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2008年4月23日

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◆今週の記事

◆自治外じゃがしかたない

 タイトルについては元ネタが分かる人限定なので説明しません(笑)。
 で、その元ネタの元ネタ、というかヒントにはなったはず、と言われているのがモーリス=ルブランの小説『三十棺桶島』(1919年発表)だ。ルブランといえば…そう、もちろんこれもアルセーヌ=ルパン・シリーズの一作である。もっともルパン当人の出番は最終局面だけで、フランスでTVドラマシリーズ化されたときにはルブラン遺族の意向でルパン登場シーンが削除されていたそうである。確かにそれでも十分成り立つお話だ。
 知らない方のために簡単に紹介しておくと、時代は第一次世界大戦のさなかの1917年。美女べロニックはふとしたことからブルターニュ地方へ向かい、そこで15年前に死んだと思っていた自分の父親と、自分が産んだ息子が「サレック(Sarek)島」という孤島で生きていたことを知る。喜んで島へと渡るべロニックだったが、サレック島は三十の岩礁に囲まれ、三十のドルメン(ヨーロッパ各地にみられる数千年前の巨石構造物)があることから「三十棺桶島」という不吉なあだ名を持っていた。べロニックが島に上陸したとたん、中世の修道士が書いた予言詩に従って大量殺人が発生する…とまぁ、こんなストーリー。読んだ人の多くが横溝正史金田一耕助もの(とくに「岡山シリーズ)の元ネタはこれだな、と思うほかない恐怖ミステリー長編だ。フランスの中でもケルト系の独自文化を維持し続けたブルターニュ地方を舞台に、ドルメン、メンヒル、ドルイドといった謎の古代アイテムを彩りにオカルトな雰囲気を漂わせているのが特徴で、ウン千年におよぶ悠久の歴史と当時の最新科学とが見事に融合する結末は今読んでも新鮮。「怪盗ルパン」とひとくちに言ってもこういうのもあるんですよ、と未読の方にはお勧めしておく。なお、この小説に関する詳細な「ネタばれ雑談」は「怪盗ルパンの館」コーナーにございます。(^^)

 英仏海峡に浮かぶ「サーク(Sark)島」…という新聞記事を見て、まっさきに思い浮かべちゃったのが上記の「三十棺桶島」だったわけだ。もしかしてモデルか?と思っちゃうほどの名前の類似だが、場所はまるっきり違う。googleの衛星写真で確認してみよう。



 「三十棺桶島」こと「サレック島」はもちろん架空の島だが、小説を読み込んでいけばその位置はだいたい特定できる。この特定作業は「怪盗ルパンの館」のネタばれ雑談コーナーでやってるので興味のある方はそっちを見ていただくとして、上左写真に示したように「サレック島」はブルターニュ半島の南側に浮かぶ島である。これに対し今度ニュースネタになった「サーク島」はノルマンディーはコタンカン半島の沖合にある。面積5.2平方キロという小島なので上右図のように拡大してやっと見えるぐらい。
 しかもこの島、どうみてもフランスのそばにあるが、フランス領ではない。驚いたことにイギリス領なのだ。といっても英仏関係史をかじった方はハハン、と思い当ることがあるはず。現在のイギリス王室につながるイングランド王家はもともとこのノルマンディーの地の領主だったのだ。

 そもそもノルマンディーという地名は北欧ヴァイキングの「ノルマン(北の人)」に由来する。10世紀、族長ロロに率いられたノルマン人たちの度重なる侵攻に手を焼いたフランス国王は、ロロを「ノルマンディー公」に封じて臣下とし、この地を領主として定住させた。このロロの子孫であるノルマンディー公ギョーム(英語ではウィリアム)は1066年にイングランドに侵攻、これを征服して自らイングランド国王に即位する。これを「ノルマンの征服」と呼び、その後のイングランドの国家形成に決定的な影響を残すことになるのだが、歴代のイングランド国王はフランス国王臣下のノルマンディー公の地位もしばらく兼任しており、長いあいだ気分的には「フランス人」だったと言われている。
 やがてイングランド国王とノルマンディー公は分離したが、このノルマンディーの沖合にあるこれらの島々―「チャンネル諸島」と総称される―はイングランド国王の私領であり続けた。だから今でもこんな場所にある島々がイギリス領なのである。
 16世紀になってあのエリザベス1世がこの島々の領主に統治権を付与し、以後400年以上にわたってこのチャンネル諸島はイギリスの「王室保護領」という扱いになっていた。つまり外交と防衛に関してはイギリスに任しているが、「内政」に関しては島の領主たちの裁量に任され、イギリスの法律もここでは原則的に適用されないことになっていたのだ。

