ニュースな史点2007年10月9日
<<<前回の記事
◆今週の記事
◆カカア天下と総理大臣
このたび新首相となった福田康夫氏が、総理経験者に挨拶回りした際に同県人の中曽根康弘元首相に向かって口にしたジョークがこの「カカア天下と総理大臣」だ。
群馬県と長野県の県境に、浅間山という火山がある。これが江戸時代の天明年間に史上最大ともいわれる大噴火を起こした。この噴火による火山灰の被害で上州(群馬県)の耕作地は壊滅的打撃を受け、現金収入を求めて農家は桑畑を作り、養蚕を行って、そこから生糸をとって絹織物生産を盛んに行うようになった。この地の絹生産は桐生のように平安の昔からの伝統もあるが、この江戸時代の浅間山大噴火が拍車をかけたのは事実のようだ。
生糸や絹織物の作業を行うのはもっぱら女性だった。このため上州の農家では女性が自ら収入を上げ家計を支えているケースが多く、それは家庭内における女性の発言力の強さにもつながっていった。かくして「上州名物はカカア天下と空っ風」などと言われるようになる。これがいつごろから言われだしたのか明確には分からないが、少なくとも化政文化の時期には「上州女は気が荒い」という評価はあったそうで、明治に入って「名物」として広く知れわたり定着したようだ。で、絹取引が行われ現金が飛び交い、天領(幕府直轄地)が多くて治安の悪かった上州は「博徒」つまりは「ヤクザ」の本場となり、国定忠治はじめ有名なヤクザを多く生み出すことにもなった――とまぁ、以上の話はみなもと太郎氏のマンガ「風雲児たち」の説明の受け売りだが、実際に徳富蘇峰らがカカア天下の要因に養蚕業を挙げる説を唱えてはいたらしい。
その「風雲児たち」の説明部分の最後、上州が有名なヤクザが多く輩出したと描くコマで、背景に「現役ヤクザ」として福田赳夫・中曽根康弘の二人の元首相が細かいギャグとして描き込まれている。お二人とも上州、すなわち群馬県出身の政治家であり、かつての中選挙区制時代は同じ「群馬3区」選出だった。同じ選挙区にはやはり首相となった小渕恵三もおり、自民党実力者三つ巴で「上州戦争」と呼ばれる凄まじい票の奪い合いが行われた。
なんでこの選挙区から3人(そして今度の福田康夫氏で4人となる)もの総理大臣を輩出することになったのかは「単なる偶然」も含めて諸説あるのだが、今度の福田二世首相誕生で「カカア天下」に原因を求める新聞記事まで出ていた(笑)。いわく、党の実力者となって地元を留守にする夫に代わって、地元を「かあちゃん」(昔の選挙風景の映像で福田新首相が奥さんをこう呼ぶ場面が映っていた)がしっかり仕切っており、選挙で夫が地元入りするとこれを叱咤して地元選挙民への細かい気配りに務めさせるのだとか。まぁそれも説の一つとして面白いのだが、その前に「実力者」にのし上がる夫であるという前提があるはず。
「上州戦争」自体が福田・中曽根・小渕を大物政治家として育てた、という見方もある。そのむかし佐藤栄作の後継をめぐって福田赳夫と田中角栄が争った際、自民党総裁選で中曽根と小渕は田中に票を投じ、地元の福田派との間で凄まじい怨念を残したとの逸話もある。その後も福田派・田中派の「角福戦争」の構図は自民党内で引き継がれており(今はその一部が民主党に流れる構図になっている)、70年代以後の政治史は上越線沿線で戦われていた、なんて極論もできたりする(笑)。だいたい上越新幹線があんなに早くできた原因はこれでしょ。
さて前回「史点」で書いたように、9月12日に安倍晋三首相は辞意を表明してそのまま入院、一時麻生太郎幹事長が後継有力と見られたが、一日で形成は急変して「反麻生」でまとまった各派が福田康夫氏を擁立、あっという間に情勢が定まってしまった。23日の自民党総裁選もほとんど波乱も無く福田氏が勝利し(意外に麻生さんが票をとっていたが、どうせ勝負が決まってるからとバランス感覚で票を回した人がいたと思われる)、25日に衆議院で内閣総理大臣に指名された。このとき参議院では民主党の小沢一郎代表が首相に指名されており、憲法の規定にしたがい両院協議会が開かれた上で衆議院が指名した福田氏が第91代、58人目の日本国内閣総理大臣となった。こうした「衆参で異なる首班指名」ケースは1948年の芦田均vs吉田茂、1989年の海部俊樹vs土井たか子、1998年の小渕恵三vs菅直人に続いて4例目となり、そうそうあることではなく、塾で社会科の講師なんぞやってる立場としては生徒に実例を生で見せられる実にいい機会となったのである(笑)。
