ニュースな史点2007年9月20日
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◆大本営発表!
「大本営発表」といえば、現代日本語では政府など(企業や団体でもかまわない)が自分に都合のいいように工作した「広報」のことを指すのが一般的。ありていに言えば「ウソ発表」のことを指す。これが太平洋戦争中の日本軍の戦争広報に由来することは言うまでも無いとか言いつつしっかり言っているが、昨今のアメリカ政府の戦争広報を見ていると程度の違いはあれ同様のことは地域時代を問わずあるということがわかって日本人としてはちょっとホッとする(笑)。
さてそんな大本営発表の歴史の中で「最大の大誤報」として有名なのが「台湾沖航空戦」だ。昭和19年10月12日、アメリカ軍がフィリピン奪還の前哨戦として台湾へ大空襲を実行、日本軍も航空兵力を投入してこれを迎え撃った戦いで、アメリカ軍の損害は重巡洋艦2隻が大破、日本軍の損害は航空機320機を損失、というものだった。しかしこの戦闘中、日本軍は不慣れな搭乗員(熟練搭乗員の相次ぐ戦死で増加していた)による夜間の目視で「戦果」を次々と誤認報告してしまい、それらを全部加算してしまったために「撃沈:航空母艦11隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻・巡洋艦もしくは駆逐艦1隻、撃破:航空母艦8隻・戦艦2隻・巡洋艦4隻・巡洋艦もしくは駆逐艦1隻・艦種不詳13隻」という凄まじい「戦果」がそのまま「大本営発表」されてしまった(参考までに「大本営発表」が事実を隠蔽するきっかけとなったミッドウェー海戦の日本軍の損害でも撃沈は航空母艦4隻・巡洋艦1隻である)。
久々の勝利、しかも戦局大逆転すら可能になる「大戦果」は大々的に発表されて国民は熱狂、昭和天皇からも勝利を称える勅語が下された。この大勝利を機会としてフィリピン方面の作戦が立てられ実行に移されることになるわけだが…これが「誤報」であることは海軍では早い段階で気づいていた。とりわけ問題なのは気づいていたにも関わらず「今さら誤報だったといえるか」という論理で海軍、そして大本営の参謀たちは事実を陸軍に伝えず、その後のムチャな作戦をそのままやらせて多大な犠牲を生み出す結果になった、ということだ。こうなると単なる事実の捏造・隠蔽より始末が悪い。
このとき大本営の情報参謀・堀栄三は鹿児島にあり、調査をしてこの戦果が誤報であるとの電報を大本営に送っている。しかしそれは何者かによってにぎりつぶされた。戦後になって大本営参謀であったある人物が、堀に「あれは自分がにぎりつぶした」と告白した――と、少なくとも堀自身は具体的に証言している。そのある人物とは、そう、つい先日の9月4日についに亡くなり名実ともに「歴史上の人物」の仲間入りをした瀬島龍三氏その人である。もっともこの件については瀬島自身は自叙伝の中で「記憶違いではいか」とサラリと書いてるだけだそうだが。
僕が「今も生きてる歴史上の人物」扱いしてる人は何人かいて、以前には張学良とか宋美齢とか、今年に入って宮沢喜一とか宮本顕治とかの訃報を「史点」ネタとしてとりあげてきた。瀬島龍三氏も、失礼ながらなんとなく「待機状態」で頭の中に「予定稿」があった一人だ。しかし意外にも過去に「史点」で登場したのは一度だけ。今年3月に僕の祖母が亡くなった話を書く中で「同じ年の生まれの有名人」として挙げたことがあったのだ。偶然にも自分の身内と同年の生没年の人物となってしまったわけだ。
瀬島龍三の訃報はそれなりに大きく報じられ、通り一遍のプロフィールはだいたい出回ったから、ここで彼の生涯を逐一たどる面倒は避けよう。陸軍士官学校歩兵科を首席卒業、そこから陸軍大学校に進んでここでもトップ成績で卒業、卒業時に陸大成績トップ5〜6名にしか与えられない天皇からの「恩賜の軍刀」を賜る。こうしたエリート中のエリートの「軍刀組」が参謀本部の作戦課に配属され、日本の戦争指導を一手に担い…早い話が彼らがその後の日本の破滅的敗戦を招くことになったわけだが、その一員に彼がいた、ということだけは押さえておいてほしい。
