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2013年4月1日

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◆今週の記事

◆巨星乙!

 先日、ロシアのウラル地方に隕石が落下、真っ昼間に人の多いところに落ちて来て衝撃波による被害も与えたもんだから、世界的に大きなニュースとなった。また、今や世界中でみんな携帯電話やスマホ、車載カメラなどの撮影道具を持ってるものだから、たちまちインターネット上にその瞬間の動画がアップされ、世界に拡散されたというのも「歴史的」な出来事だと言える。
 実は隕石なんてものは古来より年がら年中地球に落ちている。夜中に長時間星空を仰いでいれば、流れ星はたいてい見つかるものだ。そして一夜のうちに世界中で大勢の人が亡くなるわけで、「人が死ぬと星が落ちる」のも当たり前の話なのだが、未来予測を星占いに頼っていた昔の人が「大物が死ぬとその人と対応する星が落ちる」と考えたのも無理はない。おかげで今でもさまざまな業界で大物が亡くなると「巨星墜つ」とよく表現される。

 その「巨星墜つ」のイメージの大きな源流となっていると思われるのが、中国・三国時代の英雄・諸葛亮、字「孔明」だ。諸葛亮は蜀の宰相として魏への北伐を繰り返し、とうとう西暦年、魏の司馬懿五丈原で対陣中に陣中で没した。蜀軍の動きに司馬懿が「諸葛亮が死んだ」と判断、蜀軍へ追撃をかけたところ蜀軍がいきなり反撃の姿勢を示したので「孔明の罠だ」(笑)とビックリして逃走、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ということわざになってしまった…というのもよく知られている。なお、このことわざを先年麻生太郎元首相が、急逝した中川昭一元議員への弔辞のなかで死せる中川、生ける保守を走らす、これが貴方が最も望んでいることだろう」とまるっきり意味を取り違えた引用をしたことがある(当人の意図とは別に一周回って正しいとの声もあったが(笑))
 
 ところで歴史小説「三国志演義」では諸葛亮は超人的な軍師に描かれ、星占いにまで長じていて、やはり星が落ちることによって他人の死をしったりしていた。そしてしまいには自身の死をも星占いで知ってしまい、寿命を延ばすための祈祷までするが結局果たせず、諸葛亮が死んだ直後に大きな星が落ちる。それで司馬懿が諸葛亮の死を知るというなかなか上手い展開になっていて、今日でも「巨星墜つ」という言い回しが使われるのは「演義」のこの名場面の影響が大きいのではないかと思う。
 横山光輝の漫画版だと車椅子に乗って外に出た孔明が夜空を見上げ、自身の星が落ちるのを見ながら死んでいたし、NHK「人形劇・三国志」ではそもそも孔明の祈祷効果(?)で星が落ちないことになっているなど、作品により脚色がいろいろ。中国で製作した連環画やドラマなどではそもそも星が落ちるのが非科学的という考えからか、五丈原で星が落ちる場面自体がなかった気がする。

 諸葛亮が死んだ時に星が落ちた、というのがまったくの「演義」の創作なのかというと、実はそうでもない。正史『三国志』蜀書「諸葛亮伝」の本文にこそその記述はないが、後年諸文献から多量につけられた引用注のなかに元ネタとなった話が載っている。それは『晋陽秋』という文献にある話で、「赤くてとがった星が東北より西南に流れて、諸葛亮の陣営に落ち、三たび落ちて二度は空に戻った。落ちたときは大きく、戻るときは小さくなっていた。にわかに、諸葛亮は亡くなった」(ちくま学芸文庫版の訳文による)と記されている。この書き方だと星が落ちるのが先か、もしくは同時だったように思えるのだが、「演義」はこの記述をもとに諸葛亮が死んだ直後のことに話を変えつつ赤い星が落ちて二度バウンドしたことはそのまま記しているのである。

