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2010年1月11日

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◆噂をすれば影

 中国のことわざに「曹操の話をすると、曹操が来る(説曹操、曹操就到)」というのがある。「その人の話をしていると当人がそばにいる」ということで、日本語で言うところの「噂をすれば影」である。曹操とは説明の必要もないと思うが後漢末の混乱期に登場した英雄であり、華北を征服して「魏」王朝を実質的に建国した人物。世界的に大人気の「三国志」ワールド随一の英雄であるが、彼はあくまで「魏王」の地位にあるうちに死んで息子の曹丕が漢から禅譲を受けて魏王朝を開始するので、厳密にいえば「三国時代」の人間ではない。
 「曹操の話をすると曹操が来る」ということわざがいつからあったものかは知らないが、これは明らかに古典歴史小説「三国演義」における曹操のイメージに由来している。「演義」での曹操は「乱世の奸雄」というイメージがまず先行していて、「悪がしこいやつ」という印象が付きまとう。とにかく手段を選ばず謀略を巡らすし、やたら情報キャッチが早くて恐ろしく先を読んで先手を打つし、敵側にいい武将がいるとすぐに自分のものにしちゃうし…といったところがこのことわざの由来なのだと思う。余談ながらいしいひさいちの漫画で「群馬では三人集まると中曽根が来る」というギャグがあったが、これも元ネタはこっちだと思う(笑)。

 「曹操悪役化」の一因は朱子学的な「蜀正統論」にあるとされる。蜀漢を後漢を継承する正統王朝とみなし魏を後漢から「簒奪」した偽朝とみなすもので、これが特に遼や金・元といった「征服王朝」時代に魏をそうした征服王朝になぞらえようとする漢族側の意識とあいまって「魏・曹操=悪役」というイメージが大衆的に広がったものとみられる。その結果として元末明初に完成体となった「演義」は劉備関羽張飛諸葛亮といった人気者が集まる蜀グループを主人公にして彼らが強大な敵・曹操に立ち向かうという基本構造になり、結果的にそれが話を面白くしてしまった。もっとも正史「三国志」に取材した曹操の魅力的エピソードもばっちりちりばめられていて決して単純に悪役化されているというわけでもない。むしろ魅力的で強力な悪役がいるからこそ「三国演義」は名作たりえたのだ。
 お話の世界のことは別にして、曹操その人の評価は昔から高かった。近代に入るとまた近代的な価値観から曹操の高評価が唱えられたし、特に日本においては吉川英治「三国志」で近代的なマキャベリスト、「冷徹な白面の美青年」のイメージが加えられ、それをもとにした横山光輝の漫画の影響もあって日本で曹操と言うと「悪役美形キャラ」(シャア等の系列)の代表みたいな扱いだ。だから本場中国での曹操のビジュアルイメージがたいてい太めでヒゲボーボーのオッサンであることに違和感を覚え、中国ではやっぱり曹操は悪役なのかと思いこむ人も少なくない。だがドラマ「三国演義」の鮑国安、近年の「レッドクリフ」の張豊毅などいずれも渋いカッコよさの名優たちに演じられており、やはり「三国の主役は曹操」というのは中国でもおんなじなのだ(一時「レッドクリフ」で渡辺謙が曹操、との報道が流れたが、あれは日本側のイメージ先行だったのではないかなぁ…)

 連想話をすれば日本における「太平記」による南北朝史イメージにも似たところがある。「太平記」は南朝よりの姿勢をとって後醍醐天皇を中心に楠木正成ら南朝武将の活躍を面白おかしく語り、鎌倉幕府滅亡後の中盤以降は彼らが強大な敵・足利尊氏に挑むという構造が確かにある。これが評判になってのちの「南朝正統論」「尊氏逆賊・悪人観」につながっていくわけだ。
 もっとも「太平記」における尊氏の描写は曹操のそれと比べるとあまりカッコよくなく、どちらかというと情けない話が多いのだが…同時代の足利よりの立場で書かれた「梅松論」だと、敵に寝返っていた元味方の武士たちの旗印を見た尊氏が「追いつめられて敵に寝返らざるを得なかったとは不憫である」と言って片付けさせたという、曹操によく似たエピソードがあったりする。そんなわけで三国志マニアは少しは日本の南北朝に注目しろ!と言っちゃう次第(笑)。

