ニュースな
2013年12月22日

<<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事

◆南アの星ついに逝く

 これをアップする時点ではすでに埋葬も済んでしまったのでもはや旧聞に属してしまうが、南アフリカのネルソン=マンデラ元大統領が12月5日についに95歳で死去した。といっても、6月ごろからすでに意識もなく生命維持装置のみで「生かされている」状態とも報じられていて、今度の訃報には「ついに本当に死んだ」というのが第一印象だった。年末になると「今年亡くなった人たち」の特集をあちこちで見るようになるが、ほぼ確実に今年亡くなった人の中で最後にして最大の大物ということになりそうだ。

 思えば「アパルトヘイト」という言葉自体、すでに今の若い人にはなじみが薄い。僕自身中学生をよく相手にしているのだが、僕が彼らくらいのころには絶対に覚えさせられたこの言葉も、今となっては「過去の物」であり、なまじ時代が近いもんだから歴史の範疇でも扱うことが少ない。
 世界的に悪名高かった南アフリカの人種隔離政策「アパルトヘイト」は、1980年代まではバリバリの現役。僕も小学校や中学校で「今もこういう制度をやってる国がある」とよく聞かされたものだ。そのころにはさすがに世界的な批判もあって南アフリカは経済制裁も受けていたし、オリンピックをはじめスポーツの大会からも締め出されていた。アパルトヘイト問題を告発した映画「遠い夜明け」(原題「Cry Freedom」)が公開され話題を呼んだのは1987年のことで(日本公開は1988年)、絶望的な印象を受ける日本版のタイトルに反してマンデラが釈放され「夜明け」が見えてきたのはそのわずか3年後だった。
 アパルトヘイトが撤廃された大きな原因は国内の抵抗運動もさることながら、世界的な批判と経済制裁の力が大きい。そんな時期の南アフリカの最大の貿易相手国がどこだったかといえば、ずばり日本。「日本人は南アフリカではどういう扱いを受けるか」という問題が中学の社会のテストに出たことを覚えている。正解は「名誉白人」、つまり白人じゃないけど白人同等にしてやるからありがたく思え、という、日本人としては微妙な気分になる扱いなのであった(なお、この問題に「村八分」と答えた生徒がいて、珍答として社会科教師が紹介ししていた)。そんな扱いになったのも日本が貿易相手として、間接的にアパルトヘイトに加担していたとも言えるわけで…深読みだと思いたいが、世界中の首脳クラスが押しかけたマンデラの追悼式に日本の現役の首相が参加しなかったのはもしかしてそんなうしろめたさがあったりはしないだろうか。王族レベル以外の葬儀に皇室の人間が出席したのは初めてだそうで、皇太子の参加は一応「異例の措置」なんだそうだけど。

 さてネルソン=マンデラが生まれたのは1918年。第一次世界大戦の講和条約「ヴェルサイユ条約」が結ばれた年であり、日本では「米騒動」が発生した年だ。彼が生まれたのはクヌという村で、その地方の首長の一族(王族といっていい)の息子だった。のちにマンデラは「そのままでいれば首長の地位を継いででっぷりとふとって家畜をたくさん飼っていたかも」という趣旨の発言をしている。こういう革命家タイプの人には割とよくあることだが、生まれた家の経済状況がそこそこよくないと勉強もできないし、政治活動もしないものだ。
 マンデラは当時存在した唯一の黒人向け大学を卒業して一族の期待の星となったが、本人の弁によれば一族の「摂政」が決めた相手と結婚させられることから逃れるために都会へ出て、法律家の道に進むことになる(なお、マンデラは結婚運があまりよくないのか、二度の離婚を経験している)。その過程で反アパルトヘイトの政治活動にも参加するようになり、1944年に「アフリカ民族会議(ANC)」に入党、メキメキと頭角を現して執行部入りし、1950年にはANC青年同盟議長となった。

 アパルトヘイトの原型になる人種差別政策は南アフリカでは以前から存在していて、かのガンディーが青年期の南アフリカ滞在時にその差別を目の当たりにして非暴力抵抗運動のきっかけを作ったこともよく知られる。ただアパルトヘイトが法的に整備・強化されたのはむしろ第二次大戦後の1940年代〜1950年代のことで、それを推進したのは「アフリカーナー」と呼ばれるオランダ系移民の子孫たちを支持母体とする「国民党(NP)」だった。南アフリカはもともとオランダの植民地だったのをイギリスが戦争で分捕った歴史があり、白人の中では多数派ながら中間・貧困層を作っている「アフリカーナー」たちは自分たちが不当に扱われているという怨念を持ち、白人の優位性を説いてナチズムにも共鳴した(この辺の事情はアメリカ南部社会に似てる気もする)。そして1948年の総選挙で「アパルトヘイト」整備を公約に掲げた国民党が政権を握ると、それは一気に実行に移されてゆく。マンデラたちの運動が盛り上がった時期とアパルトヘイト強化の時期はほぼ重なるものなのだ。

