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2009年8月19日

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◆今週の記事

◆ハンコとヤクザと指詰めと

 印章・印鑑というものは文明の成立とほぼ同時に発生したものらしく、紀元前5000年ごろのメソポタミアですでに使用されていたという。社会が複雑化してくると、文書が実際に当事者によって書かれた本物であることを証明する必要から発生したものらしい。
 古代中国において印章が権力を象徴するものとして重視されたのはよく知られる。都市や国が降伏する際には新たな支配者にそこの印を捧げ渡す儀式が定番で行われた。また周辺民族の首長に対しても「あんたを王様と認めてやるよ」と印章をプレゼントしたことは、福岡県志賀島から出土した「漢委奴国王」の金印の実例で日本人にはすっかりおなじみだ。
 日本における印章の最古の例はこの「漢委奴国王印」ということになるのだが、これは西暦57年に後漢の光武帝が奴国の国王にプレゼントしたものと考えられている。このとき光武帝の朝廷には『漢書』を編纂する歴史家・班固が仕えており、彼がこの印鑑作成に関与したために日本では印章のことを「ハンコ」と呼ぶようになったそうな、って、なんで真夏に四月バカをやってるんだ。

 日本におけるハンコ文化は中国文化そのまんまの導入とも言える律令制時代には盛んだったが、中世になると印鑑は衰退して、公文書には本人直筆の花押(サイン)が記されて証明とされるようになっていく。
 戦国時代の織田信長が「天下布武」というハンコを押していたことはよく知られるが、「岐阜」のネーミングのことも考え合わせると信長は実はかなりの中国文化かぶれだったと見ることができるかもしれない。その後の江戸初期に貿易許可証が「朱印状」だったのも「朱印」すなわち赤い印鑑が押されていたためだ。この時期はハンコ文化の復権期といえるかもしれない。
 もともと印鑑というのは権力者がその権威の証明として、文書に重みを与えるために使用するものだったのだが、江戸時代中に公式文書以外でも使用が広まり、それが庶民にまで拡大していった。明治になって、その初期の明治6年には「実印のない証書は無効」との布告が発せられていて、ここにおいてハンコ大国日本は完成したとみていい。一応欧米流のサイン文化導入も試みられてはいたようだが、今日に至るまで定着してるとは言い難い。もっとも内閣の閣議ではサインと花押が今でも使われているそうだが。
 重要文書などに使う、印鑑登録された実印はともかくとして、宅配便の受け取りなど日本では日常的にハンコを使う頻度が高く、たいていの文具店に行けばよくある名字のハンコ、いわゆる「三文判」が売られているというのも実に日本的光景だ。なお、僕の本名は全国でも20軒ていどしか存在しない稀少名字であるため、文具店の三文判ではまずお目にかかれない。
 日本がいかにハンコ大国であるかは、伊丹十三監督の傑作映画『マルサの女』を見ていても実感する。脱税の証拠を探すガサ入れで、部屋のあちこち(口紅の中にまで!)からゾロゾロと脱税に使用されたハンコが山のように出てくるシーンがあるが、あれは外国人が見るとかなり奇異な光景なのではないかなぁ。

 と、ハンコがらみでダラダラと思いつくままに書いてしまったが。
 日本以外でこうしたハンコ文化を持っているのはお隣韓国台湾だ。どちらももともと中国文化圏だから…という見方もできるが、法制度としてしっかりハンコ文化が根づいてしまったのはやはり日本に統治されていた時代があるためだ。韓国は38年、台湾は50年しか日本の統治を受けていないのだが、根づいてしまった日本由来のものは意外と多い(例えば「大統領(テドンヨン)」という言い方は漢字文化圏でも日本と韓国にしかない)
 韓国が日本の植民地として併合されたのは1910年。そして1914年には日本流の印鑑証明制度が朝鮮半島でも導入される。以後、今日に至るまで不動産登記などで印鑑証明が延々と使われてきた。ところがつい先頃の7月29日、韓国政府の「国家競争力強化委員会」「印鑑証明制度を5年以内に段階的に廃止」という方針を打ち出したことが報じられた。
 こう聞くと、何やら韓国でしばしば聞く「日本統治時代の残滓の排除」の一環のようにも思えてしまうが、現在の保守系政権、しかも大阪生まれの李明博大統領のもとであるから特に反日気分でやってるわけでもなかろう。実際、同委員会も李大統領の国民生活の向上という方針を受けて「生活の不便解消とグローバルスタンダードに合わせた先進化」を理由に挙げている。今後はネットを活用した電子署名や電子委任状、身分証明書などに代替させてゆき、そのことで公務員4000人、4500億ウォン(約340億円)のコスト削減が図れるという予測だそうで。
 …ってことは、元祖ハンコ大国日本はかなり無駄なことをしてるってことになるんじゃないでしょうか。


