ニュースな
2013年10月11日

<<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事

◆茶会の茶会による茶会のための茶番

 ちょうど中学三年生には公民の授業で国会・内閣など政治のしくみを教える時期なのだが、アメリカ議会で予算が決まらず一部政府機関が閉鎖されてしまった騒動は、いいネタとして使えた。日本の憲法では「衆議院の優越」が定められており、予算については参議院が異なる議決を出したとしても結局衆議院の議決が国会の議決となることになっている(総理大臣の指名や条約の承認も同じ。ここ、テストに出るぞ(笑))。二院制の国ならどこもそんなものなのかな、と漠然と思っていたのだが、今度の騒動でアメリカでは上院下院両方を通過しないと予算が成立しないということを知ることになった。
 なーんだ、参議院不要論だの強すぎる論だのあるけど、アメリカのシステムに比べたらずっと弱いじゃないか。そしてアメリカもまた「ねじれ国会」であり「決められない政治」だったりすることに、ちょっとホッとしたりもするのだった(笑)。ま、17年前にもあったことだしね。

 それにしても何を揉めているのかと言えば、ズバリ「医療保険制度」に関してだったりする。これ、オバマ政権がすったもんだの末に法律をついに成立させたものなのだが、共和党多数の下院ではそれを含んだ予算を認めず「見直し」「先送り」をしろと主張しているわけだ。よその国から見ると理解不能な論争なんだが、この件と銃規制と中絶容認の三つには、その言葉を聞いただけで目を三角にして激憤する人たちがアメリカにはいる。保守派というより「アメリカ原理主義」(さらに「過激派」と続けるのは一応ちょっとためらっておく)と呼ぶべき人たちが、時代の流れに抗するようにいっそう活動活発化しているようにも見える。
 かつてのアメリカでは、南北戦争がそういう構図になっていたように、共和党が北部や都市部のリベラル系、民主党が南部や農村部の保守系、という色分けがあったのだが(小説「風と共に去りぬ」でもラストに民主党知事が誕生して主人公たちが安堵するくだりがあったそうで)、近ごろではすっかり逆転、アメリカにおける保守思想団体のほとんどは共和党内に寄生して影響力を持つようになっている。とくにオバマ政権が進める医療保険制度に反発し、その阻止のために結成され、その積極的行動で注目されているの保守団体が「ティー・パーティー・エクスプレス(茶会)」だ。今回の騒ぎもはっきり言ってこの「茶会」が原因となっている。

 過去記事を検索してみると、この「茶会」が史点に初登場したのは、ちょうど4年前の2009年9月30日の記事だった。書いた自分もいま読み返してみて勉強になったが(笑)、登場してきた頃から本当に異様な雰囲気を漂わせていたものだ。昨年の大統領選に向けてもオバマ再選を阻止しようと結構動いたらしいのだが、彼らのような過激な意見をそのまま反映できるような候補は大統領選本選までまず残れない。そして結局オバマ再選という結果になってここでは茶会の存在感はほとんど示せなかった。
 だが2010年にあった中間選挙では共和党の中にかなりの数の「茶会議員」を生み出すことに成功している。大統領選ではさすがに難しいと彼らも分かったようで、議会内に茶会議員を増やして影響力を増大させるという戦略をとったのだ。詳しいことは知らないがどっかの新聞記事によるとアメリカの議会議員選挙は選挙区ごとに共和・民主のどっちが勝つかはだいたい決まっており、候補者を決める予備選の方がポイントとなるらしい。そういうところでは茶会みたいなのの支援を受けると一気に有利になれる候補者もいて、それが議員となれば見事なまでに茶会のコントロール下に置かれる「茶会議員」が誕生する、というわけだ。

 来年はまさに中間選挙を控えているので、「茶会議員」の皆さんはここぞとばかりに自分たちが茶会の意向に沿っていることを行動でアピールしなければならない。共和党内でも議員間で温度差はあるようなのだが、党内で一定の勢力を持たれてしまうと無視もできない。そんなこんなで一度は決まった医療保険制度を見直せ、と強硬姿勢をとっている、ということのようだ。
 予算案は上院では通過しているのだが、この上院でも共和党強硬派のクルーズ議員が予算通過を阻止しようと21時間にわたって延々と演説を続けるというバカみたいな「実力行使」をやっている(ちなみにこれが議会史上第三位の記録というのにも驚いた)

