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2009年7月22日

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◆今週の記事

◆恒例:贋作サミット・ラクイラ編

 イタリア中部、地震の被害を受けたラクイラの町に、世界の首脳が集まりましたとさ。

伊:みなさま、ようこそいらっしゃいました。今年は急きょ予定を変更して、地震被災地での開催です。
日:はじめまして、地震ならいっぱいあるとてつもない国からやってきました。
仏:あんたの国は、ほんとに毎年コロコロと出席者が変わるよな〜。
日:あー、たぶん来年も変わるという地震があります。
独:漢字が間違ってるわよ。
伊:漢字といえば、中国の国家主席は自国の騒動のために急きょキャンセルして帰っちゃいました。贋作サミット初の事件です。
露:初といえば、ホスト国の首脳夫人が旦那に愛想尽かしてボイコットしたのも初ですな。
伊:すいません、イタリア男としては自然なことをしたつもりだったんですが。
日:でも、その騒ぎがあっても支持率50%台キープでしょ。おうらやましい。
英:私も支持率ガンガン低下で、選挙やったら政権交代確実なんて言われてますよ。
仏:ウチのカミさんも、公式行事をすっぽかしたってんでいろいろ言われちゃって。
独:あたしのところも大連立解消だとか騒がれてるし。
露:オレなんかいつまでたっても前任者が大統領だと思われてるし。
米:ぼやきで話が盛り上がってますが、話題をチェンジ。はじめまして、初の黒人米大統領です。
伊:おー、よく日に焼けてらっしゃる。
日:そういう失言しても支持率さがらないんだからな〜
加:さて、そろそろ今回のサミットの議題のまとめにとりかかりましょうや。
米:まずは核廃絶への道筋ですな。イエス、ウイ、キャン!
露:最近ダダこねて核実験やったミサイル飛ばしてる国もあるから。

日:では北朝鮮には朝鮮的な態度はやめろと懸念を表明するということで。
米:こらこら、また漢字、漢字!
英:イランにはイランことをするなと懸念を表明する。
伊:そして地球温暖化問題ですな。妻の機嫌が悪いとそれだけで気温があがりますんで。
仏:ではイタリア首相夫婦の関係にも重大な懸念を表明すると。
加:来年はウチでやりますので、よろしく。
英:このうち何人がここへ戻ってこれますやら。
日:さあ、解散だ、解散だ!
一同:バンザーイ、バンザーイ!



◆これもウン十周年です

 今年2009年は「〜から何十年」の当たり年。一ヶ月以上前の前回「史点」で「天安門事件」から20周年という話題を書いたが、とくにこの20年前の1989年というのが世界史的な当たり年だ。大事件が次々と起きただけでなく、大物が大勢亡くなった年ということでも記憶に残る。何度も書いているようにこの1989年に日本では昭和天皇手塚治虫松下幸之助美空ひばり田河水泡といった時代を象徴する多くの著名人が亡くなっているのだが、海外ではこの年の6月3日にイランのホメイニ師が亡くなっている。
 ホメイニ師といえば1979年に起こった「イラン革命」の指導者、現在のイラン・イスラム共和国の「建国の父」に他ならない。今年はイラン革命から30周年、ホメイニ師死去から20周年という、イランにとっては大きな節目となる年だったのだ。先月の大統領選挙をめぐる騒動もそのことを念頭においてみる必要があると思う。
 実はこの話題、先月の騒動まっさかりの頃に書くつもりでいたのだが、「もうちょっと様子を見よう」と思っているうちに一ヶ月経ってしまったもの。結局のところまだ騒動はくすぶったままだ。

 イランは1925年からハフレヴィー朝の皇帝(国王)が支配し、第二次大戦後は第二代国王モハマンド=レザー=パフレヴィー「白色革命」と呼ばれる「上からの近代化」を推し進めた。欧米的な近代化・世俗化を国王の側から推し進めたという点では日本の明治時代と気分が似ていたのかも知れないが、この改革はイランを「近代化」させはしたものの一方で急激な変化は国内の貧富の差の拡大と、弾圧を受けたイスラム・シーア派伝統社会との矛盾を拡大し、これが1979年のイラン革命の原因となった。
 ちょっと余談だが、イラン革命前の欧米化を進めるイランの様子を垣間見られる意外なアイテムとして、大がかりなイランロケを敢行した実写映画「ゴルゴ13」(佐藤純弥監督、高倉健主演。1973年公開)がある。あの「ゴルゴ13」をその外見的モデルである高倉健以外すべてイラン人俳優で固めて実写映画化、すべて日本語吹き替え(有名どころの吹き替え声優が多い)になっているという、かなり変わった作品だ。なお、原作の劇画の方ではその後「ホメイニはとうに死んでおり、実は影武者が指導していた」というストーリーのためにイラン大使館から抗議を受け、単行本にも収録されない「幻の一編」になってしまったエピソードがある。

