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2008年4月13日

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◆その名前にはマケドニア

 歴史好きで「マケドニア」と聞けばたいていアレクサンドロス大王の名前が思い浮かぶはず。マケドニアはもともとギリシャの北方にあった国で、ギリシャ人の「中華思想」では異文化のバルバロイ(野蛮人)とみなされていたが、当人たちは「ギリシャ人」を主張するという微妙な立場にあった。それがフィリッポス2世(前382-前336)のときに全ギリシャを征服、フィリッポス暗殺後はその子のアレクサンドロス3世(大王)がギリシャを支配下に置き、さらにペルシャ帝国に侵攻して空前の大征服をやってのけることになる。
 アレクサンドロスの死後、その領土は分割され、アンティゴノス朝の「マケドニア王国」がギリシャ地方を支配した。やがてローマが大国として台頭してくるとその圧迫を受け、前2世紀にはローマの属州とされてしまう。
 ローマ帝国の時代を経て、6〜7世紀にかけてバルカン半島には南スラブ系の民族が移住してきた。かつてアレクサンドロスを生んだマケドニアの地にもスラブ系住民が住み着くようになり、現在「マケドニア人」といえばこのスラブ系の人々のことを指す。なお9世紀から11世紀にかけて東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に「マケドニア朝」という王朝が存在しているが、これはその初代がマケドニア地方出身であったため。それでいて当人は民族的にはアルメニア系だったというから話がややこしい。
 東ローマ衰退後は、オスマン帝国がバルカン半島を支配する。そのオスマン帝国が衰退した19世紀から20世紀にかけてギリシャのほかセルビア、ブルガリアといった南スラブ系諸国が独立すると、マケドニア地方は各国の領土争奪の場となり、その3国によって分割されてしまう。こうした歴史の中で独立国を持たぬゆえにかえって「マケドニア人」というアイデンティティーが強化されてしまうのだから歴史というのは面白い。
 2度の大戦を経て成立したユーゴスラヴィア連邦、それを構成する一国として「マケドニア共和国」が成立する。近代以降で「マケドニア人」が自らの「国家」を持ったのはこれが初めてとなる。そして1990年代以降のユーゴスラヴィア連邦崩壊の過程でついに純然たる「独立民族国家」を樹立したわけだ。

 …ところが。
 この独立国家「マケドニア」、正式には「マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国(the former Yugoslav Republic of Macedonia)」という妙な国名となっている。当のマケドニアの憲法では「マケドニア共和国」と明記されているのだが、1993年にこの妙な名前のまま国連に加盟している。なぜかといえば隣国ギリシャが「マケドニア」の名称に強硬に反対したためだ。まさかアレクサンドロスの時代の感覚に逆戻りしたわけではあるまいが、ギリシャ人に言わせれば「マケドニア」とは現在のギリシャ北部の地域を指す言葉であり、その名を「外国」が名乗ることは絶対に認めん、という理屈らしい。
 裏の本音をいえばギリシャ北部地域の「マケドニア」にも「マケドニア人」が居住しており、隣に「マケドニア国家」が出現するとこれと呼応してかつての独立を目指そうとするのでは…と恐れているのだ。ギリシャ政府関係者によると実際にマケドニアの歴史教科書ではギリシャやブルガリアにまたがる「大マケドニア」の領土を示す地図が載り、古代マケドニア王国の遺物や紋章を自国の歴史物としてとりあげてるそうで「領土的野心は明白。内陸国なのでテッサロニキなど沿海領土を狙っている」のだそうだ。
 最近独立宣言したコソボがアルバニア系住民を多数派とする地域で、近隣国がアルバニアの領域拡大を警戒しているのと同じ事情というわけだ。マケドニアだって国内の住民の3分の1がアルバニア系で、コソボに呼応してより自治権拡大を求める動きがあるという。それに対抗するための「大マケドニア」主張だとの見方もある。ホントにややこしい限りで、バルカンの火薬庫はまだまだ健在と思わされる。

