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2013年2月22日

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◆今週の記事

◆退位、退位!

 さる1月28日、オランダのベアトリクス女王が、今年で75歳となるのを機に4月30日に退位すると、国民に向けたテレビ演説で表明した。なんで4月30日なのかといえば、この日がオランダの祝日「女王誕生日」であるため…なのだけど、現女王ベアトリクスさんの誕生日は実は1月31日で、4月30日は彼女の母親である前国王ユリアナの誕生日なのだった。なんで女王誕生日が移動しなかったかと言えば「1月末は寒いから」という現女王の配慮からそのままにしたのだそうな(この辺、日本の「昭和の日」のいきさつに似てる…と思ったら、わずか一日違いですな)
 さらに、この4月30日は前国王ユリアナが長女のベアトリクスに国王位を譲った日でもある。1980年にユリアナは自身が70歳の高齢となり公務に支障が出ることを理由に退位を表明し、結局2004年3月に94歳で亡くなるまで長寿を保ったのだが、今回のベアトリクス女王の退位表明は母親の前例にならったものらしく、やはり高齢による公務の支障を理由に挙げているという。オランダの国王の権限がどれほどのものなのか知らないが、自身の退位くらいは自分で決められるようだ。

 次期国王となるのはベアトリクス女王の長男ウィレム=アレキサンダー王太子(45)。彼が即位すると恐らく「ウィレム4世」ということになるのだが、実はオランダが男の国王をいただくのは実に113年ぶりというからちょっと驚く。その113年前の1890年にウィレム3世が死去し、娘のウィルヘルミナが女王として即位して以来、男の国王がいなかったのだ。
 ウィレム3世には男子が3人もいたのだがいずれも早世してしたためウィルヘルミナが王位を継いだ。ウィルヘルミナは死産・流産を繰り返してようやく一人娘ユリアナを得て、そのユリアナは四人の娘をもうけてその長女がベアトリクス現女王だというわけ。ウィレム=アレキサンダーが生まれるまでオランダ王室は女の子続きだったわけで、このあたりもなんだか日本の皇室を連想させる。もちろん日本の皇室制度は相変わらず儒教的観念(?)から男系維持に執拗にこだわってるわけだけど。


 さて、オランダ女王の退位の話題が「史点」ネタになるなぁ、と思いつつ書くヒマがないまま遅れているうちに、もう一つ「退位」の話題が入って来た。なんとローマ法王(教皇)ベネディクト16世が(85)が退位を表明したのだ。ローマ法王といえば終身制だとばかり思っていたので、本人の意思で「退位」表明ができることに少なからず驚いた。
 実際異例も異例のことで、前例はなんと1415年に退位したグレゴリウス12世という600年も前のお方。これは当時ローマとアヴィニョンに二人の「教皇」が存在して対立する「教会大分裂」が続き、しまいには三人が鼎立する状態になってしまって、それを解消するためにみんないっぺんに退位するという方策がとられた、という事情がある。ちょうど日本では天皇が二人いる南北朝時代をやってたから何かと比較されることがある。そういや保守系のなかで皇室復帰論があるいわゆる「旧宮家」も男系でたどっていくと現皇室との共通の祖先が生きてたのもちょうど600年前の話だった。

 とにかくそれ以来という大変なことなんだけど、これもやはり高齢により公務に支障が出たことを理由に挙げている。しかし歴代の法王たちもそうだったはずで、現法王はなんでまた600年ぶりという大変なことを決断してしまったのか、何か裏事情があるんじゃないかと勘繰りたくもなる(退位表明後に「教会の分裂」への懸念を口にしてるところ、歴史的にも意味深)。就任以来あんまり評判のよくない人でもあったしなぁ。それでも「退位」が報じられると特にカトリック国というわけでもないアメリカやドイツ(法王の母国)の首脳がコメントを発したりするあたり、やはりバチカンは面積は小さくても影響力は多大なのだ。

