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2008年3月27日

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◆今週の記事

◆遥かなるチベットの歌

 これ以前にチベットで騒乱が起こったのは、実に19年前の1989年3月のことだった…という記事を見て、「あれ、そうだったっけ?」と自分でも驚いたものだ。1989年といえば平成の元年、2月に手塚治虫が亡くなり、6月に天安門事件が起こり、秋にはベルリンの壁崩壊と東欧諸国の革命が起こるという、内外ともにとんでもなく激動の年だ。とくに中国がらみでは天安門事件のインパクトが強すぎて、その直前に起こっていたチベット騒乱の方は僕の記憶から消えてしまっていたらしい。この年のノーベル平和賞をダライ=ラマ14世が受賞しているのは天安門とチベットの両方をからめての決定だったのだろう。
 それからだいぶ後になって聞いた話だが、僕が大学でお世話になった恩師は「天安門事件」直後、「こんな民衆を抑圧する政権は歴史の必然としてすぐに滅びる!」と吠えていたそうである。その直後に東欧革命、ソ連崩壊と続き、「中国崩壊」説も延々と叫ばれ続けたが、結局そんなこともないまま20年近くが経ち、なんだかんだで急激な経済成長を遂げ、オリンピックもやろうかという状況になっちゃってるわけ。歴史家でも未来予測はなかなかつかないものなのだ。先日90歳で亡くなったSF作家アーサー=C=クラークだって2001年を待たずしてソ連が崩壊してしまうとは予測できなかったわけだし(宇宙開発予測については冷戦を背景とした米ソの開発競争がそのまま続いていればかなり正確だったのだが)、人間社会の動向の予測はやっぱり難しい。クラークと共にミスターSFと呼ばれたアイザック=アシモフが作中に登場させた、人類社会の動向を数学的に予測する「心理歴史学」でも発明されないと…

 話をチベットに戻そう。「チベット動乱」の報道が世界的に始まったのは3月14日あたりからだったと思う。その後の報道によれば3月10日からチベット人によるデモ活動は行われていた。この「3月10日」は1959年の「チベット動乱」の発端となった日付で、今年で49周年。来年の50周年の節目ではなく今年一斉に行動が起こったのはやはり北京五輪とのからみがあったと思われる。
 僕は騒ぎが大きくなる直前の3月12日にたまたま市内の図書館へ行き、『チベットを知るための50章』(明石書店)という本を借りている。そのとき特に意識もしなかったのだが、あとから思い返せばすでにこの時点でインド国内の亡命チベット人による大規模なデモが発生、亡命政府のあるダラムサラから県境を出たところでインド警察によって大勢が逮捕された(インド政府は亡命チベット人による国内での反中政治活動は認めていない)、というニュースをチラッと目にしていて、それで次の「史点」材料に…とでも考えたようだ。それが直後に大騒ぎになって自分で驚いたわけで。

 チベット自治区のみならず四川・青海・甘粛といった省でもチベット人と漢族の衝突、中国官憲による鎮圧、といった事態が起こっている。すでにかれこれ二週間が経過したところで、正確な情報がなかなか分からないが、チベット亡命政府としては現時点で140名以上の死者(漢族を含むのかどうかわからない)が出たと発表していて、控えめに見てそのぐらいの犠牲者が出たことは間違いないだろう。僧侶が先頭に立って主導している光景などは昨年秋のミャンマーにおける反政府デモとその鎮圧にかなりだぶって見えた。そういえばあちらはアウンサン・スーチー、こちらはダライ・ラマとノーベル平和賞受賞者で欧米を中心に熱心な支持があるところも共通している。ただ日本の保守系の方々の中にはなぜかミャンマーについては軍事政権を支持してアウンサン・スーチーさんを執拗に嫌う人達がおり、元駐ミャンマー大使のデモ分析の文章(ミャンマー軍事政権がそのまま「海外の声」として宣伝に利用したそうで)を読んだら今度のチベット騒乱の件での中国政府の公式見解と瓜二つでビックリさせられたものだ。
 ミャンマーのデモ発生の時、同国では強い影響力をもつ僧侶たちが主導したことから、もしかすると山が動くかな…という予測を僕はしたのだが、結局見事に外れた。騒ぎは軍事力によって収束に向かい、ひところ騒いだ世界各国もいつしか静かになり、国連のガンバリ特使のガンバリにも関わらずミャンマー政権はビクとも動かず、嵐が過ぎ去るまで待っていた。そういう前例が直近にあるもので、僕などはチベット騒乱も同じパターンになるんじゃないかなぁ…という予感があるのだ。もちろんそれだって外す可能性は高いわけだけど。