 さて、ついでにもう一つ韓国の話題。今度は韓国で日本のあるものを導入しようとして失敗(?)というお話。
 毎日新聞の報じたところによると、韓国の暴力団が全国展開の勢力拡大をもくろみ、それにあたって日本のヤクザの習慣を導入して組織の引き締めを図っていた、というのだ(笑)。
 そもそも韓国のヤクザ社会では日本における山口組に代表されるような「広域暴力団」というものが存在せず、各地域ごとに独立した地域密着型組織がある状態なのだという。日本だってもともとそうだったのだが、戦後の混乱期と高度成長期を経て山口組のように全国に支配を拡大する巨大組織が発達した歴史がある。
 日本と韓国のヤクザの話と言えば、そのむかし「将軍の息子」という韓国映画を見たことがある。当時知り合いが「面白いから見てみろ。アクションものだから字幕なんてなくたって大丈夫」と無茶なことを言って、仲間でビデオ(直輸入で字幕なし)の上映会をやったのだ。この映画は日本統治時代の朝鮮を舞台に、朝鮮進出を図る日本ヤクザ(演じてるのはみんな韓国俳優なので日本語が流暢だけどアクセントがヘン)と、独立運動家の息子の侠客・金斗漢(キム=ドゥハン、劇中では日本読みで「きん・とかん」と呼ばれる場面も多い。レッキとした実在人物)との戦いを描く内容で、確かに細かいことを抜きにすれば字幕なしでも楽しめる。だいたい登場するヤクザも警官も日本人なのでセリフの4分の1ぐらいは日本語なんだよな(笑)。もちろん日本ヤクザはかなり悪く描かれるが、柔道の達人の日本人警官が物凄くカッコいい役だったり、そう単純な内容でもない。

 ともあれ、その毎日が報じたニュースによれば、昨年の初めにソウルの繁華街・梨泰院を拠点とする二団体が合併し、ビルの立ち退き交渉や違法カジノによる収益をあげつつ全国組織への拡大を目指した。この団体の幹部が地方巡りをして各地の老舗やくざ組織の幹部と顔つなぎをし、地方組織をソウルの組織の「地方支部」という形にして全国組織化を図ろうとしていたという。ああ、まさに山口組あたりの歴史そのまんまでありますな。しかしいかんせんこの団体には田岡一雄ほどの大立者がいなかったようで。
 くだんの団体はあからさまに日本のヤクザを真似するのがいいと判断したようで、日本風の入れ墨(般若など)を入れたり、「先輩には腰を直角に曲げてあいさつし、絶対服従」「組織を抜ける場合には指をつめる」という日本ヤクザ風味の規律が設けられていたという(笑)。幸い全国組織化する前に警察の介入を受けて資金源を断たれ、短期間に全国展開は夢に終わったとのことで、「指つめ」をした構成員は一人もいなかったそうな(笑)。
 「指つめ」は日本ヤクザ特有の習慣であるらしく、この記事を書いてるうちに連想して参考までにと観賞した東映実録路線のやくざ映画「沖縄やくざ戦争」(1976、中島貞夫監督)のなかでも主役の松方弘樹演じる沖縄やくざが山口組がモデルとしか見えない本土組織の幹部に「本土では謝罪の際に指を切断するそうですが」と口にするセリフがあった。なお、この映画も沖縄返還直後に沖縄進出を図る山口組に対して沖縄やくざたちが泥沼の抗争を繰り広げた実話に取材したもので、ひょんなことから見ることになったのだが、ある種の「歴史もの」として楽しめた。もっとも演じてるメンツが「仁義なき戦い」とほぼ同じなので、「くされ外道が」なんてセリフを沖縄人が言うとすっごく違和感が…(汗)。

