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2008年8月27日

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◆今週の記事

◆虎の尾を踏む男たち

 更新がズルズル遅れている間に、なんだかんだ言われつつも北京オリンピックはフツーに開催してフツーに盛り上がり、競技以外で特に大事件もなく終わってしまった。まぁ事前に「なにかあるぞ」と騒がれる場合ほどたいてい何も起きないもんです。なんだか何にも起きなかったことでガッカリしているような空気が漂ってなくもないような(笑)。
 説明の必要もない話だが、オリンピックのルーツは古代ギリシャにある。オリンピアの神々に捧げるスポーツ大会をやってる間だけは都市国家間での戦争をしないという習慣があったのを、近代にその精神を復活させようということでフランスのクーベルタン男爵が企画して始めたのが近代オリンピックだ。オリンピックをやってるときだけでも戦争をしない、いわゆる「平和の祭典」ということなのだが、1916年のベルリン五輪は第一次大戦のため中止され、1936年に実際に開かれたベルリン五輪はナチスの大宣伝の場とされ、その次の東京五輪は第二次大戦のために中止され、1980年のモスクワ、1984のロサンゼルスでは冷戦を背景に東西陣営がそれぞれボイコットするなど、国際紛争・対立を色濃く反映してきた歴史がある。また1972年のミュンヘン五輪では期間中にイスラエル選手団が襲われるテロ事件が発生した(この事件とそれに対する報復暗殺作戦はスピルバーグ映画「ミュンヘン」に詳しい)。今度の北京五輪も何かテロが起こるのではないかとささやかれていたものだが、ウイグル自治区の西の端のほうではチョコチョコとテロが発生してはいる。

 北京オリンピックのド派手な開会式には80以上の国の首脳が参加したが(弾劾寸前のパキスタン・ムシャラフ大統領はドタキャンしたがそのまま辞任、タイのタクシン元首相は参加した足でそのまま亡命といろいろドラマがある。どっかの「友好都市」の都知事もさりげなく参加してたな)、そこにロシアのプーチン首相の姿もあった。入場行進で自国選手団が出てくるとその国の首脳はたいてい起立して彼らにエールを送ったものだが、プーチンさんは反応が微妙に遅かった。周囲と何やらしゃべっていたのは明らかで、「これはもしかしてグルジアの件を相談してるんじゃ…」と僕も思ったものだ。後で知ったことだが、実はグルジアのサアカシュビリ大統領も当初は北京の開会式に出席する予定を急遽キャンセルしていたのだった。
 この開会式の最中、グルジア軍がグルジアから分離独立を目指している南オセチア自治州に進攻、州都ツヒンバリを包囲した。これに対してロシア軍も反撃して逆にグルジア領内へ進攻、事実上の戦争状態に突入していた。オリンピックの最中だと言うのに…と思ったものだが、どうもオリンピック期間中だったからこそ、という面もあった感じもする。もともと数年前から散発的にドンパチあった地域なのでちょっとした弾みで戦闘が激化することはありうるのだけど、メドヴェージェフ大統領との「二重権力」とも「院政」とも言われるプーチンさんがお出かけしている隙をついて一気に動いた、という印象もある。サアカシュビリ大統領はイスラム系住民の多いアジャリアの分離独立運動を力で抑え込んだ「実績」もある。

 だが、その後の展開から言うとこれはロシア側の軍事作戦の呼び水になってしまった。南オセチアやアブハジアといったグルジア国内の分離独立地域(実質独立状態)にはロシア軍が「平和維持軍」として駐留していたし、緊張状態は続いていたから国境付近にも軍隊が待機していた。冷静に考えればグルジア側の一挙制圧どころか「返り討ち」にあうとわかったと思うんだけど(後日アメリカの軍人や外交関係者が「勝てない、やめとけ」と再三止めていたことが明らかにされた)、なんか「やれる!」と思っちゃうようなところがあったのかもしれない。後から言い出したことだが、グルジア側からは「ロシアが挑発して衝突に導いた」との主張もある(まぁ仮にそうだとしてもそれに乗る方も悪いんだが)。結局はロシア軍が反撃、オセチアのみならずアブハジア側、黒海沿岸からもロシア軍がグルジア軍を押してグルジア領内(オセチア・アブハジアを除いての話)に進攻し、グルジア各地の軍事施設の空爆、黒海沿岸のポチや中部のゴリといった都市の占領、と一挙に力で押しつぶさんばかりの動きを見せた。実際、この機会にサアカシュビリ政権を打倒できれば…という考えはあったと思う。