 人権にはうるさい西ヨーロッパ諸国を中心にオリンピックボイコット論(開会式のみの論が主流)はあるが、政府レベルでは思いのほか静かなものだ。そしてなんといっても自由と人権のためなら戦争も辞さないはずのアメリカ政府(もちろん皮肉だ)がえらくおとなしい。間の悪いことにこのデモが起こっていた最中の3月11日にアメリカ国務省は毎年恒例の「人権報告書」での「独裁政権下で組織的な人権侵害が行われている国」リストから、毎年常連だった中国を外している(笑)。ブッシュ大統領は北京五輪開会式出席に依然としてかなり前向きの姿勢を示しているし、チベット問題についても「懸念」を表明したり「対話」を提案したりする程度だ。サブプライムローンだなんだで経済が大変なときに国債を大量に買ってくれてる中国政府に頭が上がらない、ってこともあるかもしれないが、考えてみりゃテロリストとも無関係で大量破壊兵器も持ってなかった国にいいがかりをつけて戦争をしかけ、その国民を8万人、自国兵士も4000人死なせた上で「戦争は正しかった。その死を無駄にしてはならない」とのたまう大統領である。横暴な大国政権同士気が合うところもあるんだろう。

 中国は今度の騒乱を「ダライ一派の計画的扇動」ということで片付けようとしている。ダライ・ラマ本人はむろんこれを否定し嘲笑しているが(検尿でも何でもしろ、って言ってたな)、当人はあくまで非暴力主義、独立は求めず「高度な自治」を要求、中国のチベット支配についても「文化的虐殺」というあくまで文化・宗教価値観にしぼった表現を多く使う。そして中国の胡錦涛主席に会うため北京に行ってもいいし、北京五輪についてはボイコットどころか「開催を支持する」という姿勢を表明してもいる。またチベット人側の暴力行為も戒め、暴動が拡大して事態収拾が困難になった場合には「退位」という最終手段を用いると牽制もしている(前にも同様の発言で強硬派を牽制したことがあるらしい)。もっともダライ・ラマという地位が「退位」できるとはちょっと思えず、あくまでチベットの精神的指導者という地位から降りる、ということなんだろうけど。

 中国が認めるわけのない「独立」はあえて主張せず、文化・宗教面を強調した「高度な自治」を求めるというのは現実的戦略でもある。インドのガンディーにも通じるその非暴力主義が欧米を中心とする人々の支持を受けてる大きな理由ではあるのだが、こうした姿勢が何も事態の改善を招いていないとしてチベット人の中にも批判の声があるのも事実。とくに今回の事態を受けて亡命チベット人のNGO「チベット青年会議」の議長が会見で公然と対話路線の修正を求め、ダライ・ラマの北京五輪支持発言に「失望」と明言、「チベット亡命政府はすでに民主化しており、ダライ・ラマはあくまで象徴的元首」とする発言もあったようだ。
 またこうした強硬派の間ではデモを抑え込もうとするインド政府に対する批判の声も上がっている。もともと中国のチベット侵攻はインドとの対抗上、という背景もあり、だからこそダライ・ラマらチベット人たちはインド国内に亡命しているのだが、インドもまた中国に対抗してシッキムやコンポといった広義の「チベット」地域を占領している。中国とインドはこれらの地域をめぐって国境紛争を起こして激しく対立を続けたが(中ソ紛争も絡んでソ連がインドに味方していた過去もある)、ここ最近は経済成長・人口増大大国同士利害が一致するようで、2003年に当時のパジパイ首相の中国訪問時に中印国境の画定を確認しあい、ひとまずシッキムはインド領、チベットは中国領とお互いに認め合ってしまった。これを独ソの「ポーランド分割」に例えて批判するチベット人もいるようだ。またインドにしてみても自国内にひとつの「国家」が存在するのは正直鬱陶しいのではなかろうか。

