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2013年3月25日

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◆今週の記事

◆アルゼンティーノのパパなのだ

 さてもう一週間以上過ぎた話だが、ベネディクト16世の異例の退位を受けて新ローマ法王を選出する「コンクラーベ」が行われ、5回の投票の末に3月13日についに決定がなされた。新たなローマ法王に決まったのはブエノスアイレス大司教をつとめていたホルヘ=ベルゴリオ枢機卿で、史上初のアメリカ大陸出身のローマ法王となった。ヨーロッパ出身ではないローマ法王ということではシリア出身だった8世紀のグレゴリウス3世に続いて二例目となるという。

 法王になると本名とは別に法王としての別の名乗りをするようになるのだが、今度の法王は「フランシスコ」と名乗ることになった。フランチェスコ修道会を作ったことで有名な「アッシジのフランチェスコ」に由来した名乗りだが(ついでながらこの人物は何度も映画化されており、そのうち「剣と十字架」だけ見たことがある)、意外にもこの名を名乗ったのは歴代法王で初。「フランシスコ」と呼び捨てにするのもしっくりこないせいか日本のカトリック団体では当初「フランシスコ1世」と呼ぶことにし、報道機関もそれにならっていたが、「『1世』と呼ぶのは『2世』が出現してからなんじゃないの?」と首を傾げていたら、やっぱりバチカンの方からその呼び方は正しくないと言われたようで、その後は「法王(教皇)フランシスコ」と呼ぶように変えたようだ。

 その新法王フランシスコさんだが、アルゼンチンはブエノスアイレスの出身ではあるが両親ともイタリア人。だから確かに初の南米出身の法王ではあるのだが、イタリア人としては長らく待ち望んでいた「イタリア人法王」であるとも言え(先代がドイツ人、先々代はポーランド人)、それもあって双方ともに歓迎ムードであるらしい。アルゼンチンとイタリアと聞くと、どうしても「母をたずねて三千里」を連想するが、実際にアルゼンチン人の実に6割くらいがイタリア系の血を引いているというから、結びつきは思いのほか強いのだ。

 しかしやはり「南米出身」というのはカトリック信者が大半の南米諸国にとっては大変なことで、熱狂的とも思える反応があった。アルゼンチンのマラドーナは「神の手のおかげ」と名(迷)セリフを吐いていたし、アルゼンチンの大統領はさっそく新法王に面会して、先ごろ住民投票で99%が英領であり続ける意志を示したフォークランド諸島(マルビナス諸島)について法王にイギリスとの仲介を要請したりしていた(もちろん法王は関わり合いになるまいとかわしたけど)
 アルゼンチンだけではない。つい先日チャベス大統領が死去したばかりのベネズエラでは、後継者のマドゥロ暫定大統領が「司令官(チャベス)が天に登り、キリストと対面していることをわれわれは知っている。南米出身の法王が選ばれたことに何かが影響し、新しい誰かがキリストの下に行き、『そろそろ南米の時期が来たようだ』と告げたのだろう」とまで演説してしまった。おいおい、自称21世紀の社会主義者のチャベスさんに天国でキリストに会って法王を推薦するような趣味はないと思うんだが(もちろん無神論者だったとは限らないけど)「彼はすぐにも天国で憲法議会を招集してこの世の教会に変革を与えるかもしれない」とまで言っちゃったそうで、チャベスさんは天国での革命まで期待されているようである(笑)。しかし天国も議会制なのかよ。
 そのチャベスさんといえば、当初はレーニンなど社会主義指導者の先達の例にならって遺体の保存が発表されていたが、とりかかりが遅かったらしく断念したとのこと。本人の意思なのかどうか知らんけど、それでよかったんじゃないのかな。

