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2011年3月28日

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◇おことわり◇
 今回の「史点」は当初3月12日あたりのアップを想定して書き進めていました。85%ほど出来たところで3月11日の震災に見舞われたわけで…下記の記事にもありますが、僕自身はさしたる被害を受けたわけではありませんが「非日常」な現実の前に心理的余裕は明らかになくなりまして、執筆もストップしてしまいました。どうにか再開したのは震災発生から二週間経ってからのことです。そんなわけで少々古いネタもございますがご勘弁のほどを。
 なお毎年恒例の「四月バカ」はちゃんとやる予定です。冗談も言えない世の中にはしたくありませんしね。



◆今週の記事

◆情勢はめまぐるしく

 チュニジアエジプト、ときて、その両国に挟まれたリビアでも反政府運動に火が付き、「中東オセロ現象」などと言われ、すぐにもカダフィ大佐の態勢崩壊かと見られていたので、こちらも決着後に「史点」を書こうかなと思っていたら、情勢は二転三転、おまけに震災まで起こってしまったために執筆が伸びに伸び、その間にまた情勢が変転してしまっている。

 リビアのカダフィ大佐といえば、間違いなく現代史における「名物男」の一人だろう。ひところは現在のベネズエラのチャベス大統領を思わせる反米政治家の代表的存在だったものだ。そういえば今度の騒ぎの中でカダフィ大佐に一時ベネズエラ逃亡説が流れたり、双方の調停案をチャベス大統領が出すなどしているので、お二人は個人的にも親しいのかもしれない。
 カダフィがリビアで革命を起こし、独裁的な政権を握ったのは1969年というから、チュニジアやエジプトも勝負にならないほど古い政権だ。調べてみたら現在存在するなかで世界最長の政権なのだそうな。「大佐」の肩書で延々と国家元首をやってることも謎の一つだが、そもそも彼は革命以来あらゆる国家体制を否定、憲法も作らないという、俗に「イスラム社会主義」などと呼ばれる独特の支配体制を築いており、あくまで一市民の立場をとるヘンな指導者で、「大佐」というのも一種の通称に過ぎない。まぁしかしそれでよく40年も続いたもんだ。

 1980年代にはリビアのカダフィと言えば「イスラム過激派テロの黒幕」扱いだった。1985年公開の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、テロリストが何の説明もなく「リビア人」になっているのもその現れ(だから今の若い世代が見ると理解しにくいと思う)。この映画の中でネタにされるロナルド=レーガン大統領は1986年にカダフィ抹殺を図ってトリポリのカダフィ邸を空爆、カダフィ自身は難をのがれたが(イタリア政府から極秘に攻撃の通告を受けていたといわれる)養女が一人死亡している。今度の騒ぎの中でカダフィ自身が邸宅前から傘をさしてTV演説をしていたが、邸宅にその時の空爆の跡がはっきりと確認できたものだ(修理はしなかったのかな?)
 その後も何かと反欧米言動は見られたのだが、僕の印象ではこの空爆以後いくらか大人しくなった。とくに90年代後半から急に欧米への態度を軟化させ、1988年のパンナム機爆破事件の犯人引き渡しや賠償、核開発放棄表明と査察受け入れ、911テロが起こるとアルカイダを激しく非難するなど、急に「いい子」になってしまい、当人は知ったこっちゃなかろうがあの「産経抄」に絶賛されることにもなってしまう(笑。まぁそれに比べて北朝鮮は…という趣旨だったんだけど、当時のあの欄担当者の「正義の基準」がよく分かる内容だった)。近ごろではアフリカ連合(AU)の主導権をとろうとしたり、経済制裁を解かれたことで国外の人や資本の導入にも積極的になっていた。
 もっともその一方でダイアナ元妃が事故死した際には指導者の中で最も早く「陰謀説」を口にし、外国のどこへ行ってもベドウィンよろしく空き地にテントを張ってトラブルになるなど、妙な話題が多いのは相変わらずだった。

 チュニジア、エジプトの波を受けてリビアでも反政府デモが活発化したのは2月15日ごろからのこと。反政府デモは特に旧王制への支持が多いとされる東部の都市ベンガジで大規模なものとなり、カダフィ政権はこれに軍や治安部隊を投入して鎮圧に乗り出した。このときカダフィ大佐は演説で「デモ隊を天安門のように叩き潰す」とまで言って反政府勢力に対して空爆・攻撃を実行し、世界の非難を浴びた。この情勢を見てリビアの国連大使や一部閣僚・軍人のカダフィ離反も招き、空爆を拒否してマルタに飛んで亡命しちゃった戦闘機まで現れた。カダフィ側の戦力となっているのは外国人傭兵たちで、軍の一部も離反しているとの報道も出たし、愛人と言われる女性が逃げちゃったとか、反政府側が各地の都市を占領、解放の象徴として緑一色のリビア国旗ではなく王政時代の国旗をひるがえす映像も世界に流れ、こりゃもうカダフィ政権もチュニジアやエジプトと同様にすぐにも崩壊するのではないかとの見方が広がった。

