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2008年1月25日

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◆社会の講師といたしましては

 当サイトの隠しページ(隠してるわけでもないが)にも書いてあるように、僕自身が何らかのニュースネタになった場合、その肩書は「塾講師」になるだろう。大学時代のアルバイトからずっとそのままやっているので、「本職」という気はいまだにしないのだが。それにしてもなんで報道っていちいちその人の職業をつけなきゃならんのですかねぇ。
 仕事上、数学も国語も理科も教えたことがあるが、本業は社会科である。一応持ってる高校の教職免許も「社会」ですからね。予備校系のところで高校生相手に世界史・日本史・政治経済・地理・倫理まで教えた経験があるが、基本的には世界史が本職だと思っている。それでも教えた時間の累計では世界史を教えた時間の方が少ないんだよな。実際の時間数では中学生の社会が一番多いと思う。

 ご存じのように、中学校の社会科は「歴史」「地理」「公民」の三分野に分かれている。「歴史」は日本史を中心に過去の出来事を、「地理」は世界や日本の現在の状況を、そして「公民」は日本の政治・経済を中心に学ぶ科目である。個人的には歴史を教える方が楽しいが、どれが直接的に一番「役に立つ」かといえば、やはり「公民」だろう。なんつっても現在身の回りで現実に展開されている「世の中のしくみ」を学ぶのだから。

 しかし公民分野で必ず覚えなくてはいけない事項の中には、実際にはなかなか現実とならないものもある。たとえば憲法改正の手続き。「衆議院・参議院の総議員の3分の2以上の賛成で発議、国民投票にかけて過半数の賛成を得る」というアレだ。長らく教えて来た重要事項だが、現実に行われたことは一度もない。国民投票法こそ昨年成立しているが、現実の政治状況を見ればまぁまだとうぶん実現は無理だなと思うしかない。
 やはり重要事項で意外とお目にかかれないのが「内閣不信任決議→十日以内に衆議院解散か総辞職」のパターン。実例は4回しかなく、1993年の宮沢喜一内閣以来お目にかかっていない。現実にはしょっちゅう衆議院解散が行われているが、これは「7条解散」というやつで、衆議院解散が「天皇の国事行為」と憲法第7条に書いてあり、それには「内閣の助言と承認が必要」とあるから「内閣の一存で衆議院解散は可能」という論理が導き出されたもの。しかしその解釈はありなのかという議論が一応あるので中学の公民教科書ではこの件は書かれず、公民習ってる最中にこの「7条解散」があったりすると説明に苦労することになる。特に2005年8月の小泉純一郎内閣による「郵政解散」は「参議院で法案が通らなかったから衆議院を解散」という前代未聞のケースだったので生徒は混乱しただろうなぁ。
 国会の種類で「通常国会(常会)」「臨時国会(臨時会)」は毎年おなじみだが、「緊急集会」というやつがある。衆議院解散中に必要が生じた場合参議院のみで国会を開くというケースで、出題率も案外高いのだが実例にお目にかかったためしがない。調べてみたら1952年と1953年の2回しか例はなかった。
 ほかになかなか実例にお目にかかれなかったものとして、三権分立の重要事項で、違法行為などをした裁判官をやめさせるかどうかを国会議員が裁く「弾劾裁判」があった。これは平成13年(2001)に実に30年ぶりの弾劾裁判があり、僕の地元の国会議員が裁判長をつとめたこともあって、当時大いに授業のネタにさせてもらったものだ。ただこの弾劾で罷免された裁判官の罪状が「少女買春」だったもので、理由方面への立ち入った説明は控えたけど(笑)。

