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2013年9月26日

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◆今週の記事

◆三ヶ月近くが過ぎまして

 思い起こせば今年は「史点」更新ペースが激落ち。4月17日の次が2カ月以上遅れた6月30日になり、それからズルズルとまた遅れて結局2ヶ月以上3ヶ月近くが経ってしまった。時間的・精神的ヒマがないというのもあるが、当サイトのあちこちを見ればお分かりのように管理人が非常に気分屋なので、いったん放置するとなかなか再開できなくなっちゃうのだ。それでも「いつかはやろう」という気持ちだけはあるので、数年経ってから唐突に更新するコーナーもあったりして油断がならないわけですが(笑)。

 「史点」はさすがにニュースネタコーナーなので、本来長期放置しちゃいけないわけだが…
 この2ヶ月ちょっとの間にもいろいろとあった。日本では参院選で事前の観測のままに自民が圧勝、まさかの再登板の安倍晋三首相はまさかの長期政権が確実視されつつある。2020年の東京オリンピックの開催も決まり、イプシロン打ち上げも成功し、楽天の田中将大投手は連戦連勝、バレンティンは王貞治だけでなく景浦安武の記録(笑)まで抜いてしまい、いろいろと日本はいい景気ムードな話題が続いた。ま、麻生太郎副総理の「ナチスの手口」発言とか(その後五輪開催まで決まってなおさら連想した)、福島第一の汚染水問題とかが微妙に影を落としていたが。
 海外では、前回の「史点」ネタにも混ぜた「スノーデン暴露情報」が延々と話題をふりまいてスパイネタ大好きの僕を喜ばせてるし(やっぱりやってたか、という話ではあるが)、イギリス王室に情事の結果としてジョージくんが生まれ、オランダに続いてベルギーでも国王が退位してフィリップさんが即位。ジブラルタル領有をめぐってイギリスと緊張が高まったスペインがアルゼンチンと仲良くなったり、ネルソン=マンデラが植物人間同然の状態で退院したら父ブッシュ元大統領のスタッフが死去と勘違いして元大統領夫妻連名で追悼談話を発表しちゃったり、長崎県が「トルコライスの日」を勝手に決めて(そもそもトルコライスとトルコは全くの無関係。だいいちイスラム教徒には禁忌の豚肉を使ってる)、おまけにそれをエルトゥールル号遭難日(日本とトルコの関係史上意味がある日ではあるが)と重ねるというお調子者なことをしたためにさすがにトルコ側から疑問符をつけられて断念するといった、「史点」ネタにしたい話題はいろいろとあった。さすがに今さら書く気はしないので並べるだけにしておく。
 ああ、あと前回の更新の直後に「Winny」開発者が急死したり、世界で初めてインターフェイスとしての「マウス」を発明した人が亡くなったり、つい先日に京都の花札屋を世界のゲームメーカーに仕立て上げた任天堂の元社長が亡くなるといったデジタルネタの話題も蓄積していた。これについても並べるだけにしておく。


 さて、この三カ月の間に激動が続いたのは、やはり中東情勢だ。古い話もあるがこれは7月はじめに途中まで書いていたのの名残りなのでご容赦されたい。
 前回の時点で「予断を許さない」とか書いていたエジプト情勢だが、案の定、モルシ大統領のイスラム同胞団を支持母体とする政権はその直後にあっさりと倒れてしまった。あの時点でも予想されていたことだが、軍部が「市民の要望を受けて」という形でクーデターを起こし、モルシ大統領を実力でその地位から引きずりおろしてしまった。
 報道で何かと「事実上のクーデター」ともってまわった言い方がなされているが、ありゃクーデター以外の何物でもあるまい。なんでそんな言いまわしのするのかと思ったら、どうも理由はアメリカ側の事情らしい。アメリカの国内法で、「クーデター政権には軍事協力をしてはいけない」と定めたものがあり、あれを「クーデター」と呼んでしまうと、中東において最大の軍事援助をしているエジプトに対してアメリカは影響力を持てなくなってしまうからなのだそうだ。それに日本の報道までつきあってることはないと思うんだが…