 前にもここのことは史点ネタになったことがあるんだけど、ここ数年のグルジアは「新冷戦」の最前線なんて言われる国だ。黒海とカスピ海に挟まれたカフカス地方はアルメニア・アゼルバイジャン・チェチェンなど多くの民族と宗教が入り混じり、ソ連崩壊期から民族紛争が絶えない。さらにカスピ海沿岸の石油がパイプラインでトルコへ運ばれることになり重要な利権ルートともなったことで大国のせめぎ合いも激しくなり、とくにグルジアはアメリカ滞在経験のあるサアカシュビリ大統領の政権が登場してからロシア離れとアメリカ接近の傾向をますます強めていた。それまでソ連以来のロシア風だった軍隊もアメリカの軍事顧問(一応隣国のチェチェンがらみでアルカイダが活動してるから…という口実でやってきた)がついて一気にアメリカ化し、その「恩返し」とばかりに数千人規模のグルジア軍がイラクへも派遣されていた(時期によるようだがその規模はイラク派兵国の中でアメリカ・イギリスに次ぐ3位だった。今度の事態でかなり帰国したらしいが)。NATOへの加盟もほぼ既定路線化しており、そういうアメリカとの結び付きもあって「やれる!」と思っちゃった気配はある。
 一方でロシアにしてもこの方面は戦略的にも重要で絶対に手放したくないところ。石油がらみもさることながら、昔から黒海は地中海へと抜ける、ロシアの「勝手口」。黒海に面してやはりアメリカ寄りのロシア離れ傾向を見せるウクライナともどもグルジアについても警戒感をあらわにしていた。また近頃「大国」ぶりを復活させてきたロシアとしてはソ連時代の縄張りをこれ以上縮小させたくないという心理が指導層にはあるようだ。その「大国ソ連」を作ったのが前回のソルジェニーツィンの話題でも言及したスターリンであるわけだが、今回ロシア軍が占領したグルジア中部の都市ゴリはスターリンの故郷で、「故郷の英雄」ということなのか、ロシア国内ではめったに見なくなったスターリンの銅像が市役所の真ん前に今もしっかり立っているのが皮肉ではある。
 
 現時点でまだ全面解決はしておらずロシア軍もグルジア領内の一部に居座るなどして緊張は続いているのだが、全面戦争状態突入という最悪の事態はとりあえず避けられたようだ。犠牲者は双方に出ていて、お互いに「民族浄化」したと非難し合っているが、こうなっちゃうとどっちもどっち。サアカシュビリ政権がオセチアなどで「純グルジア化政策」を進めたこと紛争勃発の背景にあるのも事実で、ロシア非難一色に見える報道の群れの中でも「グルジア人」でサアカシュビリ政権への批判が出ていることなど単純ではない現地事情も一部で紹介されてはいた。
 ただグルジア自体が独立国なのは間違いなく、その領内にロシア軍が報復とはいえ「侵攻」したことは西側諸国(まだ死語にならんな)の非難を受けた。アメリカのブッシュ大統領が緊急声明の中でロシア軍の侵攻を「このような行動は21世紀には受け入れられない」とのたまっていたが、ご自身がやった、遠く離れた国に勝手なイチャモンつけて戦争仕掛けて政権倒して多大な犠牲者を出すのは「21世紀型」ということなのだろうか(苦笑)。この騒ぎの最中にもアフガニスタンじゃNATO軍が例によって誤爆で民間人を大勢殺害したりフランス軍に被害が出たり(それも「誤爆」疑惑がささやかれる)していたのだが、あまりに日常茶飯になるとロクに報道もされないのが恐ろしい。またロシアがアブハジア・南オセチアの独立を一方的に「承認」したことが非難されるのは無理もないとして、「コソボと何が違うんだ?」という言い分もまた無理はない。
 ちょうどソ連軍による「プラハの春」つぶし(1968年8月21日)40周年とかちあったこともあって特に東欧諸国には衝撃を与えた。このグルジアの事態を受けて、それまでアメリカのMD(ミサイル防衛)導入に反対意見が多数派だったポーランドでは一挙に賛成派が過半数となり、ポーランドはその世論をテコにMD導入をあっさり決めてしまった。またロシアの黒海艦隊に港を貸している形のウクライナも今後は港利用を「許可制」にすると言いだしている。「プラハの春」といえばこのときチェコスロバキア攻撃に参加したことをハンガリー政府が公式に謝罪するというニュースもあった。