 オバマさんとしても医療保険制度はやっと実現させた看板政策だけにひっこめられるわけもなく、共和党側も選挙がかかっているだけに妥協できない。採決に持ち込めば共和党内穏健派が寝返って予算成立となる可能性もあるのだが(この辺、スピルバーグ監督の近作「リンカーン」に良く似てますな)、下院議長も強硬でそうはさせまいと採決に持ち込まないでいる。まさにチキンレースの様相を呈して来て、オバマさんも東南アジア歴訪を中止、TPPよりTPT(ティーパーティー)という事態になってしまった。
 茶会側としては政府機関が閉鎖しようがオバマさんがTPPで不利になろうがかまいやしない、いや、むしろ困った事態になった方がより望ましいと思っているんだろう。このまま突っ走るとアメリカ政府の債務不履行問題が起こって悪くすると世界恐慌まで引き起こしかねないのだが、さすがにそこまではいかずになんとか話はまとまるだろうというのが大方の見方ではある(選挙への配慮さえすればいいというわけでとりあえず一年先延ばし、なんて話もあるようで)。ただあの強硬ぶりを見ていると茶会って世界恐慌も辞さなかったりするのでは…。名前のルーツになった「ボストン茶会」だってインディアンの変装をして茶を海に投げ込むような、かなり姑息な手段を使ってたしなぁ。



◆34年ぶりの対話

 APECや東アジアサミットの会合で、日本の安倍晋三首相が中国や韓国の首脳とちょこっと挨拶を交わしただけでもニュースになってる昨今だが、実に34年間も首脳同士が一言も言葉をかわしてこなかった二国もある。イランアメリカがそれだ。それだけに先月の27日にイランのロウハニ大統領とアメリカのオバマ大統領とが電話でとはいえ直接対話を行ったことは大きなニュースとして扱われた。

 イランはかつてアメリカの影響を強く受けたパーレビ国王のもとで欧米的近代化を急速に進めていたが、それがかえって国内の矛盾を招き、1979年の「イラン・イスラム革命」となって王政が打倒され、その直後のアメリカ大使館占拠事件(この時のことを扱った映画「アルゴ」がアカデミー賞をとったりしたっけな)があって両国は国交を断絶、以後実に30年以上にもわたってイランとアメリカは首脳同士の接触をまったくしてこなかったのだ。似たようなケースとしてアメリカとキューバの関係もあるが、クリントン大統領の時に国連総会の場でカストロ議長と「偶然会った」という形(外交の場ではよくある演出)で言葉をかわしたことがあったはず。

 国連総会には各国首脳が来て演説するので、イランの大統領もこれまで毎年のようにニューヨークには来ていた。昨年までのイラン大統領、アフマディネジャド氏は保守強硬派とされていて、アメリカはもちろんイスラエルも徹底敵視、ユダヤ陰謀論からホロコースト捏造説まで国連総会で演説してしまい、欧米諸国の代表が退場する騒ぎも起こしていた。だが聞くところではあんなアフマディネジャド氏でも保守派内ではまだ最強硬というわけでもなかったというから、あの国での本当の保守強硬派はもっと想像を絶するところに位置してるんだろう(それこそ茶会みたいなもんで)。だが実のところそこまでの強硬派はイランでも決して多数派というわけではないようだ。

 今年の大統領選挙で当選したロウハニ大統領は「保守穏健派」とされている。9月24日の国連総会での演説でも前任者に比べればずいぶん落ち着いたトーンになり、核開発はあくまで平和目的であり核兵器は持たないと主張したのは前任者同様だが、イスラエル批判は「パレスチナが占領下にある」といった程度の言及にとどめ、アメリカや西欧諸国には対話路線を示唆する内容となった。この演説の際、イスラエル代表が議場からひきあげて「ボイコット」したが、結局引きあげたのはイスラエルだけでアメリカをはじめとする「西側諸国」(まだこの言葉も死語にならんな)の代表たちは最後までつきあい、結果的にイスラエルの孤立感を示すことになってしまった。