 さて「赤くてとがった星」という表現は、実際に夜中にかなり大きな隕石が大気圏に突入し、大気との摩擦で皓皓と輝いている様を現しているものと思われる。先日のロシアでの隕石の映像を思い起こせば、なかなか正確な描写であることが分かるだろう。地面に激突して二度バウンドするなんてありえるのか?という気もするが、石を投げて水面に跳ねさせた経験をお持ちの方もいるだろう。隕石の大きさがそれほど巨大ではなく、入射角度が浅ければ二度バウンドすることもありえないではないという。してみると、この「星が落ちた」という話もあながちデタラメと否定はできないな、とロシアの隕石騒ぎの時に僕は考えていたのだ。

五丈原落星痕 そこへ、その考えを裏付けるようなニュースが飛び込んできた。中国の地方紙『愚節新報』が4月1日に報じたところによると、「五丈原の戦い」で蜀軍が陣営を築いていたと思われる地域に、計三カ所のクレーターの痕跡が確認されたというのだ。確認された場所は陝西省宝鶏市近く、その名も「落星郷」という地名のところだ。その新聞のウェブサイトに載っていた衛星写真を右に転載したが、確かに東北方向から西南方向へ、三つのクレーターが確認できる。こんなデカいものがなんでこれまで分からなかったのかとも思ってしまうが、そもそもはるか上空から見ないと分からないうえに、この五丈原地域は軍事演習場であったために外国人には非公開とされてきた歴史もあるので衛星写真もつい最近まで撮られなかったからなかなか気付かれなかったようなのだ。
 この地名は「演義」の人気が高まって以降に創作されたものとみられていたが、ここに実際にクレーターが三つ発見されたことで、ここに実際に隕石が落下し、二度バウンドしたという『晋陽秋』の記述が正確なものであると言えそうだ。

 さらに重大な問題がある。三つのクレーター跡を調べると、周辺に当時の蜀軍の武器や陣営の構築物なども発見され、そこには砕け散った痕跡や高熱で焼け焦げた跡が確認できたというのだ。調査チームによると、これは『晋陽秋』の記述の通り、「隕石が諸葛亮の陣営に落ちた」ことを裏付けるもので、その衝撃波と高温、そして激突の際の凄まじい衝撃で陣営が破壊されたことを物語るものとみている。ロシアの隕石の映像を見ても衝撃波だけでも大変な凄まじさであることがわかるし、まして二度もバウンドして地面に激突したら、落ちた地点では大変な被害が出たはずだ。
 『晋陽秋』の記述に立ち帰ってみると、隕石が落ちたあとに「にわかに諸葛亮は亡くなった」とある。唐突な記述で、これまでその解釈をめぐって議論があったのだが、調査チームは「諸葛亮は隕石の直撃を受けて死亡した可能性が高い」とする驚くべき新説を発表した。これまで諸葛亮は病気で陣没したとされていたのだが、そのような病状になっても出陣していたのは不自然との声もあり、隕石落下による事故死と考えるとつじつまがあうというのだ。

 そうなってくると、蜀軍の陣地が隕石の直撃を受けて破壊されたのを見ていたはずの司馬懿のことが気になるが、これについても調査チームでは、「司馬懿は隕石の凄まじい破壊力を見て、「げぇっ、孔明の罠だ」と驚いて逃げてしまった。これが『死せる孔明、生ける仲達を走らす』の真相ではないか」と話しているという。



◆百人一首の秘密

 「百人一首」といえば、新古今和歌集以前の和歌の名歌を一人一首ずつ百人ぶん集めたもので、今でも正月のカルタ遊びの定番。達人たちが凄まじいスピードを競う競技大会まであるくらいだが、僕自身は百人一首といえば「坊主めくり」くらいしか遊んでいない(笑)。女性の絵札を引くと札が手に入り、坊主の絵札を引くと自分の手札を捨てなければならない、というルールのため、子供心に百人一首の女性と坊主の名前を覚えてしまった。おかげで、いまだに能因法師とか俊恵法師とかいった坊さんたちにはいい印象を持っていない(笑)。
 百人一首を選んだのは平安末から鎌倉初期を生きた歌人・藤原定家。飛鳥時代の天智天皇から定家が生きていた当時の人まで100人を選出、その秀歌一首を集めたわけだが、100人の内訳は男性79名、女性21名。これでも女性は多く選出されてる方だと思う。原因は紫式部清少納言ら、平安中期の女流文学全盛期の人たちがごっそり入っているため。そして「坊主めくり」のために多くの子供を敵に回すハメになってしまった(笑)僧侶の数は計13名だ。
 
