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2012年11月21日

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◆サボり中に逝った長寿な方々

 8月末に更新して以来、実に二ヶ月を越えて三ヶ月近くぶりの更新である。シーズン的に忙しかったということもあるが、なんとなく書く気が起きず、他の作業に精を出していたというところもある。その間にも史点ネタにしたいニュースには事欠かなかったのだが、こういう執筆作業というやつは一度筆を止めるとなかなか再開できないもので…ようやく更新する気になったのだが、そんな次第なのでここ二ヶ月間の話題をいろんなテーマから「総まくり」することにしたい。
 まずはこの間にお亡くなりになった方々のうち、「史点」的に気になった人をまとめてみた。

 前回更新から間もない9月3日に韓国の宗教団体「世界基督教統一神霊協会」、いわゆる「統一教会」の創始者である文鮮明(ムン=ソンミョン)が92歳の高齢で死去した。風邪をこじらせた肺炎という、高齢者にはありがちな死因だった。最近動静が大きく報じられなかったせいか、はたまた新興宗教関係の話題は取り上げにくいせいか、ニュースの取り上げ方も思いのほか小さなものだったが、ある意味で韓国及び日本の現代史における「大立者」の一人と言える。日本の池田大作と何かと比較できるのだが、新興宗教の指導者で国際的に拡大する組織力をもち、政治経済両面で影響力も大きかった人物だ。
 1920年に現在は北朝鮮となっている平安北道の定州に生まれ、当時は日本の植民地だったこともあって早稲田大学付属の早稲田高等工学校電気工学科で学んでいる。第二次大戦が終わり、さらに朝鮮戦争が休戦となった直後の1954年に「統一教会」を創始する。表面的にはキリスト教の一派を称しつつ、文鮮明自身を救世主「メシア」と位置づけた独特の教義で、文鮮明が「血分け」をし、組み合わせを決めて行う「集団結婚式」が日本で話題を呼んだこともある。現在の韓国ではカトリック信徒が多く、僕が大学時代に一緒に学んだ韓国人留学生もカトリックばかりだったが、統一教会の件については「あれは異端(イダンと発音していた)だ」と眉をひそめて言っていたものだ。韓国にとどまらず海外にも信者組織を広げ、「イブ国家」と位置づけられていた日本では原理運動の名のもとに本国韓国を大きく超える信者を生み出し、家族からの引き離しや壺やら印鑑やらの「霊感商法」による資金稼ぎが社会問題となった。

 統一教会は南北分断と冷戦の情勢を利用して反共主義を掲げ、反共団体「勝共連合」を作って韓国や日本の政界にも深く関わった。日本の右翼団体や保守政党にもかなり食いこんでいて、アメリカで脱税の罪で有罪とされたため本来入国が難しい人物であるにも関わらず自民党幹部が「超法規的措置」をとって文鮮明の訪日を実現させたこともあった。統一教会が進めた「日韓トンネル計画」の運動に九州の自民党政治家が名を連ねていた事実もある。アメリカでは保守系新聞「ワシントン・タイムズ」を発行して共和党・保守派を支援、ロナルド=レーガン大統領が愛読していたという話もある。日本でも新聞「世界日報」を出していたし、その世界日報と人脈的につながりも多かった「産経新聞」に合同結婚式を応援する大広告が載ったこともあった。
 あれこれと関連企業を作って韓国経済界にも影響が大きかったと言われるが、文鮮明自身が「神から啓示を受けた」として巨額の費用をかけて朝鮮戦争の仁川上陸作戦をテーマにした超大作映画を製作してしまったこともある。その映画が知る人ぞ知る「インチョン!」で、ローレンス=オリヴィエ三船敏郎など大スターを配し、「007」のテレンス=ヤング監督まで引っ張り出した「話題作」であるが、史上最大の失敗作の一つとして映画史に燦然と輝いていたりする(笑)。そういえば今の日本でもやたらに映画やアニメを作ってる宗教団体がありますな(しかもアニメがどういう経緯かアカデミー賞候補リストに入っちゃったんだが…)。この団体も産経新聞によく広告を出すんだよねぇ。
 そんな反共姿勢で知られた文鮮明だが、冷戦が終わりを告げ、韓国も民主化が進むようになると、いきなり北朝鮮を訪問して金日成と面会、関連企業の事業を通じて結びつきを強めるという変わり身の早さも見せた。もともと北朝鮮地域の出身だから何らかのルートがあったのだろうし、晩年にかけてやたらと「世界平和」をウンヌンする活動をやっていたから、毎年話題のあの平和賞をとろうという野心もあったかもしれない(これも日本の某宗教団体のトップがずっと狙っていると言われる)
 なんでも来年2013年の1月だか2月だかに理想の宗教王国「天一国」が成立するとの教義があるそうで、文鮮明自身もそれまでに自身の責務を果たすという発言もしていたそうだが、結局それを見ることなくこの世を去ってしまった。メシアだって話はどうなったんだい、何か世界を救ったのか、とツッコんでしまうところだが、もしかして当人の死が「急逝」ならぬ「救世」だった、というオチではなかろうな。教団は息子さんが継ぐことになるそうだが、その辺も池田さんと似てる。
 
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 10月15日、カンボジアのノロドム=シハヌーク前国王が北京で死去した。僕自身もそうなのだが、日本ではこの人については「シアヌーク」という呼び方の方になじみがある。「シハヌーク」と書かれることもあると知ってそうじゃないかと思っていたのだが、今回の訃報でちゃんと調べたところやっぱりそうだった。アルファベット表記では「Sihanouk」となるのだが、かつてカンボジアの宗主国フランスでは「H」発音ができないので「シアヌーク」と呼ぶことになり、それが世界的に定着してしまったのだ(ベトナムの都市フエが「ユエ」と表記されるという例もあった)。ま、日本人が発音しても「シアヌーク」の方が言いやすいというのもあったと思う。なおWikipedia記事の受け売りだが、現地カンボジアのクメール語では「シーハヌ」ぐらいの発音で最後の「ク」は聞こえるかどうか怪しいみたい(この辺は逆にフランス語っぽいな)。ついでに言えば当人がしばしば滞在し、結局最期の地ともなった中国では「西哈努克」と割とそのまんまの表記するそうで。
 訃報記事でもさんざん書かれていたが、この人の人生は混乱の続いたカンボジア現代史をそのまま体現したような波乱に富んだものだった。そしてなおかつ、世界史でよく見られる「したたかでしぶとい王族」の一例として今後も語られてゆくような気がする。

