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2008年5月8日

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◆今週の記事

◆ハワイ王朝復興運動!?

 恒例となっている「四月バカ史点」で、今年は「蝦夷共和国亡命政府」というネタをやったのだが、それをホーフツとさせるような事件が起こっていた。このゴールデンウィークにも日本人が多く繰り出すハワイでのことである。

 4月30日の午後(現地時間)、ハワイ・ホノルルのイオラニ宮殿「ハワイ王国政府(the Hawaiian Kingdom Government)」なる団体のメンバー35名以上(一部報道では60名)がやってきて、入口全てを南京錠で封鎖、正面玄関に「警告!不法侵入を許さず ハワイ王国政府」とのプラカードを掲げて観光客の立ち入りを禁じ、宮殿を一時占拠してしまうという騒ぎがあった。当局の説得を受けて午後4時には平和裏に解決、逮捕者も出さずに「王国政府」メンバーたちは引き揚げたが、「追い出されようと毎日でも来る。封鎖はしないが」と報道取材にコメントしている。
 名前から察せられるだろうが、この「ハワイ王国政府」なる団体はアメリカ合衆国によるハワイ併合(1898年)を不法なものとして認めず、ハワイの政治的独立を主張している先住民団体だ。リーダーのマヘアラニ=カハウ氏は「我々はハワイの正当な支配者であり、宮殿敷地の法的権利を持っている」と主張、「我々が言いたいことは、“ハワイ王国政府”がここにあり、立ち去るつもりもないということだ。我々がここにいる理由はカナカ(=ハワイ先住民)のみならず全ての人々が助けを求めているからだ」と語っている。

 中学生相手に授業をしてるとハワイが独立国だと思ってる生徒が少なくない。いや子供だけでなく大人でも結構多いんじゃなかろうか。あまりの日本人観光客の多さに日本の植民地化が進んでる、なんて冗談もあったりするが(笑)。
 だが歴史的に見ればハワイ諸島は19世紀末までレッキとした独立王国だった。この地にイギリスのキャプテン・クックが最初の白人として探検に来た1778年、すでにポリネシア系住民によりいくつかの王国が成立していた。クックは翌年の再度来訪の折りに住民とトラブルを起こして殺害されてしまうのだが、以後ハワイには続々とイギリス人がやってくるようになる。このイギリス人の軍事協力も得て割拠していた諸王国を平定、1810年にハワイ諸島の統一に成功したのがカメハメハ大王(1世)だ。ところで、この名に由来する「かめはめ波」はハリウッド映画版ではどう処理されるんでしょうか(笑)。
 このカメハメハによって建国された「ハワイ王国」はイギリスにならった立憲君主制を目指し(現在もハワイ州旗として使われる当時のハワイ国旗にイギリスの「ユニオンジャック」があるのはその縁でらしい)、1840年には憲法を制定、二院制の議会政治を実現している。ただし建国段階から欧米人が政治に深く関与しており、キリスト教布教もあいまってその影響力は増すばかりだった。カメハメハ王朝は5代で後継者のないまま絶え、その後は選挙による国王選出となる。選挙で選ばれた第7代国王カラカウアはアメリカの影響力が強まるなか生き残りを図って世界中を訪問、1881年に日本も訪問して明治天皇と会見、姪のカイウラニ王女と皇室の山階宮定麿王(東伏見宮依仁)との縁談を持ちかけて連携を図ろうと画策してもいる(日本側から断られたが)。またポリネシア諸国との連合も画策し、サモアと連合国家を成立させる寸前までいったが、1887年に危機感を抱いたアメリカ系移民らによるクーデターが発生、カラカウアは彼らの要求をのんでアメリカ移民の権限拡大と王権縮小を定めた憲法を制定するはめになった。この経過を以前NHKの「その時歴史が動いた」で一部ドラマで再現しており、そのときカラカウアを演じたのがハワイ出身のKONISHIKI(言うまでもなく元大関小錦)で、太りすぎではあったが結構似せていた(笑)。
 カラカウアは1891年にサンフランシスコで死去、妹のリリウオカラニが女王に即位したが、その直後に王制廃止を求めるアメリカ系移民らがアメリカ海兵隊の力も借りて「革命」を起こし、臨時政府を樹立。1894年に「ハワイ共和国」成立が宣言され、1895年には王政派が武力で鎮圧されリリウオカラニも廃位される。「ハワイ共和国」は1894年に正式にアメリカ合衆国の準州として併合されることになった。洋の東西、強者が弱者を強引に飲み込んでいく経過はどこも似たり寄ったりなものだ。

