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2012年3月23日

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◆絵っ絵っ絵っ?

 ついこのあいだ、レオナルド=ダ=ヴィンチ「モナリザ」の同時代模写が見つかった、という話題があったばかりだが、今度はダ=ヴィンチ本人の手になる、「幻の名画」が見つかるかもしれない、という驚きの報道があった。あのダ=ヴィンチにそんな絵があったのか、ということにも驚いたが、それが別の絵の下から出てくるかもしれない、というんだからなおさら驚きだ。

 「幻の名画」とは「アンギアーリの戦い」と題された壁画。「アンギアーリの戦い」とは1440年にフィレンツェ軍がミラノ軍を破った戦いで、1504年にフィレンツェ共和国がダ=ヴィンチにフィレンツェ政庁のヴェッキオ宮殿の大会議室の壁にその戦いをテーマにした大作壁画製作を依頼したのだ。ダ=ヴィンチはこれを引き受け(その契約書にはあのマキャベリがサインしたそうで)製作を開始したが、自身の作である『最後の晩餐』で描画・維持技法に失敗した経験から新しい技法をあれこれと試したらしい。しかしこれも結局失敗して絵の具が落ちてしまい、ダ=ヴィンチはこの壁画を未完成のまま放棄してしまった。
 なお、このとき同じ大広間の反対側の壁にはミケランジェロが「カスチーナの戦い」(1364年)をテーマとする壁画を製作しており、イタリアルネサンス二大天才が同時期に同じ場所で作業していたことになる。そしてミケランジェロの方も他の仕事のためにこの壁画を未完成のまま投げ出してしまっている。

 ミケランジェロの「カスチーナ」はその後1512年に破壊されたが、ダ=ヴィンチの「アンギアーリ」は未完成ながら高い評価を受け、およそ半世紀はそのままにされていた。この間にこの大作壁画を模写した画家もいて、それをさらに模写した画家にオランダのルーベンスがおり、このルーベンスの「模写の模写」によってダ=ヴィンチの「アンギアーリ」のおおよその姿は今日に伝わっている。また、ダ=ヴィンチ自身の手になるこの壁画のための人物スケッチも残されているため、壁画自体は「幻」ながら、ある程度の実感と共に再現できる幻の名画となっていた。

 1555年からこの大会議室は大改修が始まり、1563年にダ=ヴィンチの「アンギアーリ」の上に重ねる形で、ジョルジョ=ヴァザーリによって新たな壁画「マルチャーノの戦い」が製作された。これにより「アンギアーリ」は永遠に失われた…というのがこれまでの通説だった。しかしイタリアの美術史家マウリツィオ=セラチーニ教授は「ヴァザーリが尊敬するダ=ヴィンチの壁画を破壊するはずがない」として、「『アンギアーリ』は『マルチャーノ』の下に隠れている」という驚きの説を唱えていた。「マルチャーノ」に描かれているフィレンツェ兵士の掲げる旗に「Cercatrova(探せ、さすれば見つかる)」と書かれていて、これがヴァザーリの記したヒントであるとしていたのだ。
 そして「アンギアーリ」があったとされる大会議室の壁をX線などで調べたところ「マルチャーノ」が描かれている壁の向こうに1〜3cmの隙間をはさんで「もう一つの壁」があることがわかり(つまり「アンギアーリ」の手前に新しい壁を作ってそこに「マルチャーノ」を描いた)、教授の説にグッと信憑性が出てきたのだ。

 そしてこのたび、アメリカのナショナルジオグラフィック協会などにより、「マルチャーノ」の描かれている壁に穴をあけ医療用内視鏡カメラを入れて調査し、奥の壁にあった物質を採取した。すると黒い顔料が確認され、この顔料が『モナリザ』で使用されているものと同じだと判定された。さらにただの漆喰の壁にはないはずの赤い物質や絵筆で塗られたとみられるベージュ色の物質も見つかったため、「すわ、『アンギアーリ』はやっぱり残っていたのか!」と世界的ニュースとして報じられたのである。
 確かに事実ならまさに数世紀の大発見。ただ美術史家の間では「アンギアーリ」は「マルチャーノ」製作のずっと前の時点でほとんど破損していたはず、との説も有力で、今度の発表についても一部の顔料がたまたま残っているだけでは…と懐疑的な声も多いという。白黒つけるには結局「マルチャーノ」の壁画を壁ごとはずしてみないといけないそうで、イタリア文化省がこれからどう判断するかにかかっているが、どのみち容易なことではない。


