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2011年10月14日

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◆アラブの春は女性の春?

 毎年なんだかんだで話題を呼んでしまうのが「ノーベル平和賞」。昨年は中国の民主化運動家が受賞して騒ぎとなったが、今年はあまり騒動にならない人選をするんじゃないかという予測があった。有力候補と噂されたのが、今年最大の出来事と言っていい「アラブの春」関係で、エジプトやチュニジアで「革命」の立役者となった人物や集団に与えられるのではないかとの憶測も広がっていた。だが蓋を開けてみれば、若干アラブ圏と関わることは事実だったがキーワードはむしろ「女性」だった。女性の地位向上に貢献したことを理由にアフリカ西部リベリアエレン=サーリーフ大統領、および同国の平和運動家レイマ=ボウィ、そしてアラビア半島南部にあるイエメンの民主化活動家タワックル=カルマンの三人の女性が今年の平和賞受賞者となったのだ。

 リベリアという国はもともとアメリカで解放された黒人奴隷の一部が故郷アフリカに帰って建国した国で、アフリカの中でエチオピアともども植民地化されなかった国として知られる(エチオピアはムッソリーニのイタリアの侵略・併合にあっているので唯一独立を維持したことになる)。しかし1970年代からクーデターや内戦が相次ぎ、政情不安定な国の代表でもあった。武器商人の世界を描いた「ロード・オブ・ウォー」という映画があったが、あれでもリベリアがえらくおっかない国に描かれていたものだ。
 そのリベリアも僕がよく知らないうちにひとまず内戦が終わって選挙が行われ、民主的に女性大統領が選ばれていたのだった。エレン=サーリーフはアフリカでは初めて民主的選挙で選ばれた女性元首となる。そして内戦時から非暴力の平和運動を続け、現在の政権樹立につなげた運動家がレイマ=ボウィさんというわけだ。
 アフリカ女性でノーベル平和賞と言えば、「もったいない」という日本語にいたく感銘を受けたというケニアの運動家ワンガリ=マータイさんの先例があるが、そのマータイさんは今回の平和賞発表と入れ違いになるかのように9月25日に71歳で死去、ケニアでは10月8日にその国葬が営まれている。

 イエメンのタワックル=カルマンさんも非暴力の民主化運動を進めた女性で、これはまさに現在進行中の「アラブの春」の一端を担っている。イエメンのサレハ大統領は国内の騒乱で負傷し、サウジに出たり入ったりして何とか政権を維持しようとしているが、カルマンさんへの平和賞受賞が報じられると途端に辞任を示唆したりしている。ま、どうなるかまだ分からないけどアラブの春における女性パワーの現れであり、それへの国際的評価(西欧的価値観から、という押しつけがましさがなくはないが)は大きい。

 そのイエメンの隣の、聖地メッカを抱える石油大国として知られるサウジアラビアは、今もなお絶対王政が続きイスラム諸国からも批判されるような前時代的な人権感覚の国でもある。最近さすがによそから言われるのがうるさく感じられて来たのか、徐々にではあるが変革の流れは出て来ていた。とくに今年の「アラブの春」はサウジ王族をかなり恐れさせたと思われ、その表れと思える動きが出てきている。
 その一つが、9月25日にアブドラ国王が「女性の参政権を認める」という発言をしたことだ。といってもあくまで地方政治の助言機関「地方行政評議会」の選挙の話ではあるのだが、そもそもその評議会の選挙だって2005年にようやくこの国初めての選挙として実施されたもの。今年その2回目の選挙が9月末にあったので、次回の2015年選挙から女性の投票および立候補が可能になるとみられている。
 そしてこの国では女性の自動車の運転が禁じられていることでも知られ、その撤廃を要求する声も高まっている。先ごろ女性の自動車運転の権利を主張するためあえて運転を強行して逮捕された女性に対して、「鞭打ち十回」の刑が裁判所から言い渡されて国際的な批判を浴びていた。すると9月28日になってアブドラ国王が刑の撤回を命じたことが、女性運転解禁論者の王族の女性のツイッターにより公表された。国王は撤回の理由については明らかにしなかったというが、サウジ国王もさすがに自国内で「春」が到来することを恐れているということかもしれない。



