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2007年11月2日

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◆寒い時代とは思わんか

 すでに140年も首都じゃないのに「京都」という名前の京都市。現在の首都は東京なんだからせめて「西京」とでも呼ぶべきではないかと思うこともあるのだが(「西京漬」ってのはあるけどね)、794年に遷都してから1868年まで1000年以上も首都であったため「京都」が独占的固有名詞化してしまっているわけだ。おとなり韓国の首都ソウルも「みやこ」という意味なのだが、これも仮に遷都があったとしてもそのままになるような気もする。
 さてそんな歴史の長い首都である京都では「三大祭」と呼ばれるものがある。五月の葵祭、七月の祇園祭、そして十月の時代祭だ。今回の話題はそのうちの「時代祭」である。

 「時代祭」は平安神宮の祭で、1895年から始まって今年で103回目と京都にしては歴史が浅い。というのも、平安神宮じたいが京都が首都でなくなった後、平安遷都1100年を記念して、ここに都を定めた桓武天皇を祭神として建てられたものなのだ。その後1940年の「皇紀2600年」の皇国史観ブームに乗る形で、平安京最後の天皇である孝明天皇も合祀されている。
 時代祭はこの祭神である桓武天皇および孝明天皇に現在の都を見ていただく、という趣旨で始められた。そしてその随行者として平安から江戸までの各時代の装束の行列(その時代の実在人物を模した人もつく)がつき、時代劇そのまんまの格好で近代的な町中を練り歩くというユニークなお祭となったのだ。似たような歴史行列は全国にあるが、恐らくこの時代祭がそのルーツなのだろう。
 歴史をやってる者として一度ぐらいこれを見てみたいもんだとは思っていたのだが今まで見る機会は一度も無く、時代祭には全ての時代の行列があるものだと僕はずっと思い込んでいた。ところが「今年初めて室町時代の行列が追加される」との報道を先日見て、実は一世紀にわたって時代祭に「室町時代」の行列が存在していなかったことを知り、驚かされたのだ。

 だが理由の察しはすぐついた。南北朝史ファンにはすぐに思い当たるはず。室町時代とはすなわち足利時代であり、その足利幕府の建設者である足利尊氏は戦前において「史上最大の逆賊」として徹底的に否定された歴史があるのだ。またその孫の足利義満は明から「日本国王」に冊封され、皇位簒奪まで企図した疑いがあり、これもまた足利=逆賊の一例とされた。戦前では栃木県足利市の絹織物までが「逆賊織り」と呼ばれていたし、うっかり「足利尊氏はすぐれた武将」と口にしたために辞任に追い込まれた大臣もいた。
 なんでそこまで、と現代人としては思っちゃうところだが、そうなったのは江戸時代に水戸史学が朱子学的名分論思考から「南朝正統論」を打ち出したことに始まる。南朝が正統ならそれに対抗して北朝を立てた尊氏は反逆者、というわけである。これに加えて「太平記」の普及により南朝の楠木正成が奇策縦横の忠臣として庶民や武士に絶大な人気を得て、尊氏悪者観に拍車をかけた。このあたりの事情は三国志演義で蜀の劉備諸葛亮が善玉、魏の曹操が悪玉にされていった経緯と似ている。
 さらに幕末になってくると尊皇倒幕の志士達が、過去に倒幕を実現した後醍醐天皇と楠木正成を自分達の活動と重ね合わせて崇めたて、神格化していった。すると当然足利悪玉観はいっそう強化されるわけで、幕末には尊氏・義詮・義満の足利三代の木像の首が斬られてさらしものにされる、なんて事件も起こっている。
 そんな幕末の志士達が作った明治政府は南朝の忠臣たちをみんな神様にして顕彰していく。そんなわけだから時代祭に足利氏が政権を握った室町時代が時代祭行列から外されるのはしごく当然でもあったのだ。念のため書いておくが、現在の皇室は北朝の子孫であり、明治天皇自身も「南朝正統」と確定するのは躊躇していたようだ(直接の先祖の否定につながってしまう)。それもあって明治の末まで歴史の教科書も「南北朝時代」といった表現を普通にしていたのだが、明治の末に大逆事件(1910)が起こると、新聞紙上で「南朝と北朝を同列に並べるような歴史教科書がイカン」と史上初めての「歴史教科書攻撃」が起こり、政治問題にまで発展したため明治天皇みずから「南朝が正統」と表明せざるを得なくなった。かくして「南北朝時代」は「吉野時代」「吉野朝時代」と改められ、「南朝正統と尊氏逆賊」は敗戦まで公式のものとなってしまう。

