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2009年6月11日

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◆今週の記事

◆そして誰もいなくなった

 大西洋を横断する巨大豪華客船「タイタニック」号が、処女航海のしゅっぱなで氷山に衝突して沈没してしまったのは1912年4月14日のこと。もう97年も前のことだ。
 1912年といえば第一次世界大戦の直前。不穏な空気が漂いながらもヨーロッパは「古き良き時代」の中にあった。世界的な超ヒットになった1997年の映画「タイタニック」にもその雰囲気はよく再現されていたと思う。あの映画でも描かれていたが、一等船室の優雅なブルジョア階級と、三等船室の貧しい移民たちとが混在していたのがあのころの大西洋横断客船の実態だ。
 あの時代の大西洋横断客船の一等船室といえば…そう!アルセーヌ=ルパンの処女作の舞台だ(笑)!時代はタイタニックより13年前の1899年とされているのだが、その雰囲気自体はほとんどそのままだ。なお、タイタニックが沈没した1912年4月14日の二日後にルパンは「ケッセルバッハ事件」に関与し、生涯でも最大の冒険に乗り出すことになる(「813」参照)

 ところで実は「ルパンもタイタニックに乗っていた」というお話があるのをご存じだろうか?もっともルブランが書いた原作小説のほうではなく、90年代にフランス・カナダ合作で製作されたTVアニメシリーズの話。原作なんか影も形もなく一部キャラが同じだけ、むしろ「ルパン三世」のノリに近いアニメで、ルパンの年代設定も20年ほど繰り上げられて1930年代を舞台にしたお話になっていた。この中で実は少年時代にルパンはタイタニックに乗っていて遭難していたという裏設定が出てくるのですな。1912年に10歳前後とみられる外見だったので、このアニメのルパンは1902年ごろのお生まれ、いま生きてれば107歳でまぁなんとか生きていそうな気もする。

 さて、現実のほうでは、タイタニック乗客の最後の生き残りがついに亡くなったことが報じられた。5月31日にミルビナ=ディーンさん(97歳)がイギリス・サザンプトンの老人介護施設で生涯を閉じたのだ。ついひと月ほど前に、老後の生活費の足しにとタイタニック関連の品を競売にかけたが折からの不況で買い手がつかず、映画「タイタニック」の主演二人が資金提供したことが話題になったばかりだった。

 「タイタニック最後の生き残り」の彼女だったが、当人はまったく記憶がなかった。当然である、彼女は事故当時まだ生後9週間だったのだ。よく知られるようにこの事故ではボートの数が足りず、成人男性たちはとどまって女性と子供を優先して逃がしており、ミルビナさんの父親も妻子を逃がして自らは犠牲となった。ミルビナさんの母と兄は10号ボートに乗り込んで命を拾ったが、偶然にもこのボートにはタイタニック唯一の日本人乗客で細野晴臣の祖父としても知られる外交官・細野正文も乗っていた。

 恐らく事故の恐怖の体験を幼い子供に話すのをためらったのだろう。ミルビナさんが母親からタイタニック遭難のことを聞かされたのは7歳の時だったという(一部に8歳の時、という報道もあったけど)。その後どういう生涯をお過ごしになっていたのかは知らないが、タイタニック・マニア(欧米では1ジャンルになってるんだよな)の間でいつしか有名となり、晩年はタイタニック関連のイベントに顔を見せることが多くなっていたそうだ。なお、「事故の記憶のある最後の生存者」と言われたリリアン=アスプランド(事故当時5歳)は2006年に亡くなっている。

 ついでながら1997年の映画の主人公ローズは1912年の段階で17歳の設定だから、当年存命なら114歳か。現在存命の人の世界長寿ランキングを調べてみたら、実在で存命してたら世界第二位か三位になっちゃうようです。