 さて1979年におきたイラン・イスラム革命は、パリに亡命中だったホメイニ師らシーア派指導者だけで起こされたわけでもない。王制に反対する左翼系の民主化勢力や軍部など、多様な勢力が共通の目的に向かって一体となってパフレヴィー王朝を打倒したのだ。そしてそのあとの力関係の中でホメイニ師を頂点とするシーア派指導者が主導権を握り、伝統的なイスラム法にのっとった「イラン・イスラム共和国」の体制を作り上げることになる。それまで「革命」といえば改革派、前衛派による「進歩的」な形で進められるものというイメージがあったが、一見時代錯誤的とも思える宗教的伝統回帰の「革命」ということで、全世界が衝撃を受けた。
 それまでイランは冷戦時代にソ連と接する重要国としてアメリカをはじめとする西側諸国の多大な支援を受けていたが、ホメイニ師は反欧米・反イスラエルの姿勢を鮮明にし、直後にアメリカ大使館占拠事件も起こったため、イランは西側諸国を敵に回すことになる。しかし同時に「イスラム国家」である以上、無神論を唱える社会主義国に対しても激しい敵意を示し、ソ連など東側諸国も敵に回した。さらにイスラム国家とはいえ、かなり保守的・原理的なシーア派国家であり、周囲のイスラム圏にも多大な影響を与えてしまったため、隣近所のイスラム国からも危険視される存在になる。その後のイラン・イラク戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻もイラン革命の波及を恐れた各陣営の対応だったとみられている。一方のイランもヒズボラなど反イスラエル武装勢力に支援して、中東情勢をいっそう複雑化した。
 
 イラン・イラク戦争は1988年まで続いて革命後のイランを疲弊させ、その翌年にホメイニ師が死去した。死の前年に小説「悪魔の詩」がイスラム教の預言者ムハンマドを冒涜しているとして作者サルマン=ルシュディ氏の「死刑宣告」をして世界を騒がせたのが最後の「活躍」だっただろうか(1991年に「悪魔の詩」を日本語訳した人物が筑波大学内で殺害されるという事件があったなぁ…)
 その後のイランはホメイニ師という「重し」がとれたからだろう、ラフサンジャニハタミといった欧米に対してやや融和的な姿勢をとる「穏健派」大統領による政権が続き、ひところほど強硬な話は聞かなくなった。イランに長期留学した経験者から聞いたことがあるのだが、ガチガチのイスラム戒律に基づく保守的な生活を国民全部が送っているかというとそうでもなく、地方に行けば衛星TVアンテナをつけて外国の映画やらスポーツ中継やらはバンバン見てるし、酒をおおっぴらに飲んでるやつはいるしで、けっこうルーズな印象を受けたそうだ。
 今度の選挙に限らず、ここ10年ばかりのイランは改革派もかなり力を持っており、保守派・改革派の政治的せめぎ合いは結構盛んで、欧米経由の話が報じられがちな日本で流布するイメージほどガチガチのイスラム原理国家だというわけでもない。だいたい革命から30年も経っているのだ、今回改革派を指示したと言われる若い世代はすでに「革命を知らない子供たち」であり、現状に不満を持っているのは確かだろう。またかつて革命に参加し、アメリカ大使館占拠事件にも関わった「革命当時の若者たち」の中にも「改革派」として運動している人が少なくないらしい。以前そういう人たちに取材したTV番組を見たことがあるが、彼らは革命当時も決して「反米」だったわけではなく、実際には「反・米政府」であり、むしろ当時のアメリカにおけるベトナム反戦運動などの学生運動にシンパシーを持っていたのだそうだ。