 4月の2日から8日にかけ、NATO(北大西洋条約機構)の首脳会議が開かれた。かつてNATOと対峙した東ヨーロッパの国々が次々とNATOに加盟する動きが続いているが、当然マケドニアにもその話はある。しかしギリシャは以前から「『マケドニア共和国』の名前でのNATO・EU加盟は絶対に認めん!」と強硬姿勢を続けていて、この国名問題が解決しない限り加盟は拒否する(NATO加盟は参加国全部の承認が必要)と明言していた。しかし他の加盟国からそのカタクナな態度を批判されてもいるようで、ここにきてやや態度を軟化、「『新マケドニア』という名前なら認める」という妥協案を打ち出した。古典とは異なる「新平家物語」みたいなもんだが(笑)、マケドニア側はこの提案を拒否している。
 こじれてきた国名問題に国連も仲介に入り、3月に国連からマケドニアの現在の首都スコビエの名を入れた「マケドニア(スコビエ)共和国Republic of Macedonia-Skopje)「北部マケドニア共和国(Republic of Upper Macedonia)という名称の提案がなされた。首都名を入れるアイデアは台湾(中華民国)のオリンピックチームが「チャイニーズ・タイペイ」であることなどを思い起こさせる。しかしこの提案についてもギリシャ側は「ギリシャ内のマケドニアとは全く無関係であることを示す国名でないと認めない」と突っぱねており、結局今度のNATO首脳会議でもこの問題は決着せず、国名決定もNATO加盟も先送りということになってしまった。この結果を受け、それまでNATO加盟を共通の目標として連立していたマケドニア系政党とアルバニア系政党の間で亀裂が発生、議会が解散され総選挙という混乱が発生している。


 ギリシャがらみの関連話として、キプロスの話題もあった。
 地中海の東の端に浮かぶ島国キプロスはかつてはビザンツ帝国、その後オスマン帝国の領土だったが、オスマン帝国の衰退過程でイギリスが獲得、1960年になって独立を獲得するが今度はトルコ系住民とギリシャ系住民が対立、ギリシャ・トルコ双方が軍事介入する事態となり1974年以降南北に分断された状態になっている。もっとも「北キプロス・トルコ共和国」はトルコのみが承認する国家で孤立を深める一方、南側の「キプロス共和国」はEU加盟を果たして経済的にも発展するなどその差異は開くばかり。これだけケンカしていても「キプロス人」という一体感は持続してるようで再統一を求める声はあるのだが、北側が再統一を熱望する一方で南側は「お荷物を抱え込む」と消極的と聞くあたり、北朝鮮と韓国の関係に似てもいる。

 2月のキプロス共和国の大統領選挙で、北との対話を主張するフリストファイアス大統領が選出された。3月21日にフリストファイアス大統領は北キプロスのタラート大統領と首脳会談を行い、対話路線の一環としてキプロスの首都ニコシアの目抜き通りの繁華街で、あの「ベルリンの壁」同様に分断の象徴とされていた「レドラ通り」のバリケード封鎖を4月3日から34年ぶりに解除し、身分証明書提示のみで往来を自由にすることでで合意した。なんでもこの「レドラ通り」は全長約1キロのうち南の800mをキプロス共和国が、北の200mを北キプロス・トルコ共和国が管理、その間の80mほどは国連が管理する緩衝地帯とされてるとのこと。
 これまでもニコシア市内の南北間の往来は時間制限などはあるものの一応可能だったのだが、「分断の象徴」の開通は「統合への一歩」として世界的にも大きな注目を集めている。もっとも当日イベントを開いて大騒ぎしたのは観光客流入を期待する北側だけで、南側は静かなもんだったそうだが…
 


◆あの人の遺骨を探せ

 むかし大学に入ったころ、韓国人の留学生と「歴史上の人物で好きなのと嫌いなのを挙げよ」という雑談をしたことがある。僕が何と言ったかは忘れたが、彼の答は明白だった。好きな人物は李舜臣安重根で、嫌いは人物は豊臣秀吉伊藤博文。あまりにも見事な組み合わせに日本人としては苦笑せざるを得なかったものだ。もちろん彼は日本に留学してくるぐらいだから特に日本嫌いというわけではなく(むしろ当時の韓国政権に強い反感を持っていた)、韓国人の平均的な回答だったのだと思う。