 サーク島は人口600人。島の領主は150年前からボーモント家がつとめている。地主たちが40人おり、彼らが選挙なしで自動的に選ばれる「世襲議員」として島内の政治を運営してきた。こんな小さな島であるから主力産業は観光業、自動車は使用自体が禁じられており舗装道路も街灯も存在せず、住民たちは自転車・馬車・トラクターで島内を移動するという(まぁ距離的にもそれで十分なんだろう)
 「ヨーロッパ最後の封建国家」などといわれるこうした構造、横溝正史ワールドっぽくて嬉しくなっちゃうのだが(笑)、2000年に欧州人権裁判所からついに民主制への移行が要求されてしまった。地主たちは「この100年、戦争も迫害もなく平和にやって来た牧歌的な島だ」として“民主化要求”に抵抗したらしいが、本国のイギリスからも圧力がかかったため領主・地主も民主化やむなしと判断、今年一月の住民投票により議員公選制への移行が決定されていた。この決定をイギリス本国の枢密院が去る4月9日に承認したことで「ヨーロッパ最後の封建制に幕」、と大きく報じられちゃったのである。
 
 今年の12月に最初の「総選挙」が行われ、定数28の議員を決め、2009年から新体制スタートという予定。しかし選ばれる議員さんは結局地主さんたちばかりになるのではないかなぁ。議席数が減ったことで熾烈な競争となり、島内で紛争勃発、なんてそれこそ横溝正史みたいな事態にならなきゃいいんだが。
 


◆オー!毛ーレツ!

 で、こちらネパールはといえば、王政がようやく廃止の瀬戸際。
 ネパールは王政とはいえ立憲君主制・国民主権の体制をとっていた。ところが21世紀に入った2001年に王太子がビレンドラ国王ら王族たちを射殺した上自殺(ってことになっている?)という大事件が発生、偶然なのかその場にいなかった王弟・ギャネンドラが新国王となる。そしてこのギャネンドラ国王が2005年に議会を停止して自ら直接政治権力をにぎる「絶対王政」を敷いてしまい、これに反発する市民らの民主化要求運動が活発化、そして以前から農村部で反政府ゲリラ戦を展開していたネパール共産党毛沢東主義派(以下、「毛派」)も勢力を拡大、混乱に拍車をかける結果となった。翌2006年にギャネンドラ国王は「絶対王政」を断念、発足した新政権は毛派との和平を成立させて彼らの政権参画を認めた。毛派は政権参画にあたって王制そのものの廃止を絶対条件としていたから、これにより王制廃止はほぼ確実な情勢になっているのだ。

 4月10日、ネパールでは新憲法制定のための議会選挙の投票が行われた。開票に時間がかかるらしく、この記事を書いている時点で最終的な結果は出ていないのだが、選挙前の予想通り、毛派が議会の第一党となるのは確実といわれている。ただし議会は定数601議席で、そのうち毛派が占めるのは250前後ではないかと予想され、一党のみで過半数は確保できず他党との連立を模索することになりそうだ。それにしてもつい数年前までゲリラ戦を展開していた反政府勢力(アメリカからはテロ組織認定もされていた)が議会で第一党になっちゃうんだから、よっぽど草の根支持が広かったのか、はたまた他の既成政党があまりにだらしがないのか…