 直後にはモルシ失脚を喜ぶ世俗派とおぼしき市民たちの軍の行動を支持する喜びの声がTVで流れたりもしていたが、当然あくまでモルシ支持を訴える同胞団系の市民もいた。そういった映像で興味深かったのが、お互いに自分の「敵」側にアメリカがいると思っていたところだ。反モルシ系の市民はオバマ大統領の写真にあごひげをつけてイスラム原理主義者だと揶揄するようなプラカードを掲げ、モルシ支持派では軍のクーデターの背後にアメリカの指示ありと疑う声が見られたのだ。ま、どっちにしてもアメリカが常に悪者扱いになることだけは良く分かった(苦笑)。日本のアラブ研究者の本で読んだが、エジプトでは「ユダヤ陰謀論」的な世界観を本気で信じる人が少なからずいるらしく、それがアメリカと結びついてお互いの敵にアメリカがあり、という論法になりやすいのかもしれない。
 
 実際、軍のクーデターにあたって、指示とまではいかなくても事前にアメリカ側との連絡は確実にあったと思われる。イスラム同胞団系なので欧米はモルシ政権を危険視するんじゃないかという報道も見受けられたが、始まってみるとモルシ政権の外交方針自体は割とアメリカの意向に沿っていて、それなりに評価されていたと思われるのだが、やっぱり混乱を収拾できなかったのは間違いなく、重大な死収入源である観光産業でも大打撃が出て経済も低迷した(イスラム同胞団系の政治家で「ピラミッドを破壊しろ」なんて過激意見を言ったやつもいたりしたな)。たった一年でどうにかなるもんでもあるまいが、とこちらは思うのだが、すでに「アラブの春」を体験して「革命気分」が旺盛な反モルシ系のエジプト市民と軍部はすぐにキレてそれを倒してしまった。

 長期独裁のムバラク政権が倒れてようやく民主的な選挙が行われ、その結果がモルシ政権だったわけで、それを失政を理由にいちいち武力で倒していたら民主主義もへったくれもありゃしない。モルシ政権を警戒するアラブのいくつかの国(王政が多い)はクーデターを歓迎していたが、同様に民主的に選ばれたイスラム政党政権で過去にも軍部クーデターの経験があるトルコなんかは「へたすりゃ我が身」と思ったようで、クーデターを厳しく非難していた(その後大使召還まで実行した)。一方で民主主義国であることを自ら売りにしているはずの欧米諸国は、クーデターへの評価は曖昧にして、実質容認していたような気配があった。

 モルシ政権崩壊は二度目の「革命」ではあるのだけど、その立役者の軍部はムバラク政権と深い結びつきがあった集団だから、「元に戻っちゃった」という面もなくはない。そして軍隊はなんといっても「暴力装置」なのであるから、いざとなれば実力で反対派を排除できてしまう。そしてこの文章を書いている間にも現実に多くの命が奪われている。
 「イスラム主義政党」なんて言うからその支持派もやや過激な方向の少数派みたいなイメージも日本にいると受けてしまうのだが、現実に選挙では勝ったんだから、それなりの広がりがあるはず。この間ラマダンもあったので腹が減ってることもあってか(?)比較的おとなしく事態が推移していたのだが、ラマダンが終わったとたんに事態が緊迫、とうとう非常事態宣言が出されてしまった。非常事態宣言が出てから軍は「実弾も使用する」と発表していたが、それまでに出ている600人以上の死者はどうやって出たというんだ?

 さすがに多数の死者が出たことで、オバマ大統領も強い調子でエジプト軍を批判し、共同軍事演習の中止も発表した。ヨーロッパ諸国もそれに合わせて非難の度合いを強めているが、エジプトの暫定政府は国内のキリスト教徒である「コプト教徒」の教会が襲撃されていることを強調して同情心理に訴えようとしている。そしてイスラム同胞団を解散させ、非合法化する方向へ動いた。それじゃムバラク時代とおんなじになるだけなのだが…だいたいああいうのは弾圧すればするほど過激化するぞ。それこそ観光産業なんか大打撃だろう。とか言っていたら、「ムバラク保釈決定」の報道も流れて来て(一時危篤なんて話があったような…)ホントに元に戻るんじゃ?なんて話にもなっている。この混乱の中で博物館が襲撃され、収蔵品がほとんどまるごと略奪されてしまったなんて頭の痛くなるような話も流れてきた。