 ノロドム=シハヌークが生まれたのは1922年。当時のカンボジアはフランス植民地である「仏領インドシナ連邦」の一部だった。フランス植民地とは言ってもベトナム・ラオス・カンボジア三国のそれぞれの君主など支配層はそのまま存在しており、その上にフランスがかぶさって実権を握るという形がとられていた。シハヌークが祖父の死を受けてカンボジア国王に即位したのは1941年で当時彼はまだ18歳。この時点で世界はすでに第二次世界大戦に突入しており、フランスはドイツに降伏してドイツの傀儡政権であるヴィシー政府(つまり当時の日本にとっては実質同盟国)となっていた。彼が王位についたのも若い王の方がフランスのインドシナ総督としても好都合だったから、との話もある。

 そして1945年3月。もはやドイツも日本も敗色濃厚となり、仏領インドシナ政府も日本と距離を置き始めた。これを見て日本は仏領インドシナに軍隊を進めてフランス軍を放逐、ベトナム・ラオスそしてカンボジアを独立させた。このときシハヌークはかねて対抗関係にあるベトナムを牽制するために日本に接近したが、この年の8月にその日本も降伏。フランスの植民地支配がまた舞い戻ってくることになるが、シハヌークは諸外国を歴訪して国際世論に訴えたほか、離宮にこもってフランスへの抵抗を示すことで国民の独立運動に火をつけ、結局フランスもこれ以上の植民地支配は困難となったこともあり1953年11月にカンボジアは完全に独立を達成する。
 シハヌークは「独立の父」として国民の敬愛を集めたが1955年にあえて退位して父のノロドム=スラマリットに王位を譲り(父親に譲位した国王というのは他にいるんだろうか?)、元国王にして現国王の王子という不思議な立場となり、以後はもっぱら「シハヌーク殿下」と呼ばれることになる。これは王位を離れることで自由に政治活動をすることを狙ったもので、シハヌークは自らが党首を務める政党「サンクム」を結成して圧倒的人気を背景に総選挙で第一党となり、首相および外務大臣の地位について政治的実権も握った。1960年に父王が死去する王位に戻るのもかえって不都合なので王位は空位のままとし、自身は「国家元首」の地位について事実上の君主として君臨し続けた。
 冷戦下ということもあってこの国でも右翼・左翼の対立が激しく、シハヌークはいかにも「王様」らしくその両者の上でたくみにバランスをとって非同盟中立の路線をとり、後に手を組むことになるカンボジア共産党(クメール・ルージュ)ポル=ポトらを弾圧していた時期もある。それでも総じては「左より」とみられ、このあとアメリカによって政権を追われることになる。

 ベトナム戦争が泥沼化した1970年、南ベトナム解放戦線(ベトコン)の跳梁に手を焼いたアメリカは、隣国のカンボジアにその原因があるとみて、当時首相兼国防相だったロン=ノルらをけしかけてシハヌーク外遊中にクーデターを起こさせた。亡命生活を余儀なくされたシハヌークは中国を頼り、その全面的バックアップを受けて亡命政府を樹立してその首班となり、かつて弾圧していたポル=ポトらクメール・ルージュとも手を組むことになる。
 やがてベトナム戦争はアメリカの敗北に終わり、その勢いを駆って1975年4月にクメール・ルージュはロン=ノル政権を崩壊に追い込んで政権を掌握した。シハヌークは帰国して「国家元首」の地位に返り咲いたが、実権はポル=ポトに握られてシハヌーク自身はただの飾り物の幽閉状態に置かれた。ポル=ポト政権では徹底した農本主義や集団化、知識人層や親ベトナム派の抹殺が図られ、百数十万人もの犠牲者を出したことは有名だが、その混乱の中でシハヌークの子や孫も多く犠牲になっている。シハヌーク自身の抹殺も図られたらしいがこれはさすがにポル=ポトを支援していた中国が政治的配慮から許さなかったと言われる。
 シハヌークは幽閉状態に置かれたまましばらく消息不明となるが(ポル=ポト時代はカンボジア国内自体が消息不明状態だった)、1978年12月にベトナム軍がカンボジアに侵攻し、翌年1月に首都プノンペンが陥落すると、ベトナム非難の声を国際社会に訴えるという役割を帯びてカンボジアからまたも亡命する。その後のカンボジアはベトナム側が樹立したヘン=サムリン政権とポル=ポト派・ソン=サン派、そしてシアヌーク派の三派連合との内戦が続くことになる。

 ベトナム軍がカンボジアから撤退したのはようやく1989年のこと。1992年から国連が平和維持活動を開始し、1993年の総選挙でシハヌークの次男ラナリットを首相とする政権が発足、シハヌークは再びカンボジア国王の地位に返り咲いた。ただこのころからすでに体調を悪くしており、北京の病院に長期入院を繰り返していたためなんだかまだ亡命生活を続けているような観もあった。結局2004年11月に正式に退位、王子のノロドム=シハモニに王位を譲った。そしてつい先日、国内にいるより長くいたんじゃないかと思える北京の病院でこの世を去ったのである。これまでの歴史的いきさつから中国や北朝鮮では外国の国王に対するものとしては格別の扱いを受けてその死を悼まれている。
 波乱に富んでいるのは確かだが、状況に応じて巧みにあっちについたりこっちについたり、あるいはかつがれたりしつつ、なんだかんだで最後には安定した地位を得てベッドの上で長寿の大往生が出来たんだから、この手の王様としては幸運、というかなかなかしたたかな人生だったのではないかと思う。
 なお、シハヌークは国王に二度即位したほか、国家元首やら首相やら、亡命政権の首班やらになったため、「世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家」とギネスブック認定されてるそうな。僕もこの人の名前を初めて意識したころから、長いこと「シアヌーク殿下」とばかり呼ばれていたため、「殿下」という肩書があるのかいな、などと思っていたものだが、その最期の肩書は「前国王」(昔の日本なら「上皇」ですな)だったというわけである。


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 11月13日、元三菱重工副社長、元三菱自動車社長である東條輝雄氏が東京都内の自宅で死去した。実に98歳の長寿である。名前を見てピンと来た人も多いだろう。この方、あの東條英機元首相の次男なのである。
 生まれは大正3年(1914)9月というから、実に第一次世界大戦が勃発した直後のことである。父の東條英機は陸軍大学校在学中で陸軍エリートの道を進んでいたところだった。英機はその後さまざまな経緯を経て陸軍内統制派の有力者として頭角をあらわし、やがて総理大臣にまでなってしまうのだが、その次男である輝雄氏には技術畑へ進むよう勧めたといい、輝雄氏は東京帝国大学航空学科を1937年に卒業して三菱重工に入社、ここでちょうど開発が始められていた日本の戦闘機中の名機「零戦」の設計に参加して強度計算などを担当することになる。この零戦は父・英機が開戦した太平洋戦争の序盤まで大いに活躍したが、やがてアメリカ側の巻き返しであとは日本軍全体でジリ貧一方のまま、結局1945年8月に敗戦を迎える。東條英機がA級戦犯の筆頭として処刑されたのは1948年12月のことだ。

