ニュースな
2008年2月14日

<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事

◆戦争の世紀を生き抜いて

 2008年1月1日元旦、ドイツはケルンの療養所でエーリッヒ=ケストナーさんという男性が107歳で天寿を全うした。同姓同名の有名な児童文学者がいるが、この人はとくにどうという有名人ではなく、にわかに注目されたのはその死の直後の話。なんで注目されたかといえば、この人が「第一次世界大戦に参加したドイツ兵最後の生き残り」だったからだ。去る1月16日と20日にフランスで第一次世界大戦に参戦した兵士の存命者三名のうちの二名が相次いで亡くなり、大きなニュースになっていたそうで、それを受けてドイツで探してみたらちょうど亡くなっていたところでした、ということらしい。

 ケストナーさんは1900年生まれ。第一次世界大戦は1914年に勃発し1918年に終わっているが、ケストナーさんは終戦の年に18歳で高校を卒業し、そのまま陸軍に入隊、ギリギリのところで「参戦」したわけだ。さすがに最前線に赴くことはなく、西部戦線の後方勤務にあたっていただけだという。
 ケストナーさんは第二次大戦が勃発した時にはまだ39歳で、再びドイツ軍に入隊している。このときも後方勤務のみだったようだ。終戦後はハノーバーで裁判官になっていたとのこと。その後は特に波乱があったとは聞かないが、祖国の分断と統一とも含めた戦後の激動もまるごと見届けたことになる。妻のマリアさんも大変な長命で、2003年に102歳で亡くなるまで、実に75年も添い遂げている。シュピーゲル誌は「エーリッヒ=ケストナーさんの死で、(第1次大戦について)直接の体験を語れる人がいなくなった。 我々は永遠にその機会を失った」とその死を悼んだとのこと。

 ついでながら、その同姓同名の児童文学者エーリッヒ=ケストナーは今度亡くなったケストナーさんとわずか一年違いの1899年生まれのほぼ同世代。こっちのケストナーも1917年に第一次大戦に召集されているが、軍隊の実態に反発して大学に進んでいる。その後1920年代に児童文学作家として世界的な名声を博したが、ナチス政権が成立するとその反ファシズムの姿勢がにらまれ(ケストナー自身ユダヤ系の血も入っていた)、その著書は焚書の対象となった。それでも「ドイツ人」という自負から亡命を拒否し、自らの著書の焚書の様子を見物に行くなど独特の反骨を示し、ナチス側も人気作家ケストナーに直接的な迫害を加えにくく、「児童文学」の範疇においてその言動を大目に見たようだ。戦後は西ドイツ文壇の中心的存在となり、1974年に75歳で死去。こうしてみると同姓同名の人がいかに長命であったか実感できる。
 
 そういやTVシリーズの「ヤング・インディ・ジョーンズ」で少年時代のインディが第一次大戦の戦場に行く話があったよな、と思って調べてみたらインディアナ=ジョーンズ(ヘンリー=ジョーンズ・ジュニアが本名)は1899年生まれの設定になっていた。この人も存命なら今年109歳になるわけだ。くしくも(?)今年久々の新作映画が公開予定となっているが、1950年代が舞台になるそうで。
 今度のニュースを受けて調べているうち、第一次世界大戦に参加した各国兵士の存命者、あるいは最後の死亡者についてWikipedia英語版にリストが載っていて驚いた(さらにそれぞれ個人の解説ページも用意されている)。これによればオーストラリア、カナダ、フランス、ハンガリー、イタリア、アメリカ、ウクライナに一人ずつ、イングランドにはなんと6名も生存者がいるとのこと。このうち「ハンガリー」とある人は当時のオーストリア=ハンガリー帝国のドイツ系兵士で、現在はドイツに在住している(このため「ドイツ国内」ではケストナーさん亡きいま最後の生存者になる)。「ウクライナ」の人も第一次大戦当時はオスマン・トルコ帝国の兵士だった人だ。
 ところでこのリスト、参戦国だったはずの日本が無いのだが…兵士として参加した人に存命者がいないのだろうか?


