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2011年9月28日

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◆今週の記事

◆製造年月日入りの剣

 「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果●」(●は練の可能性あり)

 …という文字が彫られた刀剣が古墳から発見されたと福岡市教育委員会が9月21日に発表し、大きな話題を呼んでいる。刀剣に銘文が見つかるのはこれが初めてではないし、作成年を刻んだ物も前例があるが、今回の発見は作成された年月日が完全に特定でき、しかもどのような暦を使っていたのかが日本史上初めて確認できた事例であることが大きい。

 「えと」というと、毎年の年賀状で今もおなじみではあるが、あれはあくまで「十二支」のほう。その十二支に「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の「十干」が組み合わさって「干支(えと)」を構成している。十干のうち「甲乙丙丁」についてはかつて成績評価に使われていたが近ごろではなじみが薄い。かろうじて契約書や法律関係の書類で二者を「甲」「乙」と呼ぶ慣習が残っている程度だ。
 十と十二の最小公倍数が「60」である。「甲子」「乙丑」「丙寅」「丁卯」…と十干十二支を順番に組み合わせていくと60個の組み合わせが出来る(単に組み合わせなら120個できる計算だが順番にあてはめていくため半分になる)。かつてはこれを日付や年にあてはめて暦が構成されており、年のほうは「壬申の乱」「戊辰戦争」「甲午農民戦争」「甲子園」…のように歴史用語で今もおなじみだ。また六十一年目で干支が一巡りすることから「還暦」があり、赤ん坊に戻ったということで赤いチャンチャンコを着せるなんて習慣も今も残る。昔は人生のうちで同じ干支の年に再会することは珍しかったし、元号も不規則にコロコロ変わるものだったから、干支でその年を覚える方が便利だったとも言われている。
 だがその一方で、例えば稲荷山古墳出土の鉄剣のように「丁亥年」と書かれているだけで何年のことを指しているのか確定できない場合もある。この鉄剣の場合は471年説が有力視されているがその60年後の531年説も存在するのだ。そこへ行くと今回発見された刀剣は「大歳庚寅」と年の干支だけでなく、「正月六日庚寅」と日付の干支まで明記してくれていたため、その製造日が完全に特定できる。その年は西暦に直すと「570年」。銘文を現代語訳すれば「570年1月6日(太陽暦じゃないけど)の日の時に刀を作り、およそ十二回鍛えた」という内容になるようだ。

 570年というと、日本では欽明天皇の31年目(日本書紀に従った場合)。この天皇の治世の552年に百済から日本に仏教が公伝していて、その仏教受容をめぐって物部氏と争った蘇我稲目(蘇我馬子の父)がこの570年に亡くなっている、とまぁそんな時期だ。宗教つながりになるが、この570年という年はイスラム教の預言者ムハンマドが生まれた年でもある。
 今度の発見により、この570年という年が、現時点で日本で暦が利用された最古の例ということになる。そして使っている暦の種類も日付の干支から確定できる。中国の南北朝時代、南朝の宋で何承天(370-447)という学者によって編纂された「元嘉暦」が使用されているのだ。
 中国での元嘉暦の使用は509年までで止まっているが、これを受け入れた朝鮮半島諸国や日本ではその後も利用が続いた。元嘉暦の日本への伝来については、『日本書紀』によると欽明14年(553)6月に百済に「医博士・易博士・暦博士」をよこしてくれと要請したのに答えて翌年(554)にその三博士が来日したと記されており、このとき元嘉暦が日本にもたらされたと解釈されている(それ以前から元嘉暦使用の可能性自体は考えられているが)。今回の発見は元嘉暦が実際にちゃんと使われていたことを示すもので、『日本書紀』のこのあたりの記述がそこそこ信用できることも示したわけだ。なお、日本はその後も長く元嘉暦を使い、唐から直輸入された儀鳳暦に改めたのは7世紀末のことになる。

 さて暦使用を考える上でも重要な発見となったこの刀だが、どういう経緯で作られたものなのか、どういう人物が持ち主だったのかについては意見が割れている。福岡の古墳から出たのだから、この地の有力豪族が持ち主だろうとは想像できるが、「大和政権から北九州の有力豪族に下賜した」という見解と、「朝鮮半島に近く高度な技術・文化があった北九州の豪族が自分で作って刻ませた」という見解とが新聞では見受けられた。
 ただ、どっちにしてもこの刀を作らせた、あるいは賜った当人が古墳の被葬者とは考えにくい。なぜかというと古墳の方は副葬品の土器などから「7世紀半ば」の築造と推定されており、下手すると刀剣製作時期とは百年近くの年代差が存在することになるのだ。先祖が持っていた刀を、何かの理由で一緒に埋葬することになったのか…?
 もしかして、裏面に「品質保証五十年」とか記されていないだろうか(笑)。



