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2008年4月1日

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◆赤字解消の切り札!

 世界トップレベルの経済大国・日本は、同時に世界トップクラスの財政赤字大国でもある。なんせ毎年の国家予算をみると歳入のうち4割は国債、すなわち借金なんだから。計算の仕方はいろいろあるようだが、現時点で1000兆円を軽く超える累積赤字を日本政府は抱えている。こんなのどうやって返すんだろうと素人でも思っちゃう話だが、半分マジな話として日本の歴史的伝統にのっとり、「徳政令」を出して全部チャラにする気なんじゃないかとの噂もある。

 それは冗談として、新年度を迎えた4月1日、財務省および文部科学省は共同で財政赤字解消の一助のためとして、大胆な方針を発表した。日本国内にある数多くの国宝を海外オークションにかけて売りさばき、その収入を赤字解消にあてようというのである!
 ヒントになったのは前回「史点」でも取り上げた、運慶作の大日如来像のオークション出品だ。当初2億円程度ではないかと言われていたのが14億円で日本の宗教団体が買い取る結果となったのは既報のとおり。海外に出品しても国内のどっかの団体が買う可能性も高く海外流出の不安もないし、値段がバカみたいにつりあがるんならどんどんオークションに出してしまえ!と思いついたのである。つい先日、明治の2円金貨がオークションで3000万円で売れてしまったこともこの意見に弾みをつけることになったようだ。
 
 運慶作ということではなんといっても東大寺南大門の金剛力士像という国宝指定の傑作彫刻がある。あの小さな大日如来像ですら14億円である。あの巨大な金剛力士像なら最低でも100億円の値がつくのは間違いなかろう。門の守護神であることから宗教団体よりも警備会社が宣伝用に買い取ることが予想されるし、ボディビル業界も関心を持つのではないかとみられている。金剛力士像が売れた場合、残された南大門をどうするのかが問題となるが、先ごろ放火により焼失してしまったソウル南大門の代わりに、と韓国政府に買い取ってもらう構想も上がっているという。これも建造費を加味すれば1000億円でも安いのではないかとみられる。
 やはり国宝指定の姫路城も、オークションにかければどっかの金持ちが別荘にしようと買う可能性が高い。金閣もそのキンキラキンの姿がウケてどっかの成金が買いそう。どうせ再建ものだからオークションで売れたらまたもうひとつ再建するというのを繰り返せばよいとの意見もあるそうだ。金閣に比べると渋い作りの銀閣も田舎の旅館が落札するんじゃないかと期待される。絵画類では国宝「鳥獣戯画」が「マンガのルーツ」として海外も巻き込んだオタクたちの激しい落札競争が予想される。
 東大寺の大仏や鎌倉大仏についてはオークションで売るのもいいが、金属高騰の昨今、溶かして銅の地金にして売った方がいいんじゃないかとの声も財務省内にはあるようで、省内でも意見の対立があるようだ。また、重要無形文化財、いわゆる人間国宝についてもオークション出品が検討されているが、人権問題との批判を受ける可能性もあり、法務省との間で出品を可能にする法整備の検討が進められているとのこと。
 


◆本能寺の変の真相は?

 日本史上最大のミステリーとされるのが、天正10年6月2日、織田信長明智光秀の反逆にあって天下取り一歩手前で横死することになった「本能寺の変」だ。信長自身もまったく予期せぬことで、光秀もまたそのわずか11日後に横死してしまうため、彼の突然の反逆の動機は今日に至るまで全くの不明。信長という超大物が唐突にその人生に幕を下ろし、その後の日本史を大きく転換してしまった大事件であるため昔から数多くの推理が行われ、信長のイジメに対する怨恨説、信長に追放された足利将軍家の陰謀説、あるいは信長のあまりの革新性に恐怖を抱いた朝廷の陰謀説、はたまたイエズス会による陰謀説、とさまざまな説が取りざたされてきた。