 エジプトの混乱が少し落ち着いた(?)と思ったら、今度は内戦の続くシリアをめぐる情勢がにわかに緊迫した。内戦の過程で化学兵器が使用され(その後国連調査により「サリン」と断定された)、それを使用したのはアサド大統領側だとアメリカ政府が断定し、シリアへの軍事介入の意志をちらつかせ始めたのだ。これにもともと反アサドの姿勢をとるイギリスやフランスが賛同し、逆にアサド政権と関係の深いロシアや中国が反発、常任理事国の中で冷戦時代そのまんまな対立構図が浮かび上がったりした。
 オバマ大統領が「アサド政権により化学兵器が使用された証拠がある!」と主張し、何が何でも軍事介入をしてやるという姿勢を見せた時には、誰もがブッシュ前政権のイラク戦争開始前の「大量化学兵器が〜!」というアジりぶりを重ね合わせたはず(で、結局「大量破壊兵器」などは存在しなかった)。あの当時オバマさんはブッシュ前大統領のそういう姿勢を批判していたはずで、それをそっくり当人がやるということに驚く声も多かった。
 8月の末に状況は一気にキナ臭くなり、ワシントンやロンドンで反戦デモが行われている光景がメディアにしょっちゅう出るようになった。それこそ何やら見覚えのある光景で、「やっぱりアメリカって10年に一度は戦争せんといかんのか?」という声までチラホラあがっていた。余談ながら、そんな反戦デモの光景をTVで眺めていたら「センソーヲ、スルナー!」と日本語(?)が聞こえて来て「あれ?」と思った瞬間があった。横断幕の文字などから「Don't War on Syria!」と言ってたのを空耳したんじゃないかと思われる(Warから後は確実だがその前は自信がない)

 その「スルナー」が効いたのかどうか、意外にもその後事態は急展開、一気に「外交的解決優先」な方向へ動いてしまった。まずきっかけは当初アメリカと共に軍事介入する気満々だったイギリスで、8月29日に議会が反対多数で軍事介入を承認しなかったことだ。本来イギリスでは政府の軍事行動に議会の承認は不要(あるいは事後承認)とされていたそうだが、最近はイラク戦争などで承認を受けるケースが多くなっていた。しかしイラク戦争で結果的にデマに基づいた攻撃に加担してしまった負い目があったせいか今回は世論の反対も多く、野党はもちろん与党でも反対者が出て承認を拒否した。キャメロン首相はこの決議を受けて軍事行動への参加をあっさり断念した。
 新聞に出ていた解説によると、これはイギリス政治史上画期的な事態であるそうだ。イギリスという国には成文化された憲法はなく、マグナカルタだの権利章典だのといった歴史的文書や前例の積み重ねが憲法的な役割を持っていて、その前例からすれば首相は議会の承認なしでも軍事行動は可能だった。しかし今回議会が明確に承認せず、それを受けて首相が軍事行動をあきらめたことで、今後「首相の軍事行動には議会の承認が必要」という前例を作ったことになるのだそうだ。

 他の西欧有力国ではドイツは最初から明白に軍事行動参加は見送っていたが、フランスのオランド大統領は一時軍事行動にかなり前のめりになっていた。こちらも議会の承認は不要で、あの唯我独尊的なフランス(笑)には珍しくアメリカと仲良く軍事行動をしようと手ぐすね引いてる感じだった。それはなぜか、といろいろ言われているが、やはりシリアがかつてのフランス植民地、正確に言えば第一次大戦後にオスマン帝国領が分割された際にフランスの取り分だった地であり、先頃のマリでの軍事行動の直後ということもあってフランスが「宗主国気分」に浸ってしまったんじゃなかろうか、と。
 もっともその後ロシアで開かれたG20サミットで、直前まで例のスパイ騒動やら何やらで激しく対立してるかに見えたオバマ大統領がプーチン大統領と突然の会談を行い、その後少し置いて(たぶんあの会談の時点で筋書きはできてたんだろう)「シリア政府が化学兵器禁止条約に加盟し、化学兵器を全て廃棄する」との提案がロシアから出されてオバマさんがひとまずこれを受け入れた。アメリカの世論も驚くべきことに(?)軍事行動に反対する声が圧倒的に多く、議会も賛成してくれそうにないし、オバマさんとしては行き詰まっていたところで、むしろ「渡りに船」なんじゃないの、との観測もあった。すっかり前のめりになっていたフランスはアメリカとロシアで話を勝手に決められ、「ハシゴをおろされた」状態になってしまったのにはちょっと笑った。