 さてここまで書けば何の話題かお気づきだろう。公民の問題でも非常に出題率が高いにも関わらず、実例がほとんど見られなかったものが、つい先日ついに実行されたのだ。そう、「衆議院で可決、参議院で否決された法律案が、衆議院で出席議員3分の2以上の賛成で再可決すれば法律として成立する」(日本国憲法第59条第2項)というケースである。
 昨年の参議院選挙で自民党が大敗、参議院は民主党が第一党となった。おかげで参院議長も民主党から出され、今度の通常国会から民主党が第一党の位置である一番右側(演壇から見て)に配置されて自民党が初めて定位置から移動するハメになるなど、あまり騒がれぬところで戦後政治史上の異変が起こっている。そして衆議院と参議院で第一党が異なり、それぞれ与党優勢・野党優勢という、いわゆる「ねじれ」状態になったため、安倍晋三前首相突然の辞任を受けた総理大臣指名では衆議院が福田康夫、参議院が小沢一郎を指名、久々に両院協議会が開かれるなど、社会のセンセイとしてはありがたい実例を生徒達に示すこともできた。そのあとの「大連立」騒動のドタバタは説明に苦しんだけどね(笑)。

 「大連立」が水の泡と消えた直後から、この憲法の「3分の2以上再可決」条項の適用が噂され始めていた。対象はアメリカなどの軍隊によるアフガニスタンでの「対テロ戦争」に協力して日本の自衛艦がインド洋上で給油活動を行う「テロ特措法」の延長問題。正式名称は「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」というジュゲムジュゲムもビックリのこの法律は、もともと「911テロ」直後の2001年11月に公布された、施行を2年間に限る時限立法だった。しかし「対テロ戦争」とやらの終点が全く見えないまま2年延長、さらに1年延長、と継続を続けていたのだ。しかし参議院が野党多数となってしまったためさらなる延長は否決され、2007年11月をもって給油活動はいったん停止することになった。アメリカ様の子分である日本国政府としては給油継続は至上命題で、「大連立」の工作もこれを回避するために進められたところが大きい。
 しかし結局大連立もポシャり、少し名前が縮まった後継法であるテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法」が2007年11月13日に衆議院で与党の賛成多数で可決、そして参議院は年を越した2008年1月10日に野党の反対多数でこれを否決した。それを受けて翌1月11日、衆議院が3分の2以上の賛成多数で再可決、ここにこの「給油継続法」が異例の経過をたどって成立することになった。

 正直なところこの法律にはちっとも賛成しかねる僕だが、社会の実例教材を提供してくれてありがたいと喜んじゃってたのも本音(笑)。驚いたのはこの「参院否決→衆議院で再可決」の実例は、これが戦後わずかに二度目であると知った時。そしてその唯一の前例が1951年の「モーターボート競争法」であったという事実には失笑すらしてしまった。
 「モーターボート競争法」とは、もちろん公営ギャンブルである「競艇」について定めた法律。戦前右翼の大物で敗戦後A級戦犯容疑者として巣鴨プリズン入りし、戦後の裏社会および政財界のフィクサーとして名高い笹川良一(ある世代の方には「一日一善!」と柔道着?でマラソンしてるおじいさんで有名)が、巣鴨プリズン出所後すぐに政界に働きかけて実現した法律だ。笹川はこの法律により競艇界を牛耳って、競艇収益の受け皿となる「日本船舶振興会」(現在は「日本財団」の愛称が使われる)の会長として大きな影響力を持つことになる。同協会は一度笹川一族色を薄めるために作家の曽野綾子氏を二代目会長としていたが、現在の第三代目会長は笹川良一の三男である。
 「モーターボート競争法」は同年3月12日に議員立法で提出され、3月29日に衆院通過。しかし6月2日に参院で否決され、6月5日に史上初の衆議院3分の2以上の再可決を経て成立している。当時の日本政界は吉田茂首相率いる自由党が与党だが分裂含みで、保守系政党が複数存在し、社会党もかなりの強さであったため、この政界の暗部が絡んだモーターボート競争法にも反対が多かったのだろう。それでも再可決を実行した背景に何があったかは僕もよくわからない。衆院再可決を主導したのが当時吉田茂の腹心の一人で衆院運営委員長だった小沢佐重喜、そう、今度の再議決の際に退席して投票せず相変わらず「KY」なところを見せた小沢一郎・民主党代表の父君である。なおこの時期は、4月11日にマッカーサーがGHQ最高司令官の地位を解任されて日本を離れ、6月11日には公職追放解除を控えて政界復帰・新党結成に動き出していた鳩山一郎が脳溢血で倒れるなど大波乱もあった。それにしてもこうやって並ぶ人名は今の有力政治家の父とか祖父ばっかりですな(笑)。

