ニュースな
2012年4月1日

<<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事

◆再び絵っ絵っ絵っ?

 前回「史点」で採り上げたように、壁画の下にレオナルド=ダ=ヴィンチの未完成壁画が隠されてるんじゃないかとか、ダ=ヴィンチと同時期の「モナリザ」の模写が出てくるとか、一度はゴッホの絵じゃないと鑑定された絵がX線検査でやっぱりゴッホの絵だと分かったとか、絵画史の驚きの話題が続いている。そこへさらなる驚きを呼ぶ発表が、芸術の都パリはルーブル美術館からあった。

 話の主役はこれまた「モナリザ」である。このところの騒動もあって、ルーブルでは「モナリザは本当にダ=ヴィンチの作品なのか」と危惧を抱き、念のためとひそかに「モナリザ」をX線検査してみたのだそうだ。すると驚いたことにその下に別の絵があることが判明した。その絵とはどういうものかというと、下の写真のようなものだったのだ。



 なんと――これはどう見てもピカソの絵ではないか!モナリザの下にピカソの絵。一見無関係な両者だが、実は歴史的にちゃんとリンクがある。1911年にモナリザがルーブル美術館から盗まれた際、その容疑者として一時逮捕され事情聴取もされた人物のなかに、作家のアポリネールと共にピカソの名もあったのである。このときは無関係としてすぐに釈放されているのだが、今回の発見によりやはりモナリザ盗難にピカソが関与していたとの疑いが再浮上してきたわけである。

 このとき盗難された「モナリザ」はイタリア人が盗み出していて、2年後に発見されルーブルに帰って来たのだが、その間にピカソが関与していたということになる。それにしてもモナリザを盗み出すのはいいとして、その「下」にどうやって自分の絵を描くのか。あるいはこの「モナリザ」はピカソが自分の絵の上に重ねて描いた「模写」であり、本物はまだどこかにあるのではないか――との推理もできる。そういえば「もう一つのモナリザ」として知られる、ソックリな絵がスイスの銀行の地下金庫にあったっけ。あれは偽物と鑑定されているようだが…

 こうなると、最近「ダ=ヴィンチと同時代の最古の模写」と鑑定された「モナリザ」の方も気になってくる。あの「若返りしたモナリザ」のほうだ。そこでこちらにもX線をかけてみたところ、もっととんでもないことになっていた。


 …こ、これは…織田信長の妹、お市の方の肖像画ではないか!ピカソのほうはまだつながりがあるとして(?)、お市の方の肖像画ではますます地理的に離れてしまう。もっとも時間的にはかなり近くなっては来るのだが…ともかく「モナリザ」の下にそれ以後に描かれたはずの絵が眠っていたというわけのわからない話になってくる。

 これらの発見について、SF作家の味茂歩愛作氏は言う。「これは因果関係の逆転というやつで、タイムトラベラーによる仕業と考えれば納得がいきます。先日、ニュートリノが光より早いという実験結果が出て騒がれましたが、それが本当ならタイムトラベルが可能ということ。レオネルド=ダ=ヴィンチ当人も、飛行機を発想するなどあまりにも時代を先取りしたアイデアを出すことからタイムトラベラーの可能性が指摘されてますから、モナリザの下にお市やピカソが隠れていようが何の不思議もありません。」
 



◆その商標は登録済み

 近ごろ中国で日本の地名やキャラクターなどが勝手に商標登録されている事例が相次ぎ、日本の大臣が「プライドがないのか」と国会で発言する事態まで起きている。逆に言うとあちらの国ではこっちが思ってる以上に日本ブランドのイメージがいいんだなぁ、と思わされてもしまうわけだが。
 まぁ商標というのは早いもん勝ちなもので、日本のゲーム業界に限っても「三国志」とか「ロールプレイングゲーム」をあるゲーム会社が商標登録していてゲーム業界ではそれ以外では勝手に使えない、という例もある。ゲーム業界では普通に手続きとしてするもののようで、ある小説を原作とする同タイトルのゲームを作ってそれをゲーム会社が商標登録してしまい、原作者がその名前を使えなくなっちゃったという事例もあるそうで。NHKも毎年の大河ドラマのタイトルを商標登録するようにしており、このため歴史人物の名前が商標登録されるケースが出てくる。そして数年前の「史点」でも話題にしたが、「吉田松陰」「高杉晋作」「上杉謙信」「真田幸村」といった歴史人物の名前が食品会社や貸金業者に商標登録されているという事例もあった。

