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2009年5月29日

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◆虎は退治された?

 前回の四月バカから二か月近くも経ってしまった。この間にどこぞの国の「飛翔体」なるものを飛ばすわ核実験はするわ、泥酔して服を脱いだアイドルが出るわ、新型インフルエンザ騒動が起きるわ、といろいろあったが、いずれにしても「完璧に防ぐのは無理」ということがよく分かった、という共通点があったりする。
 さてそんなめまぐるしく騒動が次々と駆け抜けて忘れられてゆく中で、四半世紀、25年も続いたある内戦が終結していた。インド洋の島国・スリランカタミル人シンハラ人による内戦だ。全世界で民族紛争は珍しくないが、「決着宣言」が出てしまうほど一方的な「鎮圧」になってしまったという点ではかなり珍しい。

 スリランカという国は南アジアにおける熱烈な仏教国ということはよく知られている。その古さは半端ではなく、かのアショーカ王(紀元前3世紀)の伝道にまでさかのぼるとされる。その後のインドが仏教が衰退しヒンドゥー教にとってかわられた中でスリランカでは仏教王国としての地位を保ち続けた。このスリランカの仏教徒の大半がいわゆる「シンハラ人」というわけだ。このシンハラ人は現在のインド北部の主流の民族であるアーリア系に属している。現在のスリランカの人口の74%ぐらいを占めていると言われる。
 これに対して「タミル人」というのはインド南部に多いドラヴィダ系と呼ばれる人々。インド文明の源流とされる「インダス文明」はこのドラヴィダ系の人々によって築かれ、その後中央アジアから入ってきたアーリア系民族に南へ追われたとの見方が強い。スリランカには先にシンハラ人が入っていたのだが、紀元前2世紀ごろからタミル人も北部に移住してきて、以来2000年以上もこの島ではシンハラ・タミル両民族が同居しており、現在でも全人口の18%程度を占めるといわれる。タミル人はスリランカと南インドにまたがって在住していておおむねヒンドゥー教徒だ。なお、日本の有名な国語学者・大野晋はこのドラヴィダ系タミル人の言語が日本語のルーツと熱心に主張していたりしたものだが…

 近代的な意味での民族紛争は、この島がイギリスの植民地になっていた時期に根源があると言われる。イギリスの植民地政策によりスリランカは紅茶の生産国とされ、労働力としてインド南部からさらにタミル人が移住してきた。またイギリスは仏教徒を抑圧してキリスト教を優遇したこともあって、イギリスの支配からの独立を叫ぶスリランカ・ナショナリズムはシンハラ民族主義および熱烈な仏教徒意識と結びつき、第二次大戦後に独立が達成されるとスリランカはなおさら「シンハラ人仏教徒」中心の国家とされてしまう。一応ヒンドゥー教徒・イスラム教徒の存在に配慮したことは国旗デザイン(右図)にも表れていて、右側の剣を持つライオンがシンハラ人のシンボルで、その四方に配置された菩提樹の葉が仏教を象徴する。そして左側にある緑がイスラムのシンボルカラー、オレンジがタミル人のシンボルカラーだ。ま、確かに配慮はしているのだが、どうもデザイン的には「おまけでつけてやった」という印象が否めないのは事実。

 独立後、タミル人の分離独立の動きはくすぶり続けていたのだが、現在まで続いた激しい民族紛争の発端は1983年の民族衝突に始まる。とくに武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」が結成され、ゲリラ・テロ活動を展開、過激になってくるとイスラム過激派を思わせる自爆テロまで実行するようになり、以来四半世紀にわたる内戦での犠牲者は7万人以上にのぼると言われている。「解放のトラ」は北部のジャフナ半島周辺を支配地域とし、税や海外のタミル人支援者からの援助、さらには麻薬売買にまで手をつけて資金を集め、支配地域で実質的な「徴兵」を行って根強い運動を展開し続けた。もちろん全てのタミル人が「解放のトラ」関係者というわけでもなく、タミル人団体にも社会主義政党など多様なものがあったのだが、この「解放のトラ」がひときわ目立ってしまっていたのは事実。
 スリランカ内戦にはインドも介入して軍を送ったことがあるが、タミル人を支援したわけではなく、むしろ「解放のトラ」を押さえこみにかかったものだった。このためこれを実行したインドのラジブ=ガンジー首相(ネルーの孫、インディラの息子)は1991年にタミル人の自爆テロにより暗殺されてしまっている。