 戦後の日本ではGHQにより航空機開発そのものが禁止されたため、輝雄氏はしばらく飛行機設計には関われなかった。独立後に国産旅客機開発計画が官民共同で進められ、1959年に「日本航空機製造」が設立されると、輝雄氏は三菱重工からここに出向する形で国産旅客機開発の指揮をとることになる。これによって開発されたのが国産プロペラ旅客機「YS−11」で、その開発に輝雄氏がたずさわっていた事実はあの「プロジェクトX」でも描かれていた。1965年から就航したYS−11はメジャーにこそなれなかったものの今のところ唯一の国産旅客機としてその名も高く、180機ほど作ったところで1973年に生産終了となったが2006年まで現役で使用され、無事故のまま「名機」としてその使命を終えた(まだ一部外国で飛んでるという話もあるが)。航空畑にはよくあることなのだろうが、輝雄氏は軍用機と民間機の両方の名機の開発にたずさわる歴史的技術者となったわけだ。
 その後三菱重工副社長をつとめ、1980年から三菱自動車に転向、1981年から同社社長をつとめた。その後同社の会長、相談役も歴任している。技術面で深く関わったわけではないのだろうが、自動車産業という戦後日本を象徴する分野でも指導的立場にあったということでは、まさに戦中・戦後の一世紀近くにわたる日本工業史を象徴するお人だったと言えそうだ。
 おりしも輝雄氏の古巣・三菱重工では「YS−11」以来の国産旅客機「MRJ」の開発が進められ、間もなくその姿を現そうとしているところで、惜しくもそれを見ることはかなわなかった。
 
 この間、日本の芸能界では長年おなじみの「おじいちゃん俳優」だった大滝秀治が87歳で亡くなり、「お母さん女優」の森光子もとうとう92歳で亡くなるなど、それぞれに「時代」を象徴するような著名人が亡くなっている。また決して長寿でではなかったが最近バリバリに話題作の映画を立てつづけに撮っていたのに突然事故死した映画監督の若松孝二、毎年のことだが、年の瀬が迫って来ると「今年もいろんな人が亡くなったなぁ」と思いを馳せてしまうものだ。



◆神も仏もあるものか

 このサボり期間中に世界を騒がせた話題に「ムハンマド侮辱映画」がある。アメリカ在住のコプト教徒(エジプトのキリスト教一派)が製作、アメリカでごく短期間上映されたのちにYoutubeにアップされ、あのコーランを燃やすパフォーマンスで有名な牧師も賛同者として関わっていたりしたもので世界のイスラム諸国で抗議デモ(というより実質反米デモになっていた)が起こり、リビアではアメリカ大使館が襲撃され、アメリカの駐リビア大使が殺害されるという異例の事態にまで発展していた。同時期に日本では中国の尖閣騒動ばかりに注目が集まっていたが、直接的に人が死んでないだけイスラム圏の抗議行動に比べればまだおとなしいもんじゃないか、などと僕は思っていたものである。
 この映画の製作者、金融関係の詐欺容疑で服役しており、今も5年間の保護観察中。その期間中に偽名を使って免許をとるなど違反行為があったとして11月に入って再収監されることとなった。まったく大変なお騒がせ男であるが、それに応じて単純にヒートアップする方も相手の思うつぼにハマっちゃってるという気もする。

 さて「史点」には珍しい情報源、映画情報サイトの「シネマトゥデイ」の記事から。ジョン=レノンの名曲「イマジン」が、イギリスの一部の葬儀場の判断で葬儀のBGMに流すことが禁じられていたことがイギリス最大手の葬儀社の調査で明らかになったという。
 「イマジン」といえば音楽には疎い僕でも知ってるポピュラーな曲で、上の記事のカンボジアの深刻な状況を描いた映画「キリング・フィールド」や日本映画「スパイ・ゾルゲ」のラストシーンでも印象的に流されている。その平和主義的・理想主義的な内容が好んで流される理由だろうが、一方で「国家がないと想像してごらん」などといった歌詞がしばしば批判の対象にされる曲でもある。
 「イマジン」が葬儀にふさわしくないと判断された理由は見出しでおおむね見当がついた。冒頭にある「天国なんて存在しないと想像してごらん(Imagine there’s no Heaven)」というズバリの歌詞が宗教的にひっかかる、ということなのだ。歌の趣旨としては天国もなく地獄もなく、国家もないという状態を想像してごらん、そんなもののために対立したり戦争したりするのがバカバカしくなるから、というものであって積極的に存在を否定してるわけでもなさそうなのだが、宗教関係者はムッとくるところではあるだろう。もちろんあくまで一部の葬儀場が決めたことであり、こんなことが決められるのも実際にはこの曲を葬儀で流したがる人が多いためではないかとも思える(レノンがああいう死に方をしているためか、なんとなくあの曲には「葬式」にイメージがかぶる気が僕もしちゃっている)


 更新が遅れているうちにすっかり旧聞に属するニュースになってしまったが、かのアインシュタイン「神とは人間の弱さの産物」と記した手紙がオークションにかけられ話題となった。
 その手紙というのは、アインシュタインが亡くなる前年の1954年にユダヤ人哲学者エリック=グートキンドの著書に対する反論として書かれたもの。グートキンドの方が何を書いたのかは知らないが、神の実在性や聖書の内容を肯定的にとらえるものだったらしく、アインシュタインはそれに対して「私とって神という単語は、人間の弱さの表現と産物以外の何物でもない。聖書は尊敬すべきコレクションだが、やはり原始的な伝説にすぎない」(CNN日本語版より)と明確に書いているという。唯物的な考え方では、なまじ知性が発達していた人類はこの世界がなぜ存在しているのか、あるいは生とは何か、死とは何かといった説明のつかないことを考える際に「神」という超越した存在(それでいてふるまいは人間くさいが)を設定して一応の説明を済ませ、それで心の安心を得ていたということになり、アインシュタインもまたそう考えていたことがこの文章からうかがえる。欧米の科学者にはキリスト教の信仰と科学的事実の追及を両立させている人も多いそうだが、アインシュタインは少なくとも晩年にはかなり唯物的な考え方を持っていたことになる。
 またグートキンド同様にアインシュタインもユダヤ系だが、「旧約聖書」にもとづいてユダヤ人がもつと言われる「選民思想」についても「ユダヤ教は、ほかのすべての宗教と同様に、最も子どもじみた迷信を体現したものだ。私もユダヤ人の1人であり、その精神には深い親近感を覚えるが、ユダヤ人はほかの全ての人々と本質的に異なるところはない。私の経験した限り、ほかの人間より優れているということもなく、『選ばれた』側面は見当たらない」(同じくCNN日本語版より)とアインシュタインはこの手紙の中で明快に否定した。
 こうした内容は欧米(とくにアメリカじゃないかな)ではやはり物議を醸してしまうもののようで、2008年にこの手紙がオークションにかけられた際にも科学と宗教をめぐる論争を巻き起こしたとのこと。今度のオークションはどういう経緯で行われることになったのか知らないが、今のところ落札されたという情報も聞こえてこない。この手紙のオークションを扱うイーベイでは開始価格を300万ドル(約2億4000万年)としているそうだが…


