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2013年12月1日

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◆なんの煬帝ペテロも見てろ

 今年三月に中国江蘇省揚州市の工事現場で二つの墓が見つかっていた。そのうちの一つからは玉器や銅器、さらには墓誌が発見され、それらを総合した結果、中国考古学会は11月16日までに「これは隋の第二代皇帝・煬帝(ようだい、在位604-618)の墓」と断定、公表した。もう一つの方はその妃の墓とみられるという。
 
 煬帝と言えば、中国歴史上ではかなりの大物だ。南北朝時代を終わらせ久々に中国統一帝国を築いた文帝(楊堅)の子で、一説に父親を殺して即位したとも言われている。国内においては南北を結ぶ大運河を建造し、対外的には高句麗に遠征して大失敗、これらの「失政」により各地で反乱が起こり、最後は部下に殺され隋は滅亡してしまった。そんなわけで中国史上を代表する暴君の一人とされちゃってるのだが、それは隋の次の唐の時代に作られた歴史書によって不当に貶められたもの、との見解もある。そもそも「煬」の字は漢和辞典で引くと「あぶる、やく、金属を溶かす」といった意味で、贈り名として使う場合は「やりたい放題やった暴君」の意味合いになるもので、名前自体がかなり意図的につけられている。調べてみたら五胡十六国時代の代の皇帝の前例もあるのだそうで。
 
 隋唐ものの演義小説などでも煬帝は暴君を絵にかいたような人に描かれ、そういうイメージが長く続いていたが、近年は大運河建設を評価する意見もあるし、「名君」とは言わないが「大暴君」とまではいかないんじゃないの、ってあたりらしい。僕が最近見た李世民(唐の太宗)を主役とする中国ドラマでも、煬帝は浪費はしてるっぽいが結構優しいオジサンという雰囲気に描かれていた(演じたのは「三国演義」で曹操、「阿片戦争」で林則徐、「則天武后」で太宗、「呉越燃ゆ」で呉子胥を演じた歴史劇大物常連の鮑国安)。逆に韓国ドラマ「淵蓋蘇文」では悪役まわりということもあって従来通りの暴君イメージだったっけ(これまた韓国歴史劇で数々の名演を見せるキム=ガプスが怪演した)

 日本では聖徳太子と同時代人で、国書に「日いずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とあったことから煬帝が怒った、との逸話がよく知られる。ただこれは『隋書』の東夷伝に出て来る話で日本側の記録にはない。ただ『日本書紀』に「東天皇、西皇帝」といった表記をしたとの話があって(この時期で「天皇」称号があった可能性は低いとされるけど)、おおむねそういう内容の事は書かれていたのかもしれない。で、日本ではこれが「対等外交」と強調されるんだけど、『隋書』の書き方はどっちかというと「なんだ、この世間知らずは」と馬鹿にした空気を感じさせるものだ。それ以外の部分では「倭国」側のコメントは煬帝を「海西菩薩天子」と言い、隋を「礼儀の国」と言い、「我が国は礼儀をわきまえないので教育していただきたい」とやたらにへりくだったものだったりする。煬帝が「無礼なやつ。もう会いたくない」と怒ったという話もそこに書かれてるんだけど、それでいてお返しの使者をちゃんと送ってるのも事実で、そうブチ切れたというわけでもなさそうだ。

 そんな有名人なのに墓が分からなかったの?とも思うのだが、やはり死に方と、隋自体の滅亡とその後の混乱によりよくわかんなくなってたのではないかと。同じ俳優が演じてた曹操だって最近でも墓が見つかったのそうじゃないだのといった話題になってるくらいで。
 今度の報道によると墓からは多くの副葬品のほかに「50歳前後の男性の歯」も見つかったとのことで、煬帝が50歳で死んでいることから根も歯もない話ではなさそう(笑)。


 一方、カトリックの総本山バチカンでは、11月24日のミサで、ペテロの「遺骨」が初めて一般に公開された。ペテロ(ペトロとも)とは、イエスの一番弟子で本名は「シモン」と言ったが「石」を意味するあだ名をつけられたとされ、それがギリシャ語で「ペテロ」である。イエスが捕えられた時に「そんな人は知らない」と三度言って逃げたというエピソードもあるが、イエスの処刑と復活を目の当たりにしたとされ、その後のキリスト教布教の中心人物となった。その没年は不明だが、聖書外典でネロ帝期のローマに赴いて逆さ磔にされて殉教したことにされ、それが広く知られている。
 いつも映画の話に持ってちゃって恐縮だが、1951年公開の映画「クオ・ヴァディス」でもペテロは重要人物として登場しており、ネロ帝の迫害を受ける初期キリスト教徒たちのもとを訪ねたペテロに、信者たちが「キリストに直接会った人だ!」と興奮する場面があった。「クオ・ヴァディス」という言葉もペテロが目の前に現れたイエスに向かって「主よ、いずくに行き給う」と聞くラテン語のセリフである。