 ベネディクト16世は2月28日をもって退位するそうだが、次期法王はそれから「コンクラーベ」をやって3月末までに決めるとのこと。ところで長いこと終身制で続けてきた法王だけに、存命の「前法王」をどう呼んだらいいのか問題になったりしないだろうか。いっそ「上皇」と呼んじゃってはいかがだろうか(笑)。日本の天皇は終身制になってて、かつては普通に存在した「上皇」も使われなくなっちゃってるんだし。



リチャード3世の骨確認

 さて続いてはイギリス王室の話。といっても今の王室の話ではなく、15世紀末の「ばら戦争」で戦死したイギリス国王リチャード3世(在位:1483-1485)その人の遺骨が確認された、という話題だ。
 リチャード3世といえばイギリス史上の有名人で…と書きつつ、実のところ僕もこれまで詳しくは知らなかった。イングランド王位をめぐるヨーク家・ランカスター家の抗争「ばら戦争」の終盤で戦死し、シェークスピアの戯曲の主人公にもなり、時代を1930年代に移してナチスを思わせる描写にしたユニークな映画もあった、ということを知ってる程度。経歴を調べてみるとなかなかに劇的な人生ではあり、シェークスピア劇の影響もあって権力を手に入れるためには手段を選ばぬ乱世の梟雄、といったイメージが強いようだ。

 リチャード3世は1485年に王位をねらってフランスから上陸してきたヘンリー7世の軍とボズワースの戦いで激突、奮戦むなしく戦死してしまった。このときリチャードはまだ32歳で、その遺体は戦死した敵将に対する慣習に従って裸にされたうえさらしものにされ、戦場に近いレスターの中心部のグレーフライアーズ教会のフランシスコ会修道院に埋葬されたと伝えられる。しかしこの教会は1530年代に取り壊されてしまい、リチャードの遺骨の所在もわからなくなってしまっていた。
 近年、レスター大学の研究チームが問題の教会の跡が駐車場の下に埋まっているのを発見、昨年9月にその調査中に一体の人骨を発掘した。この遺骨は背骨が曲がり、矢じりが刺さっていただけでなく、頭蓋骨にも殴打された痕跡が確認されたため、壮絶な戦死を遂げたリチャード3世その人の骨ではないかと推定された。そして特定の手段としてリチャードの姉アンの子孫であるカナダ生まれのマイケル=イブセンさんという家具職人のDNAを採取して人骨のDNAと比較、「これは合理的疑いの余地なく、発掘された遺骨はプランタジネット朝最後の国王リチャード3世のものだ」と断定の発表を去る2月4日に行ったのだった。

 そんなに昔の有名人の遺骨が発見されたことも驚きだが、血族の直系子孫からDNAを採取して確認したということにも驚き。カナダ生まれでそんな系統の子孫がいたという話には、イギリス王室が集団写真撮影の漏電で全滅し、唯一の王位継承者のアメリカのオッサンが王位についちゃうというコメディー映画「ラルフ一世はアメリカン」を思い出してしまった。そういえば上の記事で取り上げたオランダ王室も血縁があるのでずいぶん下位ではあるけどイギリス王位継承権はあるのだそうだ。
 歴史上の有名人の遺骨ということになると、日本では中臣鎌足の遺骨のケースがある。これは昭和の初めに古墳から見つかった遺骨の写真をその身体的特徴(死因と伝えられる落馬のあとがあり、弓を使った体型の特徴もあった)などから推定されたものだが、考えてみると藤原氏の子孫なんてずいぶんいるだろうからDNAで確認もできるんじゃなかろうか。もっとも鎌足の子でその後の藤原氏の祖である藤原不比等は実は天智天皇の子だなんて説もあるからなぁ…。

 ところでリチャード3世は戦死した最後のイングランド国王でもある。その前の例を探すと1199年に戦死したリチャード1世(獅子心王)がいた。「おや、同じリチャードさんだ」と思ってリチャード2世を調べてみたら、この人は戦死こそしなかったものの退位させられ流浪の末に餓死したらしい。これだけ続くとその後のイギリス国王にリチャードさんがいないことにも納得。