 これだけで十分まとまるなと思っていたところ、第二次大戦に参加した一兵士の訃報が報じられた。
 1月29日、アメリカはカリフォルニア州の病院でレイモンド=ジャコブズさん(82)が老衰のため亡くなった。この方、何者かといえば、太平洋戦争の激戦として名高い「硫黄島の戦い」で、近年映画の素材ともされて再び注目を浴びた「摺鉢山の星条旗掲揚」の現場にいた海兵隊員の最後の生存者だったのだ。
 この星条旗掲揚の詳しい経緯は映画「父親たちの星条旗」あたりを見てもらった方がいいので詳細は省くが、二回行われた星条旗掲揚&写真撮影のうち、ジャコブズさんが立ち会ったのは1回目の方だったという。あまりにもよくできた構図で有名な写真の方は二回目のほうで、しかもその写真に写っていて「英雄」とされた兵士のうち一人は間違えられていたというのも映画で詳しく語られているが、当然ながらこの掲揚の現場には直接旗を立てた兵士以外にも多くの海兵隊員がおり、当時海兵隊の無線通信員だったジャコブズ氏はその一人だったというわけ。この星条旗掲揚の現場にいたと主張する元兵士たちの多くが「嘘つき」呼ばわりされる苦い経験を持っているそうで、ジャコブズ氏も1回目掲揚の写真の中に顔が明確に映っていないため長らく立ち会ったかどうか疑問視されていたらしい。だが同じ写真を含むネガフィルムに写っていることが確認され、現場にいたことが証明されたという。
 ジャコブズさんは1950年の朝鮮戦争にも出征、その後はカリフォルニアのテレビ局の記者・ディレクターとして、1992年に退職するまで活躍していたとのこと。

 第一次大戦どころか、第二次大戦も実体験者が着実にこの世を去っていく。とりあえず第三次世界大戦は起こっていないのだけれど、「戦争」そのものの体験者がまったくいなくなる…という時代が来ることがあるのだろうか?



◆スハルト、ついに死す

 訃報続き。ま、「史点」の記事の何分の1かは「あの○○が亡くなった」という話題である。現時点でも準備稿が脳内にある歴史人物が何人かいるし。

 1月27日、インドネシアのスハルト元大統領(第2代大統領)がジャカルタ市内の病院で亡くなった。86歳、とまぁ年に不足はなく、政権の座を追われてからおよそ10年、そこそこ安寧に暮らしていたようだから一時代を築いた長期独裁者の最期としては平和な死に方だったといえるだろう。失脚直後の1999年に脳梗塞で倒れてからほとんど入院生活で、ここ2年ぐらいは何度となく危篤情報が流れ、この年末年始にはいつ死んでもおかしくないと報じられ、シンガポールのリー=クワンユー元首相が見舞いに駆けつけたりしていた。僕も脳内に「準備稿」を作ったりしていたのだが(不謹慎)、そのたびに容体を持ち直し、一月中の危篤状態でもいったんは「奇跡的な回復」で危機を脱したと報じられていたのだ。えてしてそういうものらしく、その回復報道の直後に容体が急変、そのまま帰らぬ人になった。タイトルに「ついに」とつけちゃったのもそういう経緯があったからだ。

 スハルトは1921年にジャワ島中部の農村に生まれている。1940年に軍に入って軍人人生のスタートを切っている。当時のインドネシアはオランダの植民地であったから、軍と言ってもオランダ王立東インド軍だが。スハルトに軍人としての才能があったのは確かなようで、入隊してすぐに軍曹に昇進しているが、1941年12月に太平洋戦争が始まるとオランダ領インドネシアは日本軍に占領されオランダ東インド軍も解体、いったんスハルトは職を失うはめになる。その後日本軍が占領統治のために組織させたインドネシア国民軍「祖国防衛義勇軍(ペタ)」に参加、これも日本敗戦とともに解散させられるが、今度はオランダからの独立戦争に参加してここで軍人としての実績を積んでいくことになる。