 チベットが世界的に強い支援を集める一方であまり日が当らず、今回の騒ぎの中「我々だってチベット同様の迫害を受けている!」と亡命組織が会見を行っていたのがウイグル人たち。この会見をした人たちはあくまでチベットと同じく「非暴力」を標榜しているようだが、こちらにはあまり欧米の味方が集まらない気がするのはやはりイスラム教徒だからなんだろうなぁ。中国にしてみるとこっちは中央アジアのイスラム圏とも接しているため、本音のところチベットよりもこっちの火種が発火する方が怖いんじゃないかと僕は思う。
 欧米でチベットに注目が集まる背景にはチベット人自身の活動もさることながら、昔からチベットに対して「神秘の国」「最後の秘境」「癒し系宗教」のイメージをもつ「チベット・オリエンタリズム」の伝統があったことも挙げられる。それがやや独り歩きする傾向も見受けられ、1957年に亡命チベット人になりすましたイギリス人によって書かれた「第三の眼」なんてトンデモ本がベストセラーになっちゃった例もある。ベルトルッチの映画「リトル・ブッダ」もモロにチベット仏教を仏教そのものとして描いており、イギリス訪問時に仏教徒のはしくれを自称していた僕などにはかなり違和感を感じる内容だったし。そういう背景もあって僕などは欧米におけるチベット支援ムードというのもファッション的で底が浅いという印象も持っている。例えが悪いが捕鯨反対で騒ぐ人たちとどこかイメージが重なっちゃって。もちろん人権問題として本気で支援している人がいることも否定はしないが。

 チベット騒乱の直後に行われた台湾総統選は、この煽りで守勢に立たされたとも報じられた国民党の馬英九党首が結局圧勝、国民党が8年ぶりに政権奪還を実現することになった。「史点」では3度目の台湾総統選で、一度目は予想外の陳水扁政権誕生、二度目はなんと銃撃事件発生で陳水扁2選、と毎度予想外の事態が起こっている。だから今回チベット騒乱が直前に発生したのでもしや…とも思ったのだが(いつまでも態度を明確にしなかった李登輝前総統が投票二日前になって民進党候補支持を表明したのも同様の発想があったんじゃないかと)、結局フタを開けてみれば当初の下馬評のまんまの大差でチベット問題はほとんど影響しなかったみたい。もっとも馬英九次期総統はチベット問題では強く中国批判をして五輪ボイコットも口にしたから(選挙中の発言ではあるが)前党首の連戦氏ほどは「国共合作」方針はとらないものと予想される。結局のところ「現状維持が一番いい」ってのが台湾住民の平均値なんだろうな。

 チベット人どころか漢族にだって武力鎮圧を辞さないあの中国共産党政府のことだからダライ・ラマ側への強硬姿勢をそうそう改めないとは思うが、一応2002年から円卓会議で交渉は持っており、ある時点でまさかの電撃的対話、ってこともあるかなぁ…とかすかに期待しているところもある。というか、ダライ・ラマだっていつ「転生」するか分からない。交渉相手を失ってからだとよけいに泥沼になる恐れもあるから、なんとか話を進めるのが賢明だと思うんだけどね。冷徹なことを言うと、対話派と強硬派を分断するという政治的判断をする可能性はあるんじゃないかと。



◆悠久の銀行帝国

 リヒテンシュタインという小国がある。スイスとオーストリアにはさまれたアルプスの山の中にあり、面積は160平方キロメートル、人口は3万3000人ちょっと。一院制の「国会」の議員の数は25人。国というより「市」のレベルといっていい小国だ。あの「カリオストロ公国」のモデルと噂されるのも納得のいく話。
 ヨーロッパにはモナコなどこの手のミニ国家がいくつかある。日本でいえば江戸時代の「藩」がそのまま現在まで残っちゃっているようなもので、モナコにもリヒテンシュタインにも「藩主」にあたる「公」(「公爵」よりは扱いが上で「大公」と訳されることもある)と呼ばれる世襲君主がいる。とくにリヒテンシュタインは立憲君主制をとりつつも「公」が一定の政治権力を保持しており、「ヨーロッパ最後の絶対君主国」と呼ばれることもあるそうで…なおこの国、女性参政権も1984年になってようやく認められたって国なんですな。