25日の午前に安倍首相はかろうじて閣議に出席、自らの内閣の総辞職を決定している。この閣議で安倍前首相は「断腸の思い」と言ったそうだが、報じられてる病状が正しいならば、さりげなくギャグになっている(笑)。しかし病状の真相も含めてどうも釈然としない退陣劇で、いずれ「意外な真相」が歴史家によって明かされたりするのかもしれない。
この二週間近く日本は最高指導者が消失していたことになるが結局臨時代理は置かれず、何か大事が起こったら困った事態になるところではあった。まぁ何事もなかったから良かったし、起こったところで大して変わらなかったんじゃないかという気もする(笑)。この日で退陣となるとちょうど1年の365日の在職期間だったのだが、天皇による福田内閣の親任式・認証式が翌26日にもつれこんだため、一日延命して366日の在職期間となってしまった。これまた社会科で習うとおり、内閣総理大臣は天皇により任命されるものなので、親任式をやるまでは正式には内閣総理大臣になっていないことになるのだ。なんだか「空白の一日」みたいな話である。
「福田首相」という響きを聞くと、どうもタイムスリップ感のようなものを感じてしまう。いや、僕自身は福田赳夫首相時代を知っているわけではないが、「ブラック・ジャック」の一話「銃創」(「週刊少年チャンピオン」1977年11月1月号掲載)で登場するヤブ医者が「“服田首相”の胆石を治した」という台詞があるのを子どものころに知っていたし、竹下登内閣退陣の折に一時「再登板?」との噂が流れたこともあったし、「昭和の黄門」を自称してなんだかんだで影響力を持ち続けている存在として意識していた。現在の「町村派」だってしばしば「旧福田派」と言われるように、福田赳夫の薫陶を受けた人脈が中心を占めている。今回赳夫元首相の息子さんが担ぎ出されるのは、前任者のケースと同じで「亡き主君の若様」をかついで「お家再興」をめざす家臣団がいるという実に時代劇的構図でもある。今度の福田内閣について「派閥政治に戻る」とか批判の声がしばしば聞かれたが、小泉さん、安倍さんと最大派閥の有力者による政権がずっと続いていたはずなんだけどねぇ。
ともあれ、世襲議員だらけの日本政界にあっては意外にも初の親子二代総理大臣が誕生したわけだ。そして康夫新首相の長男・福田達夫氏がこのたび新首相の秘書官となり、父親と全く同じ道のりで「三代目」への道を歩み始めている。
最後におまけの話題。「週刊朝日」で知ったのだが、中国でむかし流通した海賊版「ドラえもん」(あちらの漫画家がヘタな絵で無理矢理「新作」を描いたものを読んだことがあるな)では野比のび太は「野比康夫」となっており、中国のネット世界では「のび太が首相になった!」とそのメガネ顔も似ているとして話題になっていたそうな(笑)。なお海賊版ではない正規版では「野比大雄」と表記されるとのこと。
そしてその同じ「週刊朝日」巻末の山藤章二さんの「ブラック・アングル」では福田新首相が「レレレのおじさん」に似ているとの大発見が描かれていた(笑)。総裁選を戦ったマンガ通の麻生太郎氏に負けじと(?)マンガネタがまとわりつくようで。その両者をミックスして描いてみたが、確かに面影がある(笑)。あ〜後ろに歩いてる人は一度も描いてなかったんで、おまけでつけときました。
◆そこはビルマかミャンマーか