 1949年にようやく独立が達成され、「独立の父」スカルノ大統領のもとで新生インドネシアは歩みを始めたが、政情はなかなか安定せず経済的にも苦しい状況が続く。スカルノは実質的な独裁体制と西欧との対決を煽るナショナリズム、そして日本からの賠償援助でこれらの難題を切り抜けようとした。1961年にはオランダと領有権でもめていた西イリアン(ニューギニア島西部)に軍事進攻してこれを領土にくわえたのもその一環だが、このときの侵攻で活躍したのがやはりスハルトだった。
 ついでにいえばこの作戦には、当時インドネシア賠償ビジネスの中心人物の一人で元大本営参謀の商社マン、昨年亡くなった瀬島龍三もインドネシア国軍からアドバイスを求められるなどして関与している。さらについでの話をすれば、いま外人タレントもどきでよくTVにも出てるデヴィ夫人は、1959年にスカルノが日本に来た折にインドネシア賠償ビジネス関係者が当時ホステスだった彼女を引き合わせ、そのままスカルノの第3夫人となったもので、その周囲には瀬島だけでなく児玉誉志夫横井英樹といった右翼や政商、大野伴睦河野一郎ら自民党有力政治家など、日本戦後政治史の影の大物がいろいろとうごめいていて面白い。だから僕などはデヴィ夫人を見てると戦後史の「生きている化石」みたいに感じちゃうのだが…

 1960年代に入るとスカルノは反西欧・親ソ連に傾斜してゆき、インドネシア共産党と結びついて権力の強化を図った。そんななか、1965年9月30日、いわゆる「9月30日事件」が発生する。この事件の真相はいまだ闇の中の部分が多いのだが公式的推移を述べれば、インドネシア国軍内の共産党系軍人らがクーデターを起こして陸軍の首脳6名を殺害、結果的に陸軍の最高位にあったスハルトがスカルノから指示を受けてこのクーデターを鎮圧した、という事件である。スハルトはこれを共産党による国家転覆計画ととらえて徹底した共産党狩りをおこない(その犠牲者は数十万人以上と言われる)、インドネシア共産党を壊滅させる。それと同時にスカルノも失脚を余儀なくされ、1966年3月11日にスカルノはスハルトに大統領権限を移譲、1968年3月にスハルトがインドネシア第二代大統領となる。スカルノは「建国の父」として扱われはするが軟禁状態に置かれたまま、1970年に死去している。

 親共・ソ連寄りの姿勢を示したスカルノに代わったスハルトは反共・親米の方向に転換した。このためこの9月30日事件自体がアメリカによる謀略だったのでは、との見方は当時から根強くある。この時期、東南アジアではアメリカがベトナム戦争に本格的に介入していて、トンキン湾事件(1964)のようなあからさまな自作自演の謀略や、各国でのクーデター演出などが実際に行われていることもその根拠になっている。またこの日のスハルトの行動も事前に共産党系軍人のクーデター計画を知っていたかのようなフシがあり、かつ「一番得する者が犯人」というミステリの王道から事件はスハルト自身が仕組んだものだったのでは、との見方も多い。
 真相は藪の中だが、結果的に政権をとったスハルトは西側寄りの外交姿勢をとり、いわゆる「開発独裁」の典型として30年もの長期政権を維持した。西側外資を導入した開発と経済発展には一定の成果はあり、この点でスハルトを「開発の父」として評価する声もある。外資と言えばスカルノに賠償ビジネスで深入りしていた日本はスカルノが失脚するとあっさりとスハルトに乗り換え、多額のODAを送って政権を支えた。スカルノあってのデヴィさんは当然「用済み」にされたわけなのだが、この人、その後も一人でしっかり資産も抱えてセレブに生き抜いてるところをみるとなかなかシタタカな人だなぁ、と思うところでもある。デヴィさんがしばしば日本の保守系の人脈で顔を出しつつ、北朝鮮については頑として擁護論を唱えることを不思議に思う人もいるだろうが、夫スカルノのこういう経緯を見ればなんとなく理解できるのではないかと。
 今度の件でデヴィ夫人にコメントとったのは僕が確認した限り毎日新聞ぐらいで、「国父であったスカルノ元大統領を3年間も幽閉し、非業の死に至らしめた罪は重く、個人的には許せない」と語ったというのが記事に出ていた。