 そして26日にはアメリカとイランの外相会談が行われた。オバマ政権はロウハニ大統領との直接首脳会談も打診した気配があるのだがそれはイラン側から断られたらしい。しかしその代わりということなんだろう、27日に電話による首脳会談が実現していたわけだ。内容的にそれほど重大なことが話し合われたとは思えないし、双方に反発の動きもあるからそう簡単に和解に進むとも思えないけど、電話とは言え直接会談は歴史的事件に違いない。
 面白いのがその内容を、ロウハニ大統領自身がツイッター上で公表したこと。一応本当に本人のものなのか若干の疑いはあるらしいが、首脳会談の内容に本人でないと知らないような部分があったようで、やはり本人なのだと見られている。思えば「ツイッター」の名前が一躍有名になったのはイランの民主化運動の盛り上がりの中でだった。イラン政府は一応ツイッターを遮断しているらしいのだが実際にはそれを切り抜けるプログラムが出回っており、なんと大統領までがそれを使用していた、というオチになってしまう。

 さてこのアメリカとイランの「接近」にイラついているのが、当然イスラエル。ロウハニ大統領の国連演説の直後、イスラエルのネタニヤフ首相は「予想通り、偽善に満ちた嘲笑的な演説」「人権を訴えながら、罪のないシリア国民の虐殺に関与している。テロを非難しながら、世界中でテロを行っている」「核問題での対話姿勢は核兵器開発のための時間稼ぎ」と言いたい放題にけなしていた。シリア問題でもアメリカが急に方針転換をした直後だけに神経をとがらせているんだろう。以前からイランの核施設にイスラエルが単独で直接攻撃をかけるんじゃないかと懸念されているし、実際この発言の直後にも政府要人がそれをにおわせる発言をして「牽制」をかけていた。しかしイスラエル自身は明らかに核保有をして、公式にはそれを認めていない国なんだよな。

 ところでこのネタニヤフ首相の発言が、思わぬ飛び火をした。イランを非難する発言の中で、「イランの若者はジーパンもはけず、西洋の音楽も聞けない」と言っちゃったのだが、「そんなことないぞー」とイランの若者たちが自身のジーパン姿の写真をネット上にアップする「運動」を起こしたのだ(笑)。イスラム革命後、何かというと「欧米文化を否定するイラン」なイメージが「西側諸国」では確かに広がっているけど、僕も以前イランに留学した経験のある人から聞いたが、実際にはいくらでも抜け道があり、衛星放送でアメリカのバスケットの試合や映画やドラマを見ているイラン人もかなりいるのだそうだ。
 イランの話ではないのだが、オリンピック開催地に立候補していたスペインのオリンピック委員の誰だかが「トルコでは女性は黒い衣服に身を包まねばならない」とまるっきり誤解(少なくともトルコでそれはない)した発言をしていたことがあり、この件でもそれを連想した。日本人だって人のことは言えないところが多々あるが、他国の事情をよく知りもしないで聞いた話や勝手なイメージで思いこんじゃいけないってことですな。
 


◆アンリ?やっぱりニセモノだった!

 いきなり楽屋話になるが、この「ニュースな史点」のために、僕は日々新聞サイト等で「史点」ネタになりそうな話題を見つけるととりあえずコピペしてテキストファイルに保管している(要するに記事のスクラップノートですな)。そのうちほんの一部が実際に「史点」記事になるわけで、実はかなり多くの話題が「落選」の憂き目を見ているのである(今回だって渋々落としたネタが2本ほどある)。また、いろいろと忙しくて「史点」更新の時期を逸したために、かなり面白い話題なのに取り上げられないままスルーされる話題もある。