 モーターボート競争法以来、実に57年ぶりに衆議院再可決が行われたわけだが、衆参両院で第一党が異なる、しかも衆院では与党が3分の2以上もっている、というシチュエーション自体が半世紀も実現しなかったのだ。政府与党はすぐに始まった通常国会でも再可決を辞さず、の姿勢を見せており、またそれを実現できる衆議院の現在の情勢を維持するため当分衆院解散は行わない可能性すら見せ始めている。しかし高村正彦外相がおっしゃった「任期満了選挙が憲法の本道からいって筋だ」という発言には、現憲法制定以来60年の政治史ってなんだったんだろうと思ってしまったところ。

 今度の通常国会は民主党の画策で「ガソリン国会」なんてネーミングがついちゃって、与党側が大慌てしながら幕を開けた。モーターボート、給油継続、ガソリン、と何やら連想ゲームみたいで。
 おおそうだ、インド洋上での給油に暫定税率かけて有料化して、それを道路特定財源にしちゃえばいいんじゃないか(爆)。



◆ダヴィンチ・ノート

 世界でもっとも有名な肖像画といわれるのがレオナルド=ダ=ヴィンチ作の「モナ・リザ」だ。ダ=ヴィンチが1503年ごろに書き始めて、3〜4年後まで手を加え(未完成説もある)、彼としては珍しいことに長らく旅先までこの絵を持ち歩いており、かなり愛着があったのは確からしい。「モナ・リザ」の名が世界的には広く使われているが、これは16世紀中ごろにジョルジョ=ヴァザーリが書いたダ=ヴィンチの伝記の中でそう呼んだことから広まったもので、ヴァザーリがそのモデルについてフィレンツェの富豪フランチェスコ=デル=ジョコンドの妻であると記していることからイタリア・フランスでは「ジョコンダ(ジョコンド夫人)」と呼ぶのが一般的だ。
 1510年ごろにフランス国王フランソワ1世がダ=ヴィンチからこの絵を買い上げ、以後フランス王家の所有物となった。その後ヴェルサイユ宮殿内に置かれ、1789年にフランス革命が起こるとルーブル美術館に引越し、ナポレオンが政権をとるとその私室に持って行かれ、普仏戦争(1871)の際にはルーブル美術館から疎開するなど、フランス史とともに波乱の「画生」を送っている。

 20世紀初頭、「モナ・リザ」はこっそり偽物とすりかえられてルーブル美術館から盗み出され、怪盗紳士アルセーヌ=ルパンの隠れ家に最高の宝物として安置されていた…というのは、もちろんモーリス=ルブランの小説『奇岩城』(1908年発表)の創作(笑)。
 ところがそれから間もない1911年8月22日にルーブル美術館から「モナ・リザ」が盗み出されるという大事件が本当に発生してしまう。直後にモーリス=ルブランは「エクセルシオール」紙のインタビューを受けているが、その記事のタイトルは「アルセーヌ=ルパンはジョコンダの行方を知っているのか?」というものだった(笑)。記事中、「ジョコンダですって?私は何も知りませんよ。大体、警察にも解くことが出来ない謎を、どうして私が知りえるというのです?」と答えるルブランに、「どうしてですって?だってあなたの友人のアルセーヌ・ルパンは、この手の盗難に、広く通じているではありませんか」と記者は突っ込んでいたりする。なお、このインタビューは『奇岩城』の舞台であるエトルタの地で行われており、「エクセルシオール」紙もルパンシリーズの出版元が出してる新聞で、大事件にかこつけた宣伝ジョーク記事だったというのが真相のようだ。

