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2012年3月10日

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◆今週の記事
※このシーズンはいつものことですが、一ヶ月ほど更新が止まりましたので、少々ネタが古めです。


◆英国兵士の今むかし

 今年で2012年。ということは、2年後には第一次世界大戦勃発百周年を迎える。
 以前「ドイツ最後の第一次大戦参加兵士が死去」という話題をとりあげたことがある2008年2月14日付「史点」。その記事中で2008年2月現在でどれだけ第一次大戦参加兵士が生きているかという数字を挙げているのだが、それから4年も経った今、さすがにその全てがお亡くなりになってしまっている(→参考までにWikipedia記事(英文))。その最後の「元兵士」となったのは意外にも女性で、イギリスのフローレンス=グリーンさんという。2月4日にイギリス・ノーフォークの養護施設で就寝中にそのまま息を引き取ったという。110歳だった(あと2週間で111歳だった)

 今年111歳になるところだったということは、生まれたのは1901年。第一次世界大戦が終結した1918年時点で17歳…まだキャピキャピ(死語)の少女である。確かに第一次大戦でイギリスは初めて「女性兵士」を誕生させ、それが戦後の女性参政権につながっていったりもするのだが、彼女たちが戦場に出ることはなく、もっぱら補給・通信など後方支援の任務にあたっていた。当時17歳のフローレンスちゃんは終戦の2か月前にイギリス空軍の女性部隊に入隊したそうだが、仕事は「食堂の接客係」だったそうで、実のところ現代日本の高校生の飲食店バイトと変わらない。

 2008年に雑誌のインタビューを受け、「戦争体験」について聞かれると、「空軍のパイロットたちと大勢知り合ってデートもした。飛行機に乗る機会もあったが怖かった。基地ではたくさんの友人ができ、ひまな時には愉快なこともして、楽しい思いをさせてもらった」と述懐したそうである。なんだ、遊んでただけじゃん(笑)。やっぱり実態として青春真っ盛りの高校生バイトとなんら変わりはなかったようだが、新兵器の登場で大量殺戮があった悲惨な新時代戦争のイメージが強い第一次世界大戦の最後の「兵士」が、こんないたって平和な青春を謳歌していたという事実にちょっと救われる思いもする。


 さて、そんなイギリス空軍、昨年結婚した王太孫・ウィリアム王子が所属している。そのウィリアム王子が2月2日付で捜索救難ヘリの副操縦士としてフォークランド諸島に派遣された。フォークランド諸島といえば、アルゼンチンの目の前にあるイギリス領の諸島で、ちょうど30年前の1982年にかねて領有権を主張していたアルゼンチンの軍事政権がここを占領、これに対して「鉄の女」サッチャー首相のイギリスは断固たる反撃に出て、結局3ヶ月ほどで同諸島を奪い返した。これがいわゆる「フォークランド紛争」で、そういえば今年の米アカデミー賞でメリル=ストリープがサッチャーを演じて主演女優賞をとった映画が製作されたのも30年という節目だからなんだろう。

 ウィリアム王子のフォークランド派遣についてイギリス政府は「空軍パイロットとしての軍事訓練の一環」と発表している。フォークランド紛争もそうだったが、イギリス王族は軍人としてあちこちに派遣されるのが通例で(日本皇族も戦前はそうだった)、それ自体は確かに珍しいことではない。
 しかし今もこの「マルビナス諸島」の領有権を主張するアルゼンチン側は強く反発した。「王位継承権二位の王子を派遣するのは政治的意図があるに違いない」というわけである。また王子と一緒に最新鋭ヘリが配備されるとの話もあり、「イギリスの軍備増強は安全保障上重大な危機を引き起こす」とアルゼンチンのフェルナンデス大統領は批判している。アルゼンチンと共に南米共同市場(メルコスル)を結成しているブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、ベネズエラもアルゼンチンへの支持を表明、フォークランド諸島の旗を掲げる船舶の寄港禁止などの措置をとることになった。
 やっぱり、というか、「ベネズエラの大将」ことチャベス大統領は「帝国主義イギリスが攻撃を仕掛けたら、アルゼンチンを見捨ててはおかない」といつもの調子で吼えてるそうで。