 人に心の平安をもたらすために作りだされた神や仏であり宗教だと思うのだが、「イマジン」でも言ってるように宗教を一つの動機として起こる紛争はあとを絶たない。ちかごろ民主化が進んで急に欧米的にもの分かりがよくなった観のあるミャンマーだが、この国で仏教徒とイスラム教徒の深刻な紛争のニュースが報じられている。
 ミャンマーと言えばかなり熱心な仏教(上座部仏教)国として知られているが、国内には少数ながらイスラム教徒も存在する。西部ラカイン州には「ロヒンギャ族」と呼ばれる隣のインド方面から移って来たイスラム教徒の少数民族がいて(イギリス統治時代の政策的移住との話も聞く)、周囲の仏教徒との軋轢がこれまでにもあった。今年の6月にも大きな衝突があって80名以上が死亡、2千軒もの家が焼かれたとされ、さらに10月後半に入ってから衝突が発生、双方に死者が出たり家が焼かれたりして数万もの難民も発生しているという。
 どこでもそういう傾向があるが、軍事政権時代からミャンマーでは各少数民族が何かと弾圧を受けており、ロヒンギャ族の場合はそこに他地域からの移住者であることとイスラム信仰がからむためよけいにややこしくなってるらしい。かつてのソ連ものように「民主化」が進むとそれまでおさえつけられてきた民族対立が火を噴いた、ということかもしれない。イスラム諸国で作る「イスラム協力機構」はもちろんのこと、国連も少数派であるロヒンギャ族の立場に配慮するようミャンマー政府に圧力をかけているが、テイン=セイン大統領はロヒンギャ族を「不法移民」と位置付けて国際社会の介入をいやがっているようだし、首都ヤンゴンなど各都市では数千人の僧侶(もちろん仏教)が国連の姿勢がイスラム寄りだとして抗議デモを行っているというから、比較的おとなしい印象のある仏教徒も強い立場に立つとやはり抑圧者の性格を見せてしまうということだ。


 9月18日にイタリアのローマで開かれたある学会で、アメリカのハーバード大学神学校のカレン=キング教授がコプト語(上の話題でも出てきたエジプト独自のキリスト教徒の言葉)で書かれた古いパピルス紙片(3.8cm× 7.6cm)に「キリストは彼らに言った。“我が妻が…”」という文言が書かれていたことを発表、キリスト教世界ではかなりの騒ぎとなった。イエスが結婚していたという話は聖書の正典にはいっさい出てこず、保守的なキリスト教徒、とくにカトリック教徒の中ではイエスが独身であったことは母親のマリアの処女懐胎なみに重大事であるらしく、バチカンの日刊紙が即座に「下手な偽造だ」と批判する記事を出すなど波紋が広がった。以前映画化もされ話題となった「ダ・ヴィンチ・コード」でもキリストが結婚していてその子孫がいるというネタがとりあげられていて、カトリック教会の反発を買ったこともある。

 問題の紙片だが、収集家が骨董市で入手して昨年にハーバード大学に持ちこまれたものだという。キング教授の判断では紙片はパピルス紙に間違いなく、2世紀から4世紀に書かれたもので、書物の一部である可能性もあるという。もちろんキング教授も言っているが、それが実際にその時代に書かれたものだからといってイエスに妻がいたという証拠にはならず、イエスが生きた時代から数世紀後に「そういう話があった」ということにしかならない。だが初期キリスト教のある一派の文献としては存在しながら聖書の正典には認定されなかった「外典」の中にイエスが結婚していたとする説があったということは十分ありうることだ。聖書正典にイエスが結婚していたとは書かれていないが、結婚していなかったとも書かれていないわけだし。
 ただやはりこの紙片には史料的にみて危なっかしさも多々ある。まず発見の経緯が発掘によるものではなく骨董市で売られていたという点。ニセモノ史料発生のパターンともいえ、パピルス紙が本物であるとしてもそこに文を書いたのは現代人であるかもしれない(日本でもニセ古文書が江戸時代の古紙を使って製作される例がある)。実際に字体から偽造を疑う声や、外典のひとつ「トマスによる福音書」を切り貼りした偽造とする論文も発表されている。それとは別に、この紙片が実際に古い時代のものだとしても、「妻」という言葉が実際に結婚している妻を指すのではなく単に女性信徒を象徴的に指す言葉ではないか、との説も出ていた。
  

 ところでそのイエスが十字架に架けられ処刑されたとされるエルサレムの「ゴルゴタの丘」の跡地には「聖墳墓教会」がある。ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス帝の命令により建立されたのが336年というえらく古いもので、その後の東ローマ帝国、イスラム帝国、十字軍、オスマン帝国、そして現在のイスラエルにいたるまで長い歴史を経て建物も時代時代で建て増しされ、教会内にギリシャ正教、カトリック、アルメニア正教、エチオピア・コプト教会、シリア教会の五つの宗派がそれぞれ縄張りを作って管理するという、キリスト教の歴史そのものの縮図みたいな「聖蹟」となっている。この「聖墳墓教会」がなんと水道料金の取り立てにあって大モメにモメているというのだ。
 聖墳墓教会(一応代表はギリシャ正教会ということになるそうで)がイスラエルの水道会社から請求されている料金は約900万シェクル(およそ1億8500万円!)という莫大なもの。なんでもこの水道会社自体が1990年代に設立されたもので、それ以来の未納分の累計ということになるらしいのだが、その請求自体がつい最近になって始まったものだとして教会側は断固拒否。すると水道会社側がギリシャ正教会の銀行口座を凍結させるという強硬手段に出たため、聖墳墓教会は「聖憤怒教会」と化し(笑)、「請求に抗議して教会の閉鎖も検討」と表明する事態となっている。なんか一昔前の京都の神社仏閣の拝観停止騒動を思い起こしますな。

 ところで教会側の主張によると、1967年にイスラエルがエルサレム旧市街を占領した際、当時のイスラエル側の市長と教会との間で「水道料金免除」の約束があったという。それどころか、「そもそもオスマン帝国時代に水道料金は免除されていた」との主張もあるそうだ(いつ水道が通ったのか分からないけど)。その慣例が現代社会で友好になるのかどうかは微妙なところだが…日本では富士山山頂を浅間神社が「私有」することの根拠に徳川家康のお墨付きが採用されたこともあったっけ。
 場所が場所だけに、神様に祈りながら杖で地面を叩いたら水が湧いてきたりするんじゃないでしょうか(笑)。