しばらく様子を見ていたのだが、今回の騒ぎもまた軍部による武力鎮圧という形で収拾されてしまった。1988年もそうだった、という話もあるが、そのときよりは犠牲者が多く出ずに済んだのかもしれない。それでも少なくとも30人以上の死者は出たのは確実で、もしかしたらその10倍、との話もある。その死者の中に日本人ジャーナリストの長井健司さんも含まれていた。この人の名前を意識したのは残念ながらこの射殺事件の報道によってであったが、この人が過去に報じた取材映像を集めたものを見ていたら、記憶にあるものがかなりあった。特にレバノンの海岸で海水浴をしていた一家がイスラエル軍の砲撃により女の子一人を残して即死した悲劇の現場を取材した映像はかなり強烈に記憶していた。
今度の軍事政権による民主化運動弾圧に抗議を行う世界各地で在外ミャンマー人の様子がTVでも出ていたが、彼らの多くは「ビルマ」と自国を呼んでいる。僕も実のところ「ビルマ」という名前のほうになじみがある世代なのだが、1989年に軍事政権が「ミャンマー」の名前を公式に使い始めたことから、日本を含め世界的に「ミャンマー」と呼ぶ国が多くなった。しかしこれは軍事政権が定めたものだとして、反政府的な立場の人々、あるいは軍事政権に批判的な外国メディアなどは積極的に「ビルマ」を使用する傾向にある(そういえば都内で「ビルマ料理店」と看板を掲げた店を見かけたことがある)。もともとどちらが正解というものではなく「にほん」「にっぽん」の違いのようなものだと良く例えられ、しいて言えば「ビルマ」は通称、「ミャンマー」が固い公称ということらしい(日本も「にっぽん」の方が公称だったはず)。
「軍事政権」とは国家における最大の暴力組織である軍隊の武力を背景に軍人達が統治を行う政権である。たいていは戦争もしくは軍事的緊張がある非常事態を理由にクーデターなどを起こして軍人が政権を握り、たいていの場合非民主的な圧政を敷き、なかなか政権を手放さない。日本史における「幕府」なんかも軍事政権の一種と思えるが(首長が「征夷大将軍」という本来臨時の軍職だもんね)、話を現代史のみに絞っても世界各地でかなりの例がある。
お隣の韓国だって1980年代末まで軍事政権であり、「民主化」なんてのはここ20年弱で急速に進んだものなのだ(僕の大学在学時にも韓国人留学生に「民主化運動家」がいたりしたものだ)。また「ブラック・ジャック」の話になるが、「パク船長」の1話が明らかに当時の韓国をモデルにしているのを見ても、韓国もずいぶん変わったもんだと思える。韓国や南ベトナム、南米のチリなどの軍事政権は東西冷戦を背景にアメリカが支援していた経緯もあり、韓国やチリの民主化が冷戦の終結と歩調を合わせているのは偶然ではない。
ミャンマー(とりあえず日本政府のお達しに従いこう表記)が軍事政権となった事情はいささか複雑。まず国内にカレン族など少数民族の独立運動を抱えていること。それから中国の国共内戦の影響がダイレクトに入ってきたこと(日中戦争では「援蒋ルート」だったし)。それと絡めて東西冷戦の構造が内戦に持ち込まれたこと、などがある。1962年にネ=ウィン将軍がクーデターで軍事政権を樹立、社会主義的政策をとりつつ20年にわたって支配を続けた。1988年に大規模な民主化運動が起こってネ=ウィンは失脚したが、軍がまたもクーデターを起こして武力で民主化運動を制圧、1990年の総選挙の結果アウンサン=スーチー率いる「国民民主連合」が圧勝(8割の議席を獲得)しようとその結果は無視され、「非常の大権」という形で軍事政権は維持され続けた。一応新憲法制定のための国民会議なるものが1993年から設置されているのだが、開店休業状態を延々と続けており、会議が終わったのは何と今年の9月3日。14年もやっていたこの会議の結論は要するに民主化しても軍の特権を維持しようとするもので、これが今回の反政府行動の引き金となった側面もあるようだ。