 さて、その「坊主」の中に、「蝉丸(せみまる)」という変わり種がいる。僕が子供の時に坊主めくりを遊ぶのに使っていた百人一首カルタでは一人だけ頭巾をかぶった姿をしていて、一見「坊主」に見えないのだが、「これは坊主扱い」と周囲に教わって遊んでいた。このため素性についてはまったく知らないくせに「蝉丸」という人の名前と姿はよく覚えてしまったのだ。


 最近になって調べてみたところ、蝉丸を頭巾姿ではなく坊主姿に描く百人一首カルタがあることを知った(上図)。それも坊主姿なのだがなぜか向こうを向いており、はげ頭の後ろを見せた絵になっている。なぜ蝉丸の描き方に二つのバージョンが存在するのか不思議に思ったのだが、どうもカルタ業者により昔から2つのバージョンが作られていたものらしい。この蝉丸に関して「坊主めくり」の一部地方ルールでは「蝉丸を引いたら全員がその札を出さねばならない」というトランプのジョーカーみたいな扱いを受けているものがあるのだそうだ。余談ながら「カルタ」はポルトガル語のトランプを指す言葉から入ったもので(現代英語の「カード」のことで有名な「マグナ・カルタ」も同じこと)、両者に縁が全くないわけではない。

 さてこの蝉丸という人、その素性はほとんど分かっておらず、この点でも百人一首メンバーの中の変わり種だ。平安初期に実在した人との話もあるが、実は皇子だったという説があるかと思えば、一介の乞食坊主だったとする言い伝えもあるというえらい開きのある人だ。要するにさっぱり正体不明ということになるが、「百人一首」に選ばれているのが不思議。もちろん「百人一首」は歌による選出なのでその歌だけが非常によく知られていたということなんだろうけど、他が身分の高い人ばかりなのでかなり不自然な感は否めない。定家はなぜこの人物を「百人」の中に入れたのだろうか?

 2013年4月1日、「承久の乱」により隠岐島に流されここで一生を終えた後鳥羽上皇の住居跡を発掘したところ、上皇が使用していた百人一首カルタ一式が発見されたという驚きのニュースが島根県教育委員会から発表された。百人一首自体が上皇の側近であった定家が流刑地の隠岐にいる上皇を慰めようと選出したとの説は前からあり、後鳥羽上皇がそのカルタを所有していても何の不思議もないのだが、そのカルタには現在のものと異なる点があった。坊主頭姿の蝉丸の絵札に、なんと式子内親王の名前が書かれていたのである。これにより蝉丸に関する長年の謎を解く衝撃の事実が明らかとなったのだ。そう、蝉丸の正体は式子内親王だったのである!

