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2013年4月17日

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◆サチコっていうんだホントはね

 イギリスの元首相にしてイギリス史上初の女性首相でもあり、なんだかんだで1980年代に大きな存在感を持っていたマーガレット=サッチャーがついに死去した。「ついに」と書いちゃったのは、ここ十年ばかり認知症を患ってすでに実質的にこの世の人ではない状態になっていたため。メリル=ストリープが彼女を演じてアカデミー主演女優賞をとった映画「マーガレット・サッチャー鉄の女の涙」(原題は「Iron Lady」で、邦題は過剰包装)が英米で公開されたのは一昨年のことだが(明らかにフォークランド紛争30周年にぶつけたもの)、当人が存命のうちにその伝記映画が作られてしまったのも実質生きてる状態ではなかったためだ。
 この映画は主人公のサッチャー女史が認知症により現実と夢想が渾然とした恍惚状態(すでに死去したはずの夫が普通に彼女と暮らしていたりする)の中で自身の生涯を振り返るという、実際の状況を逆手に取ったユニークな内容で、これだとかえって生きてるうちに作らなきゃ意味がなかった。ただ当然映画だけに事実に脚色はかなり入っているし、その政策の描写についても遺族は「左寄りだ」批判的であるという。

 僕は子どもの時にこの人が首相やってた時代をリアルタイムで見ている。1982年のアルゼンチンとの「フォークランド紛争」なんかはすでに「歴史好き」を意識していた僕にとってはほぼ最初に「現在進行形の歴史的事件」ととらえた事件で、その意味ではこんな「史点」なんか書くことになるルーツでもあったりする。
 マーガレット=サッチャーが政治の世界に飛び込んだのは1950年のこと。1959年にようやく下院議員に初当選し、1970年に教育科学相として閣僚入り。そして1975年に行われた保守党党首選で当初党内右派の立候補者の本命だった人物が出馬をとりやめたために代わりに彼女が立候補して当選、初めての保守党の女性党首となった。のちに彼女の代名詞になる「鉄の女」の異名は、この党首時代のソ連に対する強硬姿勢からソ連の国防省機関紙の記者が皮肉をこめてつけたニックネームだった。今回の訃報を受けて「あれは私がつけた」と名乗り出た記者がいたっけな。

 1979年に選挙で保守党が勝利、サッチャーはイギリス史上初の女性首相に就任する。「サッチャリズム」と呼ばれることになる彼女の政策はいわゆる「小さな政府」を掲げるもので、国営企業の民営化や規制緩和、労働組合の影響力削減、金融システム改革と産業構造の改変といった政策をかなり強硬に推進した。これによってイギリスが「英国病」と呼ばれた経済低迷を脱したとの評価もあるが、一方で失業者を増大させ社会保障も切り詰める「血も涙もない政策」との激しい非難も受けた。今回彼女の訃報を受けてイギリスで追悼の声一色でもなく抗議活動、なかには彼女の死を「祝う」イベントまで行われたあたり、相当に恨みを買ってた人でもあるのは確かなようだ。

 実際彼女がその政策を推し進めた時期は支持率も急速に下がり、一時は政権失陥の危機すらあったのだが、それを切り抜けられた一因はやはり「フォークランド紛争」にある。1982年にアルゼンチンの軍事政権が国内の不満を外に向ける目的で以前から領有主張をしている「マルビナス諸島」を攻撃、占領したのだが、さして人口がいるわけでもないこの島々のためにイギリスが本気で奪回したりはしないだろうとタカをくくっていたフシがある。しかしサッチャーは持ち前の強硬姿勢から周囲の慎重姿勢も押し切って(「内閣の中に男が一人だけいた」といった閣僚がいたそうで)武力行使による奪回に踏み切る。結果から言えば圧倒的勝利の大成功で、当初アルゼンチン政府が狙っていた国民人気をサッチャーが勝ちとることになり、彼女の支持率は急上昇、長期政権とますますの強硬姿勢につながることとなった。

 サッチャーは1990年まで首相をやっていたから、ちょうど冷戦の終結時期に居合わせたことになる。同時期のアメリカのレーガン政権と並び称せられ、「彼らが冷戦を終わらせた」なんて声まであるが、実のところソ連をはじめとする東側諸国がすでに末期状態になっていたというタイミングの問題だと思う。確かにゴルバチョフ元大統領はサッチャーの訃報を受けて「冷戦を終わらせた」ことを評価するようなコメントを出してたけど、あれは「対話の場を持った」という意味での評価に聞こえた。実際、ゴルバチョフが登場してきたとき、素早くその重要性を見抜いて「彼とはビジネスができる」とサッチャーが言ったというのは有名な話だ。また中国との間では香港返還の方向を決定づけてもいて強硬一辺倒だったわけでもない(そのせいか死去を受けての中国での報道は割と好意的だったみたい)。まぁそのことも含めて政治家としてのセンスは確かにあったのだろう。