 もちろん現在も政治体制はあくまでホメイニ師の後継宗教指導者であるハメネイ師が頂点に立ち、その承認のもとの選挙で選ばれる大統領や議会があるという仕組みなので、欧米的な意味での「民主主義」でないことは確かだし、「人権問題」だって欧米とは同じではないだろう。ただそのことを欧米(西側、と言った方が正確だろうか)が目の敵にして批判すると、かえってイラン国内の保守派を刺激して改革派をかえって苦しい立場に追い込むというパターンも繰り返されてきた。とくにアメリカのブッシュ前大統領がイラク・北朝鮮と共に「悪の枢軸」呼ばわりされたことは決定打となり、それが2005年に保守強硬派・アフマディネジャド現大統領の当選を招いたという側面もある。
 このアフマディネジャド大統領がかなり露骨に反イスラエル、反欧米的な発言を繰り返し、ことにユダヤ人のホロコーストを「神話」と呼んで否定的にみたりすることがイスラエルはもちろん欧米を強く刺激した。おまけに当人はあくまで「平和利用」と主張している「核開発疑惑」の問題もあり、イスラエルがイランの核施設攻撃をちらつかせるなど、ここ何年かイランは「台風の目」となっていた。だから今年の大統領選挙は国際的によけいに大きな注目を集めたわけだ。

 大統領選挙はアフマディネジャド現大統領と、改革派の推すムサビ氏との事実上の一騎打ちとなった。アメリカ流に候補者同士直接対決によるTV討論も行われるなど「祭り」的な盛り上がりもあったし、事前の世論調査でかなりの競り合いか、場合によってはムサビ勝利か?という観測も流れてますます注目の的となった。ところがフタを開けてみれば決戦投票になることすらなく、ダブルスコアでアフマディネジャドの勝利。これはおかしい!ということになり、若者を中心とする改革派によるデモ、それを鎮圧しようとする革命防衛隊や保守系民兵との衝突、暴動といった騒乱状態が次々と報じられた。改革派がインターネットのTwitter(簡易掲示板)を使って情報発信・交換をするとか、「ネダー」と呼ばれる改革派の若い女性が銃で撃たれる映像がネットで配信されるとか(欧米では「ジャンヌ・ダルク」なんて呼び声もあがったが、日本で言うならもちろん「樺美智子」だろう)、今風な話も聞こえてくる。
 人口より多い票が計上されたところがあるなど、大がかりな不正があったことは確からしいが、それほどに保守派は焦っていたんだろうか?選挙後の騒乱についても情報統制をした上に「外国勢力の陰謀・扇動」と主張するのは定番と言ったところだが…。ただ予想されたアメリカ非難は低調で、なぜかもっぱらイギリスを非難の標的としているのが目を引く。またアメリカのオバマ大統領もきわめて慎重な物言いでイラン情勢への口出しはなるべく避けている。前の大統領みたいにヘンに口出しすることで「改革派」を窮地に追い込む可能性があるとみているのかも知れない。
 その後大きな騒動のニュースは報じられていないので、一見終息に向かいつつあるようにも見えるが、それでも7月になって大規模なデモや集会が行われたとの報道もあるし、「まるでイラン革命前夜の状況だ」と改革派側の人物が表現してもいる。まだどうなるかは分からない。

 ところでこのイラン情勢を受けてどうしても注目が集まってしまったのが、アメリカ在住のレザー=シャー=パフレヴィー氏。イラン革命で国を追われた「最後の国王」の息子である。このパフレヴィー氏は先月アメリカで行った講演の中で、例の「ネダー」に言及して涙を流し、保守派よりとされる革命防衛隊や軍隊の一部にも改革派にくみする人も出てきたとして、イランの政権を「沈没しつつあるタイタニック」と評して批判したという。当人にその気があるとはあまり思えないが、もしかしてもしかすると「国王返り咲き」ってこともありえる。国王ではなくても帰国して政治勢力の一角に祭り上げられる可能性はある。アフガニスタンにもそんな人がいたっけな。
 