 自分でも「史点」を振り返ってみたのだが、2000年ごろにも紛争が激しくなっていて、「解放のトラ」側が攻勢に出たかと思うとスリランカ軍が大攻勢に出て、2002年に「トラ」側から一方的に停戦宣言、なんてことが書かれていた(自分で書いてて結構忘れているものである)。その後スリランカネタを扱ったことは一度もなかったのだが、停戦だ、戦闘再開だ、自爆テロだというパターンを際限なく繰り返していた記憶がある。
 今年春から情勢が大きく変化し始めていた。スリランカ軍が大規模な攻勢に乗り出し、明らかに「トラ」側が追い詰められているとの報道が多くなってきたのだ。支配地域の北部の狭い地域に20万人の民間人を「人間の盾」にして立てこもった、という話が聞こえてきたのが4月ぐらい。「トラ」側から停戦宣言がまた出たり、民間人の犠牲を懸念する国連の自重要請もあったが、ここで一気にケリをつける気になったスリランカ政府軍は5月14日からさらに攻勢を強めた。
 17日午前には政府軍から「民間人は全員解放された」と発表があった(ただ犠牲者がまったく出なかったとはとても思えず、まだちゃんと確認が取れてないみたいだが…)。この日の未明に完全包囲状態に置かれた「トラ」側は包囲を突破するべく決死の突撃を行ったが失敗に終わり、同日午後には「トラ」側はウェブサイト上で「戦いは苦い結末に終わった」「わが人々を殺害するための敵の言い訳をできなくする最後の選択肢として、武器を置くことを決断した」と「敗北宣言」を発表した。この時点で政府軍は「トラ」を600m× 400mの範囲まで追い詰め、まさに「トラ狩り」の様相。この時点で敗北宣言なぞやっても聞く耳を持つはずもなかった。
 18日朝、「トラ」側から包囲を突破して海上への脱出をはかった数台の車を政府軍が銃撃した。この車から四半世紀にわたって「トラ」を率いてきた最高指導者のプラバカラン議長の遺体が発見された(ただし翌日には発見は車の中ではなかったと訂正されたり、その二日前にも死亡説が流れるなど多少錯綜している)。スリランカ政府はその写真と映像を大々的に公表、プラバカラン議長の息子ほか多数の幹部の遺体も陣地内から発見され、同日午後に「全土は解放された」と勝利宣言を発表した。

 翌5月19日にラジャパクサ大統領は全国中継の演説で「われわれは勝利し、民主主義を回復した」と四半世紀にわたる内戦の終結を大々的にアピール、20日を「国民の祝日」にすると発表した。もちろん内戦の根源の民族対立が解消したわけではないので「自由になったこの国で、皆平等に生きよう」と民族の和解を訴えてはいたが、これが今後の重大な課題となるだろう。
 「トラ」側の公式サイト「タミルネット」は当初敗北は認めつつ「議長は健在」と主張、「議長は引き続きタミル人の尊厳と自由を求める戦いを率いるだろう」と表明していた。だが24日に「スリランカ国家による武力弾圧と戦って殉死した」として議長の死亡を公式に認めている。

 伝説によるとシンハラ人の先祖はライオンと人間の間に生まれた兄妹で、兄が父ライオンを殺して妹と結婚し「ライオンを殺した者=シンハラ」の王国を建設したとされている。ライオンじゃなくてトラを退治しちゃったことになるわけだが、「圧勝」におごって変なことをしなきゃいいんだけど。



◆絵に描いたような話

 少々旧聞に属する絵画の話題を。
 ゴッホといえば今や知らぬ者はないほどの超有名画家だが、相当な変人であったこともよく知られる。その絵の強烈さ同様、本人もかなり強烈な人で、よくいう「天才と基地外は紙一重」(こう変換されたんでそのままにしておく)というやつを印象派の絵にかいたような人だった。世界最長寿記録を残して1997年に亡くなったジャンヌ=カルマンは1888年にアルルの画材屋でバイトをしていて(当時13歳)ゴッホに絵具とキャンバスを売っており、100年後の1988年に「ゴッホに直接会った人」として証言したところでは「汚くて、かっこうも性格も悪い人」だったそうで、どうもゴッホが彼女にちょっかいを出すというか、からかうようなことをして嫌がられていたらしい。