今回の反政府行動は8月に燃料価格が大幅に値上げされたことに端を発したと伝えられる。一気に大規模なデモへと発展したのは9月18日に仏教僧侶による大行進が始まってからだ。ミャンマーはタイやカンボジアなどと並んで東南アジアの熱烈仏教国で僧侶の影響力は非常に強く、過去にもイギリスの植民地支配に対する抵抗運動など、「俗世」の問題で寺院と僧侶が先頭に立った例がある。今度の事態を受けて書いたのだと思われるが、西原理恵子さんの「毎日かあさん」(毎日新聞サイトで読めます)でご本人がミャンマーでの出家体験が漫画で描かれていて、その中でもミャンマーでいかに僧侶が人々の尊敬を集める存在であるかが書かれていた。
それだけにこの僧侶デモの規模が次第に拡大し、民主化運動のシンボル的存在となっているアウンサン=スーチーさんと接触したことは世界的にも注目された。結局は武力鎮圧ということになったのだけど、僕などは今度のことで近いうちにこの国にも変化が起こらざるを得ないんじゃないかと感じている。実際、仏教徒として武力行使命令を拒否し亡命した軍人がいることが報じられているし、そもそも軍事政権はこうした事態に備えて首都をヤンゴンから同国中部のネビドーに移動させており、民衆の運動を恐れているのも明らかなのだ。もちろん武力は実質軍隊が独占しているから、軍事政権内部で分裂・混乱が起こるかどうかにかかってくるだろう。
国連の安全保障理事会でもミャンマー問題が重要議題としてとりあげられ、特使としてミャンマーに派遣されたのがナイジェリア人のガンバリさん。日本人としてはその名の通りガンバリに期待したいところだが…このガンバリさんが来るまでに軍事政権は事態を収拾し、ガンバリさんにアウンサン・スーチーさんの面会を認めたり、軍事政権の最高実力者とされるタン=シュエ議長との会談も実現させたのは余裕の表れ、あるいは表そうとしているとの見方がある。その後アウンサン・スーチーさんとの対話姿勢を条件付き(というより実質全面降伏を求めた)で示したり、寺院への多額の寄進を行うなど、対外的ポーズと思われる融和姿勢も示した軍事政権だが、一方で電話やインターネットを遮断して外国との連絡を不能にするなど弾圧の実態を外部に知らせまいともしていた。長井さんが撃たれたのも現場の映像からすると「報道人」だからこそ狙い撃ちにされたように思えるのだが…
ところでこのミャンマーの軍事政権の最大の支援国が中国であることはよく知られている。かつて「援蒋ルート」があったことでも分かるように中国にとってはインド洋へ通じるルートを占めるミャンマーは地政学的に重要な国で、しかも最近ではミャンマー沿海に海底資源があることもわかってなおさら接近、軍事的・経済的な結びつきを強めている。ミャンマーのもう一つの隣国インドも中国への対抗と資源目当てに軍事政権への接近を強めているとされる。
そして、日本もまた欧米からは「軍事政権への協力国」扱いされていると言っていい。今度の件で日本政府は援助を一時停止する方向ではあるようだが、何となく「ほとぼりが冷めるまで」という空気を感じなくはない。それと前から興味深く思っていることだが、日本の保守系というか右派系知識人の一部には以前から軍事政権を応援するような論調が存在しているのだ。産経新聞OBで週刊新潮にコラムを連載している某氏などは以前からアウンサン・スーチーさんを目の敵にして攻撃していたし(もっとも欧米人が彼女を支持する大きな動機が、彼女がイギリス人と結婚し欧米的価値観の共有者であるからだという指摘にはある程度同意できる)、その週刊新潮には今度の事態を受けて書かれた元駐ミャンマー大使の投稿記事が載り、「中立」と自称しながら明らかにアウンサン・スーチーをけなして軍事政権側を高く評価する内容が書かれていた。中国を目の敵にしているこれらの人々からすると逆方向にいきそうな気もするのだが…もしかしてスーチーさんの父・アウンサン将軍が太平洋戦争中に日本の支援を受けて独立運動をしながら、終盤に裏切ってイギリスと組んで日本軍を追い出しにかかった過去が影響してるんだろうか?いくらなんでも深読みな、と僕も思ってるんだけど、その元駐ミャンマー大使の文章でもアウンサン将軍が日本の支援を受けた過去に触れながら、「寝返り」の件を見事にすっ飛ばして暗殺の話につなげてるあたり、その気配もちょっとするんだよね。
◆か〜ぐや〜!