 
 その「ゴルゴタの丘」が名前の由来とも言われるのがデューク東郷ことゴルゴ13。相変わらず正体不明なこの人、近ごろでは年齢設定も曖昧になってしまっているが、過去に彼のルーツをにおわせるエピソードがいくつか描かれていて、しばしば「ユダヤ系混血説」が取り上げられてきた。あるエピソードでゴルゴ13はイスラエル在住のユダヤ人になりすまさなければならなくなり、イスラエルのユダヤ人男性ならほぼ確実にしているという「割礼」の跡をつけなくちゃ、という話になったことがある(どうしてそこまでしなくちゃいけないかについては大人向けの話題なので割礼、もとい割愛)。しかしゴルゴにはもともと割礼痕があった?と思える描写にもなっていて、ゴルゴ=ユダヤ系説の一つの根拠にもなっている。あの本能的なまでに用心深いゴルゴの体の一部を切り取るなんて、赤ん坊のころしかできないと思うんだよね(笑)。
 ここでいう「割礼」とは、男児の性器の包皮を切り取るもので、施す時期に差異はあるが、ユダヤ教徒、イスラム教徒の多くにこの習慣が残されている。どうしてこんな習慣が始まったのか分からないが(古代における衛生上の理由との説がある)、古代エジプトにすでにその習慣があったといい、ユダヤ教・イスラム教に限らず世界的に広く見られる習慣でもある。割礼は昔から医師もしくは理髪師(医師の兼業が多かった。赤と青のポールサインはその名残、なんて話もある)、あるいは聖職者などで技術を持っている人がやったそうだが、今でもそれはおおむね変わっていないらしい。
 
 今年5月、ドイツのケルン州の地裁で一つの判決が下された。同州で割礼を受けた男児が大量出血した事件について、これが幼児に対する虐待、「傷害罪」にあたると判断されたのだ。最近欧米で強く主張される幼児の権利保護の観点からの割礼反対の声に応じたものとも見えるが、この判決にユダヤ教徒・イスラム教徒が大反発。パレスチナ問題では対立の激しい両者だがこの件については一致団結して合同でデモ活動まで行っている。
 結局ドイツ法務省はこうした反発に応えるため、「両親の同意があり、医学的な規則にのっとっている限りは割礼は違法ではない」とする指針を示した。またユダヤ教徒は割礼を医師以外の者が行うケースが多いらしく、「医師と同様の技術を持っている場合は施術してよし」との条項も付け、実質宗教的割礼については「合法化」の措置をとることになった。この措置についても子どもの権利保護を主張する団体からは子どもの自己決定権上問題があるといった声もあがっているそうだが、こと宗教についてはだいたい幼児期に親や周囲から刷り込まれるものだしなぁ…。



◆発見発見また発見

 ここでもサボり期間中の発見ネタを総まとめ。

 9月26日にアメリカの学術誌にドイツ・オーストリアの研究チームが興味深い鑑定結果を発表した。1930年代にナチスのSS(親衛隊)の隊長ヒムラーの命令を受けた調査隊がチベットから持ち帰った1000年以上前の彫刻が、実は「隕石」でできていた、というのである。素材が隕石というのも驚きではあるが、ナチスがわざわざそんなところを調査し、彫刻を持ちかえっていたという話の方にも驚かされる。
 この彫刻、ヒンドゥー教の神か仏教の毘沙門天(これだってもともとインドの神様が仏教にとりこまれたもの)をモチーフにしたものらしく、その胸にはインドにおいて吉祥とされた「卍」マークが入っていた。「卍」といえば逆まわしにするとナチスが象徴とした「鉤十字(ハーケンクロイツ)」になり、それが調査隊の目を引いたのでは、との話も出ている。そもそもこの調査隊もナチスによる「アーリア民族」の起源探索が目的であったという。あっちこっちの報道でさんざん書かれていたが、「インディ・ジョーンズ」みたいなことを実際にやっていたわけである(というか、そもそもその手の話があったから、それを元ネタに「インディ」を作ったんだよな)
 この彫刻、「アイアンマン(鉄の男)」の呼び名を持っていて、2007年に成分検査をしたところニッケルを多く含む鉄隕石と判明したという。さらに分析を進めると、この彫刻の素材は1万5000年前にシベリア・モンゴル国境付近に落ち、1913年に発見された「チンガ―隕石」の一部であると断定されたとのこと。隕石は実際に天から降って来るものだから神聖視される例が多く、日本でも神社に祭られたり隕鉄から剣が作られたし、イスラム教の聖地メッカのカーバ神殿に神の代理として安置されている「黒石」もアラビアに落ちた隕石ではないかと推測されている。1万5000年となるとあまりにも昔の話なので隕石と知った上で素材にしたかどうかは分からないが、なにか神秘性を帯びた石だという認識はあったのかもしれない。


 10月11日にAFP通信などが報じたところによると、スペインの国立科学研究高等会議の考古学チームがカエサルの暗殺現場の特定に成功、と発表したという。カエサルとはもちろん、英語で「シーザー」となり、ローマ帝国の実質的建国者でローマ帝国歴代皇帝の称号ともなったあの人。ドイツ語の「カイザー」やロシア語の「ツァーリ」など皇帝を意味する言葉の語源となったあの人だ。カエサルが暗殺されたのは紀元前44年の3月15日、現場は当時元老院議事堂として使われていたポンペイウス劇場の一部の建物に向かう途中のポンペイウス回廊であったと伝えられる。
 ポンペイウス劇場の跡地はローマ市内中心部の遺跡エリア「トッレ・アルゼンティーナ広場」にある。考古学チームが歴史文献や考古学的データとを照らし合わせつつここを調査したところ、幅3m・高さ2mの構造物を発見した。考古学チームはこれはカエサルの養子でローマ帝国初代皇帝となったアウグストゥス帝が即位後に養父の功績をたたえて建立したものと見ていて、この構造物が建てられた場所こそが「カエサル暗殺現場」であると断定している。さらに現場の検証からカエサル暗殺現場は元老院の議場そのものであり、カエサルは元老院議場の椅子に座っているところを刺されたのだとまで断言していた。どうしてそこまで断言できるのかは分からないが、これまで伝えられていたものと少々異なっていることにはなる。もっともあくまで刺された場所であって息を引き取った場所とは限らない、とも言ってたが、こればっかりはちゃんと掘ってみて「カエサルここに刺される」なんて書かれているとか、そこまで確認してみないといけないんじゃないかと。

