ニュースな
2009年10月8日

<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事

◆またあの人の墓の話

 先日、当「史点」の過去記事、それも恒例となった四月バカ記事の第一回目の記事へのアクセスがちょっと増えていた。なんだろう、と思って調べてみたら、「成吉思汗の秘密!」の記事が検索でヒットしていたのだ。「チンギス=ハーンの墓確認か?」のニュースが流れたからなのだが、あの記事を間違っても本気にしないでもらいたいものだ(笑。4月1のみのアップにしたほうがいいんだろうか…)
 さて表記に困るこの人、とりあえずここではチンギス=ハーンと表記させていただく。一昔前の人だと欧米経由の「ジンギスカン」のほうがなじみがあるんだろうが、最近の中学生を相手に「ジンギスカン」と言うと完全に料理の名前だと思い込んでるから、ダジャレを言ったんだと勘違いされやすい。教科書的には「チンギス・ハン」表記が多いようだが、「ハン」より「カン」「カァン」だという声もあり、本によって表記はまちまちだ。

 人類史上最大の帝国の建国者であるチンギス=ハーンは、世界史上最大の有名人の一人と言ってもいいだろう。しかしその墓はいまだに発見されていない。そもそもモンゴルの遊牧民は王(ハーン)の遺骸は地中深くに埋めて地上には墓標など一切立てず、それどころか埋めた場所の上を馬で走りまわってその痕跡自体も消してしまう習慣があったという(日本のTVドラマ「蒼き狼」で加藤剛演じるチンギス=ハーンが母親の埋葬をするシーンでこれをやっていた)。ずっとさかのぼってフン族の王アッティラもドナウ川をせき止めて川底を掘り、やはり地中深くに埋葬したとの伝説があるそうで、これは遊牧民が伝統的にもつ埋葬習慣であったらしい。
 1227年夏、チンギス=ハーンは西夏攻略の最中に病死した。中国側で作った正史『元史』は享年を66歳とするが、定かではない。敵の毒矢に当たったとか、狩猟中に負った傷がもとで死んだとする説もあるが、真実は判然としない。イル=ハン国で編纂された『集史』だとチンギスはこのときなぜか南宋の四川方面で出かけようとしていたと伝えていて、死の前後の状況については謎が多い。分かっているのはチンギスの死の直後に西夏が完全に滅ぼされたということぐらいだ。
 そしてチンギスがどこに葬られたかも全くの謎。普通に考えるとモンゴルに戻ったはずで、遊牧民の習慣に従い、どこか分からぬ地下深くに埋められて痕跡をまったく残されなかったものと推測される。『元史』ではモンゴル高原の「起輦谷」に葬ったとあるが、どこなのかは分からない。マルコ=ポーロの『東方見聞録(世界の記述)』ではチンギスの葬列はその埋葬地を知られぬように途中で遭遇した者を全て殺した、という有名な逸話が伝えられている。もちろんこの本の性格上そのままうのみにすることはできないが。
 