 ところで「共産党」「毛沢東主義派」と聞けば「中国の影響が強い政党」というイメージをもたれやすい。が、現在の中国共産党とは直接的には関係なく、むしろ中国側から「その名前はやめろ」とイチャモンをつけられ、あまつさえ国王側に中国政府が支援していた事実もある。
 もちろん「毛沢東主義」そのものは毛沢東が言い出したことであり、中国発祥だ。ただし中国共産党が最初から掲げていた理念ではなく、無茶すぎる計画経済「大躍進政策」の失敗で一時失脚していた毛沢東が復権を狙って仕掛けた大衆運動、いわゆる「文化大革命」の中で盛んに喧伝されたものだ。毛沢東自身も複雑にいろんなことを言う人だからその「主義」を簡単にまとめることはできないが、文革期に盛んに言われたものは「農村から都市を包囲」「ブルジョア知識人・エリートへの敵視」「前時代的なものを徹底否定」といった傾向にまとめられるだろう。これは中国国内では毛沢東の政敵打倒、エリート層・知識人への攻撃、学生らの農村下放、文化財の破壊など、何一つロクなことがなく国内の大混乱を招いただけで、文革中に迫害されたトウ小平が主導する共産党により「完全な誤り」と定義されている。
 ところが国外からはこの文革が魅力的な革新大衆運動と映ってしまったケースが多い。西側欧米諸国でも知識人や学生運動に影響を与えていて、日本も例外ではない。先日若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍」を鑑賞してきたが、ここで描かれる「赤軍派」や「革命左派」といった左翼系学生組織は毛沢東主義の影響をモロにかぶっている。フィクションのシーンだそうだが、雪の中を彼らが「毛沢東語録」を唱えながら行進していくシーンはそれを視覚的に示したものだ。また発展途上国の革命運動にも影響は多大で、カンボジアのポル=ポト政権が毛沢東主義をさらに極端に推し進めて集団農業国家化、知識人・ブルジョア層の大量虐殺を実行した例が有名だ。日本大使館占拠事件で知られるペルーの「センデロ・ルミノソ」など、南米の農村部反政府運動には毛沢東思想を掲げるものがある。
 ネパールやインドに存在する「毛派」勢力もこうした流れの中で生まれ、貧困な農村部で支持を集めて武装闘争を展開してきた。念のため書いておくとネパールにもインドにも「毛派」とは別の「共産党」が存在しており、社会主義政策を掲げつつも穏健かつ議会政治による政策実行を目指している。ネパールの場合、「ネパール統一共産党」が政権に参加して「王制と共存する唯一の政権参加共産党」などといわれたこともあったらしい。しかし今度の選挙結果をみるとこの統一共産党は都市部が支持基盤なのか、貧困農民の支持の受け皿にはなれていなかったようだ。報道によると統一共産党幹部は「毛派が負けた場合、結果を不服として過激な抗議行動をとることを心配した面もあるのではないか」とコメントしたらしいが…

 第一党となることが確実になった18日夜、テレビ番組に出演した毛派のプラチャンダ議長は「国王は国民の審判を理解し、尊重して自ら宮廷を去るべきだ」として、ギャネンドラ国王の自主的退位を要求する姿勢を示した。「国王がいさぎよく退位すれば、国民は彼がこれまでにしたことを許すだろう」とやさしげなことも言ったようだが、「歴史上には処刑されたり、追放された国王も多いが、それを繰り返してはならない」と、やや脅しともとれる発言もしている。これを受けてか、インドでは「ギャネンドラ国王、インドに亡命」とのトバシ記事も出た模様。
 だが21日になってギャネンドラ国王は沈黙を破り、最近の王制廃止・亡命に関する報道を「真実ではない」とわざわざ否定する声明を発表した。まだまだこの人、あきらめていないようで、富裕層や宗教界(ヒンドゥー教徒)など王制存続派の動きをアテにしているようだ。毛派が「自主的退位」をうながす発言をするのもいざ王制廃止に踏み切るとそうした保守勢力の抵抗を受けて混乱することを恐れてるからでは、との見方もある。



◆それって日テイ?