 ところで日本人には「フランシスコ」と聞くとどうしても日本にキリスト教を伝えたフランシスコ=ザビエルの名を思い出す。新法王フランシスコもザビエルとは同じ名前というだけの縁ではない。実は新法王はザビエルがその結成に関わった「イエズス会」の会員でもあり、実はこれまた史上初の「イエズス会会員法王」でもあるのだ。先代の退位も歴史的事件だったが、この人も就任しただけでいろいろと世界史的画期をなす法王になっちゃったわけ。



◆まだまだある昭和秘史

 3月7日にこれまで機密とされていた日本の外交文書がゴソッと公開され、敗戦直後の占領期から1970年代に至る昭和後期を中心とした「秘史」がいろいろと明らかになった。その中で特に面白いと思ったものをまとめてみよう。

 日本が敗北した1945年は、同盟国ナチス・ドイツの敗北の年でもある。4月30日にヒトラーは愛人のエヴァ=ブラウンと共に自殺したが、その遺体は遺言により焼却され、ソ連軍も回収できなかったと言われる(何年か前に「ヒトラーの頭蓋骨?」なるものがロシアで出て来て「史点」で話題にしたこともあったな)。そのため「実はヒトラーは生きていて、南米あたりに亡命している」なんて噂がしばらく流れたりもしたわけだが、実は「ヒトラーとエヴァが日本への逃亡を計画していたと日本人が証言」なんて記事が日本の降伏直後の1945年10月19日にアメリカ軍の機関紙で報じられていたのだった。
 今なら「与太話だな」とすぐ分かる話ではあるが、この当時はそこそこのリアリティがあったのだろう。どうやらその記事ではヒトラーの日本逃亡には日本政府も関与し、潜水艦を派遣してヒトラーを日本に連れてくるという話になっていたようだ。大戦中、日本とドイツの間では潜水艦による連絡は確かにあったのだが(この話、吉村昭「深海の使者」が詳しい)、大戦末期には連合軍によってその連絡はほぼ完全に途絶させられてしまっていた。だからヒトラー本人が日本に逃げてくるなんてとても無理だったはず。
 それでも噂くらいはあって、中には日本人でそういう噂を信じた人がいて「証言」らしきものをしちゃったからそんな記事も出たのだろう。たかが噂とはいえ米軍の機関紙にこんな話が載ったことに日本政府も神経質になったとみえ、10月21日にGHQとの窓口であった「終戦連絡中央事務局」が「日本政府は海軍も含め、ヒトラーやブラウンという名の女性をドイツから救出するいかなる計画にも関与したことはなく、日本の潜水艦がこの目的のためにドイツに派遣されたこともない」とわざわざ公式にGHQに伝えていたのだった。

 なんだかんだ言っても世界史的に見ればアメリカ軍は比較的抑制され寛大な占領軍であったし、日本もまれにみるほど従順な被占領国民だった(直前まで鬼畜米英と騒いでいたくせに抵抗活動はほとんど起きてない)。それでも占領軍の兵士たちによる横暴な事件がなかったわけではなく、またそれらの多くは報道規制もされ一般に知られることもほとんどなかった。今回公表された外交文書には占領初期のそうした事例がいくつか明らかにされた。
 日本政府がGHQに提出した資料によると、8月末の占領軍の進駐から9月末までの1ヶ月の間に、米軍兵士が関与した事件として、殺人が5件、強姦(未遂含む)は44件、誘拐が7件、住宅侵入が18件起きていたという。これを多いと見るか少ないと見るかは人によるだろうけど、近ごろ米軍兵士の起こす事件が多発したことを思い合わせると今も「占領下」なんだなぁ、という思いもする。
 なかでも当時の日本政府が特に気にしていたのが皇室に対する「不敬」事件だ。この時点で皇室に対する米軍兵士らの行動で日本政府側が「犯罪」とみなしていた件数は8件あり、この資料でもそれらについて具体的に記していることからかなり神経質になっていたことがうかがえる(まぁそもそも「国体=皇室護持」を究極目標にしてたし)。桜田門で米兵が警備員から拳銃を奪ったとか、鹿児島では公民館に飾られていた天皇の写真が銃撃されたとか、神奈川県の葉山御用邸や、のちに皇籍離脱する竹田宮邸などに米兵が勝手に入り込んで物を盗んでいったケースもあったし、日光・田母沢御用邸に米兵と記者が押しかけて来て当時11歳だった皇太子(もちろん現在の天皇)に会わせろと強引に迫ったとか、いろいろとあったようだ。いずれも他愛のないもので済んだみたいだが、「民主国家」であるところのアメリカ人たちには皇室の存在そのものが物珍しかったんじゃないかと。