 敗戦とともに皇国史観が否定され、足利尊氏の評価も自由になり歴史学者の高評価の声もあがるようになったのだが、戦前のイメージの一掃はなかなか難しかった。歴史小説では吉川英治の『私本太平記』が尊氏再評価の代表となるのだが(その前に弟子にあたる杉本苑子さんが短いもので尊氏を書いていたらしい)、それ以外にほとんど見当たらず、南北朝時代を描いても尊氏はなんとなく悪者扱いする小説が多かったのも事実。桜田晋也『足利尊氏』のように主役として徹底的に悪玉扱いした小説まである。僕が小学校の時に図書館に置いてあった集英社の「漫画日本の歴史」(昭和40年代の旧版)でも尊氏の人相が露骨にワルに描かれていた。「ヘンテコ歴史本」コーナーで紹介している『後醍醐天皇・竹内文書』みたいに尊氏を「人類史上最高の逆賊」とまで扱ってる本もあるんだから(笑)、こうした考えはかなり根強く生き残っているのだ。
 『私本太平記』を原作とする大河ドラマ「太平記」が放映されたのは1991年のことだが、このときも某作家(これが誰なのか実に興味があるのだが…)が「まだ早い」とNHKプロデューサーに言ったという話もある。この大河ドラマじたいは視聴率も好調で、とくにトラブルも起こらなかったのだが(同年NHK局内で作曲家が「切腹未遂騒動」を起こした時はそのからみかと思ったものだが、無関係だった)、南北朝ドラマ化がそれっきりになっているのもまた事実。

 長々と書いたが、こういう事情を知っていると、時代祭で「室町時代」が除外されたまま一世紀がすぎていた理由にすぐピンと来る。南北朝時代については戦前すでに「吉野朝時代」として行列が作られ、楠木正成に扮した武者も登場していたのだが、室町時代についてはタブーのまま。戦後に1966年に維新志士行列が新設された例はあったが、室町は無視されたまま。それもひとえにこの祭の行列が「平安神宮祭神の随行者」という位置づけであるためで、そこに室町行列を作ると「逆賊」である足利が加わらざるをえなくなってしまう、との姿勢を神宮側が崩さなかったのだ。実際現在の宮司も京都新聞の取材に対し「時代祭は祭神の桓武天皇と孝明天皇に、今の京都をご覧いただくのが本旨で、行列は両天皇のお供。お供に足利氏がいるのはおかしい」と明確に語っている。日本のほぼ全ての神社が加盟する宗教団体「神社本庁」の価値観がほぼ戦前そのまんまであることが良く分かる。

