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2011年10月28日

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◆今週の記事

◆カダフィ、非業の最期

 カダフィ政権の崩壊自体は先月段階で確定的になっていたが、まだなんとなくカダフィ側の抵抗も激しく、勝負はまだ付いていないような観もあった。しかし終わってみると実にあっけなくカダフィの最期はやって来た。最後の拠点にしていた故郷シルトが攻め落とされ、車で逃げるところをNATO軍の空爆を浴びて下水管(?)にもぐりこんだところを敵兵に捕獲された。そして髪の毛を引っ張られたり、袋叩きで殴られるというひどい目に遭ったあげく、混乱の中で射殺されてしまった。この記事を書いている時点で、彼の遺体はすでに砂漠のいずこかに極秘のうちに埋葬された(ビンラディンの時と同じでイスラム教徒は早期に埋葬しないといけないから)そうである。「聖地化」を防ぐために埋葬地も極秘にされたままだ。
 今年の世界史的事件といえる「アラブの春」で、ついに独裁者の「処刑」となってしまったわけだ。その前後の状況はインターネットに乗った映像で世界に配信されたが、それは1989年の「東欧革命」の最後を締めくくった、ルーマニアの独裁者チャウシェスクの処刑映像を連想させるものだった。もっとも「アラブの春」の方はこれでしめくくりではなさそうだが。

 それにしても…かつて「中東の狂犬」とまで言われ、アメリカ軍の直接空爆でも死ななかった男が、自国民の手によってああもみじめな最期を遂げることになろうとは。その映像でも「生かしておけ!」という声が聞こえてもいて、生かして裁判にかける可能性が高いとみられていたのだが、その直後のドサクサの中で射殺されてしまった。当初は「銃撃戦の流れ弾」説が「国民評議会」側から発表されたり、死体公開でも傷口を見せなかったりと、かえって「ドサクサまぎれの処刑」を疑わせる状況があり、現時点でもはっきりしないのだが、どうも射殺したとする当人の話などを総合すると、捕まえたカダフィをどの部族がひったてて自分の拠点へ運ぶかでモメたらしく、それで「ええい、めんどくさい」という感じで若者が撃っちゃった、とそういうことになるみたいだ。

 アラブ諸国ではよく聞くことだが、それだけ部族間対立は根深いわけで…それを40年も押さえつけていたカダフィが凄いということかもしれないが。彼の故郷シルトでは案の定、住民たちがカダフィ時代を懐かしんで悲しんでいるようだし、やっぱりあったかと思ったその地域の部族の捕虜や市民に対する虐殺の報道も聞こえてくる。ちょうどその地域でガス爆発?で100人死亡なんてニュースもあったが、それってホントに事故なのか、とも。
 とりあえず「反カダフィ」で結束していた各部族も、これからスンナリと武器を捨ててまとまれるのかどうか。あと、「国民評議会」が全土解放の宣言の中で「これからはシャリーア(イスラム法)にのっとった政治をする」として、利息を禁止するイスラム金融や、「妻は四人までもてる」といった、これまで制限をかけられていた保守的イスラムの制度を強化するようなことを言いだしている。「アラブの春」の発信源となったチュニジアでも総選挙で穏健イスラム政党が多数派となり、国内世俗派からは「今は穏健だが、保守化する可能性がある」と警戒する声も上がっているようだ(特に女性の地位など)。イラクのサダム=フセインの時にも言われたことだが、「アラブの独裁者」たちはむしろ欧米的な制度をもちこみイスラム原理主義を押さえこむ動きをして、フセインもカダフィもムバラクも実はみんな欧米にとって「物分かりのよい独裁者」だった時期がある。それぞれ政権が崩壊した直後はみんなで「解放を祝う」なんて言ってるが、どうも「アラブの春」はかえって欧米諸国やイスラエルには都合の悪い展開になるんじゃなかろうか、という予感もしている。
 