 スケールはだいぶ小さくなるが、もうひとつ「絵」に関する話題。時事通信記事から。
 アメリカはイリノイ州の州知事公邸に飾られていたエイブラハム=リンカーンの妻、メアリーの肖像画が、実は「真っ赤なニセモノ」であることが専門家の修復作業により判明した。もともとは無名の女性を描いた19世紀の肖像画だったが、1920年代に何者かがこれを「メアリー像」に描き変え、2〜3000ドル(当時の値段)でリンカーンの子孫に売りつけたものらしい。そしてこの肖像画はメアリーが夫へのビックリプレゼントにするためにひそかに描かせたが、1865年にリンカーンが暗殺されてしまい、贈ることができなかった、などという「伝説」までがくっついていた。
 のちにこの「メアリー像」はイリノイ州の「リンカーン図書博物館」に寄贈され、1978年から州知事公邸に飾られていた。それから30年以上もたってから「ニセモノ」と判明したわけだが、どこにでもニセモノ作りの人っているんだなぁ。「なんでも鑑定団」みたい、などと思ってしまった。


 そこまで書いてアップしようかな、と思っていたら、CNN日本語サイトでさらに新たな「絵」ネタがあったので追加。こちらはある花を描いた静物画がX線検査の結果、ビンセント=ファン=ゴッホの作品であると確認された、というニュースだ。
 一応その静物画、一度はゴッホ作品と判断され、オランダのオッテルロの美術館で展示はされていたのだそうだ。しかし署名の位置、構図から専門家により「ニセモノ」と判断され、2003年にゴッホの作品リストから正式に除外されていたという。
 ところがこのたび最新の技術によるX線検査を行ってみたところ、この静物画の下に二人の裸の男が格闘する絵が描かれているのが確認された。ゴッホが美術学校時代に「二人の裸の男の胴体――2人のレスラーを描いた」と自分で手紙に書いているため、これがそのレスラーの絵であり、その後まもなくゴッホはその絵の上に全く別の花の絵を描いちゃったと断定されたのだ。実際ゴッホはこうしたカンバス再利用の例があることも決め手になったそうで、ファン=ゴッホ美術館の研究員は「X線検査をすべき作品はほかにもあり、今後さらにゴッホ作品が見つかる可能性もある」と話しているという。
 さて、この絵を「ニセモノ」と判断した鑑定人はどう申し開きをするのだろうか。いい仕事してますねぇ。



◆文革の亡霊

 今年は世界的にトップ交代の集中年で、つい先日はロシア大統領選が行われて、結局圧勝でプーチンさんが大統領に返り咲いた。選挙の不正やら何やら騒がれてもいるし、プーチン人気自体もひところほどではなく、この間も首相をやっていて実質「プーチン政権」が継続されることから「飽きた」という心理も広がっているようだが、それでも対抗馬がいなかったのも確かだ。ま、とりあえずこれでロシアの「ハゲ・フサフサの法則」はまだ継続されるわけだ(笑)。
 ロシアと同じく元社会主義国の中国(まぁ「元」と言っていいでしょ)でも、今年はトップ、つまり国家主席が交代する。ここは選挙ではなく、これまでの胡錦涛現主席から習近平現副主席への移行が数年前には既定路線となっている。江沢民(そういえば昨年死亡説が流れたっけ)から胡錦涛へのバトンタッチの時も同様で、このところの中国の最高権力継承は早い段階でコースが決まって、ほとんど揉めることなくベルトコンベア的に進んでしまう。もちろんその過程で闘争がないわけではないだろうが、日本の中央省庁における「次官レース」に似ている、との声もある。