 そのまましばし行方不明となった「モナ・リザ(ジョコンダ)」は、2年後に犯人
ヴィンチェンツォ=ペルージャがフィレンツェの画商に売りつけようとしていたところを逮捕されたことで発見、回収された。犯人のペルージャの本職は装飾職人で、ルーブル美術館で保護ガラス設置のため雇われていたことがあり、逮捕直後に当人は「ナポレオンがイタリアの美術品を奪い去ったことへの復讐」との動機を主張、イタリアでは「愛国者」として一時ではあるが人気を呼んだ。しかし実際にはペルージャはアルゼンチンの詐欺師マルケス=バルフィエルノの計画に乗せられただけで、このバルフィエルノは「モナ・リザ」失踪の2年間の間にその精巧な偽物を6枚作成、アメリカの富豪などにこれを売りつけていたのだ(ついでながら、この史実はジェレミー=ブレット主演のTVドラマ版「シャーロック=ホームズの冒険」の「最後の事件」でそのまま流用されている)
 こんにち、世界には「第二のモナリザ」あるいは「これこそが真作のモナリザ」と称されるソックリな肖像画が5点存在していることが知られる。中には実際にダ=ヴィンチ時代の素材を使った「真作」という鑑定が一部でなされたものもあったりするのだが、近年の研究ではいずれもこの1911年の盗難&贋作偽造事件の折に作られたものと見るのが有力らしい。まぁなんにしても「モナ・リザ」の波乱の「画生」は21世紀まで続いているわけだ(以上の話は当サイトの「怪盗ルパンの館」にも載せてます)

 さてそんな「モナ・リザ」、そのモデルは誰なのか、という問題も長らく論議の的だった。ただしこの手の歴史ミステリー論議の多くがそうであるように、専門家の間では昔から有力な説があった。それはこの絵を「モナ・リザ」と読んだヴァザーリが書き記したように、フランチェスコ=デル=ジョコンドの3番目の妻であり、愛称が「リザ」になるエリザベッタ=デル=ジョコンドがモデル、というものである。しかしヴァザーリの記述以外に決定打がなく、モデルの詮索は延々と続けられ、ありとあらゆる候補者の名前が挙がった。画像解析によりダ=ヴィンチの自画像とぴったり重なるから実は本人がモデル、なんて説もある。男とも女ともとれる肖像というネタは「ダ・ヴィンチ・コード」でも使われていた。
 ところが、2008年1月14日、「ついにモナ・リザのモデルが確定!?」とのビッグ・ニュースが世界に報じられた。ドイツのハイデルベルク大学図書館が発表したもので、同図書館が所蔵していたダ=ヴィンチの知人でもあるフィレンツェの役人の蔵書(1477年印刷のもの)の端に、その役人自身によると思われる重大な書き込みが見つかったというのだ。その書き込みは1503年10月の日付で「ダ=ヴィンチ現在が3枚の絵を制作中である」ことが書かれ、そのうち1枚が「リザ=デル=ジョコンドの肖像画」と明記されている、というのである。1503年といえばもともと「モナ・リザ」製作開始の時期と考えられており、まさにピッタリ符合。その役人がなんでそんなことを蔵書の端に書いているのかが気にはなるが(紙が貴重だった時代だろうから蔵書が日記代わりに使われたかな?)、ダヴィンチおよび「モナ・リザ」と同時代の、知人の直接情報だけに信頼度は高い。
 まぁ結局のところ、最初から有力だった説がそのまま解答でした、という歴史ミステリー愛好家には拍子抜けする結論ではある。同様な絵画系歴史ミステリーである浮世絵師・東洲斎写楽の正体も美術史家の間では最初から能役者・斎藤十郎兵衛が有力視されていて最近はすっかり確定した例もある。同大学図書館も2年前にこの書き込みを発見して館内情報誌には載せていたそうだが、もともと有力な説だっただけに特に大きく扱ってなかったのだそうな。今頃になって世界的ニュースとして報じられたのは何がきっかけだったんだか。



◆カトリック業界500年

  上の話題でちらっと出てきた「ダ・ヴィンチ・コード」は、「キリストの子孫の存在をカトリック教会は隠している」というネタを根幹に据えていたため、映画公開当時カトリック教会が猛反発、反論に動いた時期もあったっけ。映画の出来がイマイチだったせいか、事前の盛り上がりの割にさっさと話題にならなくなってしまった感もあるのだけど。
 そういえば昨年辞任して長期政権を終えたイギリスのブレア前首相がイギリス国教会からカトリックに改宗した、なんて話題もあったな。