 さて、日本初の株式会社は何、というクイズが出た場合、一応それは坂本龍馬の「亀山社中」、のちの「海援隊」という答えがある。もちろん当時はまだ株式会社という仕組みは法的にはないのだが、龍馬は欧米における株式会社のシステムは知っており、それをヒントに薩摩藩などから出資を募って組織したから、一応日本初の株式会社といえないこともない。どうも龍馬というと「幕末の志士」のイメージが強いので「海援隊」にも政治活動組織の印象があるのだが、龍馬自身が商家の出身であり(兄はかなり手広く活動した商人であった)、「海援隊」も貿易会社、商社として設立されたもの。この流れがのちに三菱商事につながっていたりすることも忘れてはならない。先年の大河ドラマ「龍馬伝」にもその観点が入っていたが、龍馬が生きていたら岩崎弥太郎的ポジションにいた可能性が強いのだ。

 さてこの4月1日、法的にはとっくに解散していたと思われていた企業「海援隊」が、まだ海外で細々と活動していたことが明らかになった。実は龍馬が生前のうちに将来を考えて海外出張に出していた社員たちの子孫がおよそ150年ぶりに帰国し、日本での企業活動を再開したというのである。
 久々に帰国して、幕末当時はまったく無名だった「龍馬」「海援隊」が日本中でやたらともてはやされ、勝手に名前を使いまくられていることに社員たちは激怒、彼らが権利をもつこれらの名前の使用差し止めを求める訴訟を相次いで起こすと会見で発表している。さすがは龍馬、実は将来を予測して社名から自分の名前、さらには自分の手がけた事業等に関して海外で商標登録を済ませていたのである!
 手始めに勝手に「海援隊」を称する武田鉄矢さんのグループ、みちのくプロレスのレスラーユニット、ついでにさまださしさんの「亀山社中」をも標的にし、さらに「高知龍馬空港」、高速バス「龍馬エクスプレス」、鹿児島県霧島市の「龍馬ハネムーンウォークin霧島」、小惑星「龍馬」と「おりょう」、学校法人「龍馬学園」のほか全国にある「龍馬」を勝手に冠する学習塾や予備校のたぐい、勝手に「平成の龍馬」を称する国会や地方の議員たちにも使用の差し止めを求めるという。

 また「大阪維新の会」が発表した政策集「船中八策」についても勝手に名前を使われたとして使用差し止めを求めるそうだ。もっとも龍馬が「船中八策」を本当に作ったかどうかについては歴史家から疑問の声もあがっており、これについては認められない可能性もあるという。
 「維新」という名前についても使用差し止めを求めるか、との記者の質問に、海援隊社員は「維新と龍馬は無関係だし、過去に昭和維新だの維新政党だの、「維新」を名乗ったものはロクなことにならないからとくに何もする気はない」とコメントしていた。



◆大日本は深刻なり

 このタイトルはもちろん北畠親房『神皇正統記』の冒頭のパクリである。南朝の総帥である親房は、南朝が劣勢に立たされた状況の中、「このままでは日本は大変だぞ」というつもりで「深刻なり」と表現した…というのは当然ウソで、本当は「神国なり」と書いてあったのである。
 ところでその親房も使った「大日本」という表現。中国の国号、例えば「漢」だの「唐」だの「明」だのも実は「大漢」「大唐」「大明」というふうに「大」つきだったのを真似たもの。いま現在中国も日本もこの表現をやめているが、いまなお「大韓民国」で継続中だったりする。

 では「日本」という名前はどっから来たのか?その使用開始時期も含めて議論があるのだが、近年有力視されているのはそれは天武天皇の時代のことではなかったか、とする説だ。それ以前には日本列島の地域の住民を「倭」、彼らが住む国を「倭国」と呼ぶ呼び方が中国にあり、それは史料的には前漢の時代までさかのぼれる。日本側でも「倭」を自称していて、奈良県地方をさす「ヤマト」に「倭」の字をあて、伝説的英雄ヤマトタケルにも『古事記』などは「倭建」の字をあてている。対外的文書でも「倭」を使っていた形跡があり、とくに悪い意味にはとっていなかったとみられる。
 しかし702年に派遣された遣唐使から「日本」という国号を使ったことが唐の史料に見え、その理由として「自分の国が日の上る地方にあるからその名にした。あるいは、倭国自身がその名を雅(みやび)でないと嫌ったためともいう」(『旧唐書』)という説明がされている。「倭」の字にはいろいろと意味があるが、とりようによってはあまり良い意味ではないのも確かで、それで名前を自ら変えたと日本の使者たちが説明したものらしく、中国側はそれをそのまま記録したのだとみられている。