◆鑑真、頼朝、益次郎

 日本最古の肖像彫刻は、歴史教科書でもおなじみの唐招提寺所蔵の「鑑真和上像」だという。説明不要だろうが、鑑真は8世紀の唐の高僧で、日本の遣唐使による招聘を受けて日本渡航を決意、5度の失敗の末に失明するが、752年に執念で日本へとやって来た。
 それからおよそ10年後の763年に鑑真は亡くなるが、その直後にあの彫像は作られている。直後どころか、伝説によると鑑真の死の直前に弟子の忍基が夢で師の死を予知してその前に作り始めたとされるほどで、とにかく鑑真の死とほぼ同時にリアルタイムで作ったものには間違いない。これより前の歴史人物肖像だと聖徳太子の肖像画がよく知られているが、あれは当人が死んでから一世紀以上経ってから書かれたものだし、そもそも「聖徳太子」を描いたものかどうかすら疑問視されている。そこへ行くと鑑真和上像は生前の当人の姿を非常にリアルに伝えた最古の肖像に間違いなく、大変貴重なもの。僕は以前国立博物館で開かれた「唐招提寺展」でこの鑑真像の本物を拝む機会を得たが、彫刻としても実にリアルな造りで、鑑真とは本当にこういう人だったんだろうな、と思いを馳せたものだ。

 この鑑真和上像、麻布と漆を何度も塗り重ねてゆく「脱活乾漆造り」という手法で作られている。このたび唐招提寺の依頼でこの像の「お身代わりの像」、すなわち模像を財団法人「美術院」が制作することになり、オリジナル像の詳細な調査が行われた。その結果、「専門的な職人のテクニックが見られず、細部が粗く、表面を指で仕上げた痕跡がある。弟子たちが作ったのではないか」と2月7日に発表があった。先述の伝説のとおり、弟子たちが鑑真の姿を残そうとその死の直前直後に一生懸命手でペタペタと作っていた光景(漆を指で固めるという例は他にはないそうで…かぶれるからかな)が頭に浮かぶ。そういえば小学館版の漫画日本の歴史でもそういう絵になっていたっけ。


 鑑真は完全に例外として、昔の有名人の肖像ほどあてにならないものはない。聖徳太子は当然として、誰もが知る源頼朝の肖像画だって、「別人」との見解が有力になっている。じゃあ誰の肖像なんだというと足利尊氏の弟・足利直義だとみる説がある。この説、中世史家を中心に支持が多いのだが美術史側では抵抗も多いそうで、まだ決着はついていないが、南北朝マニアの僕もこの「直義説」はかなり真相を突いてるのではないかと思っている。
 ところで、鎌倉にある源頼朝の墓が壊されるという事件が2月11日に起こっている。この日の正午過ぎ、鎌倉市西御門の白旗神社敷地内で男が頼朝の墓を破壊しているとの110番通報があり、警察が駆けつけてみると高さ180センチの石の塔の最上部の「相輪」部分が倒されて四つに割れ、近くの石灯籠も壊され神社の狛犬も台から落とされていた。間もなく近くの鶴岡八幡宮内で包丁を隠し持った男が銃刀法違反容疑で現行犯逮捕され、目撃情報からこの男が頼朝の墓を破壊したと思われるのだが、当人はその理由については口を閉ざしており、全くの謎だ。

 鎌倉市では「復旧は可能」と判断しているそうだが、1989年にも石塔の上から三段目までが破壊されたが復旧した前例がある、と話していることに興味津々。実は初めてじゃなかったんですな、頼朝さんの墓の受難は。
 う〜ん、どのみちまともな精神状態ではないと思えるのだが、頼朝に恨みをもつ、とすると判官びいきの行き過ぎた結果だろうか?戦中には京都・等持院にある「逆賊」足利尊氏の墓を生徒たちの前で殴りつけた教師というのがいたそうだが… 

 
 そんな事件があった同じ日、愛媛県宇和島で「大村益次郎宅跡地の民家全焼」なんてニュースもあった。大村益次郎とは幕末長州で軍を指揮して幕府軍を破り、上野の彰義隊を鎮圧して近代軍隊の創設者となった人物。司馬遼太郎の小説「花神」の主人公「村田蔵六」で知ってる人も多いだろう。
 大村益次郎はもともと医者で、蘭学を学んだことから西洋の近代軍事技術の知識を得た。このため四国の宇和島藩に招かれてここで小型蒸気船の製作なんか手がけた時期がある。だから宇和島に彼の住宅跡があるわけだが、このニュースの見出しを最初に目にした時は「ありゃ、もったいないことを」と思ったものの、よく読めば「跡地にある民家」であって、別に益次郎が住んだ家が燃えたわけではない。なーんだ、とついつい失礼ながら思ってしまった。記事によるとこの家の持ち主の祖父が益次郎ファン(?)で100年前にこの土地を購入、「花神」が大河ドラマになった時は観光客も結構きたそうだし一応市の指定遺跡にもなってるそうだが、当時の面影など一切残ってないのだそうだ。