 世界的にも異例の長期政権を維持したスハルトだったが、1997年に起こったアジア通貨危機をきっかけに国民の不満が高まり、1998年3月の大統領選挙でスハルトが7選を決めたことがかえって不満の爆発となり、学生らを中心とする民主化要求運動が一気に高まった。結局5月にスハルトは大統領辞任に追い込まれた。開発独裁政権のお約束で辞任後にスハルト自身と親族の汚職と不正蓄財が暴かれたが、スハルト自身の死去によりこうした政権の負の部分はウヤムヤになってしまうのではないかと懸念されている。また失脚後も与党ゴルカルの人脈を通して政界に一定の影響力を残していたともいう。

 スハルトが亡くなった翌日、ジャワ島中部のソロ近郊のスハルト家の墓地で彼の「国葬」が営まれ、遺言に従って1996年に亡くなったティエン夫人の隣に埋められた。なお、建国の父であるスカルノのほうは失脚した上に彼から政権を奪ったスハルトが軟禁状態に置いていた中での死であったために国葬にはされていない。
 国葬の葬儀委員長はユドヨノ現インドネシア大統領で、「故人はインドネシアの発展のため人生のすべてをささげた。わが国は真の兵士で、すばらしい政治家を失った」と弔辞を読んだ。葬儀はインドネシア政界・財界やスハルト政権時代の元閣僚ら国内有名人士のみならず、周辺国の元首クラスも参加して参列者2000人に及ぶ盛大なものとなった。日本からは駐インドネシア大使のほか、政府特使として山崎拓(日本・インドネシア友好議員連盟会長)が参列したとのこと。さすがにスカルノの娘であるメガワティ元大統領はシンガポールを訪問したまま参列は見合わせたそうだ。

 また空港から墓地までの沿道には数千から数万とも言われる群衆が押し寄せてスハルトの死を悼んだといい、マスコミも一部の政権時代の批判を加えつつもおおむね追悼ムード一色であるという。
 ところでその群衆がいたために葬儀に遅れたVIPもいた。一人はマレーシアのマハティール前首相。そしてもう一人は、かつてスハルトによって併合され、スハルト失脚後の混乱に乗じる形で独立を果たした東ティモールのグスマン首相(去年まで大統領)だ。この国葬出席から間もない2月12日にグスマン首相はホルタ大統領とともに対立する武装勢力の銃撃を受け、ホルタ大統領が重傷を負い、現在も容体が深刻との報道が流れている。東ティモールも独立後なかなか大変なようである。
 


◆わたしはそこにいません

 人が死んだ話が続いているが、今度はとっくの昔に死んだ人の話。

 1月30日はインド独立の英雄マハトマ・ガンディーが暗殺されてからちょうど60周年だった。つまりガンディーの暗殺は1948年1月30日のことだったわけだ。その前年にヒンドゥー教徒を多数派とするインドとイスラム教徒を多数派とするパキスタンは分離してイギリス植民地から独立を果たしており、「ひとつのインド」での独立と宗教間の和解を必死に唱えたガンディーは「身内」であるヒンドゥー教徒から「イスラムに融和的」とみなされ、暗殺犯もヒンドゥー過激派の人物だった。もっとも当人は銃で撃ちながら「マハトマ(偉大なる魂)は無事であれ」と祈っていたとの話もあり、その心情はかなり複雑なようだ。