 謎と伝説に満ちたチンギス=ハーンの墓探し(正確には埋葬地探しか)は近年何度かニュースになっている。「史点」でも2001年9月14日付で取り上げているし、翌2002年10月19日付ではその続報もある。アメリカの歴史学者がウランバートルの北東320kmの地点に祭祀のあとを見つけて「チンギスの墓発見間近!」と発表したがその後難航、難航理由の一つが現地のモンゴル人が「チンギスの聖地を犯すな」と反発しているから、という話題だった。それから7年経つわけだが続報はない。
 そしたら今度は意外なところから「墓発見!?」のニュースが飛び込んできた。中国は四川省の山奥、カンゼ(甘孜)・チベット人自治区にチンギスの墓がある、という話題なのだ。地図で確認してみると四川省の省都・成都から南西に200kmほどの地点だ。
 しかもチンギス=ハーンから34代目の子孫なる女性までが登場する。この地に住むモンゴル族の女性・ウユンチチガさん(80)というのがその人。この人の証言によるとカンゼ・チベット自治区の山奥の洞窟にチンギス=ハーンの墓があり、そこにはなんとチンギスのミイラとともに多くの財宝・書籍などが副葬されていて、その場所を秘密にするため口頭で伝えてきた子孫たちが四年に一度祭祀を続けてきたという。この証言を受けた北京の歴史学者が今年七月に現地調査、とりあえず洞窟の入り口は発見したという。これから本格調査、というところでスクープされ(?)大きなニュースとして世界に配信されることとなったわけだ。
 普通はモンゴルにあるものと考えるチンギスの墓。中国でも内蒙古自治区のオルドス市に仮に「成吉思汗陵」を設けているぐらいだが(こんなものを作ったのも多分にチンギスを「中国英雄」にする意図や、かつてのソ連への対抗心があったものと思えるが)、死んだ場所が現在でいう甘粛省にあたることから、現在の中国西方という説がなかったわけではないのだ。だが四川省の奥地というのは初めてで、ずっと墓を守り続けていた子孫の存在も含めてマユツバと思うのが素直な反応だろう。まぁ上記のようにチンギスが死の直前になぜか四川方面へ謎の動きをしていた形跡はあるので、そこにちらっと可能性があるかな、というところで。
 そもそもこの話、中国メディアで大きく報じられた、というのだが、中国共産党機関紙「人民日報」のサイトをのぞいたら「日本のメディア・共同通信が報じたところによると」という引用でしかこの話題は扱われておらず、あちらでも多分にマユツバと思われてる感じがする。ネットであさってみるとほとんど同文で各種中国ニュースサイトで扱われており、その「子孫」の写真も共同通信が出したものになっていたので、もしかして共同通信が最初に報じたのではなかろうな…

 四川省の奥地ということで、チンギス=ハーンの墓という話にはあまり現実味を感じないのだが、四川省方面で死んだモンゴルのハーンは存在する。チンギスの孫で第4代ハーンのモンケだ。1259年に、モンケは当時は南宋の領土だった四川省に侵攻して重慶攻略などをしており、その地で突然病死している。弟のフビライによる毒殺説まであるのだが、『元史』によるとモンケの遺骸はチンギスと同じくモンゴルの起輦谷に葬られたことになっている。仮に今度の話の「墓」の存在だけでも事実とすると、チンギスよりそっちのほうが可能性が高いんじゃないかなぁ…と。その子孫なら「チンギスの子孫」というのもウソじゃないし(笑)。



◆こちらも三代目の首相

 先日、ポルトガルでは総選挙が行われてソクラテス首相が続投することになった、というニュースがあり、「へぇ、ギリシャの話じゃないのか」などと思ってしまった。ギリシャの有名な海運王で、暗殺されたジョン=F=ケネディの未亡人ジャクリーンと結婚したことで知られる人物はフルネームがアリストテレス=ソクラテス=オナシスというお名前だったりしたものだから。
 そのポルトガルのソクラテス首相は左派政党である「社会党」を率いているのだが(ややこしいことにこの国では「社会民主党」が中道右派政党)、ギリシャでも「全ギリシャ社会主義運動(PASOK)」という左派政党が総選挙で勝利をおさめ、5年ぶりに政権を獲得することになった。PASOKの党首が新首相になるわけだが、その党首の名はゲオルギオス=アンドレアス=パパンドレウ氏(57)という。実はこの方、祖父も父も首相をつとめたというお方なのだ。日本でも「二代目」「三代目」の首相が相次いでいるが、さすがにこの国のように「三代連続」はまだない。

