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2013年3月8日

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◆今週の記事

◆タケダとサナダと

 何度か書いてることだが、僕の母方の先祖は平安時代の源頼光の「四天王」の一人、渡辺綱ということになっている。この渡辺綱は嵯峨源氏の子孫ということなので、実は僕も皇室の子孫ということになっちゃったりする(なお、嵯峨源氏は「綱」のように一字の名にする慣習で、実は僕も一字名。ま、単なる偶然ですが)。そんな調子でいくと日本人のかなりの人が皇室の血統ということになってしまい、藤原氏系もカウントすれば「姻戚」もいっぱいだから、日本中親戚だらけになってしまう。
 そのむかし朝日新聞に連載していた4コマ漫画「フジ三太郎」でも「自分には両親がいて、その両親にも両親がいるから二代前の先祖は4人。3代前で8人。4代前で16人。これを繰り返して数えていくとほんの20数代前でご先祖は1億人を越えるから、日本人はみんな親戚」というような理屈(正確なセリフは忘れた)で通りがかりの女の子をナンパしようとする(笑)という話があった。いま計算してみたら2の27乗で「1億3421万7748」になる。ちなみに世界人口70億人を超えるのは2の33乗なので、33代前までさかのぼればまさに「人類みな兄弟」なのである(笑)。もちろん単に計算上の話だけど、そんな考え方をしてみるのも面白い。

 そんなわけで歴史上の誰かさんの20代ほどのちの子孫なんてのは山ほどいそうなものだ。「武田信玄18代目末裔」を名乗る23歳のギャル系読者モデルの武田アンリに関する報道を見て、まず思ったのがそんな話。ただ武田信玄その人の末裔となるとかなり限定された家系になり、追跡はそこそこできる。信玄の息子のうち後世に子孫を残したのは次男で盲目の竜芳、それから五男の仁科盛信、七男の武田信清しかいない。さすがに武田氏は名門なので江戸時代中もかなりしっかり系譜が追えるようで、大正時代に信玄に対して贈位がなされた際に学術的にも子孫が調べられ、竜芳の子孫の系統が武田「本家」と認定されている。だから全くノーマークの「信玄の子孫」がわいて出てくるのは正直考えにくい。
 
 その後の続報によるとアンリさんは母親や親戚たちからつい最近そういう話を聞かされたのだとのことなので、別に当人がウソをついていたということではなく、「武田」の名字を名乗っていることから一族がいつからかそう思いこんでいたということはありうる。アンリさん本人は鈴木姓なのだそうだが曾祖父まで武田姓だったといい、墓の家紋も「武田菱」だというのも事実なんだろう。もちろんそれだからといって特に証拠になるわけではない。たぶん「武田」を姓とし家紋が武田菱になってるという家は全国にかなりいるんじゃないだろうか。そしてその大半は近代以降にそう名乗ったのだと思う。
 本当に昔から武田を名乗っていた一族だったとすると、信玄の子孫でないのならいくつか可能性はある。武田氏と言うと甲斐のそれがあまりにも有名だが、その分家が安芸や若狭、上総、常陸に分かれてその後どうなったか分からないのもいるからそのどれかの系統という可能性はあるかもしれない。なお、あまり知られていないが武田氏の名のルーツとなった「武田」の地は現在の茨城県ひたちなか市にあったりする。

 それにしてもその読者モデルの件で素早く「甲斐武田正統家出身の方にその様な方はいらっしゃいません」を待ったをかけた「武田家旧温会」の存在にもちょっと驚いた。武田家の子孫はもちろんその家臣たちの末裔など武田家関係の人たちでつくる親睦団体だそうで、戦国時代に実質滅びた大名にも関わらず、こういうのができちゃうあたりも信玄のご威光なのか。もっとも有名な戦国大名だとどこでもこんな団体(ファンクラブ的なものも含めて)は結構あるのかも。
 その「武田家旧温会」の公式HPを見ると、今度のそのモデルの件のほかに、名古屋周辺で信玄子孫を名乗って詐欺をはたらいてるやつもいるそうで…こういうのも結構いるんだよなぁ。以前「水戸徳川家子孫」と名乗って寸借詐欺していたのもいたし、つい先日皇居前広場に行った人の話によると「明治天皇の孫」を名乗る女性が観光客相手に皇室の話をもっともらしく説明をしていてみんな感心して聞いていた、とのことだったし(自称「明治天皇の孫」の中丸薫氏なのかどうか…?他にもそういう人がいるのかも)


