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2013年1月20日

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◆今週の記事


◆逝く年逝く人

 さて正月気分もずいぶん抜けたところで史点更新、いきなり新年早々やや抹香くさい話になるが、その冒頭はこの年末年始にお亡くなりになった人たちの話から。更新が遅れているうちに取り上げたい人がさらに増えてしまった。命日の日付順に書いてみよう。

 公表されたのは正月明けだったが、12月6日に俳優の佐藤允さんが亡くなった。俳優業の第一線からはすでに長いこと離れていたので(「もののけ姫」冒頭のみ声の出演をしていたのが記憶にある程度)最 近のものしか見てない人にはピンとこない俳優さんかもしれないが、かつては東宝映画、とくに戦争映画においてやたらと出まくっていた人だ。僕は戦争映画マ ニアというほどでもなく、あくまで歴史物の一環として見るんだけど、とにかくこれでもかこれでもかとよく出ている。主演し出世作となった「独立愚連隊」か ら始まる、岡本喜八監督の日中戦争もの、同じく岡本監督の大作「日本のいちばん長い日」の反乱軍将校、「太平洋の嵐」「太平洋の翼」「太平洋奇跡の作戦キスカ」「青島要塞爆撃作戦」「日本海大海戦」…などなど一連の東宝特撮戦争映画では常に“参戦”、その独特のタフそうな風貌もあって一兵卒や下士官クラスの役どころが多く、東映の「二百三高地」にも似たような役で“参戦”していた。そんなわけで日本の近代戦争にはほとんど“参戦”してたんじゃなかろうかと思える役者さんであった。


 12月25日、漫画家の中沢啓治さんが73歳で亡くなった。言うまでもなく、漫画「はだしのゲン」 の作者である。市町村や学校の図書館に置かれていることも多かった漫画だから読んだ人は相当に多いはず。その原爆投下の惨状描写もさることながら独特のア クの強い表現からネット上でしばしばお約束的なネタにされたりパロディにされてもいて、トラウマともども強く印象付けられた人は多いようだ。だからこの人 の 訃報はいち漫画家のそれとしては結構大きな扱いを受けていたように感じる。
 僕も「はだしのゲン」は小学校上級か中学くらいで出かけた先でほぼ全部読み(だからいまだに手元にはない)、たぶん数回程度しか読んでいないはずなのだが、内容はよく覚えている。被爆体験が一つのテーマになっているのは確かなのだが、むしろ僕にはそこまでに至る戦時下の日本の状況、反戦思想に対する激しい弾圧とか、在日朝鮮人に対する差別(これもまた一筋縄の描写ではない)、沖縄戦の惨状や特攻隊の無意味さ(特攻に失敗する人が描かれたのは珍しかったと思う)、そして意外に長い戦後の泥臭くもたくましい生きざまといった部分がこの漫画の読みどころではないかと思っている。

 「はだしのゲン」は当然ある程度のフィクションを交えてはいるが自伝的作品でもある。原爆投下当時、中沢さんは小学校一年生で、学校の入り口でたまたま おばさんに話しかけられて塀を背にしていたため爆心地から1.2kmという距離でありながら死を免れたというのは漫画でもほぼそのまま再現されている。こ の原爆投下で父・姉・弟を失ったのも漫画の通り。戦後は手塚治虫の作品に衝撃を受けて漫画家を志したというのは、いわゆる「トキワ荘世代」と重なるわけで(石ノ森章太郎、松本零士が同学年になる)、その後はむしろ被爆体験には触れずに普通に漫画家の道を歩んでいた。しかし1966年に亡くなった母親を火葬にした際その遺骨が全く残らなかったことに衝撃を受け(時期はずらしているがこの逸話も「ゲン」に使われている)、以後積極的に被爆体験を漫画にするようになる。「はだしのゲン」は1973年に週刊少年ジャンプに連載され(これが今となってはオドロキなのだが)、 大きな反響を得て、その後映画化、アニメ化、外国語訳化と息長く読まれる中沢さんのライフワークとなった。 その後「ゲン」の続編も構想されたが、目を 患ったために断念を公表したのは2009年と割と最近のこと。毎年8月6日の広島の平和記念式典には「辛い記憶を思い出すから」と一貫して参列を拒んでき たが、2011年に初参列。今にして思うとこれも本人に虫の知らせというか、長くないことを自覚されるところがあったのかもしれない。報道によると火葬さ れてもその遺骨はたくましくちゃんと残っていたそうである。