◆西域の彼方に

 「ウイグル」という言葉を聞くと、世代の若い日本人の多くは悲しいかな「北斗の拳」の「ウイグル獄長」を連想してしまうらしい。実はそれより前に、中国史ものの漫画をよく書いていた横山光輝が1972年に「ウイグル無頼」という大人向け歴史コミックを書いた例がある。どちらかというと西洋かイスラム圏っぽい、それでいて同じ作者の「三国志」みたいな中国っぽくもある国籍不明な砂漠と草原地帯を舞台に、「ヘロデ」という聖書から拝借したような一匹狼の盗賊が財宝目当てに冒険を繰り広げるといった内容で、終盤になるとイラン人の強弓部隊を率いて自らの王国を築き「大ウイグル帝国」まで建設してしまうのだが、あっけなく殺されてしまう唐突なエンディングになる。
 ウイグル帝国を築くあたりからラストまでは明らかに打ち切りが決定したためと思われるヤケクソのような急展開なのだが、最終回で表示される地図では「ウイグル帝国」は現在の中国西部のタリム盆地からバイカル湖まで広がる大帝国となっている。どうやら元ネタは9世紀に実在した「天山ウイグル王国」のことらしく、戦前の研究ではこのウイグル王国はまさにその通りの広大な領土を持つ帝国と思われていて、横山光輝もおそらくはそうした書籍を読んで構想したものと推測される。ただし、現在の研究ではこの「ウイグル王国」はあくまで天山山脈周辺に限定された王国であったと考えられているし、この漫画では「ウイグル」は民族名ではなく地名として扱われているので、それほど厳密に歴史考証をした漫画を描こうという気はなかったのだろう。なお、この漫画は青年誌連載ということもありお色気や残酷要素もふんだん、横山光輝にしてはかなり殺伐とした「出てくる奴がみんなワル」的な世界(マカロニ・ウェスタンのノリもあるような…)が展開されていて、そういう物語の舞台として「ウイグル」という“場所”を選んだのではないかと思われる。

 「ウイグル」という名前が歴史上に初登場するのは8世紀のこと。中央アジア草原に大帝国を築いたトルコ系遊牧民族「突厥(とっけつ、トルコ=チュルクの音に漢字を当てたもの)」の一部族だったと言われ、分裂した突厥のなかで台頭、族長キュル=ビルゲは744年に東突厥を統合して「可汗(ハーン)」を称した。一応歴史上確認できる最初のウイグル国家がこれで、「遊牧ウイグル帝国」と呼ばれる。この直後に唐で「安史の乱」が起こり、唐王朝はウイグルに援軍を依頼、その力によって乱の平定に成功している。なお、この乱を起こした安禄山のほうもソグド人と突厥人(つまりトルコ系)の混血と言われ、唐帝国というのが実に多様な「多民族帝国」であったことがよく分かる。
 9世紀にウイグル帝国は全盛期を迎え、当時建てられた碑文には突厥文字によるトルコ語、中央アジア共通語だったソグド文字、中国の漢文と三つの言語が刻まれていて、彼らの文化的特徴をよく伝えている。彼らはマニ教(イランから広まったゾロアスター+仏教+キリスト教といった宗教)を信奉し、唐に形式的に従属しつつも「安史の乱」で貸しを作って優位な立場で友好関係を結んでいた。だが西方から勃興してきたキルギス人の攻撃に加えて内紛も続発し、840年には滅亡してしまう。
 ウイグル諸部族は散り散りになり、一部は唐に助けを求めてトラブルの末にほぼ全滅、一部は河西方面(現在の甘粛省)に入って仏教王国を築くが、11世紀に勃興したタングート族の西夏に征服される(井上靖の小説『敦煌』がこの辺の話。映画ではヒロインとなるウイグルの王女をハーフの中川安奈が演じて、まぁまぁウイグルっぽいと言われた)。また一部は天山山脈周辺に前述の「天山ウイグル王国」を築き、これも仏教や景教(ネストリウス派キリスト教)も取り入れた独立王国となって13世紀のモンゴル帝国に征服されるまで持ちこたえた。彼らがソグド文字をもとに完成させた「ウイグル文字」はチンギス=ハーンにも「モンゴル文字」として流用されているし、ウイグル人はモンゴル帝国の中で「色目人」として重用されている。
 このほかさらに西に走ったウイグル人たちがカラ=ハン朝を築いたとも言われ、これが最初のトルコ系イスラム国家となり、やがてこの中央アジア一帯がイスラム化したトルコ人の国、「トルキスタン」と呼ばれることになる。