 ガンディーといえば「非暴力・不服従」。暴力による支配に対抗するには暴力によらない抵抗が有効、という実例を示し、その後の世界中の様々な運動に大きな影響を与えた「戦術」だ。しかし念願のインド独立を実現した矢先に「身内」の間の暴力の応酬が目の前で起こり、それに苦悩するうち自らも暴力によって命を奪われることになったのは悲しい皮肉といえよう。撃たれた瞬間、ガンディーは両手を額に当ててイスラム教徒が行う「あなたを許す」というジェスチャーを見せ、「おお神よ」とつぶやいて息絶えたと伝えられている。
 
 その遺灰はガンジス川に流されたはず…と思っていたので、このたびの60周年記念で「ガンディーの遺灰がアラビア海にまかれた」とのニュースには「え?まだあったの!?」と驚いちゃったものだ。もしかしてインドだけに、お釈迦さんの遺骨の仏舎利(ぶっしゃり)みたいにドンドン増殖したりするのかしら、と変なことまで考えたのだが、なんでもその遺灰はインド人実業家が保存していたもので、去年ムンバイのガンディー記念館に寄贈されたものだそうな。ガンディーの遺体が火葬にされた際に遺灰はあちこちのゆかりの地に贈られたり、知人に分配されたりしているようだから、この実業家の人もそういう関係で入手していたものだと思われる。ということはガンディーの遺灰はまだまだ各地に残っているわけだな。
 この実業家から寄贈された遺灰は、ムンバイで行われたマハトマ=ガンディー追悼式典の中で、ガンディーのひ孫の手によって、アラビア海に流されたとのこと。

 インドとパキスタンといえば、長らく激しい対立関係にあって、いまだってくすぶってはいるのだが、インドにヒンドゥー至上主義政権があったころよりはずっと改善している。現在インドを率いるシン首相はシク教徒(乱暴に説明すればヒンドゥーとイスラムの「あいのこ」の宗教)ということも対立緩和に貢献しているのかもしれない。
 しかしパキスタン国内ではどうも不穏な情勢が…ブット元首相が暗殺されたのは昨年末のこと。その背景についてはいまだ判然としないことが多いが、僕にはインドにおけるインディラ=ガンディーラジブ=ガンディーの母子二代首相の暗殺を思い起こさせるものがあった。ブット元首相の政党の後継者にいきなりその18歳の息子さんが引っ張り出される、ってあたりにもやっぱりインドとパキスタンって文化的にはよく似ているような…。それにしても暴力で政治・外交を動かそうとする例はあとを絶たず、ガンディーの非暴力・不服従の思想が改めて見直されてほしいものだ。



◆二つの歴史的謝罪

 過去の歴史問題で政府が謝罪を表明したりするのは、何も敗戦国ばかりの話ではない。最近はヨーロッパ各国でもかつて植民地にしたアフリカやアジアの国々に謝罪を表明する事例は増えているし、国内の少数民族や先住民族に対する過去の行為について現在の政府が謝罪を表明する事例も出てきている。意地悪なことを言えば、そうした問題が現実に進行している時には何もせず、ほとぼりが冷めて影響が少なくなったころに公式に謝罪する、というパターンが目につくのだが。

 これも正直なところ「今さら」と思うところもあったのだが、政府として歴史に真摯に向き合う姿勢を示したということではやはりひとつの「けじめ」を示したことにはなるのだろう。2月13日にオーストラリア議会は、過去にオーストラリア政府が進めた先住民アボリジニに対する同化政策について「深い悲しみと苦悩を与えた」とする謝罪決議を採択した。この謝罪決議は昨年秋の総選挙で勝利し政権を獲得した労働党が公約として掲げていたもので、ラッド首相は議場で決議文を読み上げ、首相として謝罪演説も行っている。

