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2011年2月17日

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◆待てばカイロの日和あり

 前回チュニジアの政変が周辺国に「飛び火」した話題を書いたが、その直後に大変な騒ぎに発展してしまったのがアラブの大国エジプトだ。大規模な反政府デモの動きが連日報じられ、このまま一気に「革命」かと騒がれたが、その後大統領の辞任拒否や「大統領派」の反撃などもあって事態長期化の様子も見せた。むばらく様子を見て状況が落ち着いてから「史点」を書こうかな、と思っていたのだが、どうやら一つのめどがついたようなのでようやく書けることになった(なお、ある段階までは「待てどカイロの日和なし」のタイトルの予定だった)

 「エジプト」と聞けば、誰もがナイル川が流れ、ピラミッドとスフィンクス、という古代文明の地というイメージがわく。だがエジプトは古代だけでなく中世以後もこの地の重要な中心地域であり続け、近代にはナポレオンが遠征してきたり、スエズ運河が開削されたりと地政学的な重要度は増す一方だった。第二次大戦後はナセル大統領の指導のもとアラブ民族主義の中心地となり、すぐ隣に出来たユダヤ人国家イスラエルとシナイ半島をめぐって何度も激しく戦っている。
 1970年にナセルが死去すると、当時副大統領であったサダトが大統領に昇格した。1973年の第四次中東戦争でイスラエルと戦ったサダトだったが、その後アメリカおよびイスラエルに接近して1978年に宿敵イスラエルと和解・共存を決めた「キャンプデービッド合意」を実現する。いわゆる中東和平路線のはしりで、これによってサダトはこの年のノーベル平和賞を受賞、1979年にはアラブ諸国としては初のイスラエルとの平和条約を締結するのだが、周辺アラブ諸国、イスラム勢力からは「裏切り行為」と見なされることになる。そして1981年10月にサダトは軍事パレード中にイスラム過激派により暗殺された(ちなみにこの事件は僕が子供心に「世界的大事件が起きた」と意識した最初のもので、暗殺の瞬間をとらえた当時のニュース映像をいまだにはっきり覚えている)

  そのサダト暗殺を受けて副大統領から大統領に昇格したのが、このたび辞任に追い込まれた大統領ムバラクである。実に三十年もの長きにわたって彼はエジプトの「顔」であり続けたのだ。ムバラク政権は基本的にサダト路線を引き継いでイスラエルとの共存を図り、イスラエルの背後にあるアメリカの中東政策の要としてアメリカ政府から軍事・経済両面で強いバックアップを受けて来た。こうして「革命」により辞任に追い込まれた今になると強権政治の独裁者イメージが先行し、欧米諸国で「ムバラク叩き」が吹き荒れてるイメージもあるが、何のことはない、そのムバラク政権を支え続けたのはアメリカをはじめとするいわゆる「西側諸国」でもあったのだ。まぁ「民主主義総本山」を標榜するアメリカがちっとも民主的でない政権を支援した例はいくらでもあって珍しいことではない。
 今回の「革命」の過程でも、まったくの「他国」のはずのアメリカ政府の意向がそこかしこに見え隠れした。反政府デモが盛り上がりを見せる中、一時その中心になるかとみられたエルバラダイ氏に接近したり、スレイマン副大統領へのスムーズな政権交代を模索する動きもあったようだし(これが実現していれば3度目の副大統領の昇格による継承だった)、2月10日の段階でムバラク大統領が「辞任表明」をするかとみられたTV演説が「即時辞任拒否」だと判明した時、オバマ大統領が「話が違う」と激怒したとの報道もある(その後報じられたところでは当初「辞任表明演説」だったのにムバラク周辺により直前に変更されるという一幕があったらしい)。結局その後の反政府運動のさらなる盛り上がりを受けて軍部が引導を渡すというチュニジアと同様のパターンで2月14日にムバラク辞任という結果になったのだが、事態の推移にアタフタしている観があったとはいえやはりアメリカの意向がかなり入った結果になったと思う。暫定政権がイスラエルとの平和条約維持をすぐに表明したのもそんな背景があるような。