 リヒテンシュタインは国民から直接税を一切徴収していない。国内にある企業からの法人税で国庫がまかなえてしまうためだ。なんとリヒテンシュタインには3万人の国民の数を超える企業が存在すると言われている。なんで?といえば、この国、タックス・ヘイブン(租税回避地)として有名な国の一つで、税金を逃れるためにこの国に籍を置く外国ペーパーカンパニーが多数存在しているからだ。この国の銀行に預金口座がある外国人・外国企業は数多く、リヒテンシュタインは国家としてこれを保護して銀行口座の秘密を守り、彼らの納める法人税がこの国の重要な収入源になっているわけ。
 となれば、これが隠し資産やマネー・ロンダリングに利用される恐れが高くなるのは当然というもので、以前からリヒテンシュタインはOECD(経済開発協力機構)から「非協力的タックスヘイブン」としてモナコと共にマークされてきた。8年前にモナコのマネー・ロンダリング疑惑をフランスが追及しようとしたところ、当時のモナコ大公・レーニエ3世が猛反発、結局ウヤムヤになった例もあり、こうした小国が生き残るための常套手段と言えるようだ(2000年11月5日「史点」)

 先月、ドイツ警察当局がリヒテンシュタインの主要銀行LTGの元職員から、同銀行の顧客情報を入手した。もちろんただではなく、420万ユーロ(約7億円)という巨額を払って入手したのだという。この顧客リストの中にドイツポスト会長クラウス=ツムウィンケル氏の名があり、同会長は脱税容疑で警察に事情聴取・家宅捜索され、会長辞任に追い込まれた。「ドイツポスト」とは民営化された同国の郵便会社で、小泉政権の郵政民営化がこのドイツポストを手本にしたことはよく知られている。そう聞けばいかに大物であるか、いかにドイツ政財界が大騒ぎになったかが想像できる。ドイツ警察当局によればこのドイツポスト会長だけではなく、ドイツ国内の事業家、スポーツ選手、芸能人などおよそ1000名もの資産家の隠し資産が同銀行に眠っている可能性があるとかで、すでに100人が脱税を認めてすでに2800万ユーロ(約45億円)もの追徴課税がなされ、全部判明すれば脱税の総額は40億ユーロ(約6400億円)にも及ぶとの予測もあるそうだ。ドイツ史上最大の脱税事件であり、警察当局者が顧客情報の買い取り額について「安い投資だった」と胸を張るのもよくわかる。
 話はドイツだけにとどまらない。イギリスも独自ルートでリヒテンシュタインの銀行の顧客情報を入手し(やはり金で買い取り)、フランス、アメリカ、スウェーデン、イタリア、スペイン、オーストラリア、そして日本の当局にも情報が共有され、各国で捜査が進められているとのこと。この大脱税事件にはリヒテンシュタインに子会社を置くスイスの民間銀行の深い関与もささやかれるあたり、いかにも、って感じもある。

 モナコのときと同様、この事態にリヒテンシュタインは激怒した。大公自身が発言するのは控えているのか、アロイス皇太子(慣習でこう書いちゃうけど、厳密には「公太子」だよな)「銀行から盗まれた情報を多額の金で買い取った」としてドイツ当局の手法を批判する発言をしたと報じられている。また発言者を確認してないのだが「大国による小国いじめ」「国家権力の増大に対し、市民の私的権利は確保されるべきだ」といった「反撃」もしているらしい。確かに顧客情報の流出という事態は「お得意様」たちの信用を失う=国家の存亡にかかわる一大問題だよな。
 そしてこんな「意趣返し」をしていることも報じられている。ドイツのミュンヘンにあるノイエ・ピナコテーク美術館が5月に開く絵画展で、リヒテンシュタイン美術館(ウイーンにある)やリヒテンシュタイン内のファドゥーツ城に所蔵されている160点以上の絵画を借り受ける約束になっていたのを、リヒテンシュタイン側が3月中旬になっていきなり反故にしたのだ。その理由についてリヒテンシュタイン美術館館長は「脱税問題でのドイツ政府の対応を考えれば、この決定は当然」と述べて脱税捜査への意趣返しであることを明言、リヒテンシュタイン公国も「ドイツの態度が法治国家の原則に基づくか疑わしい」とまで言ってるそうな。いや、しかしだからって脱税の片棒かついで稼ぐのは法治国家なんですかい?(笑)
 なるほど、カリオストロ公国がリヒテンシュタインをモデルにしてる、ってのがよく分かってくるような。
 