 12月30日にはベアテ=シロタ=ゴードンさんという女性がニューヨークの自宅で89歳で死去している。この人は日本敗戦後の日本を統治したGHQの民政局のスタッフだった経歴があり、近年彼女こそが日本国憲法の男女平等条項(憲法24条ほか)の原案を作ったことが大きく取り上げられるようになっていた。
 「シロタ」という姓が入っているので僕も日本人とのハーフなのかな、と思っていたことがあるのだが、父親のレオ=シロタは ウクライナ系ユダヤ人で姓が日本っぽいのは単なる偶然。著名なピアニストで会ったレオ=シロタはロシア革命でユダヤ人排斥があったためにウィーンへ亡命、 ここでベアテさんが生まれることになる。シロタ一家は1929年に来日し、当初は一時的滞在のつもりだったがやがてナチスが台頭したためにウィーンに帰れ なくなり、結局しばらく日本で暮らすことになる。ベアテさんは5歳の時に日本に来て、1939年にアメリカに留学するまで少女時代の10年を日本で過ご し、このため日本語に堪能となって終戦直後にGHQの通訳として再来日することになる。

 日本国憲法の原案がGHQの民政局で短期間に一気に作り上げられたことはよく知られている。もっともその前にGHQは日本政府にも一応原案を作らせては いて、このいわゆる「松本原案」が大日本帝国憲法をちょこっと言葉をいじった程度の内容になっていたことから「じゃあこっちで作る」という話になったとい う経緯もある。当時の民政局はアメリカの中にあってもかなりリベラル・進歩派の人たちが多かったらしく、ベアテさんもその一例といってよく、このとき彼女 はまだ22歳の若さだった。
 彼女が担当したのが特に女性の権利に関する部分で、彼女自身日本に長い滞在経験があって戦前の日本女性の地位の低さを目の当たりにしていたことが、当時 においてはアメリカよりも進歩的と言われた草案作成につながったと言われている。当初彼女が書いた草案は複数の条文に分かれていて、「母性の保護」「非嫡出子差別の禁止」「養子縁組の規定」「長子権の否定」「義務教育の無償」「児童労働の規定」「家庭生活における両性の合意・協力」「個人の尊厳と両性の本質的平等」といった、かなり細かい項目と記述を含むものだった。結局個々の細かい規定まで憲法に書くのはどうか、ということになって多くが草案からは外され、現憲法には14条、24条、25条などにそのエッセンスが入りこむこととなった。
 むろん戦前の日本においても長い女性権利獲得運動の歴史があって一定の成果をあげてもいるし、ベアテさん自身も先行する世界各国の憲法を参考にこれらの 記述を描いてるわけで、彼女個人にその功績を全て帰することはできないのだが、少なくとも憲法にその意向がかなり絞られたとはいえ入ったことはやはり大き い。そして彼女は生粋の日本人ではないが日本をほぼ「第二の祖国」としていたことも間違いなく、そういう人が関わったことの意味も大きいと思う。