 10月9日に「2010年12月にアンリ4世の首と断定されたミイラ化した頭部、DNA型からアンリ4世ではないと断定された」という一見ややこしい話が報道された。この記事を読んだ時にまず僕が思ったのは、「はて、これ「史点」で触れてたっけ?」というもので、さっそく確認してみたが2010年12月にこの件に触れた「史点」は存在しなかった。というか、どうもこの時も忙しかったらしく、2010年12月はそもそも一度も「史点」を更新していない。
 しかしこんな面白い話題に僕が目をつけないはずもないだろうと思って、2010年の「史点ネタ候補」テキストファイルを開いてみたら、ばっちりこの件の記事がコピペしてあった。ただ僕自身も「史点」を書けないうちに忘れちゃっていた、ということだ。

 その当時の新聞記事を読み返してみると、だいたいこういう話になる。
 アンリ4世は、カトリックとプロテスタントが争った「ユグノー戦争」の混乱をまとめてフランス王位に就いてブルボン朝を創始し、宗教的自由を認める「ナントの勅令」を出し、最後にはカトリック教徒によって暗殺されたという波乱に富んだ歴史人物。その遺体はパリ郊外のサンドニ教会に埋葬されていたが、フランス革命の際に墓が暴かれ、遺体がバラバラにされる憂き目にあってしまった。
 しかしその後、「アンリ4世の首」と称するミイラ化した頭部が歴史上何度か出没する。19世紀中にはドイツ貴族が所有し、20世紀初頭にはパリで競売にかけられたりしているが、偽物と見なす声が多かった。そして2010年、50年以上もこの「首」を所有していた84歳の老人が法医学者らに鑑定を依頼、法医学者らはアンリ4世が暗殺未遂の際に受けた刃物による傷跡が上唇部分の骨に残っていたこと、王がするピアスの跡が残っていたことなどから「本物のアンリ4世の首」と断定したのだ。
 ちなみに僕がコピペしていた当時の読売新聞記事の見出しは「何と!…流浪のアンリ4世頭部、本物だったと気付かれないくらいささやかなダジャレになっていたりする。そんなわけで僕もささやかにやってたりして(笑)。

 で、結局僕はこの記事をついついスルーしてしまったわけだが、今ごろになって「続報」が入った。しかもせっかくの「大発見」をちゃぶ台返ししてしまう形で。
 ベルギーのルーバン大学などの研究チームは、この「首」のDNAを採取してその型をブルボン王家の子孫のものと比較した。するとまったく異なるパターンであることが判明、この結果、この「首」は少なくともアンリ4世ではアンリませんと断定したわけなのだ。
 ブルボン家では、ルイ16世マリー=アントワネットの息子のルイ17世の心臓とされるものが、DNA鑑定の結果「本物」と断定された例があるのだが、そのご先祖様の首は今もどこかを流浪しているのであろうか。



◆一世紀を生き抜いて

 102歳。ということは、1911年の生まれである。1911年というと日本史では韓国併合の翌年、関税自主権回復の年。世界史では辛亥革命勃発の年として記憶に残る。そんな年に生まれ、「まだ生きてるのか」と驚かされ続けていた歴史的人物が10月4日に世を去った。「史点」的には張学良宋美齢に続く一世紀以上生きた有名人の訃報ネタになる。ベトナムの軍人にして「赤いナポレオン」の異名までとった、ヴォー=グエン=ザップ(武元甲)が亡くなったのだ。

 ヴォー=グエン=ザップが生まれた時代、ベトナムはフランス植民地「インドシナ連邦」の一部となっていた。少年時代から早熟な子だったらしく、13歳でフエの「国学」(国立大学)に入学している。ここには後にベトナムのエリートになるべき生徒たちが集まっていたこともあり、のちに盟友となるホー=チ=ミンも、敵となるゴ=ジン=ジェムもここの同窓生だった。
 この学生時代にヴォ=グエン=ザップは早くも政治活動を開始して除籍・投獄され、1931年にはインドシナ共産党に加入している。その後勉学を続けながら1938年に教授の娘と結婚して一人娘をもうけるが、やがて共産党自体が非合法化されたために彼は1940年に他の共産党活動家と共に中国へと亡命、妻や娘と別れることになる。彼の出国後にこの妻は逮捕されて15年の懲役刑を宣告され、1943年にハノイ刑務所で獄死してしまっている。