 このうち「東トルキスタン」と呼ばれる現在の「新疆ウイグル自治区」一帯が「中国」の版図に公式な意味で入ったのは18世紀中ごろのこと。一応唐の時代にもこのあたりは唐朝の支配を受けているのだが、それ以来ということになる。このときの中国王朝である「清」はご存じのように満州族によって建てられた王朝だが、その初期段階から漢族・モンゴル族も加えた多民族帝国としての性格が強かった。清朝皇帝は「中華皇帝」の顔と同時に、北方遊牧民の「ハーン」としての顔を持ち、モンゴル全体をその支配下に置くことに執念を燃やした。清帝国の全盛期を築き上げた康煕帝雍正帝乾隆帝の三人(この三人って一発変換するんですねぇ)は外モンゴル、チベット、そして新疆を征服していったが、これもモンゴル人がチベット仏教を信仰していたからチベットを、モンゴル人のオイラートがジュンガル帝国を築いていたから現在の新疆を、といった理由で征服を進めている。
 この征服によりオイラート部モンゴル人はほとんど全滅の憂き目にあい、その支配下にあったウイグル人たちは今度は清朝の支配下に入った。「新疆」という名前じたいがこのとき「新しい領土」として名付けられたものだ。
  この新疆征服により清帝国はその版図に完全なイスラム世界を組みこむことになった。新疆とチベット・モンゴルは清帝国の版図内の「藩部」とされ、漢族大多数の地域とは異なって現地領主による自治をかなり認めた間接統治の形を取った。征服直後にある程度の抵抗はあったものの、その後およそ百年間はこの地域は平穏を保ち、シルクロード通商も盛んでそこそこうまく支配されていた。

 1860年代(清の同治年間)、雲南省から甘粛省にかけて大規模なイスラム教徒反乱(同治回乱)が発生、漢族とイスラム教徒(回族。民族的には広い意味での漢族になる)が民族浄化を思わせる壮絶な殺戮をお互いに展開し、それが新疆にも波及して一時新疆各地でイスラム教徒による独立政権が誕生する。ただ事態は結構複雑で、これは東干(トンガン)と呼ばれる漢族系イスラム教徒が主導し、同じイスラム教徒のウイグル人たちと結びついて清に反乱をおこしたもので、ここでも双方の民族浄化的な殺戮が展開され、おまけにこの混乱に乗じて、ロシアと戦っていたタジク人の武将ヤクブ=ベク
新疆に乱入してきて独立国を築くという事態も起き、これがまた漢族もウイグルも東干もおかまいなしに逆らうものに容赦しなかったため混乱に拍車がかかった。結局この新疆の混乱は左宗棠による新疆再征服で収拾され、1884年には「新疆省」が設置されて中国内地同様の行政システムが作られる。その後はまた平穏な時期が続いて、1911年に清が倒れる辛亥革命が起きて外モンゴルやチベットは「中国」から離脱していくなか、新疆ではまったくその動きが見られないぐらいだった。
 
 1931年になってまたもイスラム教徒の大反乱がおこる。発端は政治的なことよりも民族および宗教的な対立で、漢族とイスラム教徒の結婚に憤慨したイスラム教徒が暴徒化し漢族虐殺を開始していった。ただここでも事情は「漢族対ウイグル」という単純な図式ではなく、反乱を主導したのは馬英仲という東干人で蒋介石にも学んだ軍人だったし、最初は彼をあてにしたウイグル人たちもその凶暴ぶりに呆れて敵に回っているし、これに白系ロシア人やら満州人やら漢族やらいろんな人たちが複雑にからみあった混乱で、結局馬英仲はソ連に亡命して反乱は収束する(その後例によってスターリンの粛清にあったらしい)。ただこの反乱を収拾したて新疆を支配した国民党の軍人・盛世才は事実上新疆を独立国状態にしてソ連に接近、ひところソ連の衛星国状態になっていたというからますます事情はややこしい。盛世才の失脚後にまたイスラム教徒の反乱がおこり、1945年1月にソ連の影響を強く受けたイスラム国家「東トルキスタン共和国」が新疆の北方の一角に成立を宣言するという事態もあったが、国共内戦で共産党が優勢になるとソ連に見放されてしまい、1949年9月の中華人民共和国の成立を受けて、その翌月にはおもいのほかあっさりと新疆全土がその傘下に入ることになった。
 
