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2009年9月30日

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◆西郷最期の…?

 今度首相になってしまった人の弟さんは郵政問題で総務大臣を辞任するとき「岩倉公、あやまてり」「問いただしたき儀これあり」と征韓論で敗れた時と西南戦争の時の西郷隆盛の言葉を引き合いにした。「ちょっとまずい例えだけど」というような前置きをつけていたのは西郷が敗者だからではなく、おそらく「征韓論」の件が反応を呼んでしまうことを避けるためだったと思われる。まぁ西郷がどこまで本気で「征韓」などを考えていたか疑問視する歴史家が多いようなのだが。

 2004年8月に僕は九州旅行を敢行、その目的地の一つとしてこれまで足を踏みいれたことがなかった鹿児島を訪れた。鹿児島と言えばやはり西郷どん、ということで鹿児島市内史跡観光はそのまま西郷どんゆかりの地めぐりになってしまった。あれだけ日本中駆けずり回った人であるが、誕生地も終焉地も鹿児島市内にある。
 明治10年(1877)、明治政府に対する最大の士族反乱「西南戦争」を起こした西郷は、九州各地で激戦を展開したが結局敗退し、9月に故郷鹿児島に帰って市内の城山(鹿児島城裏手の山)にたてこもった。城山はまもなく政府軍によって完全包囲され、9月24日に総攻撃を開始される。西郷らは立てこもっていた洞穴から決死の出撃をし、そこから100mほど走ったところで西郷が二発被弾、覚悟した西郷はここで別府晋介「晋どん、ここらでよか」と声をかけ、皇居を遥拝したのち別府に介錯された。この西郷終焉の地には記念塔が建ち、説明板には西郷最期の言葉が「Shin, my friend, as far as we go」と思いっきり意訳された英訳が掲載されている。僕も旅行の時にこの英訳を読んだが「“どん”って“My friend”でいいんだろうか…」とちと疑問も感じちゃったのであった。といってもとくに代案は思いつかないのだが。
 「どん」は本来「殿(どの)」のなまったものだろうから、イタリア語やスペイン語みたいに「ドン」ってそのまんまやってもいいんじゃなかろうか、ってことは「ゴッドファーザー」の主人公も今後は「コルレオーネどん」と薩摩弁訳すればいいんじゃないか、とかバカなか連想をしてしまった(笑)。
 
↑城山にある西郷らがこもった洞穴。西郷終焉の地の記念塔。「Shin,My friend」の説明板はこの脇にある。

 さて、そのドン西郷について興味深い「新資料?」が見つかり、話題となっている。西郷が自らの最期を確信して詠んだ漢詩が見つかった、というものだ(元ネタは読売新聞記事)
 ただし西郷自身が書いたものが見つかったわけではない。西南戦争で敵方の官軍に参加していた医師・山崎泰輔の日記「明治十年 西遊日記」の中で西郷の命日9月24日の部分にそれが書かれていたというのだ。札幌に在住する山崎さんの子孫がこの日記を保管しており、このたび鹿児島の西郷南洲顕彰館でこれを検証したうえで「西郷が実際に詠んだ可能性が高い」と判断されて発表に至ったものだ。
 その漢詩は以下のようなもの。漢詩は本来中国語で読め、と教授に叩き込まれたクチなのだが、まぁ日本人好みに訓読をつけておこう。

 肥水豊山路已窮  肥水豊山の路(みち) すでに窮(きわ)まり 
 墓田帰去覇図空  墓田に帰去せん 覇図は空(むな)し
 半生功罪両般跡  半生の功罪 両般の跡
 地底何顔対照公  地底に何の顔(かんばせ)あって照公に対せん
     西郷隆盛