 ゴッホが南仏アルルに住んだのは画家仲間たちと共同生活して理想の芸術活動を行おうとしてのことだった。ゴッホがなんでそんなことを思い立ったかについては諸説あるが、一つの動機に彼が日本の浮世絵に刺激されていたことも挙げられている。ゴッホは何をどう聞き違えたのか葛飾北斎をはじめとする浮世絵画家たちが集団芸術活動を行っていると信じていたようで、そんなことを手紙の中で書いているのだ。北斎といえば生涯に90回も引っ越した変人だからそんなのに共同生活できる同業者なんていなかったはずなんだが(自画像みるとこちらも「天才とナントカは」のタイプだった気がする)
 しかし明らかに変人、しかも全く売れない画家だったゴッホの呼びかけに応じる者はほとんどなく、唯一話に乗ってアルルにやってきたのが、これまた変人の(笑)ゴーギャンだった。しかしゴッホとゴーギャンの関係もたちまち険悪化する。この年の12月、ゴッホとゴーギャンは大ゲンカをし(売春婦の奪い合いだったとの説あり)、ゴーギャンが「お前の自画像の耳が変だ」と口にしたところ、ゴッホはいきなり自身の左耳を切り落としてしまった(耳を切り落とした後の自画像もちゃんと描いている)。このためゴッホは精神病院送りになり、ゴーギャンとの関係も破綻。翌年7月にゴッホはパリ郊外で猟銃自殺してしまうことになる。

 さて5月5日にイギリスのデイリー・テレグラフ紙が報じたところによると、ドイツ・ハンブルグ大学の歴史家ハンス=カウフマン氏らが新著の中で「実はゴッホの耳を切り落としたのはゴーギャンだった」との新説を発表したという。それによると例の大ゲンカのなかでゴーギャンがフェンシングの剣を振りまわしてゴッホの耳を切り落としてしまい、ビビったゴーギャンは剣をローヌ川に投げ捨て、翌日自分で警察に行って「ゴッホが自分で耳を切り落とした」と報告したというのだ。ゴッホのほうはゴーギャンとの共同生活を続けたいと思っていたので沈黙、ゴッホが最後にゴーギャンに送った手紙の中で「君は沈黙している。私もだ」と書いているのがその証拠、というものだ。
 もちろんこの説は状況証拠ばかりで確定的なものは何もない。このため美術史家からは猛反発、なのだそうだが、そういえばゴッホには「他殺説」があるんだよな。前日までまったく自殺の気配がなく、猟銃を腹に向けて撃った状況が不自然、といった根拠が挙げられているのだが、そもそもこの当時まったく無名のゴッホを誰が殺さなきゃいかんのだ、という問題があった。しかし、こうなってくるともしかして誰かさんが口封じを…?そういえば直後にゴーギャンはタヒチに逃げちゃうんだよねぇ(汗)。

 ゴッホといえば現在ではその絵が世界的にムチャクチャな高値で取引されることで知られるが、昨年来の世界同時不況のためにさしもの美術オークション業界も盛り上がれないらしい。5月8日にパブロ=ピカソ「ボートを持った芸術家の二歳半の娘」がオークションにかけられたが、希望価格に達しなかったとして取引不成立になっている。もっとも1200万ドル(約11億6千万円)で買うという人もいたそうだから、金はあるところにはあるもんだなどとこちとら思ってしまうのだが、予想価格は15億円以上だったんだそうで。

 ところが、この不景気のさなかに予想価格の6倍というとんでもない価格で落札された絵画がある。といってもピカソやゴッホなんかよりはずっとスケールが小さく、25万円ぐらいで売れるかなと予想された水彩画が150万円ぐらいで落札されたという話なんだが。その水彩画の作者はアドルフ=ヒトラーさんという。そう、こちらも天才とナントカのクチですな。
 若き日のヒトラーが画家を目指していたことはよく知られ、映画になったこともある。画家として成功していれば…とはよく言われる歴史の「イフ」であるが、残念ながらヒトラーの絵画は下手とは言わないが個性に欠け、当時ピカソに代表されるような前衛的なものがもてはやされたこともあり、まるっきり評価されなかった。その恨みをヒトラーはのちにそういった前衛的な絵画を「退廃芸術」として攻撃することで晴らすことになる。
 そのヒトラーの絵画15点が4月23日にイギリスのオークションに出品され、そのうち一つが予想の6倍で売れたわけだ。この他の水彩画・油絵・鉛筆スケッチなど14点も含めた落札総額も事前予想の倍の12万ドル(約1200万円弱)にのぼった。
 なんでも出品者はごく普通のコレクターで、ヒトラーの絵画を持ってることもほとんど忘れていたとか。ガレージの中でひょっこり見つけて「自宅のセントラル・ヒーティングシステムを新調費用」の調達のためにオークションに出したんだとか。ヒトラーもとりあえず一軒の家を温めるのには役立ったわけだ。ちょっと心が温まる話でした。



◆EUの風雲急?