 それでも重い扉は開いた。その功労者の一人が京都大学名誉教授の上田正昭さん(80)だ。日本古代史、神話学を専門とする歴史学者で、日本一国の枠組みに縛られることなく東アジア全体のスケールで対象をとらえようとする研究方法は、倭寇なんてものをやってる僕もかなり影響を受けている。この報道で「思わぬところで知ってる名前が出た」とか思っちゃったものだが、上田先生、1989年から時代祭の考証委員になっておられたのだ。
 その考証委員就任の際に、上田さんは「いつの日か室町時代行列を実現する。考証委員に就く条件です」と当時の平安神宮宮司に明言したのだそうだ。大河ドラマ「太平記」実現も同じころ(企画が通ったのは同時期のはず)なのだが、もしかするとこの1989年が「昭和が終わった年」であることも一因だったかもしれない。それでも実現まで18年もかかってるところを見ると、いかに抵抗が大きかったかも推察できる。
 それでも「お供に足利氏がいるのはおかしい」と発言している現在の宮司が「各時代の風俗を展覧するという意味では、室町行列があって不思議ではない」と言っているように、あくまで「室町」という時代なら、ということで許容したようだ。どうにか神宮側や祭関係者の了解を得て、桓武没後1200年の節目となる2005年を期して室町行列が実現することになったのだが、「登場人物」をどうするか議論となり(ここでも「足利」を出すのかどうかモメたに違いない)、また衣装や甲冑の調達費用でも困難が生じ、結局2年遅れることになった。
 室町時代行列は足利将軍と細川・山名ら「幕府執政列」と、室町時代の庶民の踊りを再現する「洛中風俗列」で構成されることになった。さすが本場京都の時代祭となると衣装も時代考証にのっとった本格派で費用もバカにならず、幕府執政列だけで7000万円の予算。しかしそれでも不足だそうで、甲冑は細川・山名に限り、足利将軍は金襴・烏帽子の衣装に小具足の軽武装スタイルで、そばに歩く家来が箱をもち、その中に鎧兜が入っている、という「苦肉の設定」になったのだとか。

 ともあれ、これでめでたく室町時代行列が実現し、「足利将軍」も天皇のお供につけたわけだ。そもそも現在の皇室があるのも尊氏はじめ足利将軍家のおかげともいえるはずだし(まぁ義満については異論も出るかな。「ムロタイ」参照のこと(笑))、現在につながる京都の文化をさだまったのも室町時代のことである。上田正昭氏も「能に狂言、茶道、華道、名建築に庭園…。源流の室町時代を抜きにして京都の文化は語れない」「室町時代列が加わったことで、完全な時代祭と胸を張っていえる」と語っている(いずれも京都新聞記事より)
 歴史と共にその評価が翻弄されつづけた(というより不当に貶められ続けたというべきか)足利尊氏当人に「今の心境は?」と聞いたら、「この世は夢の如くに候」と答えてくれるでしょう(笑)。ああ、夢みたい、って喜んでるんじゃなくて「夢のようにはかなく無常である」って意味ですからね。



◆南極条約は調べましたよ

 ブライト艦長が調べてみたところ、南極の軍事利用、領土主張ができないことが確認できただけで、捕虜の扱いについては何にも書いてなかったから遠慮なく拷問にかけちゃったのでありました(笑)。
 という冗談が通じない人もいるだろうから念のため書いておくと、いわゆる「ファーストガンダム」の世界設定の中で「南極条約」というのが出てくるのですな。「一年戦争」のさなか地球連邦とジオン公国の間で結ばれたもので、戦闘における核兵器等大量破壊兵器の使用禁止やお互いの捕虜の扱いなどについて決めたものとされる。日本語版Wikipediaにはちゃんと項目が立てられているので詳しくはそっちを参照のこと(笑)。

 で、実在する「南極条約」とは何かというと、1959年に採択、1961年に発効した南極に関する国際条約。上の冗談で書いたように、南極の軍事利用の禁止、領有権主張の凍結、科学的調査の自由と協力のありかたなどについて定めたものだ。ガンダムつながりを無理やり見つけると「核爆発・放射性廃棄物廃棄の禁止」という項目はある。
 こういう条約が作られた原因は、南極の領土主張をする国がいくつかあって混乱が生じたことにあり、領有権主張の「凍結」という項目があることがそれを示している。南極に近いアルゼンチンチリオーストラリアニュージーランドといった国々はいまでも南極に領土権があると主張して中には住民を住まわせている場合もあるし、過去に探検隊を送った、もしくは現在も基地をおいて調査をしている国のうちノルウェーイギリスフランスも領有権を主張している。

