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2008年7月17日

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◆今週の記事

人形はなぜ殺される

 西暦2000年の前後に、ヨーロッパ各国で「歴史上の人物人気投票」企画が行われた。面白かったもんだから「史点」でもイギリス、オランダ、ドイツのケースをとりあげたことがあるが、オランダでは暗殺された大物極右政治家が1位になって物議をかもし、ドイツでは最初からアドルフ=ヒトラーについては候補者にすらカウントしないことにしていた。ヒトラーがドイツのみならず世界史上でも記憶されるべき重要人物なのは間違いないが、あまりにも「負の記憶」であるためにドイツやその周辺ではほとんどタブー扱いなのだ。
 ドイツで制作されたドイツ語映画でドイツ人俳優によってヒトラーが演じられた「ヒトラー〜最期の十二日間〜」が公開されたとき、ドイツ国内のみならずフランスなど隣国でも批判の声が上がっていた。この映画、僕も劇場で見てみたが、確かにヒトラーの秘書の目から見た人間ヒトラーを描く映画には違いないのだが、ヒトラーが犬を可愛がったり女性に優しく接したりする場面があるからといって別にヒトラーを再評価しようといった内容でもない。むしろナチス末期の状況が関係者の証言を基にリアルに描かれ、その異常性がさらに際立つ印象もあった。どうもヨーロッパでは「人間ヒトラー」を描くこと自体に抵抗感が強いらしく、彼を突然変異の怪物か何かのようにしておきたい心理があるのではないかと思われる。ヒトラーのクローンを作って…というアイデアのSF「ブラジルから来た少年」なんかもこうした心理を背景にしているじゃないかと。ヒトラーもあくまで一人の人間であり、そういう人間がああいう怖い結果を生み出すことがあるのだ、と認識しておいた方が建設的だと思うんだけどね。

 そんなヒトラー・アレルギーの強さをまた思い知らされる事件があった。このたびイギリスロウ人形館「マダム・タッソー」のベルリン版がオープンしたのだが、そこにヒトラーのロウ人形が展示されることをめぐってひと騒動あったのだ。
 マダム・タッソー・ロウ人形館とはロンドンにある有名な観光地で、僕も近くまでは行ったことがある(そっちに興味もあったんだけど、ベーカー街のホームズ博物館を優先したため時間がなかった)。1835年にマリー=タッソーというロウ人形彫刻師によって作られた歴史ある施設で、世界中の有名人の実物そっくりなロウ人形がズラリと並べられていることで知られる。各国の政治家、スポーツ選手、芸能人など、「世界的有名人」ならたいていそのロウ人形が作られており、ここに展示されることがその時々の「有名度」のバロメーターになっているといえ、日本では今上天皇がロウ人形化されている(笑)。
 ロウ人形化されてる人のリストを眺めていると、歴史上の人物もいることが分かる。一番古い人でチンギス=ハーン(12〜13世紀)。一応肖像画は存在してるけど、どれほど「実物そっくり」か確認しようがないな。この人が飛びぬけて古いが、続いてヘンリー5世(14世紀)ヘンリー8世(16世紀)エリザベス1世(16世紀)、スコットランド女王メアリー=スチュアートといった有名なイギリス国王もロウ人形にされている。マダム・タッソーが開設された19世紀初頭以後の近代史上の人物は思いつく人はあらかたあるんじゃないかというぐらいで、その中にはナポレオンリンカーン、やフランクリン=ルーズベルトといった外国の指導者も混じっている。そして20世紀で一番強烈なキャラクターということでヒトラーも当然のごとくロウ人形化されていたわけだ。

 「マダム・タッソー」はアメリカのラスベガスや香港にも作られており、今度オープンしたベルリン版は4つ目の開館となる。ベルリン版「マダム・タッソー」には当然ドイツの近現代の有名人のロウ人形が多く展示されることになったが、そこに本家ロンドン同様にヒトラーの人形が展示されると判明してドイツ国内は大騒ぎになった。「不謹慎・非常識」「歴史上の偉人扱いするつもりか」といった抗議の声が上がったが、一方で「ドイツ史上の重要人物には違いない」と展示を支持する声も一部にはあったようだ。マダム・タッソーはもともと「お遊び」感覚も強い見世物小屋だが、そういうところにヒトラーというドイツ人にとってタブーの存在を展示されちゃうことに拒否反応がはたらいたようにも見える。
 さすがにマダム・タッソー館側も配慮はした。ヒトラーを偉人と勘違いさせないようにと地下防空壕での自殺直前、うちひしがれている姿のロウ人形にして展示することにしたのだ。混乱を避けるためこの展示の写真撮影は禁止され、もしもの事態に備えて監視カメラも設置された。しかしいきなり開館初日に、「事件」は起こってしまった。