 このたび謝罪が表明されたアボリジニに対する過去の同化政策とはどのようなものか。
 1910年代から1970年代まで、なんと60年もの長きにわたって続いていたというから驚くのだが、歴代オーストラリア政府はアボリジニの子供を親元から強制的に引き離し、白人家庭や施設で養育するという政策をとっていた。この政策は彼らに言わせれば「未開」で「非文明的」なアボリジニを「文明的」な白人社会に同化させようという、されるほうからすれば余計なお世話だが、やってるほうは半分親切心からだったりするという、歴史上世界各地でみられた発想に基づいていた(教会も深く関わっているあたり、さもありなん)。それでも強制的に子供を親から引き離すという誘拐そのものといってもいいやり方には引け目もあったか、この政策は表向き極秘のうちに進められていたという。

 そもそもオーストラリアは20世紀の長い期間、オーストラリアを白人のみの世界とする「白豪主義」を推し進めた歴史がある。主に中国や日本などアジア系の移民を排除する意図があったものだが、それは国内にもともと住んでいたアボリジニに対しても向けられていた。大陸から追い出すわけにもいかないので白人社会とは無縁の地域に隔離する、あるいはこの政策のように「白人化」を推進するという方向でそれが行われた。1967年に憲法が改正されるまでアボリジニは法的には「人間」とみなされず、参政権もなかった。悪名高い南アフリカのアパルトヘイト政策にも匹敵する人種差別政策の例と言えるだろう。
 この誘拐まがいの同化政策が表面化し問題とされたのはここ10年ぐらいのことで、僕自身は未見だが数年前にこの史実を素材にした映画「裸足の1500マイル」(2002年)の公開もあって広く知られるようになった。そういえば2000年開催のシドニーオリンピックで最後の聖火ランナーがアボリジニの女性だったが、これもそうした負の歴史の直視と連動したものだったのだろう。1997年の調査により実態が明らかとなって政府による公式謝罪や損害賠償の勧告がなされたが、ハワード前首相は「遺憾」という表現は使ったものの公式謝罪を拒否してきた経緯がある。

 この政策のもと、アボリジニの子供の約1割が親元から連れ去られたと言われ、その数は10万人にも上ると推定される。彼らは「盗まれた世代(StolenGeneration)」と呼ばれ、家族や文化・アイデンティティの喪失(肉親がどこにいるかすらわからない!)、結局は教育も不十分で差別もあるため白人社会に溶け込めず、辛い人生を送る人も多かった。今回の謝罪決議は直接的にはこの「盗まれた世代」に対する謝罪だ。
 オーストラリアの首都キャンベラにある連邦議会議場には100人のアボリジニが招かれ、屋外では数千人のアボリジニが大型スクリーンで決議と首相の演説を見守った。シドニーやメルボルンなど全国各都市でも屋外スクリーンによる中継が行われ、アボリジニたちがこれを見ていた。ラッド首相が「盗まれた世代に、崩壊させられた家族に、政府代表としておわびします」と述べ、最近面会した80代のアボリジニの女性について「4歳の時にトラックで連れて行かれ、母親に2度と会えなかった。これが自分の身に起こったらと考えてほしい」と語ると、議場内のアボリジニたちの中には涙をぬぐう人もいたという。ラッド首相は「今回の謝罪は子どもたちの肉親探しやアボリジニの生活改善に取り組む新たなアプローチの始まり」とし、全国のアボリジニはこの「歴史的な日」をアボリジニ伝統の踊りや音楽で祝ったとのこと。
 ただし今度の謝罪は過ぎ去った過去の政策について政府として謝るものであって、損害賠償等には応じないというのが労働党政権の基本方針らしい。肉親探しや生活改善にとりくむ、ということでその代わりにするということなのだろうが、賠償を求める声が高まるのは避けられないともみられている。
   ともあれ、政権交代が実現したからこそ政府としてこういうことが出来たわけなのだが、この労働党政権は日本の調査捕鯨問題でもかなり感情的な強硬姿勢(少なくとも日本人からはそう見えるが、欧米文化圏ではこの手の声が大きいのも確かで…)なのでクジラが食いたい日本人としてはいささか困った人たちでもある。クジラ問題も多分に「文化的同化政策」って気がするんですがね、私にゃあ。