 ところで故・カダフィ大佐は、あの長期連載漫画「ゴルゴ13」に登場した実在人物の一人だ。1979年に書かれたシリーズの一編で初登場したときは、そうとは知らずにではあるが、ゴルゴに命を救われている(カダフィ暗殺を狙う人物をゴルゴが狙撃して阻止)。そのセリフ中でもカダフィがイスラエルや西側各国の刺客に何度も狙われながら28人もの影武者を使って阻止している、なんて話も出てくる。それだけに今度の最期は驚きなんだが。
 その後カダフィ自身がゴルゴに依頼をする話もある。砂漠の中のテントでカダフィとゴルゴが一対一で語り合うという、実在人物を登場させたシーンとしては珍しい場面が見られる。そこでゴルゴがカダフィの不用心を指摘すると、「今わしが殺されれば…わしはアラブの英雄として死ねる!」と笑みを浮かべつつ言い放つカダフィ。関係はそう悪くもなさそう…といっても、デューク・東郷氏はイデオロギーや立場に関係なく、依頼されてそれを承知すればなんだって仕事をしちゃうわけだし、だいたいゴルゴがカダフィを狙う話にしちゃったらほぼ99%「成功」した話にしなきゃならないから、現実との矛盾が生じてしまう。
 もっとも今度の事態を受けて、その死の不可解さから、「実はゴルゴがカダフィをしとめていた」という新作が描かれる可能性もあるな(アメリカなど西側諸国がカダフィとつるんでいた関係の暴露を恐れて依頼…とか、ホントにやりそう)。これまでにもダイアナ妃とか、実在人物をモデルにした話は存在しているし。



◆今も昔も兵器は飯のタネ

 NHKの大型ドラマ「坂の上の雲」の第三部、完結編がようやくこの年末に放送される。分割して3年がかりの放送という異例の事態となったのだが、ポストプロダクションに時間がかかるとしてもやはりいっぺんに通して見たかった、というのが本音のところ。
 その「坂の上の雲」のクライマックスはもちろん「日本海海戦」だ。なにせメインの主人公がその作戦にあたった参謀の秋山真之である。原作者の司馬遼太郎が取り上げたために近頃じゃ坂本龍馬並みに日本史史上の大人物化されちゃった観もあるが、日本海海戦の本来の司令官は東郷平八郎。ドラマ「坂の上の雲」では渡哲也が演じているが、過去には三船敏郎が二度演じている。三船東郷映画のうち、東宝の「日本海大海戦」は映画全体は平板な出来だが海戦シーンが円谷英二のミニチュア特撮の極点なのでそこだけ必見だ。今度の「坂の上の雲」ではオールCGで再現されるようで、もはやああいうミニチュア特撮を新たに見ることはできないだろう。
 また「坂の上の雲」では旗艦「三笠」を石川県にあるテーマパークの実物大セットで撮影したそうだが、三船東郷映画2作は横須賀に保存されている本物の「三笠」を撮影に使用している。近代の戦争映画で「本物」が使用できるという、日本では稀有な例なのだが(太平洋戦争関連はみんななくなっちゃってるし)、さすがにもう撮影には耐えない保存状態ということなのかもしれない。

 その「三笠」を建造したのはイギリスのビッカーズ社。対ロシア戦を想定した海軍増強路線で1898年に日本が発注、1899年に起工され1900年に進水、1902年に日本に引き渡されて1904年からの日露戦争で実戦参加、そして1905年5月27日の日本海海戦に参加して大勝利を挙げることになる。ところがその直後の9月11日に佐世保港内で爆発事故を起こして沈没するという変な運命に見舞われた。調べてみたらその後もシベリア出兵の際にウラジオストックで座礁事故を起こし、さらに関東大震災の時にも岸壁に衝突して座礁事故の傷が開いてまた沈んでしまった。その後廃艦となり解体されるところだったが「日本海海戦の旗艦」ということで保存され今日に至っている。

