ニュースな史点2007年10月22日
<<<前回の記事
◆今週の記事
◆ドメインも歴史と共に
こちら「史劇的な物見櫓」も開設から10年が経つ。現在僕らが「インターネット」と呼んでいる仕組みがだいたい出来てから16,7年ぐらいしか経ってないから、我ながら結構「老舗」という気もしている。この10年で爆発的にネットが普及して社会のあちこちを変えてきた(それでいて大騒ぎするほど根本的変化は無いって気もしてるけど)のを横目に見ながらマイペースでやってきて、開設以来とくに大きな変化もない生きている化石みたいなサイトでもある(笑)。
さてインターネットも当然ながら「歴史」と共に歩みを進めている。世の中の変化と共にネットの世界にも変化が起こる。先日あるドメインの廃止が決定したことが報じられ、一つの「歴史」の節目を感じたりしたものだ。9月末に報じられた話題なんだけど、ネタが少ないから今回でとりあげてみた(笑)。
そのドメインとは「.yu」。ドメインってなんだっけ、という人のために説明しておくと、ホームページ(ウェブサイト)やらブログやら個々人のメールやらのアドレスの末尾についている「.com」だの「.jp」だのがそれだ。「.jp」はもちろん「japan」の略称で日本のトップドメインを意味する。文化的国粋主義者(笑)である僕などは「ジャパンじゃなくてニッポンだろ!“.np”にすべきだ!」などと言っていたのだが、「np」はネパールのドメインなのだ。調べてみたら日本でもこのネパールからドメインを借りる形で「.np」を「ニッポン」の意味で使用しましょうというサービスがあったそうだが、ネパール国内の混乱もあり2005年5月にサービス停止になっていたのだった。
ほかの国のドメインはどうなってるんだろうとパラパラと当たってみると…お隣韓国は「.kr」、北朝鮮は「.kp」、中国なら「.cn」(「.ch」はスイスだった)、台湾なら「.tw」といった調子でおおむね国や地域ごとに設定され、その国をイメージしやすい二文字の略称がつけられている。イギリスは「連合王国(United Kingdam)」の略称で「.uk」なので、じゃあアメリカはさしずめ「.us」かというと、一応そうなってるんだけどインターネット自体の発祥国のせいもあり「.com」(本来商用のドメイン)とか「.org」(本来非営利団体のドメイン)とか「.edu」(教育機関)といったドメインがよく使われている。太平洋の島国ツバルのドメインが「.tv」であったためにテレビ局に使わせようとこのドメイン使用権を5000万ドルで一企業に売ってしまい、その金で年会費を払えて国連加盟を果たした、なんて話題もあった。テレビ番組の公式サイトでよく見かける「.tv」はそのツバルが売っちゃったドメインを使っているのだ。
本筋に戻って、「.yu」とはどこのドメインかといえば…今はなき「ユーゴスラヴィア連邦」のドメインなのだ。
ユーゴスラヴィアという国家の歴史とその消滅については「史点」でもとりあげたことがあったはずだが、軽くおさらいを。「ユーゴスラヴィア」という国家は第一次世界大戦後の1918年ににセルビアを中心としたバルカン半島の南スラブ族国家が統合されて初めて出現した(「ユーゴスラビア」に改名したのは1929年)。第二次大戦中はナチスもからんで民族紛争が再発、戦後はチトーのもとに社会主義国家として再統合されたが、冷戦終結と社会主義陣営崩壊の流れのなかで1990年代にまたもや凄まじい民族紛争を起こして完全に崩壊した。「ユーゴスラヴィア連邦」の形式はセルビアとモンテネグロのみが残る状態になって、2003年に国家連合「セルビア・モンテネグロ」が発足して「ユーゴスラヴィア」は完全に消滅した。その後2006年にその「セルビア・モンテネグロ」も二つの国家に分離し、「ユーゴスラヴィア」はもう跡形も無い。
というわけでユーゴスラヴィアのドメインはもう不要とようやく廃止が決まったわけだ。決定したのはドメインを管理する非営利団体ICANNで、同時に「.dd」と「.zr」の廃止も決まった。前者はそれこそとうの昔に無くなったはずの「東ドイツ」、後者は今は「コンゴ民主共和国」に改称して「.cd」を使うことになった「ザイール」のドメインだ。