◆2008年仏像の旅

  京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の常楽寺には、鎌倉時代に生きた浄土真宗の宗祖・親鸞(1173〜1262)の木像がある。高さ24cmとミニサイズのこの木像自体は江戸中期の作とみられていて、その姿もあくまで想像上のものだ。ところがその木像の胎内から親鸞本人の遺骨と思われる骨粉が見つかったというから驚きだ。
 朝日新聞の記事によると、発見のきっかけは昨年の秋、同寺が所蔵する親鸞の肖像画の掛け軸を調べたことだった。掛け軸の軸木に「親鸞の遺骨を銀の筒に籠め、宝永3年(1706)に遺骨を取り出し、宝塔に納めた」という墨書が書かれているのが確認されたのだ。浄土真宗は宗祖・親鸞の血脈を継ぐ子孫が指導的立場にたつという独特の伝統があり、この常楽寺も南北朝時代に生きた親鸞の孫の孫・存覚(1290〜1373)によって創建されている。その存覚は父・覚如(つまり親鸞のひ孫)から親鸞の遺骨を受け継いだとされ、寺には実際に親鸞の遺骨をおさめた宝塔が存在していた。つまりいったん銀の筒に納められていた親鸞の遺骨は江戸時代の半ばに取り出されてその宝塔に移されていた、ということになる。そして代々の住職には「親鸞木像の胎内にも遺骨が納められた」と言い伝えられていたため、じゃあその宝塔に納めた時に、同時代に作られた木像にも「分骨」されているんじゃないか?ということで、木像を分解してみることになったわけだ。
 寄木作りの木像の首を外して中を調べてみると、その胸付近に和紙にくるまれた骨粉が発見された。これが本当に親鸞その人の遺骨なのかどうかはDNA鑑定でもやってみないと確定できないのかもしれないが、寺の伝承だけにお釈迦さんの遺骨「仏舎利」よりは信用できるだろう。


 その親鸞と同時代を生きた有名な仏師が運慶(?-1224)だ。恐らく日本史上の仏師で知名度は一番ではなかろうか。なんといっても東大寺南大門の金剛力士像の製作総指揮者として有名だ(伝承でそう言われてきたが平成の解体修理の折に胎内文書に明記があったことで確認された)。そのほかにも多くのすぐれた仏像・肖像彫刻を残しているが、さすがに800年も前の人とあって現存する彼の真作はそう多くはない。
 栃木県足利といえば、もちろん後の室町将軍家・足利氏のルーツとなった土地。足利尊氏の6代前のご先祖(祖父の祖父の祖父)で鎌倉初期を生きた御家人・足利義兼が作らせたという厨子入り大日如来像が足利市内の光得寺に残されており、この仏像については専門家による調査で運慶作品と断定する論文が1988年に発表されている。それから15年経った2003年になってその論文を読んで「自分が所蔵する仏像が光得寺の仏像とよく似ている。もしや運慶作ではないか」と専門家に調査を依頼してきた個人がいた。
 足利にある足利一族の菩提寺・鑁阿寺(ばんなじ)の文書に、建久4年(1193)に足利義兼が先立った子供二人(同日死去なので伝染病との説もある)の供養のために先祖伝来の鎧を売って大日如来像を造らせ義兼が創建した樺崎寺に納められたという記録がある。その後この大日如来像は明治初期の神仏分離令のあおりで行方不明となっていたが、この個人が持っていたものこそがまさにそれにあたると推定された。形状は光得寺にあるものと確かによく似ており、X線写真で胎内を調査したところ運慶作品によくある五輪塔型の木札、水晶玉、仏舎利をおさめた水晶製五輪塔などが納められていることが確認され、やはり運慶作品に間違いない、という鑑定結果となった。