 しばらく更新しなかったもので、こちらも旧聞ばっかり。

 EUといえば先ごろイタリア中部で大きな地震が発生した。地震国日本、それも年がら年中震度2だ3だという地震を感じている僕などからすると、ついついよその国ではあまり地震が起きないような気がしちゃうものだが、当然起こるところでは起こる。中学校の社会や理科で習うように世界には「造山帯」と呼ばれるプレートがぶつかりあう帯状の部分があり、大きく「環太平洋造山帯」「アルプス・ヒマラヤ造山帯」の二つがある。日本列島や北アメリカのロッキー山脈、南アメリカのアンデス山脈などは「環太平洋」のほうに属し、このためにこれらの地域では地震が多発し火山も多い。イタリアもまたこの造山帯にふくまれていて、火山や地震はそれなりに多い。
 イタリアの北にはアルプスがあり、その向こうがスイスだ。そのスイスとイタリアの国境が変更になるとのニュースが3月末に流れた。どういうわけかというと、両国の国境の目印になっていたマッターホルンの尾根の氷河が「地球温暖化」のために溶けてきてしまい、イタリア・スイス両国は新たな国境の目印を作ることに合意、4月末までにイタリア国会で法律制定との話になっていたのだ。こういうことなら別に国境紛争も起こらんのだろうね(余談だが、僕が住む茨城県でもつい今年の2月に霞ヶ浦湖上の市町村境が確定した、なんてニュースもあった)

 6月にEUの欧州議会の選挙が行われる。この選挙は比例代表制なので事前にだいたい誰が当選するのか分かってしまうらしいのだが、ここでひとつの「大問題」が生じた。欧州議会の議長に、あのフランス極右政党「国民戦線」の党首ジャンマリ=ルペン氏(81)が選ばれてしまう可能性が出てきてしまったのだ!
 どういうことかというと、欧州議会はまず開会にあたって開会日だけの「仮議長」を決めてから選挙を行い正式な議長を決めることになっている。この「仮議長」は開会時点での最年長の議員がつとめる規則になっていて、6月の改選を経ると、ほぼ確実に当選するルペン氏が最年長議員になってしまい、このままだと1日だけの仮とはいえ「ルペン議長」が誕生してしまうということなのだ。ルペン氏といえば反ユダヤ・排外的な発言を繰り返す典型的な右翼だが、一定の人気もあるのも確かで一度はフランス大統領になりかけたこともある問題児。これが1日でもEUの議会議長になってしまうなど問題だ!ということになったわけだ。
 3月末から問題となり、左派系議員からは「規則の改定を」という声が上がり、またルペン議長阻止をはかるためにもっと年寄りを擁立する動き(笑)も出たし、開会日7月14日がフランスの革命記念日(バスティーユ牢獄襲撃の日)なので「パリでお祝いしてなよ」と開会式欠席をうながす声(笑)もあったとか。ルペン氏は「フランス人差別だ!」と騒ぎ、やる気満々だったのだが…
 5月6日になって結局規則の方が改定された。新規則では開会日の議長は改選前の議長か副議長がつとめることになり、「ルペン議長」の野望はあえなくついえさったのであった。当のルペン氏は「私の再選を保障してくれたようなものだ」と皮肉っているそうだが。