 これを書いてる間も国連総会が開かれていて、シリア問題もあーだこーだと議論されている。大国の軍事介入の可能性自体はかなり低くなった気配だけど、イスラエルのこともあるからまた急展開の可能性はあるし、そもそも内戦はもはや政府軍対反政府軍という単純構図ではなく、反政府側もイスラム過激派系とそうじゃない系に分かれて戦闘をはじめ、三つ巴だか四つ巴だかという状態になりつつあるらしい。そのまんまにしておくってわけにもいかないんだろうけど…ああいうバルカン半島だの中東各地だのの混乱を見ていると、オスマン帝国って大したもんだったなぁ、と変なことを考えてしまうのだった。



◆シリアといえばこんな話題も

 上記のようにシリアは内戦の真っ最中で、キナ臭い話題ばかりになってしまうのだが、その中で砂漠にオアシスを見つけたようにハッと救われるような気持ちになる「史点ネタ」な話題もあった。一ヶ月ばかり前の話になるのだが、やっぱり採り上げておきたい。

 シリアのほぼど真ん中の地点に世界遺産に登録された「パルミラ遺跡」がある。ここは場所が場所だけに歴史が古く、もともと「タドモル」といったその地名は紀元前2000年ごろのメソポタミア古文書に出て来るし、旧約聖書でもあのソロモンが建設した町として登場している(実際にはソロモン以前から存在したのだろうけど)。現在でもアラブ語、ヘブライ語ではこの町を「タドモル」と呼ぶそうだが、のちにアレクサンドロス大王やローマ帝国がこの地を征服し、ギリシャ・ローマの言葉ではなぜか「パルミラ」と呼んでいたので世界的にはこっちが定着しちゃっているらしい。
 パルミラがローマ帝国の支配下に入ったのは1世紀のことで、2世紀はじめには五賢帝の一人――というよりは「テルマエ・ロマエ」に出て来る人で有名になってしまった(笑)ハドリアヌス帝もこの地を訪れている。風呂が気に入ったのかどうかは知らないが、ハドリアヌスはこの町に自分の名前を加えて「パルミラ・ハドリアナ」と改名させてしまったそうで。

 さて、そのハドリアヌス帝のころ、すなわち2世紀初めごろのパルミラの地下墓を日本の奈良県立橿原考古学研究所が調査していた。シリア政府からの要請だったそうだが、その調査自体は20年以上前からやってるもので、別に最近の内戦が絡んでいるわけではない。内戦のおかげでアレッポなど他の古代遺跡についても破壊が懸念されれいるわけだが…
 ともかく、地下墓からは160体以上の人骨が発掘され、同研究所はそれを地道に調査していた。そしてこのたび、1991〜1992年に発掘された人骨に一体だけ、東アジア人の特徴をもつ女性のものが含まれていることが確認された、との驚くべきニュースが報じられたのだ(筆者は読売新聞8月29日付で見た)

 記事によると、発掘された人骨の大半は彫りの深い西アジア系、すなわち現地のパルミラ人たちの特徴を持っていた。しかし一体だけ、顔の骨が扁平で口元が少し張り出した東アジア的な顔つき(おお、まさに「テルマエ・ロマエ」の「平たい顔族」だ!)をした30歳代の女性の骨があったというのだ。さて、これはどういうこと?まさかあのマンガみたいにタイムスリップした東アジア人がいたわけじゃなかろうし。
 2世紀初めのパルミラに東アジア人的な顔をもつ女性がいた――と聞くと、知ってる人は誰もが連想したはず。それとごく近い時代に、この地まで来た可能性のある有名な中国人がいるのだ。その名を甘英という。

 甘英は中国は後漢時代の人で、西域都護・班超の部下だった人物。班超は西域を征服して後漢の勢力範囲を大きく西へと広げたが、はるか西の彼方に「大秦」なる大国があるとの情報を得て、その大秦と通交しようと考えて部下の甘英を西の彼方へと派遣した。もちろん彼一人で行ったとは思えず、ある程度の人数を抱えた集団であったと思われる。「大秦」とはローマ帝国のことであろうとするのが通説だ。

 甘英が大秦目指してシルクロードの西の彼方へ旅立ったのは西暦97年のこと。当時西アジアにはほぼ現在のイランにあたるパルティア王国があり、中国ではこのパルティアのことを「安息」と呼んでいた(歴代の王がアルサケスと名乗ったため)。当然甘英はこの「安息」を通過したわけだが、『後漢書』によると甘英は「條支」というところまで行き着いて大海にぶつかり、船でその大海を渡ろうとした。ところが安息の西部国境付近の船乗り(原文「安息西界船人」)「この海、ムチャクチャ広んやで。ええ風に乗れば三月で着くけど、下手すると二年はかかる。せやから海に出るもんは三年ぶんの食いもんを積んでいくんや。おまけに海の中には陸地が恋しくてたまらんようにしてまうもんがおって、ぎょうさん死人も出てるんやで」となぜか怪しげなアキンド的関西弁で脅したため、甘英は渡海を断念して引き返したという。