 今年4月1日、この本能寺の変の真相にかかわる驚くべき新資料が発見された。それは信長の経済政策が事件の背景にあった、というこれまでの研究の盲点を突いたものとして注目されている。
 信長の経済政策といえば楽市・楽座が有名だが、関所の廃止も重要な政策だ。信長の経済政策は基本的に古いしきたりや制度による阻害を除去して商業・流通を自由化・活性化をはかろうとするもので、関所はとくに流通の阻害要因として撤廃の対象となったのだ。関所というのはもともとは防衛や治安維持の観点から通行人をチェックするべく道路の要所要所に作られるものだが、日本の中世では主に朝廷や寺社が通行人から通行税を徴収し、てっとり早く収入を得る手段として活用していた。今日の高速道路の料金所みたいなもんである。
 室町時代には京都に入る道路のすべてに「七口の関」という関所が設けられて税を徴収したため、商人や農民が不満をつのらせ、関所撤廃を求める一揆をおこしたこともある。これを受けて幕府が関所の一時停止を決めると、朝廷側が猛反発して関所の維持を求めて幕府に圧力をかけたりと、中世においては関所は重大な政治問題だったのである。

 このたび発見された新資料というのは当時の有力公家の日記で、その中には信長が進める関所廃止政策に対して朝廷の公家たちが激しく反発していたことが記されていた。もともとは応仁の乱で荒廃した京都の再建のため、ということで関所の税が高めに設定されていたのだが、京都の復興が終わってからも、各地と結ぶ街道の整備のための財源として「暫し定めの税」として約25文が設定され続けていたのだ。これが朝廷や公家たちや寺社の収入となったため「暫定」のはずが何十年にもわたってこの通行税は維持され続けた。ではこれらの税が街道整備のために使われていたかというと、当時の日記にはこの金が公家たちの宴会や行楽、はたまた健康器具の購入に流用されていたことがはっきりと出てくるそうな。
 信長は比叡山を焼き打ちしちゃうぐらいで旧時代の権威をなんら恐れなかった。流通のさまたげになるとして不要な関所の廃止を決定した。これに対して「地方では街道は必要だ!」「朝廷の予算に影響が出たらどうする!」「通行量が増えると呼吸で二酸化炭素を吐くから地球温暖化を促進する!」といった猛反発が公家界を中心に起こっていたが、信長は聞く耳を持たなかった。そして天正10年6月1日の新年度から関所および25文の通行税の廃止を発表したのである。
 この政策をなんとしても阻止するべく、公家さんたちが声をかけたのが明智光秀であった。とくに野望もなかった光秀に公家たちは信長を殺す代償として街道を管理する「天下り先」を用意、将来に不安を覚えていた光秀はこの話に乗ることにしたのだ。本能寺の変の直前に光秀が「ときは今 あめがしたしる 五月かな」と詠んだとされるが、この「あめがしたしる」は通説の「天下をとる」のではなく、実は「天下り先ができて安心した」という意味だったのである。かくして25文の税が撤廃された直後の6月2日、光秀は本能寺に信長を攻め殺し、暫し定めの税はすぐ元に戻っちゃったのであった。関所が完全に撤廃されるのは光秀を倒した豊臣秀吉の政権成立まで待たなくてはならない。



◆源氏物語誕生の裏側?

 今年は「源氏物語1000年」のメモリアル・イヤーなんだそうである。なんでも作者の紫式部自身の手になる『紫式部日記』の中で源氏物語の登場人物について明確な記述が現れるのが寛弘5年(1008年)11月1日の条なのだそうで。この時点ですでに『源氏物語』の多くの部分が書かれており、宮廷関係者の間で話題になっていたことが分かる。藤原道長なんて紫式部のところへ押しかけて原稿を勝手に持ってっちゃったりしてるほどで、印刷出版なんてものがない当時、貴族社会という狭い世界ではあるが大変なブームになっていたことが分かる。