今年の「史点」ネタにした話題に、この大本営の参謀にして「真のA級戦犯」としか思えない服部卓四郎や辻政信といった連中が戦後もCIAに協力したりクーデタを計画したりしていた史実が判明、というのがあった。調べれば調べるほどこの服部・辻コンビの事跡は「エリート巨悪」なるものの姿をまざまざと見せ付けられてやんなっちゃうのだが、この二人に比べれば瀬島さんなんて可愛いものだ…とも思える。少なくとも調べてみた範囲では彼自身が出世欲から無謀な作戦を立てて暴走した事例はない(少なくともあの二人に比べれば、だけど)。当時は若手だったせいもあるのだろうが、与えられた課題の中で大量の情報を整理整頓して上官に提示し、作戦を綿密に立案する、といった仕事が中心だったようだ。とくにこの「情報の整理整頓」能力はズバ抜けており、これが戦後の財界・政界における活動でも大いに発揮されている。
瀬島龍三といえば「シベリア抑留」も有名だ。ソ連軍に降伏した日本軍兵士たちがスターリンの意向によってシベリアに送られて、極寒の地での過酷な強制労働により多くの犠牲者を出したこの抑留だが、瀬島自身もこれに連行され11年を過ごしている。ただしこの抑留では日本軍の階級は維持されており彼ら将官クラスは過酷な労働を強いられることはなかったのだが。
そういうこともあってか抑留体験者を中心に長らくささやかれた疑惑がある。「瀬島自身がソ連と“シベリア抑留”を密約したのではないか?」と言う疑惑だ。瀬島自身が戦争末期にソ連に密使&スパイとして派遣されていること、ソ連への降伏時に当時関東軍にいた瀬島がソ連側と交渉にあたっていること、また瀬島がソ連側の証人として東京裁判に出席していること、そして瀬島自身が抑留関係の資料に改竄を加えたり(日本版刊行のさい原資料にない「即時帰国を要求した」という一文を勝手に書き加えた)、瀬島の意向を受けた人物がソ連崩壊後のロシアで暗躍していたり…といった事実がこの疑惑の背景にある。あの「ゴルゴ13」でもこの疑惑をモデルにした1話があったはず(瀬島がモデルらしき人物は事実がばれると自決していたような)。
いくつかの研究を見る限り、少なくとも瀬島自らが「抑留」の話を持ちかけた事実はないと見ていいのではないだろうか。しかし瀬島自身が資料を捏造してまでこだわったように、日本軍兵士たちを即時帰国させず満州の地にとどまらせようとしたフシは確かにある。敗戦必至の情勢の中で日本軍部はソ連を講和の仲介役どころか味方に抱き込もうなどと妄想としか言いようのない策謀を進めたのだが、降伏後も米ソ対立を利用してソ連にすりより、満州の地を確保していずれアメリカに反撃する――というような「戦略」を関東軍の参謀達が立てていたのは事実のようだ。ところが彼らの甘い幻想はあっさり裏切られ「抑留」されちゃった、というのが真相なんじゃないかと思われる。
帰国後の瀬島は商社・伊藤忠商事に入社し、軍人時代の人脈をフルに生かしてインドネシアや韓国との賠償ビジネス、自衛隊の戦闘機受注商戦などで大活躍する。その周辺には服部・辻といった元大本営参謀から、大野伴睦・河野一郎・田中角栄・中曽根康弘・金丸信といった自民党政治家、それらの背後にあった右翼政商・児玉誉士夫、さらには大野から中曽根までブレーンとなった読売のナベツネこと渡辺恒雄、間接的にはスカルノ夫人のデヴィ夫人(この人の歴史的過去を知らない日本人が最近は多すぎるよな〜)まで、戦後日本史、ことに裏面史といっていいレベルの華やかな人名がゾロゾロと出てくる。