 この大日如来像こそが、つい先日海外オークションに出品されて話題を呼んだ、あの仏像だ。この大日如来像を所有している個人は「美術商から入手した」と話しているそうで、あくまで普通の一個人らしい。
 この像が運慶作と断定された直後に足利市の市民文化財団で買い取りを模索したが、像を寄託されていた東京国立博物館が買い取りの意向を示していたので断念。ところが所有者が示した買い取り額が8億円という巨額であったため、こちらも断念するはめになっている。文化庁にはこうした文化財を買い取るための予算が2006年度の場合総額12億円で、一見「買えるじゃないか」と思えるが、他にも40点ほど買い取る候補があるため想定限度額が4億円程度、その個人がその倍もふっかけてきたためあきらめたということだそうだ。
 文化財保護法では国宝・重要文化財の海外輸出は禁止されている。しかし重要文化財指定は所有している当人の同意が必要で、指定を受けるとさまざまな保存のための義務が生じることから指定をきらう所有者も少なくなく、この大日如来像所有の個人もそうだった。そして文化財保護法は個人の財産権の尊重もきっちり明記しているため、文化財指定を受けていないものを国が強制的に買い上げたりオークション出品を阻止したりする強制執行は不可能だ。憲法でも保障しているように所有物をどうしようが、あくまで所有者個人の自由なわけで。もともと仏像があった足利市では海外流出阻止の対策を求める署名活動も行われていたそうだ。
 それにしても8億円とは…当人がどういうつもりかは直接聞いたわけじゃないから知らないが、ハタから見ていると海外流出もちらつかせて買い取り金額をつりあげていたようにも見える。3月18日にニューヨークで行われたオークションでは、開催したクリスティーズでも「200万ドル(2億円)ぐらいじゃないか」と予想していたぐらいだ。ところがフタを開けてみたらなんと12億8000万円(手数料込みだと14億円になるらしい)というふっかけ金額をさらに上回る日本美術品史上最高額での落札となったのだからビックリだ。

 落札したのはデパート三越。ただし依頼を受けて代理で落札したと発表していた。僕も含めて多くの人が「日本政府の間接的関与」を疑ったものだが、当の文化庁は上述のような予算事情でもあるし、間接とはいえ国がオークションに参加すると額をつりあげる恐れがあるということで参加は当初から計画してなかったそうだ。海外流出がまぬがれたのでホッとしつつもじゃあそんな巨額を誰が…?と多くの人が首をかしげた。
 このネタで史点執筆が遅れているうちに、真相が判明した。14億円もかけて落札したのは真言宗系新興宗教団体「真如苑」であることが公表されたのだ。この宗教団体については僕もほとんど何も知らない状況だが…教団によると開祖・伊藤真乗(1906-1989)が仏門に入ったきっかけが運慶作と伝わる大日不動明王像との出会いであったとかで、これに「仏縁」を感じて買い取りを決めたそうである。当面は国立博物館など公立の博物館に預かってもらうが、10年後に立川市・武蔵村山市にまたがる旧日産自動車工場跡地に建設される教団の施設で公開する予定、とのこと。なお、その日産工場跡地の買収にも739億円かけてるそうで…宗教団体って、ホントに金があるんですねぇ。海外流出はまぬがれたものの、少々複雑な気分でもある。
 

 ところで仏像がらみではこんなニュースも。
 日本最大の仏像はどう考えても120mというバカでかい立像の牛久大仏(茨城県牛久市。天気のいい日は20km近く離れた僕の家の近くからも立ち姿が眺められる)だと思われるがこれは別格として、座像で「奈良の大仏より大きい日本最大」を称しているのが福井県勝山市の清大寺にある越前大仏(像高17m)だそうだ。中国・洛陽の龍門の大仏をモデルにしたというこの仏像、実は1987年に作られた「現代大仏」の一つ。同市出身で大阪に相互タクシーを創業し「関西のタクシー王」と呼ばれた多田清氏(故人)が、自分の故郷の観光名所にしようと巨大な天守閣をもつ「勝山城」(史実の勝山城とは無関係の博物館施設)や巨大大仏に五重塔つきの「清大寺」(宗教施設ではなく、単に大仏を見せて拝観料をとる観光地)を作ったという経緯がある。日本各地にこの手のバブル期に作られたお城や大仏があるんだよねぇ…。
 この「勝山城」と「清大寺」およびそれに付属するホテルなどはグループの資金運用会社である「相互タクシー」(ややこしいことにタクシー業務は分離している)と関係企業「相互不動産」が運営、開設当初はそこそこの客を呼んだものの、バブル崩壊と共に一気に落ちぶれ、「にわか門前町」もすっからかんに。県や市への税金の滞納も膨らみ、2002年に最高裁で「相互タクシー」に213億円の追徴課税が決定された。これを機に清大寺は宗教法人に姿を変え、相互タクシーが大仏と大仏殿を「寄付」する形で生き残りをはかったが、五重塔や敷地は市に差し押さえられて競売に2度もかけられている。運慶の仏像と違ってこちらにはいまだ買い手がないそうだが(笑)。
 結局滞納税金の負債を返すめどがたたないということで、ことし3月10日に「相互タクシー」は自己破産を福井地裁に申請。14日に破産手続き開始決定がなされた。民間調査会社「帝国データバンク」の大型倒産速報によると負債総額240億8400万円だとか。
 それにしても今回の史点は坊さんと億単位の金の話ばっかりですな(笑)。 