 ところでこの騒動の最中に日本で「オセチア」の名が注目されちゃったのは…そう、相撲界で起こった大麻騒動である。落とした財布に入っていた大麻を見つかってしまい(拾った人が正直に交番に届けちゃったことが命取りになった)逮捕されたロシア人力士若ノ鵬は北オセチアの出身だ。人のつてがあったせいなのかオセチア出身力士はかなり多く、露鵬白露山の兄弟も北オセチア。一方、グルジア人力士には黒海栃ノ心がいて、カフカス方面出身力士ってかなりの数いたのである。
 紛争勃発直後の13日に、岩手県久慈での巡業中、モンゴル出身の朝青龍が白露山と栃ノ心の二人を呼んで握手させる「和解」のパフォーマンスをやっていた。もちろん民族紛争が当人同士の仲に影響していたわけではないようだが、スポーツの世界で形だけでもこういう演出があるのはいいことだ。この件では素直に朝青龍を評価したい(当人とは関係ないが今度の事態で珍しく真っ先にロシア支持を表明したのがモンゴル政府だったりする)
 
 ロシアとグルジアの「和解」演出は北京オリンピックでも見られた。グルジアは一時選手団全員帰国も考慮したそうだが、幸いそれは回避されている。
 相撲界の「和解」と同じ13日に女子ビーチボールで「グルジア× ロシア」戦があり、試合前に両国のペアが笑顔で抱き合い、お互いに敬意を表してから試合に臨んだ。結果はグルジアが2−1の勝ち。試合後、両国の選手たちは停戦を求め、五輪が政治に染まって残念と発言している。
 紛争真っ最中ともいえた10日には、射撃女子エアピストルの競技でロシアのナタリア=パデリナ選手が銀メダル、グルジアのニーノ=サルクワゼ選手が銅メダルを獲得していた。二人は国際大会でよく顔を合わせる友人同士だそうで、表彰式のあとお互いに抱きあう姿を世界に向けて見せた。記者会見でも「何事もわたしたちの友情は壊せない」「2人は政治とスポーツを混同したことはない」と口々に言っていたそうである。最初にオリンピックに出場したのがソウル五輪(1988)で当然当時は「ソ連代表」だったサルクワゼ選手は「戦争を起こすのも止めるのも政治家。ちゃんと話し合ってほしい」と発言、記者から「彼らはあなたたちに学ぶべきだ」と言われて「それができていれば最初から戦争は起きない」と答えたという。ホント、射撃は競技だけにしてもらいたいもんである。



◆生きものの記録

 実は前回とりあげる予定だった話題。思いっきり出遅れたが、他の生物ネタ話題とセットで。
 エクアドル領のガラパゴス諸島といえば、まさにダーウィンが来た!」島で、とくにこの諸島に住むガラパゴスゾウガメが島ごとに環境に合わせて異なる形状を示していたことが彼の進化論着想のヒントになったと言われている。このガラパゴスゾウガメというやつ、おっそろしく長命で、ダーウィンの時代にすでに生きてたメスの一頭はロンドンの動物園で一昨年まで生きていて、推定175歳(!)だった。

 さてガラパゴス諸島のうちピンタ島にはゾウガメはすでに絶滅しているかと思われていた。ところが1971年にオスの一頭が生存していることが確認され、この一頭はガラパゴスゾウガメのこの島特有の亜種の最後の生き残りと確認され、「ロンサム・ジョージ(一人ぼっちのジョージ)」と名付けられた。このジョージ君はガラパゴスの有名亀で、あの『ゴルゴ13』でもネタにされたことがある。
 このピンタ島亜種の絶滅を防ごうと、ガラパゴスのサンタクルス島にあるチャールズ・ダーウィン研究所はジョージを保護し、他のメスと一緒にして繁殖を試みた。だが彼の発見以来30年間、ジョージ君はまるっきり情事に関心を示さず(爆)繁殖はうまくいかないままで、現在推定70歳(60〜90まで幅あり)という御年でもあり関係者もほとんどあきらめていたという。
 ところが、である。先月21日、ガラパゴス国立公園は「ロンサム・ジョージが父親と見られる卵3個が発見された」と発表して世界を驚かせた。3つの卵は人工孵化器内で保護され、孵化するのは約120日後とのこと。現時点でぬか喜びは禁物だが、60〜90歳といえどもまだまだ「中年」である。お相手のメスの方の御年がいくつかなのか興味のあるところなんだが、やっぱり若いお嬢さんだったんだろうか(笑)。
<2009/1/26追記:残念ながらこの卵、三つとも繁殖に失敗したことが、1月23日に発表された>