瀬島はその情報整理能力と調整能力をどこへいっても重宝され、80年代には金丸信のブレーンを皮切りに、中曽根内閣では行政改革臨時調査会の一員として行政改革の「参謀」としてついに日本政治の中枢にまで食い込んだ。もっとも瀬島自身は海軍の主計少佐に過ぎなかった中曽根のことは内心かなり見下していたようで、「中曽根ごときの参謀」と扱われることには拒絶反応を示していたそうだが。
このとき元大本営参謀である瀬島の登板に多くの抗議電話や手紙が殺到したとの話がある。とくに戦争経験者の間でこうした批判が多かったようで、「許しがたいのは…引き続き国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし、戦争責任の回避を行っている者である」と瀬島を名指しで非難したのは誰あろう、昭和天皇その人だったりもした(田中清玄が入江侍従長から聞いた話として自叙伝で証言している)。
彼ら参謀たちがたてた机上作戦のために現場で苦しめられた元軍人の間でも彼の評判は悪かった。元編集者で作家の半藤一利さんが明かしていることだが、司馬遼太郎が昭和史に真正面から取り組む大作として構想していた「ノモンハン」が結局書かれなかった大きな要因がこの瀬島龍三にあるという。司馬はこの小説のためにノモンハンで戦ったある元軍人に取材し交流していたが(この人を主役にする構想もあったらしい)、「文芸春秋」誌上で司馬と瀬島の対談が載った直後に、この元軍人から「あんな卑劣な奴と楽しそうに対談して、あなたを見損なった」との絶縁状が届いた。この元軍人は現場で苦労した立場から、ペーパーテストで優秀な成績を収めた連中が出世し参謀となって戦争を指揮した軍組織のバカバカしさを日ごろ痛烈に批判しており、そのことは司馬遼太郎も多いに同意していたはずなのだが、雑誌側がセッティングした対談への参加がそこまで逆鱗に触れるとは思わなかったのだろう。ともあれこれが司馬が「ノモンハン」を書くことの断念した大きな理由だったというわけだ。
瀬島龍三という人物がムチャクチャ「頭がいい」人間であり、軍であれ商社であれ政界であれ見事に調整役をこなす「世渡り名人」であったことは事実だろう。ただ一方で常に「参謀」として自分は影に回り、誰か大物の下で働くことにつとめただけという男でもある。またそれだけに自分の歴史における責任といった感覚は欠如していたのかもしれないな、といろいろ読んでて思うところもあった。それでいて何度か自分を時には小物に、時には大物に見せかける歴史捏造を平気でやった例もあり、余計に油断がならない人だったとも思う。
特に晩年(といってもかなり長かったが)は自叙伝「幾山河」を著したり、保守系の著名人と対談集「祖国再生」なんてものを出すなど「昭和の元老」を自己演出するかのような傾向が目に付いた。その自叙伝の中身の無さを批判した昭和史研究家の保阪正康氏は昭和62年に瀬島にインタビューした経験から、彼の特徴を「顕露秘密型」「ヤドカリ型」と分類している(「瀬島龍三が問うている次世代の検証能力」、光人社NF文庫『昭和良識派の研究』所収。もちろん瀬島を「良識派」の対極に位置づけた内容である)。「顕露秘密型」とはある歴史的現場に立ち会ったことについてやたらに饒舌に表面的なことだけ詳細に話すが、肝心の中身については一切言わない、というタイプ。「ヤドカリ型」とは誰か強い個人や組織の名前を持ち出し、それをふりかざして自己を誇示するタイプ。戦前派大本営、戦後は大物政治家の名を出して、その下で自分がいかに重大なことをしたのかと強調する癖はかなりあったようだ。そう考えれば存外小物だったととらえるべきか。
瀬島の訃報について「歴史的人物の訃報」と僕が書いたのは、実のところ彼を「大物」ではなく「小物」と思ってのことなんだよね。まただからこそ戦前から戦後にかけての日本の連続面を解く鍵を彼が握っており、その意味で「歴史的存在」なんだと。しかし結局この人も多くの歴史の「真相」を墓の下に持ってっちまったなぁ…
◆メートル法大ピンチ!?