 サッチャーの「成功」を見て、「新保守主義」「新自由主義」と呼ばれる政策が各国でもてはやされた。日本だと同時期に国鉄や電電公社の民営化に踏み切った中曽根康弘政権が何かと比較されるし、小泉純一郎政権もその流れの中にある。あとサッチャーは自国の歴史教科書の人種問題や植民地に関する記述を「自虐的」と言ったり教育に競争原理を導入しようとした先駆けで、これも何かとマネしたがる人たちがいる。
 ただ自信を持ちすぎちゃったためか、人頭税(消費税以上に低所得者層にキツい)の導入を強行して猛反発を買い、イギリス保守右派らしくEUに懐疑的な立場をあからさまにしたりしたため支持を失って1990年に辞任。それでも11年の長きにわたる政権はイギリス史上でも珍しい。なんだかんだでその後への影響も大きく、確かに歴史に残る政治家と呼ばざるを得ない。だからチャーチル以来となるエリザベス女王出席の準国葬の扱いで17日に葬儀が行われたくらいだが、前述のとおりその死を「祝賀」するイベント(ずいぶん前から計画されていたそうで)やら彼女を呪って「魔女は死んだ」と歌う替え歌がダウンロードトップになったりといった死去直後のいろんな反応を見てると今後もいろいろと議論の対象にされ続ける人なんだろうな、と思う。実際彼女以後のイギリス首相は代々それほど強い印象は残していない。
 1990年に首相を辞任しているから、「史点」に現役での登場はもちろんなかったのだけど、毎年恒例の「贋作サミット」に顔を出してもらったことはある。この記事のタイトルはその時使ったネタである(笑)。



◆裁かれる裁判官

 4月10日、国会の裁判官弾劾裁判所は大阪地裁の20代の判事補に対して「罷免」の判決を言い渡した。理由はこの判事補が昨年夏に電車内で女性のスカートの中をケータイの動画撮影機能を使って盗撮したため「裁判官としてふさわしくない」と見なされたことにある。不服の申し立てはできない仕組みになっておりこの判決で即確定。罷免されたこの人物は裁判官でなくなるばかりか退職金も出ず、弁護士など法律関係の仕事にもつけない。身から出たサビとはいえ、ちと可哀そうな気もしなくはない。
 前回の四月バカ記事でも書いたが、中学校の公民で習う「三権分立」では立法・行政・司法の三つの権力が互いに牽制し合い権力の集中を防ぐ機能がある。その中で国会の裁判所に対する牽制機能として紹介されるのが「弾劾裁判所」だ。裁判官は公正な裁判を行うために他の権力の影響を受けないようにする必要があり、「司法権の独立」などといって裁判官の地位はめったなことでは失わないようにされている。そんな裁判官が何らかの不祥事を起こした時に「裁判官としてふさわしくない」と判断してその地位を奪い取ってしまうのがこの「弾劾裁判所」。身内の裁判官に裁かせるわけにもいかないので「国民の代表」である国会議員が裁判官&検察官をつとめることになっている。
 出題率は高い「弾劾裁判所」だが、実例はそう多くはなく、今回で七人目だそうである。10年くらい前にも一度あった記憶があるが、その時でも30年ぶりとか言われていたような。あれはストーカー行為をしたんだったかな。今回の例も含めてあまり中学生向けには話しにくいので社会のセンセイとしては悩ましいのである(笑)。

 「弾劾裁判」自体の事例は少ないのだが、じゃあ日本の司法界が本当に「独立」してるのかとなると、実のところずいぶん怪しい。国というか時の政権を相手にした裁判では上の裁判所に行くほど政府よりな判決が出るのは恒例になっていて、たまに政府側に不利な判決が出たとしても地方裁判所あたりの退官間近な裁判長が出すのが定番だ。時として権力の暗部に切り込むこともある検察にしても、どうもその時の政権の意向を受けてるようなターゲット探しをしているとしか思えないことがあるし、数多くの冤罪事件の事例を見ても「公正な裁判」なんてホントにやってるのかと思えてくる。かの米沢嘉博も漫画のわいせつ表現をめぐる裁判の判決に対して「三権分立は否定され、現行の司法システムに則っておらず、憲法や刑法さえないがしろにされている」と断言したことがあったっけ。