◆王政期の終わり

 1番目の話題の騒乱で注目されたチベット仏教文化圏のうち、明確に独立国を形成している唯一の国がブータンだ。この国は2番目の話題のリヒテンシュタインと同様、「絶対君主」がまだ存在する国としても知られている…いや、もう「知られていた」と過去形で語るべきだろうか。去る3月24日、ブータンでは史上はじめての国会下院総選挙が行われ、立憲君主制への第一歩を踏み出したのだ。

 ブータンについては過去に何度か話題にしたことがある。国内全面禁煙を決定した、なんて話題もあったが、2005年4月13日の「史点」では、国王の意思により民主化を進める憲法草案が示され、国王を「65歳定年制」にするとか「国土の60%を森林とする」といったユニークな規定があったという話題を取り上げている。それ以後「史点」ネタにならずご無沙汰してる間に、この民主化政策を推進したシグメ=シンゲ=ワンチュク国王は2006年に退位、長男のジグメ=ケサル=ナムゲル=ワンチュクが新国王となっていた。この王様、現在まだ28歳の若さである。
 お隣のネパール王家は謎の王族大量殺人事件のあと即位したギャネンドラ国王が絶対君主制を敷いてかえって混乱を招き、結局王制廃止の憂き目をみている(まだ決定ではないがほぼ確定で、今年中には決着するはず)。それに比べればこちらブータンの王家は賢明で、誰にも言われないうちから前国王が率先して民主化を推進、「心の豊かさ」に着目した国民総生産ならぬ「国民総幸福(GNH)」なんて数値を提唱、環境保全や伝統文化の保持を打ち出し、ブータンの大多数の住民からは圧倒的な支持を受けている。国王おんみずからの推進ということで民主化も支持する国民がほとんどだが、立候補者自身が「選挙などだれも望んでいない。国王がここまで私たちを導いてくださったのに、なぜ変えなければならないのか」と言っちゃったり、有権者も「どちらの候補者が良いか、決めるのは無理。国王の方が良いと思うばかりだ」と口にしていたという話も報じられている(CNN日本語版サイト記事より)
 
 下院47議席(一選挙区一人当選の小選挙区制)をめぐって「ブータン調和党」と「人民民主党」の二つの政党から候補者が立ててられたが、両者とも国王の政策を支持することは同じで、おまけに国防や民族問題については論議すること自体が禁じられていたため、そう対立点もなかったみたい。各選挙区の演説でも対立候補への称賛ばかりが目立ったとか(まぁ日本の選挙区でも対立候補同士の選挙カーが接近すると「○○候補のご健闘を!」などと挨拶してるよな)
 初の国政選挙には有権者の多くが晴れ着を着て投票所におしかけ、候補者の写真付きの電子投票機による投票で投票率は79.4%で、開票結果は47選挙区のうち44議席を「調和党」が獲得。この調和党というのはブータン社会の伝統エリート層が中心の政党だそうで…なんだ、今度は事実上の一党独裁じゃなかろうか?と思っちゃうような結果であるが、ともあれこの調和党党首が国王から首相に任命され、新規発足の議会で新憲法が承認される予定だ。

 選挙で「民族問題」の論議が禁じられたのは、中国におけるチベット同様、この小さな国にも「少数民族」が存在し、紛争の火種が存在するためだ。ブータン南部にはネパール系のヒンドゥー教徒が住んでおり、前国王が進めたブータン伝統文化の強制に反発して反政府活動が活発化、ここでもやっぱり政府による弾圧や人権侵害、ネパールへの難民流出、国外からの反政府ゲリラの展開と、どこでもおなじみのパターンが繰り広げられた。今度の選挙中も爆弾テロが起きて一人死者が出ており、政府がネパール方面との国境を閉鎖する事態にもなっている。


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