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2008年8月13日

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◆今週の記事

◆テラへ…

 「歴史上、隣国同士が仲が良かったためしはない」という恩師の格言をついつい繰り返し書いてしまう。個人レベルの隣近所のつきあいと同じで、隣同士だけに共通項も多く仲よくしておこうとはするのだが、接しているだけにケンカの種も多い。僕自身は幸いにして経験はないが、隣との塀の位置やら配管の配置やらの問題でもめてるケースを身近にいくつか見たこともある。これが国家レベルで起こると集団同士がやることだけに互いに引っ込みがつかなくなり過激化する傾向が強い。
 という前座から入ると、近頃お隣の国でちょっとしたフィーバーになってる「竹島問題」のネタかと思うだろうが、あの話は繰り返し取り上げるのバカバカしいので、今回は同じくらいバカバカしい盛り上がりを見せている他の国の国境問題をとりあげる。他の国とは、タイとカンボジアだ。どちらも東南アジアの仏教国同士、穏やかそうな印象があるのだが、やっぱりモメるときは大いにモメてしまうのだ。

 いまタイとカンボジアの間でお互いの軍隊が出動してにらみ合いをするほどの国境紛争が起こっている。紛争の種となっているのはタイとカンボジアの北部山地の国境にあるヒンズー寺院の遺跡だ。その名はカンボジアではプレアビヒア、タイではカオ・プラビーハンという。クメール王朝時代(9〜12世紀)に標高650mの山頂の絶壁の上に築かれた寺院で、そもそもこの山の山頂が両国の国境となっているために寺院がどちらの国に帰属は100年も前から議論があった。
 1962年に国際司法裁判所の裁定によって寺院遺跡そのものはカンボジア領と認定されたが、タイはカンボジアが領有の証拠としたフランス統治時代の地図に問題があり、この寺院も国境未確定だとして公式には認めていない。周囲の国境もまだまだ未確定のため、この寺院遺跡ひとつにとどまらない問題を含んでいるのだそうだ。だいたいこの寺院遺跡に向かう参道もカンボジア側の参道は内戦で荒廃したため使えず、タイ領内を通る参道を使わないといけないという。

 このプレアビヒア寺院を最近流行の「世界文化遺産」に登録し、観光資源にしようと最近カンボジアが動き出したことで、タイではこれに対する反発が高まっていた。ちょっと前のニュースでタイの芸能人が「アンコール・ワットはタイのもの」と発言して両国の間で大騒動になったことがあったが、あれもこの寺院遺跡の帰属をめぐる論争とリンクしていたのだろう。ハタからみればバカバカしいことだが、こうした領有問題というのはとっつきやすいせいもあって火がつきやすいのだ。
 今年になって「とりあえず領有問題は棚上げにして寺院の世界遺産登録実現を目指す」ということでカンボジア・タイ両政府で一応の合意がなされ、カンボジア政府は6月にユネスコに改めて登録を申請、めでたくプレアビヒア寺院は「世界遺産」として認められることになり、国を挙げての祝賀ムードとなった(なお、これと同時に日本の平泉は「落選」の憂き目をみている)。しかし一方のタイではいったんは合意をした政府を非難する声が高まり、政府はカンボジアとの合意を撤回したうえ外務大臣が辞任に追い込まれてしまった。依然として政情不安定のタイではこの世界遺産登録問題は野党側にとって格好の政府攻撃材料となり、それで一部に過激な動きがみられるという事情もあるようだ。

 寺院の世界遺産登録に抗議するタイ人の団体が6月末から寺院周辺に押しかけ、カンボジア側は寺院を一時閉鎖していた。すると7月15日、タイ人3人がフェンスを乗り越えて寺院境内に入り込み、タイの国旗を立てようとしたため、カンボジア警察はただちに彼らを拘束した。カンボジア側はタイ人3人の指紋を取り取り調べをして数時間後には釈放したが、3人は寺院内に座り込みを続けた。そこへタイ陸軍が駆けつけ「自国民の解放」と「指紋原票と調書を引き渡し」を要求して数百人の兵士を展開、寺院周辺地域にいるカンボジア人の追い出しにかかった。たかが数百人であろうと「タイ軍」には違いないのでカンボジア側も軍隊を展開して対抗、このあたりは内戦時にポル・ポト派の拠点だったために地雷があちこちに仕掛けられており、これが思わぬ功を奏してタイ人兵士一名が重傷を負い、これがホントの「タイ人地雷」、と不謹慎なギャグを書きたくなる事態となった。
 さすがに戦闘までは踏み切ってないが、国境付近で両国軍隊が展開してにらみ合うという緊張した状態が、この原稿を書いている7月末日の時点でもまだ続いている。さきごろASEAN(東南アジア諸国連合)の外相会合が行われ、この件でも話し合いはもたれたが、基本的に「二国間の問題」ということでASEANとしての介入は避けている。カンボジアもタイもこれ以上事態を悪化させる気はなく双方とも軍を撤退する方向で協議が行われているが…仏教徒同士の争いだけにホットケない。タイだけに引き分けということで手を打ってはどうか。