 ところがどっこい。日本で大地震が発生し、世界的にもニュースがそれ一色に染まるなか、カダフィ側はいつの間にやらジワジワと勢力を盛り返していた。結局のところ大量に武器を持っているのはやはり政権側で、おまけに空爆により反政府側の武器のあるところを攻撃したもんだから、もともとにわか仕立ての反政府軍はジリ貧状態になってしまった。反政府側は暫定政権を作り、フランスをはじめとするEU諸国から正統政府としての承認を受けて対抗しようとしたが、一時は「もうおしまいだ」と弱音が吐かれるぐらいのところまで追い詰められていた。そうそう、この反カダフィ側が日本の地震被害に対して哀悼の意を表したのもこのころだ。
 「あと数日でケリがつく」とカダフィ側が息まいたのが3月16日ごろだったかな。カダフィの次男が「サルコジにはリビアマネーが渡っている」と脅しをかけたりしていたが(ありそうな話とは思うが)、そのサルコジ大統領のいるフランスやイギリス軍事介入にかなり積極的になり、結局このままだとカダフィ軍がベンガジで無差別殺戮をやりかねない、ということでアラブ連盟も反カダフィの姿勢を見せ(もともとカダフィさん、アラブでは嫌われ者だったみたいだし)、あまり乗り気でないアメリカも同意、中国やロシア、インド、ブラジルなどは棄権という形で黙認し(中国の場合は「天安門」とか言われたのが響いたか…)、国連安保理はリビア国内に「飛行禁止空域」を設定、停戦しなければ民間人を守るために多国籍軍による軍事行動を行うことを決議した。

 その直後にカダフィ大佐はコロッと停戦受け入れを表明し、相変わらずしたたかなやつだと思わせたものだが、実際には攻撃が続いているということで19日に米英仏軍によるカダフィ軍側への空爆が開始された。さっそくカダフィ大佐は「これは十字軍の侵略だ!」とアオってみせたがイスラム諸国で味方に付いてくれるところはなさそう。だいたいカダフィ自身も言ってたように、あのアルカイダだって反政府側への協力を呼びかけていたぐらいで、「イスラム」を持ち出すとかえって敵が増えそうになる気配すらある。
 そして現在、本記事を執筆中の段階では今度は反政府側が一気に巻き返してしまい、各都市を奪回して逆にトリポリまで攻め込みそうな勢いらしい。さすがのカダフィもこれまでか、とも思えるが、リビアへの軍事介入をどの程度にするのかはNATO諸国でも明確なビジョンがないようだし(国連決議だって「政権打倒」を支持したわけじゃない)、「内戦」への一方的な肩入れという批判も実際ある。ベネズエラのチャベス大統領なんかは「石油利権を狙ってるんだ」と言ってたが、あながち全否定できないところもある。
 今後どうなるのかは、次々回ぐらいに分かるだろうか。



◆宗教ネタ詰め合わせ

 つい先日、世界的に有名なデザイナーが反ユダヤ発言で解雇される騒ぎがあった。欧米では中世以来の伝統、および第二次大戦時のホロコーストの記憶もあってこの手の問題はかなりデリケートに扱われるはずなのだが、その一方でこうして時々濃厚な差別・憎悪意識が飛び出してくる。またそういう反ユダヤ的発言がすぐさま袋叩き状態にされるために、かえってそういう気分が意識の底流にドロドロとたまっていっている気もする。反ユダヤばかりでなく反イスラムの意識も手伝っているのだが、先日ここでも話題にした「ルペン2世」女史がフランス大統領選挙で一位になりそうだ、なんて話を聞くと…(ま、今回の震災を「天罰」だの「自分の宿命」だのとほざいたりした、どっかの都知事のことを思えば他国ばかりの話ではないが)