 そんななか、中国政界から久々にドロドロの権力闘争?とみられる事態が発生、にわかに中国政界報道が活気づいている(笑)。次期国家主席である習近平氏にも近いとされ、次期国家指導部入りが確実されていた、薄熙来・重慶市共産党委員会書記が全人代閉幕直後にいきなり解任されるという事態が起こったのだ。
 僕はこの騒動が始まるまで知りもしなかったが、この薄熙来氏というのはこのごろ中国では注目の政治家であったらしい。父親は副首相をつとめた薄一波で、共産党内では有力政治家の子弟グループ「太子党」の代表の一人と見なされていた。重慶市のトップになってからは派手なパフォーマンスと共に「打黒運動」(黒幇=闇社会勢力と結びつく汚職を打倒する)を展開、華々しい成果を上げて庶民の喝采を得つつも、同時にその捜査方法の強引さや矛先が前任者関係者に向かうなど政治的意図を感じるものがあったため、「人気取り」「法治無視」などの批判の声も政界や人権派弁護士からあがっていた。またかつて文革期に盛んに歌われた革命歌「紅歌」を歌わせるキャンペーンを繰り広げていたとか、なんとなく最近の日本のどっかの自治体の長を連想させなくもない。

 その薄熙来氏と共に「打黒運動」で活躍したのが王立軍という、一瞬某アニメ映画を連想させる名前の副市長だった。その王立軍副市長が2月はじめに成都のアメリカ総領事館に突然現れ、丸一日滞在の末に当局者に伴われて退去、そのまま逮捕されるという事件が発生した。真相はまだ藪の中だが、どうも彼に汚職疑惑か何かの捜査の手が伸びたためアメリカへ亡命しようとしたのではないか、との噂が中国ネット上で広がった。中国の共産党幹部がアメリカへ亡命、なんて前代未聞の話である。
 このかつての片腕の不可解な逮捕は、薄熙来氏にも影響は避けられないとの見方は早くからあった。しかし3月9日に全人代に姿を現した薄氏は何吹く風で会見ではいつもの調子で1時間も雄弁にまくしたて、かつての腹心・王立軍のことを呼び捨てにして「我々は彼に英雄の称号を与えたことなどない」と述べ、自身の監督不行き届きとは認めながらも「どの地方でも個別の問題や突発的な事件は起こるものだ」と言い抜けた。あまりに自信のある態度だったし、その後すぐには大きな動きがなかったことから事件は薄氏については不問に付されるんじゃないかとの見方も広がっていた。

 ところが全人代が閉幕した3月14日になって、温家宝首相が重慶副市長の事件に言及、「現在の重慶市の党委員会と政府は反省し、事件から教訓をくみ取らなければならない」と強い表現で批判して、薄氏の名指しは避けながらも政府がこの事件を重視しており調査を進めていると言明した。またこの会見の中で温首相は社会の不公正・汚職の広がりについて懸念を示すくだりで「文化大革命のような歴史的悲劇が再び起こるかもしれない」」とも発言していて、これも文革期の革命歌を歌わせる薄氏を暗に批判したものだと受け止められた。
 そして翌15日、薄氏は重慶市共産党委員会書記を解任された。後任には張徳江副首相が副首相と兼任する形で任命されたが、これもまた異例の人事。即日に党中央から政府・軍・大学などの共産党組織に対して一斉に通知が出されたが、その中では今回の事件を「新中国始まって以来の複雑かつ深刻な事件」と重要視し、薄氏の解任を正当化したうえで、「個人が党の力を超える独断専行をしない」と暗に個人パフォーマンスで人気を集めた薄氏を批判する文言もあるという。そしてこの事件に関連して検閲や盗聴を強化するとも明記し、党内の動揺を抑え込もうという強い意図を感じさせる。これを受けて16日に重慶市政府は緊急会議を開いて「党中央に絶対的な忠誠を示し、思想や行動も一致させる」とわざわざ表明している。