 式子内親王とは後白河法皇の皇女で、賀茂神社の斎院となった女性。「斎院」というのは賀茂神社に入って神に奉仕をする皇女のことで、言ってみれば皇族の巫女さんという神聖な存在である。ところがこの人、当時を代表する女流歌人で、大量の歌を詠み、『千載和歌集』や『新古今和歌集』などの勅撰和歌集にも多く採用されていて、情熱的な恋愛テーマの歌に人気がある。言ってみれば当時のアイドル歌手的存在なのであった。さぞかし美女だったのではと思うのだが、百人一首の絵札ではごらんのとおり、その顔がまったく拝めない姿に描かれることが多い。百人一首に出てくる女性たちの中でこんな描かれ方をしているのは彼女だけである。
 この人、実は藤原定家その人と恋仲だったとの噂がある。両者が深い関係にあったことは定家自身の日記からもうかがえるが、定家は微妙に踏み込んだ表現は避けており、男女関係だったという直接的証拠はない。しかし当時の「人気アイドル歌手」であるだけに「男の影」がちらつくことは重大なイメージダウン。おまけに彼女は「恋愛禁止」の斎院もつとめているのである。
 そこで式子はファンへのけじめをつけるとして頭を丸めて坊主になってしまった。これには定家はじめファンたちも大きな衝撃を受け賛否両論が巻き起こり、式子もすぐに髪を伸ばし始めたが、その途中経過はみっともないので頭巾をかぶってごまかし、長く髪がのびるまでは常に物影に隠れて顔を見せないようにしていた。蝉丸の絵に二種類あること、式子の絵がまるで顔を見せていないことは、その途中経過ごとに京都のカルタ業者が絵を作ったなごりというわけだ。それがいつしか事情が忘れ去られ、蝉丸と式子は別々の人間として扱われるようになってしまった、というわけである。百人一首メンバーでは柿本人麻呂猿丸大夫が同一人物だ、なんて説もあったりするから、考えられない話ではない。

◆百人一首問題に詳しい任天堂大学の宮本麻里男教授のコメント
 ジンギスカンが源義経と同一人物、というくらい驚きの発見だ。今後の「坊主めくり」にあたっては蝉丸の扱いについてもいっそう議論が起こるだろう。ゲームバランス上も重大な影響があると思う。




◆画期的無効判決

 塾で社会の講師をしているものだから、公民の授業の際に「三権分立」を説明する時、三つの権力がお互いに牽制し合うという実例があると都合がいい。国会と内閣に関してはその実例がしょっちゅうあるのだが、難しいのが「司法権の独立」を掲げる裁判所と他の権力の絡みだ。国会が裁判所を牽制するものとして、裁判官としてふさわしくない行為をした人物を免職するための「弾劾裁判」があって、実はつい先日珍しくこの例があったのだが、その弾劾の理由が女性がらみであるため中学の授業では取り上げにくい(汗)。

 逆に裁判所から国会に対する牽制として「違憲立法審査」がある。国会が作った法律が憲法に違反してますよ、と裁判所が判断を下すケースで、近ごろ話題の衆議院選挙における「一票の格差」が国民の平等権を侵害するレベルに達していると最高裁が違憲判断を示したことは授業でも大いに使わせてもらった。だから昨年、いつ衆院解散かと話題になっていた時期でも、「そもそも法律を改正しないと選挙はできないんじゃないか」との声はあった。結局「できる」ということでやっちゃったわけだけど、そのことに対する司法側の不満がこのところ相次いだ各地の「違憲判決」として表れたものだと言える。その多くはさすがに選挙の無効そのものは認めなかったのは予想の通りだったが、一部でついに選挙そのものが無効とする判決が出たことは画期的だった。まぁ最高裁でひっくり返される可能性大とは思うが、タカをくくっていた立法側をちょっとだけビビらせたことは間違いない。もしかすると一度決まった勝負をなかったことにして、歴史の展開を変えてしまうことだってありえるわけだ。

 さて本日4月1日に、司法界はまた一つ画期的な判決を下した。名古屋高裁岐阜支部が、413年前の慶長5年9月に行われた「関ヶ原の戦い」について、西軍に参加した兵士たちの子孫で作る訴訟団の訴えを認め、一審での原告敗訴の判決を破棄し、「合戦無効」とする判決を下したのだ。四鹿月馬裁判長は西軍の石田三成らが挙兵にあたって発した家康弾劾状「内府ちがひの条々」の内容を有効と認め、豊臣秀吉の死後、家康が各種誓約を破って政権を手中にしたこと、本来は私的理由でありながら豊臣政権の公式活動として上杉景勝の討伐の軍事行動を起こしたことなどが当時においては憲法に相当する秀吉の遺言状に違反する「違憲状態」であると認定、その状況下で行われた関ヶ原の戦いについても「無効」の判断を下したのだ。