ユーゴスラヴィアが「セルビア・モンテネグロ」になった際には「.cs」というドメインが割り振られたが、分離独立となったためセルビアが「.rs」、モンテネグロが「.me」となった。それでもしばらくは「.yu」ドメインの使用が一部で続けられると考えられ、それまではベオグラード大学の有志で管理が続けられるそうだ。
しかしこの報道でもっと驚いたのが、ネット普及以前に消滅していたはずの「ソビエト連邦」のドメイン「.su」がいまだ健在であるという事実。ソ連崩壊後、独立した各国ごとにドメインが設定されていてロシアは「.ru」と決まっているのだが、どういうわけか「.su」を使用するサイトは増加傾向にあり、さきほどgoogleで「site:su」で検索してみたら327万件がヒットした。う〜む、まさかソ連を復活させる気でもあるのか(笑)。
そんなことを書いていたらふと「もし蝦夷共和国が今も存続していたら?」なんてことを考えてしまった。そう、戊辰戦争の終盤、旧幕府軍が北海道に建国したあの独立国である。まぁすぐ消滅しちゃったし実態として国家といえたかどうかというレベルではあるが、そんな風にもののはずみで成立してそのまま…という国家の例が無いわけでもない。もし現在も蝦夷共和国が存在していたらトップドメインは「.ez」だな、と思いつつ確認したらしっかり未使用のドメインであった(笑)。もし琉球王国が現在も存在していたら「.rq」になるかな、と思い確認したらこちらもしっかり空いていた。いや、別に独立をけしかけてるわけじゃありません(汗)。
◆セーラー服第一号
セーラー服といえば日本では女の子の学校制服としておなじみだが、もともと「セーラー(水兵)」の服、つまり海軍の水兵さんの服なのでありますね。「セーラーマン」であるポパイだってセーラー服でしょ。「プロジェクトA」でジャッキー=チェンもセーラー服を着ていた。日本に開国を迫ったペリー率いるアメリカ艦隊の水兵たちもセーラー服を着ていたわけだが、みなもと太郎さんが漫画「風雲児たち」でこのくだりでセーラー服を着た外人オジサンたちを描いて「ちょっとヘンタイっぽいなぁ」と自分でツッコミを入れておられたっけ(笑)。
このセーラー服がなんで女の子の制服になっちゃったのか。以前から気になっていた問題なのだが、考えてみれば長らく男子学生の制服であった詰襟(つめえり)は陸軍の制服に由来しており(ランドセルも元はといえば軍隊由来)、男が陸軍なら女は海軍、みたいな対比の発想がそこにあったんじゃないかという気もする。ほら、「海」の中には「母」が…って何を言い出すんだ。
このセーラー服を女子学生の制服にした第一号はどこなのか、という論争にこのたび一応の決着がついた。この問題を調査していた岡山市の制服メーカー「トンボ」の「ユニフォーム研究室」が13日までに「日本のセーラー服制服の第一号は1920年、京都の平安女学院」との結論を打ち出したのだ。1920年に平安女学院はそれまで着物に袴(はかま)だった制服を洋装に改めているのだが、このときの制服が「セーラー襟の紺のワンピース」であることが確認されたのだという。ただしワンピースであるため腰にベルトを締めるというもので、これを「セーラー服」と認定するかどうかは同研究室も迷うところだったみたい。それでも当時としては斬新なデザインであったことは間違いなく、この制服目当てに入学者が増えたとか。