「メートル法」はフランス革命の時に出来た度量衡体系。新時代にふさわしい科学的な単位をつくろうということで地球の北極から赤道までの子午線の長さを測り、その1000万分の1を「1メートル」としたのが始まりだ。これを基準にして長さから面積・体積・容積・質量等々の度量衡体系が作られた。
今や日本も含めて世界のほとんどの国が使用しており、事実上の「世界標準」となってもいるのだが、イギリスやアメリカではまだまだヤード・ポンド法が主流だ。「U-571」って潜水艦映画で、ドイツの潜水艦を操縦するハメになったアメリカ潜水艦乗りだちがメートル法の機器だらけで大パニック、ってシーンがあったなぁ。
ずいぶん前に「センチメートルな抵抗」という記事を書いたことがある。EU(ヨーロッパ連合)では加盟国はいずれ全てメートル法で統一すること、という方針を掲げており、ヤード・ポンドを使用するイギリスとアイルランドに対して2009年までのメートル法移行を義務づけていた。そこで2000年にイギリス政府は野菜類の「ポンド売り」を禁止して、ポンド表示でバナナを売った商店主が有罪判決を受けるという事態も発生、これに対して伝統の単位を守れと叫ぶ運動も起きた…という話題だった。
ところが9月11日、EUの欧州委員会はイギリス・アイルランド両国に対して「メートル法移行義務」を撤回し、ヤード・ポンドを容認する方向を打ち出した。いきなりの方針転換の理由は「両国の文化・伝統の尊重」なのだそうだが、「アメリカとの貿易の利便性」も挙げられていたという。パブに集まるイギリスの酔っ払いたちは注文の定番「1パイントのビール」(大ジョッキ一杯のこと。僕もロンドン旅行時によく口にしていた(笑))が維持できたと大喜びらしいが(笑)。
まぁこういうことは強制するモンでもないでしょう(とか書きつつ、メートル法も実際にはかなりの強制を伴って普及したらしいが)。メートル法のほうが都合がいい場面ではそっちにするとか使い分けりゃいいわけで。日本だって実は生活面ではそこそこ尺貫法が生きてるからね。事情は隣の韓国でも同じのようで、「日本植民地時代の残滓だ!」として今も使われている「坪」や「匁」といった日本尺貫法由来の単位が今年7月から政府によって禁止令が出たとの話を聞いたのだが、これらは過去にも禁じられたが実生活上都合がよかったから残ったという側面もあり、そう簡単には排除できまいとの声もあるようだ。
で、そんな話題じゃちっとも「メートル法大ピンチ」ではないじゃないか、とお思いだろうが、時を同じくしてこんなニュースもあった。「キログラム原器」の質量がどういうわけか変化しちまった、というのである!
まず「原器」とは何かというと、メートル法の基準として公式に作られた物体そのものだ。メートル法を国際的な度量衡とすることを定めた1879年に「1m」の長さの基準として白金とイリジウムの合金による「メートル原器」が30本製作された。このうちもっとも従来の「1m」に近いとされた一本が国際基準の元気とされてパリ郊外のセーブルにある度量衡局に保管され、メートル条約に加盟した国には残りの原器が贈られ、その国における全ての度量衡の基準となる、という仕組みだった。
しかし中学校レベルの理科でも習うように、物体は温度によってその体積を変化させてしまう。あの鉄道のレールだって夏の暑さでは体積が増加してレール同士押し合って曲がっちゃったりするのを防ぐため、レールとレールの間にすき間を開けていて、それがあの「ガタンゴトン」という列車のリズム音を生んでいる(あれ、“脱線”したか?)。まぁとにかくそんなわけでメートル原器も「摂氏0度の時に1m」という基準で作られていたのだが、より精密さが求められるようになった20世紀後半になると「原器」に代わる普遍かつ不変な基準が求められるようになった。そこで1960年に「クリプトン元素が一定条件下で発する橙色の光の真空中波長の1650763.73倍に等しい長さ」という基準が定められ(じゅげむじゅげむ…)、1983年にはこれが「299792458分の1秒間に光が真空中を進む距離」とややスッキリした(?)ものに改められて現在に至っている次第だ。
他の単位もそれぞれ「原器」ではなく物理現象に基づいた厳密な基準が決められているのだが、依然として人工物である「原器」を基準とし続けていたものがある。それが「質量」だ。質量とは…と正確な説明には自信がないが、理科の授業を代打でやった時には「地球上ではその物体の重さとイコールで考えていい」と説明して済ましたことがある。無重力状態に持っていくと「重さ」はなくなるけど質量は失われません、とか、そんな説明でごまかしたかな。
さてメートル法における重さの単位「1グラム」は1立方センチメートルの水の重さで決められた。水1000立方cmは水の体積1リットルであり、それは1000グラムになる…と確か小学校で習うんじゃなかったか。で、1000倍は「k(キロ)」だから1000グラムは1キログラムとなる。で、この「1キログラム」についてはそれを表現する物理現象に都合のいいのがなかったためか(ケイ素を使ったものなどいくつか提案されてはいるらしい)、1889年にやはり白金とイリジウム合金で製造された「キログラム原器」を国際基準として相変わらず使い続けていたのだそうだ。
その大事な大事なキログラム原器の「重さ」が変化しちゃった――というから大事件だ。キログラム原器はセーブルの国際度量衡局で三重に鍵のかかった金庫に保管され、さらに二重の真空容器内に厳重に保管されている。それがどういうわけか、ほんのちょっと…50マイクログラムだけ「減量」していたというのである。50マイクログラムとは「指紋がついた程度の質量」だそうで、なんだか密室殺人みたいである。いや、ルパンの本国だけに怪盗に盗まれたかな?