◆大きなリンゴが落っこちて

 僕自身はアップル信者ではないし、だいいちアップルの製品に触れたことすらろくにない。大学院にいた時に院生が使えるパソコンネットワークを構築した助手が、ウィンドウズパソコンの方が多いにも関わらずパスワードにマックへの愛を告白する言葉を使っていたのを見て、「アップル信者」というのが実在することを目の当たりにした、という体験がある程度で。
 そんな僕でもアップル創業者スティーブ=ジョブズの死去の報にはいろいろと感慨深いものはあった。ま、そんなに彼についてよく知っていたわけでもなく、その死を報じるマスコミの大騒ぎぶりにかえって驚き、またそれらがまとめる彼の生涯の簡単な流れを見て、確かに歴史的人物の死であるのかもしれない、と思ったのだ。なにせ「ウォルト=ディズニーで、トーマス=エジソンで、レオネルド=ダヴィンチ」なんて例えられちゃってるんだから、大変なものだ。正直なところ亡くなった途端にアメリカ大統領をはじめとして各国首脳までが言及、コンピュータ業界以外の著名人まで追悼コメントを出すという、世を挙げての大絶賛状態になるとは意外だったが(「天才の早死に」効果も大きい気がする)、確かに現代において「歴史的存在」になるだけの功績はあったと思う。

 未来の人間社会を様々に予測したSFというジャンルだが、1970年代以前での21世紀社会の予測で完全に読み違えた、というか予想もしなかったと言えるのが、現在あなたがこの「史点」を読んでいるパソコンや携帯端末、そしてそれらを結びつける世界的なネットワークだ。昔のSFでもコンピュータ社会の出現を予測したものはあるが、どちらかというとコンピュータ自体が大型化・巨大化していくイメージがあり、手塚治虫の「火の鳥・未来編」みたいに人類を支配しちゃうとか、あるいは「2001年」のHALみたいに宇宙船全体を管理し人間的に対話するロボットの変形みたいな扱いもあった。コンピュータというもの自体、とても特殊で凡人にはとても扱えず(操作を誤ると爆発、って描写が漫画によくあった)、何でも分析しちゃって不可能などない魔法の箱じみた近寄りがたいイメージ(「バビル2世」のバベルの塔とか)が広まっていたと思う。それが個人でも扱えて家庭にも家電のように入って来るなんて、SFでも想像がつかなかったのだ。

 小型のコンピュータ「マイコン」(パソコンという言葉が定着する以前はこっちが主流だった)が現実のものとなったのは、エレクトロニクス技術の革命的進歩により1970年代前半にマイクロプロセッサが実現したためだ。しかしそれ以前からコンピュータに熱中していた人々(彼らは大型コンピュータに電話接続してプログラムを楽しんでいた)の中にはいずれマイコンが実現するという予想をしていた人たちはいた。だからこそマイクロプロセッサの出現直後の1975年に世界初の個人向けコンピュータ「アルテア」を開発・販売した人がいて、それ向けにすぐさまBASIC言語を開発した人がいたわけで、後者がマイクロソフトの生みの親ビル=ゲイツ(ジョブズと同い年)だったりする。
 その「アルテア」を追いかけて、より安価なマイコンを開発したのがスティーブ=ウォズニアックとスティーブ=ジョブズのコンピュータマニアコンビだった。当時ヒューレット・パッカード社員だったウォズニアックが技術的な部分を手がけて愛好家向けマイコンを開発、その販売を持ちかけられたヒューレット・パッカードは個人向けコンピュータが商売になるとは思わず、二人は自ら販売を行うことになる。このときそのコンピュータに「アップル」(アップルI)と名付けたのがジョブズだった。1976年に発売されたこの「アップルI」は200台程度しか生産されなかったそうだが、これがまぎれもなくアップルの歴史の始まりであり、パソコンの歴史上の一里塚になっている。
 この辺のいきさつを僕は1995〜96年に放送されたNHK「新・電子立国」で見たのだが、そこでインタビューを受けたウォズニアックがこんな証言をしている。ヒューレット・パッカードの社員だったウォズニアックは自ら起業することにあまり乗り気ではなかったが、「確かに金を失う可能性は高いよ。でも会社を作ることは一生に一度あるかないかのことなんだ。たとえ失敗しても胸を張って言えるじゃないか。俺は会社を作ったことがあるって」というジョブズの一言で踏ん切りがついた、というのだ。この番組ではジョブズはあまり登場しないのだが(取材がアップルを追放されていた時期と重なるためか)、このジョブズの一言はアメリカの若者の起業精神を象徴するものとして番組の最後に再び取り上げられるほど印象的なものだ。「ジョブズ伝説」にはこの手の人を味方に引き込む際に相手を魅了する発言が多く残されており、そのあたりがカリスマというか、人たらしの天才であったというべきかもしれない。