 
 現在大関となっているブルガリア出身の力士に琴欧洲がいるが、彼が登場してきたとき「東のはずれのブルガリアあたりでヨーロッパを代表されては、他の国から文句が出ないか」などと思ったものだ。だがその後EUからEUの旗をあしらった化粧まわしが贈られたところを見るとあちらでも「欧州代表」というお墨付きを得ているらしい(笑)。なお、EU加盟国に絞るとエストニアの把瑠都、チェコの隆の山、ハンガリーの舛東欧がいる(これも「ハンガリーが東欧代表かよ!」との声が出やしないか)。ホント、最近の大相撲は「元東側諸国場所」みたいだ。
 「ブルガリア」の国名は大昔にこの地にアジアからやってきたトルコ系の遊牧民「ブルガール人」に由来する。ブルガール人は圧倒的多数のスラブ系と混血したため現在のブルガリア住民はほとんどスラブ系といっていい状態だが、かつてオスマン帝国時代に入って来たトルコ系住民(ブルガール人のことを考えると2度目のトルコ人)も10%弱存在する。かつて冷戦時代にはブルガリアのトルコ系レスリング選手が亡命するというパターンがよくあったものだ。そんな歴史的経緯もあるのでブルガリアというとどうしてもヨーロッパのはずれのイメージが強かったのだが、このたびブルガリア国内で「ヨーロッパ最古の町」の遺跡が発見されたとのニュースがあってちょっと驚いた。

 ブルガリア東部のプロバディア近郊では2005年から遺跡の発掘調査が進められていて、防護壁をめぐらした町、2階建ての建物、集団墓地などが発見されていたが、このたび放射性炭素年代測定で紀元前4700〜4300年ごろ、つまり今から6000年以上前の「都市遺跡」であることが判明したというのだ(推定人口は350人程度らしい)。この年代での「都市」はヨーロッパでも最古、世界的に見てもかなり古いレベルのものとなる。なお「世界最古の都市」とされる遺跡群はパレスチナや現在内戦状態のシリアに多く、シリアの首都ダマスカスなんかは10000年前にはもう町になっていたとの話がある。ヨーロッパの文明というとまずブルガリアの隣国のギリシャが思い浮かぶが、ギリシャ最古のエーゲ文明が今から5000年ほど前だからそれより1000年以上は古いことになる。
 興味深いのはこのブルガリアの都市遺跡からは塩の生産施設が見つかっている、ということ。この地方では岩塩のほか塩水がわく泉もあるそうで、古代では貴重だった塩の生産・交易で栄えたのではないかと推測されている。琴欧洲が取組前に土俵に塩をまくのもこれに由来するとの説があるわけがない(爆)。


 上記のように世界最古の都市や集落の遺跡はパレスチナ方面で見つかることが多いのだが、11月8日にイスラエル考古学庁が、同国北部のガリラヤ地方のエズレル渓谷で「8500年前の井戸」が発掘されたと発表している。それだけでも結構驚きだが、その井戸の中から「19歳ほどの若い女性」「高齢の男性」の人骨が出た、というから話は一気にミステリーなムードになってしまった。個の組み合わせだと恋人同士の心中ではなかろうし、おじいさんと孫娘なのか、あるいは若い娘に老いらくの恋を覚えてしまったジイサンが…とかいろんなドラマが想像されてしまうが、とにかくこの二人がどうしてこんなところで死んでいるのかは全くの謎。人骨のほかにも井戸からは石器も多く出たというから、もしかすると二人を投げ込んでの殺人事件なのかなぁ、とも思えてしまう。
 ところで8500年前となると新石器時代。この地方では陶器はまだなく、金属も知られていないので、井戸からどうやって水をくみ上げたのかが問題になる(恐らく何らかの袋なんだろうけど…)。そんなわけでイスラエル考古学庁はこの井戸が世界の先史時代研究においても重要な意味を持つと注目しているそうである。


 時代はぐっと下がって、イギリスで第二次大戦中のあるものが「発見」されて話題を呼んだ。サリー州ブレッチングリーに住むデビッド=マーチンさん(74)が自宅の改築のために暖炉を壊そうとしたところ、煙突内部からハトの骨が発見され、さらにそのハトの足の骨には小さな赤いカプセルがくくりつけられていた。カプセルの中にはアルファベット27文字で書かれた暗号文が見つかり、足輪からこのハトが1940年生まれのイギリスの「軍鳩(ぐんきゅう)」であることが確認された。発見者の家主より2歳年上だったわけである(笑)。
 ハトが元の巣に戻る習性を利用して通信を送る「伝書バト」は、なんとメソポタミアやエジプトなど古代文明でも利用されていたほど歴史が古く、数百キロの遠距離でもかなりの確率の速度で通信伝達ができたため、1960年代まで新聞社や軍により利用され続けていた。さすがにその後は通信手段が急速に発展したので伝書バトの需要はほどんどないらしいが、「銀河英雄伝説」で軍事通信傍受の危険が少ないためか、はるか未来の宇宙の戦場(もちろん惑星上)でも一部利用されているというセリフが出てきたような(笑)。

 ハトが持っていた暗号文は「W・Stot」なるイギリス空軍所属の軍曹が差出人で、宛先は「XO2」となっていて、これは爆弾司令部のことであるという。暗号の中身についてはこれから解読するそうだが、恐らく1944年6月の「ノルマンディー上陸作戦」で連合国軍がドイツ占領下のフランスに上陸した際に送られたもので、ドイツ軍の拠点の爆撃を求める暗号なのではと推測されているという。伝書バトが目的地につかずに行方不明になることはままあるもので、このため同じ内容の通信を複数のハトにつけて放つものらしいが、このハトも目的地に着く前に疲れて煙突に入ったか落っこちたかかしてそのままお亡くなりになってしまったものと思われる。「ハトは死んでも暗号を離しませんでした」とか後世の修身教科書に書かれちゃったりするのだろうか(笑)。
 ノルマンディー上陸作戦を描いた映画「史上最大の作戦(TheLongest Day)」では従軍取材をしている通信社の記者が上陸直後に第一報を持たせて伝書バトを飛ばすが、ハトがドイツ軍側に飛んで行ってしまって「裏切り者!」とののしる場面があったっけ。