 次期首相となることが確定したゲオルギオス=アンドレアス=パパンドレウ氏の祖父は、ややこしいことにゲオルギオス=パパンドレウ(1888-1968)という。ややこしいのも当然で、ギリシャでは祖父のファーストネームを孫につける習慣があるのだそうで、ギリシャでも両者の区別に苦労しているらしい。
 この人はギリシャがドイツに占領されてる間の亡命政権の首相を1944〜1945年までつとめたのを最初に、1963年、1964〜1965年までと3度ギリシャ首相を務めている。しかし左派的なその政策は国王や軍の反感を招いて失脚させられ、自宅軟禁されるうちに死去している。このころのギリシャのひどい政治状況は実際に起こった政治家暗殺事件を題材にした映画「Z」でうかがい知ることができる。以前にも書いた気がするが、このころのギリシャの話は何かと同時期の韓国の話とよく似ている。どちらも冷戦の最前線だった

 この最初のゲオルギオス氏の息子がアンドレアス=パパンドレウ。マルクス主義経済学者で父の政権にも参与している。父の失脚により亡命を余儀なくされたがギリシャの民主化が実現した1974年に帰国、新政党「PASOK」を結成して次第に勢力を拡大し、1981年にはついにギリシャ初の左派政権樹立に成功、首相に就任している。二代目パパンドレウは1989年まで首相を務めていったん敗北・辞任したが、その後の混乱の末に1993年10月からまた首相に返り咲いている(この4年の間に首相が5人も代わっている)。そして1996年1月まで首相を務めて、その年の6月に77歳で亡くなっている。

 三代目のゲオルギウス=アンドレアス=パパンドレウは父の亡命先のアメリカで生まれ、父が首相となった年にギリシャの国会議員となり、着実に「三代目襲名」の準備を進めてきた。2004年にPASOK党首となり、このたびの選挙勝利で三代連続首相就任を実現したわけだ。
 新聞記事によると、ギリシャではこうした世襲政治家は少なくないらしい。2004年から首相を務めて今回敗北した中道右派「新民主主義党(ND)」を率いるコスタス=カマランリス現首相も、先代のパパンドレウとライバル関係にあったコンスタンディノス=カマランリスの甥だ。大雑把に近年のギリシャ政治史を眺めると、二大政党の交代と言いつつ、実質カマランリス家とパパンドレウ家の交代の繰り返しじゃないかという声さえあるそうで。まぁ日本だって今度の政権交代は似た要素がなくもないが。
 ギリシャは世襲とコネが非常に強い社会だそうで(その辺も韓国に似てるような…まぁ日本も言えなくもないな)、昨年来の若者による大暴動もそうした社会に対する強い不満の表れ、という分析も見かけた。新首相となる三代目パパンドレウ氏は選挙中「ギリシャは変われる」というスローガンを掲げたそうだが(たぶん「チェンジ」のマネなんじゃないかと)、さてどうなりますか。



◆コードネームは「北極星」

 上の話でチラリと書いたように、日本の現首相も前首相も祖父が首相を務めている。前首相の祖父が終戦直後の政治に決定的影響を与えた吉田茂だ。戦後首相の中では圧倒的に多くの俳優によって演じられている人物でもあり、今年だけで「落日燃ゆ」での津川雅彦、「白洲次郎」での原田芳雄の二人が演じている。
 その吉田茂の時代というのは、日本が占領から主権回復へ進む一方で、朝鮮戦争が勃発するなど冷戦が「熱い戦い」としてすぐ隣で激化、アメリカも日本を軍国主義の排除と民主化促進から自由主義陣営の防波堤とするべく旧軍人らも使った右傾化工作へと切り替えるなど変転の激しい時代だった。今だって基本的にはその時アメリカが手入れしたことを引きずりつつ日本の政治は動いているのだ。
 近年、アメリカで終戦直後の機密文書が公開されるようになったことで、その時期のCIA等の日本に対する工作の証拠、知られざる戦後裏面史が次々と明らかになってきている。まぁだいたい以前から「そうだろう」と推測されていたものが多く、ビックリするほどの新事実が見つかるわけではないのだが。だがやはり興味深い事実がいくつも明らかになってきている。
 以前2007年3月31日付「史点」で紹介した話題だが、児玉誉志夫辻政信がCIAの協力者となっていた事実が確認されている。もっとも児玉のほうはCIAもガックリするほど使いものにならなかったし、辻のほうはアブな過ぎて「第三次世界大戦を起こしかねない」と危険視されたほどだったが。さらに1952年7月には服部卓四郎ら旧軍人グループが吉田茂を暗殺して鳩山一郎政権を樹立しようとするクーデターを計画していたが、辻に説得され思いとどまった(おそらくCIAの指示)という事実も明らかになっている。