 さて年の瀬の12月27日、中国からビッグニュースが報じられた。なんと「曹操の墓が発見された!」という発表があったのだ。
 逆に「あんな有名人の墓の位置も分からなかったのか?」と思っちゃった人も少なくないだろう。まぁ確かに有名人ではあるのだが、なにせ1800年も前の人である。日本ではあの卑弥呼さんが同時代人だというのだから無理もない…という言い方もできるのだが、実は一緒に天下を争った劉備孫権の陵墓はちゃんと確認されている。正史「魏書」では曹操の墓は「鄴 」付近の「高陵」としか書かれておらず、その執筆当時は誰でも分かっていたのだろうが、三国の後も五胡十六国、南北朝と長い混乱期が特に華北で続いたことでよくわからなくなってしまったらしい。「演義」に曹操が死に際して自分の墓を発見されないように偽の墓を72個も作らせたという話が出てくるが、これは正史には出てこず、曹操の墓が未確認であることから生まれた民間伝説なのかもしれない(などと書いてから調べたら曹操の墓があるとされる「鄴 」付近に北朝時代のものとみられる古墳群があるのが元ネタとも言われるらしい)
 発表は急な印象だったが、調査自体は10年以上かけてじっくりと進められたものだ。曹操が死んで一世紀が過ぎた五胡十六国時代の後趙(319-351)の武将・魯潜の墓誌が1998年に河南省安陽県西高穴村の西北から発見され、そこに「魯潜の墓は高決橋を西へ1400歩行き、南へ170歩行ったところにある。故魏武帝(=曹操)陵は西北方向に43歩、北にまわって墓明堂に至るまで250歩」という、なんだか宝探しゲームみたいなまわりくどい内容が書かれていた。この文章から専門家が魯潜の墓と曹操の墓が300mぐらい離れていると試算したそうだが、肝心の魯潜の墓自体がどこにあるのか分からない。しかし「高決橋」という地名に目を付けた人がいた。「高決=高穴」ではないのか?と気付いたのだ(現在の日本の漢字読みだとかえってすぐ気付きそうだ)
 細かい話は省いて、ともかく推定された地点に大規模な後漢時代とみられる墓が発見されたのは2005年のこと。それから4年も調査した末での今回の発表だったのだ。「曹操の墓」とほぼ断定調で発表された根拠は「後漢時代の品物が多数発見されたこと」「曹操が死去した年齢に近い60歳代と見られる男性の骨と、后妃と見られる50代と20代の二人の女性の骨が出たこと」そして「『魏武王』と明記した石碑等が発見されたこと」などが挙げられている。
 
 そこまで出れば間違いないじゃないか!と思っちゃうところだが、実は中国の報道でも懐疑的な声は結構多く紹介されていた(あちらのTVニュースを見てたらドラマ「三国演義」の鮑国安演じる曹操の映像をバックにバンバン流してるんで笑ってしまったが)。特に曹操の出身地・安徽省亳州で彼の一族の墓も発見している御年87歳の元亳州博物館長は記者会見で鋭く「安陽説」に疑問を呈した。その主張をまとめると、まず曹操が葬られた場所は「鄴 」付近すなわち現在の河北省方面の可能性が高く地理的にはずれている、曹操は66歳で死んでいるのに発見された男性遺骨は「60前後」と鑑定されていて、一緒に発見された女性の骨も曹操と一緒に葬られたとされる卞妃の70歳の没年と符合しないし20代の女性が謎である、「魏武王」の文字も当時の水準から見て疑問があり、さらには曹操は「魏王」ではあったが「武帝」と贈り名されたのはその死の直後に息子の曹丕が皇帝になってからのことで、「魏武王」という文字にも疑問がある――といったところになる。他の研究者からは「魏武王」の文字が掘られた遺物は盗掘品であるとか(今度見つかった墓も盗掘はかなりされてるらしい)、そもそも捏造品をつかまされた可能性もあるとか、いろんな声が出ている。発表した側はあくまで強気で「信じられないなら、見に来ればいい。学術の世界では批判意見が出るのはいたって正常なことだ」と会見で述べていた。

