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2011年8月2日

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◆今週の記事

◆我が総統は不名誉市民

 ナチス・ドイツの独裁者アドルフ=ヒトラーはもともとドイツ人ではなくオーストリアの生まれだ。1889年4月20日にドイツとオーストリア国境のブラウナウで生まれ、青春期はウイーンで過ごし、第一次世界大戦の時にはドイツにいて志願しドイツ兵として戦っているが1925年までオーストリア国籍だった。ドイツの総統となったのちに生まれ故郷のオーストリアを併合しているが、オーストリアもドイツももともとドイツ民族・ドイツ語の国であり歴史的いきさつで別々の国家になったというだけのことで、ヒトラー本人はドイツだオーストリアだということはさして問題にしていなかったかもしれない(その一方でオーストリア=ハンガリー帝国の兵士にはなることは避けているので、あくまで「ドイツ」にこだわりがあったのだろう)

  ブラウナウには今も「ヒトラーの生家」が残っているが、さすがに現代史最大の悪役であるヒトラーの生地という事実はブラウナウ市にとってはあまりに重い荷物であり、それこそ「聖地」にされてはかなわないので扱いに困っていたようだ。ブラウナウ市はヒトラー生誕百周年の1989年に市長のアイデアで「ヒトラーの生家」前に強制収容所から持ってきた石で「ファシズム犠牲者のモニュメント」を建て、戦争やファシズムの歴史を検証するシンポジウムやホロコースト関連施設への奉仕活動などを毎年行うなど、いわば「ヒトラーの生地」であることを「負の遺産」として反戦・反ファシズム運動の「聖地」にしようと頑張って来たそうである。

 ところが。このブラウナウ市の一部地区(ヒトラー生地を含む地域)がヒトラーに「名誉市民」の称号を贈っていたことが発覚したからさあ大変(笑)。もちろんそんなものを贈ったのは戦前の話で、ヒトラーがドイツの首相に就任した1933年に生まれ故郷から就任祝いのプレゼントとして贈り、そのまま戦後も放置されていた(詳しくは分からないがどうも市町村合併による混乱もあったみたい)というのが真相。
 なんでも今年に入ってオーストリア各地の自治体で「ヒトラーに送った名誉称号がそのままになっている」との疑惑が浮上、ブラウナウでも調べてみたら「名誉市民」のまんまになっていたことが確認されたというわけ。慌てたブラウナウ市議会は7月7日に全会一致で「名誉市民称号取り消し」を決議した。ヒトラーが死んでから66年も経って発覚した思わぬ「負の遺産」というわけだが、いっそ「不名誉市民」という称号を新設してみるのも手かもしれない。

 それにしてもナチスというのはヨーロッパ、とくにドイツでは神経質に扱わねばならない現在進行形の問題なんだな…と思わされたのが、7月20日にルドルフ=ヘスの墓が撤去された」というニュースに接した時だった。上の話題だけで「史点」記事にするつもりでズルズル執筆を遅らせていたら見事に関連ニュースが入って来ちゃった次第でもある。
 ルドルフ=ヘスといえばヒトラーに次ぐナチスの副総統。戦後は終身刑判決を受け、1987年に獄中自殺した。本人の希望によりドイツ南部ウンジーデルにある、両親の墓がある教会に葬られたのだが、これがナオナチどもの「聖地」と化してしまい、ヘスの命日にネオナチがここで集会を開いたり、これに反対する団体と衝突事件が起こったりと問題になっていたのだそうだ。そんなわけで教会側が墓の撤去を決定し、遺族側も受け入れることになったという。
 ヘスの遺骨は墓から取り出されて火葬に付され、灰は海にまかれるという。僕はもちろんナチスなんぞ肯定するわけないが、正直なところ「そこまでせんでも」と思ってしまう。まぁネオナチの「聖地」化するのは困っちゃうから、というのは分からんではないが…