従来の説では1921年に福岡市の福岡女学院がセーラー制服導入の日本初とされていた。この学院はアメリカ人宣教師によって設立され、この1921年当時もエリザベス=リーというアメリカ人女性が校長をつとめていた。彼女が女子学生の運動服として、当時欧米の一部で女性や児童が着ていたセーラー服(女性の場合はボーイッシュなイメージであったようだ)を採用したのがきっかけとなり、結局これが制服になったということみたい。注文自体は1917年にやっており、上着とスカートで構成される現在のセーラー服の形で完成したのが1921年だったわけで、平安女学院には一年遅れたが現在のセーラー服の元祖はこっちであるとの「ユニフォーム研究室」室長のフォローコメントもあった(笑)。同じ年に愛知県でもセーラー服の女子制服が導入されているとかで、これは偶然ではなく男子=陸軍、女子=海軍という発想が背景にあったんじゃないかと思える。その後急速に日本中の女子学生がセーラー服になっちゃうわけだ。
今もまだまだ健在…と思えるセーラー服だが、男子制服ともどもブレザーにとって代わられつつあるのが現状。そんな中でもしぶとくセーラー服の伝統を守っているのが海上自衛隊だったりする。海軍時代以来の伝統で、今も海士はセーラー服が制服なのだ。だいたい本来はこちらこそが「元祖セーラー服」なんだよな。これで戦闘に出たりすると「セーラー服と機関銃」が実現するわけだが(笑)、そんな冗談が起こらないことを祈ります。
◆2007年宇宙の旅
前回に続いて宇宙ネタ。
「かぐや」はその後無事に月への旅を続け、9日にリレー衛星を、12日にVRAD衛星(月の重力分布を調査)の分離にも成功した。成功してから名前をつけることになっていたようで、リレー衛星が「おきな」、VRAD衛星が「おうな」と命名された。もちろん「竹取物語」のおじいさんとおばあさんである。日本の仕事には珍しい(?)なかなか楽しいネーミングセンスだな、と思うのだが、今度は宇宙空間で別れることになっちゃったみたいで気の毒な気もしなくはない。
さて10月10日、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地からロシアのソユーズ宇宙船が打ち上げられ、12日に無事国際宇宙ステーション(ISS)とのドッキングに成功した。このソユーズには宇宙ステーションに現在いる長期滞在クルーと交代するアメリカとロシアの宇宙飛行士と、実験のみで帰還する「訪問クルー」として初のマレーシア人宇宙飛行士であるシェイク=ムザファ=シュコア飛行士が搭乗していた。
このシェイクさん(どうお呼びすればいいか迷うのだが、とりあえず)、マレーシアの国教であるイスラム教の信徒である。初のムスリム宇宙飛行士かと思いきやそうではなくすでに9人目に当たるとのことだが、イスラム教徒にとり神聖な期間であるラマダン(断食月)中に宇宙に飛び立つムスリムはシェイクさんが最初となる。そこでマレーシアのイスラム学者達が「宇宙滞在中のイスラム教徒の規範」を定めた18ページのガイドラインを作成、これをシェイクさんに渡したほか今後各国語に翻訳して将来のイスラム宇宙飛行士たちへの指針としたい意向を示している。
良く知られているようにイスラム教徒は生活のなかでさまざまな戒律を守って暮らしている。豚肉を食べない、一日五回はメッカに向かって礼拝、ラマダン中は日中断食を実行する、といったあたりは良く知られている。女性の肌をなるべく見せないというのもあって極端なところでは全身を覆ってしまうほどだが、頭にスカーフで済ますところもある。「禁酒」というのもよく言われるが一切ダメとするところと「酩酊さえしなければいい」という程度の解釈で認めるところもある。一口にイスラム教の戒律といってもかなりアバウトな部分もあるのだ。
イスラム教の聖典「コーラン」はムハンマド没後にまとめられたものだから7世紀の内容そのまま。その後1300年も経てば世の中いろいろ変わってくるわけで、コーランのみに戒律の基準を置くと新しい事態に直面するたびに対応を考えなければならなくなる。そこで活躍するのがイスラム法学者たち。コーランの解釈をあれこれとひねくりまわしてやっていいことと悪いことの基準を確定していくのだ。たとえば近年になって実現してきた臓器移植についてイスラム的に認められるかどうかの議論があり、エジプトの法学者たちが出した結論は「認める」だった。しかし「脳死は死とは認めない」とイスラム的に断定されているので結局脳死者からの臓器移植はできないんだとか。しかしこれも国や地域ごとに解釈が異なるのでイスラム教徒全般が従うというわけでもないけどね。