 李舜臣は豊臣秀吉による朝鮮侵略の折に、水軍を率いて日本軍とたくみに戦い、一時は讒言によって失脚するも奇跡の復活を果たし、最後の勝ち戦で銃弾に当たって戦死してしまったという、ドラマチックを絵に描いたような民族英雄。この人については調べれば調べるほど世界海戦史上の英雄とお呼びするほかはないのだが、もともと軍人タイプではなく武科挙の騎馬試験で落馬・骨折し落第するという挫折を経験した青春もある。先ごろ韓国版「戦国自衛隊」というべき「天軍」という映画が日本でも公開され僕も見ているのだが、そこではその落第中でグレた李舜臣が北の国境付近でコソ泥&人参密売をやっている姿が描かれ、タイムスリップした現代の南北軍人たちがビックリ、という面白い展開がメインとなっている。ここで韓国軍人たちが「民族英雄」のはずの李舜臣の根性をたたきなおそうとスパルタ訓練をやらせ、北朝鮮の軍人たちが「李舜臣英雄視は南の軍事政権の作為だろ」と指摘するなど、それまでの韓国における李舜臣=大英雄観を客観的にみる視点が入っているのも興味深い。もちろん最終的に李舜臣はちゃんと目覚めて英雄になりますけどね。似た例として日本での楠木正成のイメージの変化の例が挙げられるだろう。

 で、一方の安重根だがこちらは日本による統治に抵抗する義兵運動の参加者で、ハルピン駅で初代韓国統監・伊藤博文を暗殺した人物だ。言ってしまえばテロリストであるわけだが、日本のトップクラスの政治家を暗殺したという劇性もあって植民地時代から独立後にかけ「独立の英雄」としてもてはやされた。もっとも安が伊藤を暗殺したこと自体が植民地化を止めたわけではないし(武力で脅迫してまで保護国化を実行した伊藤だが列強の顔色を見てギリギリまで併合には慎重で、この時点では併合が既定路線化していた、というあたりが実態)、安自身も伊藤暗殺の理由の列挙のなかに「孝明天皇暗殺」を入れてるなど動機面はあまり単純ではない(岩倉具視による孝明暗殺説は今も根強いが、これが当時韓国でもちょっと変化しつつ広まっていたことが分かる)
 以前朝鮮史を中心とする東洋近代史ゼミに出入りしていたことがあるのでその折に安重根関連の資料や論文のいくつかに目を通したことがあるが、そのとき受けた僕の印象では、安の伊藤暗殺は単純に「植民地化阻止」とか「独立維持」のためといったものではなく、突き放した言い方をすると義兵運動の失敗で心理的に追い詰められての最後の抵抗、あるいは日本だ韓国だという話ではなく世界的に広がる弱肉強食の情勢に異を唱えるための思想的アピールとしてのテロといったものがないまぜになっているように思う。とくに後者については安が獄中で暗殺の動機を語った文章の中で「そもそも文明というのは世界中の賢愚・男女・老少を問わず、それぞれが天賦の性を守って道徳を崇常し、互いに競い合わない心をもって安土楽業してともに泰平を享受することである。ところが現今時代はそうではない。いわゆる上等社会の高等人物が論ずるものは競争の説であり、究めるものは殺人機械である。それゆえ世界中で砲烟弾雨がたえる日がない。どうして慨嘆せずにおられようか…」というくだり(原漢文・「近代史のなかの日本と朝鮮」東京書籍1991より訳文引用)に示されるように、その思想には日本の自由民権論にも通じる天賦人権論と儒教やキリスト教的価値観の平等主義・平和論があり(安は伝統的儒教教養があると同時にクリスチャンだった)、「文明国」が弱肉強食の帝国主義をふりかざし、残酷な侵略や戦争をすすめる実態を痛烈に批判する。その結果が自らが「殺人機械」になってしまうことなのがちとひっかかるところなのだが、伊藤博文を殺す理由として彼が日本人で自国を侵略するからではなく、「その悪政」を挙げていることはもっと注目されるべきだと思う。実際、日本が韓国を「正しく統治」してくれるなら問題はない、という趣旨のことも彼は書いているのだ。儒教的価値観から「国家」よりも「道義」を優先する傾向は、当時の東アジア知識人の間では広くみられるものだということも知っておいてほしい。
 そんなわけで彼を単純に「愛国・民族英雄」ともてはやすのは的を射てないんじゃないかというのが僕の持論だ。今の文章を書きうつしつつ「中江兆民とか幸徳秋水と似てくるな」と気づいたのだが、調べてみたら幸徳は実際に「生を舎(す)て義を取る 身を殺して仁を成す 安君の一挙 天地みな震う」という漢詩を書いて安をたたえていたことを知った。