◆構想の非核

 今さら言いだすと後知恵っぽくなるが、4月にオバマ米大統領がプラハで「核兵器を使用した国として、核兵器を廃絶する義務がある」と発言した時には大いに驚き、「ひょっとするとこれは歴史的演説になるかもしれない」と思ったものだ。「核兵器の廃絶」自体は結構口にされるものなのだが、あのアメリカの大統領の口から「核兵器の唯一の加害国」の立場を明言するとは大変なことじゃないか、と思ったのだ。
 その割に「唯一の被爆国」のほうの反応はいまいち鈍かった気がする。一ヶ月ぐらいしてから「あれは重大だ」とあちこちで発言が出てきて、ようやく…という具合になったのだ。まぁそう書いてる僕も4月から5月末まで「史点」を書かなかったこともあって、触れずじまいだったのだけど。前回のEUネタに絡めようかどうかずいぶん考えたんだけどね。

 一応書いておくと、今度の発言はいきなり出現したものではなく、ちゃんと前座があった。昨年のうちにキッシンジャー博士ら元アメリカ政治・外交に深くかかわった人々から「核廃絶」の提言が出されて注目を集めた。キッシンジャー氏も含めてアメリカ政府はもともと「核の力」を背景に国際政治を推し進めてきた歴史があるが、ここにきて「廃絶」を言い出したのは何もいきなり平和主義に目覚めたわけではない。パキスタンでその恐れがあるとさんざん言われているが、核兵器を大国以外が持ち始めたことでそれがテロリストの手に渡るとか、容易に使用ボタンを押しちゃいそうな情勢が現実のものになってきたからに他ならない。それならいっそ完全になくしちゃったほうがよかろ、というわけだ。
 核開発疑惑が持ち上がる国々に対しても、これまでは持ってる国が「お前は持つな」と一方的に言う傲慢さが鼻についたが、「こっちも持たないからお前も持つな」のほうがよっぽど説得力がある。もちろん、ことはそう簡単にいくとは誰も思ってないわけだけど。オバマ大統領だって演説の中で「我々が生きているうちは無理」という表現を使っている。

 そんな中で、ちょこっと注目してしまった話題がある。
 エジプトのイスラム法学者で、エジプト政府が任命するムフティー(高位法学者)でにアリ=ゴマー師という方がいる。「ムフティー」というのは生活が信仰と密接に結びつくイスラム教徒にとって行動の規範となる「ファトワ」(宗教令)を出す資格も持つ。例えばこのゴマー師、2006年には「純粋に装飾品であろうと自宅内に『像』を置くことは反イスラム的である」とのファトワを出して芸術家たちからひんしゅくを買ったかと思えば、2007年には「女子割礼は、女性の心と身体に大きなダメージを 与えるため、イスラム教でも全面的に禁止されている」とのファトワも出して、女性保護を訴えてもいる。神の言葉を記したコーランがイスラム教徒の規範のすべてであるが、時代と共にいろんな問題が出てくるので、こうしたムフティーがコーランに基づいて出すファトワがいわば「判断基準」となるわけだ。もちろん全てのイスラム教徒がこれを聞くというわけじゃないのだが、エジプトの法学者が出すファトワは世界のイスラム教徒のかなりの部分に影響を与えると言われている。

 さて、そのゴマー師が5月31日に「核兵器や化学・生物兵器などの大量破壊兵器の使用を禁止する」という趣旨のファトワを出した。大量破壊兵器がイスラム的にどう解釈されるのかというと、「大量破壊兵器を使用すれば、標的国が非イスラム国であっても同国内に居住するイスラム教徒が命を失い、さらに標的国だけでなく周辺国の非戦闘員も死傷する可能性がある」から「使用許容論は誤り」との結論なのだそうだ。まぁ基本的には結構なファトワだと思うのですけど、どうもこの訳文(共同通信だったかな)を読む限りでは非イスラム教徒の命はどうでもいいような気がしてくるのは気のせいか…?もちろん、そうツッコんだら「そうじゃない」って言われそうだけど。
 ただしゴマー師のファトワは「使用」の禁止であって「保有」は禁じていない。「敵を抑止するためであれば、必要な行為」とはっきり付け加えている。冷戦時代以来の核抑止論ではあるのだが、中東の場合イスラエルという明らかに核兵器を保有しているイスラム諸国にとっては目の敵の国家が現実にあること、またイスラム国家で核兵器を保有しているパキスタンに対しての配慮という面もあるだろう。