さてイスラム教徒が宇宙空間に出た場合、誰もがすぐ考えるのが「メッカに向けての礼拝はどうするんだ!?」という疑問。なんせ国際宇宙ステーションは90分で地球を一周してしまう。世界中のモスクにはメッカの方向を示す印がちゃんとついているのだが宇宙船や宇宙ステーションの中では「えーと、メッカはこっちかな」などと言って礼拝をやってるうちに物凄いスピードで位置が変化してしまう。これではムスリムの務めが果たせないじゃないか〜ということにならないように、マレーシアのイスラム法学者の皆さんは方針を示した。それは「最初だけメッカの方向に向かえばよい」というもの。
なんだ、そんなんでいいんかい、という話だが、そもそも一日五回ちゃんと礼拝する人は「信心深い人」とされる国が実は大半で、飛行中の飛行機パイロットや戦闘中の兵士など礼拝をすると困った事態になる人については礼拝は免除されるという解釈が一般的と聞く。そもそも礼拝の時間に飛行機や電車に乗っていてもメッカの方向がどんどん変わってしまうわけで、この件については当初から結論が出ていたものみたい。
礼拝の方向はそれでいいとして、次の難関(笑)がある。イスラムの礼拝はひざまづき頭を地面にこすりつけて行わなければならない(太陽や月、偶像を拝まないことを示す姿勢らしい)。国際宇宙ステーションでは無重力状態でありそんな姿勢をとるのが大変だし、そもそも上も下もありゃしない。そこで出された方針は「可能な限りの姿勢で」という実にアバウトなものだった。
礼拝を行う時間も問題だ。礼拝は一日五回、決まった時刻に行われるが、90分で地球を一周してしまう国際宇宙ステーションの「時刻」はどうやって決めるのか?これについては「打ち上げ場所の時間に従う」という結論だそうで、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地の時間にあわせることになった。
またラマダンは「日の出てるうちは断食する」という戒律があるが、国際宇宙ステーションでは90分のうちに昼と夜が来ちゃうというあわただしさ。これについても「宇宙ではラマダンの断食はしなくてよろしい」という方針が示された。地上でのラマダンの断食も病人や子ども・老人などは免除されてるしね。ラマダン中にできなかった断食は別の時期に「振り替え」をしていいという考えもあるそうで、「宇宙飛行士は地上期間後に断食をやってもいい」ということになるそうだ。
また宇宙食についても豚肉は絶対にダメだが、「豚肉成分を含むか疑わしい宇宙食」(「味の素」の騒ぎを思い起こすなぁ)については「飢えを避ける分だけなら口にできる」とかなり寛大な方針が示されているそうだ。
まぁ結論はかなりアバウトだけど、一応いろいろ細かく決めなきゃいけなくて大変だなぁ、と思っちゃうところだが、シェイクさん以前の8人のムスリム宇宙飛行士はどうしていたんだ?という疑問がわく。未確認なんだけど、どうもその8人はいずれもロシアの宇宙船で宇宙に出た旧ソ連圏出身者であったかと思われ、これまでそういった問題が表面化しにくかったのではないだろうか。
なお、マレーシア政府がシェイクさんをソユーズに乗せるためにロシアに2500万ドルを支払い、ロシア戦闘機18機を購入していた、なんて生臭い話もあったりする。
◆歴史はそんなに甘くない
怪盗アルセーヌ=ルパンはシリーズ中、アルメニアで冒険をしたことがある。またルパンの話かよ、とお思いの方もいるだろうが、まずはそんなトリビアから。
「そんな話あったっけ?」と首をかしげる方も多いだろう。なんせ僕だって「怪盗ルパンの館」の作業のために全訳およびモーリス=ルブランの原文までいちいち調べていて「あら、こんな話が」と気づいたぐらいだ。短編集『ルパンの告白』収録の一話『影の合図』という短編中、一年ほど行方をくらましたルパンが「アルメニアに行って赤いサルタンと死闘をしてこれを倒した」との一行があるだけで詳しい話は全く分からないのだが。