 1952年からANCやインド人団体などはガンディーの戦略にならった非暴力不服従の運動を開始する。例えば白人専用の公共施設に入りこんだり、夜間外出禁止を破って逮捕されるといった運動だ。なおマンデラも自身の最初の逮捕は白人トイレに入ったためだったと語っているが、それは別に政治的意図を持ってのことではなく単なるうっかりミスだったらしい。
 1955年6月にANCやインド人団体、労働組合、共産党、その他民主主義団体ら3000人の代表が集まった「人民会議」が催され、「南アフリカは黒人白人を問わずそこに住む全ての人々のものである」と唱える「自由憲章」を発表する。この集会自体黒人以外にアジア系や白人も交えたもので、憲章もあくまで人種間融和を訴えるものだったが、国民党政府は集会を解散させ、関わった中心人物らを「国家反逆罪(大逆罪)」で起訴して弾圧した。当然マンデラもこの中に含まれている。
 1960年には警察署前に集まった群衆に一斉射撃を行って多数の死傷者を出す事件が発生、これを機に国民党政府は非常事態宣言を出してANCなど黒人団体を非合法化し、マンデラらの運動は必然的に地下活動となる。それまで非暴力の運動に徹してきたANCだったが、マンデラ自身はそれはあくまで戦術の一つと認識していて、この頃にははっきりと武力闘争を志向していた。彼自身は共産主義には否定的だったが(欧米の価値観を押しつけアフリカの伝統文化を壊すものだと思ったらしい)、ガンディーよりはネルー、キューバ革命のカストロゲバラ毛沢東の長征といったものには強いシンパシーを抱いていて、中国から武器支援を受けようとまで画策したことを明かしている。1960年代という時代の風潮とマンデラも無関係ではなかったわけだ。

 ANCの軍事部門「民族の槍」を結成し、武装闘争の準備に入ったマンデラは1962年にひそかに出国、独立を達成したアフリカ各国を歴訪して、フランスとの戦いに勝利したアルジェリアや古くからの独立国であるエチオピアで軍事訓練を受けている。この記事のアップが遅れているうちにいいタイミングで報じられたが、このエチオピアでマンデラが名高いイスラエルの情報機関「モサド」の軍事訓練を「ローデシア出身のデビッド=モブサリ」という偽名で受けていたという興味深い話がイスラエルの新聞でスクープされた。モサド側も当時は相手が何者か知らなかったようだが、とにかくここでマンデラは柔道や破壊工作・武器使用の訓練を受け、モサドの地下活動にも興味を示したという。モサドは彼を親イスラエルにしようと画策したとも報じられているが、当時イスラエルと南アは友好関係にあり(国民党がかつて親ナチだったことを考えるとヘンな話だが)、のちには一緒に核開発をしたとの疑惑も持ちあがることになるので、マンデラとしてはあくまで闘争技術を学ぶために相手を選ばなかった、ということなのかもしれない。

 ただ幸か不幸か、マンデラが実際に武装闘争を展開することはできなかった。エチオピアでの訓練から二カ月後、帰国してすぐに逮捕され、「国家反逆罪」により終身刑の判決を受けて(当人は死刑を覚悟していたが、南ア政府としては彼が死んで殉教者になる方を恐れたとも言われる)、ケープタウン沖合の監獄島ロベン島に収容される。ここから実に27年にわたる囚人生活を送ることになり、ここで石灰石を扱う作業をさせられたために目を傷め、家族との手紙も全て検閲され、親族の葬儀にも出席を許されなかった。
 このロベン島時代の話は「マンデラの名もなき看守」という映画で描かれていて僕も鑑賞したことがある。主人公はコサ語を理解する白人看守で、マンデラの手紙の検閲や面会の会話を聞きとったりする仕事をしているうちにマンデラの個人的魅力にひかれてゆくストーリーになっていたが、マンデラの方でも看守たちが話すアフリカーナーの言葉を覚えてコミュニケーションを試み、相手の考え方を理解するようつとめたと言われている。これがはるかのちの釈放後、人種の共存を呼びかける穏やかなスタイルをはぐくんだようでもある。もともと武装闘争をしようという人だったはずだが、ほとんど実行しないうちに刑務所暮らしを長くするはめになったために「反アパルトヘイトの聖者」のように祭り上げられる結果になったともいえ、彼の自伝を読んでいるとどうもそうなっちゃったことへの歯がゆさというか、意外に刑務所暮らしは楽で良かった、というか、そんな感慨が漏れてるような感もあった。

