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2011年11月27日

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◆今週の記事

◆骨まで愛して

 一ヶ月ぶりの更新なんで、今回はちと古いネタも混じっております。

 10月30日に世界の総人口が70億人を突破してしまった。僕は塾で社会の講師をしているのだが、教科書を含めた使用している多くのテキストが世界総人口を「65億」、せいぜい「67億」と書いている。もちろんこれは数年に一度改訂されるものなので人口の急増ぶりに更新が追いつかないためなのだが、それにしても人口の増加ペースのなんと速いことか。1年で一億人弱も増えちゃうのである。この「史点」を書いてる間だけでも十億人は増えちゃってるのだ。
 人間がこんなに物凄いペースで増えているのは20世紀後半以降のことで、つい最近のことでしかない。1950年代に書かれたアイザック=アシモフのSF小説では21世紀半ばの世界人口が「33億人」という設定になっていたが、現実にはそのころには百億人を突破している可能性が高い。
 いきなり話が変わるが、先日三谷幸喜の最新監督作「ステキな金縛り」を見て来た。この中で幽霊が霊界から死者を探しだして呼んでくるくだりがあるのだが、あちらの世界は過去に死んだ人が全員来るため、当然特定の人を探すのも大変なんだと幽霊が語っている。「ネアンデルタール人なんかもいっぱいいるのよ」なんてセリフがあって爆笑してしまったが、このペースだと霊界の人口増も深刻な問題になりそうな。

 さてそのネアンデルタール人。現在の人類より少し前に世界中に広がり、今の人類ほどの知恵はなかった(少なくとも絵を描いたりはしなかった)が、埋葬など宗教的意識も持っていたとも言われ、さほど現生人類と違いはなかったとの見方もある。最近では現生人類とかなりの期間「同居状態」で生息していて、一部現生人類と「交配」したとの説も出てきている。
 さてイギリスやイタリアで発掘され、これまでネアンデルタール人のものと見られていたあごの骨や乳歯の化石が、再鑑定の結果「現生人類のもの」と判定されたとのニュースが11月3日にあった(科学誌「ネイチャー」に論文掲載)。実際両者はかなり近い存在なのであごや歯の骨なんかではどっちなのか判断が難しいのかもしれない。
 今度の再鑑定で現生人類のものと分かった化石だが、一番古いもので約4万5000年前のものとなるそうで、ヨーロッパにおける現生人類の化石としては最古のものとなるという。現生人類はアフリカで発生し、「出アフリカ」をして世界に広がったわけだが、今度の鑑定が正しいとするとヨーロッパに現生人類が拡散した時期がかなりさかのぼることになり、ことによるとネアンデルタールと数千年という長きにわたり同時並行で共存していた可能性もあるということだ。

 ヨーロッパではそんな具合だが、日本にはいつから現生人類が住んでいたのか。これがなかなか確認が難しい。なぜかというと日本本土では土壌が酸性のため万を超える昔の旧石器時代の人骨がなかなか残らないためだ。とりあえず本州で確認された最古の人骨は静岡県で発見された「浜北人」の約1万8000年前、というものがあるのだが、石灰岩質が多く人骨化石が残りやすい沖縄県ではさらに古い可能性のある例がいくつかあり、以前も取り上げた山下町第一洞穴遺跡からは約3万2000年前のものとみられる人骨化石が見つかっている。ただし骨そのものの鑑定ではなく一緒に出土した炭化物などの測定からの類推で、やや立証に弱いところがあるとされる。
 人骨から直接測定した例では、沖縄の石垣島にある白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から見つかった人骨からコラーゲンを抽出、その放射性炭素年代測定して得られた「2万年前」というのが最古の記録となっていた。この人骨は出土した具体的な地層が分からなかったが、昨年までの調査で最下層の地層(2万〜2万4000年前)から出土した肋骨一つが、放射性炭素年代測定の結果「2万4000年前」と判定され、人骨から直接測定した記録としては4000年の繰り上げとなった。
 それにしても人間(もちろん現生人類)というのは世界中どこでも、「よくまぁこんなところに」というほどあちこちに住んでいるものだが、石垣島なんて小さな島に、数万年も前から人間がずっと住んでいたと聞くとやっぱり驚いてしまう。もちろん2万年以上も前だと日本列島自体が大陸とつながっていたりもするので石垣島なんてむしろ「離島」ではなかったかもしれないが。