 ああ、またダラダラととりとめもなく書いちゃってるなぁ。連想ついでにこんな話題も。
 いま日本でリアルタイムの「仁義なき戦い」をやってるところといえば九州である。2006年以来、久留米に本部のある道仁会と、それから跡目相続問題で離脱した九州誠道会との間で激しい抗争が繰り広げられている。人違いで一般人が病院で殺害された事件も記憶に新しい。現時点では警察の取り締まりにより一応押さえこまれてはいるようだが…
 そのうちの九州誠道会が今年7月下旬、一連の抗争で「戦死」した組員たち12名(敵味方あわせて)の慰霊碑を建て、式典をおこなっていたことが報じられた。石碑はなんと「忠魂碑」と刻まれていて、その脇の石碑には「身命をかえりみず、覚悟と責任を持って、己の『言』と『行い』を『成す』者こそ、誠の侠である」(新聞記事からそのままコピペしたが、もしかすると原文は漢文か古文?)と顕彰文が刻まれているという。
 忠魂碑といえば戦死者を称えるものとして地方にいくとよく見かけるが、敵味方双方あわせてというのは、靖国というより沖縄の「平和の礎」のノリである。ただしあくまで誠道会側が一方的に作ったもので、道仁会側はいっさい関係なく、式典にも来なかったという。警察では妨害工作があるかもしれないと警戒し、周囲をパトロールしているとのこと。



◆現代南北朝事情?

 さて昨日公示となったわけで、8月30日に日本では衆議院選挙が行われる。政権交代が実現するのかどうかばかりが話題になっているが、考えてみると吉田茂の孫と鳩山一郎の孫の対決なわけで、敗戦直後に繰り広げられた保守政党同士の政権争奪戦の歴史を孫同士がなぞってやっているようにも見え、祖父同士の戦いを国会議員として目の当たりにしていた、相変わらず元気な中曽根康弘元首相などは半分バカにしているようなコメントを出していたものだ。彼の息子さんも外相として現内閣の閣僚になってるわけですが。

 「鳩山」といえばいろんな意味で何かと話題が多いのが、鳩山一郎の孫のうち弟のほうの鳩山邦夫氏だ。過去には「友達の友達がアルカイダ」発言やら「死神呼ばわり騒動」で有名になったが、先ごろは郵政問題で盟友であったはずの麻生太郎首相と大喧嘩、結局更迭されたわけだが、「岩倉公、あやまてり」と言って征韓論に敗れて政府を去った西郷隆盛に自分をなぞらえるような発言には、「西南戦争でもおこす気かよ」とツッコんでしまった人も多いはず。
 その後、いわゆる「麻生おろし騒動」が勃発し、自民分裂か?との声まで出た(まぁ僕はないだろうと見ていたが)。このときに「大政奉還」なんて言葉も出てきたな。もちろん天皇に政権を返すことではなく(笑)、麻生さんを辞めさせて「自民党に政権を返せ」という意味であろう(国民に、ではないよなぁ)。もっとも当の麻生さんは就任直後に「御名御璽をいただいて…」という史上初の発言をした首相でもあり、こちらの想像以上に天皇に任命されたことを強く意識している可能性もあり(そういえば皇族の親戚でもある)、もしかしたら「大政奉還」発言した議員も「天皇に返せ」ってつもりなのかもしれないが。まぁ洋の東西、政治家の皆さんというのは歴史用語を使いたがる人種ではある。