 国境問題といえば、珍しく「円満解決」したニュースもあった。中国とロシアの間で長い間懸案となっていたアムール川(黒竜江)とウスリー川合流地域の国境問題が正式に決着したのだ。
 中国でいえば北東部の端っこにあたるアムール川とウスリー川の合流地点には大ウスリー島(黒瞎子島)という大きな川中島がある。この島を含めたウスリー川各地の川中島の領有をめぐっては中国とロシア(かつてはソ連)との間で長らく対立があり、1960年代の中ソ紛争の折には武力衝突まで起こる事態になっている。ソ連崩壊の直前に両国は関係を改善、以後国境の確定作業を進めてきたが、2004年に最後に残ったこの大ウスリー島の領有権についてもひとまずの合意がなされていた。要するに「痛み分け」といったところで、大ウスリー島の半分を中国、半分をロシアに分割するという結論だ。2008年7月21日に中・露両国の外相が追加議定書に署名して領土問題は完全に確定した。中国とロシアの国境線は実に4300kmにも及ぶが、そのすべてが完全に確定したというのは歴史的にみて大変なことだと思う。これについても両国のナショナリストの間では「領土を譲った」と評判が悪いらしいが…そういえば日中の海底ガス田開発も共同でやるってことで話がまとまったというのもあまり騒がれてないが結構大変なことだと思うんだけどね。



◆王様は私

 EU(ヨーロッパ連合)のルーツは、ドイツとフランスに挟まれた三角地帯にあるオランダベルギールクセンブルク、すなわち「ベネルクス3国」が経済連合体を作ったことにある。これにフランスや西ドイツ(当時)も参加し次第に加盟国を増やしてEC(ヨーロッパ共同体)に成長、やがてさらなる統合をめざすEUが発足して現在27カ国が加盟し、ヨーロッパ全体でも未加盟の国を数えた方が早いぐらいになってしまっている。複雑に入り組んだ民族・宗教間対立のからむ紛争が相次いだ歴史をもつヨーロッパが、紆余曲折を経ながらも国家の枠組みを超えて一体化を進めていることは喜ばしいことではある。だがそのEUのルーツであり本部が置かれているベルギーが「国家分裂」の危機にあるというから困ったものだ。

 ベルギーという国については僕だってよくは知らない。真っ先に思いつくのがアガサ=クリスティーの創造した名探偵エルキュール=ポワロがベルギー人、というぐらいだ(笑)。イギリス製作のTVドラマの日本語版の熊倉一雄の吹替えでおなじみの人も多いだろうが、「ノン、ノン」「モナミ(我が友)」などポワロのセリフにはフランス語が時々混じり、フランス人と誤解される場面もあった。
 それで「ベルギーはフランス語圏なのか」と思っていたのだが、調べてみると事情はもっと複雑。ベルギーには確かにフランスと接する南部にフランス語を公用語とする地域(ワロン語という古いラテン系言語も話すのでワロン語圏ともいう)があるが、北部はオランダ系の言語(フラマン語)を公用語としており、両者の間にはほとんど互換性がない。首都ブリュッセルはフラマン語圏にあるが、かつてはフランス語がヨーロッパ国際語だったこともあり支配階級を中心にフランス語話者が多く、首都にお限ってはフランス語とフラマン語が並立・共存しているという。北部フラマン語圏のほうが所得も教育水準も高くて南部フランス語圏がそうでもないなど経済格差もあり、そのため北部が自治権の拡大を主張し南部がこれに反対するという構図がある。政党も保守・革新ともにフラマン語圏とフランス語圏で別々に存在している(日本でいえば「東日本自民党」とか「西日本民主党」があるようなもんらしい)。2006年年末にTV局が「フラマン語圏が独立を宣言し、国王は旧植民地のコンゴに亡命」という冗談ニュースを流したら真に受けた南部の人々がパニックを起こして大騒ぎになったという例もあり、両者の確執はかなりのものだと言われている。
 よくまぁそんな人たちが一緒に同じ国をやってたもんだとも思うのだが、そもそもこのベネルクス3国はまとめてハプスブルグ家領ネーデルラントが母体で、プロテスタント多数派のネーデルラント17州が現在のオランダとして独立、カトリック多数派の地域がのちにベルギーとなったという経緯がある。どうもヨーロッパのこの手の話はきりがなく対立が細分化していっちゃうんだよな。

