最近動静を聞かないが存命だよな…?」と思う人物の一人だった。それにしても「史点」では訃報ネタが多いよなぁ。まぁ「大物が死んだ」というニュースはあるが「大物が生まれた」というニュースはまずないものだ。
 かれこれ十年は公の場に出てこなかった人なので、若い世代には名前を聞いてもピンと来ない人物だろう。まぁ僕もそんな世代の一人と言えるのだが、現存する日本最古の政党だったりする日本共産党関係もちょっと首を突っ込んで調べてみたこともあるのでそれなりにその存在は意識していた。

 まず「日本共産党」という政党が結成されたのは大正デモクラシーのさなかの1922年(大正11)にひそかに結成されたことからその歴史を始めている。「ひそかに」というのは当時は社会主義革命をめざす共産党の存在自体が非合法とされていたためだ。実際結成の直後から共産党はたびたび弾圧を受け、そのつど壊滅状態に陥るが、インテリの新参幹部を中心にしぶとく再建を重ねていく。
 故・宮本顕治が共産党に入党したのは1931年(昭和6年)。東京帝国大学経済学部を卒業してそのまま入党している。すでに在学中の1929年に芥川龍之介(1927年自殺)を評した『敗北の文学』で雑誌「改造」の懸賞文芸評論1等を獲得した文学青年として名をはせていた(なお、この時の2等が小林秀雄)。昭和初めのこの時期は満州事変が勃発したり五・一五事件が起こるなど右翼的傾向が強くなった時期でもあるのだが、同時に大正デモクラシーの息吹も根強くインテリを中心に左翼運動も盛んだった。同時期にあの黒澤明もプロレタリア画家を目指し(絵の先生は白土三平の父・岡本唐貴だった)、恐らくは共産党関係と思われる警察の目をかいくぐっての秘密活動をしていたことを自伝に書いているぐらいで、宮本氏の共産党入党もそういう空気の中で行われたものだと思う。入党の翌年に党員だったプロレタリア作家の宮本百合子(旧姓中條)と、当時としては珍しい女性のほうが9歳年上の組み合わせ(しかも離婚暦あり)で結婚している(正確には「事実婚」で、入籍を届け出たのは宮本の入獄後)

 1933年に宮本は党の中央委員となったが、弾圧のため党自体は地下活動を余儀なくされていた。また共産党撲滅を目指す特高警察のスパイが党内に多数もぐりこんでいたのも事実で、彼らが不法活動を扇動したり党員の名前と動向を警察に流したりといった工作が行われていた。このため党内はスパイ摘発に躍起となり、ここでいわゆる「スパイ査問事件」が発生する。1933年12月に共産党のアジト内で中央委員の二人に対するスパイ容疑の「査問」があり、このうち一人はスパイであることを自供したがもう一人の小畑達夫は否定するうちに死亡、やがて警察がアジトを捜索した折に小畑の死体を床下から発見し、宮本は治安維持法違反に加えて殺人容疑で逮捕・起訴されることになる。
 この「スパイ査問事件」の真相はこれまでもいろいろと議論されているが、共産党の公式見解は「小畑の死因は特異体質による内因性の急性ショック死」とされ、暴力行為はなかったことなっている。しかしこの事件に連座し1970年代に党を除名された他の幹部は暴行の事実を認める発言もしており、状況からすれば自然死とは考えにくい。宮本の裁判は1944年に東京地裁で「殺意はないもののリンチによる外傷性ショック死」として監禁致死・死体遺棄・治安維持法違反で無期懲役の有罪判決が出て敗戦直前の1945年に確定しているが、これは敗戦後のGHQ指令による政治犯釈放で実質無効となっている。ただ治安維持法違反はともかく監禁致死は無効にならないのではないかとの意見もあって、この事件はその後もたびたび蒸し返されることになる。
 有名なのが1988年、ハマコーこと浜田幸一・衆院予算委員長(当時)が共産党議員に対して「殺人者である宮本顕治君」といい、さらに事件の詳細を述べて「ミヤザワケンジ君が人を殺したと言ってるんだ!」(本当にこう言っちゃったことも“伝説”となっている)と騒いだ事件だ。ま、そのハマコーだって若いころはヤクザで傷害事件も起こしてるんだから、ある意味似た者同士と言える。
 ついでながら「仁義なき戦い」を生んだコンビ、監督の深作欣二と脚本の笠原和夫が「仁義」シリーズの直後に「実録・日本共産党」という映画を企画、実現寸前までいったが結局ボツになっている(共産党支持層を客として狙った企画だったが共産党系の東映労組が最終的にウンと言わなかった)。笠原のシナリオのみが雑誌で公開されていて僕もなかなかハマって読んだが、大正から敗戦にかけての共産党幹部の青春群像の愛と戦いの日々を描くドラマでありながら宮本顕治は一切登場しない。やはりこの事件がネックになったのだろう。