 肥後や豊後への道は閉ざされた。もう祖先の墓のある故郷に帰ろう、大いなる企図は空しく終わった。わが半生の功罪二つの跡が残るばかり。地下で照公(島津斉彬)に合わせる顔がない。
 確かに内容的には西郷が詠んでもおかしくない。敗色濃厚でもう故郷に死ぬためだけに帰ろうと決意し、自身の半生を振り返る。西郷を下級武士から見出した名君・島津斉彬公に対する深い思いもいかにも西郷らしい。
 ただし、この日記に書いてあったからといってこの詩が西郷の真作であるとは断定できない。西郷南洲顕彰館では「作風が西郷に似ている」「地位の高い山崎がわざわざ西郷に成り代わって詠むとは考えにくい」としてこの詩を西郷作とみているのだが、研究者の中には「山崎が西郷の心情を思って詠んだものではないか」とする意見もあるようだ。なんだかんだ言っても西郷人気は官軍側にも多分にあったのも事実で、その可能性も十分考えられる。そもそも仮にこの詩が西郷作だとした場合、どうしてそれを山崎が知りえたのか、という問題もある(顕彰館関係者は西郷の子・菊次郎が官軍側の病院で治療を受けているのでその時渡ったのかも、との説を出している)。あるいは「西郷がこんな詩を詠んだそうだ」と敵味方でいつしか広まっていた作者不明の詩とみるあたりが真相に近いのではなかろうか。ともあれ、西郷南洲顕彰館では西郷直筆のものがないか情報求むとのこと。

 なおこの読売記事によると、西郷は生涯に194編も漢詩を残しているという。実際、漢詩・漢文は江戸時代の武士階級の基礎教養と言ってよく、とくにスケールが大きく男くさい「英雄的」な気概は漢詩で詠むのが常識だった。少なくとも明治時代まではちょっとした教養人ならさらりと漢詩の一つも詠めたもので、乃木希典みたいにその漢詩が中国でも知れ渡った例もあり(張学良がNHKのインタビューで愛好していると話していたっけ)、東アジアスケールで通用するレベルだったのだ。



◆ラスト・オスマン

 9月23日、トルコはイスタンブールの病院でエルトゥールル=オスマン氏という人物が腎不全で死去した。御年97歳というから、1912年のお生まれだ。1912年といえば日本では明治が終わって大正となり、中国では中華民国が起こって清朝が滅亡した年。そのころトルコでは「オスマン帝国」が衰えたりとはいえまだ存在していた。「オスマン」といえば…そう、このたび亡くなったエルトゥールル氏はまさにそのオスマン帝国皇室の血筋の人間で、亡くなるときまで第43代オスマン家家長をつとめていた人物なのだ。

 「オスマン帝国」は1299年にオスマン1世によって建国されたというのが公式見解。その父親がエルトゥールルで、今回亡くなった人の名前の由来となっている。現在のトルコ共和国、小アジアに起こったこの国家はビザンティン帝国(東ローマ帝国)を圧倒しつつ次第に成長、建国100年目の1402年に東方から押し寄せてきたティムールに敗れて一時滅亡しかけたこともあったが、1453年にコンスタンティノープルを陥落させてビザンティン帝国を滅ぼし、ここを「イスタンブール」と改めてイスラム帝国であると同時に東ローマを引き継いだ東地中海地方から中東にかけての大帝国へと成長した。16世紀後半から17世紀前半ぐらいまでがオスマン帝国の絶頂期で、18世紀にはやや衰退に転じるがまだまだ強大な多民族帝国であり続けた。衰退が明白になるのは19世紀以降で、その滅亡まで100年間じわじわとヨーロッパ列強に食い物にされていき、かつての帝国領は現在多くの「国民国家」に分かれている。バルカン半島、北アフリカ、コーカサス地方、中東全域と今も何かと不安定で紛争の種が多い地域はみんなかつてオスマン帝国領だったという共通項がある。

 以前ウイグル話のところで書いたように、もともと「トルコ系民族」というのは中央アジアに居住していた。それがイスラム化して西方へ移動し、それがセルジューク朝、オスマン朝といったトルコ系王朝を築いた歴史がある。建国者のオスマン1世以来、約600年37代におよぶオスマン帝国皇帝の地位はほぼ直系血族で継承されているのだが(後半に入ると兄弟相続、従兄弟相続が目立つようになるが)、多民族帝国であるオスマン帝国の後宮(ハレム)には帝国各地の女性が集められており、皇帝の母親になった女性には近場のギリシャ系やブルガリア系はもちろんのこと、イタリア系、フランス系など西ヨーロッパの女性もいて、オスマン帝国皇帝は人種的にいえば相当に混血している。もっとも現代ウイグル人を見てもわかるがトルコ系はもともとヨーロッパ人とよく似た顔立ちなので(少なくとも日本人から見れば)混血だなんだと言っても意味がない気もするのだが…