 ユダヤ人差別意識というのはキリスト教社会内の「異質」な存在であったために生まれたものだと思うが、「イエス・キリストを処刑したのがユダヤ人だから」という説明もよくなされる。それを言ったらイエス本人も弟子たちも聖母マリアもみんなユダヤ人なのだが、この手の話はそうした理屈を通り越したところにあるからどうしようもない。とにかくキリスト教徒がユダヤ人に対する差別を正当化する理由の一つにこれが挙げられてきたことは確かだ。カトリック教会では1960年の公会議でこの見解を公式に否定しているが、一部保守派にはまだ根強くその意識があるという。
 このたびローマ法王ベネディクト16世が新著「ナザレのキリスト」のなかでこの問題に触れているという(以前「ナザレのイエス」という本も出してるが、それとは別みたい)。新約聖書の「ヨハネによる福音書」のなかで、ローマ帝国の総督ピラトに対してエルサレムの人々が「イエスを十字架にかけよ」と主張する場面があり、その主張をした人々が「ユダヤ人」ととれる表現(英語で「Judeans」)をされていることについて法王は「現代の読者のありがちな解釈に対して、この単語はイスラエルの人々を指すものではない」と指摘、「イエスの処刑を要求したのは当時のユダヤ教司祭たちであって「ユダヤ人」全体ではない」との主張を記したというのだ。
 つまり集団としての「ユダヤ人」にキリストを殺した罪はないよ、ということが言いたいわけだが、さすがにユダヤ教宗教指導者の責任については否定はしていない様子。イエスが当時のユダヤ教司祭の姿勢を批判して「キリスト教」を始めたのだからそもそも否定できるわけもないが。正直なところあんまり意味がない気もする。


 3月2日、パキスタンのバッティ少数民族相が自宅前で銃撃を受け、死亡した。バッティ氏がこの国では少数派のキリスト教徒であり、同国の法律で「イスラム教に対する冒涜罪」が規定されていることを批判し、法改正を積極的に訴える立場を貫いていたことが暗殺の理由と見られている。実際、国内のタリバン勢力が「法律に反対する者へのメッセージとして暗殺した」と犯行声明を出している。
 パキスタンはその成立事情が事情だけに国民の97%がイスラム教徒。全部がそうだとは言わないが、インドとの対抗意識からイスラム色はかなり濃いめのようで、イスラム教そのものや預言者ムハンマド、聖典コーランに対する侮辱行為は死刑に値する重罪とされている。2008年にコーランを焼いたイスラム教徒の青年が死刑に処されて話題となったこともある。
 この法律の改正を主張したパンジャブ州知事が今年1月に自身の警護官の手によって殺害されており、バッティ氏も「命を犠牲にしてもよい」と覚悟の上ではあったようだ。どこの国でもこうした過激な原理主義者というのはいるものだが、「寛容」を売りにしているはずの宗教がかえって不寛容を生み出しているな、と思うばかり。


 お次は仏教系。チベット仏教の指導者ダライ=ラマ14世(75)はチベット動乱52周年の3月10日に自身が政治活動から身を引くことを正式に表明した。チベットでは宗教指導者であるダライ=ラマが政治指導者であるという、いわば「政教一致」の体制が昔からとられているが、ここでようやく完全に「政教分離」が図られてダライ=ラマ自身は宗教活動に専念することが正式に決まったわけだ。
 これをもって中国の迫害を逃れてインドに亡命政府を作った「第一世代」は総退陣し、選挙で選ばれる新内閣にあとを任せることになる。急に決まった話ではなく前々から準備は進んでいて、昨年10月にすでに新首相を選ぶ第一回投票が行われて候補は三人に絞られていた。3月20日に決戦投票が始まった。亡命政権だけに有権者も世界中にいるため(8万人弱とか)、インドのみならず欧米諸国や日本などでも投票を行い、結果が出るのは四月末だそうである。
 以前からささやかれていることではあるが、ダライ=ラマも高齢であり、いつ「転生」してもおかしくない状況になりつつある。そのときに「転生」した次代ダライ=ラマを選ぶのは相当に混乱することが予想される(中国側の認定転生者が出る可能性も高い)。ダライ=ラマ本人も転生については「女性になる可能性も」と言ってみたり、転生そのものについてかなりアバウトにするような発言もしており、それも自身の死後の混乱を見越してのことだと思われている。チベット亡命政府の民主化が進むことで宗教的指導者なしでも体制を固められるという狙いもあるのだろう。
 そういえば1月末に、チベットの活仏の一人で2000年に中国から亡命したカルマパ17世の僧院から出元不明の米ドルや中国元などの大金(1億3千万相当)が見つかり、インドの一部マスコミから発して「彼は中国と接触したのでは?」という噂まで飛び交うという事件があった(彼の亡命については「史点」過去記事の2000年1月あたりを当たって下さい)。当然当人も亡命政府も否定していて「側近の過失による不正蓄財」ってことに落ち着いたそうなのだが(なんだか日本の政治家の話みたいだ)、なんとなくひっかかる話だったのは確か。
 