 このファトワのことを報じた記事によると、エジプト政府は以前から「中東非核化構想」なるものを掲げているのだそうで。もちろんイスラエルも含めた「非核化」をしよう、という提案である。調べてみたら1974年にイランとエジプトが共同で提案したのが最初だそうだが、その後イランはイスラム革命が起きてイスラエルに対する強硬姿勢を強め、今じゃ核開発疑惑で注目されている(もっともイランはあくまで「平和利用」と主張している)
 イスラム圏では中央アジア5か国(カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン)で署名した非核条約「セメイ条約」がつい先日の今年3月31日から発効していて、これもオバマ発言と共に今度のファトワに影響を与えているかもしれない。


 そういえばオバマ演説については我が国のある政党が反応を見せたことがちょこっと話題になっていた。そう、党綱領でアメリカを「帝国主義」と規定してきた歴史を持つ日本共産党である。演説を受けて共産党の志位和夫委員長は4月28日付でオバマ大統領に書簡を送ったのだ。それだけでも珍しい行動だが、ちゃんとお返事が来たことで興味を持つ方面では結構話題になっていた。

 共産党の公式サイトに志位書簡の全文があったので読んでみたが、要するにあの演説を歴史的に重要とみなし、歓迎するという内容だ。ただオバマ演説の中の「生きているうちには無理」のくだりは批判してた。ま、かのレーニンも自分が生きてるうちにロシアに社会主義国ができるなんて思ってなかったそうですし。
 オバマ大統領からのお返事というのも掲載されていたがなぜか英文のまま。当初その内容について記者会見で述べると言ったのを急きょ撤回するドタバタがあったので何が書いてあるのか興味を持ったのだが、中身は基本的に「お手紙どうも」のレベルから出てはいない印象があった(そもそも正確にはオバマ大統領の書簡ではなくディビス報道官が代理で署名している)。英文のまま載せたのもそのせいかな〜という気がするのだが、自動翻訳にかけてみたところ「この問題のために情熱に感謝します、そして、具体的な進展をこの目標に向かってするように日本政府と共に働くのを楽しみにしています」という個所もあり、志位委員長が「政権を担う政党へと成長していくうえで意義ある一歩だ」と6月4日の党中央委員会の幹部報告で述べたように「政権政党」と見てくれてる可能性をにおわせてなくもないのだが。総選挙の展開次第じゃ、ひとケタ議席の共産党がキャスティングボートを握る可能性あり、との予測も出てるからねぇ。

 ところでネットでの自動翻訳使ったら、最初の部分で「親愛なるShiiさん:小浜の社長は、彼に代わって返答して、手紙をありがとうございます」という訳文が出てきちゃったんですけど(笑)。



◆死体が多すぎる

 上の話題が日本の共産党の話で終わったので、こちらはそれを受けてドイツ共産党の話から。
 ドイツ共産党の結成は1919年のこと。つまり第一次世界大戦でドイツ帝国が崩壊したあとのことだ。ただし社会主義政党はそれが初めてではなく、19世紀からドイツ社会民主党が存在し、国際的な労働運動「第二インターナショナル」の中核を担っていたこともある。だが高校の世界史でも習うように、第一次世界大戦が始まると各国の社会主義政党は国際的連帯をかなぐりすてて自国のナショナリズムに走って戦争を支持してしまい、第二インターナショナルは崩壊してしまったのだ。