◆琵琶湖の底に集落が

 「琵琶湖の底に集落の遺跡を発見」というニュースを見たとき、僕が最初に連想したのが「天外魔境II卍MARU」のことだった。知らない方のために説明しておくと、これは1992年にPCエンジンスーパーCDロムロムソフトとして発売された超大作RPGで、日本によく似た「ジパング」という世界を舞台にした和風世界に特徴があった(この「II」では中部・近畿・中国地方を舞台にしている)。このゲーム、CD−ROM容量を生かして当時としてはケタはずれのスケールを誇っており、平均プレイ時間が60〜80時間もあったりするのだが、そのゲーム終盤で、主人公が琵琶湖の底に眠る古代の神殿に行くというくだりがあるのだ。このゲーム、あちこちにその地方の伝説を元ネタにした設定がちりばめられているので、恐らくこの「琵琶湖の底の遺跡」もそうじゃないかと思っていたのだが、今度のニュースを見て「やっぱり」と思ったのだった。

 9月12日に滋賀県立大学の学生グループが発表したところによると、今年6月から滋賀県長浜市の琵琶湖沖100mの湖底(水深約1m)に学生たちが素潜りによる調査を行った結果、石仏や供養塔など約430点、東西38m南北26mに及ぶ石群が確認されたという。これらの石仏や供養塔の形状は1530年から1610年ごろのものと推定され、1586年の「天正大地震」で琵琶湖に水没したと伝えられていた「西浜村」の遺跡とほぼ断定されたようだ。

 天正大地震が発生したのは天正13年11月29日(西暦1586年1月18日)の亥刻(22時)のこと。震源地は岐阜県中北部、マグニチュード7.8クラスであったと推定されている。被害は北陸・東海・近畿さらには四国にまで広がる甚大なもので、複数の断層が同時に動くタイプの大地震であったと見られている。伊勢湾、若狭湾に津波が押し寄せて多くの人命を奪ったほか、琵琶湖沿岸でも多くの村が水没したと伝えられている。琵琶湖の場合は津波ではなく、まず液状化が起こって地盤沈下が発生、そのまま地盤が横滑りに湖にひきずりこまれる、というメカニズムで村ごとの水没が起こったと推測されているようだ。

 今回確認された西浜村以外にも、同じ長浜市沖に下坂浜千軒遺跡と呼ばれる水没集落が確認されていて、これも今回と同じ滋賀県立大学により調査されていて、やはり天正大地震の際に水没したとみられている。なお、当時の長浜には、あの「山内一豊の妻」の夫として知られる山内一豊(笑)が城主として入っており、この自身のために娘や家老を失っている(大河ドラマ「功名が辻」でも描かれたらしいのだが見てなかった)
 ネットでちょっと調べてみると、琵琶湖の「湖底遺跡」というのはなんと90個ぐらいもあるのだそうで、縄文時代から江戸時代まで、幅広くとりそろえられているようだ。江戸時代のものでもやはり地震による水没とみられる遺跡があるそうで、穏やかなイメージがある琵琶湖沿岸にもそういう怖い歴史が秘められていたのだな、と思い知らされた。今年改めて思い知らされたが、この国はホントに災害のバリエーションについては世界トップクラスなんだよな。


◆「妻帯」をめぐる裁判

 9月22日、福井地裁において、ある裁判の判決が下った。あまり大きなニュースになるようなものではないが、「史点」的には注目してしまう内容だった。その裁判とは、「僧侶は妻帯してはならない」という戒律の是非が問われたものだったからだ。
 訴えを起こしたのは栃木県足利市に住む曹洞宗の僧侶(61歳)。彼が今年7月、福井県にある曹洞宗の総本山・永平寺を相手に、「曹洞宗の僧侶が妻帯をするのは開祖道元の教えに背く。僧侶の教育を是正せよ」と裁判を起こしたのだ。そして出た判決は「裁判所が僧侶の教育を是正するのは信教の自由の侵害にあたる。憲法上、この種の裁判を審理することは許されない」というもので、原告の訴えは却下されている。要するに各宗教団体でやってることに裁判所が首をつっこめるわけがありませんよ、と門前払いしたわけで、まぁ妥当な判決だ。そもそも「何を今さら」な訴えだとも言える。