 という二つの話題をくっつけてまとめるか、と思いつつさらに執筆を遅らせていたら、7月23日にノルウェーで100人近くが殺害されるという大事件が発生。犯人はナオナチに共感して移民排斥を主張、テンプル騎士団を気取り反イスラムを唱える極右思想の青年であったと報じられており、まさに彼の中での「我が闘争」実行してしまったようだ。これはかなり極端な奴だとしても、根深くいろいろつながってくるなぁ…と思わされたものだ。
 直接的な攻撃対象を移民やイスラム教徒ではなく、左派系与党の労働党関係者や元首相に向けたのは、むしろノルウェー全体としては移民に寛容であること自体が許せなかったんじゃないかと思う。この男が日本と韓国を排他的な理想国家のように語っていたり(とくにイスラムに、という意図らしいが、確かに世界的に見るとこの両国は単一民族意識と排他性は高い方だ)、会いたい人物としてローマ法王やプーチン首相のほかに麻生太郎元首相の名前が挙がっていた(彼がカトリックだから、という可能性もある。韓国も実質カトリック国だし)という話にはちょっと戦慄も覚えた。



◆男女同権で国歌改正

 僕の母校の高校はもと男子校で、すでに共学化していた僕の在校時も女子が若干少なかった(男子のみクラスが1クラス、女子がやや少ないクラスが2クラスぐらいだったかな)。ちなみに同じ市内の近くにあった元女子高のほうも共学化していたが、こちらの方は男子は圧倒的に少なく、各学年ひとけた程度だったと聞いている。やはりもと男子校に女子は入りやすいが、元女子校に男子は入りにくい…という心理はあるのだ。
 ところでそんな元男子校の我が母校だが、その校歌の一部に「健男児」という個所があった。すでに半分近く女子がいたのにこの部分は変更されていなかった。まぁ五番まである校歌の三番だったから、まず歌う機会がなかったからでもあるだろう。なお、我が母校の伝統的な応援歌(高校野球の応援時などに使われる)には「さあ乾杯だ乾杯だ杯あげて♪」という未成年には問題となりそうな歌詞がそのまんま残っていた(笑。さすがに実際に歌ったことはない)。20世紀最初の年の創立なんて学校だったから、昔はそんな雰囲気があったのかもしれない。
 そういえば僕の母の母校は戦前は女子校であったため校歌の歌詞に「おとめ」という部分があり、戦後バージョンでは「おのこ」部分が追加されているそうである。

 さて本題は、上の記事に続いてオーストリアの話。
 ナチス・ドイツに併合されたオーストリアは戦後「永世中立国」として復活し、国歌も改めて制定された。その国歌が今さらではあるが「改正」の運びとなったことが報じられている。その改正となる個所がまさに「偉大な息子たちの故郷」というくだり。「オーストリアにいるのは男だけじゃないだろ!」というツッコミがかねてあったそうで、今年7月13日に中道左派の社会民主党と保守の国民党の二大政党を含む主要政党が国歌の改正に合意、「息子たち」だけでなく「娘たち」という部分も加えることになったそうである。レディファーストということなのか「偉大な娘たち、息子たちの故郷」という案が出ているそうだが、メロディーや語法も考慮して秋までに正式決定、来年から使用という予定だそうだ。
 もっとも現在のオーストリア建国から半世紀以上が過ぎてるのだから、問題にされるようになったのも最近なのではないだろうか。作詞をしたのも女性作家だったそうだし、あのころだと「息子たち」は性別を問わず国民全般を指すイメージであったのかもしれない。さすがに死語になって来てるけど大半が母親なのに「ご父兄の皆様」なんて日本の学校でもよく言ってたし。



◆そしてまた新国家

 つい先日塾の生徒の一年生たちに「国連加盟国は全部で192」と覚えさせたばかりだと言うのに、193カ国目の加盟国が出現してしまった。そう、この7月9日に独立してさっさと国連に加盟した「南スーダン」のことである。