 ところでちょうど100年前の1911年、日本海海戦から6年後に東郷平八郎ジョージ5世の戴冠式に出席するためイギリスに渡り、「三笠」を建造したビッカーズ社を訪問している。このとき東郷は記念として日本刀をビッカーズ社に贈っている。その日本刀は地元の博物館に展示されていたが、その日本刀が100年ぶりに「帰国」し、イギリス大使館に飾られたことが報じられた。
 この刀を持ちこんだのはビッカーズ社の流れをはるかにくむ「BAEシステムズ」。実はこの社はこのたび日本の航空自衛隊のFX商戦に参加していて、自社の「ユーロファイター」を売り込もうとしている。それで日本の歓心を引くために博物館から「東郷の刀」を引っ張りだして来て大使館のよく見えるところにこれ見よがしに飾ったものらしい。兵器もビジネス、お客様の気を引くためならなんでもするってことなんだろうけど、兵器だけに生臭いというよりいささかキナ臭い話ではある。
 


◆やらせはせん!

 「やらせはせんぞ!」と断言したのはドズル=ザビ氏であって九州電力の会長ではない。九電もさすがに「やらせ」があったこと自体は否定しきれないでいるが(否定したがってるのは明らかだが)、一度は責任をとって会長・社長とも辞任する方向になったと思ったら政権交代のドサクサ紛れに先送り、さらに自分で頼んだ第三者委員会の調査で佐賀県知事の示唆で原発再稼働の声をあげる「やらせ」をしたと最終報告が出ても、これを無視、都合のいいところだけつまんだ報告書を出して臭いものにフタというあからさまな行為をとった。さらに経産相から何を言われようと、報告書の見直しも結局はやってないに等しく、会長も社長もあくまで続行という姿勢を堂々と示しているのには正直恐れ入って来る。つまるところ、電力会社が何をしようと他の会社の電気を使うという選択肢が消費者にはないわけで。電力会社のトップというのがいかに普通の会社の経営者と異なる頭と感覚をもっているかがよく分かって来る。
 その九州電力の松尾新吾会長は保守団体「日本会議」福岡会長になってもいる。彼がその大会で「日本人が忘れかけている良識を、力を合わせて取り戻そう」と演説したのはつい先日、10月16日のことである。自己批判?いえいえ、そんなわきゃないでしょ。どっかの都知事もそうだが、この手の方々はなぜか自己批判としか思えないような言葉で他人に説教したがるんだよな。


 10月17日に東京電力が原子力安全・保安院に提出した試算結果によると、福島第一原発の1〜3号機で「炉心が再び損傷する確率」は、「5000年に一回」なんだそうである。その報道を見て、「ちょっと待って、まだあそこを使う気なのか?」と思っちゃった人も多そうだが、とりあえず廃炉はすでに決まっており、これは「冷温停止状態」維持の施設運営に生かすための試算なんだそうである。注水系統の故障や外部電源の喪失等々、様々な原因を考慮して、原子炉が炉心損傷を起こす1200度に達する可能性を計算したものだという。それは「5000年に一度しか起こりませんよ」というわけなんだが…5000年というと人類の文明発祥から今日までぐらいだな。
 読売新聞の記事が軽くツッコんでいたが、事故が起こる前にはその「炉心損傷」の確率は実に「1000万年に1回」と試算されていたそうで、なんと「2000倍も高くなった」(読売記事)のである。1000万年っちゅーたら、ああた、文明どころかアウストラロピテクスも登場していませんぜ。あまりにもケタ外れなので失笑してしまう。
 どういう計算をしたのか知らんが、こんなの最初っから「安全神話」の結論を出すために極端な数字を作ってみた、ということだろう。原子力発電そのものの歴史が半世紀ぐらいしかない中でチェルノブイリとフクシマの事故が起こってるんだから、経験的に考えると確率的には2、30年に一回ぐらいの確率になっちゃいそうである。ネット上で見かけた「1000万年に1回なんてことに遭遇した俺達って、もしかして物凄くラッキーなんじゃないのか」というブラックジョークには思わず爆笑してしまったものだ。
 廃炉と決まった福島第一原発の1〜4号機だが、その完全解体までには30年はかかると見込まれている。事故を起こさなくても高くつくと思わされるが、それでも執拗に原発のコストが他に比べてまだ安い、という試算も改めて出されている。もっともそれだって事故・テロが起こる場合を過小評価しているとツッコまれている。