 「違憲」の判断のみならず「合戦無効」という異例の判断にまで踏み込んだ理由について四鹿裁判長は、関ヶ原の戦いにおける参加者の問題にも言及した。よく知られているように関ヶ原の戦いでは事前に家康は西軍内部に内通者を持っていて、西軍参加者の多くが現場では様子見に終始し、戦闘には参加しなかった。しかし出陣していた兵士たちの多くは当然手柄を立てようとやる気満々で参戦したわけで、これは兵士たちの「参戦権」を侵害するものである。そしてこれまたよく知られているように、一時は西軍有利かにみえた戦況は小早川秀秋の突然の寝返りがさらに寝返りを呼んで一気に急転してしまい東軍に勝利をもたらしたが、これは本来西軍に参加した兵士たちの「自己決定権」を侵害している、と指摘したのだ。
 さらに東軍・西軍は人数はほぼ拮抗していたが、当時は日本の首都圏であり人口の集中する地域であった近畿・中国地方からの軍勢と、まだ田舎で人口も希薄だった中部・関東の軍勢とでは徴兵の厳しさに差があり、母数何人から兵士一人を選ぶかという「一兵の格差」が許容範囲を超える2.4倍にまで及んでいることも無効判断の根拠としている。

判決に喜ぶ訴訟団 訴えを起こした「関ヶ原の真実を求める会」会長の石田二十三成さんは「合戦そのものの無効を認めた画期的判決。東軍側には上告をせずに合戦のやり直しを求めていく」と喜びの声で語った。一方、訴えられた「関ヶ原東軍戦友会」会長の井伊彦弐安さんは「乱暴きわまる判決だ。これが認められるなら、歴史上の過去の合戦の多くがやり直しを迫られるではないか」と困惑の色を隠さない。

◆過去の合戦をめぐる裁判に詳しい京都六波羅短大の諸葛(もろくず)亮教授のコメント
 過去の合戦について無効判決が出たことは、今後大きな影響を及ぼすだろう。これに続いて各地で同様の訴訟が起こるのではないか。また関ヶ原のように歴史的に大きな影響を残した合戦が無効となると、その後の江戸幕府成立、さらには明治政府の成立根拠にも疑義が生じる。また合戦のやり直しには多くの人命とコストが課題だ。TVによる生中継の放送権料などで採算を合わせる必要があるだろう。




◆「怪盗紳士」の正体!

 昨年はちょっとした「ルパンイヤー」だった。もちろん、アルセーヌ=ルパンの話である。原作者モーリス=ルブランの手になる未発表作『ルパン最後の恋』が本国フランスで発売され、ルパン大好きの日本でも年内に素早く二冊も翻訳(一方は児童向けアレンジあり)も出た。ルパンワールドを下敷きにしたイギリスのハードSF小説『量子怪盗』とか、やはりルパンワールドものの冒険小説『大空のドロテ』が出版されたし、お孫さんの方も原作に近いテイストのTVシリーズ新作が作られた。
 今年に入っても漫画『アバンチュリエ』の雑誌移籍による新展開とか、『最後の恋』の宝塚歌劇化、海外でのボードゲーム発売(輸入版をさっそく入手してます)とか、銭形警部で有名だけど実は実写版ルパンの声も担当していた納谷悟朗さんの訃報など、関連話題はまだまだ続いている。