フランス以外が舞台になることはほとんどないルパン・シリーズだが、よく読めばルパンは宿敵ガニマール警部に追われてヨーロッパ中を走り回りアメリカで逮捕された過去があるし(お孫さんと銭形警部の追いかけっこの原型です)、フランス外人部隊に入ってアルジェリア・モロッコ・モーリタニアで活躍しているし、はてはアルゼンチンやチベットまで出かけていることが分かる。ルブラン以外の作家の手にかかると江戸川乱歩や西村京太郎は日本までルパンを出張させたし、児童向け訳本を手がけた南洋一郎は翻訳のふりをして勝手にルパンにエジプトからアフリカ奥地までの大冒険をさせている。だから別に驚くべきことは…なんだけど、たった一行だけとはいえ「アルメニア」でルパンが冒険をしたことにルブランがしていることは注目したい。
アルセーヌ=ルパンがもっとも華やかに活躍したのは20世紀の幕があけてから第一次世界大戦が始まるまでの期間だ。『影の合図』は作中に年代を特定する記述がないのだが、だいたい1902〜1903年ごろの話と思われる。この当時、中東には衰えたりとはいえ大帝国オスマン=トルコがまだ存在している。このオスマン帝国の支配下にあって我々と同じキリスト教徒のアルメニア人が迫害を受けている、として非難する声が当時のヨーロッパに広がっていたことがこのたった一行にもうかがえる。とくにフランスにはアルメニア人難民が多く流入していたし、第一次大戦前のこの時期トルコはドイツと接近していたから実質仮想敵国であったため特にアルメニア人への同情があったようだ(ルパンシリーズの大戦中の物語である『金三角』ではトルコ系の人物が悪役となっている)。
そのフランスの議会で「アルメニア人虐殺否定を禁止する法律」が可決され、トルコ政府と国民が激怒したのは昨年のこと。今年に入ってからも虐殺を肯定するアルメニア系トルコ人のジャーナリスト・フラント=ディンク氏が右翼に殺害されるという事件もあった(2007/2/1の「史点」)。ここでいう「アルメニア人虐殺」というのは第一次世界大戦中に起こったものを指すのだが、トルコ国内ではこれを「大虐殺(ジェノサイド)」だとは絶対に認めず、この問題が噴出するたびに激しい怒りの反応を示す。トルコ政府としては「住民の強制移住により多くのアルメニア人が死亡あるいは殺害された」という線までは認めているが、これが当時のオスマン=トルコ政府によって計画的に行われた「大虐殺」だとは絶対に認めない方針をとっている。
このアルメニア人虐殺問題が今度はアメリカ連邦議会でとりあげられた。アメリカ連邦議会下院の外交委員会でこの「大虐殺」についてオスマン=トルコ帝国を非難する決議案が可決されそうになり、トルコ政府はあらゆる外交手段を使ってその阻止を図ろうとしたが結局外交委員会では可決された。先の日本軍の慰安婦問題での決議と構図はよく似ているが、賛成27vs反対21という小差の結果だった(慰安婦のときは“自爆広告効果”もあったしな)。反対に回ったのは主に共和党議員だったようだが「虐殺の事実は認めるが100年前のことを決議するのもどうか」という趣旨だったとされる。
賛成した民主党議員の一人が「慰安婦決議で日米関係は悪化しなかった」と発言していたが、トルコに関しては甘いんじゃないかなぁ、と僕は思った。実際トルコは駐米大使を召還して海軍司令官や外相ら要人の訪米を中止、さらにイラク戦争におけるアメリカ軍への協力についても再考する姿勢を示したのだ(日本だったら例の給油中止…というところなんだろうけど日本では右派の方が必死に対米追従なんだよな)。これに慌てているのがブッシュ大統領。イラク戦争でトルコはNATO一員として英米に協力、国内の軍事基地を利用させ補給のために領空通過も認めている。これが「戦線離脱」すると大変な影響が出ることは避けられない。おまけにトルコは独立運動を展開するイラク領内のクルド人勢力に対する越境攻撃の姿勢を見せてイラクおよびアメリカと微妙な波風を立てている。ブッシュ大統領は決議案可決を非難し、下院本会議でこの決議案が可決されるのを阻止する姿勢を示している。