 原発事故を受けて、近ごろは多くの人が放射能測定装置を持ち歩いて近所の数値を調べて回っている。僕が住む茨城南部、そして活動範囲である千葉北西部(偶然かどうか、常磐線沿線である)はいささか高い数値を出しており、神経質になっている人も少なくない。とくに水がたまるところは高い数値を出しやすく、柏市内でえらく高い数字が報じられたのには正直驚いた。まだ見つからないだけでそういう場所は多くあるのかもしれないが、その場でずっと浴びてるならともかく、普通に日常生活を送る分には大きな問題は起きないとも思う。そりゃまぁ見つけたからには除染するに越したことはなかろう。

 その直前に騒がれたのが世田谷区内の古い民家の「ホットスポット」だ。今にして思えば柏の例よりは低かったのだが、やや高い放射線量が出たことと「都内」ということもあり、マスコミで大騒ぎになった(東京都内の話だと急に大げさになるんだよな)。ところが調べてみるとセシウムが検出されなかったため原発由来でないことが確定、その民家の床下からラジウム226の入ったガラス瓶が見つかった。はて、一般人の家にそんなものが…と僕も最初は思ったのだが、ガラス瓶の一部には「日本夜光」という製造業者の明記があった。実は1950年代までは時計の文字盤などを光らせる蛍光塗料としてラジウムが普通に使われていたのだそうだ。1960年代以降はより安く放射線量も少ないプロメチウムに代えられて使われなくなったというのだが、割と最近の、それも身近な家具でラジウムが使われていたというのはちょっと驚きだった。

 ラジウムと言えばキュリー夫妻による抽出・発見で有名だが、キュリー夫人の方は晩年はラジウムによる放射線障害を起こしていた可能性もあり、その研究室やノートなどから高い放射線量が出ている(研究室の方は今は除染されたとのこと)。その一方でラジウムは発見直後から医療用として利用され、いわゆる「ラジウム温泉」的な利用も始まっていた(ラジウム温泉の放射線量を聞いたらビックリする人も多いだろうなぁ)。だから第一次大戦中に発表されたルパン・シリーズの一編『三十棺桶島』でも、ラジウム結晶が「人を殺しもし、生かしもする奇跡の石」として登場している。
 今度騒ぎになった民家にはつい最近まで92歳のお婆さんが元気で住んでいたという(今も引っ越しただけで健在らしい)。それをもって「放射能なんて騒ぐことはない」と躍起になる声が出るのも予想されたことではあり、一部放射能に対して過度に神経質になる人たちに僕もあまり関心はしていないのだが、その手の「安全だ」という声を原発推進派(で、おおむね政治的に右派系が目立つ)が高らかに口にするとこちらにも感心できない。田茂神俊雄氏が健康にいいと福島に放射線を浴びに行き、「原発事故でカラスが落ちたか、魚が死んだか」と寒いギャグを飛ばしているとか、ウイグルでの中国核実験を激しく糾弾(それも過激に)してるくせに自国の原発事故については必死に過小評価をする「放射能専門家」の高田純氏が「太陽は核エネルギー、それを国旗とする我が国こそ世界の核エネルギー技術を先導する」などと言ってるのを見ると(この発言には「太陽は核融合だし、そもそもそれなら太陽光発電を推進すべきでは?」というツッコミも上がっている)、こんなのが推進派じゃまた50年もしないうちにやらかすぞ、と思っちゃうのだ。



◆ 発見発見また発見?