 しかし上には上がある。ニュージーランドで111歳と80歳のムカシトカゲのカップルが交尾に成功した、とのニュースが8月8日にあった。ニュージーランドにのみ生息するムカシトカゲというのはその名の通り恐竜がいた2億年前からほとんど変わらぬ生態を維持している「生きている化石」というやつで、個体も成長がかなり遅く(「成人」になるのに30年はかかるそうな)、平気で100年以上の寿命を保つらしい。
 ニュージーランド南島のサウスランド博物館で飼育されているオスのムカシトカゲ「ヘンリー」くんはどうやって確定したのか知らないが年齢は111歳。ということは1897年(明治30年)のお生まれということになる。同じ年の生まれで「史点」出演者を探すとインド独立の闘士・チャンドラ=ボース、有名なマフィア幹部ラッキー=ルチアーノ、「宋家三姉妹」の末っ子で蒋介石夫人となった宋美齢がいる。宋美齢さんなんて5年前まで生きてたもんなぁ。
 このヘンリーくん、1970年から実に38年もこの博物館で生活している。この間博物館側も彼にお見合いをさせてはいたのだが、彼は極度の肥満で動きが鈍く、そのせいか異性に興味を示さなかったという。メスのほうに相手にされてない可能性もあるが、近寄って来たメスのシッポをかみちぎったことが2回もあったというから当人が「女嫌い」だったのだろう。
 ところが最近、体にできた腫瘍を除去する手術を受けたところ、どういうわけかホルモンが増加し、ガゼン異性への興味を持っちゃったらしい。お相手もあまり若いとはいえないようだが、これは老いらくの恋というやつなのだろうか(狂い咲きとも言うな)。報道によれば現在は三匹のメスに囲まれるハーレム生活を送ってらっしゃるようである(笑)。さすが2億年の生命力というところか。
<2009/2/8追記:こちらはめでたく11個の卵が孵化し、111歳にして父親になったことが1月27日に発表された>


 とかなんとか言っていたら、さらなる上手がいた。といっても、こちらは植物だが。
 アメリカはゲティスバーグの古戦場にあるアメリカサイカチの150フィートの巨木が8月7日の夜に嵐のために倒れてしまった。そう、この木こそ、南北戦争の大激戦、ゲティスバーグの戦い(1863年7月)を目撃した(木に目はないけど)ということで「目撃者の木(witness trees)」と呼ばれるの木の一本だったのである。 あの戦いから150年もの時が流れているが、木にすればそう長い時間じゃないのかも知れない。
 この木は南軍陣地の右側に立っており、AP通信記事に出ていた公園の人によれば「三日間の戦いの間にこの木の下に南軍兵士が休んだことあったに違いない」とのこと。嵐のために樹木の70〜80%がダメージを受けてしまったというが、まだ木としては「死んだ」わけではないとのことで、これから何とか復活することもあるかもしれない。なお、この「目撃者の木」は古戦場公園内にあと3本はあるそうだ。
 

 これで話がまとまるなぉ、と思っていたら…人間様も負けてないぞ、というニュースが流れていた。
 インドの新聞各紙が報じたところによると、8月19日にインド西部のジャイプールでハビブ=ミアンさんという男性が亡くなったという。その御年、なんと138歳とか。これが本当だとすると1870年(明治3年)生まれということになる。ムカシトカゲのヘンリー君より27歳も年上で、同年生まれの有名人ではレーニン浜口雄幸がいる。もちろんほとんどアテにならない話で、調べてみるとインドでは最近他にも「138歳」というお方の存在が報じられたことがあるらしい。ただこのハビブさん、なぜか年金受給記録書には1878年5月生まれの130歳とあるそうで、ここが微妙にリアルでもある。こちらだと同年生まれでは吉田茂与謝野晶子らがいる。