 その鳩山邦夫氏が「麻生おろし」騒動の最中に、ささやかながら目を引く「歴史発言」をしていた。7月17日に鳩山氏は当時騒がれていた麻生首相の解散決断を批判するなかで「麻生首相は北朝、我々は南朝」と発言し、与謝野馨財務大臣をかついで自民党内で「正統派」を主張する一派を作って選挙を戦うかのような発言をかましたのだ。歴史用語を使いたがる政治家が多いとはいえ、戦後ではマイナーそのものである「南北朝」を例えに持ってきているのには、南北朝ファンの僕には「おっ」と目を引いてしまうものがあった。
 僕のサイトを覗いてる人の多くの方には説明不要とは思うが、一応説明しておくと、日本における「南北朝」があったのは14世紀のこと。鎌倉時代後半の段階ですでに皇室は持明院統と大覚寺統の二系統に分裂して跡目相続抗争を繰り広げており、そのうち大覚寺統のなかから本来皇位につけるはずのなかった超個性派・後醍醐天皇が登場し、自らの子孫で皇室を一本化し天皇中心の独裁体制(中国の宋・元の体制をモデルにしていた可能性が高い)を最大目標として、紆余曲折の展開の末に鎌倉幕府を打倒する。そして「建武の新政」を開始するがよけいに混乱を引き起こしてわずか2年で崩壊、足利尊氏が持明院統の天皇を立てて室町幕府を創設することになる。しかし執念の人・後醍醐は吉野の山奥にこもって自分が正統の天皇であると宣言、ここに天皇が二人いる「南北朝時代」が始まり、以後およそ60年の長きにわたって全国的な争乱が続くことになった。
 この南北朝争乱というのは表面的・形式的には天皇家二派の正統性の争いなのだが、実のところ戦いの主体である武士たちの大半にとってはそんなことはどうでもよく(笑)、それぞれの家の利益を確保・拡大するために旗頭として南北双方の天皇を適当にかついでいたというのが実態。近隣の敵対勢力が北朝側だったら南朝に、相手が南朝にまわったら自分は北朝に寝返るということが全国的に頻繁に起きている。だいいち北朝と幕府の創設者であるはずの足利尊氏と弟の直義までが幕府内の内戦の過程で南朝に寝返ったことがあるぐらいだ。
 南北朝争乱を眺めていくと、現代の政党政治のあり方と意外によく似たところがある。地方の「国」は「選挙区」であり、その「国」の守護はいわば「党公認候補」なのだ。とくに室町幕府初期の各種内紛は党内の派閥抗争にも似ており、それこそ「刺客候補」もいるし、南北朝双方で「新党結成」の動きだってみられる(たいてい短期間で消滅する)。宗教勢力も状況を左右する重要な軍事勢力であったところも似てなくもない。江戸時代の幕藩体制も現代日本の政治状況とよく似ていると例えられることがあるが、つまるところ日本の基本構造は昔からほとんど変わってない、と言っちゃっていいのかも知れない。

 さて話を戻すと、鳩山邦夫氏が「南北朝」の例えをしたのは、単純に「正統性を主張する分裂」というイメージの連想だろう。そして自分たちを「南朝」としたのは「正統はこちらだ」という意味合いなんだろう。一応明治の末以降は「南朝正統」というのが公式見解にされちゃってますから(今も否定はされていないはず)。しかし現在の皇室は北朝の子孫であり、南朝はほとんどジリ貧になって北朝に接収されたあげく「後南朝」運動も最終的にはつぶされ(このとき公式の南朝皇孫は断絶している)、応仁の乱(1467)のときに担ぎ出された人物(ムチャクチャ怪しいが)を最後に歴史から姿を消している。要するに誰がどう見ても「敗者」なのだ。鳩山さん、西郷隆盛の例といい、不吉な例えをしていることにご自分で気付いていないのだろうか。まぁ、思い起こせば歴史上人気があるのってだいたい「敗者」の方なんだよね。
 一時この「南北朝発言」は邦夫氏の地元選挙区・久留米で騒ぎになったが(皮肉にも上のネタで書いた「九州やくざ戦争」の一方の当事者の本拠地である)、その後「麻生おろし」も結局は不発となったこともあって、25日には邦夫氏本人が「自民党がA組とB組に分かれる形があってもいいと一時は考えたが、いまやそういう状況ではなくなった」として完全に撤回することになった。解散直後に「私も公認していただけた」とニコニコしていたのには、正義がどうのとか大げさに見栄を切ったいたのとずいぶんギャップが(8月15日に靖国で「正義の白ハト」を飛ばすというコントみたいなことをやってたな)。邦夫氏に限らんが、いざ選挙になってしまえば党を割って出るまでの気迫も希薄なところに今の自民党の弱体ぶりがうかがえるなぁと思っちゃうのであった。
 早めに離党した渡辺喜美氏にしても「みんなの党」と名乗ったのにはやる気のなさを感じてしまったし(笑)。各政党の略称の中に「みんな」ってのがあるとついつい笑っちゃうぞ。某宗教政党は先行する某宗教政党が状況によっては自民から離れるので政界入りチャンスと見たのか(だいぶ前にも三塚博を異様に持ち上げていたことがあって自民とくっつきたい志向は明白だった)、自民にナントカの深情けみたいな一方的な動きをしてるけど、自民もそこまで落ちぶれてはいないんじゃないかと思うんだがなぁ。もちろん、追い詰められれば手段を選ばなくなる可能性はあるんだけど。