 この原告の僧侶が主張するように、確かに曹洞宗に限ったことではなく、本来仏教では僧侶は妻帯はおろか女性との性交渉自体が禁じられている。どの段階からあったものかは知らないが、仏教の僧侶が守らねばならない戒律として「五戒」「八戒」「十戒」といったものがあって「不殺生(生き物を殺さない)」「不妄語(いい加減なことを言わない)」「不飲酒(酒を飲まない)」「不偸盗(盗みをしない)」などと並んで「不邪淫」があり、これが女性と性交渉をしないことを指す。もっとも一般の在家信者に関しては「邪」ではない性行為ならいいという考え方もあって許容範囲はあった。というか、一般信者までこれで厳格に縛っては子孫がいなくなってしまう。
 宗教というやつはしばしば「禁欲」を信者に求めるもので、とくに教団内エリートたる聖職者には一般人を超えた禁欲が課されるものだ。キリスト教でもカトリックや東方正教会の聖職者は原則男性で妻帯は禁じられている(一部例外あり)。もっともあの業界でも女性聖職者を認めるかどうかや結婚自体についても認めていいんじゃないかという議論は出ているようだ。
 そういえば「モーセの十戒」の「汝姦淫するなかれ」を「姦淫せよ」と誤植しちゃった(否定語を入れ忘れた)「姦淫聖書」なんてレアなものがあったっけ。

 ところで仏教の開祖・お釈迦様ことゴータマ=シッダールタは結婚もしたし子供もいるが、あれはあくまで出家前の話。仏教経典の漢訳で知られる鳩摩羅什(クマラジーヴァ)のように、君主から女性との結婚を迫られて還俗を余儀なくされた例もある。また記録にわざわざ残らないだけで、実際には肉も酒も飲み食いし、女性と交渉をもった僧侶が多数いたことは間違いない。日本史を見ても皇族も含めた上流階級の人間が出家した後にお子様を作ってるケースは割と普通にあった。
 日本の仏教史上、僧侶の身でありながら公然と妻帯した人物としては浄土真宗の開祖・親鸞の例が有名だ。親鸞には恵心尼という妻がいて、子供も何人も作っているのだが、なぜ親鸞がそれを公然とやってのけたかについてはいろいろ説明がなされている。一つには彼は流刑になった身なので僧でもなく俗人でもないという中途半端な位置づけだったから…という話もある。ともあれ、親鸞の浄土真宗の教団は親鸞自身の子孫たちを教主として続いていく特異な宗派となり、中興の祖とされる戦国時代の蓮如のように五人の妻と20人以上の子を作った教主もいた。
 こうした宗派なので浄土真宗だけは妻帯を公式に認めていたが、他の宗派は江戸時代まで一貫して公認はしなかった。だが現実には事実上の妻帯をし、子供に寺の住職を継がせるというパターンは存在しており、公認しないだけの暗黙の了解になっていたようだ。一応浄土真宗以外の宗派で僧侶が妻帯をしていることが公然と判明すると「破戒僧」として幕府により処罰されることになっていた。

 日本において僧侶の妻帯が全宗派について公認されたのは明治5年(1872)4月25日発布のの太政官布告133号による。この布告は「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」とあり、今後は僧侶の妻帯だけでなく肉食や髪を蓄える(つまり剃髪ではない)についても各自の自由と定めており、法要以外では一般人の服を着てもかまわない、とも付け加えていた。つまり各自の判断に任せるものの、実質僧侶は普通の人と変わらない生活を送ってかまいませんよ、というわけだ。これは現実の仏教界の状況を追認したという側面もあるんだろうが、明治初期の明治政府が神道を重視して仏教を軽視する「廃仏毀釈」の傾向があったことも背景にあるとみられている。仏教を堕落するなら堕落させ、影響力を弱めたいという意向があったのかもしれない。判決文を確認していないのだが、どうも今度の福井地裁の判決でもこの太政官布告に触れていたようで、これが日本政府から出された以上、僧侶の妻帯は法律的には問題なし、という話になっていたようだ。

 この原告の僧侶も永平寺に直接意見したことがあるのかもしれないが、裁判に訴えるのはやはり筋違いと言わざるを得ないし、どう考えてもこういう判決が出ざるをえない。もっとも当人としてはそれは百も承知で、裁判に訴えることで社会にこの問題をアピールするのが狙いだったようにも見える。報道機関の取材に当人も「今の日本の僧侶の多くは結婚してほとんど勉強せず、難しい言葉だけを並び立てて人をけむに巻いている」「今の仏教界に乱れを正すよう伝えたかった」と発言しており、判決については「仕方ない」と言いつつも控訴する方針だそうである。