 真面目な話「国家分裂の危機」となったベルギー政界では昨年の総選挙のあと連立をめぐる混乱が続き、ようやく今年3月になって北部・南部の諸政党が連立して、第一党となったフラマン語系キリスト教民主フランドル党の党首イブ=ルテルムを首相とする内閣が発足した。しかし自治権拡大を求める北部政党とそれを阻止しようとする南部政党の対立は激しく、交渉は決裂。ゆきづまったルテルム首相は内閣総辞職の意向を示した。
 ところが…この内閣総辞職を阻止した男がいる。その名はアルベール2世、そう、ベルギーの国王である。近代的な立憲国家を世界に先駆けてつくったヨーロッパだが、かえって中世以来の王政の名残が残っているところでもあり、国王の権威と権力が意外に健在な国が多い。ベルギーも立憲君主国ではあるが、国王は立法権と行政権を持つ(あくまで憲法の枠内ではあるが)など一定の政治権力を保持している。このたびルテルム首相が内閣総辞職を申し出たところ、アルベール2世はその承認を拒否した。国王はその権力を発動して政権の維持を命じたわけである。アルベール2世は北部南部の政党間の対立解消のために「信頼に基づく対話」を求め、ルテルム首相には地方分権のための憲法改正論議開始のための努力を要請したという。


 南太平洋で唯一の立憲君主国にトンガがある。去る7月28日にトンガ国王ジョージ=ツポウ5世(60)が国王の権限を自ら大幅に縮小することを決めたと報じられた。この国も多くの政治的権限を国王が有していたが、2006年9月に前国王タウファアハウ=ツポウ4世(「世界一重い君主」としてギネスブックに載ったことがあるそうな)が死去した直後に民主化要求の暴動が起きるなどしたためツポウ5世は改革を公約しており、このたび多くの政治的権限を首相に委譲することを決めたという。ただし裁判官の任命など司法関係の権限は維持する意向とのこと。
 トンガの歴史や社会についてはまるで知らなかったのだが、1845年に全土統一、1875年に憲法制定と、日本より20年ぐらい早く「近代国家」化を進めてきた歴史がある。植民地化はまぬがれたがイギリスの保護領とされ、現在もイギリス連邦の一員となっている。王族・貴族・平民という三種の身分制度も残存しており、身分の壁はかなり厳しく、かつて王子が平民と結婚したために王族から平民に落とされた例もあるそうだ。一院制の議会(定員30)も貴族身分議席が9、国民から選挙される平民身分議席が9、残りは国王が任命する閣僚と知事という、なんだかフランスの「三部会」を思わせる構成になっているとか。これから国王の権力縮小にともない、議会についても民主化がいっそう進められる予定とのこと。
 それにしてもなんで2年も前に持ち上がった話が今頃になって決定したんだろう、と思ったら、どうやら国王の戴冠式が来る8月1日に挙行されるためであるらしい。日本でも実質的な即位式にあたる大嘗祭(だいじょうさい)があって、現在の天皇の場合は即位から2年近くたつ1990年(平成2年)秋に行われたりしているが、トンガの場合は単純に2006年の騒動以後戒厳令が敷かれていたから、という理由であるようだ。なお、この戴冠式には近場の君主国である日本の皇太子も出席している。


 王様の権限縮小といえば、完全に王制自体が廃止になってしまった国もあった。もう少々古い話だが「史点」でとりあげずじまいだったのでちょこっと書いておきたい。ヒマラヤの国ネパールの話である。
 5月末、ついに240年続いたネパール王制は正式に廃止された。ギリギリまで結構ねばっていたギャネンドラ元国王ら王族は6月になって王宮を退去(一部老齢の王族女性などはとどまることを許されたと聞く)、ネパールはついに「連邦民主共和国」となった。だが王制廃止・民主化の流れの原動力ともなったネパール共産党毛派は議会で第1党の地位を得つつも過半数はとれず、国王に代わる元首となる初代大統領にはネパール会議派のラムバラン=ヤーダブが選出され、毛派は野党となった。このヤーダブ氏、インド文化の影響が濃い平野部(マデシ)の出身のためか、7月23日の大統領就任式での宣誓をヒンディー語(インドの主要言語)で行ったため他地域のネパール人からはヒンシュクも買ってしまったらしい。まだしばらく政治的混乱が続く可能性もあるが、さすがに「王政復古」はないんじゃないかなぁ…?