 今回の騒ぎの舞台となったイオラニ宮殿はカラカウア王によって1880年代に建設された近代的かつ豪華な宮殿で(なお、現在のアメリカ国内で「宮殿」と名のつく建物はこれだけ)、ハワイ王国の近代国家としての独立を図ったカラカウアの意図を象徴する建物と言える。ハワイ独立を主張する団体がここを占拠する騒ぎを起こしたのも、それを強く意識してのことだろう。なぜ今、という気もするが、なんとなく昨今話題をふりまいたチベット問題も刺激になった可能性も感じる。
 なお、ハワイ独立を主張する団体はこの「ハワイ王国政府」だけではなく、複数存在しているそうで。例えば近頃よく見る「フリー・チベット」ならぬ「フリー・ハワイ」という団体の公式サイトというものがこちらにある。このサイトを見ると「1998年2月22日にイオラニ宮殿においてハワイ国王に即位した」と主張する「アカヒ・ヌイ陛下」なるお人がおられるようだ。このサイトでは彼が国際的にも公認されてるようなことが書かれているが、どうも読んでいて眉唾感が…いえね、今ちょうど読んでる本で「明治天皇の隠し子」を主張していた人(故人)の言ってたことと部分的によく似たものを感じちゃったもので。



◆冷戦時代は歴史の彼方?

 僕は「東西冷戦」というやつを目の当たりに見た、といえる最後の世代かな?と思っている。少なくとも物心…いや社会情勢というやつに興味・関心を寄せるようになっていた時点で「東西冷戦」は現実の社会情勢として目の前にあった。実際に火を噴く戦争は身近ではなかったのだが、「米ソ核戦争による人類滅亡」というシナリオが現実の恐怖だった時代だ。フィクションの世界でも「風の谷のナウシカ」だの「北斗の拳」だの「核戦争後の地球」ネタのなんと多かったことか。
 今年北京オリンピックをめぐってあれこれ物議を醸しているが、現実に東西陣営の片方がまるごとボイコットした大会(それも2連続)を目の当たりに見てる世代からすれば、開会式に出るの出ないの程度が議論になる状況なぞチャチな騒ぎとしか思えない。それにオリンピックの開会式っていつから全世界の首脳が出席しなきゃいけないことになったんだろ?とも。逆にアメリカのブッシュ大統領がわざわざ執拗に「出席」を表明しているのも不可思議な感じがする。

 そのアメリカはソ連と激しい「冷戦」をしたが、直接的に戦火を交えたことは一度もない。朝鮮戦争で北朝鮮軍にソ連の戦闘機が極秘で協力参加していたということはあるらしいが、少なくともソ連軍として直接的にアメリカ軍と戦闘を交えたことはない。それでも一触即発の危機は何度かあって、その一つが戦後間もない1948年の「ベルリン封鎖」だ。
 降伏後のドイツはソ連・イギリス・アメリカ・フランスによって分割占領された。首都ベルリンも東ベルリンをソ連が、西ベルリンを他の三国が占領統治することになったが、東ドイツ領域はソ連が占領していたため西ベルリンは西側陣営の「飛び地」となった。この西側の飛び地を完全に制圧するため1948年6月、ソ連は西ベルリンへの交通路をすべて遮断、まさに兵糧攻めにした。これに対して英米空軍が空路による西ベルリンへの物資輸送大作戦を展開、日本への空襲作戦で悪名も高いカーチス=ルメイらの立案により24時間体制で3分に1度飛来、1日当たり5000トン、それをおよそ14ヶ月で27万回飛来という凄まじい空輸を実行して西ベルリン市民の生活を支えた。これによりソ連は西ベルリン封鎖をひとまず断念することになる。いわゆる「ベルリンの壁」が築かれるのは1961年のことだ。
 このベルリン空輸作戦の「主戦場」の一つとなったのがテンペルホーフ空港だ。1923年に開港というかなり古い空港で、ヒトラーの指示で現在の形に整備されたというが、滑走路が狭いために大型機時代に対応できず利用者は減少、近年は大幅赤字(年間約16億円とか)を計上してベルリン市の重い負担となっていた。2011年からブランデンブルク国際空港(現時点で仮名。ブラントかアインシュタインなど人名をつけようという議論があるそうで)が開港することもあってベルリン市当局はテンペルホーフの廃港を決定したが、「歴史の舞台」として同空港の存続を求める市民の声やメルケル首相の保守系政党・キリスト教民主同盟の存続主張もあり、4月27日に住民投票が行われることになったのだ。
 住民投票の結果、存続賛成票が実に6割。おお、じゃあ存続決定かと思ったらさにあらず。投票率が3割程度と著しく不調であったため、存続賛成の票が全有権者の25%以上という住民投票の成立条件を満たさなかったのだ。どうも大半のベルリン市民は関心自体が薄かったみたい。かくして同空港の廃港は確定となり、跡地に「ベルリン空輸」の博物館でも作るかというアイデアも出ているそうで。
 