 7月5日のベルリン「マダム・タッソー」の開館直後、入場した41歳の男性がいきなりヒトラー人形めがけて突進、ヒトラー人形の首をもぎとってしまった。男性は警備員や館長ともみあいになって館長の足に怪我をさせ、器物破損と暴行の容疑で逮捕された。報道によると男性は「ヒトラーのロウ人形展示に抗議したかった」と話しているという。
 僕がこの事件のニュースを聞いて真っ先に連想したのが、幕末に尊王志士によって等持院にある足利尊氏義詮義満の将軍三代の木像の首が切り取られ、さらしものにされた例だ。南朝正統とする尊王思想は江戸時代のあとにいくほど観念的に強化されていき、それにともなって「足利=逆賊」とする評価がエスカレートしていった過程の象徴的事件とされる。そこで人形に当たってもしょうがないし、ヒステリックな歴史評価はロクな結果を産まないと僕は思うのだ。
 マダム・タッソー館ではヒトラーの首は修復した上で再展示する方針らしいのだが、いっそのこと首がない状態で展示して見学者にいろいろ考えさせるというのも手かな〜とも考える。

 ところでベルリンとナチス・ドイツがらみのニュースがもう一つ。
 「ヒトラー人形殺害事件」の前日、7月4日のアメリカ独立記念日に、ベルリンのブランデンブルク門のすぐ脇にアメリカの新大使館がオープンした。テロ対策も考慮したムチャクチャ重厚な造りで、「まるで要塞」との批判の声も上がっているそうだが、実はこの場所にアメリカ大使館が帰ってくるのは67年ぶりというオマケもつく。もともとアメリカ大使館はこの地に建っていたのだが、ナチス・ドイツと断交した1941年に撤退。ナチス崩壊後も東西分断の過程でこのあたりは「ベルリンの壁」の一部となってしまっていた。1990年の東西ドイツ統一後にこの地への復帰話が進んで、今年この日にオープンになったのだった。オープン記念式典にはマダム・タッソーにロウ人形も展示されているドイツのメルケル首相やブッシュ父元大統領も顔を見せたそうである。



華盛頓の秘密

 むかしむかし、あるところに華盛頓という人がいました。この人がまだ子供の時、お父さんから誕生日の贈り物として斧(おの)をもらいました。華盛頓は嬉しくて斧を実際に使ってみたくなり、庭にあったお父さんが大事に育てていた桜の木を斧で切ってしまいました。切られた桜の木を見てお父さんが「誰が切ったのか」と聞いたところ、華盛頓は「ウソはつけません。僕がやりました」と正直に言いました。お父さんは華盛頓が正直に言ったことをよろこんで、怒りませんでした。この調子で世間の評価を上げていった華盛頓はやがて美国の総統の地位にまでのぼりつめたということです。
 この故事から、評価を上げるための自作自演工作要員のことを「桜」というようになりましたとさ。

 …もちろん最後の一行はウソ(笑)。というか、その前の逸話部分も完全にウソだけど。
 中国故事成語風にしてみたが、「華盛頓」とはご存じアメリカ合衆国初代大統領ジョージ=ワシントン(1732〜99)のこと。この桜の木の話は世界的に有名で、僕も小学校の道徳の教科書だったか副読本だったかに載っていたのを読んだことがある。しかしこの話、「嘘をつかず正直であるのはいいことです」という教訓話なんだけど、「悪事を自白したのを高評価していいのか?」と子ども心に疑問を感じた人も少なくないはず。
 だいたいこの話自体、事実とは考えられていない。よくある英雄の少年時代に仮託した説話で、ワシントンの死後に子供向けの教訓話の本に載せられた創作だと言われている(余談だが戦前の修身教科書で楠木正成の少年時代のデッチ上げ話がいっぱい載ってたことを最近知った。あれもその一例だろう)。そもそもワシントンが少年時代を過ごした18世紀前半にはアメリカ大陸には桜(さくらんぼ)はなかったという話もある。