 さて、次の更新時には結果が出てるんじゃないかな。
 


◆戦争の世紀のあれこれ

 毎年のことだが、このシーズンになるとやはり先の大戦がらみのニュースが多くなる。第一次、第二次、その後の冷戦など、それらをひとまとめに。

 7月25日、イギリス南西部の都市ウェルズの介護施設でハリー=バッチ氏(111歳)という大変なお年寄りが死去している。発表したのはイギリス国防省。なんとこの方、第一次世界大戦(1914-1918)を戦った「最後のイギリス陸軍兵士」として「ラスト・トミー」の異名で知られる人物だったのである。
 1916年に18歳で徴兵され、1917年7月にベルギーで行われたパッシェンデールの戦いに参加して重傷を負っている(この戦闘では彼の戦友を含め7万人のイギリス兵が戦死した)。その後は清掃員として平穏な人生を送ったようだが、100歳を超えてから注目を集めるようになり、戦争の記憶についてもインタビューなどで発言、2002年にはベルギーに慰霊旅行に出かけ、2004年にはパッシェンデールでドイツ兵として戦っていたシャルル=クアンツ(と、読むのかな?スペルはCharles Kuentz)と対面して和解の演出もしている。なおこのシャルルさんはアルザス出身で、このときはドイツ軍兵士となったが第二次大戦ではフランス軍兵士となった人で、この対面の翌年に108歳で亡くなっている。
 2008年1月の「史点」で「最後のドイツ帝国兵士の死去」の話題を書いたことがあるが、今度のハリー=パッチ氏の死去により、ヨーロッパにおける第一次大戦参加者はついに全員お亡くなりになったとのこと(イギリス軍兵士としては海軍兵士だった人物が存命だが、この人はオーストラリアに在住している)。そしてパッチ氏はイギリス最後の「1890年代生まれ男性」でもあった。


 ユネスコ(国連教育科学文化機関)が決める「世界遺産」には人類が作ったものである「世界文化遺産」と、人の手が入っていない自然物の「世界自然遺産」、そして戦争などイヤな話だけど忘れてはならないものを指定する「負の遺産」があるということはよく知られている。日本でも数多くが登録されており、塾の社会科講師の僕も生徒に覚えさせなきゃならない項目の一つとなってしまっている。
 それ以外に「世界記憶遺産」あるいは「世界の記憶」というものがあるのをご存じだろうか?後世の人類に残すべき史料類を指定するものだが「聞かないなぁ」と思ってしまうのは、日本ではこれに登録されているものが一切ないから。お隣韓国は必死に運動したのだろうか、調べてみたら「朝鮮王朝実録」や大蔵経はじめかなりの数の登録があった。日本でもこれから登録運動が起こるのではないかと予想されるが、うがった見方をするとこれは「文化遺産」「自然遺産」に比べると明らかに観光開発向きではないことも一因かもしれない。

 その「世界記憶遺産」にこのたび「アンネの日記」が登録されることが7月30日にユネスコから発表された。説明の必要もないほどの有名な日記で、ユネスコも「世界中で読まれた書籍トップ10のうちの一つ」と評している。これはユダヤ人の少女アンネ=フランクがナチスによる迫害を逃れてアムステルダムの隠れ家で暮らした1942年7月から1844年8月まで、13歳から15歳までの時期をつづった日記で、隠れ家の住人で戦後唯一生き残ったアンネの父・オットー=フランクが編集出版して世界的なベストセラーとなったもの。内容自体は隠れ家の中での危険におびえながらも明るく前向きに生きている日常をつづったものだが、その後アンネたちがナチスに捕えられ、強制収容所で短い生涯を終えていることが、この日記を読む者の涙を誘ってやまない(もっとも僕は日記自体を読みとおしたことはなく、子供の時にどっかでやった舞台劇を見たことがあるだけだ)
 アンネは13歳の誕生日にプレゼントされた日記帳に「キティー」という名前をつけ、その「キティー」に打ち明けるというスタイルで多感な少女の日常をそこにつづっていた。実はまったくの私事ながら僕の母は少女時代にアンネの日記を読んで感激、その影響でいまだにアンネと同じように架空の誰かに向かって語りかけるスタイルの日記を書きつづっている。もうウン十年ぶん続いているはずだが、これが将来記憶遺産になるのかどうか(笑)。いや、読んだことはないんだが、なかなか激動の時代の一証言として貴重なものを含んでいる気はするので。
 なお、今年ユネスコはこの「アンネの日記」のほか、イギリスの「マグナ・カルタ」(最近同名のゲームがあるね)、タイの名君チュラロンコン大王(ラーマ5世)の政策文書なども記憶遺産に登録しているそうである。