 右はまたまたgoogleの衛星写真。どうもルパンコーナー作ってるうちに常用するようになってしまって。
 これはどこの写真かといえば、台湾は台北市の中心部。しかも台湾政治の中枢、総統府の建物を上空から見下ろしたものである。拡大すればもっと細かいところまで見えるわけで、ちょっと前のスパイ衛星並みのことが一般家庭のパソコンから見れることになるとは時代の進歩とは恐ろしいもんである。
 で、この台湾(中華民国)総統府の建物の形をよ〜くごらんいただきたい。なんかの字に似てません?そー、そー、中国の「中」を横倒しにしたものですね、ってのは冗談で、ずばり日本の「日」の字になっているんである。それもそのはず、現在台湾の総統府に使われている建物は、もともと日本がこの地を植民地支配していた時代の「台湾総督府」の建物だったのである。台湾では日本統治時代のお役所の建物の多くがそのまま現在の主要な施設に利用されているのだそうだ。

 日本が台湾を領土としていたのは日清戦争講和の下関条約で獲得した1895年から、太平洋戦争に敗北・ポツダム宣言受諾で失った1945年までの半世紀。朝鮮半島の「日帝38年」よりも長い。現在総統府となっているこの台湾総督府の建物は日本人建築家の設計により1912年に着工、1919年(大正8年)に完成したというかなりの年代モノだ。1919年といえば第一次世界大戦の講和条約「ベルサイユ条約」が結ばれた年で、これと連動して朝鮮では三・一独立運動、中国では五・四運動が起こっている。
 太平洋戦争末期に台湾総督府はアメリカ軍の空襲を受け、建物は大きく破壊された。戦後に中華民国政府が建物を接収・修復して1948年に蒋介石60歳を記念して「介寿館」と命名されたが、その完成直後に中国共産党との内戦に敗れ大陸を追われた蒋介石と国民党政府が台湾に逃げ込んできて、この建物を中華民国の総統府とした。もっとも建物自体の名称は「介寿館」のままで入り口にもその名が掲げられ続けていた。
 この看板をはずして建物自体の名前も正式に「総統府」と改名されたのは2006年3月のこと。台湾独立志向を強め、蒋介石関連や「中華民国」の名称を忌避する政策を進めた民進党の陳水扁政権による決定だった。

 そして今年3月、台湾の総統選挙は国民党党首の馬英九・前台北市長の圧勝に終わり、国民党は8年ぶりに政権を奪回した。馬氏の総統就任は5月20日に予定されていてまだまだ先だとは言えるのだが、早くも中台=共産党・国民党間の対話促進やら一時議論を呼んだパンダ受け入れなど対中融和を進めようとする動きが始まっているようだ。
 その馬氏が総統府の移転を検討している―との、ちょっと驚くようなニュースが4月18日に報じられた。17日に馬氏と会談した政治大学台湾文学研究所所長のの陳芳明(民進党関係者で総統選では当然対立候補を応援した)が明らかにしたもので、陳氏が「民進党政権は国民党時代の歴史見直しを進めたが、日本統治時代についてもしなければならない。例えば元総督府である建物が民主化した台湾の総統府となっているのはふさわしくない」といった話をして、総統府を移転し現在の建物を「歴史博物館」として保存するとの提案をしたところ、馬氏も「台北市長時代から検討している」と答え、台北の郊外へ移転することも考えていると述べたというのだ。

 日本統治時代の建物といえば韓国ソウルにあった「朝鮮総督府」の件が連想される。旧朝鮮総督府の建物は1926年に完成したもので、朝鮮王朝の王宮の目の前をあからさまにさえぎるように建てられていた(これについて韓国では「風水」がらみの意図があったとする声もあるが、単純に目立つところに置いたということじゃないかと)。日本が太平洋戦争に敗北し、大韓民国の成立後もこの建物ははじめ政府庁舎、やがて国立博物館として利用されていた。だが「植民地時代の屈辱の記憶」として撤去を求める声も強く、軍事政権時代を終えてようやく文民政権として発足した金永三大統領のもとで旧総督府の撤去が決定され、1995年までに建物は跡形もなく撤去された。移築して保存という意見もなかったわけではないが、それもまた予算がかかるということで結局破壊することになっちゃったもので、いろいろ感情はあろうが歴史的建造物は基本的にとっておいたほうがいいんじゃないのかなぁ、と僕はもったいなく思ったものだ。
 