 この騒動、中国関係報道では薄氏や習近平副主席らのいわゆる「太子党」と、党の下部組織「中国共産主義青年団(共青団)」出身の勢力との激しい権力闘争の現れ、とまとめるのが定番だ。重慶市での薄氏・王氏の汚職追及も「共青団」出身一派を標的にしていたフシがあり、確かにそういう面もあるんだろう。日本でいえばかつての自民党実質一党独裁体制での二世議員らを含む「党人派」と官僚出身者系の派閥争いが近いと思う(今の民主党でもどこかそれは引きずられてる)。もちろんそれだってそう単純に分類できる闘争構図ではなかったから、中国共産党の派閥抗争ももう少し複雑だろうと僕は思ってるけど。
 一般論として、二世・三世の多い「太子党」は共産党の古い体質を維持する保守派が多く、「共青団」出身者は改革志向・法整備充実論者が多いと言われる。そういえば今度の全人代では16年ぶりに刑事訴訟法が改正され、二審制の中国で一・二審とも死刑判決の被告人に人民最高法院への陳述権を認めるとか、拷問など違法な取り調べて強要された自白は裁判で証拠として採用しないといった人権配慮の改正がなされている(その一方で国家の安全を脅かす犯罪の容疑者については自宅以外の場所での監視を認めるといった条項もある)。次期国家主席である習氏は「太子党」とされるので、政権交代前に何らかの駆け引きがあったかも…とは思える。
 ただ今の胡錦涛・温家宝の共産党指導部だって、今ごろになって「雷鋒に学べ」キャンペーンをやって話題を呼んでいる。雷鋒とはそのむかし奉仕活動にあけくれて事故死した若者で、毛沢東がその奉仕精神を大々的に喧伝して文革期にやたらもてはやされたことがある。日本でいうと戦前の二宮尊徳楠木正成が似たような立場だろうか。地方幹部の汚職の蔓延などへの批判として「雷鋒」が復活した、ということなのだが、結局はどちらも文革の亡霊を利用していることになる。



◆ちと早い四月馬鹿?

 「馬鹿者」という日本語の史料上の初出は古典『太平記』にある、という事実を、南北朝マニアのくせについ先日初めて知った。「へぇ」と思い、『太平記』の全文検索をかけてみたら(できるんですよねぇ、そうこうことが。便利な時代です)、あまりにも有名な場面の文章だったので二度ビックリ。「ばさら大名」の一例として挙げられる土岐頼遠が、光厳上皇の車と鉢合わせして「院の御幸である。下馬せよ」と言われて激怒、「なに、院というか。犬というか。犬ならば射て落とさん」(「イン」と「イヌ」のダジャレ。この時代は発音がもっと近かったのかも)と言い放って上皇の車に矢を射かけた、という、あの有名な事件の場面だったのだ。大河ドラマ「太平記」でもこの場面はちゃんと映像化されている。

 本文(巻二十三)を確かめてみると、下馬を命じられた頼遠は「このごろ洛中にて、頼遠などを下すべき者は覚へぬ者を、云は如何なる馬鹿者ぞ(このごろ京都でこの頼遠に下馬を命じる者などいないと思っていたのに、それを言うとはどんな馬鹿者だ)と発言していた。読む限り基本的に現在と同じ「バカ」の使い方と思える。
 『太平記』では巻十六の湊川の戦いのくだりでも「婆伽者」という表現がある(版本によって「馬鹿者」と書かれているようだが)。こちらは湊川の合戦開始前に水陸の敵味方で「遠矢」を射て腕比べをする場面で、まず陸地の新田・楠木軍側から本間孫四郎が遠矢を足利船団に射込むと、足利尊氏は弓の名人という佐々木顕信という武将に返し矢を射るように命じる。渋った顕信がようやく船の舳先に立って矢を射ようとしたところ、「如何なる推参の婆伽者にてか有けん(どういう出しゃばりのバカ者がいたものだか)、讃岐勢の中から小男が飛び出して「この矢一つ受けて弓の腕前を見ろ!」と高らかに叫んで勝手に矢を放ってしまった。こいつ、弓の弦を胸板にぶつけたのか、はたまた小男だったからか、矢はロクに飛ばずに波の上に落ちてしまい、新田・楠木軍の兵士たちは「やあ、射たぞ射たぞ」と爆笑。本来射るはずだった佐々木顕信もバカバカしくなって射るのをやめてしまったのであった。
 つまり年代順(?)で言うと、この湊川合戦でのオッチョコチョイの讃岐武士が史料上で確認される、栄えある「バカ第一号」ということになる(笑)。いやぁ、バカにも歴史あり。ちなみに「アホ」を史料上最初に使ったのは鴨長明、という話もあるそうです。