◆違憲はイケンという意見

 長らく塾で社会の講師をやってるもので、公民で「違憲立法審査権」あるいは「違憲審査権」なるものについてよく説明する機会がある。政治の三権分立の仕組みの中で、司法権を持つ裁判所が立法権をもつ国会に対して「その法律は憲法違反だ!」と判断する権利の事だが、説明に使える実例は思いのほか見つからない。逆に国会が裁判所を牽制する「弾劾裁判」については実例を知っているのだが、中学生には説明しづらい話題で(興味のある方はご自分でお調べを)
 だが昨年から「違憲立法審査」についていい実例がある。2009年に行われた衆議院選挙の選挙区区割り、いわゆる「一票の格差」の問題について、2011年に最高裁が「憲法違反」の判断を下しているのだ(憲法の定める平等権に違反)。だから次の総選挙までに国会は法律を改正しなければならないわけなのだが、例によって選挙がらみの話は政党間の思惑で折り合いが付かず、一応の期限とされていた日付までに話がまとまらなかったため、衆議院が「違憲状態」になっている。だから実は解散総選挙しようにもできないんじゃないの、という議論もあるのだが、そんな話はそっちのけで解散風が微妙に吹いてる昨今だ。

 
 で、それは前振りで、本題はこのあと。
 2月21日、イスラエルの最高裁が同国の兵役制度に関するある法律について「憲法違反」との判断を下した。その法律とは、ユダヤ教超正統派の宗教学校に通う若者については兵役義務を免除する、という法律。なんでもイスラエルの建国当初から「ユダヤ人国家」として国家統合をはかる意図からユダヤ教宗教学校に通いいずれ聖職者となるような生徒については国防大臣が兵役免除を毎年決めていた。しかし「国民皆兵」が基本のはずなので徴兵される世俗派の人々には不公平感があり、こうした不満を背景に2002年になって兵役免除の条件をちゃんと規定し、超正統派の若者には短期兵役を選択可能とする法律が定められたのだが、結局最高裁はその法律について「兵役免除を固定化するもので、憲法の定める平等原則に反する」と判断を下すことになったのだ。
 報道によると最高裁の判決を受けて兵役免除規定の法律が廃止されると、宗教学校の生徒六万人以上が新たに徴兵対象になるという。しかし現在のネタニヤフ首相の連立政権にはその超正統派の政党も加わっているため新たな法律を作ってお茶を濁すだけじゃないかと見られているらしい。いやぁ、イスラエルの戦争なんだからそれこそ宗教的情熱に燃える聖職者の方が率先して出陣なさったほうがいいようにも思えるのだが(笑)。
 そこでふと疑問も。イスラエル国内にはもともとそこに住んでいたアラブ系のパレスチナ人の国民もいるはず。その人たちはイスラエル軍に徴兵されないのか?と思ったら、これも「兵役免除」なんだそうだ。まぁ、これもイスラエル軍の性格上アラブ系を入れるわけにはいかない、ということなんだろうが、これはこれで平等原則に反するという気もする。


 前回「史点」で、「アルメニア人虐殺を否定することを禁じる法案」がフランス国会で成立した、という話題を採り上げたが、その続報が出た。2月28日にフランスの憲法院(憲法判断を下す裁判所)がこの成立したばかりの法案について「思想や発言の自由に抵触する」として「違憲」の判断を下したのだ。これからどうなるか分からないが、僕も全く妥当な判断だと思うし、こういう判断もちゃんと出せるところにまだフランスの健全性が残っていると思いたい。
 サルコジ大統領はこの判断に「失望した」と声明し、新たな法案作成を指示した、とのことだが…



◆ 聖者の行進
 
 キリスト教のカトリックには妙な習慣がある。宗教上業績のあった人や殉教者を「聖人」としてそれ自体を崇拝するようになるのは他の宗教にも見られるものだが、カトリックではその「聖人」の体の一部を保存し、それを信仰の対象にしてしまうというケースがあるのだ。
 例えば日本にキリスト教を伝えたことで知られるフランシスコ=ザビエルはその片腕がミイラ状態でゴアに保管されていて、「奇跡」の例として信仰の対象になっている。数年前に日本にも来たことがあり、「ザビエル再来日」と当時「史点」ネタにしたこともある。早くも「福者」に列せられた前ローマ法王ヨハネ=パウロ2世もその血液を入れた小瓶、というのが作られているそうである。