 骨の話と言えば、10月にイタリア北部のローマ時代の遺跡から「1500年前の手をつないだ男女の人骨」が出土して話題になっている。5〜6世紀に埋葬されたものと見られ、埋葬時には向かい合わせに見つめあう姿勢だったのではないかという。そのシチュエーションから恋人か夫婦ではないかと想像をかきたてられ「多くの発掘に関わったがこんなに感動したのは初めて」とおっしゃる研究者もいるのだが、一緒に同時に死んだのかもしれないと考えると国が国だけに「ロミオとジュリエット」な悲劇的状況も想像できる。もっとも現時点では人骨の年齢も不明で、二人の関係も夫婦や恋人ではない可能性だってある。浮気現場を発見した第三者が埋めちゃった、とか、全くの赤の他人を心中に見せかけて殺した、なんて推理小説みたいな想像をしちゃったりして。



◆信長公のご先祖は

 日本史で「源平交代説」というやつを目にした、耳にした人は多いだろう。その名の通り、源氏と平氏が交代交代で天下を取る(あるいは台頭する)、という説…というより迷信みたいなモンだろうか。
 交代がどの辺から始まるのか微妙なのだが、一応源氏が台頭したのが源義家の時として、その息子は反乱を起こして平氏に平定され、これが平氏の台頭につながってゆく。そして保元・平治の乱で平清盛が勝利して源氏は一時逼塞するが、清盛晩年に源頼朝ら源氏が蜂起、最終的に壇ノ浦で平氏を滅亡に追い込む。そして源頼朝により鎌倉幕府が創始されるが、頼朝の死後その息子たちが相次いで殺されて源氏本家は断絶、平氏系(とされる)の北条氏が事実上幕府の最高権力を握ることになる。そしてその北条氏を打倒して次の幕府を開いたのが源氏の名門である足利尊氏だった。「源平交代説」がいつごろから意識されていたかは正確には分からないが、足利尊氏の天下取りの背景には「交代説」に近い意識があった可能性はある。

 さて、この「交代説」によると源氏である足利氏の次に天下を取るのは平氏、ということになる。戦国時代には明らかに意識されていたらしく、足利幕府を滅ぼした張本人(あくまで将軍を「追放」したので滅ぼしたつもりはなかったかもしれないが)である織田信長が「平氏」を称していた形跡がある。しかももともと信長は最初のうちは藤原姓を称していたのだが、「天下取り」を意識したころから平氏の子孫を称するようになったようなのだ。ここでポイントになるのが織田氏のルーツとされる、織田親真という人物だ。
 この親真さんは信長より十数代前の先祖で、鎌倉時代に実在したことは確か。信長時代以後に作られた織田氏系図類ではこの親真は実は平清盛の孫・平資盛の落としダネということになっていて、織田氏が平姓を称する根拠となっている。しかし聞くからにウサンクサイ話で、織田氏発祥地である越前(福井県)の現地では親真は現地の神官・忌部氏の出であると伝わっていて、以前から信長が平姓を称するために親真の出自について捏造工作をしたのでは?との見方があったのだ。

 そしてつい先日の11月1日、福井県越前町の教育委員会が同町織田(これが「名字の地」である)の法楽寺にある石造物が親真本人の墓の五輪塔の一部に間違いないと発表した。この五輪塔そのものは60年も前に見つかっていたもので、知る人ぞ知るの存在ではあったようだが、このたびその銘文や石材の特徴を調査して親真が亡くなった鎌倉後期のものとみて間違いなし、という結果が出たということだ。
 この五輪塔の側面には「親真」の名と、「正應三年庚刀二月十九日」という年月日が彫られており、これが親真の命日だと見られる。正応三年というと1290年。この年に亡くなったとすると、親真の実の父説もあった平資盛は壇ノ浦で1185年に死んでるわけだから、親真が資盛の落としダネだという話が本当だとすると親真は100歳以上の年齢で死んだことになり、まずありえないと考えうのが普通。というわけで、親真はやっぱり忌部氏の出身であり、平資盛の落としダネという話は後年信長が「平姓」を称するために捏造した話だということになりそうだ。してみると信長も結構「源平交代」を信じていて(あるいはそういう俗説を利用して)、天下取りをしようと画策していたことにもなる。