 今年2009年は1989年から20周年になる。1989年は大ニュースの当たり年で、来週には「天安門事件20周年」もめぐってくることになるのだが、EUにとっては「ベルリンの壁崩壊」「東欧革命」の20周年の年だ。
 「ベルリンの壁崩壊」といってももちろん自然に壊れたわけではなく、東ベルリンから西ベルリンへの人の移動が自由になったと知った市民たちが押しかけてブチ壊してしまったもの。この「移動自由」も正式に通達されたものではなく、当時の東欧革命の波のなかで東ドイツからチェコなどを経由して西側へ流出する人が続出したため、勢いが止められないとみた東ドイツ政府スポークスマンが「旅行法を改正して出国ビザの許可条件を緩和する」とテレビの記者会見で言ったところ、これが拡大解釈を呼んで「国境の開放」になってしまい、なし崩し的に「壁の崩壊」にいたった経緯がある。実は東ドイツ政府の当事者たちにとっても不測の展開だった…とされていた。以前ひょっこり見たドイツTV局製作の再現ドラマではそうなってたような。
 先月のことだが、この「崩壊」の発端となった記者会見が「実はやらせだった!?」との証言が出て話題を呼んでいる。証言したのは当時イタリアの通信社の特派員だったリッカルド=エーマン氏。彼の証言によると、記者会見に先立って社会主義統一党(東ドイツの支配政党)ギュンター=ペチュケ中央委員会委員からエーマン氏に電話があり、「記者会見の場で『旅行法』について必ず質問すべきだ」と暗に出国ビザ問題について質問をするよううながしてきたというのである。エーマン氏がその指示にしたがって記者会見で旅行法について質問したところ、その「条件緩和」の話が出てきて、結局それが「壁崩壊」につながってしまう。これが事実だとすると問題の記者会見は事前にしめしあわせた「やらせ」だったということになるのだが、一方の当事者のペチュケ氏は3年前に死去しており、確認はとれない。まぁ壁と東ドイツの崩壊まで計算に入れた「やらせ」ではないと思うのだが、ドイツ統一の舞台裏にはまだまだ歴史のミステリーが転がっていそうな気がする。

 ちょうど20周年ということもあって、最近ドイツでは「東ドイツ」がちょっとしたブームらしい。北朝鮮もいつかそんな風に語れる程度になってくれりゃいいんだけどね。
 崩壊した東ドイツについては当然社会主義国・全体主義国・自由のない国といったイメージがつきまとうことになるが、「そう悪くもなかった」的に回顧する声もあったりして、ドイツではいろいろ議論を呼んでるそうだ。これに秋の総選挙に向けての各政党の思惑も絡んで論議になっているとかで、東ドイツの社会主義政党の流れをくむ左派政党は東ドイツ郷愁の声をとりこもうとし、東ドイツ出身で今は保守政党キリスト教民主同盟を率いるメルケル首相は「東ドイツは不法国家」と発言してそれを牽制しようとしていた。
 メルケル首相は東ドイツ出身だけに、若い頃には東ドイツの社会主義統一党の下部組織に属していたこともある。これが左派政党から攻撃材料にされてもいるのだが、それに反撃するためか、5月19日に放送されたテレビ番組の中でメルケル首相は「実はシュタージ(東ドイツ秘密警察)にもスカウトされかかった」という事実を自ら暴露した。なんでも大学卒業後にイルメナウ工科大の助手職に応募して面接をうけたところ、別室につれていかれてシュタージ職員に会わされ、「協力者にならないか」と誘われたというのだ。もっとも彼女は「わたし、おしゃべりだから友達にしゃべっちゃうわ」と断ったという。もっともこれはそういう誘いが来た場合はそう答えようと事前に家族と相談していたセリフだったそうだが。そのせいか結局助手職にもありつけなかったわけだが、それが将来「統一ドイツ」の首相になってるとは、シュタージのスカウトさんも生きてたら今頃ビックリしてるんじゃなかろうか。
 


◆前最高権力者はつらいよ

 5月23日、韓国のノ=ムヒョン(盧武鉉)前大統領が突然自殺したという衝撃的なニュースが流れた。「史点」に過去登場した人物で亡くなった人は結構多いが、各国首脳クラスで自殺は初めてじゃないのか。イラクのサダム=フセインの「処刑死」と並んで珍しいケースだ。首脳に限らなければ松岡利勝元農林水産大臣の例がある。
 そもそも一国の大統領・首相経験者で「自殺」にいたったケースもあまり多くはない。それだけ政治家というのはしぶとい人種だともいえるのだが(実のところ一国の最高権力者は普通の神経ではつとまらないと思う)、日本でも首相経験者の自殺の例は、戦犯容疑がかけられたのを知って自殺した近衛文麿しかいない(東條英機の「未遂」もあるけど)