 1977年にアップルを会社として創業、「アップルII」を発表する。このアップルIIはモニター、キーボード、フロッピーディスクドライブがひとそろいになった、その後の「パソコン」の基本形の最初のものとなり、仕様を公開したことでアップルII向けのソフトが大量に開発され(特に表計算ソフトの出現がビジネスユーザーを増やしたらしい)、相乗効果で大ヒット商品となり、1980年の株式公開でジョブズは25歳にして2億ドルを超える資産家として長者番付入りし、この時点で早くもコンピュータ業界の若き天才と呼ばれてしまうことになる。
 アップルIIの成功を見て、それまで大型コンピュータを手掛けていたIBMも1981年からパソコンを売り出し、この「IBM PC」向けのOSとしてマイクロソフトが開発したのが「MS-DOS」で、これがその後のマイクロソフトの巨大ソフト帝国化のきっかけとなった。IBMのパソコン市場参入に「IBM様、パソコン市場へようこそ」などと挑発的な広告を打ったアップルだったが次第にシェアを奪われてゆく。
 僕はDOS時代の最後にパソコンをいじった世代なのだが、当時のパソコンは暗闇の画面に向かって英語のコマンドを打ち込むという素人にはかなりとっつきにくいものだった(もっとも大学院で興味半分でDOSコマンドを習ったおかげで僕は何度かパソコンのトラブルにDOSレベルで対応することができた)。現在ではすっかりメインのマウスによる画面操作、いわゆる「GUI」環境を世界で最初に開発したのはゼロックス社の「アルト」というコンピュータだが、当のゼロックス社はその価値を理解せず商品化する気もなかった。だがそれを見たアップル幹部達は「これだっ」と飛びつき、アルトの権利を買い取ろうとして果たせないと今度は技術者を引き抜いて自社でGUI環境のパソコンを作る。いろいろあってそれが1984年発売の初代「マッキントッシュ」に結実し、その開発とくにデザイン決定面においてジョブズが大きな役割を果たしたのだが、その個性と強引さが敵を作ることも多く、結局1985年にジョブズはアップルから追放されてしまうことになる。
 