 しかし唐の史料には気になることも書いてある。「倭」から「日本」になったことについて唐側も不審を感じたらしく、何か裏があるのではと疑ったようなのだ。例えば『旧唐書』には「日本は本来は小国であり、倭国の領土を併合したともいう」という記述があり、『新唐書』では「日本とは小国のことで、倭国によって併合されてしまい、その名を奪われたともいう」とアベコベな話が載っている。
 この「倭」と「日本」を別の国と見て、その両者の間で戦いがあって、どちらかがどちらかを併合して「日本」になったのだ、という話、実は672年に起きた壬申の乱をさすのではないか、との見解がある。その壬申の乱に勝利したのは…そう、最初に「天皇」を称し、「日本」を国号とした張本人ではないかとされる天武天皇その人なのである。だとすると彼と戦って敗れた大友皇子側が「倭」で、天武天皇側が「日本」だった、ということになるのだが…

日本銭 さて今年4月1日に、天武天皇が都と定めていた飛鳥浄御原宮の遺跡で重大な発見があった。発掘にあたっている奈良県立菓子腹考古学研究所の発表によると、宮殿の倉庫跡の場所から大量の銅銭が出土したのだという。それもこれまで最古の発行貨幣とされている「富本銭」によく似ているものの、一字違いの「日本銭」なるものであった(右写真)。さらにこれらと一緒に「日本酒」とデカデカと書いた酒甕も大量に発見され、同時に「領収書」とみられる木簡も多数見つかったという。

 これら資料を検証した同研究所の葦原中国研究員はこう分析する。当時「倭国」は大規模な対外戦争「白村江の戦い」で大敗して戦費と半島利益を大きく失っていた。さらに皇位継承をめぐる内戦が勃発し、それにようやく勝利した天武天皇だったが相次ぐ混乱で財政は破綻状態だった。この状況を打開する方法として、天武天皇は「国号を質に金を借りる」、今風にいえば「国号の命名権販売」をしたのでは、というのだ。
 その命名権を買ったのが「日本酒」を製造・販売していた酒造業者であった。いわゆる「日本酒」は本来「サケ」「ササ」と呼ばれていたのであり、「日本酒」とわざわざ呼ぶ時は実はこの業者が作ったもののみを指す。歴史を見れば酒造業者が金貸しをしている例が多いし、ついでなんでその代金としてその名を冠した「日本銭」を発行することにしたようなのだ。
 国号に「日本」という酒の名前がついたことで以後ありとあらゆるものに「日本」の名が付き、製造元にとっては大変な名前の宣伝になったはずである。『日本書紀』が正統歴史書として扱われたのに対し、それに対抗・先行して作られながら「日本」を冠さなかった歴史書の方はスポンサーがつかなかったせいか「コジキ」呼ばわりされているあたりにも、その影響力の大きさがうかがえよう。しかしさすがに国名を売ったなんて文字通りの売国行為を外国に知られるわけにはいかず、遣唐使たちは適当にお茶を濁したんで唐側が不審を抱く結果になったようだ。

 酒造業者から始まった「日本」グループは1300年以上もたった今日でも健在で、「日本銀行」「日本電気」「日本生命」「日本大学」「日本ガイシ」…そしてつい先日できたばかりの「損害保険ジャパン日本興亜株式会社」に至るまで、あらゆる業界に及んでいる。やはり国号の命名権の宣伝効果の威力をまざまざと見せつけていると言えよう。
  しかし日本はまたも財政難の状況にあり、久々に国号命名権の売却を検討しているとの憶測もある。そのときはまた以前の「倭」に戻すために、「ダイワ」グループなんかが有力候補になるのかもしれない。



◆かくて「神風」は吹く
 
 鎌倉時代の弘安4年(1281)5月、二度目の元軍の日本侵攻が実行に移された。いわゆる「弘安の役」である。二度目ということもあって日本側の武士たちは事前に相手の戦闘法を知った上で防塁を築くなど用意を整えており、敵船への夜襲をかけるなど果敢な攻撃も試み、善戦した。しかしなんといっても決定打になったのは7月30日の夜半に博多湾を襲った暴風雨である。この暴風雨がもたらした嵐のために元軍の船団は壊滅的被害を受け、そこへ日本軍がとどめを刺す結果になった。

 日本側の善戦により元軍が博多湾の船団にとどまっていたためにこの結果になったとも言えるが、やはり「ラッキー」である。これが日本を守る神様が吹かせた「神風」だ、なんて信仰が生まれてかなり後年にヘンな影響も出たりするのだが、時期的に考えれば(現在の暦だと8月半ばごろ)、これは毎年夏から秋にかけて日本を襲う熱帯性低気圧、「台風」が通過したものと考えるのが自然だ。実際この日と翌日にかけて京都付近も暴風が通過したことが記録されているので、まず間違いないと思われる。