 まぁそんなわけで結論は出ていない。三国志マニア的には于禁が関羽に降伏した場面の絵でも見つかれば確定なんだが(笑)。
 日本では最初の一報だけで騒いで疑問の声があまり紹介されてないのがちと気になるが…中国での報道をいくつか読んでいて興味深かったのが「『曹操の墓』の発掘は学術の品格も発掘した」と題する論評だった。要するにまだはっきりしない段階で「曹操の墓だ!」とメディアが過熱してあおってしまい、それに迎合するような一部学者を批判するといった内容だったのだが、なんかどこでも同じような話があるもんだなぁ、と。



◆料理がゆく

 もちろん今年の大河ドラマにひっかけたタイトル。今年は毎週日曜が「リョーマの休日」ってわけですな。「犬のお父さん」もしっかりサポートしてるし(笑)。犬のお父さんの声の人がかつて大河で竜馬をやっていたことにひっかけているという事実にどれほどの人が気づいているのだろうか。あのシリーズは以前にも同じ人が出演していた「八甲田山」にひっかけた演出を入れていて、実は映画・ドラママニア的にも案外奥が深いのである。

 さて変な枕から入って、本題は昨年の末に入って来た少々古いニュース。
 アメリカの科学雑誌「サイエンス」で発表された話なのだが、アフリカはモザンビークの都市リシンガに近い洞窟から発掘された石器の表面に「ソルガム」というイネ科植物(「もろこし」「こうりゃん」とも)の種をすりつぶした痕跡と思われるでんぷん粒が見つかったという。石器はおよそ10万年前のものと推定され、この洞窟に住んでいたのは我々と同じ「現生人類」。彼らはまだ栽培をしていたとは思えず、自然に生えているものを集めてきて、それをすりつぶして食べていたのではないかと推測されている。
 人間という生き物は自然からとってきた食べ物を何かと「加工」するという特徴がある。数十万年前の北京原人あたりで火を使っていた痕跡があり、これも火を使って「調理」をしていた可能性が高い。また自然から集めて来た植物の実などはそのまま食えないものも多かったと思われ、当然すりつぶすなどの加工をしていたはずだ。今回の発見で注目されるのは、その後の人類の重要な主食となる「穀物」が「調理」のうえ食べられていたことが確認されたことで、これまで確認されていた1万2000年ほど前の最古の例をはるかにさかのぼる発見とされる。

 興味深いのは十万年前となるといわゆる「出アフリカ」以前の段階の可能性が高く、その時点での現生人類が「穀物」を口にしていたという事実だ。前にもそんなことを書いてるが、食べ物というやつは食べちゃうだけに後世に残らず(たまに食う前の事故により残ることがある)、食べ物の実態は案外分からないことが多い。我らの遠いご先祖様もアフリカを出る以前何をお食べになっていたのかまったく想像するほかはなく、今回「穀物」が出て来たことはなかなか注目されるところなのだ。すりつぶして食べるにしてもそれを粉にしてたのか、焼いてパン状にでもしていたのか、あるいは「おかず」はつけていたのか、などなどいろんな想像が出来て楽しい。もしかすると「酒」もあったのかもしれないと思うともっと楽しい。一月は正月で酒が飲めるぞ〜♪っと。

 なんて話題を書いていたら、年明けになってスペインの洞窟から5万年前のネアンデルタール人の貝のアクサリーが発見されたなんて話題も報じられた。ネアンデルタール人と言えば我々現生人類以前に世界に広がり3万年ほど前に絶滅したとされる人類で、これまでにも埋葬の習慣や宗教的観念はあったのではないかとの説があった。しかしアクセサリーとなるとどうなんだろうか。発表者は「個人識別のIDカードのようなもの」とまでおっしゃってるのだが、そもそもどうしてこの貝のアクセサリーが「ネアンデルタール人のもの」と断定されたのか…