 また映画の話になってしまうが、僕が見たことがある安重根映画は一本しかない。しかも珍しいことに北朝鮮が製作した映画だ。1979年に作られた「安重根、伊藤博文を撃つ」という映画で(この題名は日本統治期の芝居の題名そのまま。日本版ビデオは「安重根と伊藤博文」になっていた)、題名になってる割に安重根はほとんど狂言回しで、韓国併合に至る日本への抵抗通史といった内容になっている。北朝鮮製作と聞くとバリバリのプロパガンダ映画を想像するだろうがこれが案外そうでもなく(70年代ごろだと韓国の方がこの点露骨だったみたい)、本物のハルピン駅で撮影されたという伊藤暗殺のクライマックスシーンは実にリアルで盛り上がるものの、ナレーションはあくまで「限界のある個人テロ」として全面的には賞賛しない。その後の「民族の苦難」も語られ、「それが解放されるには真の英雄の到来をまたなくてはならなかった」というようなナレーション(正確な文章は忘れた)を流して映画は終わる。誰のことを言いたいかは書くまでもあるまい(笑)。
 安重根が出てくる映画といえば、韓国の「ロスト・メモリーズ」という映画もあった。これはジャンルをしいて分ければSF映画で、安の伊藤暗殺が失敗していたら…という設定。21世紀の朝鮮半島は完全に日本領となり、ソウルは東京・大阪に次ぐ日本第三の都市となり日本語があふれて飲み屋街は新宿ソックリである(もちろん新宿でロケしたのだ(笑))。日本への抵抗を続ける朝鮮人たちを追うチャン=ドンゴン演じる坂本刑事と仲村トオル演じる西郷刑事(ネーミングにニヤリ)は、やがて「本来の歴史」を知り、そこへ軌道修正するか阻止するかで時空を飛び越え対決する、とまぁそういう話。安重根が失敗するとどうしてそういう未来になるのか全然わかんないんだけど、映画自体は理屈をすっ飛ばして楽しめる。チャン=ドンゴンが日本語をしゃべりまくりキムチが食えない韓国人を演じてるのを見るだけで一見の価値あり(笑)。

 
 えーと、ダラダラととりとめのない話を書いてしまったが、ようやくニュースの話題。ニュースというわりにやや古い話なんだが。ついに韓国が安重根の遺体探しに着手した、というニュースが3月末に報じられたのだ。これには僕も「え、まだ墓も確認されてなかったの!?」と驚いたものだ。
 ロシアとの交渉のためハリピン駅に降り立った伊藤博文を、待ち受ちうけていた安重根が狙撃し、ほぼ即死させたのは1909年10月26日のこと。その後安は旅順の監獄に送られ、裁判を受けることになる。裁判の過程で日本側でも安を「忠義の士」と称える声もあったし(考えてみりゃ「忠臣蔵」とかテロリスト好きの傾向あるもんな、日本人は)、看守も安の人柄にほれこんで自伝を執筆させたり直筆の書をもらったりと待遇は悪くなかったらしい。僕自身は未確認だが専門の人に聞いた話では裁判もいたって公正に進められており、ことによっては死刑は免れる可能性もあったという。だがあえて安は死刑を自ら望み、死して「英雄」となる道を選んだフシがある、とのご意見であった。判決により安が絞首刑に処せられたのは1910年3月26日。韓国併合はそのおよそ5ヶ月後のことだ。
 当時の日本で死刑になった人の遺体をどうするのが一般的だったのかは分からないのだが、安の遺体は旅順監獄内かその周辺に埋葬されたものと推測される。日本が旅順を統治していた間はもちろんのこと、日本敗戦後のソ連の占領、その後成立した中華人民共和国に返還されたのちも旅順(大連市の一部となった)は重要な軍港として機能しており、外国人の立ち入りが厳しく制限されていたため、中国との国交が長らくなかった韓国はもちろんのこと北朝鮮も安重根の墓探しをすることができなかったらしいのだ。
 自宅のパソコンからでも世界中の衛星写真が見られる昨今、中国も外国人立ち入りをかなり緩めてきている。それどころかむしろ日本や韓国の客を呼ぼうと日露戦争や安重根関係地を公開し観光地化しようという動きすらあるようだ。このたび韓国政府が初めて安重根遺骨発掘の調査団を派遣した際も中国側は未開放地区への立ち入りに異例の許可を出し、中国側当局者はマスコミに「安重根は我々中国人にとっても歴史上の重要人物だ」と語ったという。
 
 で、なんで今ごろ韓国政府が安重根の骨探しにとりかかったのか?そう、来年で安重根による伊藤博文暗殺からちょうど100周年になるのだ!それやこれやで記念イベント等も企画されており、その一環の遺骨探しということはあるようだ。
 もっとも同時に、旅順監獄周辺ではマンションの建設が相次いでおり、急がないと墓が破壊されてしまうから、という今風な理由もあったようで。