 その信長を本能寺の変で倒すのがご存知、明智光秀。こちらも出自がいまいちハッキリしない人なのだが、清和源氏の土岐氏の流れを汲むとする説があり、光秀が信長を倒した理由を「平氏に天下を取らせないため」とする俗説が昔からある。また例の「源平交代説」にかかると、「平氏」の信長から「源氏」の光秀へ政権交代したという説明もできてしまう。
 しかし光秀の天下はおよそ十一日間(「三日天下」というのはあくまで慣用句)。光秀を倒して次の政権を担ったのは、これまた良くご存じの羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉だ。秀吉は一時藤原姓を称しているが、「豊臣」という新しい「姓」を創始することになる。ところがこの秀吉、どうもある時点で「平姓」を称していた形跡があるのだ。僕もちゃんと調べたわけではないので日本国内にその例があるのか知らないのだが、中国側の『明史』日本伝では秀吉は「平秀吉」として登場する。これは明が日本と接触した朝鮮の役の折に日本側から「平秀吉」と書かれた文書が出たためとしか思えない。なお、『明史』日本伝では信長が木の下に寝そべっている秀吉と初めて会い、そのために「木下人」と呼ばれた、という逸話も書かれていて、彼の最初の名字「木下」の話がどこかで説話に変化して伝わったものらしい。

 そしてその秀吉の死後に天下をとるのがまたまたご存じの徳川家康。この家康はもともと「松平」を称しており、あとから「徳川」に変更しているのだが、この「徳川」のルーツを清和源氏の新田一族に置き、家康が征夷大将軍になれる根拠とされた、というのもよく聞く話。しかもここまでの話からすると、秀吉が平氏として、その次が源氏、というしっかり「源平交代」になるおまけつきだ。もっとも家康が徳川を称するのは秀吉が天下を取る以前、信長存命中の話なので、もしかすると家康は「信長の次はオレ」と考えていた、ってなことにもなっちゃうのだが。



◆仁義なき縁切り

 ずいぶん前のことになるが、この「史点」で「つくる会仁義なき戦い」という記事を書いたことがある。例の教科書をなんちゃらする会の面白すぎる内紛抗争劇を映画「仁義なき戦い」のノリでまとめたものだが、あれで僕が重度の「仁義フリーク」であることがバレていると思う(笑)。まぁ歴史の専攻も「海賊」だったりする人間ですので。
 知ってる人には説明不要だが「仁義なき戦い」全五作は実際に起こった広島抗争(1次〜3次)の史実をベースにしている。実名は全部変えてあるし、一部の時間軸の変更やフィクションも多く含まれてはいるのだが、大筋ではほぼ事実のままである。菅原文太演じる主人公の「広能昌三」のモデルは、広島抗争の真っただ中にいて、刑務所内で映画の原作となった手記を書きあげた美能幸三という人物だが、映画が公開されたころにはヤクザから足を洗って実業家となり、その後もたまにインタビューに応じて抗争の内幕を話したりしていたが、昨年3月に亡くなっていたことを最近になって知った。