キログラム原器には同時期に同素材で製作され同条件で保管された「公式複製」があり、こちらには変化がないとのこと。物理学者たちもなぜ「減量」が起こったのか説明がつかず首をかしげているそうで…
◆あの国にネオナチ出現!
最近、アニメ「ルパン三世」の第二シリーズをチマチマと見ているのだが、その中でルパン三世一味がエジプトのツタンカーメンの黄金マスクを盗む話がある(第7話「ツタンカーメン三千年の呪い」1977年11月14日放送)。このとき宿敵・銭形警部はイスラエルの空港におり、慌ててエジプトへの直行便チケットを求めるが「ここはイスラエルだ!アラブへの直行便があるわけないだろ!」と怒鳴られる。それでも銭形が騒ぐと「日本の赤軍だー!」と警官が呼ばれ、「またお前らか!」と袋叩きにされる…というシーンがある。う〜ん、「時代」を感じてしまいますねぇ、今になると。テルアビブ空港乱射事件(1972)を始め、1970年代前半は日本赤軍によるテロが相次いで起こっており、その記憶も生々しいから(かつちょっと風化しつつあっため)ギャグに使われているわけだ。
そのイスラエルがアラブ諸国と対立関係を続けているのは、イスラエルが第二次大戦後にユダヤ人によって中東にいきなり割り込む形で建国された国家であるからに他ならない。一応1979年にエジプトがイスラエルを承認し銭形警部もエジプトに直行できるようになったのだが、そのために当時のエジプト大統領サダトも暗殺されたわけだし、今でもイスラエルと周辺イスラム諸国の緊張状態は変わらない。
そんなユダヤ人国家イスラエルであるが、彼らがその建国の一つの根拠としているのがヨーロッパで長く続いたユダヤ人差別の苦難の歴史だ。ヒトラー率いるナチス・ドイツの大虐殺がやたらに有名だが、ユダヤ人差別は何もドイツの専売特許ではなく、ドイツに何度も痛い目にあったフランスでも長い伝統がある。19世紀末に起こった「パナマ事件」や「ドレフュス事件」ではユダヤ人たちが敵対国ドイツと結び付けられて迫害されたのだから(この辺の話、最近「怪盗ルパンの館」で書いてまして)。独仏に限らず、この手の話はヨーロッパ中にあったと言っていい。その後ろめたさが欧米諸国がイスラエルに強く物をいえない空気を作っている部分はあるだろう。
さて「ネオナチ」といえば、主にドイツを中心に発生する極右団体のことを指す。とくに統一後経済状態が悪くなった旧東ドイツ方面を中心に発生するという話も聞くが、多くは現状に不満を持つ若者がナチスをファッションとして標榜しユダヤ人や外国人排斥を叫んだりするもので、過去のナチスと直接的つながりがあるというわけでもない(「サイボーグ009」では本物のナチス残党としての「ノイエ(新)・ナチス」ってのが書かれてたっけな。70年代ぐらいまでは一定のリアリティがあったんだろう)。しかしファッション的なものであったとしてもドイツでは「ナチス」を想起するものは厳重にご法度となっており、こと「ナチス」に関しては集会・結社の自由の外となっている。ドイツに限らず欧米諸国では「ナチス」は触れることすらご法度ということが多く、仏教やヒンドゥー教で使う「卍」マークが問題になったり、アニメ「キン肉マン」や「ポケットモンスター」のキャラが問題になったこともあった。そうそう、先述の「ルパン三世」第2シリーズも海外で好評なのだが、第3話「ヒトラーの遺産」だけは欠番となっているそうである。
あ〜また話がそれた。悪い癖だ。
その「ネオナチ」がこともあろうにイスラエルで発生してしまったのだ!もうイスラエルじゃ大騒ぎらしい。
報道によるとこの「イスラエル版ネオナチ」は同国中部の都市ペタハティクバの20歳前後の若者達8人で構成されていたという。彼らはユダヤ教の礼拝所(シナゴーグ)に出入りするユダヤ教徒やアジア系の移民、さらには同性愛者や麻薬中毒者までを襲撃していた。彼らの自宅にはヒトラーの肖像が掲げられ、押収されたビデオにはナチス式の敬礼をしている様子や麻薬中毒者をひざまづかせてユダヤ人であることをわびさせる場面が映っていたという。