 話の時間軸を戻して、宮本顕治の獄中生活は1933年の逮捕から1945年の敗戦まで、12年間にわたった。1945年5月に刑が確定してからは当時は重犯罪者専用だった網走刑務所に収監されている。獄中にいる間に妻・百合子とやりとりした往復書簡も有名だ(と書きつつ読んだことはないが)。多くの共産党員が獄死や転向をするなか非転向を貫いたことは彼の「英雄伝説」となり、戦後に宮本が共産党の実力者にのし上がる上で大きな力となっている。
 しかし敗戦による解放後、「英雄」として共産党に戻った宮本だったが当初は非主流派としてホされていた。敗戦直後に合法政党として再建された日本共産党はソ連および中国の意向を強く受けており、暴力革命による政権奪取を本気で目指す意見が主流で、宮本はそれに与さない平和的革命論をとなえていたからだ。
 この当時の雰囲気はナベツネこと渡辺恒雄・現読売グループ会長の評伝『メディアと権力』(魚住昭著)で読んだエピソードに現れている。当時東大学生で「天皇制打倒」のために共産党員となっていたナベツネ氏は発電所破壊工作を命じられ、「なんで民衆を救うための革命でそんなことをしなきゃならないのか?」と疑問をぶつけたところ、命令した側が「発電所が破壊され民衆が貧困に落ち込んだほうが革命が起こりやすい」と答えたため強い不信の念を抱くようになった、という逸話だ。ほどなくしてナベツネ氏は共産党を離れるが、この時期に東大内の共産党組織の権力闘争で対立側が「英雄」宮本顕治を引っ張り出してきたため顔をあわせたことはあったようだ。今度の宮本顕治の死去に際して読売新聞は社説でその生涯を論評していたが、この新聞のいつもの姿勢にしては意外に好意的な内容に見えたのは書いたのが元党員のナベツネ氏だったからではないかと僕は思っている。

 結局こうした暴力革命路線は国民の支持を受けなかったし、官憲による取り締まりの根拠ともされて共産党勢力は1950年代の前半に大きく後退した。戦前から共産党を指導し暴力革命路線の中心人物だった徳田球一が亡命先の北京で客死したこともあり、宮本ら平和革命路線の非主流派が共産党の実権を握ることになった。1958年に宮本は党の書記長となり、選挙により議会で議席を得て政権獲得をめざす平和革命路線と、ソ連や中国といった社会主義大国の共産党とは連携しつつも一線を画す自主・独立路線がその後の共産党の基本方針として保持されていくことになる。
 とくに後者のソ連・中国の共産党との関係は日本共産党の大きな特徴ともなった。スターリン批判が起こり中ソ対立が激しくなるなか日本共産党内部でも親ソ・親中の葛藤が起こったが指導部はおおむね中国に同情的な立場をとった。しかし中国で文化大革命が起こり日本共産党にもこれに同調するよう干渉してくると対立が始まり、1966年に毛沢東・宮本顕治会談が決裂して以後両党は1998年の関係改善まで断絶状態となる。このときやはり中国と微妙な関係にあった北朝鮮の朝鮮労働党が日本共産党になにかと親切だったとか何かで読んだことがあるが、その後こちらとも関係を絶っている。外交的に見るとむしろ一番「国粋的」な政党なのではないかという気もするぐらいで、実はもともと「武装中立論」で自国軍の保持には積極的な時期もあった(自衛隊に関してはアメリカ軍の子分であることが気に入らんという立場である)