 さて「バカ」の語源については諸説ある。昔から一番有名なのが『史記』に出てくる故事、秦の宦官・趙高が宮中に鹿を連れて来て「これは馬です」と二世皇帝・胡亥に見せ、廷臣たちにどちらに見えるか意見を聞き、「馬」と答えた者を処刑してしまった、という逸話に由来するというもの。以前「笑っていいとも!」でこの逸話を語源の正解として紹介していたが、そのコーナーを司会していた爆笑問題の太田光「馬と答えた人に趙高が『バカッ!』と」と、見事なタイミングでボケてみせたのが印象に残っている。ただこれは有名な説ではあるが語源になるはずの中国では「馬鹿」にそういう意味はないため、かなり疑問符がつく。逆に戦時中に日本軍や日本人が現地で何かというと「バカヤロ」と言ったために、「バカ」という日本語が向こうで広く知られるという現象がある。
 上記の『太平記』に「馬鹿」と共に「莫迦」という字がつかわれているが、こちらは仏典に出てくるものでインドのサンスクリット語で「愚か」を意味する語に字をあてたもの。こちらの方が「バカ」語源として信憑性が高いとして「広辞苑」でも採用されているが、まだ確定した説ではない。


 さて、長い前フリを経て本題に入る(←バカ)
 3月14日、アメリカの科学雑誌「プロスワン」に「馬鹿洞人」に関する論文が掲載された。これはオーストラリアと中国の研究チームによるもので、1989年に雲南省の「馬鹿洞」で発見された人骨化石を調べたものだ。この論文によると、この「馬鹿洞人」はせいぜい1万数1千年前のもので当然現生人類も現れていた「つい最近」のものだが、その頭蓋骨は平たい顔に幅広の骨、突き出たあご、大きな臼歯、丸い頭蓋、そして目の上の隆起など現生人類よりも原始的な特徴を備えていた。このため研究チームはこの「馬鹿洞人」を現生人類とは別の人類である可能性を示唆している(さすがに断定はしてない)
 すべての人類はアフリカで発生し、我々現生人類が出てくるまでにさまざまな「人類」が出現してアフリカから世界へ散らばってゆき、いずれも絶滅するというパターンを繰り返した、というのが今のところほぼ定説となっている人類史のシナリオだ。現生人類より先に世界に広がったネアンデルタール人については数万年前まで生息していて、現生人類と一時期共存、どころか交配して現在の人類にもその血が流れているという説まであったりするが、ともあれ数万年前に絶滅したことは間違いない。
 最近インドネシア、ジャワ島の東にあるフローレンス島で発見された体長1mの小型人類「ホモ・フローレシエンシス」が1万2000年ほど前まで生息していた別系統人類ではないか、と騒がれたことがある(→2004/12/24「史点」。ただこれについては「小人症か発達障害になった現生人類の骨」という意見もあって白黒はついていない。今回の「馬鹿洞人」についても「頑健で原始人ヅラの現生人類じゃないの?」という声も上がっていて、こちらもなかなか断定は難しそうだ。
 ま、日本人の多くはこの報道を見て「馬鹿」とか「洞(ホラ)」とかがつくこの名前だけでウソくさいな、と判断してしまうだろうが(笑)。