イスラエル国籍を持つ者=ユダヤ人というわけでもないのだが、彼らネオナチグループは明白に「ユダヤ人」ではあったようだ。ただし彼らはソ連崩壊後に急増したロシア系ユダヤ人移民の子だった。ロシアにも昔から多くのユダヤ人が在住していたが、ソ連崩壊後の混乱を避けて、ユダヤ人であるだけで国籍が取れるイスラエルへと移住する者が多く出た。なんと今やその数は100万人に達し、イスラエル国民の6分の1を占めるという。
こうしたロシア系のユダヤ人たち、もともと宗教的にはアバウトであったようで、ユダヤ教では戒律で禁じられている「豚肉」も日常的に食べる。以前「史点」ネタにしたことがあるのだが(2004/6/23の史点)、豚肉販売を規制しようとする条例に反対したロシア系ユダヤ人の豚肉業者が「職業選択の自由」をたてに最高裁で勝訴を勝ち取って騒ぎになった例もある。彼らロシア系移民たちはイスラエル社会になかなかとけこまずに自分達の共同体を作り、彼らの主張を代弁する政党まで持っており、イスラエル国内では無視できない独自勢力になりつつあるようだ。
要するに彼ら「ネオナチ」どもは自分達がユダヤ人という感覚はほとんど持ってなかったのだろう。逮捕された若者の一人は腕に「白人パワー」なんてイレズミを入れていたそうで、むしろ白人至上主義者のノリでユダヤ人やアジア人を襲撃していたようだ。もともと経済難民みたいなもんだし、周囲には溶け込めず…でいろいろ鬱屈したところで反ユダヤ、ということからネオナチにハマっちゃったんだろう。自国内に「ネオナチ」が出現したことにショックを受けたオルメルト首相は「教育制度を見直す必要がある」と語ったというが、どうもこちらも観点がズレているような。
ってな話題を書いていたら、ナチスの本国(?)ドイツでは公共TVの人気女性アナウンサーが「ナチス時代でも家族や子供、母親の存在といった価値が奨励された。これは良かったが、学生運動世代がこれを崩壊させてしまった」と発言、物議をかもしてTV局から即刻契約解除された、なんてニュースも聞こえてきた。ああ、日本でも似たようなことを言ってる人たちがよくいますがねぇ…
◆六人目の総理大臣
「決断が遅い遅いとよく言われますので、今度は三日であきらめてみました」というザ・ニュースペーパーのコントには爆笑した(笑)。「北朝鮮はこの冬を越せない」とか言ってた人がひと冬しか越せなかったというオチでもある。
さておかげさまで当「史劇的な物見櫓」も9月4日で開設10周年を迎えることになりました。とりあえず安倍政権の終焉も見届け(笑)、次の総理は「物見櫓」で眺める六人目の日本国内閣総理大臣となる。。
10周年っていったら開設は1997年、なんと前世紀のことですよ(当たり前だ)。何があった年だっけと調べてみるとこの直前の8月31日にダイアナ元皇太子妃がパリで事故死、その直後の9月5日にインドの修道女マザー・テレサが亡くなっている。日本映画界を見ると萬屋錦之介、勝新太郎、三船敏郎といった自前のプロダクションを立ち上げて失敗という共通項をもつ大スターたちが相次いで亡くなった年でもある。前年にブームを起こしていた「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版が公開され、宮崎駿監督の「もののけ姫」が公開された年でもあった。この「もののけ姫」の興行記録を、年末に公開された「タイタニック」が抜くことになる…などと書いていると、「10年ひと昔」ということが実感できますな。
この時の総理大臣は「ハシリュウ」こと故・橋本龍太郎だった。前年の1月に村山富市前首相から「禅譲」される形で総理の座についたわけだが、思えばこのときは自社さ連立政権時代だったのだ。そのハシリュウさんのライバルとして「一龍戦争」などと言われた旧竹下派内闘争をした小沢一郎は当時の大野党「新進党」の党首だったが、この1997年年末に新進党は空中分解してしまう。翌年の参院選で自民党は惨敗して橋本首相は退陣、小渕恵三が後継総理となった。小渕内閣は社民・さきがけとの連立を解消して小沢一郎率いる自由党と連立を組み、さらに公明党と連立して体制を固めた。僕が「史点」を書き始めたのがちょうどそんなころの1999年2月からで、翌2000年4月には「史点」史上最初のリアルタイム大事件(?)である小渕首相の人事不省→森喜朗内閣の誕生をネタにすることになる。この小渕さん急逝の一因が小沢自由党の連立離脱(というより自民側が絶縁をしたのだが)の騒ぎにあったことも疑いなく、こうやって振り返るとなんだかんだでここ10年の日本の政界では要所要所で「小沢一郎」が台風の目になってることも分かる。
