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2012年5月18日

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◆今週の記事

◆アイスマン暗殺事件続報

 アイスマンといえば、アルプスの山中で1991年に発見されたミイラ男性のあだ名で、彼は実に5300年前に生きていたと推定される。5300年前と言ったら、日本では縄文時代、世界各地の先発の「文明」が次第に形になっていたころだ。
 見つかった場所はイタリア・オーストリア国境の標高3200mの氷河で、オーストリア側で発見したものの発見地点がわずかにイタリア側に国境を越えていたためイタリア側がひきとっている。県境で事件が起こった時の警察の対応とおんなじというわけだが、このアイスマン、当初は凍死とみられていたが肩に矢が当たっていたことが判明、にわかに「殺人事件」として調査が進められることになった。こんな高い所で戦闘が行われているというのも考えにくく、ふもとで矢を受けて山の上に逃げ込んで死んだんじゃないかとか、ふもとで死んでから山の上に埋葬されたんじゃないかとか、いろんな説が出ているが、ともかくはっきりと断定できるものはない。この記事を書くためにちょっと調べていて知ったが、昨年にはアイスマンが最後に食べていたのは山ヤギの肉だった、なんて話も出たそうだ。

 この「アイスマン」については過去に二度「史点」でとりあげている。1999年9月19日の記事ではアイスマンが足の関節に持病をもっていてハリ・灸治療を受けていたらしいという話題がとりあげられているし、2001年8月8日の記事では「殺人事件説」が登場している。以来十年以上を経て三度目の登場だが、今度は「アイスマンは矢で射られても即死はせず、しばらくは生きていた」という説が登場した。

 この説はドイツのルートウィヒ・マクシミリアン大の研究チームが5月1日に科学雑誌で発表したもので、根拠はアイスマンの血液の分析だ。アイスマンの血液なんて残っていたのか、と驚いたが、ナショナル・ジオグラフィックの記事を読んだら血液が残っていたわけではなく、「原子間力顕微鏡」なるものによりナノレベルで調べたところ赤血球の痕跡がみつかり、また出血時に血小板などとくっついてかさぶたをつくる役割を果たす「フィブリン」という繊維状タンパク質の存在が確かめられたというのだ。これは人類の血液としては最古の資料ということになるらしい。
 「フィブリン」は負傷して出血した際に生成されるものだそうで、即死していたのなら残っていないはずだ、ということらしい。ただし回復していても残っていないそうなので、つまりアイスマンはその矢傷がもとで「即死に近い状況で死んだ」ということになるのだそうだ。いくつかの日本での報道記事では「即死ではなかった」という見出しをつけられていたが、どうもよく読むと即座に死ななかったというだけのことでしかないみたい。

 アイスマンは生きていた時代からすると「史点」登場人物中最古の個人ということになるはずだが、いつまでたっても話題のつきない人ではある。5000年も前に彼の身に一体何が起こったのか、興味は尽きないが結局は当人のみぞ知る、ということなんだよな。



◆遺産を壊すバカもいる

 あのオサマ=ビンラディンがアメリカの特殊部隊に殺害されてから一年になる。しかしこのボスを失っても「アルカイダ」は相変わらず元気なようで、各地でテロ未遂事件だとか、一部の支配地域で徹底したイスラム法体制を敷いたとか、はたまた彼らが「非イスラム的」とみなした遺跡をぶっ壊したりしているのだった。

 被害に遭ったのは西アフリカのマリ、サハラ砂漠にあるトンブクトゥの霊廟だ。トンブクトゥは砂漠のど真ん中、ニジェール川の近くにあるが、かつて砂漠を越えた交易の中継地点として栄え、この地独特のモスクや霊廟が建設された。やがてヨーロッパ勢力が海を越えてギニア湾方面まで行くようになったため衰退したが、トンブクトゥの遺跡群は世界遺産に登録され保存されている。僕もこの「トンブクトゥ」という聞き慣れない地名を世界史の教科書で覚えたし、最近になってレビューを書くためにプレイした「カルメンサンディエゴを追え!世界編」というアメリカ産の地理学習ゲーム(日本ではPCエンジンCD−ROMで出て、英語版も収録、辞書で単語検索までできるつくりだった)の中でも登場していた。
 ところが5月5日、この地域に展開するイスラム過激派系武装組織「アンサル・ディーン(ダインとも)」がトンブクトゥの霊廟の扉を壊したり蚊帳を焼くといった行動に出た。大破壊というほどの被害ではないみたいなのだが、やはり動機は徹底したイスラム原理主義の発想から偶像崇拝やそれに近いとみなしたものを否定するためで、霊廟を崇拝する住民たちに見せつける威嚇行動でもあったようだ。で、この「アンサル・ディーン」はアフリカ北部で展開するアルカイダ系組織「イスラム・マグレブ諸国のアル・カイダ(AQIM)」と深く関わっていると見られている。