 20世紀初頭、オスマン帝国はヨーロッパ諸国から「瀕死の病人」などと呼ばれつつ、近代化へ向けて、あるいは帝国復活へ向けての悪銭苦闘をしていた。1908年に立憲国家を目指すエンヴェル=パシャらによる「青年トルコ党革命」が起こり、時の皇帝アブドゥルハミト2世は退位に追い込まれているが、このアブドゥルハミト2世こそがエルトゥールル=オスマン氏の祖父。アブドゥルハミト2世の第8子がメフメト=ブルハネッティンで、その末の子がエルトゥールル氏なのだ。エルトゥールル氏が生まれた1912年に祖父は退位しているが、彼は生まれた時点ではまぎれもなく現役王朝の皇子としてこの世に生を受けたわけだ。
 それから間もない1914年に第一次世界大戦が勃発。エンヴェルら「青年トルコ」政権はドイツと接近していたため同盟国側で参戦、紆余曲折があるのだが、ともかく結果的に敗北側に立つことになり、帝国の滅亡を決定的にした。この大ピンチにあって「トルコ」を多民族帝国ではなく小アジアのトルコ民族国家として生き残らせたのがケマル=アタチュルクで、その経緯はこのサイト内の「しりとり歴史人物館」を参照されたい。ともかくケマルの活躍により長く続いた帝政は廃されて「トルコ共和国」が成立することになる。
 1922年11月にケマルはトルコ革命を起こし、第36代皇帝メフメト6世は国外に亡命した。ここで実質的にオスマン帝国の滅亡とみなすのだが、ケマル達はいきなりの帝政廃止は抵抗があると考えたか、暫定的に第37代皇帝アブドゥルメジド2世を即位させている。19世紀以降のオスマン皇帝は世俗君主「スルタン」であると同時にイスラム世界の指導者「カリフ」を兼ねるものとされていたが、アブドゥルメジド2世は世俗性を認めない宗教的・象徴的な存在として残された(このあたり、日本の象徴天皇制の話を連想する)。だが1924年3月にトルコ共和国の国是として「政教分離」が明確に規定されるとカリフ制も廃止となり、アブドゥルメジドだけでなくオスマン家の人々全てが国外追放処分となった。
 エルトゥールル=オスマン氏はこのときまだ12歳だがオーストリアのウィーン(ご先祖が何度も攻略した都市ですな)に留学しており、そのまま祖国に帰れぬ身の上となってしまった。1933年にアメリカに移住し、おもにニューヨークに在住していた。外国の新聞に出た記事によるとレストランの上にある寝室二つのアパートにつつましく暮らしていたそうである。最初の妻とは1985年に死に別れたが、その後1991年に28歳も年下の女性と再婚。この女性はなんとアフガニスタン王族の血筋だというから、もしかして旧王室同士の縁でもあったのだろうか。まさか政略…なんてことは。

 再婚の翌年の1992年、エルトゥールル=オスマン氏はトルコ政府の招きで一時帰国を果たした。彼がウィーンに留学したのがいつなのか確認できなかったのだが、少なくとも70年は経過しての帰国である。すでに80歳、生きて祖国の地を踏めただけでも奇跡的かもしれない。
 1994年に従兄弟でオスマン家第42代家長となっていたメフメト=オルハン氏が亡くなったため、エルトゥールル=オスマン氏が第43代オスマン家家長となった。世が世なら、「オスマン5世」である。オスマン帝国皇帝に「オスマン」は3世までしかいないが、帝国滅亡後の1950年代から70年代に家長を務めたオスマン=フアド氏が「オスマン4世」になるので、エルトゥールル氏は「5世」になる計算なのだ。なお、Wikipedia英語版で見たところ、彼には「スルタン・エルトゥールル2世」という呼び方もあったそうである(「エルトゥールル1世」は先述のオスマン1世の父親である)
 2004年からはトルコ共和国のパスポートをとっており、事実上の祖国復帰を果たしていた。そしてこのたび97歳にしてイスタンブールの病院でその生涯を終えたのである。とくに大波乱の人生というわけでもなかったらしいが、なんといっても帝政時代を知る最後の皇室一員だったのである。トルコでは「ラスト・オスマン」と呼ばれ敬愛を受けていたという。
 9月26日に行われた葬儀の会場はイスタンブールにある「ブルーモスク」の愛称で有名な「スルタン・アフメト・モスク」だった。葬儀にはトルコ政府閣僚も参加し、棺にはトルコ国旗がかぶせられたという。そして遺体は祖父アブドゥルハミト2世の墓のとなりに葬られたとのことである。