 さてこのたびこのジョージ君が少年時代を過ごした家の発掘調査が行われた。そう、「発掘」である!かなり昔の人の家でもよく残っていることがあるアメリカでも、さすがに建国の父の少年時代となると無理なようで、その痕跡を発掘することになったのだ。場所はバージニア州フレデリックスバーグ(彼の名を冠した首都ワシントンから南に80km)にある古い農場跡で、ジョージ君は1738年から1754年まで、つまり6歳から22までここで過ごしたという。
 発掘の主体となったのはその名も「ジョージ=ワシントン財団」。同財団によれば発掘調査の結果、ワシントン住居跡は母屋と離れの二棟があり、母屋は屋根が板ぶき、煙突や地下室を備えていた。別棟には奴隷部屋があり(この時代、ある程度の農場主は一般的に黒人奴隷を所有していた)、台所もこちらにあったという。
 
 で、桜の木の逸話が事実だとすれば、それはこの家に住んでいた時期のことになるはずだが、報道の多くが「桜の木も斧も発見されなかった」というお約束なオチで記事を締めくくっていた。



◆庫中の死角

 今回は最初の記事のタイトルを思いついたところから、某推理作家のタイトルそろえをしてみることになったのだが、3つ目で早くも苦しい状況に(笑)。

 この2か月、「史点」更新がとどこおってしまっていたが、その間に史点ネタ候補になっていたのがチェ=ゲバラの話題だった。ご存じキューバ革命の英雄で根強い人気を保ち、ちかごろまたブーム再燃の気配があるこのゲバラの娘・アレイダ=ゲバラさんが5月に日本を訪問していたのだ。
 ゲバラも医者だったが、このアレイダさんも小児科医。ゲバラは1959年のキューバ革命成功直後にに日本を訪問しており、とくに希望して広島の原爆資料館を見学していて、そのときキューバに「平和のためにより良い闘いをするには、ヒロシマを見なくては」と絵葉書を送っていたそうで、その遺志を引き継いでアレイダさんも広島を訪れ、原爆資料館を訪問していた。「小児科医という、子どもの命にかかわる仕事をしており、言葉にならない。戦争の旗を平和の旗に変え、二度とこのようなことは起こしてはいけない」と感想を語っている。

 その翌月の6月14日はゲバラ生誕80周年の誕生日だった。生きていればまだ80歳だったのである。カストロ兄弟ら革命の同志たち、映画にもなった学生時代の南米旅行を共にした友人もまだ存命だ。つくづく「若き革命家」だったのだな、と思わされる。「キューバ革命の英雄」のゲバラだが、生まれはアルゼンチン。その故郷アルゼンチンに生誕80周年を記念してゲバラの銅像がついに建ってしまった。母国アルゼンチンではゲバラに対しては長いあいだ賛否両論だったというが、このところ南アメリカ各国で反米ムードと南米一体化の気分が高まるなかでゲバラ再評価が強まり、銅像建設に至ったとか。6月27日にはブエノスアイレスで銅像のパレードまでが挙行され、ゲバラの「帰国」を祝ったという。

 キューバ革命ののち、さらなる革命をめざしたゲバラは1967年にボリビアでゲリラ活動をするうちに捕縛され、処刑された。ゲバラが直前までノートにつづっていた日記は世界的なベストセラーとなったが、そのノート原本はしばらくボリビア政府軍が保管していたという。その後どういう経緯か分からないが1980年代にこのノートがロンドンで競売にかけられ、ただちにボリビア政府が回収している。その後はボリビア中央銀行の金庫の中で封筒に入れられて保管されたが、そのまんま関係者もすっかり忘れてしまっていたらしい(笑)。
 この「ゲバラ日記」原本ノートが生誕80周年を機に「再発見」されたことがボリビア教育文化省から7月7日に発表された。ノート原本の複写本を作成して10月ごろに出版する予定だという。いまのところ「社会主義政策」をすすめるボリビア政府としてはちょうどいい外貨獲得のネタなんだろうなぁ。


 再発見といえば、こんなニュースもある。読売新聞記事より。
 近松門左衛門といえば元禄時代の大劇作家だが、彼の代表作『曽根崎心中』の初版刊本(1703年刊)が「再発見」されたことが報じられている。それも富山県黒部市立図書館という少々意外なところで。地元の旧家が寄贈した古文書類のなかに紛れ込んでいたのだそうだ。これまで『曽根崎心中』の初版本は大阪市中之島図書館に所蔵されていたが、これは一部に破損・欠落があるもので、今回見つかったものはまさに「完全版」。調査した浄瑠璃研究者の神津恭介、もとい神津武夫早稲田大学客員准教授は「初刷りの初版本は必ず、作家本人が目を通しており、一番、意向が反映されているため、大変貴重」と話しているとのこと。もっとも、内容を確認した限りではこれまで浄瑠璃全集などの底本にされていた不完全初版本や改訂版と違いはなかったそうなのだが。