◆生きる

 オリンピックの最中、大会に湧く北京市内で、中国現代史の一コマに登場する――一コマといっても、中国共産党のトップ「主席」だったこともある大物で、我がPCでも「かこくほう」で一発変換するのだが――ある人物が87歳でこの世を去った。華国鋒・元中国共産党主席兼首相だ。一時は中国のトップ指導者であったにも関わらず、その訃報は国家をあげてのオリンピックの大騒ぎの中で実にささやかに報じられた。中国現代史のいきさつを多少とも知る者には実に象徴的な死と見えた。
 そのささやかな報道の一つである中国・新華社通信の表現では華国鋒氏は「中国共産党の優秀な党員、長きにわたり試練に耐え抜いてきた忠実な共産党戦士、プロレタリア革命家で、党・国家の重要指導職務を務めた」なのだそうである。こういう重々しくも簡潔な表現は中国正史の「列伝」の最後に置く論評を思わせるところ。

 華国鋒は1920年に山西省交城県に生まれ、本名は蘇鋳という。17歳の時に日中戦争がおこったときに中国共産党に入党、「中民族抗日救隊」に属したことにちなんで「華国鋒」と名乗るようになったという(レーニン、スターリン、不破哲三など、共産党員は本名以外で知られる例が多い)。彼が共産党内で出世したきっかけは中華人民共和国成立後に毛沢東の故郷の湖南省で党の職務にあたるうち、その能力が毛沢東の目にとまったためだと言われている。
 1966年から、中国には「文化大革命」の嵐が吹き荒れる。これは急激な社会主義国家建設に失敗して実権を失った毛沢東が権力奪回を目指して大衆を動員した「革命」で、この文革が続いた11年間、中国は事実上の内乱状態に陥ってしまったというのはよく知られている通り。特にもう沢東の妻・江青をはじめとする毛沢東の腹心「四人組」の権勢は非常に悪名高い。華国鋒は四人組と一定の距離を置いていたようだが、文革のさなかに毛沢東に見出されて党の幹部に出世していることから文革路線の支持者であったことは間違いない(というか、この時期文革に反対なんてそれこそ「非国民」扱いだ)
 1976年1月、その文革で「四人組」の最大の標的とされながらも巧みにその追及を切り抜け、毛沢東ともうまく付き合って文革路線に一定の歯止めをかけつつ外交的にも中国孤立を防ぐ働きをしていた周恩来が死去した。その後をひきついで首相代行に任じられたのが華国鋒だ。間もなく毛沢東自身の指名で共産党第一副主席兼首相に任じられ、すでに余命いくばくもない毛沢東の事実上の後継者の立場になる。この時期の毛沢東の内心は当人のみぞ知るところだが、毛自身「四人組」の跳梁に歯止めをかけようとしており、バランス感覚から華国鋒を抜擢したとの見方もある。
 そして同年9月9日、毛沢東が死去する。華国鋒が軍人・葉剣英らとはかって「四人組」逮捕に踏み切るのはその直後の10月6日のことだ。ここに10年にわたって吹き荒れた「文革」の動乱は終結する。この一点において華国鋒は「文革を終わらせた立役者」としてその功績を評価されることになる。

 しかし華国鋒自身は基本的に毛沢東主義の継承を主張しており、毛沢東から直々に「あなたに任せれば安心」と委託されたとするメモを示すなどして「毛沢東の主義を忠実に継承する」という「二つのすべて」という路線をアピール、自らの権力の維持を図った。これに対して文革中たびたび失脚・迫害の憂き目をみて不死鳥のように復活してきたトウ(ケ)小平が台頭、華国鋒の「二つのすべて」路線を批判して「改革・開放」路線を打ち出していく。1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議でトウ小平路線の勝利が確定、華国鋒は党内の地位こそ維持されるものの実質的な失脚となる。1980年に首相を辞め、1981年に党主席を辞任。だが特に抵抗もせずにゆっくりと身を引いたあたりは分を知っていたというか、世渡り上手だったのかもしれない。80年代以後の中国の改革・開放の発展のなかで彼の存在はすっかり忘れ去られていった。

 北京の天安門広場にある「毛主席紀念堂」は、毛沢東の遺体をレーニン同様に防腐処理して保管、それを「ご神体」として祭る施設だが、これを建てさせたのがほかならぬ華国鋒だった。建物の入口に掲げられた「毛主席紀念堂」の揮毫も彼の手によるものだ。政治権力をすっかり失ってほとんど外出することもなかった華国鋒は、毎年毛沢東の命日の9月9日に、この紀念堂に「参拝」する習慣だけは維持していたという。
 2002年の中国共産党第16回党大会で正式に引退を表明。2004年に「華国鋒が離党届を出した」との報道もあったらしいが、昨年10月の第17党大会には「特別招待代表」として出席しており、これが「最後の花道」となった。「改革・開放政策」の一つの達成点となった北京五輪の最中にひっそりとこの世をさったのも、何やら彼らしい。
 