◆進化はしない人たち

 今年の3月9日付「史点」で取り上げたように、今年2009年は進化論を唱えたチャールズ=ダーウィンの生誕150周年の節目に当たる。発表当時、とくに宗教的な観点から大きな反発も受けたものの、その後の生物観・社会観に決定的な影響を与え、今日では広く科学的常識として認められているのはご承知の通りで、その経緯はかの「地動説」とも似たところがある。今年9月に彼の母国イギリスの国教会は「あなたを誤解し、最初の我々の反応が誤りだったためにまだ他の人々があなたを誤解していることに対して謝罪する」旨の発表をしているそうで。
 しかし。その3月の記事でも書いたのだが、ダーウィンの母国イギリスはともかくとして、アメリカでは進化論を絶対に認めない強烈に頑固な人たちがかなりの数存在している。2月の時点でのCNN記事によるとアメリカ国民のうち進化論を信じているのは39%にとどまり、25%が「絶対に信じない」と主張しているそうだ。もともとイギリス国教会の「迫害」を逃れたピューリタンたちによって「建国」が始まった経緯があるせいか、アメリカにはそのルーツであるヨーロッパよりも濃厚な宗教性を帯びた人がおり、25%と数字的には多数派ではないが中には過激な行動に出るケースもまま見られ、しばしば「史点ネタ」を提供してくれている。
 そして先日「やっぱり…」と改めて思わされるニュースがあった。イギリスで製作されたダーウィンを主人公とする映画「クリエーション」(「創造」ということだな)が、 複数の映画配給会社が配給を拒否したためアメリカ国内では上映されない見込みになった、というニュースだ。配給会社自身が進化論をどうこう考えていうのではなく、明らかに「上映反対・妨害の圧力が怖い」ということだろう。日本だと靖国や南京が絡むと上映が危うくなるケースがあるが(たぶん近々またどっかが騒ぎそうなのがある)、アメリカにおける「進化論」とはそのぐらいの存在だということだ。とくにこの映画はダーウィン個人が信仰と科学のはざまで苦悩する内容になっていることもカンにさわった可能性がある。

 以下の話は上記の話と直接的につながるわけではない。ただ僕の目から見てるとどうも根底で通じるものがあるな、と思ってしまう話題だ。
 いまアメリカ政治最大の争点と言えば「医療保険制度改革」だ。アメリカでは日本における国民健康保険のような公的な国民皆保険制度は存在せず、医療費・薬代が高騰して早い話が「貧乏人は治療するな」という実態がある。クリントン政権時代にこの制度改革を進めようとしたことがあるが、保守系の頑強な抵抗によりつぶされた経緯がある。そのクリントン政権以来の民主党政権を作ったオバマ大統領は政権の大きな目標としてこの医療保険制度改革を掲げたが、実行に移したとたんにやはり猛烈な保守派の攻撃をくらっている。
 公的な医療保険制度というやつは平たく言えば「みんなで金を出し合って治療費が必要な人をサポートする仕組み」だ。僕なんかは定期的に医院に通う身だから(その医院が先日書いた「突然民主党ポスターに変わった医院」だ)、健康保険の恩恵をそこそここうむっているのだが、まったく健康な人にしてみれば自分には必要ない金を他人のために払わされていると感じなくもないだろう。アメリカの保守系の考え方、開拓時代以来の「自尊自立・自給自足・自己防衛」の本能からすれば「みんなで助け合うなど軟弱な」ということなのかな、まぁ「大きな政府」は嫌いだし増税になるのはイヤだろうしねぇ、とある程度分からなくもないのだが、しかし彼らのデモの模様を見ているとこれは理屈なんか抜きにした単なる感情論、もはや宗教的な「信仰」のレベルなのではないかという気がしてしまう。