 …とまぁ、ダラダラと書いてしまったが(このゴチャゴチャ歴史をなるべく簡潔に書くために今回の「史点」は伸びに伸びたのだ)、何事も「これまでの歴史」をまず知った上で現状をとらえるべき、というのが歴史屋の本能というやつなのだ。このウイグル史を書くにあたっては今谷明氏の著作『中国の火薬庫・新疆ウイグル自治区の近代史』(2000年、集英社刊)を大いに参考にさせていただいた。今谷明氏といえば『室町の王権・足利義満の皇位簒奪計画』など日本中世史の研究者として知られる方だが、個人的に昔からシルクロード史マニアで中国の現地各地を旅しておられたそうで、ご本人も書いてるがこの方面の歴史を扱った本は本当に少なく、それもあってこの本をものされたようだ。後期倭寇が専門のくせに趣味で南北朝時代マニアをやってる僕にも通じるところがある(笑)。
 この本、タイトルこそ「中国の火薬庫」とあるのだが、中身を読んでみると歴史的に複雑なこの地の事情をしっかりふまえ、さらに現地旅行もした上で、「ウイグルは中国の脅威にならない」という結論を出しちゃっている。ご本人も書いてるが未来の予測はつきかねるのだけど、歴史的に見ればむしろ反乱の主導をするのは勇猛な東干人であり、ウイグルは好戦的でもなく戦べた(マルコ・ポーロがすでに指摘しているそうな)であるため、巷間言われているほど現実的な脅威にならないのではないかという見方をしている。

 清に征服されて以来、ウイグルはずっと漢族と対立してしょっちゅう蜂起している印象もあるが、この本を読むと細かい対立や憎悪は確かに継続してあるが、それが爆発して大反乱に発展したケースはそれほど多いわけではなく、今谷さんによると7〜80年周期ぐらいで起こるという。そういえば最近ウイグル独立運動の話が聞こえてくるのは、その周期にあっていなくもない、ということも指摘はしている。現在のウイグルを刺激するのはソ連崩壊以後の中央アジアイスラム系諸国家の成立と、アフガニスタンのタリバンに代表されるイスラム原理主義の影響だと思われ、資源ルートを中央アジアに求めている中国政府としては余計に警戒していて、とくにイスラム教を柱に人がまとまることには神経をとがらせているのは当然といえば当然なのだ(といって正当化する気もないが)
 事情が単純ではないのだが、ウイグル自治区へ行った数人から話を聞いた限りでも現地では漢族とイスラム教徒の対立は根深いものがあり(日本人はとりあえず漢族に見られないようにすれば大丈夫、とか)、過去の歴史からすると何かのはずみで大騒動に発展する危険性はあるなと思っていた。今回の騒動はその直前に広東省で出稼ぎのウイグル人と漢族が工場内で衝突して死者が出たことに端を発しており、過去のパターンどおりとも言えた。その過程でネットや携帯を通じて双方でデマが流れてあおっていたフシもあり、実態なんて結局わかりっこないから経過についてはここでは省くが、上の贋作サミットで触れたようにラクイラ・サミットに出かけていた胡錦濤国家主席が急きょ帰国して対応に当たってのを見ても、中国政府としては事態の拡大を強く警戒していたことは間違いない。ただこれはあくまで僕の印象なのだが、あえて目立つ帰国という手段をとって「国家的重大事」と示すことで、むしろ漢族側に報復の連鎖を封印する意図があったのではないかなぁ。「海外勢力の扇動」とまとめるあたりはイラン政府とおんなじパターンだが。

 今回のウイグルでの騒乱は構造的には昨年春のチベット騒乱と同様なのだが、欧米諸国の反応は明らかに鈍く、在外ウイグル人の団体である世界ウイグル人会議もそれを批判する声明を出している。昨年のチベット騒乱の時に欧米が激しく反応したときにも世界ウイグル人会議が「ウチだって大変なのに」とわざわざ声明を出していたので予想できたことではあった。もちろん反応した人はいないわけではないし報道もあるのだが、チベットとの差は歴然だった。やっぱりそれって「イスラムだから」だと思えちゃうんだよね。欧米諸国で大きく取り上げたのは意外にもスペインで、なぜかといえば国内に「バスク独立問題」を抱えているから、なんだそうな。
 で、今度のことではイスラム諸国で一斉に中国批判が起こったからそれなりにバランスはとれてると言えるかもしれない。上記のイランの改革派の集会でも「中国に死を」というスローガンがあがったし、インドネシアの保守系イスラム団体でも中国批判デモがあった。ただアルカイダまでが中国人への報復攻撃を発表したのはウイグル人側にとってはかなり迷惑そう。