 さて話がどんどんさかのぼってしまうのだが、トンブクトゥは今年4月1日に砂漠の民トゥアレグ族の反政府軍により占領されていて、実はトンブクトゥを含めたマリ北部の大半が彼らの手に落ち、4月6日に一方的に「アザワド独立国」として独立宣言を行っている。もともとこの地域はマリの支配に対して抵抗をした歴史があり、今年1月からにわかに活動を活発化させ、とうとう「独立」まで持ち込んでしまっているのだ。もちろんそれを承認してる国は現時点では全くないようだが、実効支配勢力としてはそこそこの力を持っているらしい。
 このトゥアレグ族の反政府組織(独立運動軍)というのが「アザワド解放民族運動(MNLA)」というもので、別にこれ自体がイスラム原理主義の勢力というわけではなく、当面の目的を達するために敵対することもあるアンサル・ディーンやアルカイダなどとも手を組んでいる、というのが実態らしい。

 こういう話を聞くと、アフガニスタンのタリバンとアルカイダの関係を思い出してしまうが、タイミング良く(?)かつてタリバン政権で極端な宗教政策を推し進めた「勧善懲悪省」(なんちゅう名前だ)の元長官カラムディン氏が5月16日までに共同通信の単独インタビューに応じ、「タリバン時代のバーミヤン大仏破壊は過ちだった」と発言した、との報道があった。もっとも記事を読むと「(大仏破壊は)正しい決断ではなかったと今だから言える」と明言したとあり、「過ち」と表現したかどうかは微妙な感じでもある。
 また大仏破壊は勧善懲悪省が推進したものではなく「外国から来た兵士たち(アルカイダのこと)の方が政府より力を持っており、彼らが決めたことだ」としていて、他にも女性へのブルカ強要やテレビや音楽の禁止といった政策も同様にアルカイダ勢力が決めたことで「行き過ぎ」と認めたという。ただオサマ=ビンラディンの影響については否定してるし、僕が知ってる範囲から言ってもいささかよそ者に責任を押し付けてるフシがある。タリバンは今も元気に活動中でアメリカをはじめ外国軍もそろそろ手を引きたがっているし、カルザイ政権もタリバン側と和平交渉を進めていることもあって、その仲介役であるカラムディン氏としてはタリバン政権のやったことを否定的に言うことで話をまとめやすくしようともくろんでいるようだ。



◆お伊勢さまと皇室と

 ついさっきニュースを見ていたら、天皇皇后のお二人がイギリスに到着していた。イギリス女王エリザベス2世の即位半世紀を祝うための渡英で、かつて皇太子時代に即位式に参加した際の映像も紹介されている。つい先日心臓の手術をしたばかりだってのに、よくまぁあんな長旅を、とイギリスに渡ったこともある僕などは思うのだが、なんだかんだでイギリス王室というのは世界の最高権威といってよく、昔から日本皇室がお手本にしてきた歴史もある。もっとも日本の皇室の人たちがPRのためにお天気キャスターまでやってしまうなんてことは起こらなそうだが(笑)。

 さて、前回に続いてそんな皇室関係の話題。皇室ではなく元皇室の人の話だが、天皇の長女・黒田清子さんが4月26日付で伊勢神宮の「臨時神宮祭主」に就任している。伊勢神宮では来年に20年に一度の社殿の移動・建て替えを行う「式年遷宮」が行われるため各種イベントが続くのだが、現在の祭主である池田厚子さん(昭和天皇の四女、現天皇のすぐ上の姉)が81歳の高齢であり、その補佐をするため「臨時祭主」を置くのだという。前々回の式年遷宮があった1973年にも当時の祭主北白川房子(明治天皇の皇女)が高齢のため、同様に臨時祭主が置かれたとのこと。
 調べてみると、この伊勢神宮祭主というのは戦後はその北白川房子のあとに鷹司和子(昭和天皇の三女)、そして現在の池田厚子さんと皇室出身の女性たちばかりが就任している。戦前は華族出身の男性ばかりなのだが、どうしてそうなったのか。あくまで推測だが、戦後になると国家神道が否定され伊勢神宮も宗教法人「神社本庁」の最上位神社であって皇室や国家との直接的な縁が切られたので、代わりに皇室出身の民間女性ということなら折り合いがつけられるだろうと、そういう判断からではなかっただろうか。