 9月12日に首都ワシントンで医療保険制度導入に反対する大規模なデモ(数万人参加と言われる)が行われた。デモを主催したのは「ティー・パーティー・エクスプレス」というイベント団体で、先月からカリフォルニア州を皮切りに国内を横断して各地でデモを展開しており、その「仕上げ」がこの日のワシントンデモだった。
 「ティー・パーティー」といえば直訳すると「お茶会」ということだが、これは世界史の教科書でもおなじみ、アメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」にちなんでいる。1773年12月16日に本国イギリスの「茶法」に反発した植民地側の過激分子がインディアンの扮装をしてボストン港に停泊していたイギリス東インド会社の船の積み荷の茶箱を海に投げ込んだ事件だ。この事件を機に紅茶党のイギリス人に対してアメリカ人はコーヒー党になったという俗説があったりするのだが、ともかくこの事件が間もなく起こる独立戦争への引き金になったことは間違いない。もっともこの事件は過激派がやったことでもあり、独立戦争の指導者であるジョージ=ワシントンベンジャミン=フランクリンは事件を批判的に見ていたというのが真相らしい。
 で、この「ティー・パーティー・エクスプレス」の公式サイトも覗いてみたのだが、そこには「今こそ国を取り戻す時だ!」とのアオリ文句が。つまり彼らにとって医療保険制度を導入しようとするオバマ政権は「本来のアメリカを奪った存在」ということであり、かつての独立戦争よろしく「取り戻す」必要がある、ということらしい。そのサイトで販売されていた関係者の著書の題名は「右(Right)か左(Left)かではない。正しい(Right)か間違っている(Wrong)かだ」となっていて、なかなかの鼻息の荒さだ。
 デモではマルクスレーニンスターリンヒトラーカストロの写真にオバマ大統領を並べたプラカードもあり、「医療保険制度=社会主義」とのイメージを彼らが持っていることを示している(どこまで本気かは知らないが)。またオバマ大統領の写真を加工して「バットマン」のジョーカーの顔にしたり、アフリカの呪術師のかっこうをさせたりといったプラカードも登場していた。こうしたオバマ大統領に対する揶揄表現に「黒人差別意識がある」とカーター元大統領が批判発言をしたことで、さらに話がデリケートになって論議を呼んでいる。まぁ先代のブッシュ大統領も「進化しないサル」と揶揄されていた記憶があるが…

 9月9日に連邦議会でオバマ大統領が医療保険制度について演説中、「不法移民に保険は適用されない」と言ったくだりで共和党のウィルソン下院議員が「うそつき!」と大声で叫んで物議をかもした。アメリカ議会では大統領に対する侮辱的なヤジは不文律で禁じられており、共和党側も不快感を示してウィルソン議員に謝罪を行わせたが、「医療保険制度に反対を表明したかった」と公式サイトで述べたウィルソン議員のもとにはたちまち75万ドルもの寄付が集まったと言うから、やはり「確信犯」と思われる。
 「医療保険制度が導入されると、その金が中絶費用に回される」という、アメリカ保守系を刺激するアピールも行われており(民主党は否定しているのだが)、全米各地で行われる対話集会でも保守系の人による罵声の嵐とのこと。それを取材した産経新聞記事がこの新聞にしてはなかなか面白い記事で、改革論議に興味を持って参加していた元教師の次のセリフが印象的だった。
「賭けてもいいが、会場で大声を張り上げている連中のほとんどは、医療保険改革の中身など何一つ知っちゃいない」
「繰り広げられているのは、赤(保守)と青(リベラル)による文化戦争にほかならない」



◆無血開城?