◆あらららら…

 昨年の暮れ、マレーシアの高等裁判所がカトリック系週刊誌が誌面で「神」を「アラー」と表記することを認める決定を下し、マレーシア国内ではちょっとした騒ぎになっている。この決定に対し、年明け1月8日のクアラルンプールでは金曜礼拝に集まったイスラム教徒たちが「アラーはイスラムのものだ」と抗議デモを行い、マレーシア各地でキリスト教会が焼き打ちされるなど宗教紛争の様相まで呈しだしているという。

 ところでこの話、宗教的にはいい加減な日本人には少々ピンとこない話でもある。キリスト教の神様がヤハウェ(エホバ)でイスラム教の神様がアラーだから、そりゃケンカになるだろ、と思う人も多そうだが、事態はそう単純でもない。
 そもそもユダヤ教・キリスト教・イスラム教は絶対的な万物の創造主「神」が一人(「人」と数えていいか知らんが…まぁ人間は神に似せて作ったそうだし)しか存在しないとする「一神教」である。イスラム教は前者二教の信者を自分たちと同じ唯一神を信じる「啓典の民」として扱っており(ただその教えや解釈が違う、間違っていると判断する)、本来みんな「同じ神様」を信じているという建前なのである。だからユダヤ教徒・キリスト教徒が「神」を「アラー」と訳しても本来はまったく問題はない理屈なのだ。実際、アラブ地域に住むキリスト教徒はアラビア語訳聖書で神を「アラー」と訳しているという。
 だが建前は建前として、神ならぬ人間は感情的にものを考えやすい。反欧米、反ユダヤ・キリスト教という意識から「あいつらが神を俺たちと同じくアラーと呼ぶなどけしからん」という考えも出てくるわけだ。マレーシアは6割の国民がイスラム教徒で国教をイスラム教と定めている国だが信教の自由はもちろん保証されていて、中国系の仏教徒やインド系のヒンドゥー教徒、そして植民地時代の名残でキリスト教徒(9%程度という)が混在する国だ。だがそれがかえってこういう混乱を招く背景となった気もしなくはない。

 事の発端となったのはカトリック系週刊誌「ヘラルド」。この雑誌のマレー語版で「神」の訳語として「アラー」をあてたところ、マレーシア内務省が「アラーはイスラム教徒だけが使用できる」としてそのままでの発行の停止措置をとった。これに対してヘラルド側は「神をアラーと訳す例は多い」として内務省を相手取って裁判に訴えた。そして高等裁判所は実際にその主張を認めたのだ。結果的にこれが一部イスラム教徒の猛反発を招くことになったわけだが、イスラム的法解釈としてもキリスト教徒が神をアラーと呼ぶことに特に問題がないと判断されることがわかる。
 政府としては判決を不服とし「この判決は改宗を促しかねない」(なんで?)として最高裁に控訴するというが(そういえば高裁が一審なんだろうか)、宗教紛争に発展してはまずいので「あくまで判断は裁判で」として国民に冷静な対応を求めているという。キリスト教団体も国民の和解と暴力の抑制を呼びかけている。