◆「キリング・フィールド」のモデル死去

 大学時代に同じ東洋近代史ゼミにいた先輩がカンボジアのポル・ポト時代を研究テーマに選んでいた。当時はカンボジアもポル・ポトもよく知らなかった僕に、「参考に」とその先輩は一本のビデオカセットを貸してくれた。TVで放映された映画を録画したものだった。その映画こそ、「キリング・フィールド」(1984年公開)だったのだ。

 見てない人のために簡単にこの映画の簡単なあらすじを。ベトナム戦争が泥沼化するなかアメリカ軍が隣国のカンボジアにも軍事介入、「ニューヨーク・タイムズ」の記者シドニー=シャンバーグとそのカンボジア人助手ディス=プランは決死の取材を行い、当初は知られざるアメリカ軍の横暴を暴いていく。やがてクメール・ルージュ、すなわちポル・ポト派がプノンペンに進撃して政権を獲得、はじめこれを平和の到来と歓迎するディス(英文を見ると「Mr.Dith」とあるのでこれが姓にあたるようだ)だったが、間もなくポル・ポト政権は知識人抹殺や集団農業重視といった極端な政策を推し進め、外国人ジャーナリストの国外退去を進める。危険を感じたシャンバーグたちはディスを自分たちと共に出国させようと画策するが彼の家族は連れ出せたものの偽造パスポートがばれてプラン当人の出国は失敗。国外退去したシャンバーグたちはその後のディス=プランの消息を全く知りえなくなる。そのころディスは集団農場で強制労働を強いられ、そこから脱出する過程でポル・ポトによる大量虐殺の現場「キリング・フィールド」を目撃する。やがて隣国ベトナムがカンボジアに侵攻、混乱の中を生き延びたディスは、難民キャンプでついにシャンバーグと再開する――と、そういう内容だ。ネタばれゴメンであるが、もともと実話の映画化なので結末まで語っちゃってもよかろう。壮絶なストーリーの終わりに、抱擁するシャンバーグとディス=プランの姿にジョン=レノンの「イマジン」が流れるラストシーンはホッとしつつも痛烈な余韻を残す。

 映画的なフィクションは随所にあるものと思われるが、大筋で実話。カンボジアでロケができたはずもなく(製作当時まだカンボジア内戦は進行中だった)、ロケの大半はタイ国内で行われたようである。シャンバーグによるドキュメントを下敷きにサスペンスタッチにうまくまとめた脚本、ドキュメンタリー映画出身のローランド=ジョフィ監督(「ミッション」「宮廷料理人ヴァテール」など徹底したリアル映像作りで定評がある)による演出は迫真のリアリティを映画にもたらし、社会派作品でありながらスパイ映画風味のサスペンスもあり、初めて鑑賞した僕はもうドキドキしながら最後まで見入ってしまったものだ。
 劇映画なので当然実在人物はすべて俳優によって演じられているが、ディス=プラン氏を演じる俳優を探すのは大変だったようだ。容姿は東南アジア系であればある程度ごまかせようが、カンボジア語・英語・フランス語を話せる通訳兼ジャーナリストだったからちゃんと演じられる人はなかなかいない。難航するうちに白羽の矢が立ったのがハイン=S=ニョルというカンボジア人だった。彼は俳優ではなく医師で、ポル・ポト政権によって集団強制労働を強いられ、知識人の抹殺をまぬがれるため医師であることを隠し、妻も子も失って1979年に国外に脱出するという、ディス=プランとよく似た、もしくはそれ以上に過酷な体験をしていた。演技はまるっきりの素人だったが、サム=ウォーターストンジョン=マルコヴィッチといった達者な俳優たちに囲まれるなか素朴でリアルな熱演を披露(素人なので体験を「素」で演じられたのかもしれない)、その年の米アカデミー賞の助演男優賞を獲得してしまう。なお、「キリング・フィールド」はこの年のアカデミー賞の作品・監督・主演男優・助演男優・脚色・撮影・編集と実に7部門もノミネートされているのだが、あの『アマデウス』とかち合ってしまったのが不運で、助演男優・撮影・編集の3部門獲得にとどまっている(「アマデウス」は8部門獲得)
 ハイン=S=ニョルはその後もベトナム戦争映画「天と地」に出るなど俳優業も続けるかたわら人権問題にも取り組んでいた。自伝も執筆しており、その翻訳を僕も読んだことがある。「キリング・フィールド」でオスカーを獲得したところで終わっていたと記憶するが、それを読んでから間もない1996年2月、彼がロサンゼルスの自宅近くで強盗にあい、射殺されてしまったというニュースを聞いてビックリしたものだ。「キリング・フィールド」を生き抜いた人でも通りすがりの強盗に射殺されてしまうとは銃社会アメリカって怖いなぁ、とも思ったものだ。その銃社会アメリカの堅持を唱えるウルトラ保守団体・全米ライフル協会の会長をやっていた俳優チャールトン=ヘストンもつい先日亡くなっていたっけ。ニョルが亡くなった時、ディス=プランは「自分の一方の手を失ったような気分だ」とコメントしている。