 国内では自民党を主たる敵としたのは当然として、同じ革新勢力である社会党とはむしろ自民党以上に犬猿の仲だったし、創価学会とも一時一定の協力関係を結んだが(松本清張が仲介した「共創協定」)これも即座に破綻して以後は敵対、おかげで非自民政権成立時にも政権に参画していない。また部落解放同盟に正面切って敵対していることも有名だ。それでいてどんな選挙でも特攻隊のように独自候補を立てまくり、地方議会の議員総数では実は第一党の規模を誇っていたりもする。総じて国の内外を問わずどこともケンカする、頑固で孤高の政治勢力というのが「宮本共産党」の特徴だったと言っていい。

 日本共産党の勢力がいちばん伸びたのが1970年代で、宮本自身も参院議員を二期務め、1979年の総選挙では衆院に39議席を獲得した。「1970年代後半までに民主連合政権を樹立する」という目標を自信をもって唱えていたが、社会党とは連携できなかった上に、自民党もこのころが最盛期で徹底的に共産党攻撃を行ってその勢力拡大を阻止した。
 1989年以降の冷戦終結とソ連・東欧の社会主義政権の相次ぐ崩壊は、さすがに日本の共産党にも打撃を与えた。ソ連崩壊を受けて宮本議長は「もろ手を挙げて歓迎する」と発言、スターリン以来のソ連型の社会主義が間違っていたのだ、という論法で党員の動揺を抑えようとした。ある程度の離脱者が出たのは間違いないが、それでも一定の勢力を維持できたのも事実で、長年頑固に他国共産党とケンカしてきた歴史がここで生きてくる。むしろうっかり政権に参画してしまった社会党→社民党のほうがジリ貧状態になってしまったことを見ても結果から言えば宮本路線は正解だったとは言えそうだ。西欧で強かった共産党であるイタリア共産党は改名・分裂してしまったし、フランス共産党は機関紙休刊のうえ元党員だったピカソの絵を売って糊口をしのがねばならない窮状に追い込まれているのを見れば日本の共産党は元気なもんだとは思うのだが、それは献身的な党員・支持者の機関紙購入とカンパという「階級的搾取」で維持されているという皮肉な実態でもある。その党員数・機関紙部数も相当に落ち込んでいるとは言われるが…もっとも自民党も最盛期の半分しか党員がいないそうですがね。

 1955年からおよそ40年にわたって日本共産党の最高実力者でありつづけた宮本議長は、自ら不破哲三志位和夫といった後継者を抜擢して党内紛争もほとんど起こさず安定した体制を維持していた。とくに共産党番記者もノーマークで驚かされたといわれるのが1990年の志位和夫(当時35)の党書記局長への大抜擢で、実は志位さんは宮本家の家庭教師だったという個人的つながりがあったりするのだが、それから十数年を見る限りでは個人的縁故で選んだとしてもそう間違った人選でもなかった気もする。
 1997年に議長を退任、以後10年は「名誉」役員となっていたが公の場には姿をほとんど見せず、その激動の生涯から考えれば平穏な長い晩年を過ごしたことになりそうだ。さきの宮沢喜一元首相と並んで激動の20世紀をほぼまるごと生きた政治家が次々と亡くなったわけだが、そんな人物の一人でもあり相変わらずバケモノ的に元気な中曽根康弘元首相が宮本元議長について「敵ながらあっぱれ」と評するコメントをしていた。それにしても最近政治家が亡くなると中曽根さんが定番で追悼コメントしていて、僕などは中曽根氏を「政界の森繁」などと呼んでいる(笑)。


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