 この間、第二次世界大戦が勃発してフランスがドイツに降伏してヴィシー政権が成立、そこへ日本軍が進駐して来て、これがきっかけの一つとなって太平洋戦争にまで発展してゆく。この情勢の変化の中でホー=チ=ミンやヴォー=グエン=ザップは中国からベトナム国内に戻って「ベトミン」を結成、フランス・日本相手のゲリラ戦を開始する。結局は日本が敗北した1945年8月になって各地で武装蜂起を起こし、形ばかりの存在ながら存続していた阮朝のバオダイ帝を退位させ、「ベトナム民主共和国」の成立となる(八月革命)。ヴォー=グエン=ザップは一連の戦闘や蜂起で指導的立場にあり、成立したベトナム新政府において内務大臣に選出され、さらに植民地支配継続のためにフランス軍がやってくると、ホー=チ=ミン内閣の国防大臣、さらにはベトナム軍総指揮官に任じられて、フランスとの戦い「インドシナ戦争」の指揮をとることになった。

 ヴォー=グエン=ザップの名を高からしめたのは、なんといっても1954年のディエンビエンフーの戦いにおける勝利だ。ゲリラ戦の前に押されぎみになっていたフランス軍はベトナム軍に打撃を与えるべくディエンビエンフーに近代的要塞を築き、物量によって相手を圧倒しようとした。しかしヴォー=グエン=ザップはその裏をかいて、というか人命も捨て石にせんばかりの人海戦術でフランス軍を恐怖に陥れ、要塞を見下ろす高地に大砲を分解し人力で担ぎあげて包囲攻撃するといった作戦で、最終的に要塞を陥落させた。犠牲者数ではベトナム軍の方が圧倒的に多かったのだが、ともかくこの戦いによってフランスの勝利はなくなり、ジュネーブ協定によってフランスは撤退、ベトナムは南北の分断国家となる。

 続いてアメリカが介入してきたベトナム戦争においてもヴォー=グエン=ザップはベトナム人民軍総司令官として指揮をとった。ただし中ソ対立のあおりもあって親ソ派の立ち位置だった彼の立場は弱くなり、ホー=チ=ミンが擁護してくれたおかげで地位を保てたという。ベトナム統一後も副首相兼国防大臣の地位を守るが、ポル=ポト政権のカンボジアへベトナムが侵攻する際には反対の意向を示したため1980年に国防大臣から解任されて副首相のみとなった。ただ考えてみるとこの時点ですでに69歳、年齢的にも第一線に立つのは難しく、次第に権力の場から遠ざかっていくことになる。それでも政府の全てのポストから外されたのは実に1991年(80歳)のことで、やはり「救国の英雄」としてアンタッチャブルな存在だったのかもしれない。

 その後も公の場にチラホラと姿を見せ、そのたびに「まだ生きていたか」と世界を驚かせた。「史点」では2000年5月14日の記事で、「ベトナム戦争終結25周年記念」の式典に出席した彼が党幹部の腐敗を嘆く発言をしたことに触れていて、それから5年後の2005年6月1日の記事では戦争終結30周年記念式典にもしっかり出席した彼が「いかなる国であれ、どれほど強国であっても、自分の意思を他民族に武力で押し付けようとすれば、最後には必ず失敗する」と発言した件に触れている。それ以後「史点」で登場はしていないが、2011年に100歳になったことで国を挙げてのお祝いイベントになっていたのを覚えている。そこでも元気そうだったのだが、さすがに老衰でお亡くなりになったのだった。
 ふとここまで書いて「もしかして」と再確認してみたのだが、2007年3月に亡くなった僕の母方の祖母がヴォー=グエン=ザップと同じ年の生まれだった。そう知ると、なんだか自分のおじいさんが亡くなったみたいで妙な親近感を覚えたりもする。


2013/10/11の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>

史激的な物見櫓のトップに戻る