 ドイツ社会民主党が戦争に協力してしまったのをみた党内左派グループは、古代ローマの剣闘奴隷反乱の指導者の名をとった「スパルタクス団」を作り、政府の弾圧を受けて投獄されながら戦争反対と社会主義革命の実現を訴えた。このスパルタクス団の理論的指導者が女性革命家として名高いローザ=ルクセンブルク(1871-1919)だ。
 彼女は帝政ロシアの支配下にあったポーランドに生まれ、社会主義運動に参加してスイスに亡命、その後ドイツ国籍をとってドイツ社会民主党に入り、あのレーニンとも一緒に活動したこともある(もっともローザはレーニンのボリシェヴィキ独裁には批判的になるが)。そして大戦がはじまると前述のとおり「スパルタクス団」を結成して獄中から活動を続けるという波乱の革命家人生を送っている。そして1918年11月9日にドイツ革命によって帝政が倒れるとローザは獄中からは解放されるが、急進左派であるスパルタクス団は社会民主党と旧勢力が結びついた共和国政府から危険視され、弾圧の対象となった。ローザはスパルタクス団の盟友カール=リープクネヒトらと共に1919年1月に「ドイツ共産党」を創設、その直後に武装蜂起による革命実現を目指したが、政府軍により鎮圧され1月15日にローザもカールともども虐殺された。
 このあとドイツ共産党は一時ナチスと張り合うほど勢力を伸ばすがまたもや弾圧を受け、戦後には東ドイツでは政権政党となり一党独裁を続けたが、ちょうど20年前に東ドイツがベルリンの壁ごと崩壊、その後はいろいろな左派政党を合流させて「左翼党」として一定の政治勢力として今日に至る、とこの政党自体がなかなか波乱万丈なんである。

 さてローザ=ルクセンブルクの話に戻ると、カール=リーブクネヒトは射殺されたが、ローザは銃座で殴り殺され、死体は運河に投げ捨てられて、半年後に遺体が発見された時にはまったく識別不能であったと伝えられている。その遺体もナチス政権時代に行方不明になってしまったといい、死後までもひどい扱いを受けたのである。
 だが5月末、「ローザ=ルクセンブルクの本物の遺体発見!?」という大ニュースがドイツメディアを騒がせた。なんでも2007年に大学病院の地下室で発見されたもので、頭部と手足の一部が失われているが身長150cmていど、推定年齢40代(ローザは死亡時47歳)、そしてローザの特徴だった「左右の脚の長さが違う」という特徴もあり、「驚くほど似ている」のだそうだ。
発見した法医学者によると「“本物”の遺体の解剖所見は、致命傷の特定も不十分で、怪しいと思っていた」のだそうで(東京新聞記事より)。ただ、近頃日本でも別の意味で話題になった「DNA鑑定」も材料がないのでできないとのことで(親戚とかはいないんだろうか?)、どのみち「確定」はできなさそうな感じだ。
 仮にこれが「本物」だとすると、行方不明になってる「ローザの遺体」は全くの別人のものになるそうだが、じゃあ今度の新発見の遺体はどういう形で、なぜ保存されていたのかが気になる。

 ローザが90年前に結成したドイツ共産党の末裔である左翼党のオスカー=ラフォンテーヌ党首はさっそく「ローザ=ルクセンブルクは国際的労働運動で傑出した才能を発揮した人物」と称え、連邦政府に問題の完全解明を要求しているとのこと。
 


◆怪奇二十周年

 続いても共産党の話題。こちらは中国共産党
 上の記事で出てくる「ベルリンの壁崩壊」も今年で20周年だ。あの年を僕は「歴史学徒」としてリアルタイムで眺めていろいろと刺激を受けたものだが、秋以降の「東欧革命」が起こるまではこの年最大の世界的事件は、6月4日に起こった中国の「天安門事件」だった。