 まだ決定したわけではないが、台湾次期総統の「移転計画」のアイデアに、台湾ではちょっとした議論沸騰状態らしい。「じゃあ台北市内の司法院や大学など日本時代の建物を使ってるのは全部移すのか」とか「どうせ移すなら高雄へ“遷都”して南北の融和をはかれ」とか「いや台中へ政府機関をまるごと移して」といった意見まで出ているそうで。元国民党党首で総統府の主であった李登輝前総統なんかは「大いに結構だが軍事的に危険なところはいけない」とコメントしていた。



◆ナヤンデルタール人

 人間はいつから言語を話したのか、を確定するのは難しい。歴史の教科書なんかだと数十万年前の原人段階で言語を獲得していたと書いてあるんだが、録音があるわけもなく、脳の大きさや集団行動のあり方から推測しているにすぎない。また仮に言語みたいなもので仲間同士のコミュニケーションをとっていたとしても現在の人間が駆使するようなものであったとはとても思えず、人間以外の動物が仲間同士で行う意思疎通のコミュニケーションとどれだけ違ったのかという疑問もわいてくる。イルカが一種の「言語」を持ってるという説もあるし、犬のほえ方にも「方言」があるなんて話もあった。
 現在の人類の前段階に世界に広がり、約3万年前までに絶滅したと言われるネアンデルタール人は、現生人類とは種として異なりながらもかなり高度な「文化」を持っていたといわれる。当「史点」でも過去に何度かとりあげているが、ネアンデルタール人は老人など一人では生きられない弱者を助ける福祉精神を持っていた形跡があるし、死んだ仲間を埋葬する習慣を持ち、墓に花まで供えるなど宗教的感覚を持っていたと推測されている(もっとも「花」については墓から花粉が出てきたというだけで、偶然花粉が飛んできただけとの意見もある…)
 ずいぶん前に読んだSF(?)冒険小説「ネアンデルタール」(ジョン=ダーントン著)では現在もアフリカの奥地にネアンデルタール人が生き残っており、実は彼らはテレパシー能力を持っていてそれでコミュニケーションをとっていたというオチになっていた。いかにもハリウッド映画っぽいストーリー展開で、実際「スピルバーグ映画化!」の帯がついていたのだが、結局お流れになっちゃってるようである。

 さてネアンデルタール人ぐらいなら言語を話しただろうと推測されているのだが、実際にどんな言葉を話したのか分からず専門家たちは悩んでるタール人だった(笑)。ところがこのたび、アメリカの研究者が「ネアンデルタール人の声」の再現に挑んだのだ!
 やっちゃったのはフロリダ州アトランティック大学のロバート=マッカーシー准教授。彼はフランスで発見された約5万年前のネアンデルタール人の化石を分析、コンピュータの合成音声によりその「声」を再現してみせたのだ。CNN日本語版記事によるとその「声」は「カエルの鳴き声とも人間のげっぷとも聞こえる奇妙な単音」だったそうだが…「グエッ、グエッ」って感じなのかな?マッカーシー准教授は「言語として話す場合に基本となる、非連続的な母音を出せなかったと考えられ、私たちとは違った『話し方』だっただろう」と推測しているそうで。うーむ、だとするとカエルも「言語」をしゃべってる可能性が…(笑)。
 ところで元ネタにしたCNN日本語版記事、最初に読んだときネアンデルタール人について約3年前に絶滅したと考えられている」って出てたんだが(もう直ってます)


 「ネアンデルタール人」の名前は最初に発見・確認されたのがドイツ国内の「ネアンデル渓谷(タール)」だったことに由来する。
 そのドイツのガブリエル環境相がアメリカのブッシュ大統領が発表した温室効果ガスの削減についての中期目標について、「工業国による強制力ある上限や削減目標の設定なしに、気候変動は止まらない」「欧州や米国が先行しなければ、他の国々はついて来ない」などとして、ブッシュ大統領が示した目標が不十分どころかむしろ以前より後退していると批判した。その「後退」を「退化」とひっかけたか、「ネアンデルタール人の演説だ」とブッシュ大統領を皮肉っていた。そういえばブッシュさんって、以前から「おサルのジョージ」だの「チンパンジー」だの言われてますっけね。「ネアンデルタール人」ならまだ「進化」してる方かもしれない(笑)。「3年前に絶滅」どころか、今もなお世界に君臨していたというオチである。 


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