◆2008年宇宙の旅

 先日、NHK衛星で映画『カプリコン・1』が放送されていたので久々に鑑賞した。知る人ぞ知る一本なので多くの人には説明不要とも思うが、一応簡単に説明すると、NASAの火星有人探査に送り込まれるはずだった宇宙飛行士たちがトラブル発生により発射直前にロケットから降ろされる。宇宙計画遂行のため宇宙船は飛行士たちを積まないまま打ち上げられ、「火星着陸の瞬間」はセット撮影で“演出”される。そのまま宇宙船の地球帰還直後に素早く飛行士たちを載せてごまかすつもりだったが、なんとその宇宙船が大気圏突入に失敗して破壊されてしまう…といったストーリーだ。
 あちこち無理のある話なのでまとめにくいのだが、あの「アポロは月に行っていなかった、あれは地上でのセット撮影」という「アポロ陰謀論」をヒントにしてるのは一目瞭然。ただしこの映画の場合は計画全てが捏造というわけではなく、あくまで生命維持装置の欠陥があったというだけで宇宙船そのものはちゃんと火星と地球を往復しているので技術的には月どころか火星まで到達することが可能になっているのだが…。すでに「アポロ陰謀論」がささやかれだした時期に制作された映画だが、この映画により「アポロ陰謀論」を信じる人が増えたという面もあるらしい。だがこの映画中でもトリックに気づいたNASAのスタッフや新聞記者、そして当の宇宙飛行士たちが抹殺されたりされかけたりして(NASAスタッフがあっさり抹殺される割に新聞記者の抹殺に手こずってるのがヘン)、その手間がかなり大がかりなのでかえって完全に陰謀を遂行するのは無理だな、とも思わされる。

 変な話から入ったが、この映画が制作された1980年代には火星への有人飛行もそう遠くないことのようにも思えたんだよな〜。だが実際には2020年以降に実現するかどうかの話みたい。技術的問題はともかくカネがかかるのが難なのだ。そんなわけで現在、無人探査機フェニックスくんが火星に送り込まれてさまざまな調査を行っているわけだ。
 フェニックスには火星をテーマにした研究史料や芸術作品を収めたDVDが搭載されており、「火星人」のイメージのルーツとなったH・G・ウェルズのSF小説『宇宙戦争』もそこに収録されているという。火星人とまではいかなくても火星に何らかの生命が存在する、あるいは過去に存在したのではないかという見解は古くから根強く、火星探査の最大のテーマの一つとなっている。現存にせよ痕跡にせよ見つかれば地球以外の天体で「生命」の存在が確認されるビッグニュースになる。過去の探査機が撮影した火星表面の写真を見てると地球上のどっかの砂漠ととてもよく似た光景に見え、なんかいそうな気はするんだよね。
 地球における生命に関して言えば、生命には「水」の存在が必須だ。火星には過去に水が流れたと思われる地形もあることから水が存在していることは有力視されていた。フェニックスは6月に火星地表を掘って土壌調査を行ったが、このとき写真で確認されていた小さな塊が数日後に消滅しており、これが「氷」だと確実視された。さらに7月末、採取した土壌を加熱したところ水蒸気が確認され、ここに「火星の水」の存在は確実なものとなった。
 では水の次に、生命の要素である炭素を含んだ有機物の存在を確認しなければならない。そこでフェニックスはさらなる土壌調査を行ったのだが、8月5日、今度は「過塩素酸塩」なるものが確認されたとの発表があった。これは地球上の生命にとっては毒性の強い物質で、これは生命存在の可能性を低くするものではないかとの見方も出たが、NASAによれば地球は南米のチリのアタカマ砂漠にも存在しており、しかもこの物質をエネルギー源とする微生物も存在しているから、この発見が生命存在に有利とも不利とも言えない、としているそうで。あとこの過塩素酸塩、強い酸化剤として火薬やロケット燃料に使われているとかで、将来火星でロケット燃料の材料調達ができるのかも。
 ところでこのアタカマ砂漠って、過塩素酸塩の件以外でももともと火星の環境に似ていているとして研究者の間では注目されていたらしい。ああ、じゃあ火星着陸シーンの撮影はセット作らなくてもここでできるよな(笑)。