 ペテロが本当にそんな死に方をしたかは不明だが、ローマに行ったという話には早くからなっていたらしく、カトリックではペテロを初代ローマ教皇と位置づけ、その後の教皇(法王)たちはその後継者ということになっている。現在のカトリック総本部であるサン・ピエトロ聖堂も「聖ペテロの聖堂」ということであり、建物自体はルネサンス期のものだが、もともとそこにペテロ当人の墓があり、そこに教会を建てたのがルーツとされている。
 1939年になってから、サン・ピエトロ聖堂の地下墓所の学術的な調査が始まった。すると2世紀ごろのもの見られる記念碑が見つかり、すでにその頃からここがペテロの墓とされて「巡礼地」になっていた様子がうかがえた。巡礼に来た人々によるものと思われるギリシャ語の落書き(願い事など)も多くあり、その中に「ここにペテロがいる」との言葉もあったという。さらに金を織りこんだ赤紫色の衣に包まれた、「1世紀の人物とみられる60代の男性」の骨が発見された。これぞペテロ当人の骨に違いない、ということになり1968年に時のローマ法王パウロ6世が「納得のいく方法でペテロと確認」と発表し、以後はバチカン公認の「ペテロ遺骨」として大切に保管されている。もちろん全て状況証拠であり、本当にそれがペテロの骨だという保証はなく、批判もあるにはあるそうだが。ま、お釈迦さんの遺骨「仏舎利」だってそんなもんだし、信じる人は信じればいいわけで。

 見学自体はこれまでも出来たそうだが、こうやって公の場で公開されるのは初めてのこと。なんでそんなことをしたのか不明だが、もしかして今年は「ローマ教皇の生前退位」というローマ教皇史上でも異例のことがあったからかな?
 


◆ケネディ家の一族

 こんなタイトルを思いついてから、ふと元ネタの「犬神家の一族」(1978)の予告編ってどんなんだったろうと思い、そこに使われていたキャッチコピーを確認し、以下にそのまま書いてみた(大野雄二氏による「犬神家の一族」テーマ曲を脳内演奏しつつお読みください)

 犬神財閥の遺産をめぐって 血塗られた絢爛の一族に
 恐怖  次々に起こる奇怪な殺人事件
 華麗 戦慄 愛憎 人間の怨念

 わぁ、そのまま使えるじゃん!(笑)知る限りでは遺産争いは起こってないみたいだけど、それ以外の要素はまるごと入ってるこの一族。マフィアとのつながりも絡んでくるし、「ゴッドファーザー」みたいな部分まであるし。実際、この一族の歴史は2011年に「ケネディ家の人びと(The Kennedys)」というTVドラマシリーズにもなっている。
 そのドラマでは大統領になったジョン=F=ケネディの父、ジョゼフ=P=ケネディが実質的主役となっていて、彼の駐イギリス大使時代に失言で政治生命を絶たれるところから話が始まっていた。この人、もともと相場師でもあり、1929年の世界恐慌を直前に予測し株を売り抜けたエピソードでも有名だが、失言事件のほかにも裏社会とのつながりなど政治家としてはちと問題があった人なのも事実。自身の政治的野心を息子たちに託すのだが、一番期待していた長男は戦死、次男のジョン=Fを大統領に仕立てるべくそれこそマフィアも動員して選挙運動を展開。もちろんそれだけでジョン=Fが大統領になれたわけではないのだが、ともかく1960年の大統領選挙でジョン=Fは43歳という史上最年少のアメリカ大統領になり、その弟のロバート=ケネディは司法長官として兄を支えた。