 年が明けて1月15日には映画監督の大島渚さんが80歳で亡くなった。ここ十数年は脳出血の後遺症で表舞台に出ることがほとんどなくなっていたし、その前の元気な時でも「ボキャブラ天国」のようなバラエティや「朝生」のような討論番組によく出ているテレビタレント的イメージが強かった気がする。
 最後の監督作品は1999年の「御法度」で、新撰組ネタということもあって僕も当時劇場で見ているが、大島渚といえば国際的に有名なのは「戦場のメリークリスマス」(1983)、「愛のコリーダ」(1976)ということになるだろう。それ以前の60年代の作品も評価の高い問題作ぞろいなのだが、僕はたまたま見た「忍者武芸帳」(1967)だけしか見たことがない。この「忍者武芸帳」、白土三平の原作劇画を実写やアニメではなく「劇画原稿をそのまま撮影し、音とセリフをつける」という前代未聞の映像作品となっている(まぁ、大勢で作った紙芝居みたいなモン)。原作は安保闘争やら大学紛争といった時代も反映して唯物史観、階級闘争史観が濃厚に入った作品なのだが(それでいてかなり荒唐無稽な忍者ばなしになってて面白い)、大島渚の手にかかるとよりいっそうその部分が強調されてかなりキツかった覚えがある。 昨年不慮の死を遂げてしまった若松孝二監督は「愛のコリーダ」のプロデューサーだったっけ。映画史的にも昭和が遠くなる、と思ってしまった。

 なんてなことで話をまとめようとしていたら、「昭和は遠くなりにけり」と痛感する訃報がもう一個届いてしまった。
 元横綱大鵬納谷幸喜さんが1月19日に72歳で亡くなったのである。僕はもちろんその世代ではないが、高度経済成長期の1960年代に優勝32回、45連勝記録と圧倒的な強さと人気を誇った力士であり、「巨人、大鵬、卵焼き」と子どもの好きなもの三つを並べた流行語にまでなってしまった、まさに時代を象徴する力士である(もっともこれ、本来は「ガキの好きなもの」という揶揄のニュアンスだった、という話もある)。 うーん、僕はかろうじて「おしん、家康、隆の里」に覚えのある世代なんですけどね(笑)。 恥ずかしながら訃報を受けて調べてみて初めて知ったのだが、大 鵬の父親はロシア革命で樺太の日本領に亡命してきたウクライナ系コサックなのだった。偶然ながら上記のベアテさん一家と似た歴史的背景をもった人だったの だ。



◆ルパンの国のあれやこれや

 去年2012年は1982年に勃発した「フォークランド紛争」から30周年だった。当時の首相マーガレット=サッチャーの生涯(まだ終わってないけど)を描いた映画「鉄の女」(これが原題)が昨年公開されたのもフォークランド紛争30周年に合わせたもの。そして30年という年月はそれまで非公開とされていた外交関係文書などが解禁される節目となることが多く、そのため2012年の年末にフォークランド関係の「秘話」がいくつか明らかにされている。
 その中には当時のアメリカのレーガン政権がアルゼンチン側の顔を立ててやれとサッチャーに軍事行動の中止を強く求めたという事実もあった。これは映画の中でも似たようなシーンがあってサッチャーが「じゃあアメリカはハワイを攻撃されてトージョーと話し合いをしたのか」とやり返すという場面になっていたから、以前から知られていたことなのだろう。その一方で今回初めて明らかにされ「へぇ」と驚かされたのがフランスのミッテラン政権とのやりとりだ。
 フォークランドで戦闘が始まったころ、フランスは自国の対艦エグゾセ・ミサイルをペルーに供与する動きを見せた。しかし実はフランスはペルーがそれを当 時イギリス軍と戦闘を交えていたアルゼンチンに転売することを最初から想定していたというのだ。フォークランド紛争の序盤ではイギリス海軍の駆逐艦がアル ゼンチン軍のエグゾセ・ミサイル攻撃で撃沈されており、イギリス側からすればフランスの行動は実質的な利敵行為。激怒したサッチャーは「ミサイル供与を少 なくとも1か月は遅らせなければ、英仏関係に重大な結果をもたらす」と両国間の断交もちらつかせた強い警告を発したという。
 まぁフランスが当時どこまで本気でイギリスの足を引っ張ろうとしたかは分からないが、第一次世界大戦以前は延々何百年もライバル関係にあった間柄。戦後 史においてもフランスはいわゆる「西側」のポジションに身を置きつつも英米とはやや距離を置いた振る舞いをするところがあったし。昨年になって出版されたアルセーヌ=ルパンシリーズ最後の一作「ルパン最後の恋」でも自国本位な世界政策を進めるイギリスの工作員が敵になっていたりしたのも、そんな歴史を垣間見させる。