 さて、その武田氏の家臣であったのが真田家だ。僕も池波正太郎の『真田太平記』が大好きで、小説も全巻持ってるしNHKのドラマのDVDも完全版を所有している。丹波哲郎真田昌幸が、もうこれ以外考えられないほどにハマっているんだよなぁ。
 その昌幸の子が大坂夏の陣で戦死した真田幸村だ。名は「信繁」が正しいとのことだが、なぜか江戸時代以来ずっと「幸村」で有名になってしまい、『真田太平記』でも断りを入れた上で「幸村」で通しているほどなので、ここでも「幸村」にしておく。ちなみにドラマでは当時まだまだアイドル的イケメン二枚目だった草刈正雄が演じていた。大坂夏の陣での戦死シーンは若いころから一緒だった向井佐平次(架空人物だが、小説中では猿飛佐助を思わさせるキャラの父親の設定)が傷ついて死にかけているところに寄り添い、近づいてきた敵兵に自らの名を名乗って自決する描写になっていた。自決はともかく瀕死の部下に寄り添っていたところを見つかり、「手柄にせよ」と自ら敵兵に首を授けたという話は記録にも残っているという。

 真田幸村の首をとったのは福井藩主・松平忠昌の家臣の西尾仁左衛門という人物。幸村の最期の模様も彼の証言に拠っているようだ。しかし昨年夏に松平家に伝わる古文書集『松平文庫』の中からこの西尾仁左衛門から話を聞きとったものとみられる覚書が見つかり、そこにはこれまで伝わっていたのとは異なる話が書かれていた。すなわち、西尾は相手が誰だか分からぬまま槍を交えて相手を討ち取って首をとったが、そのあとで陣中見舞いに来た家臣から「これは幸村の首だ」と教えられて気がついた、という話だという。
 なるほど、これはこれでかなりリアルな話。そもそも西尾は幸村を討ち取った経緯について誇大に吹いていて批判されたとの話もあるそうだし、幸村が「手柄にせよ」と敵に首を与えるのも『史記』における項羽の最期を思わせるものがある(この手の中国古典からの拝借は『太平記』はじめ日本の軍記物には結構多く、ホントにそうだったのか気を付ける必要はある)。いくら有名人でもみんなが幸村の顔を知ってるわけでもないだろうし、混乱した戦場でのこと、相手が名乗らない限り誰だかわからないまま首をとるということは十分にありえただろう。



盗品はさらに盗品?

 前回、豊臣秀吉による朝鮮侵略の際に持って来ちゃった鐘の返還要求問題をとりあげたが、今度は韓国人窃盗団により対馬の寺から盗み出され、韓国にもちこまれた仏像について、韓国の寺とそれに関わる団体から「仏像を日本に返すな」という訴えがあり、地方裁判所がひとまず返還措置を差し押さえる、というなかなか面白い事件が起きた。とくにその寺側の主張が「その仏像はもともと倭寇に盗まれたものだ」というものであっただけに、倭寇研究者のはしくれである僕にはよけいに興味をそそられるものだった。

 この窃盗団が対馬の寺社から仏像2つと大蔵経を盗み出したのは昨年10月のことだ。もっとも大蔵経の方はかさばる割にカネにならないと思ったのか、あるいは税関で盗品とばれやすいと思ったからか、盗んだ直後にそばの山に捨ててしまったという。大蔵経といえば仏教経典全書みたいな存在で、中世日本ではやたらに重宝され幕府や大名がしつこく朝鮮王朝に下賜を求めたもので(中には対馬人などが架空の国の使者になりすまして求めた例もあった)、そういう歴史を知ってる者からするとずいぶんもったいないことをするもんだ、とも思えてしまった。
 盗まれた仏像は福岡発の旅客船に積み込まれ、釜山(プサン)港に持ち込まれた。当然税関でチェックを受けたのだが、文化財鑑定官室はこれを模造品と判断して通過させてしまう。犯行から2カ月後に日本の当局から犯人たちの逮捕と盗品返還の要請があって韓国警察が捜査し、1月29日に文化財法違反などの容疑で一人を逮捕、残り数名を在宅起訴した(ほか逃走中の者もいるとのこと)。盗まれた仏像二体は売却のために保管していた場所から無事見つかり、ここまでは話がすんなり行っていたのだ。