 アイルランドはカトリック国だが、その首都ダブリンのクライストチャーチ大聖堂には12世紀に生きた聖人ローレンス=オトゥール(LaurenceO'Toole、1128-1180)「心臓」が保管され、信仰の対象となっていた。心臓なんてどうやって保管しているのかと思ってしまうが、ハート形の木箱(忘れがちだが、そもそもハートマークは心臓の記号化だ)に入れられ、檻で囲って聖堂の壁に打ちつけてあった、とのこと(参考写真)。
 ところがその心臓が3月2日夜から3日正午の間に何者かに持ち去られていることが発覚。他に金目のものがあるのにそっちには手を出しておらず、初めからこの「心臓」だけを狙った犯行とみられている。教会関係者はそれこそ心臓が飛び出すようなショックを受けているとのこと。
 調べてみたら聖ローレンス=オトゥールの「受難」はこれが最初ではなく、1442年にその頭蓋骨がイングランド貴族によって持ち去られているという。また埋葬されていた彼の骨もイギリスのヘンリー8世によるイギリス国教会設立の混乱の中で紛失しちゃっているのだそうだ。そして心臓が盗まれちまったわけで、どういう動機でやったものか、非常に気になるところ。

 連想したのだが、最近イギリスでベストセラーとなり、テレビドラマ化された「大聖堂」で、フィクションながら聖堂内に昔の聖人の頭蓋骨が保管されていて、その聖堂が火事で燃え落ちる際に粉々になってしまうものの、坊さんがその辺の墓地から適当に頭蓋骨を拾って来て「変わり身」にしてしまう、というくだりがあった。この心臓だって誰の心臓だか分かったもんじゃないんじゃないかなぁ、とも思う。なお、このクライストチャーチ大聖堂にはオルガンの裏にひっかかってミイラ化した「猫とネズミ」なんてものまであるそうで。


 いきなり話が飛ぶが、一昨年あたりから急速に普及した「ツイッター」。お手軽なせいか一部に「バカ発見機」と揶揄されるほど何気ない書き込みが大騒動に発展するケースもまま見られる。昨年の「アラブの春」の原動力のひとつとも成った、という話もあるんだけど、同じイスラム圏でこんなこともあるんだ、というニュースがあった。
 イスラム教の預言者ムハンマドはイスラム暦で第3月にあたる「ラビー・アル=アウワル月」の12日に生まれたということにされていて、毎年この日には「生誕祭」が行われる。イスラム暦の1年は354日なので世界的に使用されるグレゴリオ暦とは毎年11日づつずれていってしまうのだが、今年のムハンマド生誕祭は2月4日に当たっていた。この日、サウジアラビアの文筆家ハムザ=カシュガリ氏がツイッターでムハンマド当人に向けたメッセージととれるツイートをしちゃったのだ。それも「あなたについては好きな面と嫌いな面がある」「あなたのために祈ることはしない」といった、いささか挑発的な内容だったそうだ。
 このため彼はサウジ当局から逮捕状が出され、滞在先のマレーシアで逮捕され、2月12日にサウジアラビアに引き渡された。担当弁護士によるとマレーシアの裁判所が送還の暫定差し止め命令を出したそうだが、間に合わなかった、とのこと。先日「魔術を使った」ことを理由に斬首刑が執行されてるようなサウジだけに、この人も死刑の可能性ありとアムネスティが騒ぎだしている。

 ムハンマドはイスラム教においては「最後の預言者」であり、事実上「聖人」として扱われ、彼自身が信仰の対象にされている状態なのだが、もともとムハンマド自身は自分が特別な存在であることを否定し、あくまで「普通の人」であって彼自身をむやみに持ち上げることは戒めていたはず(アラブ諸国が出資した映画「ザ・メッセージ」ではそのことがやたら強調されていた)。だからムハンマド氏にツイッターで気軽に声をかけるのもアリだとは思うんだよね(別にシャレではない、念のため)。また、あのサウジからこんなことをつぶやける人が出るというのも正直驚きだったし、案外気楽な空気もあるじゃないかと見直したところもある。まぁコーランだって、神様がムハンマドという「端末」を使って送ったツイートみたいなもんなんだし、サウジ当局が大目に見ることを期待したいものだ。


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