 甘英がたどりついた「條支」がどこなのかは、諸説あり確定していない。大海に面していることは間違いなく、また「安息」の西の境界であるということも読みとれる。当時の安息すなわちパルティアの領域からするとペルシャ湾、あるいはカスピ海(これは湖だけど目の前にすれば海だと思うだろう)に面した土地ではないかと見られるのだが、「安息の西の境界」に厳密にこだわらずに海を地中海とみなし、「條支」はシリアのことではないかとする意見もあった。大秦すなわちローマへ向かうのなら、地中海に臨むのが素直なところだからだ。なお、トンデモ説としてこの海が大西洋であり、條支国はジブラルタル海峡付近だ、という主張もあったりする(当サイト内「ヘンテコ歴史本」コーナー参照)

 船乗りが甘英に言った言葉は『後漢書』にそのまま記録されているものだが(もちろん怪しげな関西弁ではない)、これはローマと交易している商人としては漢からローマまで直結する交易ルートができてしまうと飯の食い上げになるため、航海の危険を誇張して脅し、ローマ到達をあきらめさせた、というのがよく言われる解釈だ。それ自体も面白いのだが、彼の話に出て来る「人を死なせてしまうほど故郷を恋しくさせてしまうもの」の話は、『オデッセイア』に出て来るセイレーン伝説を連想させて非常に興味深い。
 そんな脅しに乗せられて帰って来てしまった甘英もちょっと情けないが、当人もローマまで行く気はあまりなく、「もうこの辺でいいや」と思って話に乗ったという可能性だってある。『後漢書』にこの話が妙に詳しく載っているのは、甘英自身がそういう報告を書いて弁解したからではないかとも思える。

 ようやく話が元の人骨の話に戻る。パルミラに2世紀初めごろの東アジア的特徴をもつ女性の骨があった、という話を聞けば、知ってる人ならこの甘英の逸話を連想してしまうはず。橿原考古学研究所の所長さんも「甘英使節団の一員ではないか。想像がかきたてられる発見だ」とコメントしていたが、そんな大冒険の使節団に女性が混じっているというのもちょっと不自然な気もする。あるいは甘英一行のなかに現地人と結婚して娘をもうけた人がいたとか、そんなことも想像してみる。
 またパルミラという土地は交通の要衝で、ローマとパルティア間の交易で栄えた地域でもある(のちにローマとパルティアの緩衝地帯としてパルミラ王国なんてものも出現する)。例の船乗りが甘英に語った話も、そういう土地の人間だとすればより納得がいく。そして甘英はやはり地中海まで到達していた可能性が高まったことになる。
 


◆とんでもない落し物

 空からの落し物、といえば先日のロシアでの隕石落下を思い出すが、そもそも大昔には「杞憂」の語源となった「天そのものが落ちて来る」ことを心配していた人もいる。天そのものが落っこちて来る心配はとりあえずないので「杞憂」はいらぬ心配を指す故事成語になったわけだけど、空から核兵器が落っこちて来るとなると、それこそ天が落っこちて来るのに匹敵する恐怖だと思う。

 つい先日の9月21日付英紙「ガーディアン」で報じられたところによると、1961年1月23日、アメリカ東部ノースカロライナ州に広島型原爆の250倍の威力を持つ水素爆弾が落っこちていた事実が機密指定を解かれた公文書により確認された。そういうことがあったんじゃないか、という指摘自体は前からあったらしいのだが、これまでアメリカ政府は公式には否定し続けていた。
 1961年といえばまだまだ冷戦真っ盛り。この1月23日の三日前にはやがて「キューバ危機」にぶつかることになるケネディ大統領が就任したばかりだった(そういやその娘さんが今度アメリカの駐日大使になるんだよね)。当時アメリカ政府はB52爆撃機に水爆を積んで飛ばして常に「戦略パトロール」なるものを行い、ソ連からの核攻撃があったら即座に核による報復攻撃ができるようにしていたのだが、こともあろうにその水爆を二個も積んだB52がきりもみ状態になり墜落するという事故を起こしてしまったのだ。