 中華人民共和国も来年で建国60周年。戦争と革命の時代を肌で知る世代もかなり少なくなり、建国後の文革の動乱期の指導者も多くがこの世を去っている。中国でも「動乱の時代」はすっかり昔話になっちゃってるなぁ、と思わされた訃報であった。



◆八月の狂詩曲

 もう8月も末になっちゃったんだけど、今年も例によって終戦の月・八月は第二次大戦がらみの話題が多く出る。それらをまとめて並べてみた。

 実際には7月の話なのだが8月になって明らかになった訃報がある。7月21日にイギリス南西部ブリストル近郊の老人養護施設でエリック=ダウリングさんという老人が亡くなった。誕生日の前日の死去でギリギリ92歳。この方、何者かといえば第二次世界大戦時にイギリス空軍のパイロットとして参戦、撃墜されて捕虜となり、ポーランドのジャガンにあったナチスの捕虜収容所に送り込まれた人物。そしてここで、映画「大脱走」で有名になってしまった実話の収容所脱走劇(1944年3月24日決行)に関与することになった人なのだ。
 脱走計画の大まかな展開自体は映画もおおむね忠実に追っているらしい(もちろん娯楽的改変は多々ある)のでその辺は映画を見てもらうとして、連合軍の捕虜たちが集まり、それぞれの部門のエキスパートが集まった綿密な脱走計画は実際にかなりの規模のものだった。映画同様にこっそりとトンネルを1年がかりで掘って200名以上を脱走させるというまさに「大脱走」計画で、結局76人の捕虜が収容所からの脱走に成功、しかしうち73名はとらえられてしまい、そのうち50名は処刑されてしまっている。
 ダウリングさんはこの脱走計画の中心にいたとされ、映画中でドナルド=プレザンスが演じた偽造のプロがダウリング氏をモデルにしたキャラクターだと言われる。ただしダウリングさん自身は脱走者の抽選に漏れ、実際の脱走劇には参加できなかったという(だから生き延びたとも言えるが)。モデルとされた当事者にはよくあることだが大ヒットした映画については批判的で、「脱走はあんなに簡単じゃなかった。特にトンネル掘りは現実的ではない」と語っていたという(そりゃ1年以上かかったことを3時間にまとめてるからなぁ)。またラストに主演のスティーブ=マックイーンが国境を越えようとバイクで暴走する名シーンは「やりすぎ」と言ってたそうで。ちなみにあのシーン、ほんとは列車で逃走する地味なシーンだったのをマックイーンが「俺らしくない」と改変、自らバイクに乗ってノースタントで演技しちゃったもの。彼を追いかけるナチス軍人のバイクシーンもマックイーンがスタントで演じているそうな(笑)。