◆「禁止用語」と名作と

 マーク=トウェインといえばアメリカの国民的作家の一人。代表作「トム・ソーヤの冒険」を子供の時に読んだという日本人も多い。だがその「トム・ソーヤ」に脇役として登場するハックルベリー=フィンを主人公にした「ハックルベリー・フィンの冒険」の方も読んでみたという人は「トム」に比べれば圧倒的に少ないと思われる。こちらは少年のささやかな冒険物語である「トム」に比べ、ぐっと大人向き、社会派の作品であり、「アメリカ近代小説の元祖」とまで呼ばれる存在であるからだ。実はこんなことを書いている僕もちゃんと読んだことはない。
 「ハックルベリー・フィンの冒険」が最初に発表されたのは1884年のこと。すでに南北戦争が終わり、黒人奴隷も解放された時代の執筆だが、物語の中では南北戦争以前の段階(1830年代か40年代と推定されている)で、重要な登場人物として逃亡した黒人奴隷ジムも登場、ハックとジムがミシシッピ川をいかだで下り、さまざまな経験をしてゆくロードムービー型の内容で、そこかしこに人種問題や宗教問題など社会風刺が書き込まれている。

 さてこの「ハックルベリー」、アメリカでの出版直後の1885年3月に早くも「禁書」指定をくらっている。マサチューセッツ州の図書館がその第一号だったのだが、指定の理由は「下品な主題による手法」「物語をつづる、粗野で無教養な言葉」だったという。ちゃんとした翻訳で読んだことがないので具体的には分からないのだが、恐らくほとんど浮浪児同然である語り手のハックルベリーと黒人奴隷のジムのセリフまわしがかなり乱暴であったと思われ(方言を使った小説としても先駆的らしい)、内容が社会風刺を含んでいたことも公共施設である図書館の警戒を招いたかと思われる。

 その後も国民的文学として広く読まれ続けながらも、何かと攻撃対象にされやすい作品だったようだ。特に近年では本文中に「nigger(二が―)」という単語が頻出することが批判の対象となりやすいという。もともと黒人を指す言葉として「negro(ニグロ)」があり、そこから派生したのが「nigger」なのだが、現在では「ニグロ」すらも差別表現として忌避され、「ニガー」はなおさらキツい表現とされ完全な「禁句」であるという。
 すでに著作権なんてとっくに切れているのでネット上(プロジェクト・グーテンベルク)で原書の全文が読めるのだが、なるほど、本文検索をかけてみると、いきなり冒頭の作者自身の断り書きの中に「ミズーリのニグロ方言が使われている」という表現が出てくる。そしてハックが語り手となっている本文でも第一章だけでかなりの数の「nigger(s)」という単語が出てくる。そりゃ無理もない、当時の話言葉で書いているのだからごく普通に「黒人」を意味する言葉として「nigger」が使われているのだ。僕が参照した記事によると「ニグロ」「ニガー」表現は本文中で218回も使用されるというのだが(CNN記事は本文中に「nigger」が出るのを避けたらしく「negro」しか書いてなかった)、もちろんそれは差別的意味で使っているわけではない。むしろ物語の趣旨としては人種差別に批判的な姿勢を示したもので、南北戦争の後の執筆とはいえ当時としてはかなり進歩的な内容であったと思われる。
 だが現在においては「ニガー」は完全な禁句。このために「ハックルベリー」は物語の趣旨とは別に「差別語使用書籍」として批判・敬遠され、授業教材や図書館陳列を忌避されることが多くなっているという。

 そんなところへ先月、アメリカの出版社ニューサウスから、「トム・ソーヤ」と「ハックルベリー」を一冊セットにし、いわゆる「差別表現」を改めた「新版」を出版して議論を呼んでいる。文中の「ニガー」は全て「slave(奴隷)」に置き換えられたほか、「トム」に登場するネイティブ・アメリカンの悪人ジョーに使われている「インジャン」も「インディアン」よりも差別的として変更されているという(僕が子供の時に読んだある翻訳では“インド人”って直訳してたな…)。出版側の言い分は「禁止用語のために名作が広く読まれないことを憂えた苦渋の決断」というところだそうである。
 前述のようにマーク=トウェンの著作権はとうに切れているため、遺族や出版元の了解をとる必要もなく、法的には勝手に内容を変えたバージョンを出すことは問題ない。だが、国民的名作の本文を後世の人間が勝手にいじるのはありなのか、また人種差別を批判する作者の意図を理解する意味でも用語はそのままにして説明を加えるべき、といった意見もある。今度の「新版」を「無菌化」と批判する新聞もあったそうだ。日本でもちょっと前の漫画のセリフが書きかえられたりということはあるけど、古典的小説ではそうした言葉は「おことわり」をつけることでそのままにするのが基本のようだが。