 それにしてもムバラク辞任のニュースを知ったエジプト国民たちの大喜びのお祭り状態を眺めていると、「そんなに嫌われてたのか、ムバラクさん」とちょっと同情したくもなる(笑)。そりゃまぁ選挙はまっとうではなかったようだし、イスラム原理主義を抑えるために秘密警察による監視政治もあったらしいし、賄賂やコネが物を言い、貧富の差が拡大する社会に批判の声が強くなっていたのは確かだろう。昨年の中東和平首脳会談の折り、本当はオバマ大統領らの後ろを歩いていたムバラクさんを最前列を歩くように改竄した写真が政府系新聞に出て世界の失笑を買ったものだが、そんな個人崇拝ムードが嫌われたのも事実と思う(今にして思えばあれは今日の事態の前触れだったかも)。80過ぎてまだ続投だとか、息子への世襲計画だとか、日本の政治家にもよくあるパターンもみられたし。
 でも30年間彼への不満が目立った形で爆発しなかったのも事実で、チュニジアの騒動の飛び火からひと月も経たないうちに政権崩壊というあっけなさには、むしろ国民の大半は一時の熱狂というか、流れに乗ったお祭り心理で一気に造反しちゃったんじゃないかなぁ、と。日本の江戸幕府の崩壊なんかもそうだが、盤石だと思ったものがあっけなく短期間で崩れ去ってしまうという歴史の例は少なくないし。どこかの新聞記事で読んだが、エジプトで発掘作業をしている考古学者が「エジプト人に“革命”を起こすパワーがあるなんて」と驚いた発言をしていたが、正直そんなところはあったと思う。
 もう一つの特徴としてチュニジアのケースと同様、今回の「革命」ではフェースブック、グーグル、ツイッターといったイマドキのネット用語が乱舞した。昨年のイランの民主化騒動でもみられた現象だが、今回は政権側もグーグル現地幹部を一時拘束したり、フェースブックを停止させたり、自分たちの意図を流すダイレクトメールを拡散しようとするなど、ちょっとした「サイバー戦争」の趣もあった。

 さてこれからどうなるのか。とりあえず軍が暫定的に実権を掌握し、軍の最高評議会議長であるタンタウィ国防相が国家元首代行という形になり(この人もなんと20年も国防相を務め続けている人である)、憲法の停止と改正、議会の解散総選挙と大統領選挙などを行って半年で民政移行を実現すると発表している。
 アメリカやイスラエルが明らかに恐れているのは「民主化」によりイスラム系の対イスラエル強硬派が政権を握ることだ。一定の支持を集めている穏健派イスラム団体「イスラム同胞団」はそうした視線は気にかけていて、議会で過半数を取る気はないと表明し、イスラエルとの平和条約も維持する意向を示しているが、一方でその平和条約を現実に合わせて改定する必要に言及してもいる。
 また「アラブの盟主」たるエジプトで革命が現実に起こってしまったことで、周辺諸国への影響もかなりある。イエメンでは大統領が世襲をやめることを約束したし、ヨルダンやシリア、バーレーン、リビアなどでもチョコチョコと動きが出ている。当初エジプトの事態を「イラン・イスラム革命の再来」と高評価したイランでも国内でまたもや反政府の動きが活発化しているという。この現象を1989年の「東欧ドミノ革命」になぞらえる声もあるが、さてどうなるもんだろうか。