 「スーダン」という国はエジプトの南にあり、「スーダン」という名前自体もともとエジプト南方の砂漠地帯全体を大雑把に指すものだったという。このスーダンの19世紀を舞台にした「サハラに舞う羽根」という邦題をつけられた映画(英語原題は"Four Feathers")があって、公開当時僕は「あそこまでサハラに入れるのか?」などとツッコんだものだが、実際もともと「サハラ」と「スーダン」は大雑把に重なっており、そう無理な邦題でもないとの指摘を受けたことがある。
 そんな大雑把なスーダンはさておき、現在につながる近代スーダンの歴史はイギリスによるアフリカ分割・植民地支配によって幕を開ける。19世紀後半にイギリスは北はエジプトから、南は南アフリカからと縦方向に勢力を広げてゆき、スーダンにも手を広げる。このときスーダンの北部乾燥地帯は北のエジプト(イギリスの保護国になっていた)の、南部の湿潤地帯はイギリスの統治下に置かれた。この国は北部はエジプトから入ったアラブ系のイスラム教徒が多く、南部は隣国エチオピアからの伝統的影響とイギリス統治下における布教とでキリスト教徒が多くなり、これが長年にわたる南北の対立を招いて最終的に今回の分離独立につながっていくことになる。

 スーダンと言えば高校で習う世界史では「マフディー教徒の乱」が有名だ。1881年にイスラム神秘主義の「マフディー派」が反イギリス運動を起こし、その鎮圧にあたったゴードン将軍がハルツームで戦死した。このてんまつは映画「カーツーム」(チャールトン=ヘストンがゴードン役)で描かれているが、先述の「サハラに舞う羽根」も同じ戦争を背景としている。
 さらにスーダンで起こった世界史的事件と言えば、1898年の「ファショダ事件」もある。アフリカに縦方向に勢力を広げるイギリスに対し、フランスは西アフリカから東へと横方向に勢力を広げ、その両者がスーダンでぶつかり、戦争直前までいったという事件だ。帝国主義・世界分割競争の象徴的事件とされるもので、上記マフディー教徒の乱と合わせてスーダンという国が大国の食い物にされてきたことが良く分かる。

 1956年の独立後、この国では北部アラブ系の支配に対する南部やダルフール地方の民族的抵抗、さらには南北の中間にある石油資源の争奪戦も絡んで、長い内戦が続いてきた。1989年以降スーダンの政権を握ったバシール大統領の独裁のもとでアラブ系による他勢力への弾圧が激化し、とくにダルフールにおける悲惨な状況が欧米諸国を中心にバシール政権への非難を呼ぶことになる(ただその中にはイスラム教対キリスト教の構図で単純化しようとするような欧米的イヤミが見れなくもない)。その一方で中国がこの国の石油資源を買い取ることでバシール政権を援助する構図もあり(先述のゴードンの話を持ち出して中国とスーダンの「縁」を強調したりもするそうな)、ロシアもそれに同調するという「冷戦的パターン」がここでも見られる。今も昔も大国の対立構造の中で揺れ続けている国、ということも言えそうだ。

 ともかく2005年に南北内戦の和平合意がなされ、南部スーダンは6年間の自治期間ののち、今年1月に独立の是非を問う住民投票が実施された。 その結果98.8%が独立に賛成し、その結果を北部も受け入れ、この7月9日にめでたく独立が実現した。長い内戦を想えば、少なくとも表面的には穏やかに分離独立が実現した形ではあるが、南北両国にまたがるアビエイ地域にこの国の生命線ともいえる石油資源があり、そのまま線を引くと南部に多くが持ってかれてしまうということで北部側が反発し、火種がくすぶっている。南部も石油資源を確保したところでパイプラインなどのインフラは北部にしかなく、北側となんらかの話をつけなくてはならない。両国共有にして収益も配分しては、という案も出てはいるそうだが、現実にやるとなるとなかなか難しそう。
 なお、今回の独立で新たに生まれた南北間の国境線は、植民地時代に支配国が勝手に決めたのではない、アフリカ現地住民で決定したアフリカ史上初めての国境線になるのだそうな。