 その「最後の恋」でルパンはイギリスの世界政策を批判してカッコよくタンカを切るのだが、フランスだってあまり人のことは言えない。世界中に植民地を持 ち、強圧的な植民地支配はやっぱりやっていたのだから。ルパンシリーズの中に登場する人物が「トンキン」「サイゴン」に駐在していたとされてることがある が、これらは当時フランスの植民地だったベトナムの都市。そうしたフランスの支配に対する抵抗運動を繰り広げたのが、今も建国の父とあがめられるホ=チ=ミンである。
 そのホー=チ=ミンが1946年にフランスへの抗戦を呼び掛けるべく発した有名なセリフが「植民地主義者と闘い祖国を守ろう。彼らは我が国を再び征服しようとしている」であった。この名セリフをフェイスブック上でパロディにした14歳の女の子がいた。「教師や教育委員と闘おう。彼らは我々を再び落第させようとしている」と いうものだ(笑)。なかなかのセンスじゃないかと思うのだが、学校側はオカンムリ。「「ベトナムの歴史を汚し、学校と教師を侮辱した」として一年間の停学 処分にしてしまったというのである。本人はあくまで友人同士のジョークとして書いただけだったというが、近ごろネット上では誰でも目が光ってる所もあるか らなぁ。ホー=チ=ミンよりも教師と教育委員をからかったのがマズかったという気もする。もっともさすがに厳しすぎるとの批判の声も上がっているそうだ が。(追記:その後報道を確認したら、さすがに批判が多く停学処分は撤回されたとのこと)
 まぁ実は他国の話として笑えないところもある。日本でも昭和3年に菅原道真の「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」を「坊主のうんこ今此に在り捧持して日毎余香を拝す」とやったパロディを載せた雑誌が「不敬」と攻撃された例がある。あと犯人不明ながら「ぜいたくは敵だ」に「素」を入れた例もありましたな。

 さてフランスでは昨年の大統領選挙で社会党のオランド大統領が誕生したわけだが、彼の政権が年収100万ユーロ(最近変動が激しすぎるがざっと1億2000万円弱)を越える富裕層に75%の所得税を課す方針を表明したことに富裕層の一部が反発、なかでもフランスを代表する国際的俳優であるジェラール=ドパルデューがフランス国籍を返上してなんとロシア国籍をとることにした、というニュースには驚かされた。
 ジェラール=ドパルデューはひところフランスには他に主役を張れるやつがいないのかと思うほどの勢いで出ていた俳優さんで、イタリアの「1900年」、アメリカの「1942コロンブス」「仮面の男」など外国映画にもよく顔を出している名優である。ただしもともと不良少年あがりの地がこのところ再発したのは飛行機の中で「アホな放尿犯」(ワカル人だけワカって下さい)になっちゃったり、問題行動もよく耳にする人だった。そんな彼が現役力士みたいに太りまくってロシアのプーチン大統領とにこやかに抱き合っている映像には何やら寒気も(笑)。ロシアの所得税は一律13%なのだそうだが、それって低所得者層にえらくキビしいんじゃなかろうか?一応元社会主義国なので何か変わった仕組みがあるのかもしれないけど。
 プーチン大統領がロシア国籍を付与したのはもともとドパルデューがプーチンさんと面識があり、それで「他国の国籍ならプーチンさんが贈ってくれたよ」と あくまでジョークとして言ったらホントに贈って来ちゃった、ということらしい。ロシアの報道によるとドパルデューはロシアの歴史・文化には以前から愛情が あり、父親の共産党員だったから子どもの頃にはラジオのモスクワ放送を聞いていたからなじみがある、とも語っているという(ああ、「1900年」のあの共産党員キャラは親父譲りだったのか)
 さすがにドパルデューの行動には批判も少なくないようだが、僕が連想したのはそこでいきなりロシアに国籍を変えてしまえるという一見とっぴな飛躍は、か ねてからのフランスとロシアの昔からの結びつきも背景にあるのではないかということだった。ルパンシリーズでも亡命ロシア人がところどころに登場し、ルパ ン自身もロシア貴族やロシア学生に変装した例がある。ロシアでは知識階級はフランス語に堪能な人が多かったのでなりすますには好都合でもあったのだ。トル ストイの「戦争と平和」でも手紙なんかフランス語になってるし、だいたい主人公の名前が「ピエール」とフランス風だ。もしかすると現代でもフランスからロ シアへ、という切り替えはそうとっぴなものではないのかもしれない。
 そういやかなり過激な動物愛護家である女優のブリジッド=バルドーもリヨン動物園のインドゾウ安楽死が実施されたらロシア国籍をとってやる、と表明してるんだよな。うーん、なんか問題児をどんどんロシアに「輸出」できるからいいのかも、なんて気も少しする。