 火星まで有人飛行するとなると、片道数か月は覚悟しなければならない。となると人間、食うのと出すのが大問題となる。食う方は食料を十分に載せちゃえばいいだけの話だが、「出す」ほうは結構深刻。つい先日も国際宇宙ステーションでトイレが故障し、スペースシャトルに急遽トイレ修理部品を搭載して打ち上げる事態にもなっていた。宇宙に出ちゃあ、「ちょっとその辺でお花を摘んでくる」ってわけにはいかないもんなぁ。
 NASAもトイレのことは重大と考えているようで、スペースシャトルの後継として開発中の有人宇宙船「オリオン」についてもそのトイレの開発に力を注いでいるようだ。とくに水が貴重な宇宙船では「オシッコの一滴は血の一滴」とばかりに再利用するものだそうで(血尿の話ではない)、トイレ開発ではオシッコの処理が最大の課題らしい。そしてその処理の研究のためには本物のオシッコが大量に必要なんだそうで。こればっかりは人工的に作れず(人の体内で作っているのではあるが)代替物が存在しないからなのだ。一日に30リットルは必要という逼迫した状況のため、NASAでは職員向けのウェブサイトで大々的に「オシッコを提供」を呼び掛けることにしたという。…ところで、それまでは開発スタッフだけで「補給」していたのであろうか?
 で、「大」のほうは問題ないんだろうかと誰もが気にしちゃうところだが、さすがにそちらは再利用はしてないみたい。あと「大」のほうは単純な処理だけなら代替物があるにはあるし…(→大昔の史点記事を参照)


 ちょっとなさけない話(略してNASAバナ〜)になってしまったが、続いてはNASAらしい(?)陰謀ばなし。
 アポロ陰謀論と並んでよくネタにされるのが「NASAは異星人の情報あるいは死体を隠蔽している」という陰謀論。UFO信者など宇宙人はとっくに地球にやってきているはずと考える人たちによって主張され続けているもので、墜落したUFOから宇宙人の死体が回収されたとするロズウェル事件なんてのも有名だ(「インディ・ジョーンズ」の最新作でもそのネタが使われていた)。当のNASAの関係者たちはそんな話はまともに相手にしてないと思うが、アポロに乗って月を歩いたような人でもそんなことを言う人もいるから困ってしまう。その困ったチャンの名はエドガー=ミッチェル(77)、1971年にアポロ14号に乗って月面まで旅してきたお方である。
 このミッチェルさんが7月23日、出演したラジオ番組で「ロズウェル事件は事実であり、異星人は何度も接触してきている。だが政府は60年にわたってその事実を隠してきた」と発言、「われわれのうち何人かは一部情報について説明を受ける幸運に浴した」とまで言っちゃったのだ。彼によれば関係者の間では異星人のことを「奇妙な小さな人々(little people who look strange to us)と呼んでいるとのこと。アポロ宇宙飛行士のこの発言は世界中に配信され一部で騒がれたようだが、NASAのスポークスマンは「NASAはUFOを回収してないし、地球上および宇宙全体のいかなる場所でも異星人存在の証拠は得ていない。ミッチェル博士は偉大なアメリカ人であるが、その主張には同意できない」と冷静かつ事務的な回答をしたのみだった。
 そもそもこのミッチェルさん、アポロ14号で月へ旅する途中でも地球の友人とESP実験(テレパシー実験と思われる)をやっていたというお方。UFOや異星人に関する発言も実はこれが最初ではなく、1990年代から同様の主張をしつづけていたようだ。彼が主張する「異星人」の外見もこれまでさんざん広まってる通俗的イメージなだけに、まぁ本気に受け取るべきではあるまい。それこそどっからか「電波」を受信しちまったのではないかと。7月25日に出演したニュース番組では自分のコメントはNASAとは無関係としながらも、異星人情報については関係者から確かに聞いており、ペンタゴン(国防総省)の諜報関係者からも確認をとっていると主張していたそうである。



◆イワンのバカボン

 ふとした思いつきで、たまたま一日違いでこの世を去った二人の人物の生涯を並べて書いてみる。

 1918年12月11日、ロシア革命の翌年、第一次世界大戦の終結というこの年に、北カフカスのキスロヴォツクアレクサンドル=ソルジェニーツィンはこの世に生を受けた。彼が生まれたこの地域はロシアの一角ではあるがさまざまな民族が入り乱れる地方で、チェチェンやオセチアなど最近紛争地帯としてよく聞く地名が周囲に多い。ロシア帝国の軍人だった父親はソルジェニーツィンの生まれる前に事故で亡くなっている。彼の家は敬虔なロシア正教徒だったが、革命の結果成立したソビエト連邦は科学的社会主義の看板のもとに正教はじめ宗教を抑圧し、このことが後年彼の思想の強い背景となっていく。