 どちらかといえば北極に近いと思えるノルウェーやイギリスが南極の領有主張をしているのは一見奇異に見えるが、人類初の南極点到達を競ったのがこの両国の探検家だった。その探検家とはノルウェーのロアール=アムンセン、イギリスのロバート=スコットの二人だ。1911年の年末にこの二人は南極点を目指して競争を展開、結果はアムンセンの勝利で、スコット隊は苦難の末一ヶ月遅れで南極点に到達したがノルウェー隊に先を越されたことを知り失望、その帰る途上で凍死により全滅という悲劇に終わってしまった。一方のアムンセンも1928年に北極で行方不明になってしまうのだが…。現在アメリカが南極点付近に設置している観測基地には二人を記念して「アムンゼン・スコット基地」と名づけられている。
 そんなわけで南極点に一番乗りしたノルウェーが南極の領有権を主張する根拠がなくもない。だがそのとき二番手に甘んじたイギリスが南極の領有主張をしているというのはどういうわけか。

 その答えは、「南極点」ではなく「南極圏」に話を広げれば、1773年にイギリスの探検家ジェームズ=クックが最初に到達・調査しているから、ということになる。クックが生きた時代、南極大陸の存在はまだ確認されておらず、伝説的な「南方大陸」の存在を確認をすることが探検の目的となっていた。クックはニュージーランドやオーストラリアを探検・調査してこれらがイギリス植民地となるきっかけを作り、さらに南方を目指して南緯71度付近まで船を進め、南極大陸まであと一歩のところまで迫っている。だがこれ以上南では人間の居住は不可能だから仮に大陸を見つけても植民地になるような土地はない、ということで引き返してしまったのだ。
 このことを根拠の一つにしてイギリス政府が南極の領有主張を行ったのはそれから140年も後の1908年のこと。これに先立ってイギリス軍人であったスコットらが1901〜1904年に南極探検を行っていて、これも領有主張を狙う背景があったものと思われる。1908年の領有主張というのは南極の南太平洋側、西経20〜80度の区域170万平方キロメートルをイギリスの「南極領」であると一方的に宣言するものだった。その後第一次世界大戦が終わった1920年代にニュージーランドやフランスによる領有宣言が行われ、1930〜1940年代にオーストラリアやチリ、アルゼンチンといった国々が領有宣言をしたため第二次大戦後に「南極条約」がまとめられ領有主張については「凍結」ということになったわけだ。なお、各国の主張する南極領土は南極点を中心にそれぞれ三角形に切り分ける形となっており、なんだかケーキを切り分けているみたいである(笑)。

 という長い前振りをした上で、ようやくニュースネタである。
 17日付のイギリスの新聞ガーディアンが伝えたところによると(僕はそれを元にした読売新聞記事から孫引き)、イギリス政府が100平方キロメートルの南極沖海底の「主権」を主張する準備を進めているというのだ。もちろん理由は海底の油田や天然ガス田といった地下資源の確保が狙い。海洋法に関する国際連合条約(1982年採択)を根拠に権利主張をするつもりだそうで、2009年に国連に提出する方向でデータを収集中とのことだ。イギリスは南極条約に加盟はしているのだが、「南極沖海底」についてはフリーと判断したものと思われる。
 つい先日もロシアが北極点付近の海底にロシア国旗を立てたばかりで、世界各国は資源確保競争で「未踏の地」先着合戦を再開した模様だ。月への探査機が続々と出るのも同じことなんだろうなぁ。



◆優良子たる我々に

 「初歩だよ、ワトソン君」
 と、思わずつぶやいてしまったニュースがあった。この台詞、シャーロック=ホームズが繰り返し言った台詞のように言われるが、原作には全く登場しないことでも有名だったりする(笑)。アルセーヌ=ルパンにも言えることだが、人気キャラクターってのは原作を離れたイメージが一人歩きしているケースが少なくないのだ。
 いきなり脱線してしまったが、僕が「ワトソン君」と呼んでしまったのはジェームズ=D=ワトソン博士(79)のこと。ホームズの相棒のほうはジョン=H=ワトソン博士なのだが、『唇のねじれた男』で奥さんが「ジェームズ」と呼んでしまう場面があったりして…おっとまた脱線を(汗)。で、このジェームズ=ワトソン博士と聞いても史学畑の人間ではピンと来ないが、生物の遺伝子の本体であるDNAの分子構造を研究、これが「二重らせん」になっていることを解明するという生物学上重要な研究を成し遂げたお方であり、1962年に共同研究者と共にノーベル生理学・医学賞を受賞した研究者、と聞けばさすがにその業績の偉大さに頭が下がるところである。今年になってこのワトソン博士が自らのDNAの遺伝情報(ゲノム)の公開を表明して話題を呼んだこともあった。