歴史事実の検証は大いに結構と思うのだが、ほとんど関係のない他国の議会がそんなことをわざわざ「決議」するってのは正直どうかと思う。フランスでの決議の時にも感じたことだが、どうもこの手の「決議」には欧米人流の「自分達こそが文明の基準でござい」という傲慢さを感じてしまうのだ。じゃあアメリカ議会が自国が行った残虐行為(現在進行形のもある)やイスラエルの行為に非難決議をするかというと、まずありえないとしか思えない。先日ベトナム戦争の枯葉剤の影響で生まれた結合双生児のベトさん・ドクさんのうちベトさんが亡くなったが、これについてアメリカ国内でどれほど関心を呼んだか多いに疑問だ。
冒頭にふったルパンの話に絡めてみると、「犯罪者ではあるが愛国者で殺人はしない」ことになっているルパンは北アフリカの現地人は平気で殺害し、なんら良心の呵責を覚えていない。この問題を自作でとりあげたのが江戸川乱歩で…と脱線すると長くなるのでカットするが、そこにはこうした「決議」と根底でつながるものを感じちゃうんだよな。
ひるがえって日本では高校教科書検定で沖縄戦における「日本軍による集団自決強制」記述の削除が行われたことがここに来て大きな動きを見せている。検定意見が公表された直後から沖縄では大きな反発を呼び、8月中の沖縄県議会で全会一致、および全41自治体の議会での検定意見撤回要求決議、9月末の県民大会での決議を受け、自民党・公明党が推す仲井眞弘多知事自ら上京して政府与党に検定の撤回を求めることになり、これを受けて発足したばかりの福田政権は「教科書会社から訂正の申請があれば配慮はする」と検定制度の上では異例の対応を示したのだ。もっとも検定意見の撤回は「政治介入になるから」ということで受け入れない姿勢は示している。
問題の検定意見で記述がどう変わったのかいくつか例を挙げて確かめてみよう。ある教科書では「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」という部分に「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」との意見がついて「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」に変更された。またある教科書では「日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で「自決」を強いられたものもあった」との文にやはり同じ意見がついて「「集団自決」に追い込まれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した住民もあった」に変更された。さらにある教科書では「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」に同じ意見がついて「日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた」に変更された。
これらを見渡して分かるのは軍が住民を殺したケースについてはそのまま認めつつも「集団自決」についてはかなり入念に「日本軍」という主語を省いて日本軍との関与をあいまいにし、極力自主的なものにみせようとしていることがわかる。その根拠として担当した文部科学省の教科書調査官は「集団自決」の命令の有無をめぐって名誉毀損の民事訴訟が起きていること、沖縄戦研究者の著書に命令の存在を否定する内容があったことなどを根拠にしたというが、その民事裁判じたいがつい最近になって突然起こされたものであるし(しかもそういう筋の後押しの気配が強い)、「根拠」とされた沖縄戦の研究書についてはその著者自身が調査官の恣意的な引用を批判している。そしてこの調査官個人がつけたこれらの意見がその後の大学教授らで構成される審議会でそのまま承認されて「検定意見」として確定したのだが、この審議会に沖縄戦の専門家は一人も入っておらず、ほとんどチェックされずに通ってしまったようだ。