 この元寇を、日蓮が「国難が来る」と予言したために逮捕され、流刑に処せられたことはよく知られるが、実はその日蓮が元軍の日本征服を予言して大外れしてガックリしていた、という事実はあまり知られていない。彼の論法からいけば自分の主張を受け入れない幕府と日本は元軍によって滅ぼされて当然だったわけで、彼はその事態に備えて山奥の寺に避難もしている。ところがそこへ台風による元軍壊滅の情報が入ると、「たかが数隻が沈んだぐらいで大騒ぎするな」と手紙にいましましそうにしたため、しばらく元軍敗北を信じようとしなかったことが確認できるのだ。
 ところで日蓮が幕府に逮捕された際、一時斬首に決まったが、斬首されかかった瞬間に雷が落ちて処刑人の刀を直撃、刀が三つに折れたため処刑は中止になった、という逸話がある。そんなのは伝説だと言ってしまえば簡単だが、今にも雷が落ちそうな天気の時に金属製の長いものを他に高いものがない平地の上に振り上げれば、そこに雷が落ちるというのは自然なこと。こういうふうに科学的に歴史伝説を交渉してみるという姿勢は大切である。

 さて、先ほど日本軍の勝利に就いて「ラッキー」と書いたが、日蓮のエピソード同様に科学的に考察してみると、この「神風」、実は単なるラッキーではなかったのではないか、との見方も浮上してくる。別に本当に神様が風を起こしたと言いたいわけではない。実は日本人たちが戦略的に発生させたものだった、のではないか、というのである。
 元寇を撃退しながら、敵の土地を奪ったわけではなかったために参戦した御家人たちに幕府が恩賞を出せなかった、あるいは少なくしか出せなかった、という話は歴史の授業でもおなじみだ。ところが奇妙なことに、この元寇撃退後、各地の神社や寺院が幕府からちゃんと恩賞を受けている事実がある。表向きの理由はこうした神社・寺院が「敵国退散」を祈祷したため、ということになっているのだが、果たして本当にそれだけなのか。

 「雨乞い」というものをご存じだろう。世界各地で大昔から行われている「天に雨を降らせてくれるよう祈る」儀式であるが、これも単純な迷信とは片付けられない。雨乞いの中には地上で盛んに物を燃やして祈るタイプのものがあるが、地上で盛んに火を燃やすことで上昇気流が起こり、燃えカスなどが上空に上がって雨粒の「核」となり、雲が生まれて本当に雨が降る、という「人工降雨」の効果があるという科学的説明がなされている。真言宗など密教の祈祷で護摩をたいてボンボン火を燃やすものがあるが、あれもそういう効果があることに誰か昔の人が気付いたものかもしれない。そういえば真言宗の開祖・空海も雨乞いを成功させた実績がある。
 さて、これをたくさんの神社・寺院で一斉にボンボン火を燃やしてやれば、そうとうな効果が出ると考えられないだろうか。当時の日本ではそういう神社・寺院のたぐいは圧倒的に近畿地方に多く集中していたから、かなり密度の濃い効果が出せたのではないか。集中的に炎を上げて上昇気流を起こし、積乱雲を発生させ低気圧を作ることに成功すれば台風まであと一歩。そこまで狙ってやらなくても「バタフライ効果」といって、ほんのささいな空気の乱れから地球規模の異常気象が起こることは科学的に知られており、「とにかく日本付近に台風を起こせばいいのだ!」という方針で神社寺院総出でやれば実現できたのであろう。幕府がわざわざ彼らに恩賞を出したのもその「功績」を承認したものだと思える。

 そう、これはいわゆる「気象兵器」というやつである。その後日本は外国から侵略を長いこと受けなかったのでこの兵器を利用する機会は全くなかったが、太平洋戦争時にまた全国の神社寺院が祈祷を行った結果、1942年に周防灘台風で日本に甚大な被害が出ちゃったほか、「コブラ台風」「バイパー台風」といったアメリカ軍に本当に甚大な被害を与えたものもあったから馬鹿にはできない。
 なお、元寇を撃退しながらも日本側は元軍犠牲者らの慰霊はちゃんと行っている。そのために大量の棺桶が寺院から発注され、桶屋が莫大な利益を上げた。これが「風が吹くと桶屋がもうかる」ということわざの由来となっている(参考文献:『知られざる気象裏面史』民明書房刊)


2012/4/1の記事
間違っても本気にしないように!

<<<<前回の記事
次回の記事>>>

史激的な物見櫓のトップに戻る