 
 ちょっと古い話題になるのだが、さる7月3日、欧州安保協力機構(OSCE)の議会がリトアニアで自由と人権に関する決議を採択した。そのなかに「8月23日をスターリズムとナチズムの犠牲者追悼の日にする」という文言が盛り込まれたことに、ロシア議会が猛反発。7月18日にロシア上院は「ソ連をヒトラーのナチスドイツと同列に扱おうとする試みはロシア国民への侮辱であり、受け入れ難い」と非難する声明を採択している。
 ここで問題となった「8月23日」とは、ちょうど70年前の1939年8月23日のこと。この日、ヒトラーのナチス・ドイツと、スターリン独裁体制下のソ連とが「独ソ不可侵条約」を調印したのだ。それまでナチズムと共産主義は犬猿の仲とみられていたが、これは同盟関係でこそないものの「お互いの縄張りには手を出さない」という約束をしたものであり、しかも同時に結ばれた秘密協定でポーランドの東西分割占領、バルト三国のソ連併合をお互いに認めていた。今回の決議が行われたバルト三国のひとつリトアニアや、ポーランド・東欧諸国にしてみれば確かにこの日こそ受難の日の始まりだったに違いない。まぁ東欧諸国でなくても客観的に見てナチズムとスターリニズムがどっこいどっこいだとは思う。
 結局この独ソ不可侵条約は1941年6月のドイツ軍のソ連への電撃的侵攻で破られ、以後ドイツとソ連、ヒトラーとスターリンは宿敵として激闘し、最終的にソ連軍がベルリンを陥落させてヒトラーとナチスにとどめを刺した。ソ連はこの独ソ戦を反ファシズムの国土防衛戦争・東欧解放戦争と位置づけ(ずばり「ヨーロッパの解放」って超大作映画もありました。まぁ戦争映画的には名作なんだが)、ヒトラーとナチス・ドイツを悪者に仕立てつつスターリンと自国の戦争行為については基本的に正当化をし続けた。ソ連崩壊後、とくにまた国力が盛り返してきたこともあって、やはりこういう声にはカチンとくるものらしい。まぁ敗戦国である日本ですらまだブツブツ言ってる人は結構いるもんだ。


 さてその戦中日本をほうふつとさせるような話が多いな、と以前から言われているお隣の北朝鮮だが。
 7月中、北朝鮮がやたらに態度を硬化させ、反米を唱えて国内では「開戦直前」のようなムードをあおっていた。そのころ、読売新聞が報じたところによると、北朝鮮国内で「アメリカとの死闘のために各人が肉弾となり1人が銃弾1発を寄付しよう。10人で砲弾1発、1000人でミサイル1発」とのスローガンを掲げ、全国民に鉄製品の供出を求める運動が展開されていたそうで。住民たちはクズ鉄などを供出、小学生はスプーンを…なんて話を聞いてると、いやはや、懐かしい…と言っちゃう世代もいるのではなかろうか(^^; )。ああ、わが国だけじゃないんですね、などと変な意味でホッとしてしまったりして。
 その後クリントン元大統領の突然の訪問があったり、その後はやや態度の変化が見られるが、何しろこれまでもあの調子の国だから…もっとも、そのよく似ていたどっかの体制に比べるとよっぽど外交巧者に見えてしまうのは気のせいだろうか。



◆お盆過ぎにおくやみ特集

 こちらはまた別の意味で時節がらの訃報ネタ特集。

 8月1日、フィリピンの元大統領、コラソン=アキノさんが76歳で亡くなった。
 大統領となり、確実にフィリピン現代史の大物として歴史に名を残した彼女だが、もともとは政治家志望だったわけではない。彼女が結婚した相手、ベニグノ=アキノ氏が市長から州知事、上院議員となり、当時のフィリピンで長期独裁を続けていたフェリディナンド=マルコス大統領の有力な政敵となったことが彼女の運命を狂わした…と言っちゃっていいかもしれない。遺族の話によると、マルコス大統領に敵視されてアメリカで亡命生活を一家で送っていた時が恐らく彼女の一番幸福な時期だったのではないかとのことだ。
 1983年8月21日、ベニグノ氏は危険を承知でフィリピンに帰国した。マニラ空港でフィリピンの大地に降り立ったその瞬間に狙撃、暗殺された。今も謎が多いこの暗殺劇だが、その直前直後の映像を日本のテレビがとらえていたので僕もよく覚えている。ちょうど歴史というものに興味を持った時期でもあり、こんなあからさまな暗殺劇が今の時代にも現実に起こるもんなんだな、などと思ったものだ。

