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2012年4月30日

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◆西郷ドン暗殺計画

 西南戦争(1877)と言えば現時点で日本最後の内戦。当時の明治政府に対して不満を抱いた鹿児島の不平士族たちが政府を離れていた西郷隆盛を担ぎ出して挙兵、東京を目指して進撃を開始した。しかし熊本城攻略に手間取ったあたりから思惑通りの快進撃はできなくなり、九州南部を戦場にするのが精いっぱい、最終的に鹿児島の城山に追いつめられて西郷以下全滅という結末となった。西郷自身はあまり乗り気がせずほとんど担がれていただけで、彼に心酔する幕末以来の薩摩武士たちや西郷が作った私学校の生徒たちが暴走気味に突っ走ってしまったのが実態、というのもよく言われるところ。

 その私学校の生徒たちが突っ走った直接の一因に、「政府が西郷を暗殺しようとしている」と信じたことも挙げられている。元薩摩藩士で警察官となった中原尚雄(警察制度の創始者・川路利良も薩摩人で、初期警察には薩摩出身者が多かった)らが帰郷を口実に薩摩に入り、私学校の生徒たちの偵察、早い話がスパイ活動をしたのだが、私学校の生徒たちが中原を捕えて苛烈な拷問を加えたところ、中原が「西郷暗殺計画」があることを白状した。やはりそうか、と激高した生徒たちの暴走は止まらなくなり、西郷も引きずられる形で挙兵を決断する。とにかく開戦当初、西郷側はこの「暗殺計画」の存在を前提に政府を非難、その説明を求めるという姿勢をとっていた。

 だがこれは誤解であったとの説もある。中原が拷問のとき、あるいはそれ以前の段階で私学校の生徒に「視察せよと命じられた」と口にしたのを、「刺殺せよと命じられた」と聞き間違えたというものだ(当時は偵察の意味で「視察」ということはあったらしい)。1987年に日本テレビで製作した大型ドラマ「田原坂」ではこの「聞き違え説」を採用していて、中原の役を根津甚八が演じていて印象に残る。脚本家はここがキーポイントだと思ったのだろう。客観的に見ても当時の明治政府首脳、とくに大久保利通が西郷当人を暗殺しようと計画するとは正直考えにくい。
 また一方で、私学校の生徒たちには「刺殺」と聞こえた、いや、そう「聞きたかった」のではないかとも疑える。半ば自覚した積極的誤解というやつで、挙兵を焦っていた彼らにはこれは絶好の口実だった。さらに言えば政府側も西郷本人はともかく不穏な状況となっていた鹿児島士族が暴発することを半ば望んでいた気配もあり、この偵察部隊派遣も含めて挑発としか思えない行動もしていた。だから西郷暗殺計画があろうがなかろうが開戦は避けられなかったと思う。

 さて、その実際の有無はともかくとして、「西郷暗殺計画」が戦争の発端だったと当時の人が思っていたことを証明する史料の存在が明らかになった。それは西南戦争当時の鹿児島裁判所の裁判官7人が明治天皇にあてた上奏文で、西郷南洲顕彰館が4月20日に発表、翌日から館内で展示を開始した。昨年2月に神田の古書店で発見されたそうで、やはりあなどれないな、神田の古書店は。
 上奏文の日付は1877年3月3日。西南戦争は西郷軍が熊本城攻略に手こずって北上し、有名な「田原坂の戦い」が始まる直前だ。つまりまだまだ西郷軍が優勢だったと言っていい段階で、この戦争の展開がどうなるか読みにくい時期でもある。上奏文では明治天皇に戦闘停止という「非常ノ宸断(天皇の決断のこと)」を求め、この戦争の原因が政府側の西郷暗殺計画にあるとして「源ニ遡リ其その首謀者ノ者ヲ処スルニ法律ヲ以テシ(原因をたどってその首謀者を法律的に処断すべき)」と、司法官らしい提案をしている。鹿児島裁判所ということもありもともと西郷側に同情的だったとも考えられるし、実際に当時暗殺計画が存在すると彼らも信じたからこんな上奏をしたのだろう。またこの内戦がとめどもなく拡大すると外国の介入を招く危険もあると懸念したのかもしれない。

 結局この年の9月24日に西郷は鹿児島・城山で死んだ。中原の方はこの上奏文が出てまもない3月10日に官軍によって救出され、各地の県警部長をつとめて大正3年(1914)まで生きている。



◆模範解答でいいのか?