 そういえばマーク=トウェンの他の代表作「王子と乞食」も、NHKでドラマ版を放送した時は「王子と少年」になっていたっけ。「乞食」っていつから差別用語扱いされるようになったんだろ。



◆買収せよ!あさま山荘事件

 単なる偶然だが前回に続いて「連合赤軍」がらみの話題になる。
 1972年2月、凄惨なリンチが起きた「山岳ベース」を放棄した連合赤軍の一部メンバーは軽井沢の別荘地に入り、19日に河合楽器の保養施設「浅間山荘」に管理人の妻を人質にとってたてこもった。28日まで十日間続いた、この浅間山荘をめぐる警官隊との攻防戦はTVで実況中継され、戦後史およびテレビ史上の大事件として記憶されることになるのだが、なぜか事件名としては「あさま山荘」と平仮名表記が定着している。
 この事件を警察側から描いた映画が「突入せよ!あさま山荘事件」(というより正確には警察庁から派遣され指揮をとった佐々淳行氏の立場か。長野県警はオカンムリだったそうだし)、その映画を批判して犯人側の視点から製作されたのが「実録連合赤軍・あさま山荘への道程」だ。なお、前者の映画は長野県警の協力が得られず新潟県内にセットを組んで撮影、後者の映画は宮城県にあった監督自身の別荘を実際に破壊して撮影されたものである。本物の「浅間山荘」のほうは攻防戦での破壊にもめげずにデザイン会社の工房として使われ、現在も現地に建っているという。

 その「浅間山荘」が中国系企業に買収された――という、なんとも歴史的に皮肉な事実が朝日新聞により報じられている。とうとうGDPでも日本を抜いた中国、本国での不動産投資ブームも頭打ちと見たか、最近日本の不動産買いあさりに走ってる動きがあるとは聞いていたが、あの「浅間山荘」を買ったとは、とやはり驚かされる。「歴史的遺跡」としての価値を考慮しているとは思えず、単に値下がり傾向で「転がし」が出来そうな軽井沢別荘として買ったんだろうけどねぇ。中国系といっても香港企業の日本法人が買収したということらしいのだが、朝日の記者が池袋のマンションの一室にあるという「本社」を取材したが応答はなく、香港紙に載っていた同一企業の役員に問い合わせをしてみたが回答は記事に載せる時点までなかったとのことで、いささか実態が謎めいている。もっともこの手の日本物件買いの中国人の密着取材をテレビで見たことがあるが、ホントに年中動き回っているのでつかまらないだけのことかもしれない。

 「浅間山荘」といえばどうしても「連合赤軍」が連想されるわけで、朝日のその記事も元全共闘活動家の人から「中国体制下にある企業が、かつて日本の親中国派が暴力で占拠した建物を、資本主義のルールで買収した。世界覇権思想にもとづく行動にも見えて、歴史の皮肉を感じる」とのイカニモなコメントを引き出していた。このコメントにもあるように、連合赤軍を構成した「赤軍派」および「革命左派」は毛沢東による文化大革命の影響をモロに受けており、当時における「親中国派」ではあった。特に「革命左派」は正式には「日本共産党(革命左派)神奈川県支部」という長ったらしい名前を名乗っており、これは当時中国共産党と大ゲンカしていた日本共産党から除名された親中国派の一部を取り込んでいた時期があったため(もっとも早い段階で共産党出身者も愛想を尽かして全員離脱している)。毛沢東は「鉄砲から政権が生まれる」なんてことまで言って世界への文革輸出までもくろんでおり、ペルーのセンデル・ルミノソだとかインドやネパールの「毛派」など、現在に至るまで熱烈な「毛沢東主義者」が世界に残る結果を生んだ。日本におけるそれが「連合赤軍」であり、実際に鉄砲で騒動を起こしてしまったわけだ。

 さて、この「あさま山荘事件」のさなかの2月21日、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問、毛沢東と首脳会談を行っている。資本主義の親玉であるアメリカと毛沢東主義革命運動の総本山そのものであるはずの中国がいきなり手を組んでしまったのだ。もちろんこれは冷戦構造の中で中ソが対立、そこへアメリカが「敵の敵は味方」の論理で接近するという、冷徹な外交パワーゲームの結果なのだが、世界はこの組み合わせにビックリした。まして連合赤軍の連中にしてみれば「悪魔の首魁と信仰の本尊の握手」みたいなもので、それこそパニックになったと思われる。
 「あさま山荘事件」をとりあげた二つの映画でもこの米中接近は描かれている。「突入せよ!」の方では山荘の外から赤軍メンバーの息子の説得をする母親の「今、ニクソンさんが毛沢東さんに会っているの。世界は変わっているのよ」というセリフで描かれ、「実録・連合赤軍」の方では山荘内の赤軍メンバーたちがテレビのニュースでニクソンと毛の握手を見て「信じられないな。反米愛国はどうなるんだよ」とつぶやく場面がある(母親の説得でもニクソン訪中が言及されている)。もっともニクソンの訪中自体は前年の7月に電撃的に発表され、その時の方がショックが大きかったと思う(その時は日本政府すら寝耳に水で佐藤栄作も激怒したと言われる)