 ベニグノ氏の死により、その未亡人コラソン女史がその遺志を継いで政界入りし、1986年2月に大統領選挙に出馬した。この選挙はマルコス側の妨害活動で選挙前から国際的な注目を浴びる騒ぎになっていたが、開票しても双方が勝利宣言することになり、投票箱が行方不明になっちゃうなど不正操作が次々発覚。マルコス打倒を叫ぶ群衆がマニラ市街に100万人も繰り出し、コラソン陣営のシンボルカラーの黄色のTシャツに彼女の決めポーズだった「Lサイン」を掲げた。最終的には軍部の改革派がクーデターを起こしてマルコスを亡命に追い込み、「革命」が実現。これを「ピープル・パワー革命」と呼ぶのだが、おそらくこれが僕がリアルタイムで見た最初の「革命」だった。あまりの急展開に歴史というのは動く時は物凄く劇的に動くものなんだな、と思い知らされたものだ。その後1989年の東欧革命でもそれをいやというほど思い知らされることになるのだが、このフィリピンのピープル・パワー革命がその後の東欧などの革命に影響を与えたとみる意見も実際にある。
 いわば「夫の仇討」のような劇的な形で大統領となった彼女だが、その「治世」についての評価は正直あまりパッとしない。何度かクーデター未遂事件もあるなど不安定な政情で、貧困の解消もなかなか進まず、1992年の任期満了退陣までこれといった成果があがったわけでもない。ただ今回の死去が報じられると、かつてのピープル・パワーの再現を思わせるほどの群衆がその棺の周りをとりまいていたのが印象的だった。一時国葬との話も流れたが、遺族側がこれを拒否している(もっともあの群衆の集まり方は実質国葬だったな)。息子で上院議員のノイノイ=アキノ氏は「母は以前から普通の市民に戻ったとして、国葬を拒否することを決めていた」と語り、夫のベニグノ氏の墓の隣に葬ると表明していた。
 なお、アキノ元大統領の重態が報じられてから、フィリピン国内では彼女の死去を伝える偽メールが飛び交ったそうで、7月24日にイギリスの在フィリピン大使館はそのメール情報を本気にして外務大臣名義でまだ生きてる人に対しておくやみを発表してしまうという珍事をやらかしている。


 さかのぼって7月29日には、かつての中国の最高実力者・ケ小平の妻・卓琳さんが93歳の高齢で亡くなった。彼女はケ小平にとっては三度目の妻で、最初の妻は1928年に結婚したが翌年に産褥熱で死去、1932年に二人目の妻と結婚をするがこれは党内での紛争のなかで離婚させられ別人の妻になってしまい、その後この女性はモスクワで1941年にドイツ軍の爆撃を受けて死亡したとされている。三番目の妻・卓琳さんとケ小平が結婚したのはちょうど70年前の1939年8月のこと。12歳も年の差のあるカップルだった。
 その後夫婦の間には三女二男の五人の子が生まれている。だがケ小平は文化大革命の折には「走資派」と見なされて攻撃の対象とされ、失脚して地方に追いやられて軟禁を強いられただけでなく、長男は紅衛兵の迫害を受けて半身不随となってしまっている。卓琳さん個人の話はネットでちょこっと調べただけでは出てこなかったが、このころは想像を絶する苦労があったことだろう。
 ケ小平は度重なる失脚にもめげず政権の中心に返り咲き、いわゆる「改革・開放」路線を開始する。1978年の日中平和友好条約の批准書交換の折には夫と共に卓琳さんも来日している。1997年の香港返還記念式典の時にもこれを悲願としていた亡き夫の代理という形で卓琳さんが出席していたとのこと。
 現代中国にとってはケ小平は第二の建国者みたいなものであるから、卓琳さんは「国母」みたいなもんである。8月10日に彼女の告別式が行われたが、そこには江沢民朱鎔基温家宝胡錦濤と現・元の国家主席と首相が勢ぞろいしたそうだ。