 やっぱり十戒にあったように「神の名をみだりに唱えてはならない」ってことでしょうか。そういえばイスラム教徒は割と「アラー、アラー」と連発しているような気はするな。



◆2010年ニュースの旅

 2010年。2001年になった時に多くの人が映画「2001年宇宙の旅」に言及したものだが、その続編である「2010」に言及したものには今年ほとんどお目にかからなかった。もちろん原作者アーサー=C=クラークによる小説もあるのだが、僕は映画のほうしか見てないという前提で内容をざっと紹介すると、「2001」の9年後、2001年に木星周辺で消息を絶った探検隊の調査をするため米ソ合同の調査隊が木星に送られる(宇宙船はソ連製でメンバーも多くがソ連人。なお劇中ではすべて「ロシア」で表現されていたはず)。その調査が進むうちに地球上では米ソの対立が激化し核による全面戦争一歩手前まで行ってしまう。その大ピンチの時に、まるで人類へのメッセージを送るかのように木星に異変が…というようなお話。多くの謎を残し、難解ながら「人知を超えたもの」を想像させる哲学的SFとなった「2001」に比べて、えらく俗っぽく生々しいストーリー展開で「腑に落ちすぎる」感があったものだ。実際に2010年になってみるとソ連も冷戦もすでにないが、かろうじて「国際宇宙ステーション」は存在しているといった状況。HAL9000とはいかないがコンピューターとネットワーク社会の事情については現実は当時のSFを超えてしまっている気もする。
 クラークばかりでは何なので僕がファンサイトやってるアイザック=アシモフについても言及しておくと、そちらのSF未来史では2015年に「第二次水星有人探査」が行われている(第一次探検は2005年にあったんだそうで)

 さて、この間のとりこぼしネタも含めてざっと連打。


☆「毒殺」が証明された?(12/7)

 歴史上「毒殺説」のある人物は結構多いが、だいたい俗説の域を出ず実証史学的には否定的に扱われていることが多い。実際に毒殺が証明された例としては最近では清末の光緒帝の例があったが。
 今回の例はぐっと時代が近くなって1982年の話。舞台は当時ピノチェトによる軍政下にあったチリだ。「毒殺」されたとみられるのは1960年代にチリ大統領も務めたエドゥアルド=フレイ=モンタルバ氏。1982年当時モンタルバ氏はヘルニア手術後の感染症により71歳で死亡したとされてきたが、当時彼はピノチェト軍政の弾圧による行方不明者の調査をしている最中だったため「暗殺されたんじゃないのか」という噂は20年以上ずっとささやかれてきたのだそうだ。
 昨年になってチリ大学がモンタルバ氏の遺体の病理解剖を行い、マスタードガスに含まれるものなど二種類の化学物質を検出し、ついに昨年12月7日に司法当局が「死因は毒殺」と断定し、モンタルバ氏の元運転手、手術を担当した医師、元秘密警察の三人を関与の疑いで逮捕状をとったという。
 かつての独裁者ピノチェトも2006年12月に亡くなり(当時は史点執筆を長期休載中のためこの話題は記事になってない)、その後のチリではピノチェト時代の人権侵害の洗い出しが進められていて、これもその一環だと思われる。


☆ケマル銅像和歌山へ(12/18)
 
 ケマル=アタチュルクといえばトルコ共和国建国の父。この人についての詳しい話は当サイトの「しりとり人物歴史館」にあるので省略(笑)。
 この人の銅像がなぜか新潟県の柏崎にあった。なぜかこの柏原に「柏崎トルコ文化村」なるテーマパークがあったのだ。日本各地にあるこうした「外国テーマパーク」を一度総まとめで調べてみたこともあるのだが、「トルコ」をテーマにしていたのはここだけだったと思われる。柏崎とトルコの間に何か縁があったとも思えず、どうも適当に「トルコ」を選んでしまった気配が濃厚。なおバブル末期にこのプロジェクトを推し進めた新潟中央銀行はこの他にも「新潟ロシア村」「富士ガリバー王国」も手掛け、全部そろってコケて銀行自体も破綻に追い込まれている。
 トルコ村の方は2001年に休業、その後復活もしたのだが結局2004年閉鎖。その直前に新潟県中越地震が発生し、倒壊の危険があるとして村のシンボル的存在だったケマルの銅像は台座から外され、そのままさらしものになっていたという。「このままではトルコとの友好関係を損なう!」との声が上がり(全く同感ではあるがこの話題を載せていたのが産経新聞ということもあり、ちと「そちら系」の方々のにおいがしなくはないが…そもそも「トルコ村」の企画自体があまり感心できない話だったと思う)、トルコとの深い縁がある和歌山県串本町への移転話が数年前から持ち上がっていたのだった。
 串本がなぜトルコと縁があるかといえば、1890年に当時のオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が日本訪問の帰途にこの本州最南端の地の沖合で遭難、587名もの死者・行方不明者を出す惨事となり、現地の住民たちが救助と介護にあたって69名を救ったという史実があったからだ。現地には慰霊碑が立ち、五年ごとにトルコ大使館と町との共催で慰霊祭も開かれるなど、日本国内にあってはトルコと縁が深い町となっている。だったらこっちに「トルコ村」を作ればよかったんじゃないかという気もしちゃうのだが、そもそも日本各地にある、あった「外国テーマパーク」の大半は縁もゆかりもない土地なのだ(元寇に襲来されたと言う理由で「モンゴル村」がある鷹島という変な「ゆかり」の例もあるけど)
 ともあれ、紆余曲折はあったが今年10月になってようやく話がまとまってトルコ大使館側からケマル銅像の串本町への寄贈要請があり、町側がこれを了承して12月18日に発表となったのだった。来年6月「エルトゥールル号遭難120周年」イベントで除幕されるそうで。ケマルさんも東の彼方でいろいろされて地下で苦笑していそうだ。