 2008年3月30日、実在人物の方のディス=プラン氏が、すい臓がんのため65歳で死去した。末期のすい臓がんであることは三か月前に判明しており、元同僚で友人のシャンバーグ氏も知らされていた。ニューヨーク・タイムズの追悼記事では「ディス・プラン最後の言葉」という映像も公開されており、映画のシーンや実在の当人たちの映像も拝めるので必見。
 訃報に接したシャンバーグ氏は「彼は、真実と人々のために戦う、本当の記者だった。がんが彼を襲ったとき、自分の人生のために、再び戦いに挑んだのだが」とコメントしたという。ディス=プラン氏当人は「カンボジア人は自分の体は借り物と考える。いわば魂を入れる家のようなものだ。家がシロアリでボロボロなら、もう去る時だ」と最後のメッセージで語っている。



◆映画は国境を越えて

 ふと気付くと今回は映画ネタが続いてるような…
 正確な表現は忘れたが、かの黒澤明監督は「映画は民族や国境を越え、世界中の人々が語り合える共通語である」というような言葉を残している。言葉の壁は字幕や吹き替えで簡単に乗り越えられるし、映像で見る風土や文化の違いは観客に世界には様々な人間がいることを理解もさせる。西部劇をはじめとして世界中の映画を見まくり、自身の映画で世界中の人々を魅了した大映画作家ならではの至言であろう。

 4月4日、インド国内の主要都市の映画館で、ある国の映画が実に43年ぶりに一般公開されたという話題が読売新聞に出ていた。どこの国の映画かといえば、お隣の国パキスタンである。すぐお隣とはいえもともと同じ「インド」だったものが宗教対立から分離独立したもので、北朝鮮と韓国、台湾と中国の関係に近い。カシミール領有をめぐって戦われた2度の印パ戦争以来、インド国内ではパキスタン製の映画はいっさい上映されていなかったのだ。
 インドは大変な映画大国で、大衆向け娯楽映画が凄まじい本数製作されている。日本でもひところその突拍子もない娯楽性がウケてちょっとしたブームになったことがある(さすがに続かなかったが…)。しかし一方のパキスタンは映画産業はそれほど盛んでもないようで、製作本数も少ない。しかも露骨に反インド的な内容のものも少なくなかったらしく、インド国内ではパキスタン映画の上映は法的には禁止されてないものの政府が認めない実質禁止状態だったのだそうだ。
 インドの前政権はヒンドゥー至上主義の傾向が強かったため、パキスタンと核実験合戦をやったり開戦寸前かと思わせるほど緊張を高めてしまった。その後現在の穏健的なシン首相の政権になって(シン首相自身はヒンドゥーとイスラムのアイノコであるシーク教徒だ)ここ数年は両国間は和平ムードが先行している。かつて激しい戦闘が行われたカシミール地方に両国をまたぐバスが開通したり、かつての東パキスタンであるバングラディシュとインドの間に旅客鉄道の再開通が決まるなど、40年ぶりにさまざまな交流が可能となってきている。今度のインド国内でのパキスタン映画公開もその一環で、2006年に特例での上映が認められ、今年2月から正式に「解禁」となり、この4月から一般公開が行われることになったのだ。
 このたび公開されたのはジョアイブ=マンスール監督作品「神の名において」。昨年インドで開かれた国際映画祭でも上映され評判となった映画らしい。イスラム穏健派の兄と過激派に走る弟との葛藤を描くドラマだそうで、詳しい内容は分からないが基本的には過激派を批判する内容になってるんじゃないかと。監督はインドの新聞の取材に「パキスタンとイスラム教への誤解を解く契機になれば」とコメントしているそうである。