 孔融、という名前を聞いてすぐ誰の事か分かった人はそこそこの「三国志」通だろう。『三国演義』でもチョコチョコ出て来て逸話も紹介されるので少し詳しい訳本を読んだ方ならなんとなく印象に残ると思う。彼はあの孔子の本物の子孫で、小さいころから「神童」として評判だった。ある人が「小さい頃は賢くても、大きくなっても秀才とは限らんさ(小時了了、大未必佳)」とイヤミを言ったら(「了了」で「賢い」の意)「じゃあ貴方は子供のとき、きっと賢かったんでしょうね(想君小時、必当了了)」とやり返した、という話は一度聞くと忘れられないはず。この故事から「ああいえば孔融」という成語ができたそうな(←まだ四月バカやってます)
 孔融の神童ぶりを語るこの話から「小時了了」は故事成語になってるが、日本語で言うところの「神童も大人になればただの人」のニュアンスでも使われるようである。昔から言ってるんですね、そういうこと。
 一応孔融クンは大人になってからも博学多才で政治家としても大物になったのだが、あの曹操に何かにつけて反対したこともあって、西暦208年に曹操に罪を着せられて一家皆殺しの憂き目にあった。赤壁の戦いを描いた最近の映画「レッドクリフ」でも冒頭で孔融が処刑される場面がある。

 さて、この孔融クン、神童時代の逸話でこんなのもある。
 孔融が四歳のとき、家にお客がやってきて梨をたくさん持って来てくれた。母親が孔融に「兄弟で分けて食べなさい」と渡すと、孔融はお兄さんたちの年齢順に大きい梨を配り、自分はいちばん小さい梨を取った。父親が不思議に思ってどうしてそうしたのかと聞くと、孔融はすました顔で「樹木には大小があり、人間には長幼というものがあります。年上を敬うのは人として当然です」と答えた。父親はこれを聞いて大喜びした。(出典「三字経」)
 なんて可愛げのないガキだ、などと言ってはいけない(書いたけど)。この逸話はバリエーションがあるようで、ネットで見たら孔融には弟がいて自分は弟よりも小さいのをとり、その理由を父に聞かれて「弟は私より小さいのですから譲ってあげるべきです」と答えた、というオマケがつくものもあるようだ。

 この逸話、子供に目上の人への礼儀というものを教えるのに好都合と思われてるらしく、中国では今も教育現場で定番で教える道徳ネタだそうで、教科書のほか絵本やアニメ、切手にもなって非常に広く知られている。だが同時にツッコミどころの多い話なのも確かで、「そりゃお兄ちゃんに大きいのを渡さないとブン殴られるからだろ」といったギャグもよく言われているようだ(笑)。こういうところ、ワシントンが斧で桜の木を切ったのを正直にお父さんに言いました、ってアレを連想するな(お父さんはなぜ許したのでしょう――それはジョージが手に斧を握ってたから)