 そんな司法側が立法府の国会に対してイチャモンをつけるのが「違憲立法審査」というやつ。これの実例がいわゆる「一票の格差」を理由とした昨年の衆議院選挙の違憲判決で、一部には選挙そのものの無効まで踏み込んだのは「おっ」と目を引いた。ただ最高裁でそれはひっくり返されそうだな、と予想は出来ちゃうのだが。
 しかしそれは国会側、というか与党側にはやはり面白くなかったようで、先日衆院の憲法審査会では「憲法第47条で選挙制度は憲法が直接法律に委ねているのだから、適合するかの判断は第一義的に国会に委ねられる」と超絶的解釈を出した自民党議員がいた(それを言い出すと憲法の中で「法律でこれを定める」と書いてある条項は全部国会のやりたい放題になってしまうんだが…)。他にも「『鳥取と東京に一票の格差があるからけしからん』という声を、聞いたことがない。国民感覚を代弁しているのか」と言った議員もいたという(単にあんたが聞いてないって話では)。「判決は重く受け止めなければならないが、裁判所の判断には誤りがないことが前提になってしまっている」として司法のチェック機能強化を求めた議員もいたそうだが、一連の発言を聞いてると国会議員の皆さん方の憲法や法律の理解度がかなり怪しくなってくるし、こういう状況があるからこそ司法側もあんな状態なんだな、とも分かってくる。
 いま声高にぶち上げられてる「96条改正」にしても、急に誰かが思いついたものらしく(前から言ってた人はいた気がするけど現実問題になってきたのはここ最近だと思う)、なんだか「願い事を一つだけかなえてあげる」と言われて「願い事を三つにしてくれ」と願う屁理屈に似たものを感じてしまう。確かにやっちゃいけないとは書いてないけど、そんなことは本来それこそ「想定外」なんじゃないかと。戦前でも憲法の「統帥権」の拡大解釈を政治家たちが政争の具にしてひどい結果を招いた例もあるし、どうもあぶなっかしい。


 さて長い前置きの末に本題だが、1957年に立川の米軍基地に基地反対派のデモ隊が入りこみ、7人が起訴された「砂川事件」の裁判について、当時の最高裁長官が判決を下す前に公判の日程や判決の見通しなどについてひそかにアメリカ側に情報提供をしていた事実が、機密指定を解除されたアメリカの当時の駐日大使の公電から確認された。そういう事実があったであろうことは当時から強く疑われていたし、すでに他の史料からもほぼ確認済みだったが、今回の公電の確認で完全に証明されたことになる。
 「砂川事件」は1959年3月に東京地裁で第一審の判決が下り、伊達秋雄裁判長は「米軍の日本駐留は『戦力の保持』にあたり憲法第9条違反」との判断を下して被告全員を無罪とした。この判決は「伊達判決」と呼ばれ、日米安保条約と日本国憲法の矛盾を突いて大きな議論を呼ぶことになったのだが、このときアメリカの駐日大使ダグラス=マッカーサー2世(あのマッカーサー元帥の甥である)はこの判決が当時進められていた安保条約の改定に悪影響があるとして検察側に高裁への控訴を飛び越えて直接最高裁に上告する「跳躍上告」(刑法で、違憲判決が出た場合そういう選択肢があるのだそうな)をするよう勧め、実際その通りになった。そしてその年の12月に最高裁は「安保条約は高度の政治性を有しているので司法審査の対象外」として一審判決を破棄した。結局この裁判は差し戻しのうえ1963年に全員有罪の罰金刑で確定してしまうことになるのだが、今回確認されたマッカーサー駐日大使の公電では、その最高裁での公判が始まる3日前の7月31日の段階で、当時の最高裁長官・田中耕太郎が「共通の友人宅」でアメリカ大使館の首席公使と密談していた事実がはっきりと書かれていたのだ。