 「イスラム教への誤解」といえば、オランダの極右政党・自由党のワイルダース議員がネット上で公開したイスラム批判映画が物議を醸している。「フィトナ(争い)」というタイトルのわずか15分の短編映画だそうだが、テロの映像にコーランの朗読が流れる場面が続き、オランダ国内のイスラム教徒増加のデータを示して、「イスラム化を止めよう。自由を守ろう」というテロップが出て終わるという。
 西ヨーロッパ各国ではイスラム系移民とその排斥を叫ぶ右翼勢力との紛争が社会問題になっており、とくにオランダは反イスラムを叫ぶ極右政党党首や、イスラム批判の内容を含む映画を製作した映画監督が批判派に暗殺される事件が起こり、「最も偉大なオランダ人」を投票で選ぶTV局の企画でその暗殺された極右政治家が1位に選出されてしまうという困った事態も起こっている。今度の短編映画公開もその延長線上にあるのだと思われる。
 この短編映画、当初は一般公開も考えたようだが内外からの批判も受けてネット上の公開という手段がとられた。だがネット上での公開自体にもイスラム諸国では批判の声が上がり、とくにかつてオランダの植民地支配を受けたインドネシアや、上記のパキスタンでは激しい抗議活動が行われている。パキスタンでの抗議デモでは参加者は「神聖なる預言者のために命を懸けよう」と書いた鉢巻を巻いていたそうだが、それこそ抗議の自爆テロだの暗殺だのやっちゃったら映画の主張を裏付けてしまうわけで。
 以前同様にテロとイスラムのイメージを重ねたデンマークの風刺漫画が問題になったことがあるが(「フィトナ」にもこの漫画が映るらしい)、ヨーロッパでは「表現の自由」を重んじ、内容はどうあれ作品の発表自体は規制しないのが基本。それに対してイスラム圏からは「表現の自由をたてに他人の信仰を侮辱していいのか」という声もあり、オランダ政府も上映そのものはさしとめようとしたらしい。この映画については国連の潘基文事務総長も内容を見た上で「侮辱的な反イスラム映画の公表を最大限の表現で非難する」と異例のコメントを発して公開の中止を求め、オランダ政府の姿勢を評価している。
 ただ、ネットだけに公開そのものを止めるのは難しいだろう。それに僕もいかなる内容であれ作品の公開そのものを公的機関によって中止させるというのは感心せず、基本的には公開はアリだと思う。これって政治家が作ってるから物議をかもしたわけだが、個人レベルなら日本も含めて世界中でかなり悪質な異文化侮蔑・人種民族差別の動画作品がネット上にはすでにあふれている。ただTVや劇場公開と違って気をつければ見たくない人の目に触れることはない。批判する側は公開されたものを見た上で批判するというのが筋だと思う。
 なお、この手の話には敏感に反応するイランではNGOが「フィトナ」に対抗して「ビヨンド・フィトナ」という製作してネット公開をするという話が出ているようだ。聖書の教えにかぶせてキリスト教徒の残虐行為の映像やローマ法王ベネディクト16世の発言を編集してみせるものだそうで、そこまでなら「アンチ・パロディ」として笑えるかもしれない。ただこの映画の製作者は「シオニスト(ユダヤ教徒)に支配された欧米のキリスト教」を描くと発言しており、こちらもまた歪みを感じてしまうところ。


 で、我らが日本だ。中国人映画作家・李纓(り・いん)監督のドキュメンタリー映画「靖国」が上映中止の圧力にさらされている。
 映画自体はまだ見ていないが、さんざん報じられてるところによると8月15日の靖国神社での毎年のような騒動の情景と、靖国に祭られる「靖国刀」を製作する刀匠の模様などを収録し、ナレーションはいっさいなく淡々と生の映像をつらねていく作品だという。作者の姿勢としては靖国そのものの是非を問うのではなく、その参拝の光景や日本刀にみる日本の精神性などを考えさせる内容、というのが一般的な紹介だ。中国人監督が「靖国」ということで脊髄反射した向きが騒ぎ出したようだが、試写を見た保守系の国会議員が「反日ではない」と明言、むしろ社民党系の議員が「靖国に肯定的」と受け取ったと発言しており、内容的に特に靖国神社に批判的なわけではないようだ。さまざまな素材を並べて見せて、あとは各自の判断におまかせ、というスタンスと思われる。