 さてそんなカトリックの総本山と言えばバチカン。そのバチカンの頂点、すなわちカトリックの頂点にいるのがローマ法王だ。現在のローマ法王はドイツ出身のベネディクト16世である。そのベネディクト16世がローマ市内のラ・サピエンツァ大学(正式にはローマ大学ラ・サピエンツァ校)で1月17日に行われる新年恒例の式典に出席しようとしたところ、大学学生や教授からの抗議に会い、出席中止を余儀なくされるという事態が起こった。抗議の理由は「ガリレオ=ガリレイの宗教裁判を肯定する発言を過去にした」から、というものだ。

 ガリレオ=ガリレイ(1564-1642)は今さら説明の必要のないほどの有名人。振り子の等時性、慣性の法則、自由落下の法則、そして望遠鏡で天体観測を行い、木星に衛星があることを発見…などなど、科学史上の重大な業績の数々をあげている。そして当時コペルニクスが主張し始めた「地動説」を自身の天体観測をもとに「正しい」と信じ、著書『天文対話』において地動説を論じたため、1633年に異端の容疑で宗教裁判にかけられて有罪判決を受け自説撤回を強制されたという史実もよく知られている。有罪判決を受けた時に「それでも地球はまわる」と言ったというのは後世の創作っぽいですけど。
 この「ガリレイ裁判」は科学と宗教の対立の顕著な例としてよく取り上げられるが、実態がどうであったのかについては議論がある。同時期にやはり地動説を主張して宗教裁判で有罪となり、自説を曲げなかったために火刑に処されたジョルダーノ=ブルーノの例も引き合いに出されるが、こちらは厳密には「科学的」な主張ではなく宗教的な宇宙観・哲学的議論を含んでいたために異端とされたもので、ブルーノ自身が何かと問題の多いお騒がせ変人キャラだったことも大きかったと考えられる(これについては当サイトの「しりとり歴史人物館」参照。個人的には大変面白い人だと思ってますが)。ガリレイの『天文対話』も地動説のみを主張していたわけでもなく(宗教問題にならないための用心だったとは思うが)、出版の許可も得ていたし最初から問題視されていたわけでもない。だからガリレイ裁判自体、宗教と科学の問題ウンヌンだけではない人間関係や政治的背景もあったのではないかとの見方も存在する。
 実態はどうあれ、ガリレイを異端として裁いて有罪にし、その後事実と確認された地動説をカトリック教会が誤りと判定したことは間違いなく、20世紀後半からバチカンではガリレイ裁判の見直しが進められた。前法王ヨハネ=パウロ2世はそれまでカトリック教会が行った多くの「誤り」を認めて謝罪する方針を進め、その中に「ガリレイ裁判」もあった。1992年にヨハネ=パウロ2世は公式にガリレイ裁判が誤りであったとして謝罪を表明している。もっとも「当時としては仕方なかった」という論法で当時の教会の弁護もしていたそうだが。

 今回問題とされたベネディクト16世の発言というのは前法王が謝罪表明する前の1990年と、実に18年も前のものだ。当時は枢機卿ヨゼフ=ラッツィンガーだった現法王がラ・サピエンツァ大学で講演した際、オーストリアの科学哲学者ポール=K=ファイヤアーベント(1924-1994) の著書『方法への挑戦』中の文章を引用して「ガリレオの時代、ローマ・カトリック教会はガリレオ自身よりもはるかに理性に忠実であり続けた。ガリレオに対する一連の措置は、理にかなった公正なものだった」と発言した…というもの。これが報道では「法王がガリレイ裁判を正当化!」と報じられて話題になってるわけだが、ちょっとニュアンスが違うんじゃないかという気もする。ファイヤアーベントの本を探して読むまでの手間はかけたくなかったのでネット上でいくつか信用できそうなところであたってみた限りでは、ファイヤアーベントは「ガリレイ裁判当時の一般常識ではガリレイのほうが“非常識”であり、カトリック教会側の方が“理性的”だった」という趣旨で言ってるみたい。ジョルダーノ=ブルーノの件でも指摘されることだが、「宗教による科学への不当な弾圧」といったイメージは18世紀の啓蒙思想の広まり、19世紀の科学の発達とともに後から「創作」されたイメージという性格が強いのだ。少なくともファイヤアーベントはそういう趣旨でこれを言っているのだと思う。ただ、当時のラッツィンガー枢機卿がそれをやや都合よく解釈して引き合いに出してる感じもあるが…