 今年最初の世界的ニュースはやはりアルジェリアで起きた武装勢力による天然ガス施設襲撃事件だろう。まさにサハラ砂漠のど真ん中で起こった事件で、アル ジェリア政府の強硬策と多くの犠牲者が出たこと以外今のところ全体像がよく分からないのだが、この話にもフランスの影がちらつく。そもそもアルジェリアは フランスの元植民地であり、隣国マリもそう。そのマリの北部ではイスラム原理主義系も含めた武装勢力が独立状態になってしまい、イスラム原理主義的な極端 な政策を実施しているということでフランス軍が介入、その直後に今度の事件が起こっているために何らかの関連があるのでは、と言われている。だいたいルパ ンもその隣のモーリタニアを部下たちと征服して超法規的脱獄と引き換えにフランスに献上したことになってる(もちろん創作ですよ)。アルジェリアも作中でちょこちょこ出て来ていて、フランスにとって身近な植民地であったこともうかがえる。
 すぐ海を越えた隣の元植民地で、そこから来た移民も国内に多く抱えるという点で、フランスとアルジェリアは日韓関係によく似ている。実は昨年の暮れに新 大統領になったばかりのオランド大統領がアルジェリアを訪問したのだが、去年が1962年の独立からちょうど50周年の節目だったこともあり、アルジェリ アでは大統領の口から公式に植民地支配に対する謝罪の言葉が出るかどうか注目されていた。当初左派政権になったこともあり「謝罪」がなされるのではないか と見られていたが、結局オランド大統領は「悔恨や謝罪を表明するために来たわけではない」と述べ、植民地支配については「悪い所は悪かった」程度の表現を 口にするにとどめたため、アルジェリアのマスコミや政党からそろって非難を受けた。アルジェリアのブーテフリカ大統領との会談では「対等なパートナーシッ プ」なんて言葉も出たそうだから、いよいよ日韓の話と似て来るんだよな。
 今度のアルジェリア軍の強硬作戦について、オランド大統領が直後にほとんど手放しの絶賛とも見えるコメントを発表しているのも、その辺の負い目もあるのかもしれない。



◆地下鉄150年

 2002年の5月に僕は初めてロンドンに旅して数日間滞在し、大英博物館やらバッキンガム宮殿やらロンドン塔やらベーカー街(笑)やら観光めぐりをして いたのだが、その移動はもっぱら地下鉄に頼っていた。なにせロンドンは世界で初めて地下鉄が走った都市であり、最近作られたものも含めるとかなりの路線が あって、東京並みに複雑怪奇な路線図を作り上げている。
 東京の地下鉄同様、ロンドンの地下鉄も立体的にも複雑にからみあっていて、新しい路線ほど地下深くにもぐってゆく。新しい路線の駅をおりると地上に上が るまでエスカレーターや階段で延々上がらされるはめになるのだが、当時その長いエスカレーターの横にずらっと並んでいたのが全部日本のアサヒビールの 広告だったので驚いたことがある。当時はイギリス進出でも図っていたのだろうか、日本におけるCMとはまるで違い、相撲、柔道、禅といった「エキゾチッ ク・ジャパン」な写真をちりばめた和風な売り方をしていたのが印象的だった。あっちじゃあんなにキンキンにビールを冷やさないんだけど、その辺はどうした ものか。