 そもそもこの監督、プロフィールを見ると中国人とはいえむしろ中国での報道・表現の自由の無さに幻滅して出国、日本に来てもう20年になるという人で、単純に中国政府の公式見解を述べるような映画作家ではない。靖国に関心をもったきっかけも南京虐殺否定の集会を見に行って驚き、日本における戦争と精神文化の関わりを探るテーマを求めるうち靖国神社に行きついたという。この映画を靖国批判を受け止める向きは映画に出てくる8月15日の情景を「異様」と感じ取るからだろうが、実際に「異様」なんだからしょうがない(笑)。
 この映画、今年になって急に撮影されたものではない。聞くところではすでに10年越しで素材を撮影してきており、刀匠の人にも一昨年の段階で撮影許可を得ている。ひとまずの完成はほぼ一年前に済んでおり、審査の上で文化庁の援助金を受けることも昨年決まったことだ。昨年末に週刊新潮がこの映画を「反日」ときめつけ文化庁から援助金が出ていることに難癖をつけ、公開が近づいた3月になってこの映画中にも登場しているという稲田朋美議員(弁護士で、「百人斬り訴訟」だの「沖縄集団自決訴訟」だのみんな関与し連敗中)が文化庁に対してこの映画の内容を公開前に見せろという圧力をかけたことから「それは検閲」として配給元による議員試写会となり、それが単純バカの右翼連中の脅迫活動となり、劇場の上映中止が相次ぐ騒ぎとなったわけだ。

 さすがに表現の自由への露骨な圧力にはほぼ全マスコミが批判し(事なかれで自粛に走る劇場側を批判する向きもあったが)、首相レベルまで懸念を表明する事態となったため、言いだしっぺの稲田議員も逃げを打ち、話題を呼んだことで上映館もむしろ増える空気となったのだが、今度は映画の重要な要素となっている刀匠の人が出演部分削除を求めるとか、靖国神社がいきなり「撮影許可を得てない部分あり」として該当部分のカットを要求するなど(撮影自体はだいぶ前から知ってたはずなんだが…)、なんとしても上映中止に追い込もうとしてるとしか思えない動きが続いている。すでに海外の映画祭でも何度も上映され、香港の映画祭で賞も受けているのだが、ここにきて突然あれこれと難癖が付き始めたのはその方面の団体がひっこみがつかず強硬手段に出ているようでもある。内容を聞くかぎりでは刀匠のシーンはむしろ靖国神社を軍国主義と切り離したうえで小泉元首相の言ってたような慰霊と平和祈願の施設として肯定する役割をもってるみたいで、これをカットすると異様なシーンばかり残って彼らとしてはヤブヘビなのではという気もするんだけど。いや、彼らは靖国を平和施設とはとらえてないんだろうけどさ。
 まぁ少なくともこの騒動だけで「靖国」周辺が異常な状態になってることだけは世界的に宣伝できた気もする。一党独裁で報道・表現の自由のない中国から民主主義と自由の国のはずの日本に来てこういう目にあうとは監督も困惑していることであろう。こうなったら削除要求のあった部分は真っ暗に字幕で内容を説明し、日本における「靖国」事情を逆に浮かび上がらせるというやり方もあるかもしれない。冒頭に挙げた黒澤明のデビュー作『姿三四郎』は戦時中に製作された柔道青春映画だが、これも当時の検閲官にほとんど嫌がらせのような削除要請を受け(結果的に残ったが主人公の「デートシーン」?への圧力が凄かったらしい)、再公開時にはさらにズタズタにカットされ現在みられる「一部字幕説明」状態になってしまい、図らずもその「時代」を後世に伝える作品となってしまうという例もある。黒澤の自伝でこのくだりを読むと、映画ファン的にも戦時中は絶対に肯定すべき時代ではないと思えますね。

 それにしても天皇・南京・靖国・慰安婦・沖縄が出てくると右翼連中がすぐ脊髄反射する動きは後を絶たない。昭和天皇の靖国発言をスクープしただけで新聞社に火炎瓶投げたバカがいたおかげで、先日聖火リレー妨害で目立ったNGO「国境なき記者団」(抗議行動はともかく聖火に直接手をかけるのはどうかと思うが)の「報道の自由度ランキング」2006年版では日本は51位まで転落したことがある(ナショナリズムのほかに記者クラブの存在もランク低下の理由)。その後こうした動きが減少したとして昨年は37位まで回復、アメリカや韓国をも追い抜いたのだけど、来年どうなるかわかったもんじゃない。


2008/4/13の記事

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