平泉にも「漫画」があった

 日本における「漫画」のルーツとして、平安時代末に書かれたとみられる伝・鳥羽僧正作の『鳥獣戯画』が挙げられる。ウサギやキツネ、カエルなど動物を擬人化してこっけいに描き、そこに風刺をこめた笑いもふくませたことから「漫画」の原型とされるわけだ。そんなことをそのむかしNHK「クイズ面白ゼミナール」の特別講師として出演した手塚治虫が解説していたっけ。その解説でも言っていたが、「漫画」という言葉じたいは葛飾北斎の「北斎漫画」にルーツがあるが、明治になってからも風刺漫画のたぐいが鳥羽僧正にちなむ「鳥羽絵(とばえ)」などと言われていたので、やはり鳥獣戯画が「元祖」ということにはなる。もちろんそれ以前から「こっけいな絵」のたぐいは存在していて、あの法隆寺にも奈良時代の大工が書いたと思われる落書き(エッチなものも含む)があったりして、これが一応確認される最古のマンガ的なもの、ということにはなりそう。もっともそれを言い出すと弥生時代の銅鐸にもコマ漫画のルーツと強弁できなくもないものもあったりするからなぁ…。

 さて、その漫画のルーツとされる『鳥獣戯画』とソックリな絵が奥州藤原氏の拠点・平泉で見つかったというから驚いた。もう古い話題になってしまったが、1月25日に岩手県教育委員会が発表している。
 説明不要だろうが一応説明しておくと、「奥州藤原氏」とは平安時代後期に東北地方で起こった「前九年・後三年合戦」(かつて使われた「役(えき)」の語は本来外国との戦争を意味するため近年は使われない)のあとに東北地方を半ば「自治国」状態で四代にわたって統治し、最後に源頼朝によって滅ぼされた一族だ。かつてNHK大河ドラマ「炎立つ」でその歴史が映像化されたこともあり、僕は放送当時はロクに見てなかったが後年DVDで見て少なくとも第二部まではかなり楽しめた。
 その奥州藤原氏の「首都」が置かれていたのが平泉の地で、一度は「落選」しながらも、東日本大震災の直後の2011年6月に世界遺産にも登録された。平泉と言えば中尊寺金色堂が名高いが、奥州藤原氏時代の平泉には他にも多くの寺院が並びたち、頼朝に率いられて攻め落とした「田舎者」の関東武士たちにも大きなカルチャーショックを与えたとも言われている。中央から遠く離れた地方政権の中心地でありながら京都のように文化花開く地だったということで、その後の鎌倉の町づくりにも影響を与えたかもしれないという。

 問題の絵が見つかったのは「柳之御所遺跡」。奥州藤原氏の政庁がおかれていたと考えられる遺跡だが、世界遺産への登録は「平泉 -仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」という形でなされていて、浄土思想とは無関係のこの遺跡については除外されているのだそうで。それはともかく、この遺跡から発掘された木片に『鳥獣戯画』に描かれたものとそっくりな、扇と笹を手にした擬人化されたカエルがはっきりと描かれていたのである。
 この木片が本来何の一部だったのかが気になるところ。『鳥獣戯画』の方は一応巻物に「作品」として書かれたものだが(もちろん正統な芸術作品のつもりでもなかったろうけど)、こちらは木の板に書いているとすると落書きのたぐいなのだろうか?『鳥獣戯画』はこれまで平安末期から鎌倉時代の作品と見られていて、今度の木片は周囲に見つかった土器などから12世紀後半と推測されるそうだから時期的に一致しており、京で描かれた「漫画カエル」が平泉でも描かれていたことは文化の波及速度を考える上でも非常に興味深い。さらに言えば、平泉のこれがもし「落書き」程度のものだとすると、実は当時この「漫画カエル」は全国的にかなり流行していた可能性だって考えられる。