 盗まれた仏像は新羅時代の8世紀に作られた「銅造如来像」と、高麗末期の14世紀に作られた「観世音菩薩坐像」の二体だ。写真をぱっと素人目に見てもわかったが明らかに朝鮮半島風のデザインで、日本側でも朝鮮半島で製作され渡来した仏像であると認定はしている。恐らくは窃盗団も「だからこそ売れる」と判断して狙いを定めたんじゃないかと思う。
 今回騒ぎになってしまったのは、このうち高麗末期作の「観世音菩薩坐像」のほう。この像は対馬の観音寺にあって長崎県の指定文化財にもなっていたが、これはもともとは忠清南道・瑞山市にある浮石(プソク)寺が所有していたものであり、それは14世紀に倭寇によって略奪され対馬に渡ったものに違いない、との主張が地元の仏教団体からあがり、「窃盗団については法に従って厳重に処罰されるべきだが、文化財の不法流出・盗難の経緯については歴史的時代的状況を遡及して考えるべき」として、「流出経路が明らかになるまで日本に返還してはならない」との声明が2月初めになされた。
 これに呼応する形で歴史学者からも「仏像にある造像記が1330年2月に書かれていることから同時期の製作と判断でき、浮石寺に納めることが書かれているが対馬の観音寺については言及がなく、合法的に持ち出されたのなら記録があるはず。倭寇の侵略が激しかった1370年前後に略奪された可能性が高い」との説が唱えられ、やはり元の場所である浮石寺に戻すべきとの意見になっていた。
 タイミング的にも韓国側で日本に対して感情的になりやすい時期ということもあってこの話題は注目され、2月26日に大田地裁は仏教団体側の主張に沿う形で「観音寺が仏像を正当に取得したことが裁判で確定するまで、韓国政府は浮石寺が委任した執行官に仏像を預けなければならない」との仮処分を下した。あくまで仮処分であって(申し立てがあった以上無視できない、というのもあるだろう)、「完全に決定したわけではなく、決定が国際法上通用するか検討も必要」と地裁関係者も話しているというが、日本がらみということもあって市民から「返還してはならない」との電話やメールが多く寄せられているという。まぁ、全体のどれほどがそこまで関心を持っているか分からないけど。

 正直なところ、僕も状況的には倭寇がドサクサに紛れて持ってきちゃった可能性は高いだろうな、とは思う。対馬は確かに14世紀時期の倭寇の本場ではあったし(ただ実のところ倭寇ってのは「日本人」とイコールではなく、現代人とはずいぶん違う民族感覚なんだよな)。しかしその完全証明は不可能だろう。また同時に「合法的」に持ってきたことを証明しろと言われても、それこそ「悪魔の証明」みたいなもんでそれを証明することも難しく、説明責任はそっちにあると言われても困る。これだけ昔の話だと「時効」という言葉も口を突くが、それで納得するようなもんでもなかろう。
 ただこういうケースを認めてしまうと、窃盗行為自体がそれこそ「愛国行為」として正当化されかねない。アルセーヌ=ルパンもイギリスに持って行かれたフランス文物を取り返すとかなんとか言ってたこととか、「モナリザ」をルーブル美術館から盗んだイタリア人の犯人が「イタリアに取り返すための愛国行為だ」と主張したことなんかも思い出しちゃうのだが、そこはきっちり分けて考えないと。愛国行為ウンヌンは別にして、ドロボーさんが盗み出してきたのを幸いそのまま手にして返さない、というのもやり方として感心しない。
 発端となった瑞山市の仏教団体の声明は「韓日両国の合同調査団によって仏像の伝来過程を明らかにするべき。調査の間はユネスコの仲介を通じて、遺物を第三国に預けることを検討するべき」とも言っており、一つの落とし所ではあるかな、とも思う。またこの声明では韓国政府に対しても「ギリシャやトルコ、エジプトなどと連携し、国連レベルで積極的に文化財返還のためのコンセンサスづくりに乗り出すべきだ」としており、この手の文化財返還要求は世界のあっちこっちで見られることでもある。ただ今度のケースのように600年以上前のケースは珍しいんじゃないかな。



◆高野の決闘

 そもそもテラにカネはつきもの、ということ。賽銭や寄進その他で現金収入が集まりやすかった日本の寺院は中世以来金融業と深くかかわり、それらのカネを運用して利殖を行っていた。だから先月末に「高野山真言宗 資金運用に失敗し6.8億損失」と報道が出てもとくに驚きはしなかった(まぁ額にはちょっと驚いたけど)。でもこのニュースがアクセスランキングやSNSでの話題ランキングのトップに数日間あがっていたのを見ると、世間的には有名な寺院と巨額のカネのギャップもあって、かなり驚く話だったのかもしれない。