 さてこの有名な逸話「孔融譲梨」をめぐって中国で大論争が起きているというニュースがあった。僕は携帯のニュースサイトでちょこっと触れた記事を見たのだが、実際中国の新聞サイトをいくつかあたるとあちこちで出ていた。
 なんでも上海の小学生一年生が、この逸話の授業を受け、テストで「あなたが孔融だったらどうしますか?」という問題に対して「僕は梨を譲りません」と思ったところを正直に解答した(自分が四歳だったらとちゃんと考えて、との話もある)。教師は模範解答の真逆をいったこの解答に「× 」を付けたのだが、これにその子の父親が怒り、中国版ツイッター「微博」で「求公道(正義はどこにあるか、ぐらいの意)と題してこの件で意見を求めた。これがかなりの反響を呼んだそうで、大方の意見はこの父親に賛成し、「子供が思ったことを正直に言っただけじゃないか」「だいたいこういう道徳の話をペーパーテストで問うことがおかしい」「そもそも思想の解釈の正解を国家が規定していいのか」といった道徳教育の欠陥を指摘するものだったらしいが、一部には古き伝統道徳がすたれたと嘆いたり、日本でいうところの「モンスターペアレンツ」だと親の方を批判する声もあるようだ。

 このニュース、いろんな意味で面白いのだが、お隣の国の話ながら僕自身の体験でも似た覚えがあったりする。僕が中学の時か小学上級か記憶が定かではないのだが、学校で「道徳度診断テスト」のようなものを受けさせられたことがある。どうも業者が作ったものっぽいのだが、それこそいろんなシチュエーションを用意して「あなたならどうする?」と聞く内容だった。僕の弟なんかある設問で正直に答えてしまい、かなり低い評価をされちゃったのである。「こんなの心にもないことを模範解答する奴が高得点になるんだから、道徳テストの意味がないじゃん」と子供心にも疑問に思ったものだ。あんなこと、その後もやってるのかどうか…。あのころそういえば道徳教育がどうのと自民党が騒いでいたような記憶もある。その自民党が先日出した憲法案で、現行憲法の「公共の福祉」を全て「公益と秩序」なる文言に置き替えたのも道徳の押し付けとしっかりつながっているように感じたものだ。



◆お釈迦様でもご存じない

 仏教の開祖ゴータマ=シッダールタはシャカ族の王子であったことから「シャカムニ(釈迦牟尼)」と呼ばれ、それを略して日本では「お釈迦様」と言うようになった。「悟りを開いた人」ということで「ブッダ(仏陀)」という呼称もあるが、こちらは主に欧米で使われている。手塚治虫は釈迦の伝記漫画に欧米風の「ブッダ」というタイトルをつけたが、これをきっかけに日本でも「ブッダ」という呼び方がよく使われるようになった、と手塚本人が全集あとがきで書いている。

 そのお釈迦さまの遺骨が「仏舎利(ぶっしゃり)」である。伝えられるところによると当人が死んで火葬に付された直後、その遺骨と遺灰を求める者が殺到し、とりあえず8つに分けて保管されることになった。この釈迦の遺骨「仏舎利」を納めるのが仏塔(ストゥーパ=卒塔婆)で、世界各地の仏教地域にあるお寺の「塔」はこの仏舎利が納められていることになっている。だがその膨大な数からすればそこに納められている仏舎利が本当に釈迦当人の骨なのかはかなり怪しい。
 日本にも仏教渡来段階から仏舎利が持ち込まれたとの伝承があり、あの鑑真空海も中国から仏舎利を持ってきている。特に空海が持ち帰ったという京都・東寺の仏舎利の粒は多くの歴史上有名人が勧請(分けてもらうこと)しているのだが、その粒が減るどころか増殖するという奇跡が起きて(笑)、それでまたありがたがられているのだが、常識的に考えればそれこそ「どこの馬の骨」だか分かったものではない。キリスト教の聖遺物にも似たような現象があるから、洋の東西どこでもあることなんだろう。