 しかしケネディ家としてはこの辺が絶頂期で、あとは呪われたように不幸が続く。1963年11月22日にジョン=Fがダラスで暗殺される。兄を引き継いで大統領選に出馬したロバートも1968年6月6日に暗殺される。さらにその弟でやはり大統領の座を目指していたエドワード=ケネディも1969年7月18日に飲酒によるとみられる自動車事故を起こして同乗の女性を死なせてしまうというスキャンダルを起こして大統領への野心は夢と消えた(2009年に死去)
 さらに1997年12月にはロバートの息子のマイケル=ルモアーヌ=ケネディがスキー事故で死亡。1999年7月16日には、一部で政治的野心もあるのではとの憶測もあった、ジョン=Fの息子ジョン=F=ケネディ・ジュニアが飛行機事故で死亡した当時「史点」ネタにしてます。もちろんそのすべてが陰謀だとか、あるいはオカルト的な「呪い」であるとか言うつもりはないが、とにかく波乱万丈な一族であることは間違いない。

 そのケネディ一族の現世代の一人であり、ジョン=Fの娘であるキャロライン=ケネディが、11月19日に駐日大使に着任した。有名な大統領の娘ということもあり、日本ではハリウッドスターの来日並みの扱いで連日騒がれ、信任状奉呈のために皇居へ向かう馬車行列はTV中継もされ見物人が殺到する有様。
 あれで急に注目されてしまい初めて知った人も多いが、実はどこの国の外交官でも奉呈式に向かうやり方は同様に行っており、車にするか馬車にするかは当人の希望で決まり、ほとんどの人がせっかくだから馬車を選ぶと聞いている。要するに実はしょっちゅうやってることなんだけど、その華やかさが女性大使ということもあって世間の耳目を集めてしまうことにはなった。オバマ大統領の腹心ともされているので、昨今の東アジア情勢から日米結束の象徴として期待する声もある一方で、保守系の一部からはどうやら嫌われている気配もある。
 ところでそのキャロライン大使もさることながら、その息子、つまりジョン=Fの孫にも注目が集まった。飛行機事故で死んだ叔父のジョン=F・ジュニアとソックリな外見で、これまた政界進出がささやかれているらしいのだ。変な「呪い」がまた起きなきゃいいけど。


 測ったようなタイミングで、その奉呈式の直後の11月22日は「ケネディ大統領暗殺50周年」の記念日となった。その日に先だってオバマ大統領夫妻とクリントン元大統領夫妻がアーリントン墓地にケネディの墓に献花を行い(民主党は最大限にケネディの名前を利用してるよなぁ)、暗殺50周年の当日には暗殺現場のダラスで追悼式典が開かれ、連日のようにケネディを「偉大な大統領」として称えた。実際、アメリカの最近の世論調査でも歴代大統領でケネディをトップに挙げるものがあったといい、なんだかんだで歴史的大統領ということになってるようだ。ちなみに日本の中学校の社会ではケネディは歴史ではなく公民の「消費者の四つの権利」の提唱者として覚えさせられることが多かったりする。いや、別にそのせいで暗殺されたわけじゃないんだけどさ(笑)。
 


◆そして島がまた一つ?

 日本神話によると、日本列島で最初にできたのは「おのごろ島」だとされている。男神イザナギと女神イザナミが天から「アメノヌボコ」という矛で下界の塩の海をかきまわして作ったとされ、おのずから凝り固まったから「おのごろ」という名前になったとみられている。これを「おのずからころがる=自転」であって、これは自転する地球のことだ!と超絶解釈をした自称日本神話研究者がいたことについては当サイトの「ヘンテコ歴史本」コーナーを参照されたい(笑)。
 この「おのごろ島」というのが実在の島のことなのか、全くの神話用の創作なのか議論があるようだが、日本列島がまずちっぽけな島の出現から始まるあたり、このたびの海底火山噴火による「新島」出現とイメージが重なるところもある。なお、日本神話ではこのあと本州・四国・九州その他の島々が生みだされるのだが、当然そこには当時知るはずもない北海道など出てこない。この「国生み」の場面を描いた首相官邸内の絵画に「北海道がないとはどういうことか!」とイチャモンをつけた無学な国会議員がいたりしたっけな。

 さて、伊豆諸島から小笠原諸島というのはいずれも火山活動によってできた島々で、これまでも時々火山によって「新島出現か」というケースはあった。今回新島出現かと話題を呼んでいる西之島だって、40年前に今回と似たような火山活動で新島ができ、それまでの西之島とくっついて現在に至ったものだ。
 時代が近いはずなのに西之島の前例については僕は全く知らなかったが、小学生の時に読んだ学習漫画で「明神礁」の話は知っていた。明神礁とは伊豆諸島の南方、「ベヨネース列岩」と呼ばれる小島の集まりの東方にある海底火山で、1952年にこれが爆発的噴火を起こし、「新島」が出現、一時は標高300mほどまで成長したが、その後顔を出したり沈んだりを繰り返し、結局翌1953年9月には海底に没してしまい、「新島出現」の期待は夢と消えた。西之島の新島も今のところ「すくすく育ってる」ようにも見えるけど、この前例があるので…もっともあれ以上成長したら西之島にくっついてしまうんじゃないかな。そりゃまぁ官房長官も言ってたように、多少領海が広がることにはなるだろうけど。