家具屋さんがスポンサーになった打ち上げ花火ではありません(笑)。
世間では相撲界の騒動ばかりに目が行ってあんまり話題になっていないのが非常に寂しいのだが、9月14日に日本の月探査機「かぐや」(正式名称はギリシャ神話にちなんだ「SELENE(セレーネ)」だそうだが愛称公募でこの名になった)が打ち上げられた。主衛星と2機のリレー衛星を月を回る周回軌道に乗せて月面の探査を行うという、人こそ乗ってないけどあのアポロ計画以来の大規模ば月面探査なのだ。それを日本のJAXAがやっていて、ニックネームが「竹取物語」にちなんだ「かぐや」だなんて、もっと盛り上がっていいと思うんだけどなぁ。
…とか書きつつ、僕も打ち上げに成功するまでほとんど気に留めてなかったこと白状しておく。あとで報道で知ったのだが、去年には「月へ送るメッセージ」の公募を受け付けており、世界中から集まったおよそ41万人の名前とメッセージが書かれたシートも搭載されていたのだそうで。10月5日に「かぐや」が月の周回軌道に無事乗ったとき、JAXAのスタッフは「名前とメッセージを月にお届けしました」と笑顔でコメントしていた。まぁ厳密には「月に届けた」のではないかもしれないがそう聞いていたら自分も名前の一つも送っておけばよかった。ツキが回ってきたかもしれませんし(笑)。
面白いもので、お隣中国でも似たような計画が間もなく実行に移される。その名も「嫦娥(じょうが)計画」といい、こちらもやっぱり中国における月伝説にちなんだ命名だ。嫦娥とは中国神話に出てくる仙女の名前で、神話の英雄・ゲイ(字が標準ではないんで表示されない場合があるのでカタカナ表記…あらぬ誤解を招きそうな)の妻とされる。説話により微妙に話が異なるのだが、ゲイに与えられた不老長寿&天界に上る薬を一人で飲んでしまい、夫を思って天界まで行かずに月にとどまることになったという内容が大筋で一致する。この薬を飲んだのが夫に対する裏切りにする場合と、悪人に脅されて夫を守るためやむをえず飲んだとする場合と、いろいろあるようだ。ゲイは10個の太陽が昇って人々を苦しめた時に9つを矢で射落とした弓の名手とされており、月にいる妻の嫦娥にどうしても追いつけず悲しんだ…という話もあることからこれが太陽と月の関係を語る起源説話なのだと分かる。つけ加えれば、嫦娥との再会を祈って月に供え物をしたという話は「お月見」の慣習の由来ともなっている。
「かぐや」ともども月に行っちゃった女性の名前をつけられた「嫦娥計画」だが、こちらは中国の威信をかけて何と20年にも及ぶ大プロジェクトである。まずは「かぐや」同様に月の周回軌道に乗せ、それから月面に探査機を着陸させ、やがては人間を月面に立たせる―という大きく三段階をたどる計画なのだ。今月末にも四川省の衛星発射センターから打ち上げられる予定の「嫦娥1号」は月を周回して月面を探査するという「かぐや」とよく似たコンセプトのもので、実際中国では当初の発射予定を「かぐや」の打ち上げ後にまわし、データを収集して参考にしているとの報道もある。中国の報道も「かぐや」に注目しており、日本人研究者の発言を引用して「嫦娥とかぐやの目指すところは同じ」と報じる新聞もあったという。
日本と中国だけではない。来年にはインドも無人月面探査船「チャンドラヤーン1号」を打ち上げる。こちらは「月の乗り物」を意味するサンスクリット語だそうで、やはり今後シリーズ化し月面探査を長期にわたって続けるつもりらしい。ここに来てにわかに各国で月面探査計画が相次いでいる背景には科学的興味もさることながら、短期的には衛星打ち上げなどの宇宙ビジネス、長期的には月の資源獲得を視野に入れた国家的意図があるのではないかと言われる。宇宙開発はとにかく金がかかるものだから、かのアポロ計画も米ソ冷戦のたまものであったように、政府が大金を出す気になるほど食指を動かされる動機がないと動き出さないんだよね。
一応「月の軍事利用禁止・領有の禁止・資源の所有禁止」などを定めた「月協定」なるものが1979年の国連総会で採択されているが、いずれも大国ではない12カ国しか批准してない状況のため、ヘタすると「早い者勝ち」なことになるのかもしれない。そういえば月や火星の土地を勝手に売ってる団体があったが、そのうちマジで問題化するんじゃないか。