 今回、CIAが吉田茂側近にも情報提供者を得て、発足間もない自衛隊の創設に深く関与していた可能性を示す資料が確認された。アメリカの国立公文書館で早稲田大学の有馬哲夫教授が確認したもの。
 CIAに情報を提供していた吉田茂の側近とは、元陸軍中将で吉田の「軍事顧問」の立場にあった辰巳栄一(1895-1988)。吉田茂との縁は、吉田が駐イギリス大使を務めていた時に辰巳が数ヶ月だけだが大使館付武官となっていたことにあったらしい。戦後、日本の軍隊は解散させられ旧軍人らは一時逼塞を余儀なくされたが、米ソ冷戦の深刻化の中でGHQは旧軍人を反共活動に利用し始める。1948年に元軍人の河辺虎四郎を中心に作られた戦後唯一の「特務機関」がいわゆる「河辺機関」で、辰巳もその中心人物として参加し、日本の再軍備と情報機関の創設を図った。吉田は河辺機関そのものには警戒感を持っていたのかそのメンバーのほとんどを遠ざけたと言うが、大使時代に縁のあった辰巳だけは信用して側近に置いていた。
 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカは日本に対して再軍備の実行を求めた。吉田茂は「あんたらが押し付けた憲法により再軍備は不可能」と皮肉ったという話が伝わるが、断れるわけもなく「警察予備隊」が創設される。この警察予備隊の幹部人選に深く関与したのが辰巳だった。この警察予備隊は1952年に「保安隊」となり、1954年に「自衛隊」に成長するが、この過程にも辰巳は深く関わっていた。またこの間に日本政府の情報収集機関である「内閣調査室」も発足していて、これにも辰巳が深くかかわっていた。

 そして今回発見された資料により、自衛隊と内閣調査室が発足する過程である1952年から1957年にかけて辰巳がCIAにそれらに関する情報を提供していたことが確認されたのだ。CIAの資料では辰巳のことは実名以外に「首相の助言者」「首相に近い情報提供者」などと表現され、「POLESTAR-5」というコードネームで呼ばれる場合もあるという。「POLESTAR」とは航海の道しるべとなる星、すなわち「北極星」のこと。なんでこのコードネームなのかは分からない(「たつみ=巽」という方角かな…と思ったが、「巽」は東南だった)
 辰巳がCIAに情報を提供した理由について、発見者の有馬教授は「より強力な軍隊と情報機関の創設を願っていた辰巳氏は、CIAに情報を流すことで米国が吉田に軽武装路線からの転換を迫ることを期待したのではないか」と指摘しているという。そういえば上記の話題で辻政信もCIAに協力することでアメリカを利用して日本の軍備強化を進めようと目論んでいると当のCIAから警戒されていた例もある。

 まぁこうしていろいろと、日本現代史の陰の部分でCIAが関与していたのは事実だし、世界各地でCIAの起こした陰謀やら何やらがあるのは事実。もっとも意外とショボい話も多く、どこまで実力のある連中なのかは怪しいところもある。
 そういえば「名は体を表さない」政治家代表と言える亀井静香・現金融担当大臣は7月のTV番組で「亀井静香が
CIAに暗殺でもされない限り、日本が米国に従属することはない!」などと口走っていたそうで…



◆猿人スタート!