 その毛沢東が死んで文革も否定され、中国は「社会主義体制の中での資本主義化」をグングン進め、あれから40年ばかりで日本に「金持ち御一行様」が旅行や買い物に来て、不動産まで買いあさる始末になってしまったわけだ。「あさま山荘」の中国系企業による買収というニュースには改めて時代の流れを感じさせられてしまった次第。
 <以下、震災後の付け足し>
 しかしその後、中国ではすっかり「日本は放射能汚染」という見方が広まってしまっているようで、こういった不動産買いあさりからも手を引いていくじゃないかなぁ…



◆ニッポン大揺れ

 2011年3月11日午後2時50分の少し前。僕はいつものように出勤するべく(塾産業は夜のお仕事なのです)自室で教材の用意を済ませ、授業の構想なんかを練りつつベッドに寝そべっていた。そんなところへ、カタカタカタ…という揺れがベッドをきしませ始めた。茨城県南部は地震が日常的に多発しているので最初のうちは「ああ、地震か」という程度の反応だった。初期微動から主要動へ移るのを待ち受けていると、その境目もはっきりしないうちに揺れがジワジワと大きくなってくるのが感じられた。

 (これはデカいぞ…)と思っているうちに、揺れはどんどん大きくなる。震度5クラスまでは経験したことが数回ある僕だが、(これはヤバい!)と思い始めたのは40秒ぐらい経ってからじゃなかっただろうか。ついに関東だか東海だかの大地震が来たのか、と覚悟し、自室から飛び出して近くの部屋の家族に声をかけ、隣室(僕がふだん過ごす部屋でPCやDVD、本棚が集積している)を覗きこんでみると本棚が物凄い勢いで揺れて、積まれた本が床に落下し始めていた。本棚そのものが倒れそうな勢いに、僕はその本棚を必死に支えた。もちろん本棚が倒れて下敷きになってはかなわないので脇から手を伸ばしていただけだが、今にして思うと立っていられなくなりそうな自分をそれで支えていたのかもしれない。そうこうしているうちにPCデスクの上のプリンターが落下、DVDを詰め込んだ小棚(大棚の上に乗っていた)も落下、床には本とDVDが洪水状態になってあふれた。その頃には家全体がキシむ音まで聞こえてきて、ほんの一瞬ではあるが(家が壊れるかも)と思い、恐らくほとんど生涯初めてだろう、「死の恐怖」を覚えた一瞬もあった。

 そして長い揺れは収まった。我が家では結局大被害を出したのは僕の日常部屋のみで、本とDVDの洪水状態くらいなものだった(ま、もともと洪水状態で散らかってたけど)。我が家の各所にある大きな本棚はみんな倒れもせず、落っこちた本はもともと棚の上に積んだり無理やり横に突っ込んだりしてるやつばかりだった。ただ凄い地震だと実感したのは、大きめのブラウン管TVが20cmも後ろに下がり、本棚つきの大きな机が斜めに30cmも動いていたのを確認した時だ。僕の家の地域は震度6弱程度であったらしく、さすがに僕にとっても生涯最大の地震経験となった。
 とにかく大地震が遠くで起きたようだと思い、テレビをつけてみると「津波警報」が発せられ、そのうち「大津波警報」に変わった。最初の段階では「宮城北部震度7」が明らかになっていただけで、岩手宮城内陸地震と同じところかな、と僕は思った。僕の先祖の地は宮城県栗原にあり(子供のころまで本籍はそっちだった)、あの地震の時は親戚たちも大揺れだったと聞いていたので、まずそちらが大丈夫かな、と考えていた。
 そうこうしているうちに余震が何度も襲ってきて、さらに地震と連動した茨城沖を震源とする地震(僕の地域で震度5強)が追い打ちをかけてきた。震度テレビでは湾岸地域のビルの炎上や九段会館のケガ人の様子が映り始め、かなり広範囲の大災害であることを実感させていった。津波への警戒はもちろん始まっていて、三陸方面や銚子港の海の様子もテレビに映されていたが、この時点ではこの後に襲ってくる本当の悲劇の兆候は見てとれなかった。