 スティーブ=ジョブズの名がここまで神話化されてしまったのは、その追放と長い放浪ののちに経営不振になったアップルに復帰、再びアップルの名を高からしめたためだろう。ただ僕も覚えているのだが、1997年にアップル経営者に復帰したジョブズが「宿敵」とされていたマイクロソフトと提携して資金およびオフィスとインタネットエクスプローラーの提供を受け、マックワールドエキスポの大型画面にいきなりビル=ゲイツが映し出された時などはマック信者からかなりのブーイングがあったものだ(この時描かれた唐沢なをきのパロディ漫画「アップルのいちばん長い日」は必見である!)
 その後のiMac、iPod、iPhone、iPadといった一連の商品の大ヒットでアップルはオシャレで最先端のメーカーのイメージをさらに強化、晩年にその開発を推進したジョブズをさらに「神」化することになった。iPhone以降の商品はジョブズがその開拓者でもある「パソコン」というものを過去の遺物に葬り去りかねないものだが、その両方に関与していることが彼の生涯の面白さであり、変動激しいデジタル商品世界を象徴していると思える。今度の訃報を受けてジョブズがパソコンやGUI環境の生みの親みたいに言うものが目について、そりゃいくらなんでも言い過ぎたと思ったが、素人にも使いやすいデザインを求める感覚(それは彼が技術屋ではないからでもある)、「これは当たる」というものに目を付ける先見性、そして独裁的で強引なまでの実行力のある人物であり、ちょっと前までSFですら予測のつかなかった今日のデジタル世界を切り開いた開拓者の一人であったことは間違いない。

 ジョブズ氏は若いころから仏教やら禅宗やらに入れ込んでいて、日本文化にも造詣が深かったという。しかしこういうタイプの企業家は「人と違うことをすると袋叩きにされる」文化の日本では生まれにくい気がするなぁ。
 ちなみに、この記事を書いた10月13日のアクセス解析によると、我がサイト全体の閲覧者のうちおよそ5%程度がマックやiPhone、iPadなどアップル製品でご覧になっている。



◆文字文字しないで

 9月30日に中国・日本の研究者達により、「契丹文字」を記した石碑がモンゴルで、冊子がロシアから発見されたとの発表があった。石碑はともかく冊子というのには驚いたが、これは麻紙で作った80ページほどのもので、すでにロシア科学アカデミーの研究所に保管されていたのを中国の研究者が契丹文字でであると明らかにしたのだそうだ。
 石碑のほうは昨年ゴビ砂漠で発見された高さ180センチほどのもので、縦書き7行約150文字が記されていた。墓碑以外で契丹文字が書かれているのは珍しいそうで、冒頭部分は「清寧四年」と解読されたという。これは契丹人が作った国「遼」の年号で、西暦1058年に相当する。日本では平安時代後期、そろそろ白河上皇が院政を始めようかというころだ。

 契丹人は中国北方民族史の一時代を築いた遊牧民だ。最近僕がいろいろ見ている韓国の歴史ドラマでもよく登場していて、渤海建国を描いた「大祚栄」でも重要キャラの半分ぐらいが契丹人だったし、高麗初期を描いた「千秋太后」でも何かというと侵入してくる外敵として登場する。この民族は10世紀に耶律阿保機によって国家を建国し、中国風に「遼」という国号を名乗って南の宋を圧迫、宋の上位に立ち貢物を差し出させるまでになったが、最終的に新たに勃興した女真族の「金」と宋との挟み撃ちにあって12世紀前半に滅亡した。その皇族の一部が中央アジアに逃れて「西遼(カラ・キタイ)」を建国、13世紀にモンゴル帝国に吸収されるまでもちこたえている。チンギス=ハーンに仕えたとされる耶律楚材も契丹人だ。
 この契丹の存在感が大きかったことは、ヨーロッパやロシアで北方を中心に中国を指す「カタイ」「キタイ」という言葉が「契丹」に由来していることにもうかがえる。

 契丹文字は遼を建国した耶律阿保機が制定させたもので、漢字を参考に作った表意文字の「大字」と、ウイグル文字を参考に作った表音文字の「小字」の区別がある。遼滅亡後も金で使用されていたといわれるがやがて使用されなくなり、残された資料も皇族の墓碑銘にかたよっているため解読はほとんど進んでいないという。そのため今回の発見は文字資料そのものの数が増えることになるわけで(すべて大字の方だったみたいだけど)、今後の解読が期待される。
 中国を意識した民族文字で解読が難しかったと言えば「西夏文字」も有名だが、これはかなり解読が進んだらしい。この西夏文字も契丹文字の影響があるんじゃないかとの説もあり、西夏文字を作った野利仁栄は契丹系ではないかという話も聞く(映画「敦煌」では鈴木瑞穂演じる野利仁栄が「契丹の人間」と自称していた)。文字一つとってもいろいろと歴史ロマンに思いを馳せてしまうものだ。