 それにしても18年も前の発言がなんでこんな大騒ぎになってるのか?実際、一部の学生や大学教授の法王に対する批判はかなり強烈で、物理学の名誉教授は「法王の来校は大学の自治への重大な挑戦だ」と学長に請願書を提出、物理学部の研究者たち67名がこれに賛同、署名し、同意する学生らは来校反対の座り込みや学長事務室占拠まで実行している。さらには法王が来校したら教会が「悪魔の所業」と嫌うロック音楽や同性愛者のパレードなどで“撃退”する計画まであったという。結局来校が中止となったことを受け、ガリレイ裁判に関する著作もあり反対請願書に署名した物理学教授は「法王が別の機会に意見交換を目的として来校するなら異論はないが、式典出席はまずい」と発言している。
 こちらが勝手に察するところなんだけど、18年前のガリレイ裁判に関する発言は請願書でも法王の言動の一例として挙げられているもののようで、法王が明らかに保守的傾向が強い人物であること自体がアカデミズム側の警戒感を呼んでいる気がする。先代のヨハネ=パウロ2世もかなり保守的な人だったのだが他宗教への寛容やカトリック教会の負の歴史への反省も強く示したことで高い評価を得ており、どうもそれに比べるとベネディクトさんは…と嫌われているみたい。2006年9月にもイスラム預言者ムハンマドを批判したととれる発言(これもビザンチン皇帝の発言を引用したものだった)でイスラム諸国の反発を買ったこともあり、他にもいくつか「舌禍」がある人なのは確かなようだ。あと先代の人気の反動とか、さらに意地悪く深読みすれば当初「次期法王はイタリア人」と期待したイタリア人からするとドイツ人の法王は面白くないんじゃなかろうか、なんて想像もある。
 この騒ぎはイタリアの国論を二分する議論となり、ブロディ首相は「イタリア人の寛容の精神に反する」として反対運動側を批判をし、訪問が実際に中止になると「非常に残念」とコメントしている。直接的には関係ないが、その直後にイタリアの連立政権から中道政党が離脱、内閣信任が議会で否決されてブロディ首相は辞任を余儀なくされてしまっている。
 なお、中止になった大学訪問で法王が行う予定だった講演の主要テーマは「死刑制度廃止について」だったとか。
 
 
 カトリック教会と言えば、イエズス会の総長を決める総会が1月19日に行われ、日本とかかわりの深いアンドルフォ=ニコラス神父(71)が選出されたという話題もあった。ニコラス神父は日本の上智大学(この大学はそもそもイエズス会が作った大学で、建学計画はフランシスコ=ザビエルにさかのぼることになっている)で学んで1967年に司祭に叙され、その後ローマで学んでから日本に戻り、13年間母校の上智大学で神学の教鞭をとっている。1978年からはフィリピン・マニラで活動し、1993年から1999年までイエズス会の日本管区長をつとめるなど、東アジアから東南アジア、オセアニアの代表者的立場になっていく。1998年にはアジア人司教らとともに、教会の意思決定についてより下位の、世界各地域の組織に決定権を与えるべきだとバチカンに意見したこともあるそうで。
 このニュース、日本で流れるとどうしても「イエズス会ってまだあったんだ〜」と思っちゃった人が多いのではないか。やっぱザビエルともども歴史の教科書でおなじみの団体だから、とっくの昔になくなってるんじゃないかと思ってる人も多いだろう。実際一時期弾圧をくらって衰退した歴史もあるのだが、いまなお世界に19000人の会員を抱えるカトリック内でも有力な男子修道会なのだ。