 なかでも中国に対する激しい批判で突出したのがトルコ共和国だった、というのが面白い。トルコではエルドアン首相みずから中国のウイグル鎮圧を「虐殺」(トルコにとってはアルメニア人虐殺問題とからむためほとんどタブーの語)と表現して非難したし、外相は問題を国連安保理で取り上げようと提案するし、商工相は中国製品ボイコットまで口にした(直後に「個人的意見」として政府が火消しに回ったが)
 トルコがなぜそこまで突出して批判するかといえば、同じイスラム教徒であることはもちろんだが、なんといっても「同じトルコ人」という同朋意識が過剰なまでにあることが大きい。ここまでだらだら書いた歴史で分かるように、「トルコ人」はもともと中央アジアから北アジアにいた遊牧民族であり、ウイグル人や中央アジアにあるトルクメン人(トルクメニスタン共和国を中心に分布)はその一派で、さらに西方へと移動したトルコ人たちはセルジューク朝やオスマン帝国を建国、現在のトルコ共和国に至ったもので、確かに同根の存在なのだ。正確には知らないが、今でも基本語は通じるぐらいらしい。
 現在のトルコ共和国、地域的にはアナトリアにいるトルコ人たちは、清朝にも似た多民族帝国だったオスマン帝国を築いたが、その崩壊の過程でトルコ人民族意識を過剰に持つようになった。そして周囲をヨーロッパ系やアラブなど異民族に囲まれた孤独感があったせいか、中央アジアにいる同じトルコ系民族と協力して壮大な民族国家を作ろうという「汎トルコ主義」と呼ばれるものが芽生えた過去がある。青年トルコ革命の指導者であったエンヴェル=パシャも失脚後にこの夢を追いかけて中央アジアに行き、ソ連軍相手に戦ううちに戦死してしまっている。今でもこの気分というのは残っているようで、つい先月にもトルコの
ギュル大統領がわざわざウルムチを訪問して「ウイグルはトルコと中国の友好の懸け橋」と発言している。その直後の騒動だったこともトルコを刺激したのかもしれない。

 今回の騒動を受けて少数民族問題に詳しい中国知識人たち(国外滞在者ふくむ)が、「政府はチベット自治区、新疆と相次いだ事件で、まず自ら反省するべきで、権力を使ってスケープゴートを探し責任逃れをするべきではない」とし、当局に拘束されたウイグル人学者の解放を求めるなど、民間人が政府を直接批判する異例の声明を出したことも注目したい。なかなか難しいところだとは思うのだが、最近中国ではそこそこおおっぴらに政府批判の意見も出るようになり、それが無視できなくもなってきているようだから。



◆こちらは40周年

 日食、雨に泣かされましたねぇ。茨城県地方では部分日食で7割がた欠けると聞いていたのだが、曇り時々雨の天気で太陽の位置すら分からない始末だった。日本全土がおおむねその調子だったし、一番長く皆既が見られると騒ぎになっていたトカラ列島の悪石島(なんだか横溝正史みたいだ)もほとんど嵐のような気候であいにくの状態だったようだ。まぁ「ツキがなかった」ということで。次の日本での皆既日食は2035年に、僕のいる地域も含む北関東で見られるというんだが…
 「史点」らしからぬ科学なお話をすると、日食というのは太陽と月と地球が一直線上に並び、月の400倍の大きさがある太陽が月と地球の距離の400倍彼方にあるために、ほぼ同じ大きさの見た目になって重なってしまうことで起こる。理屈を説明されればなるほどそんなもんか、とすぐ分かる話だが、考えてみると物凄い偶然の産物である。太陽系の他の惑星をみれば分かるが、そもそも月という衛星じたいが惑星・地球と比較すると異常に大きい(比率では太陽系中最大)。僕がファンサイトをやっているSF作家アイザック=アシモフの未来史「ファウンデーション」シリーズ(「銀河帝国興亡史」の訳題でも有名)でも、銀河系中に人類が広がった
はるか未来の考古学者が人類発祥の地を探すうち、その手がかりを古文書などから「巨大な月」に求めるというくだりがある。そして物語のラストではその月が重大な意味をもつことになるのだが…ま、それは読んでみてのお楽しみ。
  