 政治家の皆さんというのが歴史を例えに持ってくるのが大好きな人種であることは前にも触れた。今回のネタにもしている西郷隆盛が出たと思ったら、今度は勝海舟の名前が飛び出してきた。
 政権交代、それも圧倒的多数を民主党がしめてしまったことにより、国会議事堂正面側にある自民党議員の控室を明け渡せと民主党が要求、自民党側は当初「結党以来の伝統がある」などとして明け渡しに抵抗した。これに対して民主党側から飛び出したのが「勝海舟はいないのか。負けっぷり良く、無血開城すべきだ」というせりふだったのだ。戊辰戦争で江戸城攻撃に踏み切ろうとした西郷隆盛に対し、旧幕臣である勝海舟が直談判をして「江戸無血開城」に持ち込んだ故事を念頭においたものだ。この一件、勝も西郷も共にエラい、って話で何かと引き合いに出されるのだが、実際には勝はイギリスの介入をタネに西郷を半ば脅迫しており、それにビビった西郷が応じたというもうちょっと生臭い真相があったようだ。
 ともあれ、「結党以来の伝統」なんて自民党の勝手な主張が通るわけもなく、議員数に応じた面積配分が行われ、自民党の議員控室はその半分以上が民主党に明け渡された。自民党が半世紀にわたっておさえていた衆議院議場内の議長席から見て右側のスペースも民主党に奪い去られ、壇上に上がっての首班指名選挙では麻生太郎前首相のようにうっかり元の席に戻ろうとしてアタフタする姿も見られた。
 16日の特別国会ではいたって波瀾も何もなく鳩山由紀夫民主党代表が新内閣総理大臣に指名された。思えば衆参両院で総理大臣指名が一致したのは安倍晋三以来である。この安倍さんが首相のときの参院選の結果「ねじれ国会」が生じたわけで、以後福田康夫、麻生太郎両元首相の指名時には参院では当時民主党代表だった小沢一郎が指名されていたのだ。「ねじれ」そのものが悪い、衆院で決めたことに抵抗する参院が悪い、と読売なんかは露骨な書き方をしていたものだが(福田登板時に持ちあがった「大連立構想」はナベツネさんが仕掛けたと確実視されている)、今度の結果でめでたく「ねじれ」は解消されたわけである。すると今度は「選挙が終わったんだから現実的になれ」と自民党政権と同じことをしろと平気で主張するんだから、ナベツネさんというお方は…いや、ナベツネさんに限らずメディア全般にその気配がある気もするけど。「マニフェスト選挙」と持ち上げていたのはなんだったんだ?と思わされる声もちらほら聞こえ、なんか公約通りやるのは悪いことだという認識を持つ人が少なくないんだろうか、と思ってしまう(「君子豹変」の話を持ち出すやつが目につくな)。子供の時に読んだ児童向け抄訳の「西遊記」で「孫悟空は政府の公約のように態度を変えて」という文があって、「公約ってなーに?」と母親に聞いた思い出があるなぁ(笑)。今思うとあれってずいぶん訳者の主観の入った訳文だよな。

 この16日の内閣総理大臣指名と組閣から、この記事執筆時点でまだ二週間ほどしか経っていない。だがこの二週間のニュースメディアは政治ネタの話題満載となった。
 とくに目立ったのは「脱官僚」という鳩山内閣が掲げる旗印だ。長い間日本の政治風景は一流エリートであり「有能」な行政実務官僚が実質的に政策立案と遂行・推進を行っており、その上に立つ政治家がアベコベにそれらに「使われている」という構図が少なからずみられた。むろんどこの国だって官僚がいて国が動いているものだし、何かというと官僚を安易に悪玉にしたてる風潮には僕は賛同しかねるのだが、民主主義国家にあっては一応国民の代表である国会議員=政治家が官僚を手足をしてコントロールして政治を動かしていくというのが建前。官僚は有能には違いないのだが選挙で選ばれた人ではないし、どこの国でも官僚と言うのは個人・集団の自己防衛能力に長けてしまいセクショナリズムと杓子定規の集団になりやすい。究極の官僚体制国家がソ連をはじめとする社会主義国家群だと見れば分かりやすい。
 とくに日本の明治以来の官僚の風潮として「公僕」という概念が弱く「天皇の忠臣」という位置づけで国民に対して支配者、いわゆる「お上」としてふるまう傾向が強く、先の大戦における陸軍・海軍のみならず各中央省庁の暴走だってたぶんに「官僚」の暴走とみていい(さらに困ったことには表の指導者と違って「責任」をまずとらない)。そして戦後は自民党という事実上の一党独裁体制と結びついて高度成長を主導し、その結果「成功した社会主義国」などというあだ名をもらってしまっている。もちろんそのすべてが悪いとは言えないしプラス面も少なからずあったのだが、高度成長もバブルも終わり、冷戦も終わった90年代初頭にはすでに強固な官僚制度の改革の必要が唱えられるようになっていた。