 以前から気になっていたのだが、『鳥獣戯画』といいながら鳥でも獣でもない「カエル」がなんであんなに描かれているのだろう?『鳥獣戯画』の有名な部分「甲の巻」に出てくる擬人化された動物たちを確認してみると、他はサル、ウサギ、キツネ、ネコ(一匹だけ発見できる)といった顔ぶれで、あとは圧倒的多数のカエルなのだ。それも特にコミカルな動きをしているのがほとんどカエルたち。擬人化ということではサルが最適で、実際サルも多用されているのだけど、そもそもウサギ・キツネ・サルたちと本来サイズも異なるカエルたちが同じ大きさに拡大されて「人間」役を演じているのが不思議だった。
 恐らくはカエルはそのスタイル自体がコミカルで漫画っぽいため多用されたと思われるのだが、今度の発見でもしかすると当時「等身大擬人カエル」が大流行していたのではあるまいか?と思ったわけだ。この系譜がのちに「ど根性ガエル」のピョン吉とか、赤塚不二夫作品のケムンパスにつながっていたりするのかもしれない(笑)。



◆一ヶ月間のネタあれやこれや

 受験産業従事者なのでこのシーズンはとてもじゃないが週刊連載など書けやしない。一ヶ月ぶりの更新となったわけだけど、今月は結構取り上げたくなる話題が多かった。そんなわけでここではそういった小ネタをひとまとめに。


★隕石が落ちてきた!

 受験産業従事者としてはシーズン的に「落ちた」話題は禁句なのだが(笑)。隕石が落っこちてくること自体は割とよくある話で、つい先月にも僕の在住する地方で夜空に光る物体が確認され、映像がネットにアップされてちょっとした話題になってもいた(僕自身は目撃しなかったけど)。しかし2月15日にロシアに落ちてきた隕石は多くの人が見ている真っ昼間に、しかも割と大きめのものだったから衝撃波による被害も出たし、そしてなんといっても多くの人が映像に撮っていたこともあって世界的に大きな話題となった(ついでにいえば観測史上もっとも近くを小惑星が通過する直前というタイミングもあった)。僕もこの件では結構興奮してしまい、ついつい映像のハシゴをしてしまったものだ。最近は携帯電話に写真や映像をとる機能があるもんだから、世界中どこで何が起ころうと素人撮影の画像映像素材がいっぱい生まれ、そしてそれが世界中で見られてしまうという時代なんだな、ということも改めて思い知らされた。ほんの十数年前まではそんな状況こそがSFチックであったわけだけど。
 「割とよくある」とは書いたが、今回のように地上に大きな被害をもたらすほどのものは100年に一度くらいと言われている。地球表面全体の7割が海、残り3割のうち人が住んでるところはもっと少ないわけで、単純に確率論から言っても人に目撃されたり被害が出たりするケースはかなり少ない。ロシアに隕石と言うと1908年の「ツングースカ大爆発」のことが想起され、「またロシア(シベリア)?」
なんて声もあるのだが、だいたい世界の国々の中でもロシア、そのうちシベリアの面積はムチャクチャ広いんだから、落ちる確率は(よそに比べれば)高いはずなのだ。

 だがロシアに落ちてきたことを「偶然」ととらえない人もいる。中でもロシアの右翼政治家として名高いジリノフスキー自由民主党党首なんかはこの隕石をアメリカによる「攻撃」と主張しているそうな。「宇宙には宇宙の法則があり、落ちて来るようなことはない。そこには人為的なものがある」と摩訶不思議なことをおっしゃってるそうだが…落ちてきた地元でも「また落ちてくる」との流言も飛び交ってるとかいうのだが、それこそ「天文学的確率」だと思う。
 ついでながらこの隕石の一件の影響で、僕のサイトの映画コーナーの「妖星ゴラス」のページと、ルパンコーナーの「二つの微笑をもつ女」のページがアクセス増となった。なんでかは各自でお調べ下さい。


★カネを返せ!