資源獲得競争は月面ばかりではない。去る8月2日にはロシアが海底探査船「ミール」を北極点付近4200mの海底に到達させ、チタン製のロシア国旗までわざわざ設置、直接的には言わないが暗に「領有権」を主張した格好だ。調査機関の関係者がAP通信に「北極点の海底に人類が到達するのは史上初めて。月面に旗を立てるようなものだ」と語ったそうだが、そこには人類月面到達でアメリカに先を越されたロシア人の怨念のようなものも感じられる(笑)。
北極海の海底には石油・天然ガスが100億トンは眠っているとの推定もあるそうで、ロシア政府は自国量に面する北極海の大陸棚の領有権も主張している。北極海を挟んでお向かいのカナダも黙ってはおらず、直後に北極海に2ヶ所の軍事施設を建設することを発表、ハーバー首相は「北極海の主権原則は『利用せよ、さもなくば失う』というものだ」とかなり露骨にロシアを牽制する発言を行っている。北極海に面する北欧諸国も同様に関心を示しているそうだ。
北極海の資源獲得競争に拍車がかかっている要因の一つが、地球温暖化で探査がしやすくなったことにある、というのも皮肉な話で…角界だけでなく「きたのうみ」は大荒れです(笑)。
資源と言えば、9月に愛媛県で日本国内初の天然ダイヤモンドが発見されたとのニュースには心が躍ったなぁ。ながらく地理で「日本で絶対とれないもの」の一つとしてよく話題にしていたのがこのダイヤモンドだったのだ。天然ダイヤは地下100km以上の深さのマントル内で1000度の温度と5万気圧もの高圧によってできる炭素の結晶で、10億年以上前に形成された古い大陸でしか見つからないとされ、日本では産出しないというのが定説だったが、これがひっくり返った形だ。
もっとも喜ぶのは早い。今回発見されたダイヤはたった10マイクロメートル(100分の1ミリ)程度しかなく、数年間に採取されたカンラン石にレーザー光を照射したらダイヤ特有のスペクトルが出て見つかったというシロモノ。深い地底からなんかのはずみで地表付近に出てきたものと考えられ、学術的価値は多大だが商業的には…とのこと。
そうかと思えば、鹿児島湾内で熱水が噴出する「チムニー」と呼ばれる煙突状の孔が確認されたとのニュースもあった。これがあると近くで金鉱脈が生成されている可能性が高いそうで…
◆白黒つけるか!?
なんせ19歳で死んじゃったんだから歴史上とくにどうという事跡を残したわけではないが、その墓が発見されたがためにやたらその名が知られているのが古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンだ。ハワード=カーターによる彼の墓の発見はもう80年以上も前の話だというのにその知名度は抜群。エジプトというと思い浮かぶ歴史上の人物としてはクレオパトラといい勝負になるだろう。
さてそんなツタンカーメン、あの黄金のマスクともどもミイラも発見されているので、生前の顔を再現する試みも行われている。2005年にツタンカーメンのミイラをCTスキャンし、その画像をもとに復元が行われて彼の胸像も作成された。これを目玉とする「ツタンカーメンとファラオの黄金時代」なんていう展示会が2005年6月からアメリカ各地を巡回して開かれているのだそうだ。
ところが展示会が始まった直後、この「ツタンカーメンの胸像」にイチャモンが入った。イチャモンをつけたのは黒人運動家らで、彼らは「ツタンカーメンは黒人だったはずなのに、肌が白人のように描かれている!」と猛抗議を開始したのだ。その写真もAFP通信の記事で見たが、確かに黒ではなく白にはなっている。しかし顔つきははおよそ白人的ではなく、単に素材の石(?)の色をそのままにして彩色はしかったものだと思える。
この抗議はその後も延々と続いていたのだそうだが、本場エジプトの考古最高評議会ザヒ=ハワス事務局長が先の9月6日にフィラデルフィアでの講演で「ツタンカーメンは黒人ではない」と発言したために、黒人運動家らの抗議が再燃。9月25日にこの件で記者団に質問を受けたザヒ=ハワス事務局長は「ツタンカーメンは黒人ではなかった。アフリカの古代エジプト文明人を黒人と形容することには一片の真実もない」と明言、エジプトの半国営「中東通信」でもハワス氏が「エジプトはアフリカ大陸にあるが、エジプト人はアラブ人でもアフリカ人でもない」と発言したと伝えたと言う(以上はAFP通信の報道に拠ってます)。