 日本の滋賀県大津市にある園城寺(通称三井寺)といえば、南北朝時代にしばしば戦場となった寺である。この寺は平安時代以来比叡山延暦寺と確執があり、後醍醐天皇側が比叡山を頼ると、それに対抗して足利尊氏ら武家方が園城寺に協力を求めてここに拠点を置いたりしたためだ。この時代には寺が軍事要塞のように利用されるケースが目につくが、とくに園城寺における攻防戦の『太平記』における描写はこれがほとんど寺ではなく城だと思わせるほどのものだ。こうした貢献にこたえて足利氏、室町幕府は園城寺に厚い保護を与え、尊氏自身もこの寺の新羅善神堂を再興するなど、関わりが深かった。
 その園城寺に所蔵されていた地蔵菩薩像をエックス線撮影してみたところ、頭部のなかに折りたたんだ和紙が納められていることが確認された。この地蔵菩薩は1350〜1370年頃に製作されたとみられ、首の付け根部分に布が漆で貼り付けられていたことから「頭部に何か収納されているのでは」と見られていたので、このたびエックス線撮影で確認してみたわけである。はたして折りたたまれた和紙が入っていたわけだが、調査した大津市歴史博物館ではこの和紙の中にある人物の頭髪が入っていると見ている。そのある人物とは足利尊氏、あるいはその息子で二代将軍の足利義詮ではないか、というのだ。
 その根拠として、園城寺の文書群の中に足利義満時代の管領・細川頼之が1368年に同寺に送った書状の記事が挙げられている。そのなかで頼之は「源頼朝や足利尊氏の先例にならって、義詮の遺髪を納めた地蔵菩薩像を園城寺に奉納した」という趣旨のことを書いているというのだ。足利義詮は1367年の末に亡くなり、幼い義満が跡を継いで頼之が親代わりとなってその補佐をしていたから、頼之が義詮の供養のためにそうした措置をとったのだろう(この辺の時代をお知りになりたい方は、当サイト「室町太平記」を読もう!(笑))。じゃあ義詮の遺髪で決まりじゃないか、となりそうだが、頼之の書状にもあるように「尊氏の先例」があるわけで、1359年に没した尊氏の遺髪を納めたものという可能性もあるわけだ。どちらの遺髪なのか確認できるものなのかどうか…紙にくるまれた髪だけに神のみぞ知る、というところだろうか。



◆世界の政界から
 
 今年は世界的な選挙イヤー。すでに済んだ台湾、ロシア、フランスの大統領選(中国語じゃ大統領も「総統」なので)のほか、このサボり期間中にアメリカの大統領選が行われ、さらに12月には韓国大統領選も控えている。そんなこんなのうちに日本でも衆議院が解散され年末総選挙となってしまった。

 さてアメリカの大統領選挙は接戦と言えば接戦だったが、終わってみればいわゆる「激戦州」をオバマ大統領が全て制し、形の上では圧勝で再選された。ラスト三ヶ月くらいで共和党のロムニー候補が急激に追い上げた感もあり、一時はひっくり返ったか、と思わせる時もあったが、終わってみればこんなものである。
 「史劇的伝言板」の方でも書いたが、毎年のように「日本人の知らない○○」といった国際情勢本を書いてテレビの報道特番でもおなじみの日高義樹氏は選挙直前に「ロムニー大統領で日米新時代へ」と題する本を書いて一冊まるごとオバマ批判を展開、「再選されるには任期内に大きな功績を挙げることが必要」と論じて「天変地異でも起こらぬ限りロムニー勝利」とその末尾で断言してしまっていた。まぁ選挙直前のハリケーン「サンディー」襲来への対応がポイントを稼いだとの話もあるから、日高氏も「天変地異のせいだ」と言い訳することも可能だろうが、前回の大統領選でも「黒人が大統領になるなんてあと三十年はない」と書いた直後にオバマ当選という前科もある。要は個人の願望と分析をごっちゃにして妙な断言をしなきゃいいのだろうが、それじゃあこういう人たち、商売あがったりなんだよな。ついでながら年末恒例の長谷川慶太郎氏の「大局を読む」シリーズ最新作もロムニー勝利と予測しており、いきなり大局を読み間違えた。まぁこのシリーズもバブル崩壊以来毎年のように「来年は景気が良くなる」と書き続けて平気な顔してるんだから…ま、ビジネス本なんてのは大半がそんなもんである。

 ところで結果的にオバマ勝利となったわけだけど、ひところ騒がれた草の根保守団体「ティーパーティー(茶会)」は大統領選に関していれば当初言われていたほどの影響力は行使できなかった。そもそも共和党候補を選ぶ段階でウルトラ保守な候補を押してロムニーなんかは眼中になかったようで、大統領選の常で結局極端な論者は排除されて中庸な候補が選ばれることになってしまうと、その後は大統領選よりも連邦議会の選挙の方に力を入れていたらしい。結局議会の方は日本同様「ねじれ」な状態のままなので、ある程度の影響力はあったのかもしれないが、事前に騒がれたほどでもなかった。気の早い人の中にはアメリカの「伝統的保守」じたいの衰退を論じる声も出てるが、そうなったらなったで原理主義的な過激な方向も出てくるかもしれないなぁ。


 中国では五年に一度の共産党大会が開かれて、10年におよぶ胡錦涛体制が終わり、次世代の習近平体制が発足することになった(今回のはあくまで共産党の人事なので、公式の政権としての発足は来年)。胡錦涛もそうだったが習近平もいつの間にやら数年前には「次期主席」の地位が確実視されるようになっており、江沢民→胡錦涛→習近平と表立った波風もなく予定通りに禅譲というか代替わりが三代続いたことになる。三人とも時期トップの地位が確実視されるまでは特に目立たないキャラであり(最近の指導部の連中の没個性ぶりは中国でも漫画のネタにされたりしている)、政権移行後に前任者(江沢民の場合はケ小平で主席ではなかったが)が「院政」を敷くんじゃないかと噂されたり急速に権力を失って政治混乱が起こるんじゃないかとかいろいろ言われつつ結局表面的に目立った波乱はないという共通点がある。

 この辺も上記のアメリカの話と一緒でいわゆる「中国ウォッチャー」なんて自称してる連中の大半はアテにならない。今回も直前まで「呼錦涛院政」の線で記事を書いてたくせにその翌日に「完全引退」が発表されると江沢民派との闘争がなんとやらという筋書きを急に仕立ててその背景を初めから知ってたような調子で説明した新聞もあったし。長老支配がどうしたとか「太子党」と「共青団出身者」の対立がなんとやらいう話もなんだか「小説吉田学校」の党人派・官僚出身者の自民党内派閥闘争の説明みたいで、「院政」をやたらに言いたてることも含めて日本の政治記者が自国の政治パターンをもとに「見立て」をしてるようにも思えちゃうんだよな。


 さてその日本の政界の方だが、結局衆議院が解散され、12月16日に総選挙、ということになった。現状では民主党が政権維持することは普通に考えれば難しく、自民党が政権復帰しそうだと見られている。そうだとすれば僕が政権交代時に思ったよりは早い政権復帰ということにはなるので、政治情勢の予想がつきにくいのは誰だって同じ、ということにはなるのだけど。
 それにしても気の毒なのは政権から転落したらピンチヒッターというかとりあえずの看板として自民党総裁に立てられ、政権復帰できそうになったらアッサリ引きずりおろされ、たちまち存在感が消えてしまった谷垣禎一前総裁である。過去にも自民党総裁になりながら首相になれなかった先例としては河野洋平がいるけど、彼の場合一応社会党と連立して政権復帰し、副総理にはなれたからなぁ。