 この映画を作るにあたっては主人公のモデル当人は当然映画化の許可やさらなる取材を受けるなどわずかではあるが製作にタッチしているし、主要登場人物を演じた俳優たちの一部は自分が演じたキャラクターの実在モデル関係者に挨拶ぐらいはしていた(俗に言う「仁義を切る」というやつ)。山口組三代目組長で戦後ヤクザ最大の大物である田岡一雄も公開前に映画を鑑賞してOKを出していたと言われる(田岡がモデルの人物を丹波哲郎が写真のみながら演じている)。その一方で存命中の関係者の多くが刑務所で服役中で、その隙をついて「鬼の居ぬ間」に映画化してしまったという側面もあり、同作のビデオソフト化がかなり遅れる原因ともなった。
 この映画のヒットに気を良くした東映は、「実録路線」のヤクザ映画を推し進め、ついには日本最大のヤクザ組織のボス、田岡一雄当人の生涯を映画化してしまう。それが高倉健主演の「山口組三代目」「三代目襲名」の二作だ。ちなみに田岡は高倉が自分を演じることを映画化の条件としており、おまけに公開されると組員全員に鑑賞のうえ感想文の提出を義務付けている(笑)。
 しかしさすがにこの映画については警察当局はかなり渋い顔をした。この映画の売り上げが山口組の資金源に流れるのでは、とかなんとか難癖をつけて東映を捜索したこともある。この警察の姿勢に頭に来て東映の岡田茂社長がタイトルを思いつき、「仁義なき戦い」と同じ脚本・監督で作られたのが「県携対組織暴力」という映画で、こちらもかなりの傑作として知られている、というのは余談。

 余談というより趣味に走った雑談が長くなった末に本題に入ると、こうした経緯もあって東映がヤクザ映画を量産していた時期には撮影所内に「本職」の人たちがしばしば出入りしていたという。だいたい当時の山口組は芸能興行も手掛けていたから映画界、芸能界とは浅からぬ縁があった。その後いわゆる「暴対法」の制定もあって東映はヤクザ映画製作の中止を発表したが人気シリーズ「極道の妻たち」は手放さなかったしVシネマで新たな市場を開拓している。そういったものに出演している俳優の一部には「近ごろの俳優は本物と付き合ってないからヤクザを演じてもそれらしくない」と本職ヤクザとの付き合いがあることを公言している者もいた。まぁ別に一緒に犯罪をするわけでもなく、個人的付き合いなら…と思わないでもないが。ヤクザの娘の結婚式に出て批判され「ヤクザは娘の幸せを祝ってはいけないのか」と反論した俳優もいたっけな。
 そして昨年から、法律ではなく地方公共団体が定める「条例」として「暴力団排除条例」が10月までに全ての都道府県で施行され、事実上全国民が従う「法律」となった。これを受けてさまざまな業界で「暴力団との絶縁」の動きが見られるのだが、上記「仁義なき戦い」などかつてヤクザ映画を量産した東映京都太秦撮影所(「仁義なき戦い」はここで製作され、広島市内シーンも実は大半が京都市内である)も、「暴力団を恐れない」「金を出さない」「利用しない」の三つを基本とする「暴力団排除宣言」を行った。もっともヤクザ映画については「撮ることはあっても現実の世界では関係は持たないよう徹底する」ということだそうで。

 昔からヤクザと坊主は深い縁、という話をずいぶん前の「史点」で書いた(2006年5月27日付)。そのときとりあげていたのが比叡山延暦寺が山口組歴代組長四人の大規模な法要を行い、これに滋賀県警が中止を要請したが、比叡山側は「大規模法要は急には中止できない」「あの世で差別はない」といった理由で法要をそのまま実施した、という報道だった。その後知ったことだが、比叡山側はこのとき歴代組長四人の位牌を境内の阿弥陀堂に安置し、「永代供養」を依頼され引き受けていたという。
 しかしとうとう比叡山もこの流れには逆らえないと感じたか、今年5月になって位牌への参拝を組長の家族も含めて関係者全てに認めない方針を決定、6月下旬に山口組側に文書で通知していた。7月上旬に山口組側から承諾の返事があったという。ただ比叡山としては位牌の安置自体は「宗教上返還することはできない」として続けることにしているという(この辺、靖国の合祀問題と似てますな)