 報道でさんざん言い古されていることだが、韓国歴代大統領は辞任後にいろいろと追及されて不幸なことになるケースが多い。ただ「毎回当人が逮捕されてる」と思いこんでる人が身近にいたので正確を期しておくと、大統領経験者が逮捕までいたったのは、軍人政権の最後であるノ=テウ(盧泰愚)元大統領が1995年に逮捕されてから14年も起きていない(今回も在宅起訴どまりの可能性が高いとされていた)。その後のキム=ヨンサン(金泳三)キム=デジュン(金大中)と民主化された選挙のもとでの大統領が続き、確かにいろいろと不正が次の政権から暴かれて近親者が逮捕されたりはするのだが、当人までは及んでいない。また、確かに儒教的なお国柄として権力者の近親者にその利権をむさぼる人や、その権力にすりよってくる人が多くなるのも事実だが、今回の場合はとくに二代10年続いた革新系政権のあとの保守系政権ということもあって、これまでの恨みを晴らそうとほじくり返した面があることも否めない。

 あんまり比較する声がないのが不思議なのだが、台湾でそっくりな構図になっていることも想起されたい。台湾の陳水扁前総統は貧しい農家に生まれ、苦学して人権派弁護士となり、当時国民党による一党独裁の軍事政権が続いていた台湾において野党活動を展開、やがて民主化の流れの中で国民党に対抗する民進党の総統候補となり、ドタバタした選挙のなかで予想外の当選を果たし、政権運営ではいささか硬直なやり方がめだって批判を集め、その後「首都市長」をつとめて人気を集めた保守政党党首が次代の総統になって近親者の不正が暴かれて逮捕に至る、ってこうやって確認しつつ書いてて自分でも驚くほどそっくりな展開なのだ(そもそも中国語では「総統」って日本語・韓国語で言う「大統領」なんだよな)。こちらも政権政党が変わったためにほじくり返された部分が少なくない。党派対立が日本なんか目じゃないほど激しいという点でも両国はよく似てる。陳水扁さん、変な刺激を受けなきゃいいんだが。

 日本だと首相経験者が不正で逮捕にいたった例は田中角栄がよく知られる。他の首相経験者だってほじくり返せば似たような話が出てくるのだが、角栄逮捕にまで至ったのも、続く三木武夫福田赳夫内閣が自民党内の「別政党」であったことを考慮した方がいい。日本だってこないだの小沢一郎・前民主党代表の例にみえるように有力政治家となると当然いろいろあるから、韓国や台湾のように「政権交代」がコロコロ起こるとどうなるかわかったもんじゃないと思う。よその国の話だと笑ってちゃいけない。

 話を戻すと、ノ=ムヒョン氏の「史点」初登場は2003年1月4日の「史点」だった。直前に行われた大波乱の韓国大統領選をとりあげたものだったが、今思い返してもこのときの選挙はかなり奇奇怪怪だった。当初はハンナラ党のイ=ヘチャン(李会昌)候補圧勝といわれていたのが、米軍への批判ムードが盛り上がってノ=ムヒョン候補に傾き、そうかと思うとFIFA副会長だったチョン=モンジュン(鄭夢準)候補がノ=ムヒョンと協定を結んでその支持に回ったら、直前にドタキャンするという不可解な行動をとり、それがかえってネット世代の若者の不信を呼んでノ=ムヒョン勝利の結果を招くことになった。
 それからいろいろとあったわけだが、まさか自殺という結末になるとはなぁ。本当の話なんだけど、ノ前大統領の不正問題が取りざたされだした頃、テレビで彼の自宅の裏の岩山が妙に印象に残ったものだ。「飛び降り自殺」と聞いて真っ先にあの岩山を思い浮かべたのだが、まさか本当にあそこから飛び降りたとは。その後警備員が実は近くにおらず虚偽の証言をしていたことが分かったり、パソコンに残っていた「遺書」に隠された部分があるんじゃないかと噂されたり(これはあくまで噂レベルだが)、「他殺説」までがまことしやかに流れる始末。当人が死んでしまえば追及捜査もオシマイ、というのも妙な話で、結局この自殺は一時的にせよ「効果的」にノ前大統領への同情を集めてイ=ミョンバク(李明博)現大統領への批判をぶちあげることにもなった。
 ちょうどそんなころ、北朝鮮ではヤケクソのようにミサイルを連発し、核実験までやってるのだが、あの異例の慌てぶりは「そんなことで騒いでないで、こっちに注目しろ!」と騒いでいるようでもある。まぁあっちも「政権交代」があったら何をされるかわかったもんじゃないから政権維持に必死なんだろうけどね。

 この文章を書いている最中に、テレビではノ=ムヒョン前大統領の「国民葬」の中継映像が映っていた。「最高権力者」になっても人生あんまり楽しくない気がするなぁ。


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