 事態が発覚したのは2月26日。高野山真言宗の議会にあたる「宗会」(35人で構成)の全体会議でこの巨額の損失が報告された。真言宗の執行部、いわば内閣にあたる「内局」の長である庄野光昭宗務総長は「運用が思いにまかせず推移している。無念で慚愧に堪えない」と説明したそうだが、「運用益もあった。評価額は回復する可能性が十分ある」とまだ言い訳がましいことを言ったらしい。そもそも資金運用について外部の弁護士などの監査を受けているはずで、宗会側は「執行部が粉飾した虚偽の資料を出した」と反発、27日に宗務総長に対する不信任案が提出され、35人中18人が賛成して不信任決議が可決。こうなると国政や地方政治と同様に執行部側は総辞職するか議会を解散するかの選択を迫られるが、宗務総長は辞職ではなく宗会を解散する方を選択した。ということはこのあと宗会議員を選ぶ選挙が行われるのだと思うが、どっかの新聞が「僧選挙」なんて見出しをつけてて、「先を越された」と思ってしまった(笑)。宗務総長の不信任可決も宗会の解散も、1952年に高野山真言宗が宗教法人になってから初めての事態であるという。
 宗務総長ら内局側はあくまで「事務処理ミスはあったが、不正はない」として虚偽・粉飾の事実はないとしている。しかし発表文の中で「粉飾の意図をもって虚偽の報告をしたものではない」と表現しているのがひっかかる。それって「粉飾の意図はなかったが虚偽の報告はした」とも聞こえるような…。これから公認会計士による監査を受け、虚偽や粉飾があったと確認された場合には内局の総辞職を行うとしているが、さてどうなりますか。

 真言宗の開祖は、もちろん弘法大師・空海だ。彼が弘仁7年(816)に嵯峨天皇から高野山の上の平らな地に寺院を建立することを許されたのが高野山金剛峯寺の歴史の始まりで、まもなくちょうど1200周年を迎えることになる。この手の節目は寺院にとってはそれこそ「書き入れ時」なので、2015年から「開創1200周年記念大法会」など一年間かけて大々的にイベントをやる気らしく、去年ぐらいからあれこれと騒いでいるのを聞いていた。そこへ今回の騒動だから、かなり記念イベントにミソをつけてしまった形。
 空海は承和2年(835)に死去したが、高野山金剛峯寺の奥の院に生前の姿のまま眠りについているということにもなっていて、今でも毎日二回寺の者によって食事を運んでいる様子がテレビなどで紹介されることがある。ここはひとつ、お大師さま本人に起きて来ていただいて、問答無用で白黒つけていただくというのはどうか。「祈祷に気合が入っていないから損失を出すのだ!」とか変な怒られ方をなさるかもしれないが(笑)。

 ところで高野山金剛峯寺のHPをのぞいてみたら、信者向けのこんなメッセージが掲載されていた。

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大師信者の皆さまへ
 
この度、報道各紙やインターネット上で報道がなされ、大師信者の皆さまにご心配をお掛けしておりますことを心よりお詫び申し上げます。

皆さまから寄せられましたご浄財は、お大師さまの世のため人のため共に生きるというお心から、社会に還元すべく努力して参りましたが、心ならずも一部で損失が出て、このような報道になったこと、私どもの不徳と率直にお詫び申し上げます。
皆さまのご浄財は今後も社会に還元し続けてまいります。
高野山開創1200年記念大法会に向けて、私どもお大師さまに仕える者一同、心を合わせて一層精励することをお誓いいたします。
 
合 掌
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 ま、あくまで後ろ暗いことはしていないと主張する執行部側の書いた文章だからこんなものだろうが、自分で言ってるほど「率直」に謝ってる文章とは読めないなぁ。あくまで「報道になったこと」をわびてるようだし(事実がどうかではなく「お騒がせしたことが申し訳ない」という日本でよく使う言い回しですな)。それでも「ご浄財の社会への還元」は続けるそうだし、1200年記念大法会でもしっかり稼いでなんとかしようというハラまでよく見えてしまう。信者の皆様も救われないな。合掌。