☆戦勝記念碑を爆破!(12/19)

 12月19日にグルジア西部クタイシにある戦勝記念碑「栄光のメモリアル」が爆破、解体された。この記念碑は第二次世界大戦の対ナチス・ドイツ戦勝利を記念して1984年と案外遅く建設されたもので、高さ46mの鉄筋コンクリート製だったとか。それをサアカシュビリ大統領はあえて派手に爆破してみせたわけだ。
 一昨年の北京オリンピックの開会式の最中に起こったグルジアとロシアの南オセチア紛争もそろそろ忘れかけてる人がいそうだが、今度の爆破がグルジア側のロシアへの面当てなのは明白。さっそくロシア政府は「ナチズムと戦ったソ連兵士やグルジア人を侮辱するもの」と非難声明を出している。ところでグルジアといえばその対ドイツ戦の指導者であったスターリンの出身国であり、今なおグルジアではスターリン銅像や博物館も健在で、サアカシュビリ大統領もかつてスターリン像の前からデモ行進を開始したこともあったそうで、その辺がどう絡んでくるのか興味のあるところ。
 なお、このニュースの末尾で「破壊作業の際、女性とその8歳の娘の2人が死亡、負傷者も出た」とさりげなく一行書いてあったのもすっごく気になっちゃったのだが。


☆口述文化をハングルで。(12/22)

 インドネシアの少数民族「チアチア族」というのがいるそうで。6万人ほどの人口で独自の言語形態を持ちながら文字は持っておらず、歴史や文化を口述で伝えてきた歴史がある。これを聞きつけた韓国のハングル学会関係者が現地を訪問し「表音文字のハングルなら表記できる」とハングルを売り込み、昨年7月から現地の教育機関でハングル教育が始まったとか。12月22日にチアチア族の代表がソウルを訪問したという話題が報じられていた。
 ハングルが表音文字であり、作成された時期がかなり後ということもありなかなか合理的な文字であることに異論はないのだが、近頃妙に世界で一番を標榜したがる韓国でハングルの世界普及を目指す団体がしきりに動いていることは聞こえていて(このハングル学会の後援で「世界文字オリンピック」が韓国で行われ、ハングルが1位になるというバカげた話も聞いた)、これもその一環なのは間違いないだろう。まぁ相手もそれなりに便利と喜んだのかもしれないが、個人的には「実績」をあげるために文化の押し売りをしたように見えてあまり感心できない(秀吉が征服地に「いろは」を教えてやるといっていたという話をチラと思いだす)。ところで表音文字ハングルでも濁音表記は出来ない気がするのだが。


☆女カラテ軍団で警備!?(12/30)