 明神礁の話には、子供心にもわくわくさせられた覚えがあるが、この地点は日本の領海外にあるため「第一発見国」が領有主張をできるかも、ってんで、アメリカ・ソ連・韓国・中国・フィリピンなどの船が周辺をウロウロしていたという生臭い話も最近になって知った。
 ところで明神礁の近くの伊豆諸島南部の島々、具体的には青ヶ島と小笠原諸島の間にあるベヨネーズ列岩や鳥島(ジョン万次郎など漂流民が多かったことで有名)といった島々はもちろん東京都が管轄しているが、実は所属する町村が決まっていない。驚いたことにこれらの島、ことに鳥島については八丈町と青ヶ島村との間で「領土紛争」があり、所属未定のまま東京都八丈支庁が管轄する、という扱いになっているのだった。市町村や都道府県レベルの「領土紛争」というのは全国で探せば結構あるもので(僕の住む筑波山でも山頂の「領土紛争」が存在する)、そりゃあ国同士であるのも当たり前と言えば当たり前なのだ。厄介度はずっとこっちが上だけど。

 中国が「防空識別圏」を設定したことであれやこれやと騒ぎになってる昨今だが、日本と争っている尖閣はもちろんのこと、韓国と管轄をめぐり争っている暗礁、中国でいう「蘇岩礁」、韓国でいう「離於島」も範疇におさめたために韓国側も反発してるのだが、その暗礁の空域はそれまで日米側の防空識別圏に入っていて韓国はやってなかったことにも注目が集まってしまい、韓国も防空識別圏を拡大しようとの動きを見せていて、またいろいろややこしくなりそう。
 これも昔史点ネタにしてるのだが、2001年4月1日に公海上ギリギリを飛んで中国の情報収集にあたっていた米軍偵察機が中国軍機と衝突、中国軍機は墜落して米軍偵察機は海南島に着陸させられるという騒動があった。今度の件は、思い返せばそのころから中国側がいつかは設定しようと準備していたんじゃないかという気がする(報道で見ると確かにちょっと前から予兆と思える動きはあった)。まぁすぐ近くをスパイ機が飛ぶのはいい気はしないだろうし、「そっちは持ってるのになんでオレはだめなんだ」という理屈もあるんだろうけど、やたら高圧的なのは敵を増やすだけじゃなかろうか。
 ところで民間航空機の飛行コースの提出について、当初日本政府も航空各社が提出することについては表向きはともかく黙認していたら、どうもアメリカがやらなそうだってことで提出させないことにしていた。そしたらそのアメリカが当初の日本政府と同じような動きをしたもんだから、「あれ?」という空気も流れている。なんとなくだが、中国側のいくつかの動きも対米と対日を使い分けそうな気配を感じなくもないんだよな。

 どうもこの手のやりとりを見ていると、映画「仁義なき戦い」なんかで、大手の組どうしのくっついたり離れたりの駆け引きの間でウロウロする中小の組員たちを見ているようで…そもそもヤクザたちが奪い合うのも「シマ」なのでありました、チャン、チャン(笑)。



◆釈迦についての説法

 最近世界的なインターネットブロードバンドの普及により、大量なデータ量を必要とする動画投稿サイトがいろいろとでき、おかげで世界中の歴史物映画やドラマが(字幕なしだけど)楽しめるのは有難いことではある。著作権上の問題はもちろんあるけど、そもそも「見る」こと、あるいは「存在を知ること」自体が困難であったものがネット検索一つでポンポンと調べられ、見ることができるというのはやはり人類の歴史に大いなる貢献をしていると大げさでなく思う。「歴史映像名画座」管理人としては、日本ではほとんど入って来ない国の歴史映画や歴史ドラマが見られるというのは、やはり嬉しくてしょうがない。