◆「国家」ってなんなのさ

 いきなりな話題だが、「大統領の理髪師」という韓国映画がある。独裁者として知られた朴正熙(パク=チャンヒ)大統領の専属理髪師となる男を主人公とするフィクションだが、この中で主人公が大統領の専属理髪師になるにあたってその側近から「閣下は国家だ」と繰り返し復唱させられるシーンがある。これ、韓国語では「カッカヌンコッカダ」で、ほとんど日本語と一緒になるのが面白く、妙に印象に残ったものだ。
 さて、そんな話を枕に「コッカ」な話題をいくつか。
 

 ヨーロッパ統合発祥の国でEUの本部もありながら、国内にオランダ語圏とフランス語圏を抱えて分裂の危機すらささやかれ、その両言語圏にそれぞれ極左から極右まで様々な政党が乱立して非常に政治的にややこしい状態になっているのがベルギー。そのベルギーでは昨年6月に総選挙が行われたが、その結果を受けての新政権がいまだに成立しないという異常事態が続いている。あまりにも多数の政党が乱立した状態のため連立政権の枠組みがなかなか決まらず、とうとう今年3月には「総選挙から新政権樹立までの期間」でイラク戦争の最中のイラクを抜く新記録を作ってしまう。そのままズルズルとこの9月まで続き、実に1年3ヶ月にわたって「無政府状態」が続いちゃってるわけだ。
 もちろんホントに「無政府」であるわけはなく、総選挙で敗北した側であるルテルム首相による暫定政権が行政を担当してきた。しかし「暫定」のまま1年3ヶ月と日本の普通の政権並みの期間続いてしまい、9月13日にはこのルテルム暫定首相がOECD(経済協力開発機構)の副事務総長に就任するため暫定首相を辞める見通しであると首相官邸が発表を行っている。ルテルムさんとしては当然新政権が樹立されるまで続けて引き継ぎを行いたいのだが、それまで待ってられずついに二代目暫定首相に交代かと見られていたのだ。
 ところが、さすがにここに来ていい加減にしなきゃと思ったのか、主要8政党による協議がようやく進展、地方への財源移譲や国家制度改革などに関する基本合意が9月24日までに成立し、どうやら新政権が樹立される気配が出て来た。まだ合意にいたらない問題がいくつかあるので不確かではあるが、フランス語圏社会党のエリオ=ディルポ党首を新首相とする政権が出来るそうだと報じられている。
 「無政府状態」が1年3ヶ月…といっても、日常生活で特に問題が生じているわけでもなく、混乱は起きていない。ただ総選挙という国民の意思を反映した政権がいつまで経ってもできない点が問題だったのだ。しかしこの調子じゃ今後も同様のことが繰り返されそうで、「暫定政府でも別にいいじゃん」なんて話にもなりそうだ。


 イタリアでは政府の方針に腹を立てた人口600人の山村が「独立」の意向を示すという話が報じられている(読売新聞記事より)。それはイタリア中部、ローマから東に約70キロのところにある「フィレティーノ村」だ。
 イタリア政府は緊縮財政のもと、全国の人口1000人未満の村を統合して補助金をカットするという方針を8月中旬に打ち出した。それを聞いたルーカ=セッラーリ村長は激怒、「小村独自の文化や方言が途絶える」として「それならいっそ独立して『公国』になる」と表明したのだ。もともとここはスキー場のあるリゾート地だし、水や森林資源もあるから財源は大丈夫。独立後は独自通貨も作る予定で、すでに「フィオリート」(花盛り)という名前の通貨の紙幣も試作している。
 さらに独立した「公国」の君主になってもらおうと、旧イタリア王家(サヴォイア家)にも接触しているとのこと。サヴォイア家といえば第二次大戦後に国民投票で王制が廃止されイタリア国外に追放され、2002年にようやく国内に入ることを認められたばかり。こんな、ちっぽけな村の「大公」(?)に、なんて話には乗らないと思うが…
 なんだか井上ひさしの「吉里吉里人」を連想しちゃう話ではある。