 1月末に読売新聞が報じていた。福井県敦賀市の常宮神社には豊臣秀吉による朝鮮侵略の際に「戦利品」として持ち帰られた「朝鮮鐘」があり、日本にある最古のものということもあって国宝にも指定されている。この鐘をもともとあった「故郷」に戻せという運動が韓国の市民団体により行われていて神社側が困惑、という話題だ。
 問題の「朝鮮鐘」は現在の韓国晋州市にあった「蓮池寺」にあったもので、銘文には新羅時代の西暦833年に鋳造されたことが書かれている。833年といえば日本では平安時代のはじめごろ。それから760年ほどのちに豊臣秀吉の侵攻があり、この晋州の地も激しい攻防戦が行われていて、恐らくその時期に日本に持ち出されたものと思われる。伝承によると1597年にこの神社に鐘を奉納したのは敦賀城主であった大谷吉継(関ヶ原の戦いでの戦死と顔を覆面で覆っていたことで有名な武将)で、吉継自身も朝鮮に渡っていることから鐘を持って来ちゃったのも彼自身の可能性が高い。

 記事によると五年ほど前から韓国の市民団体の返還要求があり、鐘の前で泣く人まで現れたので神社側では公開を中止するようになったという。まぁいきさつを知ってみると返還要求の気持ちも分からないではない。分からないという人はもし日本の文物が同じような事情で外国に行ってたら、と考えてみればいい(韓国の場合は相手が日本だとよけいに…ってのはあるだろうが)。しかし返還を要求されても神社も400年は宝物として扱ってきたし、国宝指定もされてるから神社側もそうは応じられず困っているとのこと。神社では国宝なんだから国が関与してくれと言ってるようだが、文化庁も「国宝の国外持ち出しは法律で禁じている」としつつも「あくまで民間同士の問題」として関与には消極的とのこと。
 イギリスの大英博物館やフランスのルーブル美術館などヨーロッパ各国の博物館が所蔵品の「母国」から返還要求され続けているし、日本も韓国に「朝鮮王朝軌儀」を返還した例があるが、前近代に持ち出されたものの返還要求は珍しい。まぁ近代だと問題ありで前近代だから問題なしとするのも変な話だけど。


★トンブクトゥの遺産を守れ!

 1月はアルジェリアでのイスラム過激派武装勢力の天然ガス施設襲撃が大きなニュースとなっていたが、そこに影を落としているのが隣国マリの情勢。情勢は一口にまとめられるほど単純ではないようなのだが、とにかく中央政府の混乱に乗じてマリ北部の砂漠地帯が諸武装勢力によって「独立国」状態となってしまい、そこに過激なイスラム原理主義の勢力も加わっていることで周辺国のみならず世界でも懸念の声が上がっていた。それでフランス軍による介入が行われ、今のところ押し気味ではあるらしいのだが、一方で結構苦戦中との話も流れている。フランスはこの地方のかつての宗主国だったから、その介入は植民地支配の再現と見えないこともなく、現地の人もフランス軍を「解放者」と歓迎しているとの報道があるけど、正直複雑な心境なんじゃないかと思っている。
 介入の是非はともかく、歴史を学ぶ者として心配だったのは、この地方に中世に交易で繁栄した都市で世界遺産にもなっているトンブクトゥがあることだった。ここにはイスラム指導者たちの聖廟があることで有名だが、イスラム原理主義の連中はそれが「偶像崇拝」にあたるとして(なんでか分からないが過去にもサウジにおける原理主義運動で聖廟破壊があったという)実際に破壊を開始していたのだ。1月末にフランス軍がトンブクトゥを武装勢力から「解放」したことでその全ての破壊はまぬがれたのは幸いではあった。

 「解放」直後の2月1日に公表されたのだが(日本では毎日新聞が報じた)、このトンブクトゥの研究所に保管されていた大量の貴重な古文書の約6割、およそ約2万5000点が、武装勢力による占領前に首都バマコへ秘密裏に運び出されていた。これらの古文書はトンブクトゥが栄えた13世紀以来の神学・天文学・医学など幅広いジャンルに及んでいて、研究所の所長も言うようにまさに「世界のかけがえのない遺産」だ。聖廟もさることながらこれらも武装勢力に破壊されてしまう可能性があるということで事前に運び出していたというわけで(まぁ聖廟は持ち出せないわなぁ)、これにはグッジョブと言わざるをえない。
 2月18日にはユネスコ本部のあるパリで専門家会議が開かれ、破壊された聖廟の修復や史料の保護に向けた行動計画が策定され、およそ1100万ドル(円安が進んで今んとこ約10億円)はかかるとの見通しが出されたという。その計画のなかに「史料のデジタル化」なんてのもあるあたりが今風である。


★歴史的なお屋敷が!