 ところで今度の騒ぎの直前に、エジプト考古最高評議会がドイツ・ベルリンの博物館に対し「ネフェルティティ胸像の返還要求」の文書を送りつけていた。ネフェルティティとは紀元前14世紀のファラオ・アメンホテプ4世(イクナートン)の妃で、夫と共に「アマルナ改革」と呼ばれる一神教のもとの文化革命を起こした有名人である。その胸像もまさに生けるがごとく彩色された見事なもので、1912年にドイツ人考古学者によって発見されドイツに持ち帰られた。今日でもベルリンの博物館における最大の目玉陳列品となっているのだが、エジプト側は大英博物館にあるロゼッタ・ストーンと並ぶ大物としてこの胸像の返還を長年要求しており、とくに近年その勢いが増してきていた。
 ところが今回の騒ぎの中で、カイロの考古学博物館にドサクサ紛れに侵入した者があり、ミイラが数体壊されたり、有名なツタンカーメン(イクナートンの子である)の副葬品などが盗まれる事態が起きた。こういうことがあると、「やっぱり返せないなぁ」とか言われそうで…一部報道によるとムバラク前大統領はその後重体説もささやかれるほどの状態になっており、ドイツへの移送も検討されているという。まさか「元ファラオ」と交換しようという話じゃ…



◆ナイルか紅海か

 またエジプトがらみの話題になるのだが、現生人類はもともとアフリカで20万年ほど前に生まれ、そこから「出アフリカ」をして世界中に散らばったというのがほぼ定説になっている。アフリカから出るルートとなると当然陸続きになっているエジプトからナイル河口付近、スエズ地峡、シナイ半島を抜けたものと予想され、何やらモーセに率いられた「出エジプト」イメージと重なって来たところもある。その「出アフリカ」の時期については諸説あったが、6万年ほど前ではないかとする意見が有力だった。

 ところが。ドイツやイギリスなどの研究チームが1月28日付の「サイエンス」に、現生人類は12万5000年も前に紅海南端からアラビア半島に渡っていた可能性が高いとの研究結果を発表した。研究チームはアラブ首長国連邦の東部にあるジュベル・ファヤ遺跡を発掘、そこで見つかった握斧(あくふ)などの石器が10万〜12万5000年前のものと年代測定され、しかもそれらが中東地域で見つかるものより東アフリカで見つかるものに形態が似ていることからその推測を得たという。これまで北寄りの陸続きの部分を通ったと考えられていた通説と異なり、狭いとはいえ海を渡った、しかもこちらの方がずっと早いという新説で、「現生人類が世界に広がる種となった経緯について再検討が必要」と研究チームは主張しているという。

 陸路ではなく紅海を渡ったと聞くと、映画「十戒」でおなじみの「紅海真っ二つ」の特撮シーンが思い浮かんでしまうのだが、もちろん船を造って渡ったということだろう。そこで連想するのがこのニュースの少し前、1月の初めに太古の人類が航海をしていた可能性を予想させる発見が報道されていたこと。ギリシャのクレタ島から少なくとも13万年以上前、下手すると数十万年前と見られる握斧などの石器が発見され、そんな古い段階の人類が「航海」をしていたことになる、とギリシャ文化・観光省が発表していたのだ。一番近い時代で見積もっても十三万年前となると、予想される「現生人類の出エジプト」よりは前のことになるのでその石器を使い、「航海」をしたのは現生人類のひとつ前のホモ・エレクトゥス、俗にいうネアンデルタール人ということになる。石器はともかく航海となるとかなりの技術で、ネアンデルタール人の能力の再検討にもつながる、という話だった。
 もっとも今回の「紅海渡海」の可能性のニュースに接すると、現生人類の「出エジプト」は予想されているよりずっと早く、航海技術も使ってもっと広い範囲に拡散していたのではないか、という気もしてくる。



◆旧約聖書テーマパーク

 上の話とは「聖書ネタつながり」になる。元ネタは読売新聞記事。
 アメリカはケンタッキー州で実物大の「ノアの箱舟」を“再現”するテーマパークの建設計画が持ち上がり、しかもその開発業者はキリスト教根本主義系の宗教団体関係者、おまけにそのテーマパークに州政府が税の優遇などで支援することになり、「憲法の規定する政教分離の原則に反する」と批判の声が上がっているという。
 説明の必要もないだろうが、「ノアの箱舟」とは旧約聖書の『創世記』に出てくる有名な話で、堕落した人類を一掃するべく神が全世界をおおう大洪水を起こし、正しい人間であったノアとその家族は神から事前に知らされて巨大な「箱舟」を建造、そこに家族と共に多くの動物を乗せて大洪水を生き延びるというストーリーだ。この物語はギルガメシュ叙事詩など聖書に先立つもので語られた洪水神話をひきついだものとみられているが、キリスト教徒の一部には今なお「歴史的事実」と信じている人がいる。とくにアメリカにこれが多いのだ。