 このベルリン封鎖の直後の1949年10月に中国に共産党政権の「中華人民共和国」が成立する。東西冷戦は東アジアにおいて熱い戦いとなり、翌1950年に朝鮮戦争が勃発、韓国と北朝鮮のみならずアメリカと中国も参戦して直接的に戦火を交えた。このときアメリカ軍の総司令官であったダグラス=マッカーサーは中国領への核攻撃を進言したが、トルーマン大統領はこれを退けてマッカーサーを解任したというのはよく知られた史実だ。
 今年4月30日にジョージ・ワシントン大の国家安全保障公文書館が入手したアメリカ国防総省の機密文書の内容が公表され、1958年の台湾海峡危機の折にもアメリカ軍で中国への核攻撃が提案されていたことが明るみになった。このときもアイゼンハワーが最終的に使用に同意しなかったため、実際には使用されなかったわけだが。

 中国共産党に敗れた国民党政府が台湾に逃げ込んだ結果、台湾海峡は東西冷戦の最前線の一つとなった。当時海軍力を事実上持たなかった共産党は海を越えることはほとんどできず、国民党軍は台湾海峡の福建省沿岸の金門島(大・小あり)などいくつかの島を拠点として押えていた。ちょっと余談になるがこの島は明の時代すでに沿岸防衛の拠点の一つで、倭寇の襲撃を受けた地のひとつでもあるため倭寇研究専攻の僕にも結構なじみの土地であり、対倭寇戦の英雄として知られる武将・兪大猷(ゆ・たいゆう)もここに配属されていたことがある。
 1958年8月23日、この金門島に中国人民解放軍が対岸から激烈な砲撃を開始(この戦闘での着弾数は世界戦史上の最高記録だそうな)、空港や港湾を破壊して金門島を封鎖せんと図った。この砲撃を受けた国民党軍は当初大きな損害を受け、国防部長だった兪大維が重傷を負っている(名前がビックリするほどよく似ているが、調べた限りでは俞 大猷とは何の関係もない人らしい)。国民党軍も報復の砲撃を行い、国民党の後ろ盾であるアメリカも第7艦隊を台湾海峡に派遣してにらみを利かせ、金門島守備隊への海・空からの補給を支援した。
 アメリカ軍で中国本土への限定的核攻撃が立案されたのがこのときのこと。統合参謀本部が閣議で提案した作戦は、福建省アモイ周辺に10〜15キロトンの核爆弾を投下し、それでも中国軍が金門封鎖を解かないなら上海などへの攻撃を行う、というものだった。ただしその場合、中国軍が台湾や沖縄に対して核の報復攻撃を行う可能性があるとの指摘もついていたようだ(中国の原爆実験成功は1964年ということになってるが保有疑惑があったのかも)。この作戦はアイゼンハワー政権の閣議で了承され、核攻撃を念頭にB47爆撃機5機が台湾領空まで出動したが、アイゼンハワーは「殺傷力の高い兵器の投下を承認する前に、通常兵器で中国に警告を与えるべきだ」として核使用に強い躊躇の念を示した。その文書では「大統領は核兵器と通常兵器は同じとする主張を全く受け入れなかった」とあり、軍人たちとしてはマッカーサー同様に「強力な兵器があるのになぜ使わないんだ」という感覚が強かったことを感じさせる。
 アイゼンハワーは事態が悪化・長期化した場合は核攻撃も選択肢として容認する姿勢を示していたようだが、核攻撃をするぞという脅しをわざとチラつかせていた節もあり、事態の悪化を懸念したソ連も中国に圧力をかけたため、10月には戦闘が終結した。その後国民党自身も核開発をひそかに進めようとしたがアメリカの圧力でつぶされていたことが昨年台湾政府によって公式に確認されている。中国の方はむしろこのあとソ連への不信感を強めて核開発を進め、1970年代の初めには米中接近が行われることになるんだから、国同士のつきあいは人間関係にも似て先が読みにくい。
 
 冷戦の終結が宣言され、象徴的にベルリンの壁が崩壊したのが1989年のこと。この年は天安門事件が起こった年であり、日本では平成の元年である。平成も今年で20年ということで、思えばずいぶん時が流れたのだなぁ…と、中国の主席と日本の天皇が晩餐会で隣に並んでる映像を見つつこの文章を書いていた。



◆4月1日の大発見?