 1935年9月14日、中国の東北部に当時存在していた日本の傀儡国家「満州国」において赤塚不二夫(本名は藤雄)がこの世に生を受けた。赤塚不二夫の父親は憲兵としてこの地に赴任しており、このほかにも当時の満州には新天地を求めて多くの日本人が渡ってきていた。漫画家だけでもちばてつや森田拳児北見けんいち高井研一郎らが満州育ちだし、映画監督では山田洋次、特技監督の中野昭慶など、僕の関心のある分野だけでもかなりの数の満州出身者が存在する。それだけ多くの日本人が満州に渡ったということでもあるが、あるいは満州で育った経験が彼らの創作活動の源泉になにがしかなっているのかな…とも思っている。

 1941年、ナチス・ドイツとソ連の間でいわゆる「独ソ戦」が開始される。開戦の数日前に大学を卒業したばかりのソルジェニーツィン青年はただちに召集され、やがて砲兵として戦争終結直前まで前線に立つことになる。
 終戦も終わりに近づいていた1945年2月、ソルジェニーツィンは告発を受けて逮捕された。前線から友人に送った手紙の中で指導者スターリンを批判したという容疑だった。当時のスターリンといえば無神論のソ連において「神」そのものともいえる存在で、反対者を徹底して粛清していたぐらいだから、それを手紙の中とはいえ批判したのではただではすまされなかった。ついでながらスターリンは近頃話題のグルジア出身であり、ソルジェニーツィンとはバカでかいソ連国土からすればほとんど「同郷」という感もある。
 ドイツが敗北したのちの7月にソルジェニーツィンは裁判により懲役8年の宣告を受け、強制収容所送りとなった。

 その1945年の8月8日、ソ連は日本に対して宣戦、満洲へとなだれこんだ。憲兵をしていた赤塚の父親もソ連軍に連行され、そのままシベリアへ抑留されることになる。赤塚一家は這う這うの体で日本へ引き揚げ、その過程で乳児の妹が息絶えるという悲劇もあった。本人も語っていたが、一歩違えば中国残留孤児だったのである。なお、満州国の首都・奉天(現・瀋陽)で赤塚一家と100mほどしか離れてないところに住んでいたというちばてつやの一家はこのころアンネ=フランクみたいに屋根裏に隠れて生活している。
 帰国した赤塚一家はひとまず母の実家のある奈良県大和郡山に居を定めた。この大和郡山での少年時代の体験がその後の赤塚キャラの多く(特にチビ太)に反映していると言われる。そして1948年、赤塚は手塚治虫のSF漫画「ロストワールド」に出会い、凄まじい衝撃を受けて自ら漫画を描き始める(この世代の漫画家の多くが同様の体験を語っており、当時の手塚漫画の衝撃がいかに凄まじかったかを物語る)。1989年に手塚が死去したとき漫画家たちが「朝日ジャーナル」の追悼特集に1ページずつ思い出を描いたが、赤塚は「ロストワールド」の衝撃のラストシーンをそのままコピーして掲載、「小学六年生のとき『ロストワールド』に出会った。漫画から、このような言葉を読んだことはものすごいショックだった」という文を寄せている。
 1949年に赤塚の父が帰国、これを受けて赤塚一家は父の故郷の新潟県に移り住むことになった。

 一方のソルジェニーツィンのほうは1953年に懲役刑の期間が終了したものの、スターリン批判という罪状が追及されてさらに南カザフスタンへの「永久流刑」に処せられてしまっている。さらに流刑先でガンが悪化し、一時は死線をさまようハメにもなった。しかしこの年の3月、その当のスターリンが死去し、フルシチョフが後継のソ連指導者となったことで風向きが変わり始める。

 この1953年、赤塚不二夫は本格的に漫画家を目指すため上京、当時新人漫画家の登竜門とみなされていた「漫画少年」誌への投稿を繰り返す。これが縁で石森章太郎(のち石ノ森)らと知りあい、そのほか戦後漫画史を語る上で外せない漫画家たちの多くと親交を結び、やがてあの伝説の「トキワ荘」の住人となっていくわけだ。デビューは1956年、「嵐をこえて」という少女マンガ単行本だった。
 その1956年2月、フルシチョフが「スターリン批判」を開始、ソルジェニーツィンも釈放され、11年に及んだ流刑生活を終えた。翌1957年には名誉回復が行われ、自由の身となったソルジェニーツィンは小説の執筆活動を始めることになる。