 が、しかし。そのワトソン博士が、
「アフリカに対する見通しは、本質的に悲観している」
「アフリカの人々の知能はわれわれと同じという前提で社会政策がつくられているが、あの土地で出た全ての結果がそうではないことを示している」
「今後10年内に遺伝子が人間の知能に差をもたらしていることが発見されるだろう」
「全ての人々が等しいと思いたいが、黒人の従業員を雇っている人々はそれが真実ではないと分かっている」

 などと発言したと報じられたもんだから大騒ぎになった(記事により微妙に訳が異なるが、まとめると以上のようなことらしい)。この報道に触れた時には僕も「DNAの構造まで解明した人がそういう発想を持つんだなぁ」と愕然として「初歩だよ」とつぶやいちゃったものだ。

 この発言はワトソン博士が最新著書の宣伝も兼ねてのイギリス訪問に先立って行われたイギリス紙「サンデー・タイムズ」のインタビューの中で飛び出した。サンデー・タイムズはこのインタビュー記事を「アフリカ人は西洋人よりも知性が劣る、DNAパイオニア博士が語る」との見出しつきでセンセーショナルに報じ、イギリスで予定されていた科学博物館をはじめとする講演は「博士の発言は常軌を逸している」とすべてキャンセルされ、イギリスに到着していた博士は緊急帰国するはめになった。博士が所属するコールド・スプリング・ハーバー研究所も「我々は、ワトソン博士の発言につながるような研究は一切行っていない」と遺憾の意を表明して、博士の停職を決定した。
 非難の嵐にさらされたワトソン博士は「私の発言として報道されたようなことを、どうやったら私が言えるのか、理解できない」として報道によって真意を歪曲されたと主張しつつも、「私の言葉から、アフリカという大陸が遺伝的に何らかの形で劣っているとの考えに達した人々に対して、率直に謝罪する。あれは、そういった意味ではなかった。さらに、そういった考えには科学的根拠がない」と謝罪も表明している(訳文はCNN日本語版サイト記事に拠った)。確かにインタビューというのはしばしば当人の発言の真意を曲解するケースがあるので(インタビュアーに特に悪気がなくても思い込みからそうなることがある)本当のところどう発言したのかは慎重に扱う必要はあるだろう。アフリカの情勢が全体的になかなか改善しないこと、アフリカ系を雇うとウンヌンといった発言は確かにあったのだと思えるが、DNAの構造まで解明した人が「遺伝子が人間の知能に差をもたらしている」なんてことを本気で言ったかどうかはさすがに疑わしいと思うところもある。本人も「科学的根拠はない」と弁明しているし…

 ただこの人、これ以前にも政治・宗教そして人種問題で歯に衣着せぬ…というか思ったままをそのまま言っちゃう傾向があり、とくに「遺伝子決定論」的発言で物議をかもしてきた過去がある。ご自身のご子息の一人が精神疾患だそうで、遺伝子研究による各種病気の予防を強く主張し、たとえば遺伝子が原因の精神的疾患と分かれば「子どもが何かをできないときに、怒るのではなく、手助けしたいと思うようになるなど、人々がより慈悲深くなるだろう」と発言したこともある。そこまでならいいのだが、さらに一歩踏み込んで人間の個性全てを遺伝子の仕業として「治療」するとまで言い出すことが多いようだ。たとえば「バカは遺伝子的病気であり、人々の10%はいる“本当のバカ”は治療されるべき」とか、「遺伝子操作で美人が作れる。全ての女性が美人になったら不気味だと人は言うが、私は素晴らしいと思う」とか、「もし性的関心を決定する遺伝子が発見できたとして、ある女性が同性愛と分かった子どもを生みたくないと思ったらそうさせるでしょ」とか、「デブと面接するのいやでしょ、雇う気なんかないって分かってるんだから」とか…まぁ日本でも見かける「失言家」としてすでに有名だったんですな。当人はジョークのつもりでついつい言っちゃうというやつで。今度のインタビューもそれを念頭に行われ、「差別発言」が出たので、それっ、てことになったんじゃないかと思う。