 
 ところで、下の話題につながる話でもあるのだが、台湾の馬英九総統が10月7日に「大故宮計画」なるものを発表、台北の故宮博物院の展示面積を6倍に拡大、収蔵されながら展示できない多くの文物(収蔵物68万に対し展示物10万とか)を展示する意向を示した。そもそもその故宮博物院の文物というのは国共内戦のケリがついて台湾へ逃れる時に、国民党政府が北京の故宮からえりすぐった逸品を持ち出してきたもので、「中国文化」の正統継承者であることを主張する根拠ともなっている。
 面白いのがこの計画に合わせて馬総統が「漢字博物館」の設置すると発表したこと。中国本土では簡体字が主流となったためすっかり使われなくなった伝統的な「繁体字」の継承が台湾で行われていることをアピールし、「台湾を世界の中華文化のナビゲーターに成長させたい」とのことだ。こちらは現在進行形の文字と国家の興亡の歴史である。



◆ 辛亥革命百年目

 この「史点」を連載している間、「○○から100周年」という話題が何度かあった。1902年が日英同盟100年、1904年が日露戦争100年、昨年の1910年が韓国併合100年、そして今年の10月10日で「辛亥革命」勃発から100年となる。こうして100年目の節目を振り返ってみると、100年前の人々がどういう風に歴史的事件を目の当たりにしたのか、少なくともその時間感覚はつかめるような気がする。
 
 辛亥革命とは清帝国を倒して中華民国を建国することになった革命だが、その発端は1911年10月10日の「武昌蜂起(武昌起義)」にある(このためこの日は「双十節」と呼ばれる)。それまでにも孫文など各種革命勢力による武装蜂起は何度か起きているがいずれも失敗に終わっていて、この武昌蜂起が初めて成功したものとなり、これに呼応して各地で蜂起と清朝からの離脱が相次ぎ、その年の末までに長江以南が全て革命勢力の手に落ちた。そして帰国した孫文を臨時大総統として1912年1月1日に中国初の共和国である「中華民国」の成立が宣言されることになる。
 だが中華民国はまだ中国南部を押さえただけであり、北にはまだ清朝が存続していた。孫文の民国政府は当時清朝の実力者であった軍人・袁世凱との間で清朝の宣統帝(いわゆる「ラスト・エンペラー」の溥儀、当時まだ5歳)を退位させてくれたら総統の地位を譲るという取引を行い、2月12日に宣統帝が退位して翌13日に孫文が中華民国臨時大総統を辞任、3月10日に袁世凱が北京で第二代臨時大総統に就任する。一応「辛亥革命」はここで終わった。
 しかし袁世凱はまもなく孫文ら中国国民党に対する弾圧を開始、孫文は袁打倒を目指す「第二革命」を起こすが失敗する。1915年に袁世凱は皇帝に即位してしまうがさすがにこれは支持を受けられず在位83日で断念、直後に失意のうちに死去してしまい、以後中国は軍閥割拠の動乱状態になる。そして孫文も1925年に「革命なおいまだ成らず」という遺言を残してこの世を去り、その後継者である蒋介石、共産党を率いる毛沢東らによりその後の激動の歴史がつづられ、大陸には中華人民共和国が建国され、中華民国は台湾に今も残る形になっているわけだ。

 孫文および辛亥革命は中国革命のルーツとして、台湾はもちろん共産党政権の大陸でも高く評価される。僕も1999年に南京にある孫文の墓「中山陵」を訪ねたが(当サイトの「倭人襲来絵詞」参照)、20世紀以降の人間の墓で恐らく最大のものじゃないかと思うほどの大きさで(山をそのまま使っているのだが参道や遺体を納めた廟もかなりもかなりのものだ)、中華民国の「青天白日」のマークが今も見られるし、長い参道の入口には「民族」「民権」「民生」のおなじみ「三民主義」の文句が掲げられていた。とくに孫文は晩年の革命運動では共産党との連携を行っているので、蒋介石に比べれば共産党としてもずっと評価しやすい。もっとも最近では蒋介石についても評価が見直され、「抗日戦の英雄」視も出てきているらしいのだが。