 ちょっと時代が離れて、高度経済成長期の1971年。その年の9月27日にアラスカのアンカレジで、ヨーロッパ訪問からの帰りに立ち寄った昭和天皇とアメリカのニクソン大統領の会談が行われた。もちろん昭和天皇は政治権力を持ってはいないのでこれ自体はあくまで儀礼的なものになるはずだが、アメリカ側がわざわざこの会談をセッティングし、しかも両国の外相(アメリカは国務長官)も同席しての会談形式を強く要請、日本側が「それは天皇の政治利用ではないか」と難色を示していたという事実が当時の日本の駐米大使と外相の間で交わされた電文から明らかになった。
 このとき日本の総理大臣は佐藤栄作で、外相はのちに首相となる福田赳夫だった。アメリカ側は8月初めの段階で「天皇と大統領のみの会談に30分、両外相を交えての会談に30分」と提案、さらに会談の意義を強調するコメントの発表まで予定していた。日本側は外相の同席が政治的色彩を帯びることに懸念を示し、コメントについても「政治色を帯びないように」と注文を付けた。その後アメリカ側は会談直前の9月20日ごろになって「天皇・大統領会談に10分、外相同席会談20分」と再提案。これに福田外相はキレた。
 9月20日の駐米大使あて公電のなかで福田外相は「米側はアンカレッジが欧州諸国御訪問の途中のお立寄りに過ぎないことを忘れたかの如き非常識な提案を行う有様で、わが方としては迷惑千万である」とかなり強い調子で非難をしている。そもそもアンカレジに用があるはずもなくヨーロッパ帰りに給油・休憩のために寄るだけで、そこに大統領が慌ただしく会いに来るのが異例。しかもアメリカ側が外相同席の形式に執拗にこだわり、儀礼的な天皇・大統領のみの会談は10分と短くしたことについても「本来儀礼的行事である今回の御会見はTop4(天皇皇后および大統領夫妻)の御会談が主であるべき。これを写真撮影に終始させるような考え方はわが方としては到底受け入れられない」と怒り、政治的会談とするにしても今回の場合は外相らは挨拶以外のことはできないにも関わらずそちらのほうに時間をかけることについて「日本人に天皇陛下を政治会談に引込まんとしたとの印象を与えるのみで、米側にとっても決して望ましいことではない」と強い懸念を示していた。
 結局9月27日の実際の会談では「Top4」の写真撮影&歓談に15分、天皇・大統領のみの会談に25分、両外相同席形式で10分という一応日本側の意向を受けたスケジュールになったとのことだ。なお、この会談の際の昭和天皇の発言を記録した外交文書は黒塗りの未公開とされたとのことで、もしかして何か問題発言でもあったりするのか…