 そしてそれと入れ替わりに総裁となった、というより返り咲いてしまったのが安倍晋三元首相。思えばこのところの毎年首相が交代するパターンはこの人から始まったわけで、かつて自身が言ってた「再チャレンジ」そのままにまさかの再登板になってしまった。自民党総裁で一度辞めた人が再登板した前例はなく、このままいくと首相の地位にも返り咲きそうな気配。戦後において一度首相を辞めてから返り咲いた例としては吉田茂のケースがあるが、彼の場合は最初に首相になったときは旧憲法下のことで鳩山一郎が公職追放されたための緊急代打登板という特殊なケースだった。安倍元首相が首相に返り咲くと実に現憲法下では初めての事態になる。
 また自民党総裁選の歴史においても、安倍さんは実に久々のケースを現出した。今回の自民党総裁選では1972年の田中角栄VS福田赳夫以来となる、上位二人による決選投票が行われた。さらに第一回投票では1位:石破茂、2位:安倍晋三だったが、決選投票で結果がひっくり返ってしまい、これは実に1957年に安倍さんの祖父である岸信介が第一回投票ではぶっちぎりの首位をとりながら決戦投票で石橋湛山に逆転負け(わずか7票差)して以来のことだったのだ。今回は祖父とは逆に勝利を得る形になったわけだが、石橋湛山は総理就任後わずか二ヶ月で病に倒れて退陣、岸が総理の座につく展開になっている。不気味な符合を言えば、今回岸の孫に負けたのは「イシバシ(氏)」だったりするのである(笑)。なんか安倍さんの顔色や妙にハイテンションなしゃべりっぷりを見ていると、もしかして祖父の場合と立場が逆で同じパターンになったりするんじゃなかろうか…などと思っちゃうのだ。

 民主党からはこのままじゃ生き残れないと見て離党者が相次ぎ、他党に移籍したり新党を作ったりしているが、これも麻生太郎政権末期の自民党とよく似たパターンになっている。安倍さんが相手だからということもあってだろう、「世襲批判」を持ちだして鳩山由紀夫元首相をはじめ自党内の世襲組が出馬断念に追い込まれている。まぁ考えてみれば野田佳彦首相のような松下政経塾出身者は本来自民党に入りたかったけどかつての幕藩体制を思わせる選挙区世襲や官僚出身組に阻まれて民主党に行くしかなかった人たちなので、ここでそれを持ち出すのも一つの方法ではあるだろう。自民党総裁選出馬者は全員二世・三世議員だったし、当初候補者世襲を抑え込む方針だった自民党も結局なし崩しになっていて、まさに「太子党」。読売の記事でも出ていたが、一応県連で候補者選考が行われるのだが結果的に世襲候補が選ばれ「最適候補者がたまたま議員の息子だった」という論法が本当に使われてたりする。中には開き直って「世襲議員は幼児から帝王教育を受ける」なんて言ってる貴族制度の頭そのまんまの人もいるようだし。それじゃあ北朝鮮のトップとおんなじだよなぁ。なまじ選挙とか民主主義的手続きをとってるだけに始末が悪いという見方もできる。

 石原慎太郎前都知事が新党を立ち上げたのも、何を今さら、という感じなんだが、前回の都知事選でも前言撤回して出馬したら結局圧勝しちゃうんだから、影響力が一定程度あるのは確か。こういうタイプはどんなにヘマしようとコケようと騒ぎを起こそうと票を入れちゃう人が驚くほどいるんだから困ったもので。思えばちょうど同じ年に終わった「踊る大捜査線」の主人公は「都知事と同じ名前の青島です」がドラマでの決め台詞だったっけ。偶然ながら石原都政と同じくらいの期間続いていたってことですな。
 「石原新党」なんてなんだかんだでここ十数年取りざたされていたのだが、まさか80過ぎてからホントにやるとは思わなかった(中国指導部ですら67歳定年制なのにねぇ)。その名前がどうなるかだけ注目してて、実は「太陽の党」という党名は僕も予想の一つに挙げていた(以前「太陽党」という短命政党はあったのでちょっとは変えると思ったけど)。しかしまさか一週間もしないうちに解党して橋下徹大阪市長の「日本維新の会」に合流しちゃうとは予想しなかったなぁ。大阪の政党と合流するからいっそ「太陽の塔」にしてしまえ、などと言っていたが、結局「維新」の看板に担ぎ出された形。そしてこの合流により「維新」は脱原発やら企業団体献金禁止やらの原則をコロコロと撤回、まぁそんなもんだということか。
 個人的には嫌いだがさすがに気の毒になってしまったのが「減税日本」代表の河村たかし名古屋市長。発足直後の「太陽の塔」と合流を発表し、記者会見で石原さんと仲良く南京事件論議をぶちあげて意気投合していたと思ったら、その翌日には「太陽」と「維新」が合体して「減税」はあっさり合流を反故にされてしまった。まぁ「減税」なんて文字を党名につけるのは僕も「アホか」と思ったクチだが、それにしてもわずか一日で見捨てられたのは気の毒。石原さん、前回の都知事選でもこういう裏切りをアッサリやってるんでそういう人なんだとは分かってるけど。橋下さんもこんな御神輿をかつがないといけないのか。
 その石原さんを以前御神輿に担ぎ出そうとして結局空振りになった亀井静香も民主党を離党した山田正彦と組んで新党を立ち上げると発表したが、その名前が「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党」だったのには大爆笑。「みんなの党」「たちあがれ日本」あたりから政党名のなんでもアリ化が始まり、「減税日本」「国民の生活が第一」でさらに進行してきたところへ、このギネスブックに載るんじゃないかと思えるほどの長文党名はもはや政党名崩壊の領域のような(いしいひさいちの漫画で「市政を電気釜する会」の候補者が当選しちゃうというのを思い起こした)。しかし残念ながら(?)報道によると新党結成に必要な議員数5人を確保できなかったため新党立ち上げは「当面見送り」というお粗末なことになってしまったようである。仲間が少しは来ると思ってたんだろうなぁ、たぶん。政党名みてやめた可能性もあるな(笑)。

 とまぁ、そんなわけで12月16日の「師走総選挙」に向けてセンセイたちが走り出してさまざまな悲喜劇が展開されている。こういう日本の政情を見て「この大事な時にこの国の政治は…」などと知ったような顔で言うTVタレントや街角インタビューをよく見かけるのだが、それこそ「天にツバ」というやつ。歴史をちゃんと調べれば、いつの時代でも日本の政情ってこんなもん。調べれば調べるほど南北朝時代や戦国時代や幕末やらの人々だって実はやってることに大して変わりはないのだが、昔の話になるとなぜか美化部分だけがクローズアップされちゃうんだよね。今日の状況だって百年くらいたつとどう言われてるか分からない。ま、僕自身はこういう状況をまず面白がってるところだ。 


2012/11/21の記事

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