 その月に人類が立ってから、今年の7月20日でちょうど40周年になる。アメリカのアポロ11号の着陸船イーグルが月面の「静かの海」に降り立ち、二―ル=アームストロング船長が月面に第一歩を記して「これは一人にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍だ」という名セリフを吐いた。人類のみならず、地球上で生まれた生命体が初めて「他の天体」に足を踏み入れた第一歩だったわけで、まさに地球の生物史上の大事件だったと言っていい。この月面着陸の模様は世界にTV生中継され、同時に世界中の人がこれを見守っていた。
 あれから40周年ということで、とくにアメリカではそれなりにお祭り騒ぎとなっていたようだが、その直前の16日にNASAはささやかではあるが、ちょっと驚かされる事実を発表していた。この歴史的瞬間の映像を記録したマスターテープが長いことNASAの中でも行方不明になっており、「3年間さがしましたが、ついに見つかりませんでした」という、腰砕けになるような発表をしたのである。
 「え?じゃあ今までよくTVで見たあの映像はいったい何?」と思う人も多いだろうが、もちろんあのとき放送された映像じたいは各テレビ局などに録画が残っているのだ。そのオリジナルとなるビデオテープを肝心のNASAが紛失していたという、なんともNASAけない話なのである。結局NASAは民間テレビ局などに残っていた中継映像から画質のいいものを提供してもらい、デジタル処理で鮮明にして同日に公開している。

 こういう話になると、誰もが思い浮かべるだろう。「アポロの月面着陸は特撮を駆使したデッチあげだ!」という「ムーンホークス説」のことを。けっこう昔からささやかれている都市伝説の代表的なものだが、アームストロングと一緒に月面に降りたバズ=オルドリンに「でっち上げと白状しろ」と迫ってぶんなぐられたTVマンもいたし(当時「史点」ネタにしている)、日本でも時々これにハマる人がいて、最近では国際政治やら経済やらでよく本を出している副島隆彦氏がこれを本気で主張する本を出して、いろんな意味で話題を呼んだ(笑)。
 今回の「ビデオテープ紛失」は、この説を主張する人たちをさぞ勢いづけたはず。「やっぱり全てはNASAのデッチ上げだ!」と騒ぐ根拠の一つを与えたことは間違いなかろう。「デジタル処理」にしても「改めて工作したに違いない」と言われちゃうだろうし…そもそもNASAともあろうものが、貴重なビデオテープを紛失するとは、と多くの人も首をかしげるだろう。

 まぁ僕も首をかしげたくちだが、思い当たるところはあった。NASAは紛失の理由を「70〜80年代にテープを別の映像に再利用してしまったらしい」と発表していて、これには「もったいないことを」と思いつつ、「やっぱりそうか」と納得したのだ。なんで「やっぱり」なのかといえば、僕が「歴史映像マニア」であることを想起していただきたい。NHKの看板番組である歴史劇「大河ドラマ」は70年代以前の映像がNHK内にもほとんど保存されておらず、総集編以外鑑賞困難なものがたくさんある、という事実を僕は身にしみて知っているのだ。古い映画や民放のドラマなどかなり残っているはずなのに、なぜNHKの大河が残ってないのか?と不思議に思う人が多いだろうが、残っているのは実はフィルム撮りの映画やドラマの話。大河ドラマはなまじ当時としては超高価なビデオ収録されていたために、放送が済んだら予算の都合上別の番組に再利用するのが当たり前、という実態だったのだ。
全話が完全に残っている最古の大河ドラマが1976年放送の「風と雲と虹と」(平将門の乱を描いたもので、描かれる時代も大河史上最古)で、これだって本来は「全話は残ってない」と発表されていたのに、NHKの倉庫の隅からひょっこり録画テープが見つかり、デジタル処理した上で完全版DVD発売にこぎつけたもの。これは非常に幸運なケースで、NHKがちゃんと全話保存するようになったのは実に80年代に入ってからのことなのだ。最近では1979年放送の「草燃える」(鎌倉幕府草創期を描く)全話のうち33話までが番組関係者や当時録画した個人からの提供で集まったことが話題になっている。

 えーと、かなり脱線してしまったが、要するにNHKもNASAも国の予算で動いているお役所みたいなところだけに、ビデオテープはもったいないから再利用していたんじゃないでしょうか、という話。大河ドラマと人類月面着陸を一緒にするな、と言われそうだけど、映像記録はあちこちにあったわけで、NASAもマスターテープを残しておく意義はあまり考えてなかったんだろうなと思うわけ。


2009/7/22の記事

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