 そんな国の一つにインドがある。インドだって当然歴史映画や歴史ドラマを大量に作ってるわけだが、日本で見られる機会はまずなかった(おかげで「歴史映像名画座」のインド史部分のなんと少ないことか)。最近ネット上でいろいろ見つけて面白がってるのだが、その中には当然と言うべきか、仏教の開祖ブッダ、いわゆる「お釈迦様」を主人公とするものもある。言葉は分からないがチラチラと見れば釈尊伝でおなじみの場面がちゃんと映像化されていると分かる。だが、僕も含めた日本人にはどうも、その…その映像の中のお釈迦様の姿に「違和感」を覚えてしまうはず。バリバリのインド人がお釈迦様を演じているという、本来当たり前のはずの光景に「なんか違う」と感じてしまうのは、やはり日本についた頃の仏教はたぶんに東アジアナイズされていたためだろう。逆に言えばその昔、大映製作で本郷功次郎が主演した大作映画「釈迦」なんて、インド人から見たら噴飯ものなんだろう(この映画、容姿とは別に内容面で東南アジア仏教国で反発があったとの話は聞く)
 もっとも、その本場インドで作ったアショーカ王の映画も見たのだが、歴史映画でありながら唐突に登場人物とエキストラによる歌とダンスが始まる、あのインド娯楽映画特有の演出が随所にあって、インド圏以外の人は目が点になってしまうと思う。

 そのお釈迦さんであるが、その生きた時代についてはそれこそお釈迦様でもご存じあるまいという状態だ。インドは古い歴史を持つ国で古くからの伝承や文献は豊富なのだが、こと「年代」にはとんと無頓着だったらしくインド古代史はどの出来事が何年に起こったのかという年代確定が非常に難しいという。お釈迦様ことゴータマ=シッダールタという人物がいたことは確かなのだがその生きた年代についての見解は実に百数十年もの開きがある。
 ざっと挙げてみると、釈迦生誕地であるルンビニーを抱えるネパールでは紀元前623年生誕説をとっていて、ルンビニーを世界遺産に登録したユネスコの公式サイトでもこの説で紹介されている。一方、南伝仏教ではアショーカ王即位年と釈迦の没年との差に関するある文献資料から釈迦の生誕を紀元前563年、没年を紀元前483年とする。これが有力視されてきたようで参考までについさっき本棚から引っ張り出した手塚治虫「ブッダ」もこの説を採っていた。だが北伝仏教ではもっと時代を下らせる伝承があり、これにより紀元前463年ごろの生まれで紀元前383年ごろの死去とする見解もそこそこ有力視されてはいるそうで。なお、いずれの説でも釈迦が80歳まで生きたという伝承については確実とみている。「ブッダ」だとなんとヒョウタンツギ食べておなか壊して死ぬんだよなぁ(笑。キノコにあたって死んだという伝承は実際にあるそうで、それを堂々とギャグにするところが手塚治虫の恐れを知らぬところ)

 さて、そんな釈迦の生きた時代について重要な手掛かりになるかもしれない発見が報じられた。
 ネパールのルンビニーが釈迦の生誕地であることは、ここにアショーカ王が紀元前249年にこの地を巡礼し「ここが釈迦の誕生地」と明記した石柱を建ててくれたおかげで確実視されていて、すでにそれ以前の段階でここが仏教の聖地となっていたことも疑いない。そして今回の発掘調査の結果、そのアショーカ時代の煉瓦造りの寺院の下から、ほぼ同じ構造と規模を持つ木造の建物の痕跡が確認され、その柱の跡などから炭素年代測定をおこなったところ、「紀元前550年前後」という結果が出たというのだ。この木造の建物が仏教寺院だとすれば間違いなく最古の仏教寺院であり、しかも釈迦の生年を紀元前5世紀以降まで遅らせる説は完全にオシャカになってしまう。
 もっとも、中には慎重な意見も出ている。そこに木造の建物があった、というだけで即「仏教寺院」と断定できるわけではないからだ。仏教発生以前にも宗教的施設はあり、当然ながら々古代インド文化の中から生まれただけに共通点は多い。ひょっとすると釈迦と関係なくこの地がなんらかの聖地になっていた可能性だってある。だから釈迦の生きた年代について即決着というわけにはいかないようだ。

 この発掘に関わった研究チームの人の話だと、現場は世界中の仏教徒が訪ねて来る聖地であるため、「今も現役の聖地であるところを発掘するのはやりにくかった」とコメントしているのが印象的だった。この地が「聖地」となって2600年だか2500年だかなんて聞くと、もうどうでもいいようにも思えてきますな。それこそ「釈迦の掌から飛び出せない」というような気分で。
 

2013/12/1の記事

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