 ところでこの会談、どう見たってアメリカ側が天皇を政治利用しようとしていたわけだが、なんでそんなことをする必要があったのか。その答えはこの時期は日米関係がかなり微妙になっていたからだ。
 この会談の話がもちあがる直前の1971年7月、ニクソン大統領は電撃的に「来年、中国を訪問する」と発表、世界を驚かせている。それまで東西冷戦構造のなかでアメリカは社会主義陣営である「中華人民共和国」を承認せず、台湾にある「中華民国」政府を中国正統政府と認めていた。ところがこのころ中国は同じ社会主義国であるソ連と激しく対立、アメリカもベトナム戦争の泥沼化にも苦しめられて外交の打開を迫られており、お互いに極秘裏に接近を図っていた(そのきっかけが先日話題にした「ピンポン外交だ)ヘンリー=キッシンジャーがニクソンの密使として中国に赴いて毛沢東周恩来らと接触、その結果電撃的な訪中発表に至ったのだが、これについて日本政府は全く蚊帳の外に置かれていた。「ニクソン訪中」の日本政府への事前通告も米中同時発表のほんの数分前のことで、一言の相談もなかったことに佐藤栄作首相は激怒したと言われている。外相である福田赳夫も当然寝耳に水のことで、今度公開された公電でもそんな感情がなんとなく垣間見える。また、だからこそアメリカ側は日本との関係がギクシャクしてはいないと世界にアピールする必要を感じて「天皇」を利用しようと画策したのだろう。それがまたよけいに日本の不快感を招いちゃったみたいだが。
 この翌年、アメリカの後を追う形で田中角栄首相が訪中し「日中共同声明」により国交樹立するのだが、そのときキッシンジャーが日本のことを「裏切り者」呼ばわりした事実も近年明らかになっている。発覚当時僕も「それをあんたが言いますか」とツッコんでしまったものだが、今度の秘史公開で改めて日米関係も紆余曲折あったんだなと思わされた。



◆ホントに停戦が来るど?

 現在内戦の真っ最中のシリア北部、それからこの3月でちょうどイラク戦争開戦10年となるイラクの北部には、クルド人が多く居住する地域がありれ悪い言い方をすれば内戦のドサクサに紛れ、それぞて半独立国状態を造り上げつつある。とくにイラク北部の油田地帯を抑えたクルド人地域はただいま経済成長の真っ盛りであるそうで、先日もテレビで近代的なビルが次々と林立し「第二のドバイ」などと呼ばれているという現地のリポートをやっていた。そんなところに韓国企業が盛んに進出しているというのにも驚かされたが、「第二のドバイショック」なんてことになったりせんだろうな。

 そんな状況に危機感を抱いていたのがやはり国内に1200万人以上という多くのクルド人を抱えるトルコ。トルコではクルド人の独立を掲げる「クルド労働党(PKK)」によるテロ活動が1980年代以来継続していて、すでに双方で一般市民も含めて4万人を超える犠牲者を出している。経済成長してEU入りの悲願も果たしたいトルコにとってはアキレス腱とも言える問題で、特にイラク戦争の結果イラク北部にクルド人支配地域ができてからはPKKがそこを拠点にして活動するようになったし、現在のシリア内戦でもトルコとの国境付近が似たような情勢になってきて神経質になったトルコ軍がシリア側のPKK拠点に空爆をしかけたりしている。

 さてそんな状況の中、3月21日にPKKのアブドゥッラー=オジャラン党首が「停戦」を宣言、どうやらついに和平実現の見込みが高そうだとの報道があったからちょっと驚いた。PKKの創設者であり指導者であるオジャラン党首だが実はとっくに14年も前の1999年にケニアでCIAやモサド、トルコ政府の協力により拘束され今も獄中にある。一度は国家反逆罪で死刑判決も出されているが、終身刑に減刑されている(これもまたトルコが加盟を悲願としているEUが死刑廃止を条件にしているため)
 一応逮捕後は彼自身は武装闘争路線は放棄しているらしく、PKKは1999年と2006年に「停戦」を宣言したことがある。しかし政府側が応じない一方的なものであったため、停戦は実現せずテロは続いた。しかし現在のエルドアン政権は昨年秋からオジャラン党首と和平交渉を進めていて、その結果今回の「停戦宣言」につながったという。思い返せばエルドアン首相もイスラム系政党を率いていたために逮捕されていた過去もあるし(トルコは建国以来「世俗主義」を国是としたため)、ある意味似た立場だったと言えなくもない。エルドアン首相はクルド語のテレビ放送を許可して多文化主義の姿勢をアピールしているし、独立運動の一つの要因である南東部のクルド人地域の経済発展のために同地への公共投資も増やしていて、それはもちろんクルド人問題をいい加減解決しないとという姿勢なんだろうけど、EUへのアピールという面も大きい気がする。
 今度の停戦協議ではPKK側が数千人の構成員をイラク北部に撤退させ、今後はあくまで自治権拡大と独自文化の尊重を求める運動に徹するということになるらしい。そのイラク北部も「独立国」ではないにしても実質独立自治州状態だし、無理に「独立」を言いたてることはない、という判断もあるかもしれない。