 さて、CNN日本語サイトを覗いていたら、「ブッダの頭蓋骨、香港で一般公開 中国本土以外で初」という記事が目に入った。香港仏教会によると香港返還15周年記念で中国本土から初めてお釈迦さまの「頭蓋骨」が香港に貸し出され、26日に香港で開幕する「世界仏教フォーラム」、および釈迦の誕生日「仏誕節」(中国・香港では4月28日)に合わせて30日まで展示される、という内容だった。この記事で香港では中国に返還された後の1999年になって「仏誕節」が祝日と定められたと知ってそっちにもちょっと驚いたのだが、やはり「ブッダの頭蓋骨」なるものが中国にあることになっていた方にもっと驚く。
 展示されている「頭蓋骨」の写真を見ると、頭蓋骨の頭頂部分のみながらそこそこの大きさがあった。そんなデッカいの、どこにあったんだと記事を読むと、南京の「ある寺院」から2008年に掘り起こされたものだとのこと。おいおい、おもいっきり最近の話だぞ。仏塔の下にでも埋まっていたから「仏舎利」と断定したのだろうか。だいたいあんなに世界中に粉々にされて分散してるのに頭蓋骨の一部とはいえあんなにデッカイのが残ってるはずがない。このCNN記事によると1999年にブッダの歯が、2004年には指の骨が中国から香港に貸し出されたというのだが、それだって限りなく怪しい。

 さらにこの記事によると「ブッダの骨は外交儀礼として仏教国の間を行き来している」のだそうで、現在は中国、インド、スリランカ、カンボジア、シンガポール、台湾などが保有しているとか、インドが昨年(2011年)にブッダ開眼2600年記念でインドネシアに仏舎利を貸し出したなんて話(僕は初耳)も書いていた。前述のように「釈迦の遺骨」と称するものは日本をはじめ世界中にそれこそ浜の真砂ほどもある状態なので、この記事を書いた記者はあまり事情を知らないで書いてる気がする。



◆天皇の火葬復活か
 
 お釈迦さまの話につながるが、そもそも火葬のことを「荼毘(だび)」というのは仏教用語。お釈迦さま自身が火葬にされたようにインドでは伝統的に火葬が多く、仏教徒もおおむね火葬を基本にしてきた。だが世界的には火葬というのは比較的少数派で、将来の最後の審判時の「復活」が想定されているキリスト教、イスラム教などは火葬は本来厳禁で土葬が基本。キリスト教世界の方は火葬も次第に増えているそうなのだが(「刑事コロンボ」の末期の一作に火葬をする葬儀屋が犯人の傑作がある)、イスラム世界では原則禁止で、日本でもイスラム教徒をうっかり火葬しちゃったり、土葬を受け入れる墓地と住民との対立が起こったなんてトラブルもあった。
 中国の儒教も親からもらった体を傷つけてはならないという発想から火葬を忌避した。さすがに墓地が足りなくなるから最近の中国では火葬と散骨が推奨されてるそうだが。そして日本の神道も本来は火葬をせず土葬を基本にしていたようである。

 4月26日の定例記者会見で、宮内庁長官が天皇皇后夫妻が自らの葬儀・埋葬について「火葬・合葬」のようにできるだけ簡略なものを望んでおり、その方向で約一年かけて検討すると発表した。この報道に驚いた人も多いと思う。実際僕もかなり驚いた。そりゃまぁ、どこの家でも墓地や葬式の相談くらいは事前にやってるものだろうが、現役の天皇が自身の葬儀・埋葬について間接的ながら意思表明をしたこと(そもそも意志表明自体が異例)、それが公表されたことのいずれもが異例だ。
 この報道で初めて知ったが、日本の歴代天皇で最初に火葬されたのは持統天皇なのだそうだ。女性天皇の一人であり、天智天皇の娘で天武天皇の妻である。彼女は夫の天武天皇と同じ陵墓に合葬されていて、「合葬」の前例でもある。この時期には仏教が皇室でも浸透しており、火葬が受け入れられるようになったのだと思われる。以後、歴代天皇は基本的にみんな火葬にされるようになった。