 1989年4月15日、87年まで共産党総書記をつとめていた胡耀邦が亡くなった。当時改革・開放政策を進めていた中国の最高実力者・ケ正平の右腕として、一時はその後継者とみなされていた改革派政治家だ。だが80年代後半には急激な改革・開放の進行の中で各種の矛盾も生じ、知識人・学生を中心とする民主化要求運動(このころソ連がゴルバチョフ改革時代だったことも想起されたい)、また共産党内の長老派の改革開放路線を「資本主義的に行きすぎ」と批判する声もあって、87年に胡耀邦は失脚、ケ小平はもう一人の片腕であった趙紫陽を据える。
 1989年の3月にはチベットで暴動が起き、すでに不穏なムードはある程度あった(もちろんこれは僕が後から調べてそう思ってることだが)。そこへ4月15日に「改革派」の象徴でもあった人物が不遇のうちに死んだのだ。とくに胡耀邦は学生運動に理解を示したとされていたので、直後に学生たちが天安門広場に胡耀邦の死を悼む写真や花輪、プラカードなどを掲げだし、これがやがて大規模な座り込み、ハンストへと発展していくことになる。

 中国現代史をみれば分かるが、「天安門事件」と名の付く事件は二つある。1976年4月に起こったのが「第一次天安門事件」で、この年の1月に亡くなった周恩来の死を悼む学生たちの集会が当時「文化大革命」を推進していた「四人組」批判につながり、弾圧されたという事件だ(ケ小平はこの事件の黒幕扱いされ二度目の失脚をする)。少なくとも発端に関しては1989年の「第二次」と実に良く似ていた。政治家の死を悼む集会が次第にケ小平、李鵬に対する攻撃の様相を呈して行ったことも似ている。
 共産党政府のこの運動に対する態度は一定していなかった。早くも「動乱」と決めつける声もあったが、趙紫陽のように学生運動に一定の理解(というよりも賞賛にすら見えた)を見せる幹部もいて、当時世界的にも「これは平和裏に改革の流れができるのではないか」というムードが漂っていた記憶がある。
 5月15日にソ連のゴルバチョフ書記長が北京を訪問。これはフルシチョフ以来ほとんど断絶状態にあった中ソの直接接触という歴史的なものだったが、当時のゴルバチョフといえばなんといっても「ペレストロイカ」「グラスノスチ」で劇的に民主化・自由化を進める「改革のシンボル」みたいな存在だった。それなら中国も、というムードを学生があおったのは当然と言えた。この直後に天安門に集まる学生・市民の数は百万人にふくれあがったと言われる。
 
 共産党幹部のなかで一気に方針が「鎮圧」に傾いたのは5月の末だったらしい。この辺、今もって真相がよく分からない部分も多いのだが、とにかく6月3日に政府は天安門広場の運動を「反革命暴乱」と規定、人民解放軍・武装警察隊を天安門広場に導入して、3日の深夜から4日の未明にかけて武力をもって学生・市民を「排除」した。20年目ということで久々にテレビに当時の映像が流れたが、バリケードを突破する戦車、倒される「自由の女神」、散り散りになる群衆、炎をバックに銃を構えて全身する兵士たち、反撃で焼かれる戦車、そして象徴シーンとなった戦車の前に一人で立ちはだかる青年――といった光景が繰り広げられたわけだ。もちろんこれらは「目に見えたもの」であって、事件の全貌ではない。この日どれだけの市民が犠牲になったのか、今もって正確な数字は諸説あってはっきりしない。