 8月は人類初の核兵器・原子爆弾が実際に都市に投下された月でもある。今年の8月、その原爆開発に参加していた女性科学者が広島・長崎をはじめて訪問して、ささやかながら報じられていた。
 その女性とはジョアン=ヒントンさん(86)。原爆開発に参加した当時はまだ24歳の若き科学者だった。彼女の専門はプルトニウムの精製で、マンハッタン計画の中核に参加できた100人程度の科学者のうちの一人だったというから、よほど優秀な人だったのだろう。本人によれば原爆が実際に人間の上に投下されるとは思っておらず、「砂漠に投下して威力を見せ付けドイツの核兵器使用をやめさせる」のが目的だと思っていたという。1945年5月にドイツが降伏した後も「あくまで研究目的の原爆開発」と信じていたという。当時核開発に関わっていた科学者のうち一定数はそういう考えを持っていたと言われているが、それは結局ナチスに対してではなく日本の都市に投下され、多くの一般市民の犠牲者を出した。1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が投下されたと知ったヒントンさんは「まさか」と衝撃を受け、大量殺戮兵器を開発した科学者であることを恥じた。そして戦後は反核運動に身を投じた彼女は、1948年にまだ国共内戦の最中だった中国に亡命、内モンゴルで酪農をしながら長い歳月を暮らすことになる。
 当時冷戦構造では「敵」であった中国に亡命したことで「核のスパイ」とも疑われた彼女の消息は1951年に全米科学者連盟あてに手紙を送ったことで判明した。そこには「ヒロシマの記憶――15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ」と自身が核兵器開発に関わったことへの悔恨の思いがつづられていた。『大地』などで知られる作家パール=バックは彼女をモデルにしたヒロインが登場する原爆開発小説『神の火を制御せよ(Command the Morning)を1959年に発表している。
 ヒントンさんの来日は今回が最初。以前から訪問したいとは思っていたというが、今回の訪日は『神の火を制御せよ』の出版社の招きで実現したもの。広島を訪問し、原爆の破壊力を今日に伝える原爆ドームを見たヒントンさんは「自分がつくったものがどんな結果をもたらすか。それを考えず、純粋な科学者であったことに罪を感じている」と取材に答えている(毎日新聞記事より)。その後長崎も訪問したヒントンさんは、自らの精製したプルトニウムを使った原爆「ファットマン」の模型を無言で見詰め、被害者の惨状を写した写真を見て「なんとひどい」と何度もつぶやいた。ここで改めて「私は研究成果だけを求める純粋な科学者だったことを恥じる。若い科学者には、自分の行為が招く結果を考えて行動してほしい」(西日本新聞記事より)と静かに語ったという。
 8月15日に報じられたところでは、アメリカ民主党の党大会で示される政策綱領案に「核兵器のない世界をめざす」ことが明記されたという。あくまで「めざす」のであってアメリカも含めた保有国がそう簡単に手放すとは思えないのだが、アメリカの政権もとりうる政党が綱領に初めて「核廃絶」を明記したというのはやはり大きいことだと思う。最近ではキッシンジャー(「米中接近」の立役者として北京五輪開会式に招待されブッシュ大統領の近くに座っていた)などアメリカ外交・安全保障の中核にいた人たちも核廃絶論を唱えだしてるのもこれと連動してるのではなかろうか。


 これも8月14日になって報じられたことだが、7月23日にアメリカのメリーランド州でウィリアム=バンスさんという100歳の老人が亡くなった。この人、何者かといえば、戦後日本を占領し民主化政策を進めた「GHQ」(連合国軍総司令部)の宗教課長だった人である。
 100歳ということは1907年か1908年生まれということになる(この辺、報道では確認できなかった)。1930年代に日本にやってきて、旧制松山高等学校(現在の愛媛大学の母体の一つ)に英語教師として赴任しており、この経験から後に「日本通」として扱われることになったのだと思われる。1943年に海軍予備役に招集され翌年に地域研究担当となり、日本占領後はGHQで宗教課長となった。今も毎年騒がしい靖国神社を一宗教法人とし、神道と国家の結びつきを禁じる「神道指令」も彼が担当したものらしい。もちろん彼一人の一存ではなかったんだろうが…。それにしてもまだその関係者が存命だったとは驚き。