 しかもその密談の中でアメリカ大使館側は「同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがることが問題になる」と裁判の進行についてかなりあからさまな要望を示し、田中長官もそれを受けて「結審後の評議は、全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っている」とまだ公判も始まらないうちから判決の「希望」を漏らし、「判決はおそらく12月だろう」と日程まで示したという。政治家同士とかなら分からんでもないのだが、司法界の頂点にいる最高裁の長官が他国の外交官にこういうことを露骨にしゃべっちゃっていた、という事実にはさすがに唖然としてしまう。最高裁が日米両政府の圧力を受けたのだろうという疑惑は当時から上がっていたのだが、田中長官が「司法権の独立からそんなことはありえない」と堂々と反論してる当時の映像がこの発見を報じたニュースでも流れていたが、まさにヌケヌケとウソをついていたことになる。それこそ地獄で閻魔さまに舌を抜かれちゃってるんじゃないかと。
 当時は冷戦の真っただ中で、アメリカもかなり正気を失っていた時期でもある。マッカーサー駐日大使も「60年安保」を冷戦の最前線みたいに考えてムキになっていたようだし(後の駐日大使からもその姿勢は批判されてる)、当時の岸信介首相の政権側も現実問題として米軍駐留は必要という立場だったことは理解できなくもなく、この翌年には有名な「野党を締め出しての強行採決」という暴挙をやってしまうのも「時代」といえば時代だった。しかしそれにしてもこの介入と追従のありさまは露骨な…と驚かされた。その岸の孫の安倍晋三首相はサンフランシスコ平和条約が発効し占領が終わった1952年4月28日を「主権回復の日」として式典をするそうだが(これも元々は「主権が回復したら憲法は即破棄できたはず」という一部の論議と結びつくものだが、最近はその線はあまり盛り上がってない)、ちっとも主権なんて回復してなかったじゃん、という話なんである。



◆いっそ、ひこにゃん?

 滋賀県の彦根市と言えば、今や全国にはびこる「ご当地ゆるキャラ」の元祖的存在である「ひこにゃん」で知られている。あのネコがかぶっている兜は徳川家康の重臣で関ヶ原で活躍し彦根藩初代藩主となった井伊直政の「赤備え」の甲冑が元ネタになっている。しかし「井伊」と聞いて誰もが真っ先に思い浮かべるのは幕末の大老にして日米修好通商条約を結び、安政の大獄をやったあげく桜田門外の変で暗殺されてしまった井伊直弼の方だろう。直弼は直政の子孫には違いないがやたら多い兄弟のうちの十四男で、本来なら殿様なんてとてもなれない飼い殺しの部屋住みという立場だったが、幸運にも兄の養子となって井伊家家督を継ぎ、しかも複雑な政治情勢のなかで幕府の独裁者・大老の地位にまで一気に登ってしまった。しかしその結果があの惨死なのだから、人間の運不運というのはホント分からない。

 さて直弼死後、さらには廃藩置県ののちも井伊家は彦根では重きを置かれ、直弼のひ孫にあたる井伊直愛が1950年代から実に9期連続36年の長きにわたって彦根市長をつとめていた。のちに首相になった細川護煕が先祖が藩主をしていた熊本の県知事になってた例と並び称されていた覚えがある。さすがに10期連続は果たせず1989年の市長選で落選、その時当選したのが獅山向洋現市長で、去る4月14日に告示され21日に投票が行われる彦根市長選で通算4期目を狙っている(途中で12年落選期間がある)

 朝日新聞に載った話題だが、今度の彦根市長選に有村国知という人物が新顔で立候補する。これに対し獅山陣営は市内の家庭にビラ四万枚を配布し、その中で「有村氏の行動はとうてい容認できない」と批判した。その理由が何かといえば、「有村氏は桜田門外の変で井伊直弼を討ち取った人物の一族だから」というビックリしちゃうような話なのだ。
 ちょうどみなもと太郎の大河歴史ギャグ漫画「風雲児たち」が桜田門外の変のくだりを描いた直後なので、愛読者である僕もピンときた。桜田門外の変は安政の大獄により直弼に恨みを抱いていた水戸藩脱藩者たちを中心にして実行されたが、襲撃実行者たちの中に1名だけ薩摩藩脱藩者が参加していた。それが有村次左衛門だ。当時数えで22歳だった次左衛門は1名だけ「よそ者」として襲撃に加わりながら直弼の首を自らあげる殊勲をあげたが、その場で彦根藩士に斬られて重傷を負い、直弼の首を持ったまましばらくさまよった末に若年寄・遠藤胤統の屋敷の門前で自害した。
 なお、この次左衛門の兄・有村雄助もこの計画に参加して切腹させられているし、他の兄の有村俊斎海江田信義は生麦事件でイギリス人のとどめを刺したとか、大村益次郎を憎悪してその暗殺に関わった疑いをもたれているとか話題がいろいろとある人物で(大河ドラマ「翔ぶが如く」ではまだ知る人ぞ知るの段階だった佐野史郎が神経質なトラブルメーカーキャラで演じていた)、なんだか血の気の多い兄弟という印象がある。で、このたび彦根市長選に立候補する国知氏はこの有村兄弟の末弟の子孫に当たるのだ。