 「二つの歴史的謝罪」のうち一つの話が長くなってしまった。もう一つは無理やり一緒に並べた、まぁオマケみたいなものだ(笑)。
 去る1月31日、元アルゼンチン・サッカー代表MFにして「神の子」の異名までもつディエゴ=マラドーナがイギリスの新聞「サン」との会見で、1986年のサッカーW杯メキシコ大会の準々決勝、対イングランド戦における伝説的な「神の手ゴール」について「もし謝罪して、昔に戻り、歴史を変えられるなら、そうする」と発言、公式にあれが手で押し込んだゴールであったことを認めた、と報じられた。もっとも「ゴールはゴールだった。アルゼンチンは優勝し、私は世界最高のプレーヤーとなった」「私に歴史は変えられない。前に進むだけだ」とも述べ、謝罪してもいいけど謝罪はしないよ、という姿勢を示したという。
 サッカー史に詳しい人には説明の必要もなかろうが、このメキシコ大会はマラドーナを擁するアルゼンチンの優勝に終わって「マラドーナのためのW杯」とまで言われたほどで、中でもこのアルゼンチン対イングランド戦は伝説的一戦となっている。後半4分にマラドーナがイングランドゴール前でヘディングゴールを狙いに行ってGKと競り合ううち、ボールがマラドーナの左手に当たってゴールに入ってしまった。これが本人の故意であったかどうかは本人のみが知ることだが、イングランドの抗議にも関わらず審判はこれをハンドと確認せずゴールを認めた。のちにマラドーナ本人が「飛んだ瞬間、目の前が真っ白になって神が僕に手を差し伸べた。あれは神の手によるゴールだ」と発言したため「神の手ゴール」の名がついちゃったわけだが、当然イングランド国民は激怒しこのゴールを「悪魔の手」と呼んだとかなんとか(笑)。しかしマラドーナはこの「神の手」の4分後、これまた伝説的な「五人抜きゴール」をやってのけてしまい、それもあって「神の手」の一件は「神の子マラドーナじゃしょうがないか」って感じに受け止められてしまうことになる。この試合は2−1でアルゼンチンの勝ちになっているため、「神の手」がなければイングランドは負けなかった可能性もあり、イングランドではこの件は長年の怨念としてくすぶっていたわけだ。
 もっとも報じたのが「サン」だけに…日本でいえば夕刊フジとか日刊ゲンダイ、スポーツ新聞各紙みたいなもんだし。この報道が出るとすぐにマラドーナ本人は「神の手ゴールをハンドだと認めた」ことは否定している。まぁマラドーナ自身も言動がかなりヘンなのはすでによく知られているところで(笑)。