 一昔前の外交機密文書が公開されて新たな史実が明らかになる、というのはよくあるケースだが、これは変わり種。
 1979年。この年5月にイギリス史上初の女性首相となったマーガレット=サッチャーは6月にサミットのため東京を訪れた。このとき日本側は初の英国女性首相として注目されていたサッチャーさんに対して大サービスのつもりだったのか、「空手の達人の女性20人」でサッチャーさんを警備しようとしたという。これが報道で発覚したらしく(だとすると機密というほどでもないんだな)、サミット準備会合でイギリス側から「サッチャー氏は首相として来日するのであって女性として来日するのではない」として特別扱いはやめてくれと申し入れをしていたことがこのたび明らかとなったのだそうな。
 もっとも「007は二度死ぬ」なんか見てるとイギリス側は空手の達人じゃなくて忍者部隊にしてくれと要請していそうな(笑)。あるいは「鉄の女」だけに警護は不要だとか(笑)。


☆書斎机のその中に(12/22)

 政権交代以降、「沖縄核持ち込み密約」の話題が続いている。戦後もアメリカに占領されたままとなっていた沖縄を日本に返還するにあたって、表向きは「核抜き本土並みの返還」とされたが、その裏で「有事の際には核兵器の持ち込みを日本は認める」(もうちょっと正確にいえば「核持ち込みの事前協議で日本側は遅滞なく必要を満たすこと」)という密約が結ばれた、というものだ。この密約の存在は返還前後以来ずっとささやかれてきたし、密約を結んだ佐藤栄作首相(当時)の密使となった人物当人がその内容をとうの昔に暴露しており、今さら「密約」でもなんでもない気もするのだが、外務省は断固として密約の存在を否定し続けてきた。先輩官僚の名誉に傷をつけまいとする官僚的お役所仕事と言ってしまえばそれまでだが、表の裏の「二元外交」をやっていたとあからさまに認めてしまうことは外交役所としてはマズイということはあるだろう。
 民主党に政権交代したことでこの件を含めた「沖縄密約」の政府による調査が進められているが、この「核持ち込み密約」を明示する文書については「外務省内に存在せず」という結論がひとまず出されている。あくまで佐藤栄作とニクソンの「裏外交」であったため外務省には話を通してなかったから、という見方もできるがどうなんだろう。過去にも厚生省で「ない」と言い張っていた文書がゾロゾロ出てきた過去もあるからなぁ(お役所の体質として案外「隠滅」はしないものらしい)
 ところが昨年12月22日、佐藤栄作の次男・佐藤信二元通産相が密約文書そのものを保管していたことが公になった。別に栄作元首相から息子さんに引き継いだものではなく、佐藤栄作が首相公邸で使用しその後自宅に持ち帰った書斎机の引き出しの中にそのまま入っていたのを、佐藤元首相の死去後に遺品を整理しているうちに発見したものだという。佐藤元首相がどういうつもりでこの歴史的文書を引き出しにしまったままにしていたかは定かではないが、まさかボケちゃっていたわけでもあるまいから後世への証拠品としてさりげなくそのまましまっておいたものだと考えておきたい。
 しかし信二元通産相はこの文書の存在をとっくに知っていたわけで、なんで今まで黙っていたのか?と思っちゃうところだが、実はとっくに外務省に連絡していたのだった。密約当時駐米大使だった人物ら外務省OBに文書の存在を教えて「資料として外交史料館で保管してほしい」と申し出たこともあったという。しかし外務省OBらは「公文書ではなく私文書である」と回答して外交史料館での保管を拒絶したという。信二氏は「二元外交を否定しているのだと感じた」そうである。このたびその存在を公にしたのは「密約」の存在を政府として公式に認める機運が高まったことが背景にあるのは明らかだ。
 ただこの密約文書、ニクソンと佐藤栄作のフルネームの署名があり、外交的に有効な文書とされる可能性も高い。当初佐藤はイニシャルで署名する予定だったが結局フルネームで署名したと密使になった人物が著書で証言しており、この文書が有効な本物である可能性がかなり高くなる。そうなると確かに外交的には少々やっかいなことになりそうではあるのだ。


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