 ではその前はどうしていたのかというと…。古墳に土葬していたわけだが、「殯(もがり)」という習慣があったことが知られている。遺体を収めた棺を「殯宮(もがりのみや)」という仮の建物の中に納め、そのまま安置する。当然すぐに腐敗が始まるわけだが、とにかくそのまんまほったらかし。しばらくすれば白骨化してしまう。内部は凄まじい死臭に包まれたはずだが、遺族の誰かがずっと遺体に付き添うことになっていた。中国の記録だと日本(倭国)の他に高句麗でも同様の習慣があったと記されていて、身分の高い人の場合は三年も「殯」をすることになっていたとある。その期間は身分が低いほど短く、やがてこれを一晩に縮めたものが今日の「通夜」という話もある。
 『日本書紀』では敏達天皇の殯宮にこもっていた皇后、のちの推古天皇穴穂部皇子が襲おうとして阻止されたという話が載っている。そんな場所で、しかも未亡人に対してよくもまぁ、と思う話だが『日本書紀』がああもハッキリ書いているということは事実なのだろう。この場面、NHK製作のドラマ「聖徳太子」でも映像化され、いろんな意味で貴重な皇族ドラマとなっている。

 持統天皇以降は火葬および大きな古墳を作らない墓の簡素化が定着する。平安以降は神道も仏教もゴッチャになり、天皇の多くは年をとったり死にそうになったりすると出家しているから、火葬が当然となっていた。それがくつがえるのは江戸時代前期のこと。僕も今度の報道を受けて書かれた産経新聞のコラム「産経抄」で初めて知った逸話なのだが、後光明天皇(1633-1654、在位1643-1654)が在位のまま死去した際、宮中に出入りしていた魚屋の奥八兵衛なる男が従来の習慣通り火葬にすることに「天皇の意思に反する」と反対、宮廷各方面に涙を流して訴えてまわり、これを受けて火葬をとりやめて土葬が朝廷で決定されたという。

 八兵衛が土葬に反対した理由について原文資料を見つけられないのだが、どうも「人の道に外れる」「不仁」といった言葉が出てくるところを見るとこれは儒教的な感覚から出たものではないかという気がする。当時はまだ神道は仏教と未分離だし、国学や尊王思想も萌芽以前の段階なので江戸時代に盛んになって来た朱子学の影響を受けていると考えるのが妥当と思う。ともあれこれが先例となって以後天皇は土葬が基本となるのだが、形式上は火葬のようにやることになっていたというからよく分からない。尊王思想がピークになっていたと言える幕末の孝明天皇の葬儀から完全に火葬形式が消えて土葬となり、しかも古代に戻って円墳型の「陵墓」も作られた。そういうわけで土葬のルーツを作った奥八兵衛は明治になって「忠臣」と称揚され、子孫に追賞が贈られたほか、贈位までなされている。
 明治天皇は生まれ故郷の京都に「伏見桃山陵」を築いてそこに葬られた。これも土葬で、それこそ古墳なみのスケールをもつ。これが近畿地方に造られた最後の天皇の墓となった。その後の大正天皇貞明皇后昭和天皇香淳皇后の陵墓は東京都八王子の「武蔵野陵墓地」内にそれぞれ隣り合わせながら別々に、それぞれ古墳スタイルのものが造られている。

 まだ確定したわけではないが、本人の意向もあるとなると江戸時代初期以来の天皇の火葬復活の流れになる可能性は高そうだ。もっとも、くだんの「産経抄」は基本的には「国民に負担をかけまいとする天皇のご意思」をありがたがる趣旨なのだが、奥八兵衛のエピソードをわざわざ持ってきたこと、そして後半になるとあまり簡素化するのも国の体面上どうかといった話になってくるので、本音のところは賛成できないでいるのだろう。こういう話が出てくること自体も異例なので、保守系人士は「伝統に反する」とか言って反対するんじゃないかなぁ。こういう人たちの言う「伝統」ってのが実は近代以降のものばかりとはよく言われるが。
 それにしてもつい先日心臓周辺の手術したばかりだというのに、五月のイギリス女王エリザベス2世の即位60周年式典のために訪英するそうだが、ホントに大丈夫なのか。医師団も安全を保証してのことなのだが、これもかなり本人の意向が強いのではないかなぁ。


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