 あ、話が脱線した(鉄道ネタだけに)。軌道修正すると、世界初の地下鉄はロンドンに開通したもので、開業は1863年1月10日のことだった。なおこの年、アメリカは南北戦争の真っ最中で、「ゲティスバーグの戦い」があり、リンカーンが その追悼式典であの「ゲティスバーグの演説」を行っており(あ、そうか、だからスピルバーグが「リンカーン」作ったんだ)、日本は幕末の風雲の最中で、新 選組が結成されたり奇兵隊が編成されたりしている。そんなころにロンドンでは地下鉄が走ったんだから…そうそう、長州藩士の伊藤博文井上馨らがイギリスに留学していたのもこの年のこと。地下鉄を見たり乗ったりしたかどうかは知らないが、彼らが「こりゃ攘夷は無理だ」と即座に確信したのも当然だろう。

 世界初の地下鉄はロンドンのパディントン駅からファリンドンストリート駅までのおよそ5.6kmの区間に開通した。まだ19世紀の半ばという時期のこと だから、当然蒸気機関車が引っ張る列車だ。しかし蒸気機関車は大量の煙を吐くため、地下鉄でなくてもトンネル内を走り抜ける時は乗客は窓をがっちり閉めた としても結構大変だった。地下鉄となるとそれがずっと続くんだからそれこそ大変だ。
 たださすがに当時でもその対策は一応講じられている。煙がなるべく出ないように石炭ではなくコークスを使用、駅に設置された排煙口を通して地上に煙を吐 き出したり、トンネル内の煙が駅に流れ込んでこないように布製の煙よけを置いたりといった工夫はあったという。もっともそれでも駅や車内はかなりの煙で、 乗客は濡れたハンカチを必ず持って乗りこんだ、なんて話もある。
 上記のように地下鉄は古いものほど地上近くにあり、現在のロンドン地下鉄でも古い路線は道路のすぐ下、あるいは切通し状になった「半地下」部分を走る部分も多い(日本でも銀座線、丸ノ内線に同様の区間がある)シャーロック=ホームズシリーズの一編「ブルースパーティントン設計書」でもこの地下鉄が半地下部分を走ってることを利用したトリックが出てくる。あれなんか、その後の鉄道ミステリのルーツという気もするな。
 そんなわけで地下鉄開通150周年を記念して、1月13日に当時と同じ区間に当時の蒸気機関車と客車まで復元して走らせるというイベントが行われた。参加した鉄道ファンの中には当時の紳士淑女の服装まで再現したのもいた。

 ついでなんで鉄道関連ニュースをもう一つ。
 太平洋戦争中に日本軍が建設し、小説&映画の「戦場にかける橋」でも有名なのがタイ〜ミャンマー(ビルマ)間を結んだ泰緬鉄道。戦後はこの路線が通るミャンマー国内の山間部が少数民族勢力の支配地域になったこともあって長らく廃線状態になっていた。タイ国内で泰緬鉄道の「クワイ川鉄橋」と称して世界中の観光客を集めているところがあるが、あれは観光用のニセモンである。
 ところがこのところミャンマーは一応の民主化も進んで幅広く外国資本の誘致をし、国内的にもこれまで対立してきた少数民族勢力と停戦にこぎつけるなど、 これから経済発展に動き出そうと活発な動きを見せている。そんな中で、この「泰緬鉄道」を復活させようという計画が本当に進められている、という報道が読 売新聞に載っていた。厳密には復活ではなく同じルートに新たな鉄道路線と幹線道路を建設し、貿易ルートを開拓して少数民族の経済浮揚も図ろうという遠大な 作戦であるらしい。
 まさに「新・戦場にかける橋」ということになるんだけど、そういえば「戦場にかける橋2」という、「スティング2」と並ぶ「名作の忘れ去られた駄作続編」があるんだよな(未見だけど)



◆書聖の筆をかいまみた?