 ただPKK側も一枚岩ではない。党首とはいえずっと獄中にいるオジャラン氏の影響力がどこまであるのか分からない。実は今年の1月10日、フランスのパリでクルド人活動家の女性三人が頭部を銃で撃たれた他殺体で発見されるという物騒な事件が起きている。その三人のうちの一人はPKKの創設メンバーでもあり、パリのクルディスタン情報センターの所長にして「クルディスタン民族会議(KNK、本部はベルギー)」のパリ代表も務めているという大物だった。そろって頭部を撃たれていることからフランス当局は「明らかに処刑」とみなしていて、「オジャラン党首が和平に動き出したので、その妨害を図る勢力の犯行では」との見方も浮上しているという。こんな話を見ていると、ことはそう簡単には進まないんじゃないかなぁ、と思う。

 そもそもこの「停戦宣言」発表の時期もちょっとひっかかるんだよな。今回で五度目の五輪立候補となるイスタンブールにIOCの現地視察が入る直前だったもんで、そちら向けのアピールという気もしなくはない。「平和の祭典」にぴったりでしょ、という演出だったりして。



◆掘り出し物はあるもので

 アメリカでガレージセールで3ドル(300円弱)で購入した白磁の碗が、実は中国北宋時代の貴重な逸品と分かり、オークションにかけられてなんと222万5千ドル(約2億1千万円)もの大化け価格で落札されたとのニュースが世界を騒がせた。宇宙世紀のマ=クベ大佐も言ってたが、やっぱり北宋の磁器はよいものなのでありますな(笑)。
 しかし素人目には日常的にご飯に使ってる茶碗とそう変わんないような気もするので3ドルで売っていたのも無理はないと思う。シャーロック=ホームズの一編『高名な依頼人』で「明朝の磁器」の逸品が登場し、ホームズいわく「全セットそろえば捕虜になった国王の身代金くらいはする」とされるのだが、そのドラマ版(もちろんジェレミー=ブレッド版)で映されたその磁器も今度の磁器と似た「普通のお茶碗」な感じだったのを思い起こしてしまった(もちろん撮影用小道具であって本物の逸品のわけはないけど)。今度大化けした磁器はほぼ同じものが大英博物館に一つしかないと報じられていたが、『高名な依頼人』に出てくるその磁器もイギリスには一個しかないと説明されている。それを億単位の値段で買ってしまう人はホームズの時代からいたってことですな。


 イギリスのナショナルトラストに2010年に寄付、つまりタダで譲られた絵画が、なんとあのレンブラントの真作だと鑑定されてしまい、時価3000万ドル(約29億円)に大化けしたとの話題もあった。
 もっともこの絵、これまでノーマークだったわけでもない。そもそもこの絵はレンブラント当人の肖像画である。1635年、当時29歳のレンブラントを描いたもので、タッチもなんとなくレンブラント風味なので「レンブラントの自画像」との見解もすでにあった。しかしこれまでのところレンブラント当人の筆とするには疑問点も多く、「弟子の作品」ということにされていたのだった。だがレンブラントの自画像に関する研究が進み、新たな状況証拠も加わって来て、今回さらにX線検査のうえレンブラント研究者による再鑑定が行われて、結局レンブラント当人の作らしい、ということで落ち着いたとのことだ。まぁどっちにしてもナショナルトラストが売りに出すとは思えず、値段についてはどうでもよくなるんじゃないかな。