 余談ながらこのロベン島、かの「ゴルゴ13」で三度も舞台になっている。1980年に書かれた作品ではロベン島脱走者のANCメンバーの依頼でこの刑務所の残酷な所長の暗殺をしているし、1988年に書かれた作品ではロベン島に収容されているPAC(ANCから分離した黒人武装闘争グループ)の裏切り者抹殺のためフィリピン人になりすまして入獄し、目的を達成している。3度目に舞台になった時にはマンデラはすでに大統領になっており、そのマンデラからアフリカーナーの武装勢力の抹殺を依頼されているが、実はゴルゴとマンデラは以前ロベン島で会っていたという設定になっている。なお、1988年作品でゴルゴがフィリピン人になりすますのは、日本人だと「名誉白人」であるためにロベン島入りが見込めないから、という日本人にはチクリと痛い設定が盛り込まれていた。
 このロベン島、1999年に世界文化遺産に登録されている。もちろん「負の遺産」の一つとしてだが。

 マンデラらの逮捕によって南アフリカのアパルトヘイト体制は揺るぎのないまでに強固になるが、1970年代には新たな世代による黒人解放運動が展開され、1976年にはソウェト蜂起が起こって政府は徹底的な弾圧を進め、当時の若き黒人指導者であったスティーブ=ビコは逮捕されて拷問により虐殺される。先述の映画「遠い夜明け」はこのビコの虐殺死をテーマとしたもので、この時代の南アの状況を知るには格好の入門映画といっていい(ビコを演じたのがデンゼル=ワシントンで、彼の出世作でもある)
 1980年代に入るとアフリカ諸国の台頭やアメリカにおける黒人の地位向上(オバマ大統領も自身の政治活動の初期にマンデラ解放運動に参加したと言っていた)、さらには冷戦構造の最後の盛り上がりとその崩壊への流れの中でアパルトヘイト政策は世界中の非難を浴び、南アフリカは経済制裁も受けて追い詰められてゆく。1990年2月に当時のデクラーク大統領はANCやPAC、南ア共産党などの合法化を決定、2月11日にマンデラの釈放を実現する。この劇的な展開は前年のベルリンの壁崩壊と東欧革命ともども「ずっと不動だと思っていたものが突然変わることもある」と世界を驚かせたが、いま思い返すとやはり両者のタイミングは無関係ではなかったのだ。南ア政府は「反共」を旗印にしてアパルトヘイトを進めていて、実はアメリカのレーガン政権とかイギリスのサッチャー政権といった西側保守陣営はその後押しをしていたに等しいわけだし。

 もちろんそれからも大変だった。というか、マンデラ自身に言わせればここからもっと大変だった。すでに獄中でカリスマとなっていたマンデラを迎えてANCは態勢を整えていったが、ネオナチなみに強硬な白人右翼勢力もいたし、政府側からひそかな支援を受けてANCに対抗する黒人勢力も存在した。暗殺やテロも横行し、一歩間違えれば内戦という危機にあった中で1994年に初の全人種が参加する総選挙が無事に行われた(この記事を書くために参考に読んだ本では「ほとんど奇跡」と書いていた)。ANCは政権を獲得、マンデラ自身は高齢ということもあってあまり乗り気ではなかったらしいがシンボルとしては外せず、ついに南アフリカ最初の黒人大統領に就任した。
 その後のマンデラは人種間の融和につとめた。また映画の話になるが、南アフリカで開かれたラグビーのワールドカップにおけるマンデラの国民団結への努力は「インビクタス・負けざる者たち」という映画になっていて、これもお勧め。その内容が全部事実というわけではないが、その人種の垣根を取り除こうとする取り組み自体はほぼ史実で、アパルトヘイト廃止が当初予想されたよりはずっと平和的に進んだ理由がやはりマンデラの姿勢にあったと実感できる。この映画でマンデラを演じたのは監督をつとめたクリント=イーストウッドの友人にして出演常連である名優モーガン=フリーマンだが、どうもこの配役はマンデラ本人の指名であったとの話もある(笑)。なお、この映画の中でニュージーランドのオールブラックスに「145対17」で大敗したチームがあるとのデータにマンデラが驚くシーンがあるが、その相手はずばり日本である(汗)。
 
 マンデラは当初の予定通り一期5年をつとめて大統領職をおりたが、その5年間にやったことというのはやはり大きいと思う。そりゃもちおん南アフリカはまだまだ多くの問題を抱えているが、アパルトヘイト時代に戻りたいと思う人はほぼいないだろう。サッカーのワールドカップの開催国に決まった時も大丈夫かとかあれこれ言われていたが、結局無事にやり遂げてるし。
 政界引退後も、「生ける歴史的人物」としてほとんど聖者化された感のあるマンデラだけに、その訃報はぼちぼちと予期されていたとはいえ世界中に衝撃を与えた。つい先日グーグルから発表されたが、昨年と比較して急増した検索ワードのトップが「ネルソン・マンデラ」であったという(その次が「ワイルド・スピード」出演者で交通事故死した俳優、ってのにはちと微妙な気分になるが)。それだけ世界的偉人と認識されていたわけで、その追悼式にはアメリカからのオバマ大統領はもちろんカーターブッシュクリントンと歴代大統領がぞろぞろ出席、そのほか世界中の首脳クラスがこぞって集まっていたが、意地悪な見方をすると「偉人の葬式」に出席することで箔をつけておこうという政治的意図も見え隠れしていた。スクープされちゃった、オバマ・キャメロン(イギリス首相)シュミット(デンマーク首相)の「自分撮り記念撮影」の場面には、そういう気分がはからずも出ちゃってたように感じたものだ。