 王羲之(おうぎし)。 世界史の教科書では覚えたという人も多いだろう。中国の魏晋南北朝時代は「○○之」という人名がやたら多くて受験生を悩ませてくれるのだが、この王羲之も その一人。とくに彼の場合は「羲」の字がかなり特殊であるため覚えるのが一苦労で、そのためよけいに印象に残ったという人も多いはずだ。
 王羲之は四世紀の人物で、東晋に仕えた。詳しい略歴は他のものでも読んでいただくとして、とにかく漢字の書法の大家として名高く、その名は後世になるほどに高まって、特に唐代には唐の太宗が盛んに喧伝したこともあってその書体は多くの人の手本とされ、王羲之は「書聖」とまであがめたてまつられることとなった。

 しかし残念ながら王羲之は四世紀の人物、おまけに書というのはそもそも紙に書くものなので後世に残るのはかなり難しい。唐の太宗が王羲之の書を収集し、その頃にはなんとか王羲之本人の真筆があったようなのだが、現在では王羲之本人の書いたものは全く残っていないとされている。清の乾隆帝が所蔵し、現在は台北の故宮博物院に所蔵されている「快雪時晴帖」が 昔は真筆と信じられていたが、これも唐代の複製と見られている。ただ決して単純にニセモノ呼ばわりしてはいけない。そもそもが保存が難しいものだから後世 に伝える必要もあったし、書というのはその形を非常に重んじるのでその書体を手本として広く普及させるために唐代宮廷ではかなり精巧な模写技術が発達して いた。現在にまで「王羲之の書」が伝えられているのもそうした唐代以降の精巧な複製品のおかげであり、それは王羲之の真筆がどのようなものであったのかを しのばせるものではあるのだ。ついでながら王羲之と同じ東晋に生きた画家・顧ト之(こがいし。生きた時代もちょっとかぶる)も中国史上最高の画家として名 高いがその作品は現存せず、北宋時代の模写が残るだけだ。
 
 唐の太宗のころには複製も含めて王羲之の書を3000本ほど集められたそうだが、やはり王羲之マニアだった宋の太宗(10 世紀)のころには160本ほどしか集められなかったという。そして今日では王羲之の書は全て複製品とはいえ全世界で20数点しか確認されていない。そのう ちいくつかは日本に伝来しており、奈良時代に遣唐使が持ち帰ったものも含まれる。数奇な運命をたどったものとしては義和団事件のドサクサで日本に流出し、 広島の原爆投下(今回は妙にあちこちで話題がリンクするなぁ)で失われてしまったものなんかもあるそうで。
 さて、今月22日から東京国立博物館で「書聖 王羲之」という特別展が開催されるのだが、そこに出展するために鑑定を受けていた日本国内の個人所蔵の書 が、王羲之の書の唐代の複製品と断定され、日本のみならず中国でも大きく報じられた。複製とはいえ上述のようにそれ自体が国宝級の存在(中国の新聞でもそ う表現されていた)で、まさに大発見なのである。
 それは25.7cm× 10.1cmの紙で、

大報期転呈也 知
不快 当由情感如佳 吾
日弊 為爾解日耳 

 と書かれていたという。「大(親戚の名前)についての知らせを期(王羲之の息子)がまわしてきました。あなたはご機嫌がよろしくないとのこと、感情のおもむくままになされるがよろしい。私は毎日疲れてます。あなたのために日々を過ごすばかりです」というような内容。他のもそうなのだが、時候の挨拶みたいなどうということのない内容のものである。何があったか分からないが、「日弊(毎日疲れている)」という表現は王羲之がよく使ったものだそうで、今回の鑑定の決め手の一つにもなったという。
 なんでもこれまでこの書は幕末から明治にかけて生きた古書鑑定家・古筆了仲により、日本の9世紀の書家・小野道風の筆と鑑定されていたとのこと。今回の鑑定にあたった研究者は他の例のように遣唐使が日本に持ち込んだものではないかと推測していた。

 それにしても、このタイミングで発表されると、国立博物館の展示はさぞ混み合うのだろうなぁ。先ごろも「清明上河図」を展示したらウン時間待ちという恐ろしいことになっていたし、行列作って待つ根性に乏しい僕などはとてもじゃないが拝めないような気がする。

おーぎし

2013/1/20の記事

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