 B52に積まれていた二個の水爆は空中で外れ、そのままノースカロライナの牧草地などに落っこちた。といっても核爆発を起こしたわけではない。もともとただ落ちただけでは起爆しないように設計はされていて、どちらも爆発はまったく起こさなかった。しかしうち一個は落下のショックで起爆装置が起動しており、四つ設置されている安全装置のうち三つまでが機能せず、四つ目の低電圧の単純なスイッチだけが入らずにすんだために核爆発をまぬがれるという、聞くからに背筋が寒くなるきわどいところまでいっちゃっていたのだそうだ。もしこれが実際に爆発していたら、その周辺が完全に壊滅したであろうし、首都ワシントンからフィラデルフィア、ニューヨークといった東部の主要大都市に「死の灰」が降り注ぎ、数百万人が命の危険にさらされたであろうと推測されている。
 本当に爆発していたら、まさにアメリカの心臓部が壊滅状態にされちゃってたわけで、それこそ歴史が変わっていた。またそんな核爆発が起きたら「すわ、ソ連の攻撃か」とアメリカ軍がソ連へ直接「報復核攻撃」に出て、全面核戦争になっちゃってた可能性だって十分ある。

 実はアメリカ軍が水爆を落っことしたケースは他にもある。このケースからほぼちょうど5年後の1966年1月17日に、スペイン南部パロマーレス上空でアメリカ軍のB52と空中給油機とが空中衝突、B52に積まれていた水爆4個のうち3個が落下するという事件が起きている。落ちた3個の水爆のうち2個は地上に、1個は海中に落ちてしまい、地上に落ちた二つは通常火薬のみが爆発して周辺にウランとプルトニウムを飛散させた。
 事故後、現場周辺では1平方メートル当たり最高120キロベクレルのプルトニウムが検出され(昨年の毎日新聞の記事によるとチェルノブイリ原発事故の住民立ち退き地域に匹敵)、アメリカ軍は汚染土砂1300立方メートルを除去、つまり最近の日本ではすっかり耳慣れた「除染作業」を行った。しかしその一方で当時のスペインの独裁者フランコ政権とアメリカ政府は「反共」で提携しており、事件の直後にスペインの観光大臣とアメリカの駐スペイン大使が海で泳いで安全アピールのパフォーマンスをしたし、除染についても中途半端なままウヤムヤに処理してしまったことが近年明らかになっている(そもそも当初は水爆が落ちた事実すら隠蔽しようとしたらしい)。事故現場周辺で除染対象外とされていた地域から有害な放射線を出すアメリシウム241が検出されたのは、なんとようやく昨年のことで、現在もスペイン政府はアメリカ政府に除染を要請しているが今のところアメリカ側は知らんぷりをしているとのこと。

 1960年代にはアメリカでもヨーロッパでも、核兵器をいくつも積んだ爆撃機が常時お空を飛んでいたわけで、今考えてみるとかなり恐ろしいものがある(それこそ「杞憂」ではない)。もちろん現在だって核兵器はあっちゃこっちゃにあって、何かのはずみで飛び出さないとも限らない。化学兵器の使用がどうたらといってどっかの国を攻撃しようとしたどっかの大統領もいるんだが、そもそも核兵器だって十分に非人道的兵器だろうに。そのどっかの大統領はその廃絶を初めて口にした人でもあるのだがなぁ…。



◆さらば地球よ、旅立つ船は

 本当のことを言えば、この話題は「ニュース」ではない。昨年のうちに「そうなんじゃない?」とすでに報じられていたもので、それがつい先日「確報」となっただけのことだ。しかしそれでも人類史上大変な「事件」には違いないので、ここでとりあげることにした。

 何の話かと言えば、アメリカの惑星探査機「ボイジャー1号」が、ついに太陽系を離脱した、という話である。
 ボイジャー1号が地球を旅立ったのは1977年9月5日のこと。1977年というのがどういう年かと調べてみると、映画「スターウォーズ」の一作目(つまり「エピソード4」)「未知との遭遇」「惑星大戦争」が公開されたSF映画の当たり年(最後のやつは「SW」便乗企画だけど)。映画史的にはチャップリンがこの世を去ったことでも記憶されるべき年だ。プロ野球界では先日バレンティンにシーズン本塁打数記録を抜かれた王貞治が9月3日に通算756本目のホームランを打って「世界のホームラン王」になっている。アメリカの大統領はジミー=カーター(就任初年)、日本の首相は福田赳夫だった。