 国知氏は母の実家がある彦根市の隣の愛荘町の出身で、父親が滋賀県県議会議長までつとめ、兄が県議、姉が参院議員という典型的な政治家一家。彦根市には昨年から引っ越して来て、これももともと彦根市長に立候補するつもりでやったものと思われる。まったくの新顔というわけだが、いきなり飛び込んできたこの新顔に市長側はかなり警戒感を抱いたらしい。そもそも獅山市長は前回わずか39票差というホントにギリギリの僅差で当選しており、今度も同じ顔合わせで選挙になるはずが新顔が飛び込んできたため票を食われる可能性を感じたのかもしれない。それで彼が「有村一族」であることをアピールし、「井伊家城下町」の伝統意識のある市民の心情に訴えかけようという狙いだったと思われるが、言われた方にしてみれば「それは市長選とは関係ないだろ」という話。そもそも直接の子孫というわけでもないし、一族とはいえ130年も前の事件の責任をおっかぶせられて「立候補の資格なし」と言われてはたまらない。

 獅山市長は3月の時点で、自分が「宿敵」である彦根市と水戸市の親善を深めた実績を挙げて「融和の活動実績もないのに市長になるのは許せん」とまで言ったそうだが、まず市長にならなきゃできないでしょうが、そりゃ。獅山陣営はよほど焦っているのか、前回39票差で敗れた大久保貴氏にも「この件について見解を明らかにすべき」と迫ったそうだが、さすがに大久保氏も「祖先を理由にして出馬を批判するのは人権に関わる」と取材に答えたという。
 そもそも井伊家のことを言うなら、この獅山市長が井伊家から「彦根藩主」の地位を奪取した当人だったりするわけだが(笑)。



◆奈良時代にも遺跡破壊!

 このところあった発見ネタを総まくり。

 3月25日に、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館が「平城京の東部に未知の古墳群を発見した」と発表した。JR奈良駅から北におよそ500mの辺りだそうで、すでにこれまでにも何度かの発掘で数百点に上る円筒や船、家などの形の埴輪などが見つかってはいた。しかし辺りに墳丘は存在せず、それでいて二か所から集中的に出土すること、推定年代に百年以上の開きがあること、そして2キロほど北西に大王クラスの墓とみられる「佐紀古墳群」があることなどから、この地点に大王政権を支える首長クラスの墓、少なくとも三基以上の古墳群があったのではないかとの結論に達したようだ。じゃあなんでその墳丘がないのかというと、「平城京建設の際に破壊されたから」との推理が出ているのだ。
 歴史の年表でもおなじみのように、平城京遷都は西暦710年のこと。今回確認された「古墳」は4世紀後半〜5世紀後半のものとみられ、平城京建設時点から300年は前のものということになる。今だって開発のために遺跡が破壊されることはままあるが(この発掘だってJR大和路線高架化工事に伴うもの)、それは平城京建設当時でも同じだったというわけだ。しかも300年も前じゃどこの誰の墓かわかんなくなっちゃってたろうしねぇ。
 さらに言えば、平城京建設の頃ともなると畿内では大きな古墳そのものが作られなくなる。持統天皇が最初に火葬された天皇で夫の天武天皇と合葬の墓にしたし、平城遷都の時の女帝・元明天皇は遺言で遺体を火葬とし墳丘を作るのではなく山に埋めさせる簡素なものとさせた。それだけに「古墳なんてもう時代遅れ」という感覚になってたろうから、何百年も前のどこの誰かもわかんない古墳なんて最新ハイカラな首都建設のためにはあっさり破壊したんじゃないかと。