 ヤクザ排除の動きは仏教界だけでなく神道界にも及んだ。というか、そもそもヤクザは親分子分兄弟分の契りを結んだり、組同士の同盟関係を結んだりする場合の儀式では神道的な性格が強い。
 日本の大半の神社をまとめる宗教法人「神社本庁」は11月になって「暴力団の団体名による祈祷祈願については慎重に取り扱うよう留意するように」との文書を全国の組織に通達した。これを受けて山口組の本拠地・神戸を抱える兵庫神社庁も暴力団の集団参拝の申し入れは拒否するとの方針を決定したが、それとほぼ同時に山口組側から毎年元日恒例の兵庫県神戸護国神社への初詣参拝を自粛すると神社側に通知があったという。神社側としては憲法の定める「信仰の自由」もある以上、組関係者の個人的参拝については断らないが、明らかに「暴力団」として団体で来られては困る、という姿勢とのこと。

 これら一連の動きについて、現在の山口組組長である司忍が珍しいことに一般の新聞(産経新聞)のロングインタビューに応じていて、いろいろな意味で面白く読んだが、彼も指摘するように「ヤクザ当人はともかく、その家族・友人まで弾圧されなきゃいけないのか」といった疑問は僕も感じるし、単純に「暴力団員」であることをもって基本的人権が侵害されていいのか、それも法律ではなく全国一斉の条例という形で進められていいのか(法律ですらないくせに憲法違反の可能性が指摘される青少年育成条例なんてものがあったでしょ)、少なからず各種マイノリティーを含む(これは司組長本人も言及していた)人間集団をあまりに押さえこむとそれこそ地下に潜ってギャング活動化する危険性もある(といって、「組事務所」が堂々と町中にある国ってのもどうかと思うけど)、などなどいろいろ考えてしまうことは多い。非合法貿易活動家兼海賊だった連中の研究をしてそっちに肩入れしがちだからかもしれないが。
 だいぶ前だが、自分の住む市内で自動車事故で同い年の若者が二人死亡し、新聞記事で「死亡したのは○○さんと× × 組員」となっていたのを見て、組員だと何も悪いことをしてなくても呼び捨てにされちゃうんだなぁ、といささか哀れを感じてしまったこともあったものだ。



◆ またぞろ持ちあがる皇室論議

 去る11月3日に秋篠宮家の長男・悠仁くん(5歳)が一般の七五三にあたる「着袴の儀」「深曽木の儀」を執り行った。「着袴」はその名の通り「はかま」を身につけるもので、すぐに続けて行われる「深曽木」の方はなぜかその恰好で碁盤の上からピョンと飛び降りるというヘンな儀式。これを見た直後に昨年の映画「武士の家計簿」を見たら七五三にまったく同じ儀式をやっていて興味深く感じたものだ。幕末武士でもやってたんですな、ああいうの。
 この「深曽木の儀」の方は男子皇族のみが行うもの。つまりこの儀式を悠仁くん以前に行ったのはお父さんの秋篠宮文仁親王その人である。文仁親王がこの儀式を行ったのは1970年のことだから、実に41年ぶりに行われたわけである。その間、皇室ではまったく男子が誕生していなかった、ということでもある。そして皇室で宮家が設立されたのも現時点では秋篠宮家が最後となっている。

 先日、羽毛田信吾宮内庁長官が野田佳彦首相に対し、女性皇族による宮家創設を「火急の案件」として強く要請、政府も検討に入ることを表明した。するとすかさず保守系の政治家やマスコミで「性急に進めるな」との声が上がり、またぞろ「皇室論議」が盛り上がる気配を見せている。
 そもそも皇室に生まれた女性は他家にお嫁に行った場合、即皇籍から離脱することになっている。女性皇族による「宮家」創設など日本史上行われたことがない。だがここでこの話が「火急の案件」とまで言われて浮上してくるのは、このままでは皇室が「先細り」してしまうことが明白になっているためだ。先述したように皇室では文仁親王誕生から悠仁親王誕生までの間のおよそ40年間生まれたのは女子ばかり。三笠宮家に二人、高円宮家に三人、秋篠宮家に二人、そして皇太子家の一人、と若い世代は立てつづけに女の子ばかりなのだ。そしてつい先日秋篠宮家の長女・眞子内親王が成人し、初めて単独で伊勢神宮参拝を行っていた。いやはや、時間が経つの早いもので…と思うばかりだが、その若い世代の女性皇族たちの多くが結婚年齢に達しており、いずれお嫁に行っちゃうことになるといずれ皇族は悠仁くん一人だけ、という事態になりかねない、というかこのままでは必然的にいつかはそうなる。
 