 発見が4月1日だったが、発表は4月30日になって行われた。もちろん調査や準備の時間が必要だったんだろうけど、やっぱり「4月1日に発見」と4月前半で報じられちゃうと本気にされない恐れを考慮したのではないかと(笑)。

 2008年4月1日、アフリカ南部の国・ナミビアのダイヤモンド採掘業者が、ナミビア南西の大西洋沖で一隻の沈没船を発見した。沈没船からはスペイン金貨とポルトガル銀貨が数千枚、50本以上の象牙、数トンの銅、食器や武器、航海用の天体観測に使う真鍮製のアストロラーベ、スペイン製大砲6門などなどが引き上げられ、まさに絵にかいたような「お宝沈没船」だった。
 発見された金貨・銀貨を鑑定したところ、「15世紀後半から16世紀初頭に使用されたもの」と判明した。15世紀後半から16世紀初頭といえばスペインとポルトガルが綱領の国インド目指して東西に航路を開拓した、まさに「大航海時代」。世界史の年表を見れば1488年にポルトガルのバルトロメウ=ディアスがアフリカ南端の「喜望峰」に到達、1492年にはコロンブスがスペインの後援で大西洋に乗り出して「西インド」に到達、1498年にはポルトガルのバスコ=ダ=ガマが喜望峰を越えてインドのカリカットに到達している、まさにその時代だ。

 今回発見された沈没船はその積み荷からスペイン・ポルトガルの関係者には間違いなさそうだが、どういう船であったかは現時点では断定されてない。僕が見かけたAP通信の記事では「探検家・商人・海賊」のどれも可能性あり、ということだったが、発見したダイヤモンド採掘会社の発表ではかなりのビッグネームである可能性が示唆されていた。そう、上記の世界史年表でもおなじみの探検家、バルトロメウ=ディアスその人の船の可能性あり、というのだ!
 海の歴史をやってるくせに恥ずかしながら知らなかったのだが、ディアスはアフリカ南端到達後もあちこち航海を続けていたのだ。ディアスの航海によりアフリカの南端をまわってインドへ向かう航路開拓の現実性が確かめられ、1497年にバスコ=ダ=ガマの艦隊がインド目指して派遣されたが、そのときディアスはガマ艦隊の水先案内人としてヴェルデ岬(アフリカ最西端の岬)まで同行している。インドへのルートの手がかりを見つけながらインド初到達を目指す艦隊には参加できず途中までの案内役だけさせられているあたり、当時の彼の立場を感じさせられるところもある。
 その後1500年にはカブラル率いる第2回のインド遠征艦隊にはディアスも加えられ、ようやくインドを目指せることになったのだが、この艦隊は嵐にあって大西洋を西へ漂流、偶然にも南アメリカ大陸東部に漂着してしまい、カブラルはこの地を「ブラジル」と名付けてポルトガルの「新領土」としてしまうことになる。これがブラジルがポルトガル領となり、現在も南米ではブラジルだけポルトガル語圏である原因となっているわけだが、カブラル艦隊はあくまで当初の目的通りインドを目指してブラジルを後にし、東へ大西洋を突っ切ってアフリカ南端へと近づいた。このとき嵐が艦隊を襲い、4隻の船が消息不明となった。その4隻の中に不運なディアスの船も含まれていたのだった。その後カブラルはというと執念でインドに到達して1501年6月にポルトガルへと帰還している。13隻で出発した艦隊はたったの4隻に減っちゃってたけど。

 ディアスの船は恐らくナミビアか南アフリカの大西洋沖に沈んでいると考えられていたので、今回の発見に「ディアス艦の可能性あり」と発表されたのだろうが、このとき一緒に4隻も沈んでいるだけにディアスの可能性はそれだけでも4分の1になる。また象牙や銅塊が積まれていることには香辛料買付を最大目的としていたカブラル艦隊の積み荷としては不自然な気もする。今後よく調べてみなければ確定はできないだろう。