裁判が起こっているから、とお役所仕事的に文部科学省の役人が対応したという可能性もなくはない。だがこの調査官当人が自由主義史観研究会の会合に出入りしていたとの報道もあるし(「つくる会」から離れた人の人脈っぽいが)、そもそも文部科学省は少なくとも20年以上この「集団自決」と日本軍のかかわりについて執拗に検定でチャチャを入れてきた経緯がある。ながらく右派的な政治勢力の間ではこの沖縄戦の「集団自決」は「南京」「慰安婦」と共に脊髄反射する「三点セット」の一つで、教科書検定のタイミングからするとそうした勢力の期待の結集ともいえた安倍政権の誕生がこの検定意見の背景にあったことは間違いないだろう。要するに文科官僚が「功を焦った」ものじゃないかと僕は思った。
またそれだからこそ、安倍政権の崩壊の直後、いともあっさりと「訂正には応じる」という対応が出てきてしまったのだ。福田さんがリベラルだとはおよそ思えないのだが(だって息子さんに教育勅語覚えさせたって報道があったぜ)、参院選の大敗もあり沖縄の全自治体議会の議決は近い将来あるはずの総選挙を考えても無視できないところだろう(産経新聞みたいに県民大会の参加人数でゴチャゴチャ騒いでる向きがあるが、実質的に自民党が恐怖したのはこっちだったんじゃないかと僕は思っている)。「政治介入は出来ない」を盾に検定意見の全面撤回は受け入れない姿勢だが、訂正するなら応じると言っちゃった以上「日本軍」主語が復活するのを止められないはずで、実質「政治介入」した形になる。要するに時の政府の判断によってコロコロ変わっちゃうわけですか、と少々アホらしく感じたところでもある。「つくる会」や自民党議員の一部は当然「政治介入を許すな!」と騒いでいるが、例の内紛・分裂騒動が影響しているようであまり結束してるようには見えない。
どっちにしても教科書に一行程度しか書けないことで沖縄戦の悲惨な実態がどれほど読み手の生徒に伝えられるかは大疑問だ。教科書なんてのは入試のお勉強用、ぐらいの感覚の生徒が大半だろうしちょっとやそっと変えた程度で洗脳できるもんでもあるまい。
沖縄戦というのがそもそも「本土決戦」に備えての時間稼ぎの出血戦(つまり最初から勝つ予定なんてない)という位置づけで、軍隊の不足を現地住民の「志願」という形の実質強制の動員により、住民ぐるみの戦闘となった。そして日本軍じたい「皇軍」の体質として国民を守る意識が薄かった(もっとも他国の事例を見ていると「軍隊」というのが本質的にもつ傾向かもしれないとも思える)上に、敵兵に対する恐怖をあおって住民ともども降伏を絶対に認めない姿勢をとっていた。おまけに文化的にかなり異質な沖縄住民に対する抜きがたい警戒感も持っていて(沖縄語を使っただけでスパイの疑いがかけられることになっていた)、戦況の悪化はそのまま現地住民への敵視につながりやすかった。こういう状況があった上での悲惨な地上戦が狭い地域で展開されたとき、もう何が起こっても不思議ではない。まずそういう前提に立って沖縄戦を語るようにしたい。
この記事を書くために僕自身もいくつか沖縄戦の書籍にあたってみた。読めば読むほど気が欝になってくるほど酷い話がいっぱい出てくる。それは単純に日本軍が悪だとかそういうものではなく、人間が極限状態に置かれたときにどれほどひどいことが起こるのかという事例の数々だ。「集団自決」だって一見自主的に死んだかのような表現をしているがそんななまやさしいものではない(だから「集団自決」という用語自体が誤っていると主張する研究者もいる)。それを追いかけていたら気が重くなって書くのがズルズル遅れたわけで…言い訳がましいが教科書はおろかこの「史点」のスペースでも安易に語れるものではない。歴史というのは踏み込めば踏み込むほど「そんなに甘いもんじゃない」と分かってくるものだ、ということを改めて感じた次第。
2007/10/22の記事
<<<前回の記事
史激的な物見櫓のトップに戻る