 女性宮家創設も含め、いわゆる「女系天皇」も認める方向が小泉純一郎政権のときに審議会で打ちだされ、小泉首相もかなり乗り気で実現へ突っ走ったことがある。あくまで男系維持を主張する超保守系の人々は強く反発し、中には小泉首相を「逆賊」呼ばわりする人までいたほどだったが(Y染色体まで持ち出したヘンな人もいたな)、秋篠宮家の紀子妃の懐妊で議論は一時ストップ、そして悠仁親王誕生で当面の危機は去ったということで完全に放り出されている。しかしそれは単なる先送りであって、天皇位はともかくとして皇室メンバーが一挙に減ってしまう事態が懸念され、今回の宮内庁長官の要請になったものと思われる。

 今回の議論はあくまで「女性宮家の創設」に絞り、皇位継承ウンヌンについてはボカしているのだが、女性宮家創設のその先に「皇位の女系継承」があるのは明らかだ。だからすかさず超保守系の方々が反発しているわけで。で、こういう人たちは代わりにどうしろと言っているかというと、天皇家の男系の子孫であり、戦後直後に皇室を集団離脱した「旧宮家」を皇室に復帰させろと主張しているわけだ。
 この「旧宮家の皇室復帰」については小泉政権の時にも議論の対象にはされたが、「男系とはいえ共通の先祖が600年も前の遠い親戚である」ことを理由にあっさり却下された経緯がある。そんなに遠い親戚が皇室に残っていたことに驚かれる人もいるだろうが、これには実は当サイトの看板の一つでもある南北朝時代の皇室問題が絡んでいる。
 南北朝分裂の皇室側の原因が、「持明院統」「大覚寺統」二つの皇統の争いにあり、それがそれぞれ「北朝」「南朝」になっていったことはご存じの方も多いと思う。ところが南北朝時代の間にさらに北朝の中で皇統分裂が起こり(この原因を説明すると長くなるので「南北朝列伝」でも参照されたい)、「後光厳系」「崇光系」の対立となった。後光厳系は称光天皇が子を残さずに早死にしたため断絶してしまい、やむなく崇光系の子孫を迎えて養子の形をとった。これが後花園天皇で、この人は崇光天皇のひ孫にあたる。そして後花園の弟が崇光系の宮家を引き継いで「伏見宮家」となり、以後一人も天皇を出さなかったがそれまでの事情もあって「もしもの時のピンチヒッター」として延々と「親王」号を称し、皇室本家に寄り添うように宮家を維持し続けた。伏見宮家は幕末から明治にかけて多くの宮家を分家させ、いわゆる「旧皇族」とされる家はみんなこのとき出来たものだ。
 現在の皇室と旧宮家の共通の祖先というのは後花園の父・貞成(さだふさ)親王という人物。将軍で言うと足利義満から足利義政の初期まで生きてた人。『看聞日記』『椿葉記』という膨大な日記資料を残していて、室町政界史の貴重な証言者でもあるのだが、兄を毒殺した疑いがかけられたり(二人きりで会った直後に急死したのは事実)、称光天皇の侍女と密通・妊娠させた疑いをかけられるなど、何かと話題の多い人でもある。はるかに600年ものちに自身の子孫でそんな議論がまた出てくるとはあの世でビックリしていることであろう。
 
 まぁこれまでの経緯を見ると、宮内庁、そして恐らくは現皇室も旧宮家の皇族復帰には乗り気じゃない様子なんだよな。旧宮家の皇族復帰を主張する人たちの中には現皇室の女性たちと縁組みすることで正統性を確保しようなんて意見もあるそうなんだが(かつて遠い親戚を称する継体天皇が武烈天皇の姉妹と結婚した例が想起される)、それこそ上の話題じゃないが人権もへったくれもない話。どっちにしても今の形で君主制度を男系・男性のみで維持してこうというのが無理な話だと思うんだけどなぁ。


2011/11/27の記事

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