 最後に、マンデラが当「史点」に最初に登場したのはいつかと読み返してみたら、それは2001年2月21日付「史点」の「世界を動かした名演説」という記事だった。1964年にマンデラが「国家反逆罪」に問われた裁判の中で三時間に及ぶ意見陳述をしたが、その録音がネット上で公開されたという話題。残念ながらその記事で書いたリンク先ではもう公開されてないらしいが。
 その演説の最後の言葉はこうである。
「全ての人々が調和し平等な機会を持つ、自由で民主的な社会という理想、その理想のためなら私は死んでも良い」



◆旧日本軍あれやこれや

 12月上旬は太平洋戦争勃発の時期。毎年よくネタが尽きないもんだと感心するくらい、この時期にはそれに絡んだ話題が並ぶのだが、ここではそれらに便乗しつつ、最近出た関連話題をまとめてみた。

 ミャンマーの旧首都ヤンゴンで、イェ=トゥという老人が11月27日に91歳で亡くなった。この人、かつて第二次大戦中にミャンマーの対英独立運動を指揮した「三十人の志士」の最後の生き残りであった人物だ。
 「三十人の志士」たちは当時イギリスの植民地化にあったミャンマー(ビルマ)の独立を目指し、対英米蘭戦争で各地の独立運動を利用していた日本の「南機関」に招かれ、日本で軍事訓練をうけたのちに日本軍と共にビルマに戻って「独立」を達成した。しかし日本劣勢とみるとイギリス側について日本を駆逐、さらにその後またイギリスからの独立を実現したという人たちである。そのリーダーであり、ミャンマーでは「建国の父」とあがめられているのが、あのアウンサン=スーチーさんのお父さんのアウンサン将軍さんであるわけだ。イェ=トゥ氏はミャンマーの軍事政権にも参加していたそうだが、調べた限りでは特にこれといった大活躍をしたわけでもなさそうだ。
 太平洋戦争開始から今年の12月で72年になるわけだから、このイェ=トゥさんは当時まだ二十歳前の少年だったことになる。この時代の戦争の戦闘体験者ももう90代しか生き残ってないんだよな。


 先ごろ猛烈な台風の直撃を受けて多大な被害を出したのがフィリピンレイテ島。レイテ島と聞くと「レイテ戦記」が頭に思い浮かぶ人も多いだろう、太平洋戦争の激戦地の一つだ。
 このレイテ島への台風直撃のなか、旧日本軍が作った地下トンネルに住民たちが逃げ込み、24人の命が助かったとの報道が朝日新聞に載っていた。この地下トンネルは山の斜面に造られ、長さ25mほどで二つの出入口のあるコの字型になっていて、中はコンクリートで固められ二畳ほどの部屋が二つある構造だとのこと。アメリカ軍との戦闘の前線拠点として作られたものだそうで、実際の戦争でどれほど役に立ったかは知らないが、思わぬところで人助けになってしまった形だ。
 記事によるとそのトンネルがあるレイテ島中部のブラウエンという村の村長さんの父親はかつて抗日ゲリラに参加していたとか。聞くところによると日本ではあまり意識してない気がするけどフィリピンでは当時の抗日ゲリラというのはかなり活発で日本軍を恐れさせたといい、その経験があった誰だかは「正規軍はゲリラには勝てない」との確信からベトナム戦争のアメリカ敗北を断言していたなんて話も聞く。それはともかく、そんな村にあった日本軍の残留物が思わぬところで「国際貢献」しちゃっていたのは皮肉な話だ。レイテじゃなくてイレテ、なんちゃって。