森内閣は大不人気のうちに1年で退陣を表明、後継総理の座を再登板を狙う橋本龍太郎と、「変人」として国民的人気があった小泉純一郎が争い、事前の下馬評を覆して小泉が総理総裁の座を射止めた。その小泉さんを引っ張り出したのが田中真紀子だった、なんてのも今となってはずいぶん昔話のように思えてくる。
小泉政権は2001年から2006年まで、日本政界としては異例の長期政権となり、北朝鮮やら靖国やら郵政やら、まぁとにかく話題の多い「劇場型政権」だった。このころになると史点はかなり休み休み書いているのだが、小泉政権と長くつきあってしまったという感が強い。史点はお休み中だったのでとりあげなかったが、2005年の「郵政解散選挙」で圧勝した小泉さんを見て、僕も含めて多くの人がつぶやいたものだ、「次の首相は苦労するぞ」と(僕自身は伝言板のほうに書いてます)。
2006年9月に小泉首相は絶好調のうちに予定通り退陣し、後継を選ぶ自民党総裁選挙は全く波乱も無く安倍晋三氏が圧勝で選ばれ、事実上の禅譲で総理大臣となった。だがこの時点で「参院選までじゃないかな」との声はチラホラとはあった。拉致問題で活躍(?)し、歴史問題などでは右翼強硬派(?)と見られつつ、なぜかソフト路線(?)の人として人気政治家(?)となっていた安倍さんだが、僕などは以前からこれら全てに(?)マークばっかりつけて見ていたところがある。選挙に勝てるから、と幹事長に任命されて臨んだ2004年の参院選でも敗北しているが、それでも責任を問う声は無きに等しかった。どうもあらゆる面で「虚像」が一人歩きしちゃってる人、という印象が強かったのだ。その意味ではこうした結末には「身の程に合わない役を演じさせれた男の悲劇」として若干の同情の念を抱かなくもない。
「虚像」は何も彼自身で作ったものではない。岸信介の孫、安倍晋太郎の息子、という血筋の良さから彼の周囲には先々代からの濃厚な人脈がワンサカいた。特に婿の安倍晋太郎を総理にしようと狂気のように走り回って果たせなかった「昭和の妖怪」岸元首相の怨念の残滓を僕などは強く感じちゃったものだ。そうした特に右派系勢力(あえて保守系とくくりたくない人たちなので)の間で彼は「プリンス」として祭り上げられ、本人が何もしないうちに周囲が勝手に「日本の救世主」かのように盛り上げていた、としか僕には思えない。そして「確実に将来首相になる」と見て、擦り寄ってくる人も後を絶たなかったわけで(そういった手合いはたいていスネに傷もつ連中で、閣僚スキャンダルが相次いだのはごく自然な結果だとも思う)。で、そういった連中が彼を祭り上げつつ内心バカにしていたであろうことは、一時話題になった「総理に挨拶しない閣僚たち」にも表れていた。まぁ松岡利勝元農相みたいに自殺にあたって安倍さんに天皇よろしく「万歳」を贈った人もいたが。
強硬右派政治家とされていた安倍さんだが、いざ政権についたらそうはイカンでしょ、というのも事前に一部でささやかれていたことではあった。実際就任直後に中国・韓国を訪問して小泉時代に悪化した関係を修復しようと動いたし(これは明らかに彼と終始密着して今は慌てふためいているらしい御手洗キヤノン社長率いる日本経団連の影響が大きいんじゃないかと)、靖国参拝についても「行くとも行かないとも言わない」と事実上「行かない」と約束したも同然の姿勢をとった(四六時中見張られてる首相の動向がハッキリしないなんてありえないもんね)。そして実際8月15日にも行かなかったしそれどころかここ十年でもっとも参拝閣僚の少ない(当初は全員不参拝だったが一人だけ「造反」した)という記録(笑)まで打ち立ててしまった。