 前にも書いたことだが、あの当時僕の恩師の一人のように「こんな人民を武力弾圧する政府など長く続くわけがない!」と断言する人は多かった。特に歴史学の現場にあっては今どきこんな大時代で露骨な民衆抑圧を見ることになるのか、という驚きもあった。ちょうどこの日は日曜日だったこともあって「血の日曜日事件」と呼び、ロシア革命にいたる歴史を想起する向きもあった。
 この年の秋には東欧民主化が進行し、翌々年にはソ連も崩壊する。こりゃ中国の共産党一党独裁も長くはあるまい、改革開放も行き詰まり、ケ小平も長くはないし、早晩崩壊して長期の混迷に陥るのではないか、と見る声は多かった。少なくとも90年代前半まではかなり真剣にそう見る意見は多かったと思う。だが、あくまで僕の印象なのだが、「願望」を抜きにした中国の停滞・崩壊論は90年代後半以降はすっかりしぼんで行った気がする。
 現実には改革・開放路線に変化はなく(それどころか加速し)、共産党政権のくせにあからさまに資本主義国化し、ケ小平死後も政治的混乱はなく弱体と予想された江沢民政権はすんなり通りすぎて胡錦濤政権に引き継がれ、なんだかんだ言われつつ昨年の北京五輪もフツーにやってしまい、世界同時不況の中では中国が先進諸国から「頼みの綱」にされてしまうという、ちょっと前なら信じられないような事態が起こっている。この20周年を機会に、当時偶然現場に居合わせてしまったNHKスタッフによるTVドキュメンタリーの秀作「天安門・ソールズベリーの中国」(ソールズベリーも、吹き替えをしていた宮内幸平もすでに故人だ)の録画テープとか、まさに直後に出版された小島朋之「さまよえる中国・「ケ以後」の90年代のシナリオ」(時事通信社、1989年11月発行。たまたま近くの図書館にあったので)といった関連資料に目を通したが、それぞれかなり冷静かつ豊富な知識による分析を見せつつもその後20年の中国の予想はまるっきりつかなかったことがよく分かる。

 もちろん中国政府は天安門事件の評価はいっさい変えていない。というより、「触れないことにしている」というところか。まぁ文化大革命だって批判はするようになってもおおっぴらに言うにはかなり時間がかかったものだ。当然20周年の当日、天安門広場は厳重に警戒され集会の類は許されなかった。香港などではかなりの数が集まった追悼集会も行われたが…ただ、どうも当時激しく中国を非難した「西側」の諸国も含め、20周年という節目にしてはアッサリと通りすぎちゃった印象がある。中国の若者たちにとっちゃ、日本における全共闘みたいなイメージになっちゃってるのかもしれんな…と思うところもあった。「天安門」も着実に「歴史」になっていってるわけだ。
 歴史なんてのは謎だらけのものだから、天安門事件の「真相」というのが完全に明るみになることはないと思う。ただ実際にはあまり単純なことではなかったのかもしれんなぁ、と漠然と思うところはある。それは上で触れた番組で故・ソールズベリーが言ってたように、この事件は激動の中国現代政治の歴史をふまえた上でないと理解できないものだと思っているからだ。

 「天安門」も歴史になったな、という思いをいっそう強くしてしまったのが、あのとき学生運動の指導者となり、鎮圧を逃れて国外に亡命(指導層の多くが無事亡命してるのも不思議といえば不思議)、中国民主化のヒーローとして一時国際的に有名になったウーアルカイシ氏(41)の、いきなりのマカオ出現だった。まさに20周年にあたる6月3日にマカオの中国当局に出頭し、中国への帰国を要請したのだ。もちろん望郷にかられてというわけでもなく(もっとも彼は最近天安門の指名手配者たちの帰国運動をしてるらしいが)、「20周年」という節目に逮捕も覚悟で注目を集める行動をしようと考えたのだろうが、結局は門前払いで現在在住している台湾への強制送還になりそうとのこと。その20年ぶりに見せたお姿には、失礼ながら時の流れの残酷さを感じてしまい、同時に「天安門も遠くなりにけり」の思いを強くしてしまったものだ。あー、もちろんそれは僕も例外ではないわけですが(汗)。

 かくも歴史というのは予測がつきにくい。だが1989年という年は、永久に続くと思えていたものがあっさり崩壊したりする、という実例を実に多く示した年でもある。今年はそれから20周年ということで、あれこれ思いをはせることが多そうだ。


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