 そもそも伊勢神宮というのは皇室の祖先とされる天照大神を祭る神社だ。そしてこの天照というのが女神なのである。さらには『日本書紀』によると伊勢神宮の伝説的創建は倭姫命(やまとひめのみこと)という皇族女性により行われた。これがのちに皇女を伊勢神宮に仕える「斎宮」とする伝統のルーツとされ、少なくとも天武天皇の時代からはずっと未婚の皇女が「斎宮」として伊勢神宮に派遣されてきた。それをストップさせたのが誰あろう、後醍醐天皇だったりする。正確に言えば後醍醐天皇は自分の皇女を「斎宮」に送るべくちゃんと準備を進めてしていたのだが、その最中に鎌倉幕府打倒の挙兵をしたもんだから、その話は立ち消えに。その後の南北朝の混乱もあって斎宮制度はここに完全に断絶することになったのだ。

 そんなわけで、この現代の皇族出身女性の「祭主」制度は、形を変えた「斎宮」制度の復活と見れないこともない。もちろんすでに他家に嫁いで皇室を離脱している人ばかりなのだが、「皇女」であることは間違いない。ご承知のように現在の皇室では若い世代が女性ばかりで男系断絶の危機がさけばれ、どうにか悠仁親王がいるものの他はすべて女性ばかりなので、「女性宮家」の設立が検討されている。そうやって皇女が他家に嫁ぐのではなく宮家を設立して皇室に残ることになると、伊勢神宮の祭主はどうするんだ、なんて話がそのうち出てくるかもしれない。



◆5月も終戦の季節
 
 日本では毎年8月になると「終戦の季節」ということで第二次大戦関連のニュースが多くなるのだが、今年はなぜか5月にそういう話題が集中した。もちろん5月はドイツの降伏があった月で、ヨーロッパにおいてはそれが「世界大戦の終わり」と認識されやすい。

 5月4日にイギリスのケンブリッジ大学が発表したところによると、1942年の4月にアドルフ=ヒトラーが行った演説を、BBCの海外宣伝分析部門に所属していた社会科学者らが分析した極秘資料が見つかったという。なんでも彼らはその演説からヒトラーの精神状態を分析した結果、それ以前よりもユダヤ人に対する嫌悪感情が増していると指摘しているそうで、この資料を発見したケンブリッジ大のスコット=アンソニー博士は「当時戦況が不利になってきたのでヒトラーは国内に目を向け、対外的な失敗をユダヤ人という『内なる敵』への攻撃にふりむけたのではないか」というような指摘をしていた。
 もっともそういうヒトラーの心理状態の話自体は目新しいものではない。僕もずいぶん昔にそういう話を聞いたことがある。面白いのは当時イギリス側で演説からの心理分析なんてものをこっそりやっていたという事実の方だ。結論自体は素人でも思いつきそうなことだなぁ、とは思うが。

 ヒトラーが自殺したのは1945年4月30日。ドイツ軍全軍が連合国軍に降伏したのは5月7日の未明だ。降伏文書調印はフランスのランスで行われたが、翌8日にベルリンの方でソ連軍による式典も予定されていたこともあって、ソ連の顔を立てる政治的配慮から連合軍は記者たちにドイツ降伏の事実を8日午後3時まで公表しないよう誓わせ、報道管制を敷いた。調印式に経ちあった記者は17人いたが、このうちAP通信パリ支局長のエドワード=ケネディ記者は欧州での大戦終結という大ニュースに報道管制を敷く処置に納得がいかず軍にかけあったが拒絶され、やむなく抜け駆けする形でAP通信のロンドン支局に電話をし、報道管制が敷かれていることには触れぬままドイツ軍降伏の特電を送り、これが数分で世界を駆け抜けることとなった。もはやドイツ敗北は誰の目にも明らかではあったが実際に降伏したことをスッパぬけば大スクープには違いなく、それを誰よりも先駆けて報じようというのは記者という人種の本能でもあっただろう。
 だがこの抜け駆けのスッパ抜きは軍上層部はもちろんのこと、同じ記者仲間から恨みを買った(こういう話、どこの国でもあるんだよな)。アメリカのマスコミでも賛否両論で、彼の行動を「報道の自由」の観点から賞賛する声がある一方で、抜け駆け行為を非難し、またこうした行動が報道管制の強化を招くとの懸念の声もあったようだ。結局AP通信はケネディ記者をニューヨークに呼び返し、仕事を与えないままとうとう11月に解雇してしまった。3年後にケネディ氏はこの件に関するエッセイを雑誌に載せたが、そのタイトルは「私はまたやる(I'd Do It Again)」であったという。
 その後、彼は編集者の仕事を続けたが、1963年11月29日に交通事故のため58歳で死去した。娘のジュリアさんが父の名誉回復をずっと訴えていたそうで、今年の5月4日になってAP通信は公式にケネディ氏解雇について誤りであったと謝罪した。実に67年も経ってからの謝罪だが、どうやらケネディ氏の伝記が刊行されるのに合わせたものでもあるらしく、AP通信の社長がその伝記の前書きを共著しているという事情もあるようだ。