にもかかわらず、安倍さんを救世主のように持ち上げていたブレーンたちや右寄りマスコミも不思議なほど彼を非難しなかった。結局突然の「放り投げ辞任」したいまでも彼らは必死になって安倍政権の「功績」を躍起になって称え(教育基本法改正も国民投票法も前の国会からの継続審議を可決しただけのはずだが)、追い込まれた責任はマスコミと健康問題(なんてのは辞めて初めて明るみになったはずだが)のせいに押し付け、中には「放り投げ辞任」自体を賞賛するという凄まじいものまであった(笑)。これらのドタバタぶりを見ていていかに彼らが「安倍政権」に希望を託していたか、またそれが突然終わっていかにガックリしているかが良く分かる。また、こんな連中に無理矢理担がれて参院選敗北でもやめられなかった安倍さんが結局おかしくなってしまったのも良く分かってくる。
安倍さん辞任という衝撃のニュース(でもなかったが急なんで驚きはした)を僕はたまたま出かけていた神保町の交差点の信号待ちの間に知った。松岡さん自殺も国会図書館から出た永田町の交差点の信号待ちで知っており、「徹夜城が動くと政変が起こる?」との噂まで我が家限定でたったりもした(笑)。これ書いてる前日も都内に出かけたのだが、とくに政変は起きてない。安倍首相の入院が詳細も分からぬままドンドン伸びていくことに不自然さも感じるのだが…なんか小渕さんの時のことを思い出し、もしかして永田町の裏では凄まじい暗闘が展開されているんじゃないかと思ったり。
「安倍辞意」の直後、後継は麻生太郎幹事長だろうという見方が多かった。まぁ僕も最初そう思ったのだが、夕方に自宅に帰ってみるとどうも「反麻生」の流れが出来てるなと感じ、その場合担ぎ出されるのは福田康夫・元官房長官だろうな、となんとなく思った。なんでそう思ったのか、と説明するのは難しいんだけど、過去の自民党史を当たっていくと危機感が高まった時にはよほど意外で新鮮か、当たり障りのない人が担ぎ出されるケースが多いので、癖の強い麻生さんは敬遠されるんじゃないかな…小泉さんが出ることは間違ってもないだろうから、そうなると「福田」しか選択肢はあるまい、とまぁ簡単に言うとそういう思考経路をたどったんだと思う。麻生後継が有力視された時点で漫画・アニメ関連株が上がり、直後に急降下したのには笑ってしまったなぁ…
どちらにしても、麻生さんは「吉田茂三世」であり(映画「小説吉田学校」では太郎さんが子役で登場してるぞ!ローゼン閣下マニアは要チェックだ(笑)!ついでに言えば母親は夏目雅子が演じてる!)、福田さんは「福田赳夫二世」だ(同じ映画で橋爪功が父親を演じてるぞ!)。辞めた安倍さんは「岸三世」だし、麻生陣営の鳩山邦夫・中川昭一も元首相もしくは首相候補になった人の二世だ。ホント、貴族院状態は進行してますな。現時点で圧倒的優勢の福田さんが首相になるとついに日本史上初の親子二代首相の誕生となる。そして実に四人目の群馬県出身首相となってしまうのだ。そのため僕などは「長州閥から上州閥へ」などと陰口を叩いてます(笑)。
それにしても。
安倍さん、入院してるからとはいえ全く動静が聞こえてこず、あっさり過去の人になってるのが不思議と言えば不思議。病状は公表されてる限りでは「過労衰弱」の域を出ないと思うのだが、事実上外界とシャットアウト。決済書類などは補佐官が病室に持っていっているというのだが…なんだかひところの朝青龍みたい(笑)。
それでも首相の臨時代理は置かれず、日本の中枢は空白状態。毎日恒例の閣議も首相不在だから「閣僚懇談会」だ。まさに政府の「シンゾウ麻痺」なのであるが、それでもなんとか国家はやっていけるんだなぁと思ってもみたり。もちろん大事が起こった場合はその限りではないにしても…その場合は病院から政治を見る、これがホントの「院政」とか言ってみたりして。でもそのまま政界から身を引いて「隠棲」ってなことになったりするんじゃないか、などと最後はダジャレばっかりでした。平和でいいですねえ(爆)。
2007/9/20の記事
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