 1958年、トキワ荘の住人の中ではなかなかヒットが出せなかった赤塚は、すでに人気作家になっていた石森章太郎を手伝ったり合作したり(ペンネームは石塚不二太郎!)していたが、やりたいギャグ漫画が描けないまま苦手な少女マンガの仕事ばかりで「もう漫画家をやめようか」と思ったこともあったという。当時トキワ荘グループの兄貴分であった寺田ヒロオに「漫画家をやめてボーイになろうと思う」と相談して漫画家を続けるよう説得されたというのはトキワ荘伝説の名エピソードの一つ。
 そんなある日、雑誌「冒険王」である漫画家が病気で穴を開けてしまい、その穴埋めに何か書いてと編集者が石森に頼んだところ、それがギャグ漫画という指定であったため石森は赤塚に描かせるよう勧めた。赤塚のアイデアをもとに石森が「生意気な子が主人公だから」と「ナマちゃん」とタイトルをつけたこの「一回きりの読み切り漫画」は、掲載誌が出てみると作者も知らないうちに勝手に「連載作品」にされちゃっていた。ここから「ギャグの赤塚」の爆走が始まるわけだ。

 1961年にトキワ荘を去った赤塚は、翌1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の連載をスタートさせ、とくに『おそ松くん』に登場する脇役(?)キャラ「イヤミ」の放つ「シェー!」のポーズは60年代の日本国民の大半がやってしまった(なんせ現皇太子やゴジラまでがやった)と言われるほどの大流行となってしまう。
 奇しくもその1962年、ソルジェニーツィンは強制収容所での体験を下敷きにした処女作『イワン・デニーソビッチの一日』を発表する。この作品の発表にはフルシチョフも後押しをしており、スターリン時代批判と「雪解け」ムードのアピールを行う意図もあったものと思われる。ともあれ、この作品は世界的ベストセラーとなり、ソルジェニーツィンの名は世界にとどろいた。

 だが1964年にフルシチョフが失脚、雪解けムードは停滞して保守的なブレジネフ時代に入る。ソ連の暗部をあばき、フルシチョフ時代の象徴といえたソルジェニーツィンも創作活動を厳しく制限されてしまう。1967年からソルジェニーツィンは検閲の廃止を求めて公開状を何度も出し、ソ連当局と激しくやりあうことになる。
 一方の赤塚不二夫はその1967年にさらなる名作『天才バカボン』の連載を開始、「ギャグ漫画の神様」の地位を不動のものとする。それと同時に自らTV番組に出演するなど積極的にメディアに露出、芸能界にも人脈を広げ、作品のみならず自分の存在自体をギャグにしたかのような華やかな活躍を展開するようになった。

 1968年にソルジェニーツィンは『ガン病棟』などの作品を国外で発表、1970年にはノーベル文学賞を受賞する。しかしうっかり授賞式に出かけるとソ連から市民権剥奪、国外追放の処分を受ける可能性があり、彼は授賞式出席は辞退した。このころからソルジェニーツィンはソ連における「反体制」の代表的・象徴的存在となり(同様の存在としてソ連の原爆開発にあたったサハロフ博士がいる)、その言動は世界の注目を集め、ソ連当局からは目の敵とされた。1973年末にソ連の暗部をえぐりまくる『収容所群島』を国外で発表するとソ連当局の彼に対する敵視は決定的なものとなり、翌1974年2月、ソルジェニーツィンはソ連市民権剥奪のうえ国外追放処分となった。76年からはアメリカで亡命生活を送ることになる。

 1970年代半ば、赤塚不二夫は人気絶頂期ともいえたが、マンガ雑誌を発行してすぐ廃刊に追い込まれたり、お笑い集団を結成したり、映画を作ったりと漫画以外での破天荒な活動が目立つようになり、私生活の面でも離婚という事態が起こっている。そして1975年、九州からやってきた森田一義=タモリと運命的な出会いをし、その才能にほれ込んだ赤塚はタモリを九州に帰さず自分のアパートに泊りこませ、赤塚が出るTV番組に出演させてその芸能界入りをサポート、長く密接な交友関係を続けることになる。のちに赤塚の葬儀の弔辞を読んだタモリは「私もあなたの作品の一つです」との名言で感謝を述べていた。
 1980年代に入っても赤塚の創作活動は続いているが、誰もが知る有名どころは70年代でほぼ終わっていると言っていい。繰り返しアニメ化され、そのたびに雑誌にチョコチョコと載っていたので「過去の人」という感じはあまりなかったが…僕が目撃できた新作としては、当時CMで話題になっていた飼い猫「菊千代」を主人公にした『花の菊千代』ぐらいだったかなぁ。