さてこの話題、なんで黒人運動家がこんなイチャモンをつけたのかピンとこない人も多いかと。僕ら日本人もエジプト文明の人々をイメージするにあたって「黒人」をイメージする人はまれだと思う。エジプトの遺跡の壁画や彫刻をみても、肌こそ褐色に描かれていることが多いがおよそ黒人的特徴はない。現在のエジプト国民の多くはアラブ系だが、これは7世紀のイスラム教勃興以後にアラビア半島から広がってきたもので、古代エジプト文明を築いた人々とは直接的には結びつかない。現在一般的な説としてはエジプト文明を築いたのはハム語系の民族とされ、ハワス氏の言うように「アラブ人でもアフリカ人(=黒人)でもない」としておくのが妥当なところだ。
しかしアメリカの黒人運動の中では「世界最古のエジプト文明は黒人が築いたのだ!」という説が根強くある。僕がこの手の説の存在を知ったのは映画「マルコムX」(スパイク=リー監督、デンゼル=ワシントン主演、1992年)を見たときだ。マルコムXとは1960年代の黒人運動家の一人で、黒人独自のイスラム集団「ブラック・ムスリム」の有力活動家として白人に対する過激な言動で注目された人物だが、この映画の中でマルコムがのちに結婚する女性と、ブラック・ムスリムによって作られたと思われる「黒人の歴史博物館」でデートするシーンがあるのだ。その博物館にはエジプト文明の人々がモロに黒人に描かれた展示物が置かれていた。映画中、とくにそのことへの言及もないのだが、背景にバッチリ映るので妙に印象に残ってしまった。それで「ハハン、ブラック・ムスリムではそういうことになってるんだな」と気づいたのだ。なまじアメリカ黒人は「アフリカ系」とされるだけにエジプトがアフリカ大陸にあるから、と思い切り曲解してしまった結果だと思われる(ハワス氏が「エジプトはアフリカにあるが〜」という発言はこれを念頭に置いている)。
念のために言えばこの映画の作者自身はその主張をそのまま信じているわけではなく(映画自体も後半ではマルコムが白人への敵意を克服していく)、マルコムXが生きた時代にそのような主張が強くなされていたことを象徴的に映画に織り込もうとしたのだと思える。
彼ら黒人運動家がそのような主張をしはじめた理由は、露骨に言ってしまえば「白人文明」に対するコンプレックスの裏返しだろう。圧倒的なヨーロッパ、白人の支配に対抗する論理として、「我々黒人のほうが先に文明を築いたのだ!」と主張しむりやり優越感を持とうとするわけだ。似たような発想はどこの国にも―とくに古代文明を持ってなかった国で見られ、おとなり韓国は言うに及ばず、日本の「縄文文明妄想」なんかもその一例だ。
映画「マルコムX」の中では教会にあるイエスの肖像画がまるで白人のように描かれていることにマルコムが聖書の文章を引用して牧師に「イエスは白人ではない」と突きつける場面がある。これは現在は有力な見解となっており、何年か前にイギリスのBBCが当時のパレスチナ人の平均的な顔を復元して「イエスもこんな顔?」とやって視聴者に衝撃を与えたりしていた。ここらへんで止まっておけばいいのだが、「黒人こそが全ての文明の〜」などとやりだすともう暴走は止まらない。今度のニュースには「まだやってる人がいるのか」と思ったりもしたものだが。
ただ、一方でアメリカ国内で黒人差別がまだまだ根強くあるからこそそういう発想も根強い、ということもいえるだろう。9月21日にアメリカ南部のルイジアナ州の町ジーナで、人種差別に反対する黒人を中心とした約15000人によるデモが起こった。報道によるとジーナの高校の敷地内に「ホワイト・ツリー」と呼ばれる「白人専用」の溜まり場となる木があった。黒人生徒がここに座る許可を学校に求めたところ、翌日この木にロープがぶらさげられているのが見つかった。それがむかしの南部でKKKなどによって行われた黒人に対するリンチ(私刑)を想起させるものであったのは明らかで、悪質な「いたずら」として学校が調査し白人生徒3人に軽い処分が下った。しかしこれがきっかけで黒人・白人の生徒同士の対立が激化、黒人生徒6人が白人の同級生に暴力を振るったとして「殺人未遂罪」で訴追されてしまったため、「不公平だ」との声が上がった。いつしかこの黒人生徒6人は「ジーナ6」と呼ばれて全国的な支援活動も展開され、ブッシュ大統領や大統領候補たちもこの件で発言をするなど事態はアメリカ全土の注目を集めている。
2007/10/9の記事
<<<前回の記事
史激的な物見櫓のトップに戻る