 ケンタッキー州と聞くと「フライドチキン」ぐらいしか頭に浮かばない人が多いだろうが、キリスト教のプロテスタント保守派の強いところであるらしい。今回の「ノアの箱舟テーマパーク」を州政府にもちかけ、開発事業者にも名を連ねているのは「アンサーズ・イン・ジェネシス(創世期の答え)」(以下略称AiG)という宗教団体で、これはオーストラリア人によって創設された複数の創造論主張団体が合併してできたものだ。「創造論」については過去にも何度か取り上げて来たことがあるが、基本的に聖書の『創世記』の内容をそのまま信じ、地球も全生命も数千年前に神によって一週間で一気に作られたとする主張である。何億年もある地質年代はどうなるんだとか、数千万年以上前の地層から出てくる恐竜の化石をどう説明するんだとかツッコミを入れる声は当然あるが、彼らに言わせればそんな地質年代などはデタラメであり、化石が出てくる生物については存在自体は認めるものの「数千年以内にいたもので、ノアの洪水で滅亡した」といった主張をする。
 このAiG、2007年にケンタッキー州に「創造博物館」なる施設を建設している。その名の通り「地球は数千年前に創造された」と主張する展示がなされていて、特に「恐竜も人類と同じ時代を生きていた」ことを示す原始人と恐竜が共存している様子を「再現」した展示が有名。「何百万年以上もの地球など、社会を破壊する!」と主張するモニュメントなんてのもあるそうで。

 まぁちょっと前まで天孫降臨を歴史で教えていた国の人間が人のことは言えないかもしれないが、科学の最先端をいってるアメリカという国にこの手の考えを持ってる人たちが相当数いるという事実には驚かされるし、またその妙に現代的な宣伝活動に苦笑してしまうところでもある。AiGが作った「創造博物館」は「恐竜テーマパーク」という印象も手伝ってか、これまでに120万人もの観光客を集めたそうで(無神論者を招待して見学させたりもしたそうだが)、州の経済にはそこそこの影響を与えている。今回AiGがぶちあげた「ノアの箱舟テーマパーク」も実物大に再現した箱舟に生きた動物を乗せて展示する、ちょっとした動物園にする狙いもあり、ついでとばかりに「バベルの塔」のレプリカも敷地内におっ立ててしまうそうである。ま、確かに聞いてるとなんだか面白そうで行ってみたくなる気持ちはわかるが(笑)。
 州政府がこのテーマパーク建設に税優遇措置などで援助政策をとろうとするのは、このテーマパークのおかげで観光客が来て雇用確保にもなるという効果を期待してのことだという。州知事によると「160万人の観光客と900人の雇用創出」が期待でき、あくまで宗教団体ではなく「雇用をもたらしてくれる営利団体」の支援と位置付けるとしている。ケンタッキー州は失業率が全国平均を上回るそうで、ありがたい「地域おこし」だというわけだ。だが特定の宗教団体の事業に援助をすることへの批判も当然あり、計画中止を求めて訴訟を起こす動きもあるそうだ。