◆ 百科事典は永遠に
 
 更新がまるっきり止まっているが、僕のサイトにはSF作家アイザック=アシモフのコーナーがあり、とくに彼の代表作『銀河帝国興亡史』シリーズ(「ファウンデーション」シリーズ)を扱っている。これはギボンの『ローマ帝国衰亡史』をヒントに、はるかはるか未来の「銀河帝国」(地球発祥の「人類」しか存在しない)が崩壊してゆく過程を年代記風に描いた大河SF小説で、アシモフの代表作であるだけでなく、SFというジャンルのなかでも代表的名作とされている。「スターウォーズ」やら「銀河英雄伝説」やらがこのシリーズの系譜を引いているものであることは言うまでもない。

 未読の方のためにそのオープニングを軽く紹介しておこう。建国以来12000年が過ぎた銀河帝国は一見安泰そのものだったが、人間社会の動向を数学的に予測する「心理歴史学」を大成した天才数学者ハリ=セルダンは帝国がまもなく崩壊することを予測する。セルダンは不吉な予言をしたとして逮捕され裁判を受けるが、「崩壊は避けられないが、その後に来る3万年の動乱と文明衰退の時代を一千年に短縮する方法がある」と提案する。その方法とは、人類の英知を集めた「銀河百科事典(エンサイクロペディア・ギャラクティカ)」を編纂しておく、というもので、帝国の承認を受けて、その百科事典編纂のために学者たちが銀河系の端の資源もなにもない惑星に流刑同然で集められ、ここに「第一ファウンデーション」が発足する。
 間もなくセルダンは死去し、果たして彼の予測通り銀河帝国は周辺から次第に崩壊を始め、第一ファウンデーションの周辺には文明が後退した諸王国が乱立する。資源もなく人口も少なく、あるものといえば学者と科学だけ、というファウンデーションはいかにして生き延びるのか。実はそれ自体がセルダンが作りあげた一千年におよぶ計画のうちだったのだ――というようなお話である。アシモフが生きているうちに一千年のうちの五百年までしか書かれなかったが、彼のもう一つの代表作である「ロボット三原則」のロボット小説シリーズとも結びついて、20世紀末からおよそ二万年に及ぶ壮大な未来史小説となっている。映画化の話も数年前からもちあがっているが、監督がローランド=エメリッヒ(「インディペンデンス・デイ」「ゴジラ」など)と聞くと、正直あまり期待していない。

 えー、ファンなのでまたついつい前置きが長くなったが、要は「百科事典」の話の枕にしたかっただけで(笑)。
 わが家には平凡社の「世界大百科事典」が1セットある。調べたところ1964年版で、アポロの月着陸計画がまだ実行前の計画段階の記事になっているなど、古いと言えば古いのだが、僕がよく使う歴史関係や、科学的事実に関してはそうそう変わるものではないので長いことそのまま利用していた。しかし最近、とくに引っ越してからなのだが、ろくに引く機会がなくなり、場所をとるってんで家族により棚にしまわれてしまっている。なぜ引く機会がなくなったかといえば、やはり最近では調べごとというとネットで検索かけてしまうからだ。とくに「ウィキペディア」を利用する機会が非常に多くなり、たいていの調べごとはネット上で済んでしまう。

 こうした状況は出版物としての百科事典にも大きな影響を与えていて、ついに3月13日、200年以上の伝統を誇る「エンサイクロペディア・ブリタニカ(ブリタニカ百科事典)」も書籍版の刊行をやめ、電子版のみにすると出版社から発表された。この百科事典についてもウィキペディアやネット記事で調べてみたら(笑)、1768年にイギリスで刊行されたことに始まり、その後アメリカの業者が版権をとって基本的にアメリカで刊行されるようになったという。一番売れたのは1990年版で12万部だったそうだが、デジタル時代の流れには勝てず、最後となった2010年版はたった8000部にまで落ち込んでいたそうだ。
 CNNの記事で見てなるほどと思ったが、デジタル化の流れで電子書籍も花盛りではあるが、小説に関してはやはり紙の本がいいという層が一定数いるが、調べごとにつかう辞典・事典類や参考書は電子書籍やネットに一気に押されてしまったとのこと。確かに調べるのにはデジタルの方が圧倒的に便利なんだよな。そのため「ブリタニカ」の出版元も「ひとつの時代が終わったと言われるだろうし、それも分かるが、われわれに悲しい気持ちはない」と割合サバサバしている様子。8000部も落ち込んでしまってはすでに同社の売り上げの1%にも満たない存在になっていて、すでに有料のオンライン版や参考教材類の方が収入源になっていたのだそうだ。