◆歴史的焼きおにぎり

 「焼きおにぎり」といっても結果的に焼けちゃったのであって、最初から焼きおにぎりとして作ったわけではない。正確には「焼けおにぎり」というべきであろう(笑)。
 歴史的遺物というものは、建築物とか書物とか陶磁器類とか、いろいろとあるのだが、当時の生活を知る上で非常に重要でありながらなかなか発見されないのが「食べ物(料理)」だ。なぜ発見されないかといえば…そう、すぐ食べられちゃうからだ(笑)。
 食べ物がこれが遺物として残るためには「食べようとして作ったけど突然の事態で食べられなかった」という条件が必要となる。さらに食べられずに済んでもすぐに腐っちゃうはずで、腐らずに保存される条件がそろう必要もある。だから食べ物そのものの発見はめったにない。

 さて、話はいきなり天正7年(1579)3月24日に飛ぶ。場所は越後・信濃国境に近い山城の鮫ヶ尾城。この城は落城寸前の状況にあった。
 城にこもるのは上杉景虎。「越後の龍」と呼ばれた名将・上杉謙信の養子である。よく知られているように生涯妻をもたなかった謙信には実子はなく、景虎は北条氏から養子として迎えられた。
 だが謙信にはもう一人、謙信の姉の子である上杉景勝が養子として迎えられていた。1578年3月に謙信がトイレで脳出血のために倒れ、意識不明のまま後継者をきめずに亡くなると、戦国の必然で後継ぎ争いの内乱が発生した。これを「御館(おたて)の乱」という。上杉家家臣団を二分し、武田氏や北条氏も巻き込んだこの内戦はおよそ一年続くが、次第に景勝側が優勢となり、天正7年3月に景虎は拠点としていた「御館」を失陥。景虎は関東への逃亡を図り、とりあえず景虎派の家臣・堀江宗親をたよってその居城・鮫ヶ尾城に入った。
 ところが戦国の習い、というやつで、堀江は景勝側から裏切り工作をもちかけられるとこれに応じ、3月22日に自分は退去して城の二の丸に火を放った。3月24日未明に景勝軍の総攻撃が始まり、哀れ景虎は炎上する城内で自害して果てた。享年26歳であったという。

 いきなり戦国ドラマをお見せしちゃったが、この辺は来年の大河ドラマ「天地人」(直江兼続が主役)で確実に描かれるでしょうね。あと、この話を調べてて初めて知ったんですけど、上杉景虎を主人公にした歴史ファンタジー(?)小説「炎の蜃気楼(ミラージュ)」なんてのもあって、近年景虎には女性ファンが多いんだとか。

 このとき落城した鮫ヶ尾城跡は近年調査が進められており、2006年6月の調査で焼けた備蓄米が大量に発見された。そのなかに、泥が表面に付着した「うずらの卵大から拳より小さいぐらいの炭化した米の塊」数点が見つかり、「おにぎりでは?」と推測されたわけ。調査にあたっていた妙高市教育委員会はこのうち比較的大きい4点を千葉県佐倉市にある歴史民俗博物館に送って鑑定を依頼した。
 その結果は「米粒が糊化して接着しており、もみ殻のある米ではなく、炊かれた飯の塊」「外側の曲線が手で握った時の形に近い」「笹のような植物の上に置かれたか包まれたような痕跡が一部にある」として、「おにぎり」と断定するものだった。また炭素14年代測定、および発見場所で当時の陶磁器が焼けただれて見つかっていることから、鮫ヶ尾城陥落時にそこにあったものだと判断した。どういう状況だったのか不明だが「蒸し焼き」状態になって炭化したため微生物がつかず、そのままの形をとどめておよそ430年も後世に発見されることになったらしい。形をとどめた「おにぎり」遺物の確認自体が国内では初めてのことだそうだ(調べてみたところ弥生時代の遺跡から手でにぎった痕跡のある炭化米の粒が確認された例はあるようだ)
 
 「腹が減っては戦ができん」と、最後の合戦に備えておにぎりを用意したけど、食べる暇がなかったか。どうせ腹を切るんだから腹に入れても、と思ったか(汗)。このおにぎりが景虎用のものであったかはわからないが、歴史上の人物も普通に食生活を送っていたという考えてみれば当たり前のことに気づかされる貴重な発見といえるだろう。


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