 さて、アルセーヌ=ルパンのシリーズを書いて有名になったルブランだが、実はもともとはフロベールモーパッサンを師と仰いだ純文学作家であり、冒険だのミステリだのはまったく執筆経験がなかった。40を過ぎてから唐突にルパンシリーズを書き出し、それで大人気作家となってしまったのだが、彼自身はそれにコンプレックスを抱き、自分が作家の道に進むことを応援してくれたモーパッサンらに強い負い目を感じていたと言われている。ルパンシリーズを書き続けながらもポツポツと純文学作品も執筆していて、ルブラン自身が作家的姿勢を大きく転換させたというわけでもないのだ。
 それにしてもなぜこんな人にあんなエンターテイメントシリーズが書けたのだろうか?それもそれまでそんな素養はかけらも見られず、突然の執筆開始だ。この謎を解く一つのヒントがある。あまり知られていない気がするが、シャーロック=ホームズシリーズがホームズの友人のワトソンによる執筆という形(後期の一部にホームズ自身の執筆形式のものもある)をとっていたように、ルパンシリーズも「伝記作者」とされる人物が友人であるルパン自身から打ち明け話を聞いて小説に仕立てた形式をとっている。この「伝記作者」はルブラン当人とされていて、『ハートの7』事件でルパンと知り合い、『金髪の美女』『奇岩城』『太陽の戯れ』『結婚指輪』『白鳥の首のエディス』といった作品では物語中にも登場している。後期作品になると出てこなくなるが『カリオストロ伯爵夫人』の前書きにはこれがルパン自身の許可を得て発表するものとの作者のことわりが書かれ、『謎の家』『カリオストロの復讐』の前書きはルパン自身の手になるもので伝記作者についても言及がある。

 これら全てを小説にリアリティをもたせるための創作とみるのはたやすい。しかし純文学作家ルブランが急に方向性の違う作品をあれだけ量産し続けたのは、もしかすると「話の種」を提供する人物がいたのではないか、と想像することはできる。ルーブル美術館の「モナリザ」盗難事件が起きた際にはルブランは新聞の取材を受け「あなたのご友人のアルセーヌ=ルパンはその道の専門家では」と意見を求められた事実があるし、晩年のルブランが「夜な夜なルパンが私の部屋に忍び込んでくる」と訴え、警察に警備を要請したりベッドの下にピストルを隠していたというのも実際にあった話だ。これはやはりルパンという友人がルブランの身近に実際にいたということではなかろうか?
 そう考えるといきなりルブランがあんな作品を書き始めたことの説明がつくし、あれだけ人気を博しながらルブランが小説中でルパンを殺してしまおうとしたり、他のシリーズ開始を模索したこと、人気を博しながらもルパン執筆に負い目を感じていた原因も説明がつく。昨年刊行された『最後の恋』を含むルブラン晩年作品に、それまでの設定との矛盾がところどころで生じているのもルパン当人とルブランとの摩擦が原因と考えられる。

 というようなことをルパンファンの僕が考えていたら、「やはり」と思わせるニュースが報じられた。
 フランスの新聞「エコー・ド・フランス」紙電子版が4月1日に報じたところによると、南仏のペルピニャン郊外の墓地に、「冒険家アルセーヌ=ルパンここに眠る」とだけ彫られた小さな墓石が発見されたという。この文言は小説中でもルパン自身が「万一おれが死んだら墓にそう刻んでくれ」と言っていたとされるもので、周辺の住民は以前から気付いていたものの、誰かの悪戯だろうと思っていたそうだ。しかしルブランの著作権消滅もあってにわかにルパンブームになったのを機に研究者が墓の内部を調査したところ、ルパンが愛用していた片眼鏡(モノクル)が副葬品として発見され、にわかに「本物か」との騒ぎとなった。残念ながら遺骨について調べても警察などに残るルパンの身体測定データは彼自身の工作により全てデタラメなものに変えられていることが明らかとなっていて(『ルパンの脱獄』)、これが当人のものかどうか確認しようがないという。DNA鑑定をしようにも子孫たちの存在も確認できないため手の打ちようがない。
 ただ、近隣住民の証言によると、ある時期まで彼の娘と称する人が墓参りをしており、その娘の息子、つまり孫だという東洋系のサル顔をした男性が時折墓参りに来ていたという。現在ペルピニャン市ではこれを機に「ルパンによる町おこし」を計画、ゆるキャラ「アルちゃん」や、現地産ブドウを使った「ドロボー・ワイン」などの商品発売などを企画中で、遺骨の確認のためにもその東洋系との混血の孫という男性が名乗り出ることを期待しているという。


2013/4/1の記事
(間違っても本気にしないように!)

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