 すでに首都圏の交通機関はすっかり麻痺しており、僕は出勤をあきらめざるを得なかった。こりゃ大量の帰宅難民が出るぞ、出かける前で助かったな、などと思っていた僕はテレビの映す映像に釘付けになってしまった。NHKのヘリが名取川河口に押し寄せる大津波を上空からリアルタイムで映したのだ!
 真っ黒な濁流が、海がそのまま陸にのし上がって来るような勢いで名取川河口周辺の田んぼや家屋、自動車を容赦なく押し流していた。二階に逃げれば、なんて状態じゃない。家が丸ごと飲み込まれ、押し流されていた。中には押し流されたまま火を吹いている家屋もある。濁流は一向におさまる様子を見せず、自動車の群れを砂場の洪水に飲みこまれたミニカーみたいに押し流して、そのまま名取川にたたき落としていた。「これって……家や車に人がいるんだよな?」と僕ら家族は唖然としてその光景に見入り、恐怖したものだ。
 名取川のあたりだけでなく、三陸地方の港町や仙台平野から福島浜通りにかけての地域が大津波により壊滅的な被害を受けたことがどうやら分かってきたのは夜になってからだった。気仙沼が火の海になっている空撮映像にも愕然とさせられた。宮城にいる親戚たちに電話をかけてみたが全く通じない。多くは栗原や仙台市内内陸部に住んでいるので命の危険はないだろう…と思ってはいたのだが、僕の従兄弟の一人は亘理に在住しており、それだけは心配だった。結局連絡がとれたのは四日目になってのことで亘理の従兄弟も含めて大半の親戚は無事が確認された。ただ、諸般の事情でもう20年以上も疎遠で音信不通状態の従姉の一人は南三陸に住んでいたとかで、その消息については現時点でも親戚の誰もつかんでいないようだ。

 「ツナミ」という言葉が世界語になっていることからも分かるように、日本人は経験を繰り返して地震の後に襲ってくる津波に強い警戒心はもっていた。今回だってみんな決して油断していたわけではない。だがマグニチュード9.0という、千年に一度と言われる世界的規模の連動型超巨大地震が起こした津波はそうした警戒予想を遥かに越していた。津波被害をうけやすいとされる三陸の港町を守るはずだった頑強な防波堤も役に立たず(2月の受験対策の授業で宮古市の防波堤が載る地形図を使った過去問をやってたっけ…)、かろうじて高台に逃げのびた人を残して町がまるごと波に飲み込まれ、徹底的に破壊された。三陸だけではない、平野部でも大津波が押し寄せて数キロ先まで飲みこんでしまっていた。今回のことで何かと引き合いにされているのが貞観11年(869年)に起こった「貞観地震」で、そのときは多賀城まで津波が押し寄せ1000人が死亡したとされている。
 現時点で判明しただけで死者・行方不明者は2万8000人に達し(後日の注:その後この数字は確認が進むにつれ下がって行き、結局は死者・行方不明者含めて2万人を切っている))、阪神・淡路大震災を超えて関東大震災に次ぐ犠牲者を出す大災害となってしまった。確認された死者は1万人を超えているが、その身元が判明したのは74%程度だという。津波による被害だけに身元が分からないどころか、遺体すら見つからない人が圧倒的に多いという惨状だ。津波の直撃を受けた町の光景は地震というよりも空襲の跡に近い。菅直人首相は当日に「戦後最大の国難」と表現し、被災地では「集団疎開」なんて21世紀になって聞くとは思わなかった単語も実際に行われるし、天皇は「玉音放送」よろしくビデオメッセージを発表した。確かにこれは日本人が先の大戦以来久々に経験している歴史的災難なのだ(と同時に人間が引き起こす戦争の「災害度」も相当なもんだなと思う)

 おまけに福島の原発が津波の直撃を受けて深刻な放射能漏れ事故を起こした。状況は一進一退(少しずつは前進してる感じだが)で今も予断を許さない。内外メディアも途中からすっかり原発情報ばかりに集中した感があり、我が家でも家族が顔を合わすたびに「原発は何かあったか?」という話題が出る日常だ。
 チェルノブイリのような大爆発というのでもないのだが、なかなか制御できずに日数が延びてることもあってスリーマイルのレベルは超えたのではないかと言われている。ただあくまで印象なのだが、海外での大騒ぎぶり(日本全土が放射能汚染されたみたいな勢いだ)に比べると日本国内は案外落ち着いているというか…僕のところだって近いと言えば近い場所なので怖くないと言えばウソになるが、周囲も含めてみんな逃げ出すわけでもなく、落ち着いたもんだと…船橋に不法滞在していた中国人が長崎まで逃げて強制帰国させてもらうために自首した、なんてニュースを聞くと、みんな冷静な対応をしている方だと思う。政府レベルで発表することを大人しく聞く傾向があるのか、はたまた小松左京「日本沈没」で出てくるように、「何もせんほうが、ええ」という諦観なのか。ま、誰でも漠然とした危機感だけで生活を全部放り出すわけにはいかない、ってこともあるだろうが。外国からも日本人の大人しさに驚きの声があがっていたらしいが、地震、火山、台風、洪水などなど、災害の百貨店みたいなこの国の住人たちならではの反応、ってこともあるかもしれない。