◆歴史がまた1ページ

 「京阪テレビカ―が3月いっぱいで終了」という報道を見て、鉄道ファンではあるが関西事情には疎い関東人の僕などは「まだやってたのか!」とそっちの方に驚いてしまった。
 京阪電鉄に「テレビカ―」が登場したのは1954年のこと。日本におけるテレビ放送が開始されたのは前年のことだが、関西ではこの年から放送が始まり、それに合わせての登場だった。1954年といえば怪獣映画「ゴジラ」の公開年で映画の中にも家庭内にテレビが登場するが(怪獣相手に決死の生実況をするテレビ局スタッフも出てくるな)、実際には当時のテレビ受像機は大変な高嶺の花で、個人で買える人なんて相当な金持ちだった。だから「街頭テレビ」なんてものに人々が群がってプロレス中継に熱狂したりしていたわけ。そんな時代だけに電車にテレビを搭載して「テレビを見ながら電車に乗れる」というのはかなり大きな売りになったと思われる。

 ところでなぜそれを京阪がやったのかというと、そこに関西私鉄の歴史的いきさつがある。京阪本線はその名の通り京都と大阪を結ぶ路線として1910年に開業したが、京都・大阪間にはすでに国鉄(JRの前身)の東海道線があった上に市内の路面電車の延長という位置づけから淀川左岸を市街地を縫うように走る路線になったことでスピードは出せなかった。
 1930年代に京阪電鉄により京阪間を淀川右岸を使ってもっと高速に結ぶ「新京阪線」が建設されるが、これはその直前に阪急電鉄が阪神間にそういう路線を作って阪神電鉄を圧迫していたため同じ目にあってはかなわないと先手を打ったものだった。ところが戦時中の統制経済政策で京阪・阪急が合併して「京阪神急行」となり、戦後にまた分離した際、この「新京阪線」は阪急側に持って行かれてしまい(これが阪急京都線)、京阪は同じ京阪間を結ぶルートで国鉄・阪急という二つの強力なライバルと競いあわねばならなくなってしまった。そこで強力な付加価値として「テレビカ―」のサービスを始めた、とまぁこういうことになるらしい。

 調べてみたら日本で最初に電車にテレビを乗せたのは関東の京成電鉄だった。こちらも市街地を縫うように走る路線であることとか、後年地下鉄を通じた京浜急行との相互乗り入れで軌間を全部変更させられたり、成田空港への直通乗り入れを国鉄に邪魔されたりと泣きを見た歴史を持っていて、京阪とよく似ていると言えば言える(名前も一字違いだし)。ただし京成の方は「テレビの普及」を理由に1967年にテレビの搭載を中止している。
 それに対して京阪は逆に「テレビカ―」を同社の看板なみにもってゆき、1971年にカラーテレビを搭載し車体にもデカデカと「テレビカ―」と明記した3000系(のち8000系に編入)特急列車を投入、以後延々と今日まで走らせ続けた。この間に1992年には衛星放送にも対応、2006年には地上波デジタル化、2007年からはブラウン管から大型液晶テレビへと、テレビの進化にも対応を進めてきた。だが京阪電車に全く乗ったことがない僕なんかはこのテレビカ―の存在自体は知りつつもデジタル化時代まで続けているとは思っていなかったくらいで、だから今年の3月で終了とのニュースに驚かされてしまったのだ。

 これは別に急に決まったことではないようで、4年前に「テレビカ―」である8000系特急車両が登場から20年を過ぎるのを機にそのリニューアルが進められ、この際に「まだその存在がめずらしかった昭和29年から半世紀以上にわたり歴代特急車両に搭載してきたテレビについては、時代の変化によりその役目を終えたと判断」(京阪電鉄のプレスシートより)し、車両の改造に合わせてテレビは順次撤去されることに決まっていたのだ(ついでにそれまで設置されていた公衆電話も撤去した)。それらの改造が全てすんだ昨年7月の段階で8000系のテレビは全て撤去され、唯一残された旧3000系の列車も今年3月末で役目を終えてテレビカ―完全消滅、ということになったわけ。
 ほんとに今までよく続けてきた、と思っちゃうのだが、テレビの撤去が公衆電話の撤去と一緒だったのが象徴的。携帯電話、さらにはスマートフォンの普及により、テレビや電話をみんなで共有する必要がなくなったというのが直接的な撤去理由だ。かくして鉄道の歴史が社会の変化と共にまた1ページめくられてゆく。