 今回の記事の参考に、と思って近くの図書館で「官僚・軋む巨大権力」(日本経済新聞社)という本を借りてみたのだが、一読して驚いた。これ、1994年に発行された本で、当時の細川・羽田の非自民政権、その後の村山政権にいたる政権交代の過程での取材をもとにした内容なのだが、15年も前の話だというのにいちいち今の話と重なってくる話題が多いのだ。
 非自民の寄せ集め内閣・細川護煕政権の陰の立役者がやはり小沢一郎だった。で、この本の冒頭によるとこの時も小沢は「事務次官の国会答弁廃止、国会議員による副大臣・政務審議官を各省ごとに配置する」という構想を打ち出して、「立法府が行政に口出しするのは三権分立に反する」「一年生議員たちに何が分かる」と官僚たちが猛反発していた、という話が出てくるのだ。もう15年も前に今やってるのと全く同じ構図があったことに改めて驚かされる。この本は自民党の野党転落直後、官僚たちがいかにパニックになったかという趣旨で取材が進められているのだが、15年経って読んでみるとなかなかどーして、基本的にはなんも構造は変わっていなかったということになる。
 だいいちいっしょに借りてきた川北隆雄著『官僚たちの縄張り』(新潮選書)によると、この非自民政権成立時にむしろ官僚はその力を強めたとの見方もあるようだ。細川政権時に突然「国民福祉税構想」(実質消費税アップ)が飛び出す騒ぎがあって、当時は「小沢の指示」との見方が強かった記憶があるが、実質的には当時の大蔵省のトップ官僚がシナリオを描き、それを小沢・細川らに実行させたというのが真相だと言う。その後橋本竜太郎政権の時に省庁整理・行政改革が行われているが、それでも当時言われた官僚の問題点はこれっぽっちも改善されなかったという印象がある(もちろん徐々に変わってはきてたと思っているんだけどね)

 このときの失敗で懲りたのか、今回の民主党政権は政権掌握後にいきなり次々と手を打っている。いきなり思いついたことではなく、それこそ15年越しで用意されていたものとみてもいいかもしれない。
 まず目に付いたところで毎週月曜・木曜に首相官邸で開かれていた「事務次官会議」を政権発足直前の14日月曜日を最後に廃止した。これは各省の官僚トップである事務次官が集まって、翌日に行われる閣議の内容の事前調整を原則全会一致で行うもので、「官僚たちによる事実上の閣議」(つまり本物の閣議はここで決まったことを承認するだけ)なのではないかとの批判があった。実際にそこまでの力があったかどうかは僕もわからないが、少なくとも民主党はそう考えて廃止に踏み切った。事務次官会議は1885年の内閣制度発足の翌年からずっと開かれていたというから、実に123年の長きにわたって続いていたものがここに静かにその歴史に幕を閉じたのである。もともと一般にはあまり知られてない存在だったせいもあるし、「どうせそのうち復活する」という見方もあるせいかほとんど騒がれなかったが、そう聞いてみると確かに「明治以来の改革」なのかもしれない。実はこの「明治以来の〜」というフレーズは16年前にも言われていたことが先述の「官僚」という本でわかる。
 鳩山内閣の「目玉」として「国家戦略会議」なるものがあるが、これも官僚主導型の政治から政治家主導の政治へ持ち込もうというのが狙いと言われる。具体的な展開はこれからの動きを見てみないとなんとも言えないが、もしやるとなったらまさに明治以来の「御一新」になるかもしれない。ただ官僚そのものがなくなるわけではもちろんないし、有能な彼らがいなければ行政は動かない。官僚主導になった原因は官僚側に言わせればコントロールすべき政治家がヘボすぎたため、という側面があるから、「官僚主導でなく政治家主導で」を本気でやるとなったら政治家が相当に優秀でなければならないのだ。政治主導を実現しても政治家がヘマをやったらそれこそ大変なことになりかねない。

 それにしてもまだ発足から二週間だというのに、ダム中止だ、地方空港特別会計見直しだ、予算白紙だ、天下り禁止だ、選択的夫婦別姓などなどなど、正直僕でも驚いたほどポンポンと新政策が打ち出され、動き始めている。政権交代ってこういうことなのか、と多くの日本人が「初体験」をぼんやりと感じていることだろう(明治維新だって戦後改革だって案外そうだったかもしれないのだ)。やるなら支持率も高い今のうち、勢いもあってしがらみが少ない早いうちがいいのは確かだろう。どこまで突っ走れるのか、しばし注目してみたい。


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