 ところで、何の関係もないような関連話を。
 アメリカはカリフォルニア州のリバーサイド郡議会で7月12日、カリフォルニアの南部13郡を独立させ「南カリフォルニア州」にしてしまおうという提案が承認された、というニュースがあった。なんでもカリフォルニア州は深刻な財政赤字に陥っており(そういえば前知事は「ターミネーター(処刑人)」でしたっけな)、現知事がその打開の一策として、これまで州で徴収し各市に交付していた自動車登録料を2004年以降に出来た市には交付しない方針を決め、これに該当する自治体が反発している(なんと財源の3分の1〜4分の1が消えるそうで)のだという。リバーサイド郡にはその該当する市が4つもあり、それで怒りにまかせて「独立」をブチあげてしまったらしい。
さすが南北戦争をやっちゃった国、とツッコミつつ、あんまり本気ではなさそうとは思うが、もともとカリフォルニア州自体が巨大な州なのでいっそ分割した方がいいという声も以前からあるそうで、CNNの記事によると1800年代以来実に27回も分離独立の試みがあり、全て失敗に終わっているのだという。



◆スペースシャトルの幕がおり

 「2011年」なんて数字は、僕の少年時代には完全にSFの領域だった。これは僕の世代に限ったことではなく、1900年代を生きた記憶のある者の大半は「2000年代」なんてそんな認識をしていたと思う。やはり長い間「1」から始まっていた年数が「2」から始まるようになるのは大変な飛躍に感じてしまうのだろう。
 「2001年」「2010年」というSF映画があったが、その中では人類はすでに巨大な宇宙ステーションや月面基地を持ち、それらを結ぶ宇宙連絡船も運行され、木星までの有人探査も行われていた。「2001年」が製作されたのはアポロ11号が月面着陸に成功する直前のことで、あの当時の宇宙開発の進展ぶりを見ていれば21世紀初頭にはここまでいってるだろう、という判断が出るのも無理はなかった。

 よく言われるように、この当時の宇宙開発の進展ぶりは東西冷戦を背景にした米ソ二大超大国の、それぞれ異なる国家体制の威信をかけた大レースであったからだ。ソ連が人工衛星、有人宇宙飛行を先駆けて成功させると、焦ったアメリカは「先に人類の月面着陸」を目標にアポロ計画に突き進む。国家の威信をかけた勝負だけに予算はほとんど天井知らずに認められ、とうとう1969年にアポロ11号で月面着陸を成功させてその目標は達成される。ソ連もひそかに人類月面着陸計画があったが先を越されたことで悔しいから封印、アメリカの方も当面の勝負に勝ったことで意義が一気に低下し、当初20号まで予定されていたアポロ計画は1972年の17号で打ち止めとなった。

 月着陸レースが終わると、アメリカの宇宙開発は予算も大幅に削減され、より採算性があり実用的な利用を目指すことを余儀なくされる。そこで登場するのが再利用可能な宇宙連絡船システム、「スペースシャトル」というわけだ。
 スペースシャトルの実用第一号「コロンビア」が宇宙に打ち上げられたのが1981年4月12日。この時のことは僕も子供心に良く覚えていて、とくに打ち上げの時よりも地球に帰還した「コロンビア」が普通の飛行機のように滑走路に着陸する映像にひどく感動した。これは宇宙旅行もぐっと身近なものになるに違いない、と視覚的に良く分かったのだ。当時読んでいた子供向けのスペースシャトル解説漫画でも打ち上げ時にかかるGが少なく、特殊な訓練を受けた人間でなくても「飛行機に乗るのと同じ程度」に宇宙に出られると解説していたのを覚えている。もっとも実際にはスペースシャトルに乗るには300時間の訓練をさせられるので、そう簡単なものではないらしいが。