 発見自体は今年の8月の話だったそうだが、明らかにこの時期にぶつけた報道としか思えなかったのが、ハワイのオアフ島沖に沈んでいた旧日本海軍の潜水艦「伊400型」がようやく発見されたという話題だった。 
 オアフ島沖に沈んでいたと言っても、別に真珠湾攻撃に参加して撃沈されたというわけではない。なにせこの「伊400」は起工されたのが太平洋戦争もすでに劣勢になっていた1943年1月、完成・進水したのは1944年1月、就役したのが1944年12月という代物なので、はっきり言ってしまえば太平洋戦争で出番はほとんどなく、ようやく出番が来たと思ったらその作戦の実行予定日が8月17日で、14日のポツダム宣言受諾により作戦は中止、本土へ帰る途中でアメリカ軍に拿捕・接収された。
 しかしその設計自体は大変なもので、当時潜水艦としては世界最大の120mもの全長を持ち、燃料補給なしで地球を一周半できるほどの航続能力、攻撃機「青嵐」を3機搭載可能というちょっとした「空母」能力まで持っていた。アメリカにとって軍事的に重要なパナマ運河やことによってはアメリカ本土への攻撃も想定した設計だったとされ、接収したアメリカ軍関係者を驚かせたともいう(余談ながら、むかしゲームだけやったことがある「紺碧の艦隊」でパナマ運河攻略シナリオがあったのはこの辺がヒントなんだろう)
 アメリカ軍はこの巨大潜水艦を調査研究のためにハワイへ持ってゆき、1946年6月4日に訓練の標的として撃沈された。今度の報道によると、当時としては先進的な潜水艦であったため、冷戦の対立が始まっていたソ連に情報が漏れるのを恐れて、というのだが、正直なところ半信半疑。そのまま使えるとも思えないし、撃沈するしかなかったんじゃないかと(「U−517」って映画で米軍の潜水艦乗りたちがドイツのUボートを動かす羽目になってメートル法表記のために大混乱、って場面を思い出した)
 同型艦である「伊401」もほぼ同じ運命をたどっていて、こちらは2005年にハワイ大学の研究チームにより発見されている。「伊400」の方もそれ以来ずっと探していて、ようやく発見できたわけだ。


 真珠湾攻撃は日本時間では12月8日になるが、日付変更線の向こうにあるハワイではまだ12月7日だった。だからアメリカ人にとって開戦日は12月7日と認識されてるわけだが、その前日の12月6日、ニューヨークで行われたオークションで、真珠湾攻撃の直後に作成された「戦果図」が42万5000ドル(およそ4300万円)で落札されるというニュースがあった。そんな価値がつくのも当然、その戦果図を作成したのは真珠湾攻撃に指揮官として参加していた淵田美津雄中佐本人であり、彼が1941年12月26日に昭和天皇に戦果の報告をする際に使用したという、歴史的価値の高い資料だったのだ。
 淵田美津雄といえば、真珠湾攻撃に際して「奇襲成功」を意味する暗号「トラ・トラ・トラ」を打電したことでも知られる。1970年公開の映画「トラ・トラ・トラ!」では淵田の役を田村高廣が演じ、「我奇襲に成功せり。トラ・トラ・トラや!」とか「そんなアホな!」と関西弁で叫ぶシーンもあった(淵田は奈良県出身。自伝を読むと「トラトラトラや」は言ってないが、第二次攻撃がないと聞いて「何を阿呆な」とは本当に言ったらしい)。淵田自身はその映画公開から少し後の1976年に亡くなっている。
 彼が昭和天皇に説明するために作成したこの「戦果図」は、戦後に連合軍所属の歴史家の手に渡り、アメリカ国内にずっとあったが、今回どういう経緯かオークションに出た。落札者が何者であるかは公表されていないそうだが、まさか日本人じゃあるまいな。


ヤマトゴキブリ 12月9日にはアメリカの科学雑誌に「ヤマトゴキブリがニューヨークの公園に生息」との記事が出て、時期が時期だけに何やら「真珠湾」を思わせるものがあった(笑)。ヤマトゴキブリとは日本在来種のゴキブリで主に東日本に生息しており、アメリカ国内で発見されるのはこれが初めてとのこと。昨年に害虫駆除業者が「見慣れないのがいる」と気付いて専門の研究機関に送って、今度の発表に至ったとのこと。12月頭の公表はやはり偶然とは思えませんなぁ(笑)。
 輸入植物の土に紛れこんで「アメリカ本土上陸」を果たしたものとみられているが、一匹見つかれば当然そのウン十倍はいるはずで、もしかするとかなり繁殖して、現地のゴキブリとの生存競争に打ち勝って生態系をぶっ壊すのではないかとの懸念の声も上がっているとか。一方でやっぱり現地ゴキブリとの闘争に敗れてあっさり姿を消すのではないかとの「楽観論」も出ているそうだが…う〜ん、なんとなく日本人としては「敵国本土上陸」を果たしたゴキブリの「大和魂」の健闘に期待しちゃったりするのだな。調べてみると本来ゴキブリは熱帯産のため冬眠なんかはしないけど、ヤマトゴキブリは冬眠能力を身につけて冬の寒い温帯地域でも生息できるよう進化したグループで、人間と一緒に冷帯の北海道にまで進出してるそうだから、もしかするとニューヨークでもしぶとく生きていくかもしれない。



◆選挙と占拠と粛清と

 とあるパソコン雑誌を読んでいたら、実際にあったメールの笑える誤変換例で、「いま学校占拠してるからおいで」というのがあってクスッと受けてしまったことがある。学校で選挙の投票をやっているから来なさい、という用件だったのだが、結果的に凶悪犯罪に誘うかのような内容になってしまったというギャップが笑えたのであるが、こうして解説するとちっとも面白くないか。
 さて、その選挙ではなくて「占拠」をやっちゃって大騒ぎとなっている国が二つある。東南アジアのタイと東ヨーロッパのウクライナだ。