 そんな話題でしめようかな、と書いている最中に一つの訃報が飛び込んできた。当「史点」では勝手に「ベネズエラの大将」とお呼びしていた名物男、ベネズエラのウゴ=チャベス大統領が3月5日に死去したのである。
 チャベス大統領は1954年に教師の両親の間に生まれた。のちに大統領になってから「社会主義」をやたらに唱えて有名になる彼だが、兄が左翼活動家だったこともあり、若いころからある程度の左翼シンパではあったらしい。高校卒業後に士官学校に入学、卒業した1975年に陸軍に入り、空挺部隊に属した。政治的な野心は早い段階から持っていたようで、1982年には同僚らと共に軍隊内に地下組織を作り、将来の「革命」への布石を作り始めている。1989年にカラカスでの貧民暴動に軍隊が発砲して多数の死傷者を出したことに衝撃を受け、1992年2月にクーデターをおこしたが失敗して投獄される。しかしこのときの態度が人口の多数を占める貧困層の人気を集めることになり、釈放後に政治家に転身すると貧困層の圧倒的な支持を受け、1998年にベネズエラの大統領の地位にのぼりつめた。

 チャベス大統領の名前が「史点」に最初に登場したのは2001年6月26日の記事。ペルーのフジモリ元大統領の腹心ウラジミロ=モンテシノスがベネズエラのカラカスで逮捕されたという話題でだった。このときは僕も特に意識してなかったようで、チャベス当人については特に書いていない。
 だが翌年の2002年4月23日の記事では彼について初めて詳細に書いている。この直前の4月11日に反チャベスのクーデターが起こってチャベスが拘束され大統領からの辞任が一度発表されるが、支持者の暴動と軍内部のチャベス派の行動もあって急転直下の大逆転、チャベスが返り咲くという劇的な一幕があったからだ。このときすでにチャベス大統領が「反米主義」「社会主義」を前面に掲げた政策を半ば強引に進めていること、キューバのフィデル=カストロを師と仰ぎ、南米独立の英雄シモン=ボリバルを敬愛していることなどが触れられている。
 次に2005年4月29日の記事に登場した際には、『ドン・キホーテ』を国民みんなに読ませようと100万部刷って無料配布した、なんて話題が出ている。どうもこのあたりから奇矯な行動が目立つ人という印象が強くなり、彼自身がかなりドン・キホーテっぽかった。2007年2月1日の記事になるといよいよ「21世紀の社会主義」を公式に掲げ、国名も「ベネズエラ・シモン・ボリバル共和国」に改称、国章に描かれた馬の向きまで左向きに変えさせたという話題が出ている。議会もチャベス派で独占され(反対派が選挙自体をボイコットしたためだが)、期間限定ながら議会の審議なしで大統領が法律を制定できるという、独裁者そのまんまな法律を制定しちゃったりしたのもこのころ。
 2010年9月20日の記事には敬愛するシモン=ボリバルの墓を発掘してその遺体を調査した、なんて話題も出ていた。これはボリバルと自身を重ね合わせようという意図と共に「暗殺説」を検証しようというものだったのだが、その後どうなったのやら。そして2011年12月31日の記事では彼がガンを発症して治療にあたっているとの話題が出るが、彼は当時ほかの南米諸国の首脳にもガン発病がみられたことから「アメリカの陰謀」を疑っていた。それこそ最期まで自分も暗殺されたのだと疑っていたかもしれない。
 それ以来1年以上の闘病が続き、昨年10月の大統領選にも接戦の末に勝利して4選を決めたが、就任式にも出られないありさまで重態と推測されていた。2月18日に突然治療先のキューバから帰国して奇跡の復活かと思えたときもあったが、とうとうこの世を去ってしまった。「史点」最後の登場はちょうど一年前の2012年3月10日の記事で、南極領有主張に関するイギリスとアルゼンチンの対立に関してイギリスを「帝国主義」とののしるという、いかにも彼らしいものであった。
 しかしまぁ、カストロより先に彼が逝ってしまうとはなぁ。キューバでは三日間喪に服すそうである。2009年の四月バカ記事では「カストロが現役復帰してWBCに出場」というネタでチャベスがキャッチャーをやることになっていたっけ(笑)。やたらと反米の陰謀論者だったり独裁者の要素ばっちりの人ではあったが、自らTVやラジオに出演して延々しゃべったり歌ったりするなどラテン的な明るく楽しい性格は微笑ましくはあり、にくめないキャラだとは思った。こうして振り返ると次々とネタを提供して「史点」にもずいぶん貢献していただいてるし。「史点」としてもここ流のやり方で哀悼の意を表しておく。

 2013年3月5日。ウゴ=チャベスは58歳、つねに彼と地球の反対側にいた京阪テレビカ―とおなじ年に生まれ、おなじ年に死んだ。これがホントの英雄電鉄。「史点」の歴史がまた1ページ。


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