 一般人レベルで歴史談義をするとき「○○人のDNAは〜」といった科学的根拠の全くない偏見を口にするのは良く見る光景だが、そのDNAの構造まで解明した人がこういうことを言っちゃうのか、と思うとガックリしたというのが正直なところ。当人は軽いジョークのつもりで「科学的」な話をしたつもりはないんだろうが、その専門家だけにどういう影響があるかは推察するべきだろう。これからご自分のゲノムを詳細に研究して「失言癖の遺伝子」を解明してください(もちろんジョークです)



◆認めたくないものだな

 …自国自身の軍事政権の過ちを。
 10月24日、韓国政府の「過去事件の真相究明委員会」は、1973年に日本で発生した「金大中事件」について調査報告書を公表した。その中でこの事件を「韓国中央情報部(KCIA)が主導した計画的犯行」と断定したのだ。そんなことはとっくの昔に報道や研究により事実と確認されているのだが、韓国政府の公的機関が公式に「事実」として認め発表したことが大きな画期として注目されているわけだ。

 「金大中事件」は当時の言い方で「きんだいちゅうじけん」と呼ぶのがセオリー。1973年8月8日、当時韓国の野党指導者で亡命を余儀なくされていた金大中(キム=デジュン)氏が、滞在していた東京都内のホテルから何者かに拉致され、5日後に韓国ソウルの自宅前で解放された、と簡単にまとめてしまうと、そういう事件だ。
 当時の韓国は朴正熙(パク=チョンヒ)大統領による軍事政権で、野党党首の金大中氏は1971年の大統領選で朴大統領に僅差に迫り、最大の政敵として朴大統領から危険視されていた。大統領選の直後に金大中氏は不可解な交通事故にあい(これはKCIAの暗殺未遂事件であったと確実視されている)、さらに国外にいる間に韓国内に戒厳令が敷かれたため帰国すれば殺される危険があり、亡命生活を余儀なくされる。韓国国内での朴政権の独裁に対抗する民主主義の旗手という扱いで、金大中氏は各国の要人ともしばしば会見しており、これがさらに危険視を招くことにもなった。この事件のときも金大中氏は自民党ハト派議員たちの会合に8月9日に出席することになっていたのだ。

 金大中氏の拉致は都内のホテルで白昼堂々実行された。数人の男たちに襲われた金大中氏はクロロホルムをかがされ、袋に詰められホテルから運び出された。その後神戸港から船に乗せられ、危うく海中に放り込まれそうになったところへ、突然飛行機が飛んできたため暗殺実行は中止された。このとき飛んできた飛行機についてはまだまだ謎と言っていいのだが…韓国の情報部の動きを察知して中止を強制できるのはアメリカしかないだろうという推理から米軍機説が根強かったのだが、金大中氏本人はこれを否定し、日本の飛行機だったと証言している。じゃあ自衛隊機?かというとそれにも否定的な説もある。この真相については今度の報告書でも触れられておらず、日本かアメリカから資料が出てくるのを待つしかなさそうだ。
 ともあれ、事件が起こったのは日本の都内であるから東京の警視庁が発生直後から捜査を行い、ホテルの現場から韓国大使館一等書記官の指紋を発見する。これで韓国政府機関の関与は明白になったわけだが、当の一等書記官は捜査協力を拒否し、外交官特権で帰国してしまう。当然この事件は日本と韓国の間で重大な外交問題となったが、結局は当時の田中角栄首相の判断で政治決着が図られ日本側の捜査は中断することになる。
 このとき韓国側との秘密交渉で「これでパーにしよう」と角栄が発言していることが明らかになっていて、このとき見返りに多額の金が流れたとか、この事件自体に日本の暴力団(幹部クラスでも韓国系が少なからずいた)が深く関与していたとか、日韓間で暗躍した右翼政商児玉誉志夫とか、その児玉ともども韓国に深く関わっていた先日亡くなった瀬島龍三とか…昭和史の闇の部分があれこれとこの事件に関わってくる。だいたい朴正熙自身が日本の陸軍士官学校の出身で、日本のその方面との関わりが少なからずある。