 「ウィキペディア」はご存じだろうが「誰でも書き込める百科事典」であり、大勢が書きこみ、話し合い、修正しあうことで内容の正確さを目指すというスタンスだ。それでも残念ながら間違いがそのまんまになってるケースはあとを絶たないし(日本語版、外国語版ふくめて僕が好きなジャンルだけでも放置されたままの誤りは数多い…それならお前が直せ、というスタンスなんだろうけどね)、すぐ消えるとはいえ誹謗中傷の類もよく見かける。それと分かった上で使う分にはかなり便利なのは確かだ。
 「ウィキペディア」がブリタニカ百科事典の売り上げに与えた影響について、出版元は「ウィキペディアは立派な解釈からうそや中傷まで、社会のつぶやきをすべて網羅するという意味で素晴らしい技術。その一方で正確な事実を知りたいと願う人は、料金を払うことをいとわないだろう」と語っていた(CNN日本語版記事)。ま、確かにそれもそうなんだが、専門家たちが書いた記事だから誤りがないかというと…ということもあるので、こちらも注意だ。

 陳舜臣さんだったと思うのだが、百科事典のCD−ROM化が進んだ頃に「それも時代の流れだろうが、紙の百科事典のよさは引いた項目の記事に隣接する無関係の記事を読んで知識を広げることにあった」と書いていて、僕も同様の覚えがあったものだから大いに共感した覚えがある。もちろん「ウィキペディア」などデジタル系の事典も関連項目のリンクをたどっていって全然無関係の知識を得るという似たようなことはできるのだが(全く無関係に思える二つの項目にいくつリンクで飛べるか、というゲームもあるそうで)、「アイウエオ順で近い言葉」のような無関係度で「偶然目に入ってしまう」ということはない。小学生の僕がサルトルというフランス哲学者について知っていたのは猿飛佐助と同じページに載ってたから、という例もある(笑)。

 ところでめぐりめぐって話をアシモフに戻すが、はるか2万年先の未来に刊行されている「エンサイクロペディア・ギャラクティカ」はデジタル版なのだろうか。「ファウンデーション」シリーズでは節々にこの百科事典記事からの引用があり、「ファウンデーション紀元1020年にターミナスの銀河百科辞典刊行社から出版された第116版から、発行者の許可を受けて転載」という断り書きがあるが、「出版」とあるからといって本の形態をしているとは限らない。再確認してる暇はないので記憶の限りで言うと、確か本文中にその百科事典を開いて読んだ、というような表現もなかった気がする。ただマイクロフィルムのたぐいは出てくるのでそういうものになっている可能性は感じられる。
 なにせアシモフがこのシリーズの第1作を書いたのは1942年のこと。第二次世界大戦の真っ最中で、ひとまず初期シリーズが書き終えられたのは1951年のことだ。このため今から読むとさすがにSF的に「古い記述」も見かけられる。1980年代にシリーズが再開されると旧シリーズでは想定もしなかったコンピュータ化された世界描写が加わっている(一応旧作にもコンピュータっぽい描写はあるにはあったが)。だから「銀河百科辞典」もデジタル化されたことになってると思うのだが。
 ちなみに「銀河百科事典・縮刷版」を名乗るコーナーが当サイトにございます。もちろんデジタル化されておりますが、「本物」が千年かかってるだけに遅々として項目追加が進んでおりません。宣伝がてら(笑)。


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