 僕はPCエンジンのマニアである。実は発売されたハード・ソフトはほぼ全て所有しており(一部非常に稀少なものはさすがに持ってないが)、そのリストは本サイト内の「硬派なPCエンジンFXの広場」というところで見ることができる。
 いきなりなんでこんな話をするかというと、某巨大掲示板ではPCエンジンマニアの別称(蔑称)として「猿人」という呼び方があるのですな(笑)。「PC原人」(学名「ピテカントロプス・コンピュータウルス」)というマスコットキャラはいたんだけどね。「PC猿人」だとお猿さんキャラになっちゃうから「原人」に進化させたんだろうな。ともあれ、サルのように遊んでいる「猿人」として、猿人の話には自然興味がわいてしまうのである(笑)。

 その猿人のうち、「ラミダス猿人」の最古の「全身骨格」が発見され、その姿がほぼ完全に復元できた、という論文が科学誌「ネイチャー」で2日に発表された。最古とはどのくらいかといえば440万年前のもの。これまで全身骨格の最後のものであったアウストラロピテクスルーシーちゃんの320万年前より120万年もさかのぼる。
 今でも中学の歴史教科書では人類史はアウストラロピテクスから教えるのが定番だが、それはこれまで全身骨格が見つかってその生態が比較的はっきりしている最古のものがアウストラロピテクスだったからだ。アウストラロピテクスは外見はほとんどサル(というよりチンパンジーに似ている)だが二足の直立歩行をし、その末期には原始的な石器を使用したと推測されていて、「この辺から人間だな」と判断できるから、という理由もあった。

 ラミダス猿人は1992年にエチオピアのアワシュ川流域で初めて臼歯の化石が発見され、その後見つかった各部の骨の化石からアウストラロピテクスよりも古いタイプと判明し、「アルディピテクス・ラミダス」の学名が与えられた。これまでラミダス猿人の化石は36体分見つかっているが、今回全身骨格で発見された化石は94年から破片の形で発見され15年かけてコツコツと復元されたものだという。これまた女性とみられ、「アルディピテクス(地上のサル)」にちなんでアルディちゃんと命名されている。
 アルディちゃんは身長約120cm、体重約50kg。脳の容積はチンパンジー並み。犬歯の縮小が確認できることから雑食であったと推測され、硬いものや草原性の植物は食べず、森の中の果実や葉、昆虫などを食べていたのではないかという。骨盤はチンパンジーよりたけが短くて地上での二足歩行が可能で、チンパンジーのように前足(腕)のこぶしを地面にぶつけるような歩き方をしていた痕跡はないという(この点は人間とチンパンジーの先祖の分岐がいつなのかという問題とかかわってくる)。だが足の裏に「土ふまず」の痕跡がなくアウストラロピテクスほどには直立歩行をしなかったとも考えられ(現生人類だって二足歩行をしているうちに土ふまずが発達する)、樹上と地上を行ったり来たりする生活を送っていたのではないかという。もっともこの研究にたずさわっている諏訪元東大教授も言うように、「ひざ」や「かかと」の部分は未発見で「証拠不十分」で、ラミダス猿人からアウストラロピテクスへどう進化したのかもこれからの研究課題だ。

 ラミダス猿人以前の化石人類としては2000年にケニアで発見され「ミレニアム・アンセスター(2000年のご先祖様)」と命名されたオロリン・ツゲネンシスが推定600万年前で大腿骨などが発見されている。チャドで見つかったサヘラントロプス・チャデンシスはさらに古い推定700万年前のもので頭蓋骨だけ見つかっている。これらの化石はいずれも部分的なので確たることは言えないのだが、その特徴がラミダス猿人と似たところがあることから、系統的につながっているのではないかと推測はされている。
 まぁ、いずれにしても世界中の人間みなさん、ご先祖はみんなアフリカ出身ということだ。まさに世界は一家、人類みな兄弟ってことですな。


2009/10/8の記事

<<<<前回の記事
次回の記事>>>

史激的な物見櫓のトップに戻る