 昭和が終わって平成となった直後の1989年2月、赤塚不二夫に漫画家の道を決意させた巨匠・手塚治虫が60歳の若さで死去した。
 その年の7月、おりからソ連の改革「ペレストロイカ」を進めていたゴルバチョフ政権は、反体制作家ソルジェニーツィンの作品の解禁を決定する。この年は6月に中国の天安門事件、秋にはベルリンの壁崩壊と東欧革命があり、「冷戦の終結」という歴史上の大きな節目の年となった。翌年8月にはゴルバチョフ大統領がソルジェニーツィンのソ連市民権の回復を発表、その翌月、ソルジェニーツィンは『甦れ我がロシアよ』と題する提言を発表し、ソ連邦の解体とスラブ系3国との同盟、各民族共和国の独立などを提案していた。ゴルバチョフ大統領のみならずロシア国民の大半が読んだとも言われるこの提言は大きな反響を呼び、それがどこまで影響したかはわからないが事実として翌1991年に保守派のクーデター失敗からソ連邦は解体され、独立国家共同体(CIS)が誕生することになった。
 そして1994年になってソルジェニーツィンはついにロシアに帰国した。国外追放からちょうど20年が経っていた。

 そのころ赤塚不二夫は重度のアルコール依存症に陥っていた。前妻の紹介した女性と再婚したりもし、何度か「断酒宣言」を表明した記憶もあるのだが、再びマスコミにとりあげられるとやっぱり酒から手が離せない様子を目にすることになった。赤塚ブームは周期的に再燃しアニメ化も繰り返され単行本も売られたが、描くと言っていた新作はなかなか出なかった。そうこうしているうちに盟友・石ノ森章太郎が1998年にこれまた60歳の若さで死去。同年に赤塚も食道がんの手術を受け、2年後に硬膜下血腫の手術、そして2002年に脳内出血を起こし、以後は創作活動はおろか公の場に全く姿を現さなくなった。2004年からは意識不明の植物状態であったと伝えられている。
 だが酒びたりでも体は頑健だったのだろうか、昏々と眠ったまま4年の歳月を生き抜き、その間に看病していた妻が病死、赤塚自身の死のわずか三日前には前妻も病死していた。関係者の話によると前妻の死後、赤塚は自身で生命維持のチューブを外そうとしていたともいい、「後を追ったんじゃないか」とまでささやかれている。

 ソルジェニーツィンの方はといえば、ロシアがボロボロ状態であったエリツィン元大統領についてはボロクソに批判していたが、その後を引き継いで「強いロシア」復活にある程度成功したプーチン前大統領(なんか今も大統領みたいな感じだが)を高く評価していた。2000年9月にプーチン大統領がソルジェニーツィンの自宅を訪問した折にプーチンさんを大絶賛したことが当時「史点」ネタにされている(2000年9月24日「史点」)。かつてソ連にひどい目にあった彼がKGB出身で独裁的君主にすら見えるプーチンを賞賛したことには「矛盾」と批判する声もあったが、もともとソルジェニーツィンは西欧型の民主主義に対しても辛口であり、「ロシアは強力な指導者に率いられるべき」という考えを持っていたと言われる。まぁ確かにイワン雷帝ピョートル大帝エカテリーナ2世スターリン…とロシア史はそういうお方たちに指導され国民が迷惑した時代の方が強国だった例が多いように思えるわけだが。
 プーチン時代に経済的にも急成長したロシアだが、ソルジェニーツィンは性急な市場経済化は貧富の差を拡大するとして批判していた。2005年には「1917年の革命直前と同様、国家と社会の対立が深まっている」と警鐘を鳴らす発言もしている。昨年6月にプーチン大統領から国家賞を贈られた際には「我が国が20世紀に犯した自滅から教訓をくみ取り、それを繰り返さないことへの希望につながる」と述べていた。
 
 2008年8月2日午後4時55分、赤塚不二夫は肺炎により死去した。72歳だった。
 そのおよそ18時間後の8月3日午後11時45分(日本時間4日午前4時45分)、アレクサンドル=ソルジェニーツィンは急性心不全により死去した。89歳だった。
 前者は日本国内で、後者は世界全体で大きなニュースとなった。どちらも現役からは遠ざかっていたが、一時代の象徴的存在として漫画家・小説家の枠を超えた扱いを受けていた点で共通する。葬儀はソルジェニーツィンのほうは8月6日、赤塚不二夫のほうは8月7日に執り行われた。

 一日違いで死んだという縁だけでその生涯を重ねる無茶をやってみたが、両先生とも「ソルジェいいのだ!」と笑って許してくれることであろう(笑)。


2008/8/13の記事

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