 一部報道によるとスペイン・ポルトガルの金貨銀貨が積まれていたことで、スペイン・ポルトガル両国政府が関心を示しており、専門家による調査チームを派遣する意思を示しているとのこと。実はこうした「お宝沈没船」については何百年も前のものだろうと「拾い主」のものにはなるとは限らず、その船のもともとの所有者であるスペイン・ポルトガル政府が所有権を主張するというケースがみられるのだ。
 最近ではカリブ海ドミニカ沖で発見された、かの海賊キャプテン・キッドが分捕って使用していた沈没船の財宝をめぐってスペイン政府が「発見場所が(当時の)スペイン領内だったり沈没船がスペイン船だった場合は財宝の所有権はスペイン政府にある」と主張して発見したアメリカ企業を相手取って裁判沙汰になってもいる。今回のケースも同様のことになる可能性大と言えるのだ。



◆気をつけよう、甘い言葉と黒いカネ

 台湾では今月20日に馬英九新総統の就任式が行われ、国民党が8年ぶりに政権に復帰する。選挙が3月だったから「なんだ、まだなってなかったのか」と思っちゃうところだが、「総統」といえば「大統領」であるわけで(「大統領」はあくまで日本語で、中国語では「プレジデント」は全部「総統」。韓国の「大統領(テドンヨン)」は日本語がそのまま使われたもの)、アメリカの大統領選の例を見れば当選から2か月ぐらいの準備期間は不自然でもないだろう。この間に新閣僚が次々と決定しているが、対中交渉の担当者が李登輝元総統の側近、というのがちょっと目を引くところではある。李登輝さん、政権時代に中国と密使交流していた過去もあるだけに。気がつくとこの人いつも与党側にいるような。
 陳水扁総統の民進党政権は残り一か月を切ったわけだが、この土壇場でとんでもないスキャンダルが発覚して騒ぎになっている。こともあろうに政府が「振り込め詐欺」にひっかかり、31億円もの大金を持ち逃げされちゃったというのだ。

 事の起こりは2006年。「パプアニューギニア政府とパイプがあり、台湾との国交樹立の仲介ができる」と持ちかけてきたのが、アメリカ国籍を持ち当時「中華顧問工程」という政府系財団の副理事長だった金紀玖と、シンガポール華僑の実業家・呉思材の二人だった。持ちかけられたのは陳水扁総統の懐刀、軍師役で「智多星」との異名(「水滸伝」ファンはニヤリでありましょう)もある邱義仁氏だった。当時邱氏は「国家安全会議秘書長」、政権末期の現在では「行政院副院長」すなわち「副総理」といっていい重職についている大物である。邱氏は二人を黄志芳外交部長(外務大臣に相当)に紹介し、台湾政府としてパプアニューギニアとの交渉をこの金・呉の二人を密使として進めることになった。
 
 ここで割り込むように台湾にとって「国交樹立」がいかに重要なことかという説明を。
 上に書いた「金門砲戦」の話題でもわかるように、もともと台湾は大陸から逃げてきた国民党政権の支配が続き、公式には「中華民国」だった。広大な大陸が共産党政権の「中華人民共和国」となっても、アメリカを中心とする西側陣営はちっぽけな台湾島のみを押さえる「中華民国」政府があくまで中国の正統政府と認め続け、国連の常任理事国の席もこの「中華民国」が占めていた。ところが中ソ対立の構図の中で親分アメリカが突然手のひらを返して「中華人民共和国」を承認してしまい、台湾の「中華民国」は国連そのものから放逐されることになってしまった。
 それでも「台湾=中華民国」を国家として承認し続ける国も少数ではあるが連綿と存在し続けた。時期により変化はあるが、中南米(特にカリブ海地域)・アフリカ・太平洋の諸国そしてバチカンが台湾を国家として認め国交を樹立してきた。バチカンは国というよりカトリックの総本山だから宗教の自由のない中国ではなくクリスチャンも多い台湾と関係を持ってるわけだが(その一方で「大市場」である中国との接近志向もしばしば垣間見せている)、他の国々はいずれも貧しい発展途上国で、台湾が経済援助と引き換えに国交を結んでもらっている、言い方は悪いが「国交を金で買った」ものが多いのだ。
 ところが中国が経済発展するにつれてこの「金で買った国交」も危ういものになってきた。中国もまた国交を金で買い始めたため、それまで台湾を承認していた国々が90年代以降次々と台湾と断交して中国と国交を結ぶようになってしまったのだ。中には中国・台湾双方にいい顔をして援助金を釣り上げ、数年ごとに国交相手を変えて援助を受け続けるという「国交で金を買う」チャッカリした国もある。どことは言いませんけど(笑)。
 さすがに蒋介石時代の「大陸反攻」なんぞあきらめている台湾としては、台湾のみを領土とする「国家」として生き残るほかはない。だからこそ国交相手はなんとしても一定数維持し続けなければならない。国民党から政権を奪取し独立志向を強めた民進党政権は「中華民国」の看板を外そうとはしていたが、国民党政権以上に承認国維持に懸命になっていたわけ。