 近衛文麿といえば日本現代史の有名人。その政治家としての評価についてはさておき(どうやっても高評価はしにくい)、昭和前期の戦争の時代の日本政治を考える上で外せない人物なのは確か。「歴史映像名画座」を見ていただければわかるようにこれまでこの時代を描いた映像作品の多くに登場していて、さまざまな名優たちによって演じられている。一番最近の例が昨年放送されたNHKのドラマ「吉田茂」における野村萬斎だ。
 そんな人物なので、荻窪郊外にあった彼の私邸「荻外荘(てきがいそう)」も近衛個人だけでなく昭和史の重要な舞台となった。この荻外荘では日中戦争や太平洋戦争に関わる重要な会合・決定がなされたし、敗戦直後に戦犯にされることを恐れた近衛が服毒自殺したのもこの屋敷の中でのことだ。親交のあった吉田茂も近衛の死後に一時ここを借りて住んでいる。そのため昭和史もの映像作品でもしばしば登場している。もちろん本物を使ってたものばかりではないのだろうが、いくつかは実際にそこを利用して撮影されたのではなかろうか。
 その荻外荘、昨年ここに住んでいた近衛文麿の次男(文麿の遺言を聞いて書いた人物でもある)が亡くなったのを機に杉並区が購入する方針を固めたという。歴史的に重要であることももちろんだが、6200平米の敷地には屋敷林など自然も豊富で、杉並区はここを公園として整備する方針だとのこと。
 ところで以前から思ってるのだが、この荻外荘、単に「荻窪の外」ということからついた名前なんだけど、味方にめぐまれなかった近衛の生涯を見ていると、やっぱりこの家の名前が縁起よくなかったんじゃなかろうか。いかにも敵が…


★200年前の条例?

 フランスの首都パリに「女性がズボン着用を希望する場合は、警察署の許可が必要」という条例が存在していた。1800年に決められたもので、いわゆる「ベル・エポック(古き良き時代)」の1892年と1909年に馬や自転車に乗る場合はOKと緩和されつつも条例自体は続けられていた。みんなすっかり忘れてしまっていたようだが、フランス上院の野党議員が「まだこの条例は生きているのでは?」と質問書を提出、バロベルカセム女性権利相が2月はじめに「男女同権を定めたフランス憲法に抵触しており無効」と回答して、ようやく公式にこの条例を抹殺することとなった。
 それにしても1800年といえば、フランス革命のあとの混乱からナポレオンが台頭してくるころ。女性のズボン着用が禁じられたということは着用する人がいたということでは…え?まさか「ベルばら」のオスカルが実在してたとか(笑)。ともあれ、そうした風潮が実際にあったが「そんなことははしたない」という声から条例が作られたのではないかと思われる。
 19世紀から20世紀初頭の欧米の女性たちはズボンではなく大きいスカートをはいていたから、馬に乗る場合はまたぐのではなく横座りに腰かけていた。しかもコルセットで極端にウェストをしめつけたスカートなので運動にはそもそも不向き。そうすることで女性があまり家の外に出ないようにしていた、なんて見方もあり(この点、中国の纏足も似たようなものか)、それでアメリカの女性解放運動家のブルーマーが「ブルマ」の原型を作って普及をはかったりしたわけだ。
 1892年と1909年と間が少々離れているのがなぜか気になるが、この年代はまさにアルセーヌ=ルパンが大活躍した時代である。ルパンシリーズを読む限りではフランスにおける女性の社会進出が本格化するのは第一次大戦後と思え、それ以前では緩和はしつつもまだまだ条例が「生きる」ような雰囲気だったということだろう。