 大地震発生以来2週間以上、大きな余震はしょっちゅうあった。震度4クラスが毎日来たような時もある。さすがにここ数日は規模とサイクルが小さくなってきた気はするが…「今日はないねぇ」なんて誰かが口にしたとたんにグラッと来る、の繰り返しだ。
 太平洋側の余震ばかりでなく、新潟中越地方や静岡東部でも今度の巨大地震に触発されたとみられる大きな地震が起きた。それを見ていてますます「日本沈没」を連想してしまう人は多かったようで、僕の映画サイトにある感想ページにアクセスが急に増えていた(余談ながら数日前には「クレオパトラ」が急増した)。それもあって僕も先ほど「日本沈没」の映画DVDを観賞しなおしてみたのだが…被害の規模こそ違うけど、大地震、製油所の爆発炎上、町を飲みこむ大津波など、今見るとドキリとする場面が多かった。当時のミニチュア特撮なので今の映像を見なれた目にはチャチくはあるが、津波シーンなんかは特に「ああ、実際にこんな感じだったよな」と思わされた。

 映画つながりで思い出したのは黒澤明監督の「夢」だ。黒澤明が見たという夢を映像化したメッセージ性の強いオムニバス映画だが、そのうちの一編「赤富士」は原子力発電所の爆発事故が描かれている。これもDVDで改めて見てみたが、富士山が爆発で溶けてゆく描写には「夢」とはいえ大げさなと感じつつも、「6つの原子炉が次々と爆発した」なんてセリフにはやはりドキッとする。この「夢」のアイデアの秀逸なところは放射性物質が見えないから危険だっていうんで着色技術が開発された、という設定で、「あの赤いのはプルトニウム239、黄色いのはストロンチウム90、紫色のはセシウム137。バカな話だ、分かってて死ぬか分からないで死ぬかの違いさ、死神に名刺をもらったって」といったセリフもある。幼児二人を抱えて避難する母親が「原発は安全だ、危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はない、絶対にミスは犯さないから問題はない…ってぬかしたやつら、みんな縛り首にしてやりたいよ!」と叫ぶと、先ほど放射能の色を説明していた男が「すいません、私もその縛り首の仲間の一人でした」と告白し、海に身を投げてしまうというシーンも今見るとまた慄然とさせられる。そこへ赤い色の空気が押し寄せてきて主人公たちは必死にそれから逃れようとするところでブラックアウト…という、まさに「悪夢」だ。

 2週間も経つと、ようやく僕もかなり「日常」に戻ってこれた気がする。だからパソコンもつけて「史点」なんぞ書く気になってるわけだが、それまでは精神的余裕はなかった。我が家を見舞った災難と言えば、まず二日半の断水。たったそれだけだが水がこれほど貴重な物だったとは、と思い知らされたものだ。近くの公園でなぜか出る水を取りに行ったり、小学校の災害時用給水施設でもらい水をしてきたりといった経験も初めてした。それから1週間ばかりのガソリン不足騒動。それと連動した各種の物資不足(この辺は「石油危機」時の状況を思い起こさせた)。それでも仙台の親戚たちの状況に比べればずっとマシなもので、あちらは水・電気・ガス全てが停止した状態で1週間以上も過ごし、給水や食料を買いに行くのにも数時間待ちという有様だったそうだ。
 そしてこちらは鉄道の不通(常磐線は依然土浦どまりである)と、いつ停電になるかわからない情勢のため仕事関係も無茶苦茶に。塾産業は基本「夜のお仕事」なもんだから、スケジュールはどこも崩壊状態。幸い、僕の住む茨城県に関しては計画停電の対象外(被災地があるため)になっているので近所の塾は無事に再開しているが、原発ぶんの電気が急に補充できるわけもなく、夏以降の電気事情がどうなるか気をもんでいるところだ。電気に関してはみんな利用方法と発電方法を改めて考え直すいい機会ととることもできるかもしれない。

 ひとつ自分にとって改善点があったとすれば、節電を意識して「早寝早起き」が身についたことだろうなぁ…(笑)。


2011/3/28の記事

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