 ボイジャー1号はほんらい惑星探査機で、とくに木星と土星の調査を大きな目的としていた。1979年の3月にボイジャー1号は木星に最接近し、木星の高精度な写真を撮影、各種の観測を行い、木星の衛星たちについても撮影を行った。このうち木星の衛星のひとつ「イオ」で活火山が噴火している模様をたまたま撮影し、地球以外で初の火山活動確認と騒がれた。僕も当時新聞に載った噴火写真をよく覚えている。
 翌1980年11月には土星に接近。土星のトレードマークである「輪」や、大気のある衛星「タイタン」の撮影・調査を行っている。土星を離れてしまうとボイジャー1号の本来の任務である惑星探査はおしまいで、あとは慣性のままに宇宙空間を吹っ飛んでいる。1990年2月には太陽から60億kmという距離から太陽系の惑星たちの写真、俗に言う「太陽系家族写真」を撮影している。

 昨年2012年の時点で「ボイジャー1号は太陽系を離脱したのでは?」との話は出ていた。しかしさすがにNASAは断定に慎重で、このたびデータを詳細に検討した上で「2012年8月25日にボイジャー1号は太陽系を離脱した」と断定したのだ。
 ところで何をもって「太陽系を離脱」と判断するんだろうか。そもそも「太陽系の端」ってどこなのか。こう書いてるとアイザック=アシモフのSF叙事詩「ファウンデーション」シリーズの「銀河系の端」の話を連想してしまうのだが(知らない人はいっぺん読んでみてね。当サイト内にファンコーナーもありますので)、一応の解答はちゃんとある。簡単に言えば太陽から放出される粒子の流れ「太陽風」の影響が尽きるところ(「太陽圏」という)、ということになっているのだそうで。太陽から発せられる太陽風と太陽系外の宇宙空間から飛んでくる星間物質とが太陽系の外枠でぶつかりあい、太陽風が急減速する「末端衝撃波面」というのがあって、2004年の段階でボイジャー1号がその面を突破したことが確認されていた。さらにその外側では太陽風はますます減速し、やがてゼロになってしまう。この地点を「ヘリオポーズ」といい、ボイジャー1号本体周辺の物質に関するデータから
昨年8月の時点でヘリオポーズを突破した、とこのたび判断されたというわけだ。

 太陽系の外に出た人工物はもちろんこれが初めて。1957年10月に打ち上げられた「スプートニク1号」が最初に宇宙に出た人工物で、その直後の11月に打ち上げられた「スプートニク2号」に乗せられたライカ犬が宇宙に出た初の地球生命体、そして1961年4月にユーリ=ガガーリンが最初に宇宙に出た人間となった。そしてようやく太陽系の外へと人工の物体が出て行ったわけで、思えば人類史上、いや地球と太陽系の歴史上でも大変な出来事なのだ。
 ボイジャーがそういう存在になることは分かっていたから、いつの日か高度な文明をもつ異星人に拾ってもらって地球の存在を知ってもらおうと、ボイジャー1号には画像や各国語による挨拶の音声、世界各地の音楽などを記録したゴールドディスクが載せられている。1977年のことだからもちろんアナログレコードなんだろうけど(確認してないけど再生装置は積んであるのか?)、なまじ圧縮したデジタルデータなんかにした方が読みとってもらえないかもしれない。再生できるハードほしさに宇宙人が買い物にきたりして(笑)。
 連想で思い出したが、先行して打ち上げられたパイオニア10号にもやはり異星人向けのメッセージが積まれているのだが、そこにオールヌードの人間男女を描いたために「公費を使って宇宙にポルノを送るのか」なんてイチャモンもあったという。いや、そういうものこそ宇宙人は興味津々で、それを見たさにハードを…(爆)。

 もっともボイジャー1号が飛んでいく方向にある最も近い恒星にたどりつくまで最低でも3万8000年はかかるのだそうで…仮にそこに文明があったとして向こうがそれを受け取ったころまで地球人類が存続してくれてるのか、ちと自信がない。逆に今から3万8000年前というと人類がようやく地球の陸地全体に広がったと思われる頃なので、大した時間ではないと考えることもできる。お隣の恒星系に着くころには人類がワープ航法でも開発していて、ボイジャーに先回りしていた、なんてSFなことになったら面白いけど。


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