 タイではここ数年、ほとんど年中行事のようにデモや占拠が繰り返されている。モメる軸は現在も亡命中のタクシン元首相の存在。現在のインラック首相はタクシン氏の妹であり、当然ではあるがタクシン氏の帰国を実現しようとしているのだが、それに反発した野党のデモ隊が官公庁を次々と占拠。反政府デモを指揮するステープ元副首相はインラック首相の即刻問答無用の退陣のみならず、タクシン派を完全に排除した「人民議会」を作れと提案している。これに対してインラック首相は下院の解散・総選挙を持ち出して「民意を問おう」ともちかけたが、野党側はこれを拒否している。なんでかといえば選挙をやるとほぼ確実に与党が勝ってしまうからなのだ。実際ここ数年の混乱の中でも選挙をやれば与党側が連勝している。まさに選挙じゃ勝てないので「占拠」という実力行使に出ているわけだ。
 野党側は「選挙に不正がある」と主張しているようなのだが、反タクシン派はバンコク周辺や南部の一部都市に多く、北部を中心とする地方農村はおおかたタクシン派なのだそうだ。実際これといった選挙不正も見つかってないというし(カネのバラマキくらいなら日本だってある)、ハタ目には野党側の主張は単なるワガママと見えなくもない。ステープ元副首相はとうとう軍や警察の幹部と面会して、自分たちの味方について政府打倒に参加するようにと事実上の「クーデター要請」まで行っているのだが、いくらクーデターによる政権交代が多かった国とはいえ政治家がそれやっちゃいかんだろ、という話ではある。そして実際軍部はあくまで中立を守って動かず、ステープ氏らをいらだたせている。
 軍部が動こうとしないのは話が微妙であるだけでなく、「世界の警察」であるアメリカがかなり強く釘をさしているから、というのがもっぱらの噂で、それがカンに触ったのか、野党デモ隊はついにアメリカ大使館まで押し寄せて「介入するな」と騒いだというから、もう何というか。

 こういう膠着状態になるとこの国では「あの人」の動向に注目が集まることになる。そう、タイ国王ラーマ9世ことプミポンさんの動向だ。タイにおいて国王が国民から集める尊崇は戦前の日本の天皇のそれに匹敵するほどで、基本的には政治的立ち位置を示さない立憲君主のスタイルを守っているが、いざとなると事態収拾のために自ら乗り出して話をまとめてしまうこともある。
 しかし御年すでに86歳の高齢である。12月5日の誕生日を前に野党デモ隊が一時的に「休戦」したのはさすがの影響力だったが、注目された国王の誕生日スピーチは「タイが平和なのはみんなが団結しているからだ」という趣旨の、いささか現実と乖離した内容で(「バンコクの労働者、団結せよ!」ってギャグを連想してしまった)、要するに当たり障りのないものとなった。
 ただその後の報道によると、この「国王誕生日休戦」が若干影響したのか、野党デモ隊の参加者も減少傾向にあるらしい。一応政権側が総選挙を約束したんだし、ということもあるらしいのだが、結局20日になって最大野党・民主党は総選挙のボイコットを決定した。さすがに内部では疑問の声も出たと言うので、どこまで強硬路線が貫けるか分からないが、あんまりゴタゴタ続けているとバンコクならぬ万国からそっぽをむかれかねないと思うんだけどな。


 ウクライナもここ数年間いろいろと騒がしいところで、その対立軸は「EUかロシアか」という二者択一。もともと旧ソ連を構成する主要国であったウクライナだが、ソ連崩壊後は他の東欧諸国同様にじりじりとロシアの影響力から離れ、EUへの加盟を目指している。しかしウクライナには東部や南部にかなりの数のロシア系住民がいるし、ロシアにとってウクライナはロシア国家のルーツの地である。日本で言えば関西地方のようなもので、かなり強引に例えると関西が東アジア共同体みたいなものに引っ張りこまれそうになったら関東の日本政府はそりゃ面白くないだろうな、という話であるらしい。
 このところ進んでいたウクライナのEUへの統合話を、ヤヌコヴィッチ大統領が11月末にいきなり「全部放棄する」と先送りにした。そこには当然ロシア側の政治的・外交的・経済的な圧力があったとみられるが、EU加盟を求める野党勢力は激怒して、首都キエフの市庁舎など各所を占拠して政府打倒を呼びかける実力行使に出た。一部が大統領府に乱入し、政府側が実力でデモ隊を排除する事態にもなり、2004年に起きた「オレンジ革命」の夢よもう一度、ということで12月8日はキエフの独立広場に10万人が集結し、ウクライナとEUの旗を振ってヤヌコヴィッチ政権打倒をブチ上げている。
 このとき、一部が暴徒化して広場近くにあったレーニン像を引き倒し、バラバラに解体してしまった。レーニンといえばもちろんソ連の建国者であり、ソ連時代には問答無用の英雄だったがソ連崩壊後はあちこちで破壊された。それがまだキエフに残ってたのか、と驚きもしたが、このたびはレーニン=ソ連=ロシアという連想で破壊の憂き目を見てしまったようだ(そういやグルジアにはまだ「地元の英雄」としてスターリン像が残ってたな)
 ソ連時代に逆戻りはどこだってかなわないだろうけど、かつてソ連の影響下にあった国々に強く見られる「EU願望」ってのもいささかあぶなっかしいものに見える。EUに入れば全てバラ色なんてことがないことは、当のEU側が最近いやというほど思い知らされているし、ウクライナ側にもEUに入ることで「経済的支配」を受けることになりかねないと警戒する声もあるのは確からしい。またEU入りを熱望する人々がウクライナの多数派というわけではなく、タイの話と似て激しい地域差があり、ロシア系の多い東部や南部の住民たちはデモに反発する声が大きいという。
 こちらのデモもさすがに参加者が減って来ているらしいが、独立広場に「解放区」を作って越年状態で続ける人々もいるとのこと。そこまでもめるなら、いっそロシアも含めてEU入りすればいいんじゃないの、とか考えちゃったのだが、そんなに非現実的なもんかなぁ。