 やはり読売新聞記事からもう一つ再発見ばなし。
 今度は紫式部作の『源氏物語』全54帖の完全版が発見されたという話題。さすがに紫式部直筆の原本というのは現存しておらず(同時代人の藤原道長の自筆日記は現存してるが)、全て後世の写本だ。このたび東京の旧家から見つかったという完全版写本は室町時代中期の写本で、「明石」の巻に「これより為和卿」という付箋が張ってあり、室町時代の歌人・冷泉為和(1486〜1549)らが書写したものとみられるそうだ。
 昔は印刷なんてしないで手書きの写本によって「増刷」されていたから、その途中で書き間違えたり、文章を変えたり、はたまた勝手に話を追加したりといったことがよくあった。古典では一つの作品に複数の系統が存在するのはよくあることで、なんでも『源氏物語』には鎌倉時代に藤原定家が作ったものをはじめとする三系統の存在が知られているという。今回確認された写本は定家版とは別系統のものとされるらしく、もしかすると定家が手を加える前の平安時代の原文が含まれている可能性もある、とのこと。
 それにしても有名作品でも新発見される版本というのはまだまだ存在するものなんだなぁ。



◆恒例:贋作サミット・北海道洞爺湖編

 日本の北部、北海道は洞爺湖の、一度はつぶれた豪華ホテルに各国の首脳が集まりましたとさ。

日:各国の皆様、ようこそいらっしゃいました。8年ぶりにホストをつとめさせていただきます。
加:あれ、去年「来年はよろしく〜」って挨拶してた人と違うじゃん。
日:閣僚が自殺とかバンソウコウとか選挙に大敗とか胃腸が弱いとかいろいろあって辞めちゃいまして。
露:ずいぶんとまぁヘンピなところでやるんですなぁ。警備上はいいんだろうけど。
日:このホテルの所有者もセコムですから警備は万全(笑)。
米:「史点」恒例の贋作サミットって、その8年前の時から始まったんだよねぇ。
仏:さすがにあのときの参加者で今回も出てる人はいませんな。
露:その8年前に来ていたうちの前任者は今年ギリギリまでやってたんだけどね。
米:私が大統領に決まったのがその年だったんだよなぁ…ああ、懐かしい思い出だ。サミット出席も今年で最後か。
独:そもそも去年と今年でもずいぶん顔ぶれが違うし。
仏:やはり国家元首と妻は新しいのがいい(笑)。
日:とか言いつつ、新妻さん連れてこなかったじゃないですか。
仏:新曲発売で忙しいらしくて…(笑)。
日:私の地元と同じでカカア天下のようですな。
独:私も今年は夫を連れてこなかったですけどね。前回“ファーストレディー”イベントで「黒一点」になったのがイヤだったみたいで。
英:私も今年からの新顔ですが、前任者が長すぎてまだ顔を覚えてもらってない…
露:私も…「院政」とか「二重権力」とか言われる始末で影が薄いし。
加:今年のホスト国にいたっては毎年のようにコロコロ変わるから名前も顔も覚えられない。
伊:我が国と同じで、サミットのたんびに顔が変わるからね。
英:あんたは「返り咲き」という珍しいケースですな。
日:我が国ではサミット会場を決めた総理はそのサミットに出られないというジンクスがありまして…私の父もそうでした。
米:ああ、あなたも父子二代でサミット出てるんですね。家業が国家指導者とはお互い大変ですなぁ。
加:そちらはいずれ弟さんが大統領選に出馬するんじゃないの?
独:そういえば「夫婦二代」のサミット参加も夢物語と消えましたわねぇ。
日:さてここから議題に入ります。毎度おなじみの温暖化対策と食糧問題ですが。
米:前回も出た話だけど、人口の多い国が呼吸と食事を減らせばいいんじゃないの?
中:コラッ、聞こえてるぞ。
米:あ、来てたんだ(汗)。
中:年に二度、それも二か月おきで中国首脳が日本を訪問するってのも異例なんだけどね。
日:その間の大地震はご愁傷さまでした。
中:5月に東京に来た時に深夜の連続地震があったけど、あれが予兆だったかなあ…
印:今年はチベット、大地震、オリンピックと、なんだかんだで中国の話題ばっかりですな。
日:オリンピックの開会式には出席させていただきますので、パンダをよろしく。
米:私も人権抑圧国同士ということで出席しますので、よろしく。
仏:私もやっぱ出席することにしますんで、カルフールをよろしく。
英:次のサミット開催地は北京かよ。
伊:次の開催国はウチですよ〜ホストも私が務めることにしたいぞ、ウン。


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