 どうせノアのテーマパークを作るなら、ノアが酔っぱらって素っ裸になった様子を「再現」してみると面白いんじゃないかと(笑)。



◆「連合赤軍」も歴史のむこうへ

 もう十年ばかり前に書いたことだが、僕の知り合いの知り合いに「日本赤軍」の重信房子がいる。僕の親が大学で同級生だった、というだけの縁なのだが、彼女が帰国して逮捕された時は身近に本人を知る人がいたため個人的に感慨深いものがあったのだ2000年11月12日史点参照)
 その後2008年に若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍」が公開された。この映画は末期状態の左翼学生運動の中から生まれた過激グループの赤軍派、革命左派が合流して「連合赤軍」となり、凄惨な「山岳ベース“総括”事件」、そして「あさま山荘事件」へと向かう過程がドキュメントタッチで描かれている。登場人物は全て実在人物でそれぞれ実名で登場しており(もちろん現在の若手俳優が演じている)、重信房子も序盤で登場している。彼女はすぐにパレスチナに飛んでしまったため「連合赤軍」には参加していないが、映画はその重信自身の逮捕と彼女による「日本赤軍」の解散表明(2001年)を字幕で語って幕を閉じている。
 この映画は観客を導入する役として遠山美枝子という女性を主役級で扱っており(演:坂井真紀)、重信房子とは親友同士で序盤よく一緒に行動している。彼女を主役扱いにしたのは若松監督自身がよく知っていたからなのだろうが、実は僕の両親も大学で彼女をよく見かけており、実際に重信とよくつるんでいたという目撃談を聞かされている。

 映画の中では遠山美枝子はかなりピュアに「革命」を信じて連合赤軍に参加したと描かれ、そしてその集団が狂気へと走り出して行く様子を彼女のピュアな目線から批判的に見る、という手法が使われている。そして山岳ベースで彼女自身も「総括」という名のリンチの犠牲となり、「主人公」でありながら映画の途中で死んでしまう。それもかなりひどい殺され方で…僕の両親などはなまじ知ってる人たちが出てるだけに、映画を見るのはちょっと気が引けているようだ。
 「連合赤軍」は赤軍派のグループと革命左派のグループとが「連合」して結成したもので、それぞれ過激派内の内ゲバを経験していたせいもあってか結成当初から主導権争いがあった。映画の中でも両者が山荘に合流した際、革命左派グループが水筒を持ってくるのを忘れたのを赤軍派グループから批判され、自己批判を余儀なくされるという笑ってしまうような場面が描かれるが、これが事実だから笑えない。で、映画の展開としてはこの一件で焦った革命左派グループのリーダー・永田洋子が、主導権を取り戻すべく赤軍派リーダーの森恒夫に接近、彼をけしかけるようにして「総括」という名のリンチを推進していく、というように描かれる。特に主人公格の遠山美枝子に対して永田は「女」としての嫉妬という個人的感情からリンチに走ったとされているため、この映画でははっきり言って最大の悪女である(演じてる女優さんがまた名演!)。リンチを命じる立場の森は永田に誘導されてるようにも描かれ、しかも二人は最終的に男女関係になり(おまけに永田はこのあと「浅間山荘」にたてこもる坂口弘からの「乗り換え」)、そろって逮捕される。森は刑務所内で遺書を残して自殺してしまうため、なおさら永田の悪女ぶりが際立って印象に残ってしまう。消極的死刑廃止論者の僕であるが、この映画を見ちゃうと「こいつだけは死刑にしておかないと」と思っちゃったことを白状しておく(汗)。もちろん映画で描かれたことをそのまま事実と受け止めてはまずいだろうが…
 
 永田洋子は1993年に最高裁で死刑が確定している。2001年に再審請求しているが2006年に却下。だが裁判中から脳腫瘍を患っており、数年前から危篤状態が報じられていた。それも執行がなされなかった理由かもしれないが、もう一つ連合赤軍事件関係者で同年に死刑が確定している坂口弘(永田の「元夫」であり、あさま山荘事件の主犯)ともども、共犯者の坂東国男がクアラルンプール事件での超法規的措置で国外逃亡し続けているからという理由もあったようだ(オウム事件でもそうだが、事件に関わった全ての人間の裁判が確定するまでは関係者の死刑執行はなされないのが原則)
 そうこうしているうちに、去る2月5日、ついに死刑を執行されることなく永田洋子はこの世を去った。享年65歳。脳腫瘍で事実上「生ける屍」にされていった最期はある意味死刑以上に辛かったかもしれないが…月並みだが「一つの時代が終わった」なんて声がマスコミでちらほらしていたものだ。


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