 この二週間、「発見」ばなしが集中したので、ひとまとめに。

 南アフリカといえば、アウストラロピテクスが発見されているように人類発祥、揺籃の地の一つと見なされている。その南アフリカで10万年前の「絵画道具(?)」が発見されたとの報道があった。10万年前と言えばアウストラロピテクスまでさかのぼる古い話ではなく、今の僕らと同じ現生人類の話である可能性が高い。
 「オーカー」と呼ばれる酸化鉄塊を大昔の人類が何らかの着色に使った痕跡はこれまでにも出土例があるそうだが、今回はその「オーカー」を粉にするためのハンマーや石臼と見られるもの、さらには「オーカー」を入れる皿として使ったとみられるアワビの貝殻や、違う色を混ぜ合わせるのに使ったらしい骨など、「オーカー」を利用して着色するのに使う様々な道具類が初めて見つかったことが注目される。このため発見現場は当時の「絵の具工場」みたいなものだったのでは、とも推測されている。またアワビの貝殻が本当に「皿」に使われたものとすると、人類最古の「容器」の使用例にもなるのだという。
 もっともこれら「絵の具」類を使った洞窟壁画などは確認されておらず、「オーカー」を化粧として体に塗るか、もしくは毛皮の防腐剤として使ったのでは、との推測もなされている。絵を描くにせよ、化粧するにせよ、防腐剤にせよ、いずれも現生人類ならではの行為には違いない。


 朝日新聞の報道によると、中国の学術雑誌「社会科学戦線」7月号に掲載された王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」の中で、678年に記された百済人・祢軍の墓碑に「日本」の二字が明記されていたことが発表されたという。これまで「日本」の二字が明記された文字史料の最古のものは2004年に西安で発見され話題となった日本人留学生・井真成の墓碑に刻まれたもの(734年)だったが、それを半世紀以上もさかのぼる例となる。それどころか、今回の発見は「日本」という国号そのものがいつ生まれたのかという、かねて議論されてきた問題に一石を投じることになる。
 「日本」という国号が、日本が律令国家として整備されてゆく過程で中国(唐)を強く意識してつけられたもの(「日本」は「日の昇るところ」であり「中国の東」ということになる)で、天武天皇時代(在位673-686)に決まった可能性が高い、という見解が有力だ。そしてそれは「天皇」称号とセットで決まったのではないかという推測も有力。網野善彦も言っていたが「日本」という国号は「天皇」の王朝とセットであり、王朝交代がないまま今日まで続いたもので、仮に「王朝交代」が起きたら国号も変わったんじゃないか、という見方もできる。
 中国側の記録では702年に日本側から「倭から日本に変えた」と伝えて来たことになっていて、その前年の「大宝律令」制定時(701)に日本国号を正式に決めた可能性も説かれてきた。それより早い「飛鳥浄御原令」(686)の時点という説もあるが、とにかくその直前まで生きていた天武天皇の段階で大筋決まっていたのではないかと見られる。今回取り上げられた墓碑銘の「日本」が本物であれば678年と、確かに天武天皇時代ながら意外に早い段階で、しかも外国の文献にそれが使用されていたことになり、下手するともっと前から「日本」という国号があったかもしれない、ということにもなりそうだ。
 問題の論文は読んでないし、肝心の墓碑も新聞では「日本」の二字が出てるところしか紹介されてないので、前後を読んでみないとなんともいえないところだ。とりあえず記事で紹介されたのは白村江の戦い(663)のあとに「日本餘噍 拠扶桑以逋誅」と書かれている部分。これは「日本の生き残りは扶桑に落ちのび、そこで討伐を逃れた」という意味になるようだが、「日本」が敗戦の主体として出てくると同時に「扶桑」というやはり日本の島々を意味する地名が登場するのが気になるところ。これは記した人間が「日本」と「扶桑」を全く別物と考えていた、ということだろうか。実際『旧唐書』『新唐書』では「日本が倭を倒した」とか「倭が日本をのっとった」といった説も言及されていて、向こうからみると「倭」と「日本」が別物に見えていた可能性があり、今度のこの文章にもそのニオイが感じられる。ついでに言えば僕の専門の中世倭寇時代にも「倭」と「日本」が微妙に区別されていたりしたものだ。