★ピンポン外交のあの人が

 「ピンポン外交」とは、1971年に名古屋で行われた第31回世界卓球選手権大会をきっかけに、それまで激しく敵対していた米中両国が急接近して外交状況を一変させた件を指す。これだけ書くと何が起こったのかさっぱり分からない人も多そうだが、政治だの外交だのといったことはヒョンなことからアッサリ急展開することがあるといういい例で、「ピンポン」の名が冠せられたのもその「軽さ」も一因なのだろう。中国では「ピンポン球が地球を動かした」と言うそうな。
 1970年代初頭、中国は毛沢東のもとで「文化大革命」が推し進められ、資本主義の親玉であるアメリカとはた目には激しく対立していた。その激しさははた目には今の北朝鮮より凄かったと思う(もっとも今の北朝鮮だってアメリカに「体制の保証」を迫るという妙に卑屈な「敵対」ぶりだが)。しかし当時中国は同じ社会主義陣営であるソ連とも激しく対立していて、実はひそかにアメリカとの接近を模索していた。それはアメリカ側もひそかにさぐっていたところで、「ピンポン外交」はあとから考えれば起こるべくして起きたと言っていい。
 文革の狂乱のなか中国は卓球選手権に二大会出場していなかったが、開催国の日本のはたらきかけもあって中国は三大会ぶりに出場した。そしてこの中国チームには第26回・27回・28回の大会で三連続優勝を成し遂げたエース・荘則陳がいた。この人もどういう事情があったかよく分からないがこの二大会欠場のあいだ文革の嵐の中で幽閉状態に置かれ、反省文を書かされる日々を送っていたという。この荘氏こそが「ピンポン外交」のきっかけとなった張本人だ。
 一応そのきっかけは全くの偶然とされている。大会中、アメリカの選手グレン=コーワンがうっかり間違えて中国選手団のバスに乗り込んでしまった。先述のように当時の米中は表向き「敵国」関係で選手同士の接触など御法度、バスの中には非常に気まずい空気が流れたが、荘氏は周恩来首相から「試合第二、友好第一」と言われたことを思い出し、コーワン選手に緞子をプレゼントした。この「事件」は当時大きく世界で報じられ、それをきっかけにアメリカ卓球選手団が中国に招待され、それと並行してニクソン大統領の密使としてヘンリー=キッシンジャーが中国を極秘訪問して交渉、世界をあっと言わせた1972年2月のニクソン訪中へとつながった。そのきっかけとなった事件こそ日本で起こっていたが、当時の日本政府は「ニクソン訪中」をアメリカ政府から発表の数分前に通告されるまで全くその動きに気付かず完全に裏を書かれてしまった。

 ところで荘氏のその後も波瀾万丈。ピンポン外交の立役者として脚光を浴びて「スポーツ大臣」にあたる地位にまでついたものの、かえってそれが災いし、毛沢東の死とその後の「四人組」失脚のあおりを食って投獄され、妻子とも離別。その後ケ小平のもとで名誉回復され、その取り持ちもあって日本人女性(1971年の訪日時に通訳だった女性。日本ではほとんど知られてないが中国ではウィキペディアに項目も立つ有名人)と1987年に再婚した。
 「ピンポン外交」のきっかけの一方の当事者であったグレン=コーワンは2004年に手術中に心臓発作のため48歳の若さで急死した。荘氏はその死を悼む弔電を送り、2007年には訪米してコーワンの母親に面会している。その翌年の2008年に荘氏はガンと診断され闘病生活に入っていた。昨年荘氏の生活の困窮ぶりがメディアで報じられたが、彼自身がメディアに手紙を送って支援は不要と表明する一幕もあった。そして2月10日に北京市内の病院で死去、72歳だった。

 ところでレスリングがオリンピック競技から外されるということが日本でも騒がれている。日本はこれでメダルをずいぶんとってるから関心事になるのは分かるんだけど、この話にからめて「日本人の外交ベタ」論を振りまわす人たちが目につく不思議。いつからレスリングは日本の国技になったんだよ?
 それはともかくレスリングの盛んな国ではブーイングの嵐で、その中の一つがイラン。それこそ日本以上に「西欧の陰謀」論がささやかれているらしい。この件でイランが長らく敵対しているアメリカのレスリング協会とも協力する姿勢を見せていることが注目されてるが、なんだかこれも「ピンポン外交」を連想しなくもない。こういうこともあるからオリンピックは「平和の祭典」なのだなぁ、って何か違うぞ(笑)。


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