◆燃えた、燃えたよ、燃え尽きたよ

 2月10日、韓国の首都ソウルの象徴的建物であり、「ソウルから中継です」という場面ではたいてい背景に入っている有名な建物であり、格闘ゲーム「餓狼伝説」シリーズでキム=カッファン(PCエンジン版ではよく使ってました)のステージとなっていた「南大門」(正式には崇礼門)から火の手が上がった。その第一報を僕は仕事から帰ってPCつけてすぐに知ったのだが、その段階では煙がくすぶってる程度に見えたので「内部は焼けるかな」ぐらいにしか思わなかった。ところが翌日になってみたらほぼ全焼、2階部分はものの見事に崩壊してしまっていて驚いた。
 まぁなんともったいないことを…しかも放火。犯人は69歳の老人で、日本でも時々ニュースになる行政ストーカーのタイプである。土地売買で不満があったとのことで、すでに2006年に「昌景宮文政殿」に放火した前科があり(ボヤ程度で済んだみたいだが)、執行猶予で有罪判決を受けていたが、今度はもっと目立つやつを狙おうと思ったそうで、昨年7月ごろから南大門の下見をしていたと報じられている。ここまでストーカーに狙われちゃあ南大門も逃げようがなかっただろう。
 ただ燃えてるのがなまじ「国宝第1号」(韓国の大統領専用機は「空軍第1号(エア・フォース・ワンの直訳)」だったな、そういえば)の文化財だけに消防士たちもどこまで突っ込んで作業すればいいのか困ったようだ(また、「慎重にやれ」との指示が出てもいたらしい)。対応が遅れたのは間違いないようで、あれよあれよという間に二階部分が焼け落ちるという悲惨な結果になってしまった。韓国国内では放火犯当人に対してはもちろんのこと、国宝をみすみす燃やしてしまった行政側への批判が多く上がっているように見える。

 この南大門、1392年に李成桂(イ・ソンゲ)によって朝鮮王朝が創設され、新首都が漢陽、すなわち現在のソウル(韓国語で「みやこ」の意)に定められたときにその南側の正門として建造された。1398年にいったん完成を見ているが、このたび焼失したものの原型は15世紀中ごろに改築されたもの。「崇礼門」という正式名称は朝鮮が中華世界の宗主国である明の使節を迎える正門であったことから「礼を崇める」にちなんでつけられたそうで、琉球における「守礼門」と同じような意味合いなのだろう。
 1907年に日本の皇太子(のちの大正天皇)が訪問する際に周辺の街路が整理され、南大門の両脇に続いていた城壁も取り払われて門だけが残る現在の形となった。その後の日本統治時代に朝鮮総督府が文化財保護を目的にこの門を「宝物第1号」に指定し、これが独立後に「国宝第1号」にシフトする形となった。それもあって韓国でも一部にはこの門を「第1号」としていることに疑問の声もあったみたい。数年前から南大門の両脇の城壁を再建しようとの声も上がっていたというが、結局実現してないところをみるとその絡みで反対もあったかな?

 この南大門は16世紀の豊臣秀吉による侵攻や17世紀の清軍による侵攻にも耐え抜き、さらには20世紀の朝鮮戦争でもソウルの激戦で一部が損傷したもののしっかり生き残った。韓国では現存最古の木造建築となっていたのだが、戦争ではなくストーカーによって焼失するハメになったというあたり、「世の無常」を感じてしまうな。
 同様の歴史的建造物の焼失は日本ではなんといっても京都の金閣の例がある。足利義満による創建は1397年のことで、偶然にもソウル南大門の歴史とほぼ重なる(ついでに言えば金閣も明の冊封使を迎える建物という側面あり)。義満の息子の足利義持は父の死後その豪邸を取り壊したが、金閣だけはそのままにした。その後、京都人が「この前の戦争」と表現するという都市伝説もある応仁の乱(1467)で京都が焼け野原になるなか焼失を免れ、こちらもまたしぶとく20世紀までもちこたえた。しかし1950年(昭和25)、当時21歳の見習い僧が放火したため焼失、現在みられるものは昭和30年に再建・復元されたものだ。
 この金閣放火事件は三島由紀夫水上勉が小説の題材にし、つい昨日亡くなった市川崑監督の映画にもなっている。それぞれその放火犯の動機、心理を解き明かそうと挑んだものだが、今度の南大門放火犯については主人公がご老人だけに芸術作品にはなりそうもないような…ソウルの南大門も復元される予定らしいが、2年以上はかかるだろうとのこと。


2008/2/14の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>

史激的な物見櫓のトップに戻る