 この「金大中事件」は当時の日本でも大きな衝撃をもって受け止められた。その一例として、僕はよく手塚治虫の漫画を挙げる。
 まず手塚が少年画報社の「ヤングコミック」(現在は美少女H漫画雑誌になって生き残っている)1973年11月27日号に発表した「悪魔の開幕」という読みきり短編作品がある。これはあくまで近未来(当時の)の日本が舞台で、戒厳令が敷かれ、憲法が改正されて核兵器の開発が進められ、国民の自由が徹底的に奪われ、反政府運動も徹底的に弾圧される状況が描かれている。登場人物のセリフで「何年か前、韓国で金大中事件というのがあったな。いまの日本はあの頃の韓国より数倍は騒然としている」というのがあり、この短編が直前に起こった金大中事件をモチーフにしていること、そして恐らくはそれを政治決着でもみ消した日本もこうなるのではないか?という危機感をもって書かれたことをうかがわせている。
 また翌1974年、「少年チャンピオン」6月10日号に「ブラック・ジャック」の一編「パク船長」が載る。国名の明記はないが自由のない隣国からの亡命者たちを描く作品で、この「隣国」はパク船長の口から「おれの国はいま自由が禁じられているんでね。つらくって国をにげ出す者が多いのさ。なにしろ学校では政府につごうのいいことしかおしえないし、検閲をうけた本しか出せないし読めない。集会やパーティーをやると特殊警察につかまるんだ。ちょっとでも政府のことをわるくいうと死刑だ」と語られる。これを北朝鮮がモデルとする書籍も見かけるのだが、この時期の手塚の政治的立場、描かれる「隣国」の人々の服装からもこれは当時の韓国をモデルにしたと考えるのが自然だろう(当時韓国からのこうした大規模な亡命があったとも思えないのだが「脱北」の動きも目立ってなかったはず。あくまでモデルとしたフィクションなのだ)。これも前年の金大中事件を意識して描かれたものだと僕は思っているのだが、そのまま北朝鮮の話と受け止められるあたりは「圧政」というのは国や時代を問わずおんなじような形で現れるということでもある。

 その後、1979年に朴正熙大統領は暗殺されるが(彼の夫人も先立って暗殺されており、これまた日韓朝の「闇」が顔を覗かせる)、直後にクーデターで軍人全斗煥(チョン=ドゥファン)が政権を握り、民主化要求デモが軍により鎮圧される「光州事件」が発生、金大中氏は反政府運動を扇動したとして逮捕され、死刑判決を受ける。その後無期懲役に減刑され刑執行も停止されるが、国外生活や自宅軟禁を繰り返した。80年代末から韓国の民主化が進行して政治活動を再開し、二度大統領選出馬して敗北、一度は政界引退を表明するが1997年の大統領選で当選、在任中の2000年に北朝鮮との初の首脳会談を実現してその年のノーベル平和賞、と良くも悪くも実に盛りだくさんな政治家人生を送ることになった。