 掘り出し物ではなく、正確には「引き揚げ物」なのだが、アポロ計画で使用されたロケットエンジンがおよそ40年ぶりに海中から引き揚げられた、という話題もあった。引き揚げたのはあの「アマゾン・ドットコム」の創業者にしてCEO、ジェフ=ベソス氏であったというのも面白い。
 ベソス氏は1969年のアポロ11号の月面着陸の時はまだ5歳だったが、この快挙に大きな夢を持つことの大切さを教えられ、いつの日か困難を覚悟でアポロのエンジン引き揚げを実行しようと心に決めたのだという(と書いてあったけど、5歳の時にそこまで考えてたのかなぁ?)。その後アマゾン創業で成功し、ついに夢を実現したというのだから凄い。アメリカの起業家って時々こういうビジネス外の大事業をやっちゃう人がいるが、そういうところもアメリカンドリーム気質なんだろうな。
 ベソス氏の調査団は過去の記録をもとに音波探知機を使用してフロリダ沖を調査した。そしてフロリダ沖の大西洋の海底4000メートルの地点で残骸を発見、アポロ宇宙船を打ち上げるための「サターン5型」に搭載されたF1エンジン二基を引き揚げることに成功したのだった。ベソス氏は引き揚げたエンジンはNASAの博物館で展示してほしいと言ってるそうだ。ああ、かっこいいなぁ。
 ところで元ネタにしたCNN日本語版の記事だけど、「フロリダ州沖の太平洋」という謎の文言がまだ直っていないな(笑)。


 これだけで記事をまとめようと思っていたら、寸前にもう一件発見ネタが飛び込んできた。ネタ元は読売新聞3/25日付。
 僕は茨城県南部在住者だが、この地域でも2年前の大地震の時に古い瓦屋根の建物ではずいぶん瓦が破損したし、古い土蔵なんかは壁が崩れてしまっている。茨城県のさらに北ではもっと被害が出ているようで、ひたちなか市のある土蔵も壁や瓦が崩れてしまっていた。その土蔵の所有者が片づけをしているうちに、一枚の古文書に「政宗」と読める部分があることに気付き、昨年秋に「茨城史料ネット」なるボランティア団体に連絡をとった。この団体はこの土蔵のように震災で壊れてしまった土蔵がその中にある文化財ごと処分されてしまうのを防ぐ活動をしているのだそうで、まさにこの団体にドンピシャの話だった。
 「茨城史料ネット」代表の高橋修・茨城大教授(日本中世史)によると、この文書はやはりあの「独眼竜」こと伊達政宗が出したもので(そういや先日TBS-BSで椎名桔平主演で政宗ドラマやってたな。あれも「東北応援企画」だったみたい)、政宗と敵対していた常陸の戦国大名・佐竹義宣の配下の小野崎昭通なる武将に送った起請文なのだそうな。小野崎は現在のひたちなか市の豪族で、政宗は彼に「那珂川の北の江戸氏(これもこの地域の豪族)の領地を与える」という趣旨のことを書いており、どうやら政宗は領地をエサに小野崎に佐竹を裏切れとそそのかしていたようなのだ。この起請文は天正17年(1589)のものというから、政宗がまさに絶好調で領土を拡大していた時期。翌年には小田原参陣をして豊臣秀吉に頭を下げることになるわけだけど。
 地震や洪水で建物が壊れて新史料発見…というパターンは実際にあるのだけど、いわゆる「偽書」とされる怪しげな「史料」の発見にもよく使われるパターンなので注意が必要。これはさすがに大丈夫だと思うけど、よくとってあったもんだ。その小野崎さんは結局政宗の誘いに乗らなかったみたいなんだけど、なんかのためにとっておいたのかな。


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