 さて話は打って変わるが、北朝鮮政界に関して「粛清」などという、えらく古めかしく恐ろしい言葉が現実に飛び交っていた。三代目の「君主」である金正恩第一書記のおば金敬姫の夫であり、事実上のナンバー2と目されていた張成沢国防委員会副委員長がいきなりその地位を奪われ、「失脚」の報道が事実と確かめられた直後の12月12日にさっさと処刑されてしまうという、かなりショッキングな事件が起きた。北朝鮮についてはたいていのことでは驚かないが、さすがにこれだけの地位の、しかも叔父にあたる人物をこのスピードで粛清してしまったことには世界中が驚いた。「忘れられそうになると騒ぎを起こす」というのは北朝鮮のパターンではあるのだけど。
 ま、歴史を振り返れば独裁者のナンバー2というのは最も危険な地位とされており、粛清された例自体は多い。今度のケースなんかは独裁者の代替わりに伴う前代側近の粛清の例とも言えるだろう。それにしても急激な動きだったので、もしかすると処刑理由に挙げられていたようなクーデター計画の一つもあったのかも、と思えるところもある。中国なんかは北朝鮮にさっさと体制変更してもらいたいと思ってる節があるもんな。粛清された張成沢はどちらかというと対外融和派で中国との経済的なつながりを重視する立場だったとも言われてるし…ま、なんにせよあの国については何を言っても憶測でよくわからん。
 それにしても「逆賊」という言葉をこの時代になっても聞こうとはなぁ…と思ったが、日本でも安倍さんのブレーンの御一人でY染色体がどーたらと騒いで女系皇位継承に反対してるお方が、故・寛仁親王が女系継承に反対だったことをもって、「推進派は逆賊」と言ったことがあったのはまだ十年も経ってない話だ。



◆ひみつのアッベちゃん

 それは、ひみつ、ひみつ、ひみつ、ひみつの…♪と書いていて気がついたが、当コーナーでは不思議と日本の政治ネタに赤塚不二夫漫画が絡むことが多い。福田康夫元首相には「レレレのおじさん」、野田佳彦前首相には「ウナギイヌ」を絡ませた。安倍晋三現首相が突然辞任した時にさりげなく「おそ松くん」の姿で描いたことがあるのだが、まさか「アッコちゃん」ネタになって戻ってこようとは思わなかった。そのうち「もーれつア太郎」とか「バカボン」とかになったりするのだろうか。

 さて、予想はしたんだけど実際に成立してしまうと報道上の扱いが一気に小さくなってしまった感のある「特定秘密保護法」。だいたい去年の衆院選、今年の参院選の結果により、今の自公政権ははっきり言って「国民が支持した」ことを根拠にやりたい放題が可能だ。おまけにそのトップにいるのは日本において最も右寄りの人たちの御神輿になってる「貴族」的世襲政治家であり、しかも一回首相になってあれこれやり残しまくって一年で放り出してから復活したゾンビ政治家であり、アメリカ様に言われば何だって最優先という姿勢のお方なんだから、何が何でも速攻で通してしまうのは明らかだった。マスコミではこの法案が出そうだとささやかれた段階から一部で反対論もあがってはいたが、世間的に見るとどこか「マスコミ陣の商売上の不都合」から騒いでるように見えるところもあって、文化人も含めて反対声明が次々上がったのは衆議院通過が確実になってからだった。正直おせーよ、と僕なんかは思っていた(ま、こちらも声明を出しまではしなかったけどさ)