 その後順調に5年間、スペースシャトルは「コロンビア」「チャレンジャー」「ディスカバリー」「アトランティス」が次々と打ち上げられ、宇宙との往復を続けた。ところが1986年1月28日に「チャレンジャー」が打ち上げ直後に空中爆発するという惨事が起こり、アメリカの威信とスペースシャトル計画そのものに大きなダメージを与えた(僕がその日朝起きてTVをつけたら何やら発射台を背景に英語で大騒ぎしていて、母が「核ミサイルでも誤射したんじゃ」と言ってたものだ)。奇しくもこの年はソ連でチェルノブイリ原発事故が発生し、こちらも今にして思えば末期だったソ連の威信を大きく傷つけることになる(今年はそれからちょうど4分の1世紀後だったわけだ)
 ただソ連、その解体後のロシアの宇宙開発自体は堅調で、宇宙ステーション「サリュート」「ミール」の設置による長期宇宙滞在の実現と、それと往復するソユーズ宇宙船(こちらは使い捨てタイプ)の運行とで、スペースシャトルよりも安定感があったのは事実。「チャレンジャー」の事故の影響で当初スペースシャトルに乗って日本人第一号の宇宙旅行者になる予定だった毛利衛さんではなく、ロシアのソユーズに「宇宙特派員」として乗りこんだTBS社員秋山豊寛さん(民間企業の費用で宇宙に出た人類第一号だったりする)が日本人初の宇宙旅行者になるという展開もあった。ロシアはスペースシャトルのような再利用方式は採用しなかったが(計画自体はあったが予算の都合で放棄された)、ソユーズもまた「一般人でも乗れる宇宙船」となっており、秋山さんもそうだし、「世界初の個人出費による宇宙旅行」はソユーズによって実現している。
 スペースシャトルは「チェレンジャー」事故のあとに「エンデバー」を投入、またしばらく順調な運行を続けて実験研究や衛星設置、国際宇宙ステーションの建設などで活躍したが、2003年2月1日に「コロンビア」が大気圏突入の際に空中分解する事故が発生(発生翌日に「史点」にとりあげている)、またもスペースシャトルの中断と安全確保のための打ち上げ費用の増大を招くことになった。本来費用削減を実現すべく開発されたスペースシャトルだったが、結果的には高くついてしまったんじゃないかとの意見もある。

 ブッシュ前大統領の時代にスペースシャトルの打ち止めと、その次を担う「オリオン宇宙船」の開発、「もう一度月へ」の計画も始められたが、オバマ大統領になってから計画は見直され、2010年に正式に月探査計画は中止、代わりに火星探査計画がブチあげられたりはしたが2030年代に実現かという遠い先の話で、オリオン宇宙船についても見直しがなされて、いつ実現するやら分からない状態に。そしてそんな中でスペースシャトルがついに終焉を迎えることになった。今後アメリカではNASAによる宇宙開発は月だの火星だのといった遠くのものに絞り、人工衛星レベルのものは民間企業の宇宙船に任せることになるのだという。まぁ今アメリカ議会で国自体が債務不履行になるのならないのといった大騒ぎをしているのを見ると、宇宙開発に予算をかけてられないのは分かる(戦費よりはマシという気もするけどね)。なお、スペースシャトルの終焉により、NASAでは計画にたずさわっていた技術者などおよそ8000人が一気に職を失うそうで…
 最後に宇宙に出るスペースシャトルとなったのは「アトランティス」で、7月8日に打ち上げ、7月21日に無事帰還した。正直ちゃんと帰って来るまで心配だったが、いつものように滑走路にパラシュート付きで着陸してくる映像を見た時は「ごくろうさまでした」と頭が下がったものだ。宇宙開発史も一つの時代が終わった、ということだ。

 一つの時代…といえば、日本SF界のパイオニアにして巨星、小松左京さんが7月26日に80歳で永眠された。もっとも僕自身はこの人の小説はなぜか「エスパイ」しか読んでおらず、映画「日本沈没」「復活の日」「さよならジュピター」を見ているというていたらくなのだが、近ごろの訃報の中でもとくに「一つの時代の終わり」を感じてしまったものだ。


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