 双十節を前にした10月9日に北京で中国共産党による辛亥革命100周年の記念式典が開かれた。胡錦濤国家主席は「清朝を覆し、数千年の専制君主制を終わらせた」と辛亥革命を高く評価、そして「共産党員は孫中山先生(孫文は中国では普通こう呼ぶ)の革命の最も堅固な支持者であり、最も親密な協力者であり、最も忠実な継承者である」と自らが率いる中国共産党を位置付けた。そのうえで「孫文の志を受け継ぎ、中華民族の偉大な復興に向けて両岸の平和統一を」とも言ってみせた。「中華民族の偉大な復興」という表現は演説中になんと23回も繰り返されたという。
 ところでこの式典で、江沢民前国家主席が久々に公の場に姿を見せて話題になった。先ごろ香港から死亡説まで流れ、日本では産経新聞が号外まで出して、夕刊がないもんだから「詳報は夕刊フジで」とまでそこに書いちゃうという相変わらずそそっかしいことをしていたが(今年は「携帯カンニング事件」での「都内高校生二人」の誤報もあったし)、本人が思いのほか元気に登場したことで重病説まで消えてしまうことになった。もっともその号外にあったほど江氏の影響力ってないから今度の出現でとくに影響があるとは思えないんだけどね。

 一方で台湾では「国慶節」にあたる10日に総統府で「中華民国建国百年」の式典が開かれ、中国国民党の馬英九総統は演説で「中華民国は現在進行形である」と強調、「中華民国はわれわれの国家であり、台湾はわれわれの故郷」と表現して国父・孫文の精神は中華民国がある台湾でこそ実現しているとし、「国父の理想が自由・民主・豊かさを平等に分かち合う社会にあったことを忘れず、大陸はその方向へ前進するべきだ」と大陸の共産党にやり返してみせた。まぁ台湾に来てしばらくの国民党政権は大陸の共産党政権なみに非民主的だった時代もあるわけだけど、90年代以降に民主化が進んだのは確か。その一方で民主化はさして進まない大陸の方で経済が発展し、台湾もそれと結びついてやってかなきゃいけない時代になっちゃうとは、歴史の進行の予測というのはつきにくいもんである。
 ところで台湾は一党独裁ではなく、現在は最大野党となっている「民進党」は陳水扁前総統時代は政権党だった。来年一月に総統選があり、政権奪回をはかっている最中なのだが、この党の蔡英文主席が10月10日を前にした8日に興味深い発言をしている。高雄市での演説で「中華民国政府は外来政府ではなく、現在の台湾政府」「『中華民国は台湾、台湾は中華民国』という考え方に大部分の人が同意しており、民進党は中華民国と国民党を共に『台湾概念』のもとに包括することを認める」と発言したというのだ。少々廻りくどい言い方もしているが、これまで民進党は台湾の中国からの独立を志向し、台湾はあくまで台湾であって「中華民国」は国民党による大陸からの亡命政権、という位置づけをしていたのだから、これは国民党の定義と基本的に同じになり、何気に姿勢の大転換になってしまう。日本ではあまり大きく報じられた気配がないが、台湾ではこの発言は総統選を前にして中国との関係を意識した「現実路線」と受け止められているようだ。それでも馬総統が辛亥革命を「両岸共通の歴史的遺産」の表現したことにはかみついた(革命時点では台湾は「中国」領内になかった)そうだが。

 このあと来る大きな「百年目」としては第一次世界大戦百周年(2014)がある。こうして百年前の出来事を「一世紀遅れの同時進行」みたいに体験してみると、えらく激動の時代だったのだなぁ、と実感する。もっとも百年後に今の歴史を見ても案外そう思われるのかもしれないが。


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