 彼自身が大統領となったときに、この「金大中事件」の真相を究明することも検討はしただろう。しかしあの時点ではまだまだ事件関係者が政官界に現役で多くおり、自身が被害者となった事件の究明を指示するのは難しいことでもあったようだ。またKCIAの関与は本人も含めてほぼ事実と認識されていたが、それを認めると韓国政府機関による日本の主権侵害を公式に認めることになり、「自分が被害者となった事件について自分で謝罪する」という事態に陥るジレンマもあったはず。
 金大中政権のあとを受けた盧武鉉(ノ=ムヒョン)大統領の政権は日本による植民地統治時代の韓国側の協力者を追及してその子孫の財産を没収するなど「そこまでせんでも」と感じる歴史追及をやっているが、それと連動して韓国の歴代政権が行ってきた公権力の不法行為の真相解明も進めていた。これについては自国の暗部を政府自らがほじくり返すというなかなか見られない例なので興味深く観察しているところだが、同時に彼の政敵である韓国保守層(それはしばしば植民地時代においては日本に協力、韓国成立後は政権に関与して圧政に協力もしている)にダメージを与える狙いもあることも確かだ。
 それはそれとして、そうした流れで作られた「過去の事件の真相究明委員会」の仕事自体の評価は高いようだ。特に今度の金大中事件についてはすでに明るみになっていることの再確認という性格も強いとはいえ、当時の政府の公的機関が直接的に関与したと断定したことは重要。実は昨年夏の時点でこの報告書は完成しており、その公表をめぐって日本との外交問題化を懸念する外交通商部の圧力がかかっていたそうで、一年遅れたとはいえ公表にこぎつけたことも評価していいだろう。
 もっともこの事件をKCIAの主導犯行と断定こそしたものの、朴正熙大統領の指示については曖昧にボカされているため金大中氏本人から批判されている。また「政治決着」で事件をウヤムヤにした日本の責任も指摘して「両国政府には、事件の真相隠蔽に関与した過ちがある」としたため日本政府から反発を受けてもいる。日本側も政治決着で手打ちしたこと自体は事実で、これについては金大中氏自身も批判する発言をしているのだが、当時捜査に関わった人々としては「じゃあ当時の韓国が捜査に協力したか?」と反発を覚えるところがあるのも無理はないだろう。
 この報告書公表を受けて韓国政府は日本政府に事情を説明、「遺憾の意」という国際的な政治業界用語で実質的な謝罪をした。日本側としては不満もあるようだがお互いスネに傷がある立場であり、かつ「昔の政権がやったことだし」という感覚もお互いにあるから「政治決着」でウヤムヤにして幕引きということになりそうだ(笑)。


 この「過去の事件の真相究明委員会」は「金大中事件」のほかにも6件の不可解事件について調査を行っている。その中で注目されていたのが1987年11月の「大韓航空機爆破事件」だ。ソウル五輪の前年に起こったこの事件は、直後に服毒自殺した金勝一(キム=スンイル)および逮捕され死刑判決(その後特赦)を受けた金賢姫(キム=ヒョンヒ)ら二人の北朝鮮工作員による犯行ということで一応の結論は出ているのだが、当時からいくつかの不可解な点から「韓国情報機関「国家安全企画部」が事前に知ってて泳がせたのでは?」あるいは「自作自演」といった謀略説が絶えず流れていた(金賢姫がすりかえられている!という説もあったな)。その後の大統領選で全斗煥に続く軍人政権である盧泰愚(ノ=テウ)候補を当選させる一因ともなっていることも謀略説が出る背景にある。
 結局のところ「真相究明委員会」はこの事件について安全企画部の自作自演や謀略説を裏付ける手がかりは皆無として否定し、あくまで北朝鮮工作員による犯行との結論を報告している。ただ安全企画部の拙速な捜査が疑惑を招いたこと、選挙前に金賢姫を韓国に移送して選挙を有利に運ぼうとした疑いはあること、犯人である金賢姫元死刑囚本人への面会を十数回も求めたが実現できず不十分な調査になったことなど指摘はしているそうだ。
 このほかにも朴政権時代に「共産主義運動」として弾圧された「民青学事件」「人民革命党事件」がいずれも単なる民主化運動であり(特に後者は完全なデッチアゲと指摘されている)、独裁政権の維持のためにこれらの事件を「摘発」することで恐怖の雰囲気を作る意図があったと結論付けている。これらの事件については朴大統領直接の指示があったと認定しているようだ。
 この真相究明委員会で扱ってると思うんだけど、映画にもなった1971年の「シルミド事件」(金日成暗殺のために養成されていた秘密部隊が反乱、バスを乗っ取ってソウルに向かい鎮圧された事件)の封印が解かれたのもつい最近のこと。他にもいくつもの不気味な事件があり、韓国現代史の闇はまだまだ暗いが(昭和前期の日本の闇とよく似たところがあるような)、それを少しずつでも明るみにしていってるだけでもこの国もずいぶんオープンになったもんだと思う。


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