 よく知られているように『源氏物語』の主人公・光源氏は臣籍に下された天皇の子という設定である。それからしてずいぶんスキャンダラスな気がするのだが、大変な美青年で行く先々でモテモテ、美女だろうが醜女だろうがおかまいなし、人妻にだって夜這いをかけ、見染めた幼女を誘拐して監禁・育成したうえ自分の妻にしちゃったり、父の妃、つまり自分の義母(自分の実母によく似てるというおまけつき)と不倫関係をもって子供を産ませちゃったり(しかもこれがあとで天皇になる)、お兄さんである天皇の妃とも不倫関係をもっちゃったり、とまぁやりたい放題で。一方で光源氏の愛人たちに生霊でとりつくツンデレだかヤンデレだかの怖い女性も登場、後半に入ると寝取られ要素も出てくるなど、今日の二次元系メディアで何かと話題になるものは全部この時代に出尽くしてるんじゃないかと言われる、まさに日本の伝統にのっとった古典である。なお、「妹萌え」は出てこないようだが、そちらはさらに古い『古事記』に前例がある(笑)。
 『更級日記』の作者が少女時代に源氏物語の『若紫』の巻を読んでハマってしまい(これがあの「幼女誘拐」の巻である)、全巻そろえて読むことを神仏に祈り、ついに都で全巻セットをプレゼントされモーレツな勢いで読み込み、登場人物になりきって妄想にふけったと回想しているのは有名な話で、日本人、千年前から変わってねぇなぁと思っちゃうのである。

 ところで『源氏物語』の作者が紫式部であるというのは常識ではあるが、本当にそうか、と言われると実は決定的な証拠はない。紫式部本人が書いた直筆原稿が存在しているわけでもなく、紫式部が生きていた当時から本人の直筆をもとに別人が清書したり、出版物ではないから人から人へ書写するうちに「こうしたほうが面白い」と勝手に話が書き換えられたり付け加えられたりして(二次創作!?)、複数のテキストが存在していたとの見解もあるのだ。また細かいストーリー上の矛盾点があることから『源氏物語』じたいが最初から大長編として構想されたものではなく、もともと別の短編を一人の主人公の話としてつないで長編化したものとの見方もある。だとすると「作者」はだれなんだ、という話にもなってくるわけ。

 ことし4月1日、源氏物語創作の秘密に迫る重大な新資料が発見された。なんとこれまで存在は噂されつつ見つからなかった『清少納言日記』が発見されたのである!このなかで実は『源氏物語』は清少納言と紫式部の合作であったという驚くべき事実が記述されていたのだ。「清少納言」も「紫式部」も彼女たちの本名ではなく(本名は不明)、たとえば清少納言の場合は清原氏だから「清」、親族の官位が「少納言」だからという、いわばペンネームみたいな通称で呼ばれている。じゃあ紫式部はというと、親が式部大丞だったから「式部」なのだが、彼女自身は藤原氏なので本来は「藤式部」と呼ばれていたのである。ところがいつの間にか「紫式部」という名前で源氏物語の作者に擬せられたのは謎とされてきた。
 このたび発見された清少納言日記によれば二人の合作ペンネームとして「紫式部」という名前が造られ、その名のもとで『源氏物語』シリーズが合作で書かれていたことが判明したという。しかし源氏物語の大ヒットにより莫大な印税収入が発生、その分配をめぐってどちらの創作貢献度が高いのか二人の間で論争が起こり、二人はコンビを解消してしまう。そして清少納言が先に宮廷を去ってしまったため、あとは「藤式部」のみが「源氏物語作者・紫式部」を自称し、以後それが定着してしまったというのである。そういえば『源氏物語』の終盤である「宇治十帖」はそれまでとまるで作者が違うかのように精彩を欠くとされ、突然打ち切りのように終わっており、これはコンビ解消が影響してファン離れが起き、執筆を依頼していた編集部が打ち切り決定をしたのではないかとも考えられる。同時代の原本が存在しないのも両者間に著作権争いがあって「絶版」状態になったためで、『更級日記』の作者が全巻セットを入手するのに大変な手間がかかったのもそのせいではないかとする専門家の声もある。
 この経緯は今回初めて明らかになったわけだが、紫式部が『紫式部日記』のなかで清少納言について「したり顔で漢文の知識をひけらかしてるが間違いも多く、イヤな女だ。ろくな末路をたどるまい」などと凄まじい悪口を書いていた謎が解けたことになる。清少納言の『枕草子』でも「憎きもの」の中に「物語するに、さしいでして、我ひとりさいまくる者(物語をしてると口出ししてきて自分勝手に先を話す者)」ってのがあり、もしかして藤式部のことを指しているのではないかとも推測される。



◆あの戦争の最後の兵士!