 そしてつい昨日の8月18日。とうとう韓国の金大中元大統領が亡くなった。このところ危篤の報道が伝えられていて、いささか不謹慎ながら今回の史点のこの記事に入ってしまうのかどうか…と思いつつ「待機」状態になっていた。こちらもいろんな意味で韓国現代政治史を象徴する波乱の人生を送った政治家だった。
 1954年から政治家の道に入り、落選の苦労を繰り返した末に1963年に初当選。1971年には野党側の大統領候補となり、当時韓国の実質的独裁者だった朴正煕大統領に敗れはしたものの肉薄した。この大統領選で朴大統領側は金大中氏を危険視し、その直後に金大中氏はどうみても暗殺未遂としか思えない自動車事故で重傷を負い、1972年に朴大統領が「十月維新」と呼ばれるより強固な独裁体制をしくと国外に亡命、アメリカや日本で韓国民主化運動をすすめるようになる。この辺の事情は上記のベニグノ=アキノ氏とよく似ていて、帰国したら命がない状況でもあった。
 ただ金大中氏の場合、国外にいてもその命を狙われてしまった。1973年8月8日、東京のホテルに滞在していた金大中氏はKCIA関係者数人にいきなり拉致され、殺されかかったところを恐らくアメリカの圧力によって救われ、ソウルの自宅近辺で解放された。この「金大中事件」は韓国政府による日本の主権侵害、あからさまな民主化運動弾圧として当時日本でも大問題となったが(過去の「史点」でも何回か触れていたはず)、日本政府は捜査自体は進めたものの外交的にはウヤムヤな政治決着をしている。今度の死去を受けての報道によると警視庁公安部は今も捜査自体は続けているそうである。
 1979年に朴正煕は暗殺されるが、今度は全斗煥がクーデターを起こして軍事政権を樹立した。1980年には金大中氏の地元である全羅南道(かつての百済南部地域)の光州で民主化デモが軍によって鎮圧される「光州事件」が発生、金大中氏はその首謀者として死刑判決を受ける。ただ国際的な批判もあって無期懲役に減刑され、執行停止と引き換えに再びアメリカへ亡命させられるはめになる。
 1985年にまた帰国して政治活動を再開、1987年の大統領選に出馬するが同じ民主化運動政治家としてライバル関係にあった金永三と共倒れになり、さらに1992年の大統領選ではその金永三に敗れて、ついに政界引退を表明した。波乱の政治家人生もついに頂点を極めることなく終わったか…に見えたのだが、このあと1997年の大統領選に執念の出馬、ついに大統領の座を手にすることになった。
 ここからあとは「史点」でもリアルタイムで横目に見てきた展開だ。とくに2000年6月に平壌を訪問して北朝鮮の金正日国防委員長と南北分断後半世紀にして初のトップ会談を実現させたことは世界の注目を集め、その年の「ノーベル平和賞」を受賞することにもなった。金大中政権におけるいわゆる「太陽政策」がその後の展開からするとあまりうまくいったとは言い難い面もあるのだが、あの時期確かになんとなくいいムードが流れたのは事実。金大中氏本人は数段階に分けた南北統一を志向していたといわれるが、結局はほとんど進展をみることなくこの世を去ることになってしまった。
 今年5月には自身の後継大統領である
盧武鉉前大統領が自殺を遂げた。そのころから体調がよくなさそうとの話が流れていて、結局今年の韓国は大統領経験者を短期間に二人も亡くすこととなった。危篤が報じられた金大中氏のもとには当人から批判されていた李明博現大統領はもちろん、かつてのライバル金永三、かつて死刑判決を下した張本人でもある全斗煥も見舞いに駆けつけ、いずれも直接会えはしなかったらしいが一応かつての怨念を超えた「和解」を演出していた。なんだかんだ言われつつも「金大中」が韓国現代政治史の象徴的存在であったことは間違いなかろう。


 も一つ、人間ではないのだが、なんか感慨深かったもので。
 8月11日に中国新聞で報じられたことだが、その一か月前の7月11日に山口県岩国市の「オオサンショウウオの館」で飼われていたオオサンショウウオ「ふじちゃん」が推定年齢95歳、老衰によりこの世を去っていた。これまでもこのコーナーで長寿動物の話をいくつかとりあげてきたことがあるが、オオサンショウウオがそんなに長生きだったとは知らなかった。「ふじちゃん」は体長は130cmもあり、世界第二位といわれていたそうである。
 オオサンショウウオがどのくらい生きるのかは確たるデータがないらしく、かつてシーボルトが三重県鈴鹿で入手したオオサンショウウオがオランダに運ばれて半世紀生きていた記録があり、条件さえよければ百年ぐらい生きるんじゃないかといわれているそうだ。
 あくまで推定だが95歳といえば、1914年生まれ。第一次世界大戦が始まった年の生まれである。ふじちゃんはあずかり知らぬことであろうが、激動の20世紀をこのオオサンショウウオは生き抜いてきたことになる。


2009/8/19の記事

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