 その「日本」に、13世紀後半に大陸から攻め込んだのが「元寇」だ。その逆である「倭寇」が海賊集団であったのに対し、「元寇」の方はレッキとした国家事業の戦争だった。日本にとっては歴史上ほとんど経験がない外国からの大挙侵略という事態だったが、「神風」とやらが吹いて桶屋がもうかった、もとい元軍の船団が壊滅してしまうという結果になったのはご存知の通り。その元寇を「予言」した日蓮はその知らせをなかなか信じず(彼の論法でいくと元軍が日本を滅ぼさねばならない)、「船の一隻や二隻が沈んだぐらいを大げさに言って」などと手紙で書いているそうな。
 その元寇の船が海底から発見された――というニュースには、陳腐な表現だが「歴史のロマン」とやらを感じてしまうもの。発見したのは琉球大学の池田栄史教授の研究チームで、長崎県松浦の鷹島の200m沖の水深25mほどの海底から、竜骨など船底の形まで残る良好な状態の構造物が発見されたという。全長20mほどの大型船と見られ、船の上に南宋時代の陶磁器が多くあったことから「元寇の船」と判断したという。それだけじゃ商船の可能性もあるじゃないかと思えるが、鷹島は実際に元軍が押し寄せ被害を受けた場所であり、弘安の役では船団がここに布陣している。しかもこれまでにもパスパ文字の入った元軍の印鑑が発見されるなどしており、まず間違いはないだろう。
 なお、この鷹島には元寇との「縁」から「モンゴル村」なんてレジャー施設があり、モンゴルから運び込んだというゲル(テント式住居)の宿泊施設もあるそうで。公式HPの宣伝文句は「水平線の見えるモンゴル村で、楽しく遊牧民!」である。まぁ攻め込まれた恨みつらみをやるよりは明るく前向きでいいとは思うんだが…


 最後に、トンデモ系をひとつ。それが一応全国紙を名乗る新聞に堂々と報じられてしまったのでちぃっと話題になっちゃった(笑)。
 10月18日に産経新聞がネット配信した記事によると(紙面に載ったかは未確認)、岡山県美作市の袴ヶ仙(はかまがせん、標高930m)山頂近くの巨岩「烏帽子岩」に「世界最古の文字「シュメール文字」ではないかと見られる刻印」(記事そのままの表現)があるのが見つかったという。見つけたのは研究団体「香川ペトログラフ協会」会員3名と市職員や地元住民の合計10人で、「Y」や「V」のような形を検証して、「日本ペトログラフ協会」の確認を待つ、という内容だった。
 さて、トンデモ系の話に詳しい方は「日本ペトログラフ協会」と聞けばピンとくるだろう。考古学では「ペトログリフ」というのは実際にあって、古代人などが岩に文字以前の状態の模様を刻んだりしたものを指すのだが、この「日本ペトログラフ協会」の方々は日本中どころか世界中のあちこちの岩に刻まれている「ペトログラフ」を次々と発見(その多くが岩の傷や割れ目を勝手に「文字」「文様」と認定したもの)し、それがなぜか「シュメール文字に似ている」と主張、これに神代文字やらユダヤの失われた十支族やら、戦前からおなじみの「トンデモ日本人ルーツ説」が摩訶不思議に絡み合い、ついには「日本の方がシュメールより古く、日本が世界文明・文字の発祥地だった」というところまでたどりついちゃっている。まぁどこの国でもトンデモルーツ説の行きつくところは自国万歳になっちゃうのでありますね。
 それにしても産経新聞、以前からトンデモ系とは一定の親和性があるとは思っていたが、このトンデモ話を無批判で載せちゃったのはこちらも驚いた。ぜひ「日本ペトログラフ協会」の確認を受けた続報を待ちたいところだが…(笑)。


2011/10/28の記事

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