 その靖国神社に戦死者でもないのにどういうわけか祭られちゃってる東條英機に関するニュースもあった。国立公文書館が敗戦直前の1945年8月10〜14日に東條英機が記していたメモを公開したのだ。東條英機は身辺に起きたことを事細かく記録する「メモ魔」だったことは知られていたが、この時期の彼の内心も吐露したメモの公開は昭和史を調べる上でも貴重だ。
 ただ特にビックリするような話が書かれていたわけではない。東條自身はすでにサイパン陥落の責任をとって首相を辞任しておりひところの「独裁者」状態ではすでになかった。8月に入ってようやく無条件降伏に傾いてきた昭和天皇鈴木貫太郎首相に対してポツダム宣言受諾の断固反対を表明し「本土決戦」の意思をとなえているのは当時の上層軍人としてはいたって普通の言動だ。8月10日のメモに「東亜安定ト自存自衛ヲ全フスルコトハ大東亜戦争ノ目的ナリ、幾多将兵ノ犠牲国民ノ戦災犠牲モコノ目的ガ曲リナリニモ達成セラレザルニヲイテハ死ニキレズ」とあるそうだが(報道ではひらがな・新仮名づかいで表記されていたので戻してみた)、これも映画『日本のいちばん長い日』で降伏反対派の主張としてよく出てきたもの。つまり「これまでの犠牲が無駄になるじゃないか」と戦争続行を主張するものだが、それをやっちゃうとさらに無駄に犠牲者が増えるだけなのは当人たちも分かっていたはずなんだよな。こういう屁理屈を言い出すのは単に「敗北を認めたくない」からに他ならず(どんなにボコボコにされようと「ボクは負けてない」と言い張る子供の喧嘩みたいなもん、という例えがある)、ひいては「この戦争をおっぱじめた責任をとりたくない」という心理がそこにある。今回の東條メモの中でも「稍モスレバ一段安キニ考ヘタル国民トシテ軍部ヲノロウニ至ルナキヤ」という部分があり、「一段安き」に戦争を考える国民が軍部を「呪う」のではないかと恐怖していることをうかがわせている。
 13日のメモでは「モロクモ敵ノ脅威ニ脅ヘ簡単ニ手ヲ挙グルニ至ルガゴトキ国政指導者及国民ノ無気魂ナリトハ夢想ダモセザリシトコロ、コレニ基礎ヲ置キテ戦争指導ニ当リタル不明ハ開戦当時ノ責任者トシテ深クソノ責ヲ感ズル」とある。面倒で途中を読み飛ばして結論だけ見ると自身の開戦の責任を痛感してるように読めちゃうが、前段からちゃんと読めば「簡単に降伏しちゃうような根性無しの指導者と国民に基礎をおいて戦争指導に当たった不明」に責任を感じてるということで、要するに「俺は悪くない、政治家と国民が根性無しなんだ〜!」と本音を吐露しちゃってるのである。この部分が今回各報道でもっとも批判されたところで、あの産経新聞の一面コラム「産経抄」までが8月15日付で批判的に言及していてちょいと注目してしまった。その「産経抄」、「孫たちへの証言」という戦争体験集を取り上げているのだが、そこでは戦中の反戦主張や兵士による中国民間人殺害など同紙として「らしからぬ」素材もとりあげ、「63年前の8月13日に、戦争に負けたのは、「国政指導者及国民の無気魂」のせいだ、と書き残していた東条英機元首相にも、読ませたかった。 」とコラムを締めていた。まぁ「産経抄」も35年も書き続けた担当者が4年前に降りてからは電波度が一気に低くなってつまんなくなったなぁ、と思っていたんだが(笑)。
 無条件降伏が確定した14日には「大義ニ殉ゼル犠牲モツヒニ犬死ニ終ラシムルニ至リシコトハ前責任者トシテソノ重大ナル責任ヲ痛感スル。事ココニ至リタル道徳上ノ責任ハ死ヲモツテオワビ申上グル」と責任を取っての自決の決意を記している。その気持ち自体に偽りはないとは思うのだが、阿南惟幾陸相のようにその日のうちに自決(切腹)した例と比較すると、ピストルによる自決決行が9月11日、それも占領軍に私邸を取り囲まれ逮捕が目前に迫る状況になっての実行、しかも結局致命傷に至らず裁判のために治療を受け生かされることになった結果には、かなりひっかかるものを感じてしまう。
 

 ほぼ時を同じくして、アメリカの公文書館も歴史の「影」の部分に光を当てる資料を公開している。第二次世界大戦中の1942年に設立された「戦略情報局」(OSS)に所属していた人々およそ2万4000人ものリストが公開されたのだ。OSSは戦後にCIA(中央情報局)に成長するから、まぁ広義の「スパイ」とも言えるのだが…
 報道によればそこには映画監督のジョン=フォード、シカゴ・ホワイトソックスの大リーガー・モー=バーグ捕手、俳優スターリング=ヘイドンなど著名人の名前もある…といい、読売新聞なんか「J・フォード監督の名も、米CIA前身の「スパイ名」公開」なんてまぁオオゴトめいた見出しを出していた。だが、ジョン=フォードがOSSに参加して「真珠湾攻撃」などの戦記プロパガンダ映画を撮ったり、占領後日本に視察に来ていた(ここで「虎の尾を踏む男たち」撮影中の黒澤明を見物している)しているのは周知の話で、新事実でもなんでもない。「スパイ」というほど特殊工作員なものではなく、戦争推進のための国策団体の協力者だった(だいたい戦争中は協力拒否なんて基本的にできない)、というぐらいにとらえるのが正確だ。
 ただ、このOSSの関係者は所属や任務について公表することを禁じられていたため、CIAが今頃になって公開を容認したことへの疑問の声はあがってはいるらしい。もっとも一方で関係者の多くが物故者ということも容認の背景にあるのかもしれない。


2008/8/27の記事

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