 さてパプアニューギニアは1999年7月にいきなり台湾と国交を樹立したことがある。当時のパプアニューギニア経済は破たん状態で、台湾からの経済援助をアテにしての国交樹立だった。しかし当然中国が猛烈に抗議、オーストラリアも近場がややこしくなるのを嫌って圧力をかけたため、この話をブチあげた当時のパプアニューギニア首相は辞任、国交樹立は白紙に戻された。こういう経緯があるから、「パプア政府とのパイプがあるよ〜」との甘い声に台湾政権幹部がひっかかるのは、理解できなくもない。
 ただこの金・呉の二人から「先にパプア政府に工作資金を送る必要がある」と持ちかけられた時点で少しは警戒すべきではなかったかと。それもちょっとやそっとの額じゃない、3000万ドル(31億円)だ。パンダのレンタル料31年分だぞ(笑)。話が明るみになってから黄志芳・外交部長はこの資金は「国交が樹立された場合にパプアに農漁業、中小企業、インフラ整備のための協力金として提供するための金」と説明しているが、やはり実際に国交が結ばれる前にこんな多額の金を個人の銀行口座に振り込むのは不自然ではあるだろう。
 この多額の工作資金を民間企業の名前に偽装してシンガポール華僑銀行の二人の共同口座に振り込んだのだが、数か月後にパプアニューギニア政府との交渉は結局不成立に終わった。じゃあ金を返せ、ということになったのだがこの二人は返却に応じなかった。台湾外交部は4月15日になって金・呉の二人を詐欺・背任容疑で告発、4月28日にシンガポール政府に二人の財産の差し押さえを要請したが、31億円はすでに消えうせた後だった。呉思材は台湾の特捜部に身柄を拘束され捜査を受けているが、金紀玖のほうはアメリカに逃亡してしまい、現時点で消息不明。以上の経緯はもともと秘密工作だけに公にされなかったのだが、5月1日になってシンガポール紙がこの事件をスクープし、大騒ぎになった次第だ。

 ここまでならスケールの大きい振り込め詐欺として多少笑える話なのだが、このあと事態はさらに深刻に。呉思材が特捜部にA4の紙1枚に金紀玖自身が書いたあるリストを提出したのだ。そのリストとは、この秘密工作の資金の一部1000万ドル(3分の1か!)をリベートとして受け取った政府高官や民間人7名を並べたもので、そのうち政府高官とはズバリ、邱義仁・行政院副院長と黄志芳・外交部長、および外交部アジア太平洋司長と国防部副部長の4人、民間人は金紀玖・呉思材とあと1名。このリストが本物だとすると振り込め詐欺どころか政界中枢が関与した大贈収賄疑獄事件になってしまうわけだが、現時点でこのリストに名前があがった当人たちは金の受け取りについては否定している。このリストがあまりにできすぎなので金紀玖が創作したものではないかとの見方も出ているようだが…
 ともあれ邱義仁・黄志芳の両氏、つまり副総理と外相がそろって責任をとるとして6日に辞任を表明した。邱氏は「深く恥じる。政界から永久に引退する」として民進党の離党を表明、黄氏も「国家に損失を与えたことを国民に謝罪する」と会見で涙した。陳水扁総統も「善意から起きた外交事件であり、国家や政府、政権政党のイメージを傷つけたことを大変遺憾に思う」として国民に謝罪を表明した。実は陳総統、問題の金氏とツーショットで写ってる写真なんてものまであるそうで、身内の民進党内からも「離党せよ」との声まであがっているという。
 
 国民党の方もほじくればスネに傷がいくらでもあるのだが、それを批判して政権をとった民進党も残念ながら汚職・不正の話題には事欠かず、それが先日の総統選の結果にも表れていた。政権のホントの末期になってこんなことが浮上してくるとはまさに末期症状。


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