 
 ちっぽけな「国」の話から、やたらデッカい国の話へ。世界最大面積の国・ロシアでは24日、与党「統一ロシア」の党大会でプーチン首相が演説し、来年3月の大統領選への立候補を表明した。そして自身が大統領に当選した場合(プーチン氏の人気を考えるとほぼ当選確実)メドベージェフ現大統領を首相にする意向を示した。つまり大統領と首相の「入れ替わり」をするわけで、しかもプーチンさんは前大統領でもあるわけだから世界的にも珍しい元大統領の返り咲きということになる。それでなくてもメドベージェフ=プーチン体制はプーチンさんの「院政」などと言われていたから、大統領と首相が入れ替わるだけで事実上プーチン政権がそのまま続いていくことになりそう。
 ロシアの指導者といえば「ハゲ・フサフサの法則」というものが有名(笑)。「つるふさの法則」「ハゲフサの法則」とも呼ばれ、英語では「Bald-hairy」、本国ロシア語では「Лысый ―волосатый」と呼ばれるもので、ロシアの指導者は髪の毛が少ない人と多い人が交互に現れるという法則だ。ソ連時代以降に限ってもレーニン(ハゲ)→スターリン(フサフサ)→フルシチョフ(ハゲ)→ブレジネフ(フサフサ)→アンドロポフ(ハゲ)→チェルネンコ(フサフサ)→ゴルバチョフ(ハゲ)→エリツィン(フサフサ)→プーチン(ハゲ)→メドベージェフ(フサフサ)と確かにうまく続いている(もっとも一部「ハゲ」とまでは認定しにくいケースもあって多少コジツケ)。で、今後プーチン→メドベージェフのバトンタッチを繰り返していけばこの法則が維持できるわけで…って、もしかしてプーチンさんたち、本気で法則維持を念頭に置いてるのか?

 
 続いては、まだ全面的には「国家」とは認めてもらってない存在の話。パレスチナ自治政府がついに「国家」として国連加盟を正式に申請したのだ。
 パレスチナ問題についてくどくど繰り返すのは避けるが、とにかくもともとアラブ系のパレスチナ人がいたところへ第二次大戦後にユダヤ人国家イスラエルが建国され、アラブ対イスラエルの中東戦争が何度も繰り返された。アラファト率いる「パレスチナ解放戦線(PLO)」がパレスチナを奪回すべくイスラエルとの対決を続けたが、1993年にアメリカの仲介で「オスロ合意」が成立、PLOを母体に「パレスチナ自治政府」が作られてイスラエルとお互いを承認してパレスチナで共存する、という方向が一応決まった。しかしその後も和平をブチ壊す動きが続き、緊張状態はいつまでも続いている。
 日本はパレスチナ自治政府を「国家」としては認めていない立場なので、これが「国家」と言われてもピンとこない感覚の人が多そうだが、実際には民主的選挙も行われるし、選挙で選ばれる大統領もいて議会もある。「大統領」にあたるのがアッバス「議長」なのだが、彼を「議長」扱いするのはパレスチナを「国家」と認めてないからだ。しかし調べてみるとパレスチナを「国家」として承認している国は、実に126カ国と国連加盟国の半数を軽く超えている。パレスチナを「国家」と認めないのはイスラエルはもちろんのこと、常にイスラエル側に立つアメリカや英仏、要するに冷戦構造における「西側」の国々だ。アメリカの子分である日本や韓国がパレスチナを承認できるわけがない。
 ただしパレスチナ側も一枚岩ではなく、アッバス議長ら穏健派の「ファタハ」のヨルダン西岸政府と、強硬派「ハマス」のガザ地区政府とに分裂状態だ。「国家」以前にどっちの政府を承認するかというややこしい構造にもなっている。

 アッバス議長のパレスチナ自治政府が「国連加盟申請」に踏み切って、圧倒的多数の国の賛成を得ようとも、必ずイスラエル寄りの立場をとるアメリカが拒否権を発動してそれをつぶすのは明白だ。オバマ大統領であろうとその姿勢は変わらない。アメリカ国内のユダヤ人勢力の影響が強いとかいろいろ言われているが、とにかくあの世界最強の国アメリカにしてイスラエルは「アンタッチャブル」な存在になっている。十年前の「911テロ」だってそういう事情が遠因になってるのは明らかなのだが、とにかくこの件ではアメリカの姿勢は不動だ。オバマさんとしてはこれ以上話をややこしくしたくないからアッバス議長に加盟申請をしないよう働きかけはしていたようだが、アッバス議長側も拒否権発動は覚悟の上で加盟申請し、それで自分達の国連における地位を向上させるのが狙いとみられている。
 23日に国連総会で演説したアッバス議長は「『アラブの春』が到来した今、『パレスチナの春』、独立を求める時だ」と訴えた。しかしそれを横目にイスラエルのネタニヤフ政権はまた入植活動を強行、よけいに話をややこしくしてくれている。
 

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