 先ごろの「史点」で、第一次世界大戦に参加したドイツ帝国兵士の最後の一人が108歳で亡くなった話をとりあげた。そのとき第一次大戦時のフランス軍兵士はまだ一人存命と書いたのだが、そのお一人ラザール=ポンティセリさんも3月12日に110歳で大往生している。もっともこの人、もともとはイタリア人で9歳で家出してフランスに渡り、16歳の時に第一次大戦が勃発したので外人部隊に志願して戦い、イタリアが参戦するとイタリアから召集をかけられていったん逃げたが見つかってオーストリア戦線に送られるというなかなか波乱万丈な戦歴を持っている。戦後はずっとフランスで暮らしてフランス市民権もとっており、17日にはフランス政府の手により彼の国葬が行われたそうだ。

 世界的な長寿大国日本のこと、第一次大戦に参加した日本兵で存命なのがいるんじゃなかろうか…と思っていたのだが、この4月1日にもっと驚くべき訃報が報じられた。なんと西南戦争(1877)に参戦した最後の兵士が亡くなっていたというのだ。西南戦争といえば西郷隆盛がリーダーにかつぎあげられた鹿児島士族を中心とする最大の士族反乱にして日本最後の内戦だ。その戦闘に参加した兵士がまだ生きていたというんだからビックリである。
 4月1日に亡くなったというのは泰郷酒盛さん(148)で、旧薩摩藩の士族出身。17歳の時に起こった西南戦争に西郷軍側で参戦、田原坂の戦いにも参加して重傷を負い、最後の城山の戦いではからくも脱出に成功して、屋久島に逃亡、縄文杉の森の中でしぶとく生きていたという。明治政府の追及を恐れて山の中から一切出てこなかったため、その後の日清・日露、太平洋戦争にいたるまでの歴史もまったく知らず、戦後になってようやく「明治政府」が倒れたことを知り、山を出てきたとのことである。徳之島に住んでいた5歳年下の泉重千代(1865-1986)さんとは飲み仲間であったとのこと。また西郷隆盛とのツーショットの写真も所有していたが、西郷本人を写した写真が他にないため、それが本当に当人なのかは確認できないそうである。

 これだけでもすごいニュースだと思っていたら、同日のうちに千島列島からも衝撃のニュースが伝えられた。なんとこちらでは戊辰戦争(1868-1869)に参加した兵士の生き残りが択捉島の山の中で隠れ住んでいたのが発見されたというのだ。
 発見されたのは肘肩歳造さん(158)で、会津の出身。戊辰戦争の激戦であった会津の戦いで白虎隊の補欠として参加していたが、実戦には参加しないまま白虎隊は集団自決の悲劇となり、肘肩さんは旧幕府軍とともに函館へ逃亡、五稜郭にたてこもって「蝦夷共和国」建国にも参加した。しかし明治政府軍の侵攻を受けてここでも敗北、仲間たちと共に当時は帰属があいまいだった千島列島へ逃亡し、ひそかに「蝦夷共和国亡命政府」を名乗って蝦夷地独立の活動を続けていた。千島樺太交換条約により択捉島が明確に日本領となると地下活動を余儀なくされ、さらに太平洋戦争末期にソ連軍の占拠を受けてしまったため彼らの活動がまるっきり表に出なかったようだ。
 「蝦夷共和国亡命政府」も参加者はほとんど亡くなってその子孫たちばかりで構成されており、最後の生き残りがいるうちに、と名乗り出たそうだ。いまさら独立も現実的ではないということで、あくまで蝦夷地の「独立」は主張せず「高度な自治」を求め、日本が2016年に名乗りを上げている東京オリンピックについてもボイコットではなく開催を支持する意向だそうである。


2008/4/1の記事
(間違っても本気にしないように!)

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