 さてドイツが降伏したことでまだ抵抗を続けているのは日本だけとなったわけだが、日本の降伏はそれよりさらに3ヶ月以上もかかる。ドイツ降伏に先立つ1945年2月にルーズベルトチャーチルスターリンによる「ヤルタ会談」が開かれ、戦後のヨーロッパの枠組みを決定したほか、ソ連がそれまでの中立姿勢を変更してドイツ降伏後90日以内に対日参戦をするという密約が結ばれていたことはよく知られる。そして実際にドイツ降伏からきっちり三ヶ月後の8月9日にソ連は日本に宣戦して満州や樺太・千島に攻め込んでくるわけだが、日本指導部はその瞬間までその動きを察知していなかった。この件ではソ連が中立条約を一方的に破った、と日本ではよく言われるが、4月の時点で翌年の期限切れ後の延長はしないと通告されていたし、ヤルタ会談のなかで対日参戦密約があったことは普通に考えれば予想できたはずで、「だまし討ち」よばわりするのは正直甘ちゃんだと思う。
 というか、そもそもソ連の対日参戦情報はちゃんと日本側にもつかまれていたのだ。すでに知られていた話であったが、当時スウェーデンのストックホルムに駐在武官として赴任していた陸軍の小野寺信がヤルタ会談直後に情報をつかみ(ロンドンにある亡命ポーランド政府から流れた情報だった)、即刻東京の参謀本部次長宛てに打電していたのだ。しかし当時の日本の上層指導部にその情報が報告された形跡がなく、小野寺氏当人も戦後になってそれを知り驚いている。実は大本営の参謀どもがこの情報を「不都合な情報」とみなして握りつぶしてしまっていたのだ。
 当時どう見ても勝てそうにない戦況の中で大本営では最後の頼みの綱をこともあろうにソ連に求めていて、ソ連がなんとか有利な条件で講和できるよう仲介してくれるんじゃないかな、と勝手な期待をしていた。そういう期待は妄想にふくらみ、一部ではソ連を味方に引き込んで一緒に戦うというところまでいっちゃってたというから驚く。もはやそこしか希望がないせいか、モスクワの日本大使館に「なんとか交渉しろ」と必死にはたらきかけ、駐ソ大使らが「そんなの無理」と応じても「なんとかしろ」の一点張りだったという。そういう大本営であるから「ヤルタ密約」情報は全ての希望をブチ壊してしまう内容であり、これが指導部に知れては大変、と握りつぶしてしまった、というわけ。この手の話は他にもあって、こういう連中が戦争指導してちゃそりゃ負けるわな、と思うばかりだ。

 さてその小野田信の報告について、産経新聞が5月11日に新証拠を見つけたと報じている。新証拠とはイギリスの国立公文書館に保管されていた秘密文書で、当時のイギリスの「政府暗号学校」がドイツ外務省の在外公館あて秘密電報を傍受・解読した内容を含んでいた。そのなかでストックホルムのドイツ公使館がヤルタ密約の情報をもたらしたと書かれていて、そのストックホルムのドイツ公使館にいたドイツ情報士官カール=ハインツ=クレーマーが小野寺と懇意であったことがすでに確認されていることから、小野寺がつかんだ情報がドイツに流れた証拠とみなせる、というわけだ。話自体はすでに予想されていたことで大発見というほどでもないのだが、より状況証拠が固まった、というところ。
 記事では「中立条約が存在していたソ連に、英米との和平仲介を依頼すべきだと考えた一部政治家や陸軍にとって、ソ連の対日参戦情報は不都合なものだった。小野寺武官が送ったとするソ連参戦情報が軍上層部に届いた形跡がなく、情報が握りつぶされたとすれば、結果として終戦が遅れ、米国の原爆投下やソ連による北方四島の不法占拠などを招いた点で責任はきわめて大きい。」と、この新聞の日ごろの論調からすれば驚くほどまっとうな意見(笑)を書いている。つい先日「福島原発に津波が来ると全電源喪失の可能性もあるという見解が東電内部でも5年前には出ていた」という話を東電会長が「私は聞いていない」と言い切っちゃってるところにも似たようなにおいを感じてしまい(途中段階でにぎりつぶしたか、聞いてても不都合な話は耳に入らなかったか)、実は日本人組織って全然変わってないんだろうな、と改めて思わされる。


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