 3月28日に報じられたところによると、イギリスのウィンチェスターにある教会の墓からアルフレッド大王(849-899)その人の遺骨ではないかとみられる骨が発掘されたという。
 アルフレッド大王というとイギリスでは大変な有名人で、実在した人物ではあるのだがかなり伝説化されてしまった人でもある。9世紀に生きた人だから日本だと菅原道真あたりが同時代人。イングランドにアングロ・サクソン族がつくった「七王国」のひとつウェセックスの王様で、祖父のエグバートのときにいったんイングランドを統一してるが、アルフレッドはデンマークから侵攻してくるデーン人(いわゆる「ヴァイキング」の一つ)と戦いを繰り返すなかでほぼイングランド全域を統治下に収めて国家の諸制度を整え文化も盛んにしたことから後年「大王」と呼ばれ称えられるまでになった。そんな人物の遺骨となるとこれは大変な発見である。つい先日リチャード3世の遺骨が見つかったという話題の直後だけに注目を集めているようだ。
 ただどうしてその遺骨がアルフレッド大王のものだと推定したのか、僕が読んだCNN記事では判然としない。3年前から調査が進められ、どうもアルフレッドのじゃないのかという可能性が高まってきたので3月25〜26日に発掘が行われたというのだが、まだ科学的調査はしていないとのことなので、何か墓の外見的特徴でもあったのかもしれない。これは続報を待つしかなさそう。


 4月11日発行の「ネイチャー」誌上で、「一万五千年前の土器に魚を煮た痕跡」が見つかった、との発表があった。イギリスのヨーク大学や新潟県立博物館などからなる研究チームが、北海道・新潟・鹿児島など日本国内の13カ所で見つかった、一万一千年〜一万五千年前の土器の破片101個を調査、表面や付着物の炭素・窒素の同位体や脂質などを調べ、その大半から海の魚を高温で処理した際に出るものに近い成分が見つかったのだという。それも土器の内側から見つかり外側からは出なかったため、土器で魚を煮たものと判断したのだという。何から分かるのか知らないが「海の魚」であり、それでいて遺跡は内陸にあるものが多いことからサケのような海と川を行き来する魚を調理したのではないか、との推測もあるという。
 土器は一万数千年前から世界各地で作られ始め、日本にもかなり古いものが出ることは知られている(現時点では世界最古ではないようだが)。土器で初めて可能になった調理が「煮る」ことであり、そもそもそのために土器を作った可能性さえ考えられている。日本に古い土器が出る理由はいろいろ考えられるけど、もしかするとこの時期から魚好きであったから、なんてこともあるんじゃないかと(笑)。


 最後に、「発見」ばなしではないんだけど、どうしても採り上げておきたかったので…僕自身が報道を「発見」したという強引なこじつけで(汗)。
 指定暴力団住吉会系幹部の村田勝志という人物が、4月上旬に病院で74歳で死去していたことが12日に明らかになった。糖尿病を患っていたといい、普通に病死なのだが、一ヤクザの訃報としては異例に大きく報じられた。なぜかといえば、彼はあの力道山を刺し、結果的に死なせてしまった当人だったからである。
 力道山については説明不要だろうが、終戦直後の一時期日本の「国民的ヒーロー」だった元力士、プロレスラーだ。本人は公にしなかったが実は日本の植民地だった朝鮮の出身であり、現在の北朝鮮に妻子も残されていて戦後極秘にそちらを訪問したこともある。それでいて韓国ともいろいろ深い関係をもっていたし、プロレスという興行上ヤクザなど裏社会との関係も深かった(映画「仁義なき戦い」でも彼をヒントにしたプロレスラーが出てくるし、実際に映画のモデルとなったヤクザたちと一緒に映った記念写真もある)
 そんな彼が東京・赤坂の近くのナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で刺されたのは1963年(昭和38)12月8日の夜のこと。その犯人がこの村田勝志だった。直後は死ぬほどの大怪我ではないとみられ、15日に力道山が急死してしまったのは体力増強のために飲んでいた薬のせいだとか酒を飲むなど不摂生があったからとも言われるが、その背後関係を憶測する声もないではなかった。
 数年前に韓国でソル=ギョング主演で映画「力道山」が公開され、遺族など関係者への配慮もあって脚色の多い内容ではあったが映画の中で力道山が裏社会と微妙な関係を持っていたことはそれとなく描かれた。ただしこの刺された件はあくまで偶発的事件(事故?)として描かれていて、トイレでたまたま力道山を見たチンピラが「ファンなんだよ」と喜んで声をかけたら機嫌の悪かった力道山に張り倒され、怒って思わずナイフを出して…という演出になっていた。そのチンピラを演じたのは近ごろ反原発でいささか暴走気味の感もある山本太郎だったりする。
 この村田さんも力道山という歴史的有名人とクロスしたことでその死が「歴史的事件」ととらえられ、大きく報じられちゃったわけである。今度の訃報で「幹部」くらいにはなってたんだなと僕も初めて「その後」を知った。


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