 この要するにこの「特定秘密保護法」というのは「日本版NSC」とやらを作ってアメリカ様と一体化して軍事情報等を共有する以上、漏洩は許されんぞ、という法律であって、かのエドワード=スノーデン氏みたいな暴露を阻止したいというのが最大の眼目だと思う。逆に言えばスノーデンさんみたいなのが今後も出れば日本の情報も見事に流れ出ていくのだなぁ、とも思え、あまり意味がないんじゃなかろうかという気もしてくる。あのスノーデン暴露で次から次へと米英その他の英語連合国がありとあらゆる業界に盗聴をしまくっていた事実が暴露されてる中で(昨日にはユニセフまで盗聴してたって話しが出てたな)、「ボクもそこに入れて〜」とすり寄りに言ったということでもあるわけで、変なことに加担させられそうで怖い。もっとも僕の見るところでは、結局あちらは日本なんて適当な情報だけ共有するだけで全面的には信用してくれないと思う。なんせかつては「鬼畜米英」とか言ってた連中なんだから(笑)。戦後の歴史でも何度となく一方的にすり寄っては裏切られる歴史を繰り返してるように思うんだがなぁ。
 マスコミ的には無制限に「特定秘密」と指定されるとその情報を国民が得られない、つまり「知る権利」が犯されると警戒してるわけだが、昔から政府なんてのは「寄らしむべし、知らしむべからず」と言うように元々なんでも秘密にしたがるもの。「知る権利」自体が最近の産物でまだ日本国憲法にも明記されてないから、そもそも政府側に守る気なんかあるとは思えない。最初のうちは警戒の目もあるからむやみやたらな指定はしないと思うが、なにせつい最近でも「震災復興特別予算」にあれやこれやと屁理屈をつけて各省庁が予算分捕りをやってた実例を見ているから、やらないとは残念ながら断定できない。ただ、結局漏れて来るものは漏れてくるだろう。そういやちょっと前に警視庁の膨大な公安資料がごそっと流出したことがあったが、あれ、結局ウヤムヤにされてるよね?

 何を特定秘密にするのか第三者の監視機関が、って話もなんだかウヤムヤのうちに強行突破しちゃったが(野党を全員議場から追い出して強行採決した安倍さんの祖父・岸信介よりは紳士的かもしれないが)、やはりそこまでする動機は「アメリカ様」の意向なんだと思う。ホントはさっさとやりたがってるとしか思えない村山・河野談話の見直しとか靖国参拝とかは思い切り釘刺されてるらしく動きもみせなくなっているし。その意味では急にこれでかつての軍国主義になるとか周辺に侵略するとかいうことにはならないかもしれない。むしろ「51番目の州」どころか「アメリカ二軍」として忠実に尻尾をふる方向だろう。もうプロ野球も実質そうなっちゃってるし、いいっていう人はいいんでしょうが。だが振り返ってみると冷戦時代にアメリカに後押しされた忠犬政府って民主主義的に見てロクなのがなかったんだよなぁ。アメリカが民主主義の擁護者だなんて冗談じゃないのだ。
 この先には解釈改憲による集団的自衛権容認があり、「地球の裏まで行く」とまで言っちゃった政治家もいたくらいだから、今の自民党って「靖国の英霊」なるものがいたらそれこそ化けて出そうなほどのアメリカ追従ぶりなのだが(あ、だからお参りしたがるのか?)、かつてベトナム戦争に協力した韓国軍とかの例を知ってると、正直暗澹とした気分になる。中国の脅威に対抗するためアメリカにくっつく、という考え自体は分かるのだが、どうもそのアメリカと中国の関係自体はこれまでも日本の予想を越えたところで動くことが多いから怖い。何年か前、田中角栄が中国と国交を結んだら、あのキッシンジャーが「裏切り者」呼ばわりして激怒していたとの逸話が暴露されたとき、僕は映画「仁義なき戦い」の第四部の「他の組のもんとチャラチャラすんな!」とヤクザが子分を殴る場面を思い出してしまった(分かんない人は実際に見てね)。日本の立ち位置ってあの子分のようなもんじゃないかな。ちなみにその子分はその兄貴分から「男になれや」とけしかけられて、仲良くしていた他の組の親分を射殺し、警察に捕まる羽目になるのだ。国際政治なんてヤクザ業界みたいなもんですから、こういう映画も参考になるんですぜ(笑)。そういえば安倍さんって「ゴッドファーザー」が好きとは言ってたな。

 実のところ、僕には特定秘密保護法より不気味に思えたのは、その直後に安倍内閣が出した「国家安全保障戦略(NSS)」の方だ。そこでは「国際協調主義に基づく積極的平和主義」が謳われていて、要は国外に武力を用いてでも「平和」に貢献します、と言ってるわけだが、「国際協調主義」というのがまず曖昧。現在のシリア情勢ひとつ見たってことはそう簡単じゃない。また武器輸出三原則も見直しの方向を打ち出していて、それこそピストル売りたいヤクザと一緒。
 そしてさらに不気味だったのが、その「戦略」の中に「愛国心」条項を紛れ込ませたこと。第一次安倍政権時に教育基本法に紛れこませた「他国に敬意を表しつつ、我が国と郷土を愛する心を養う」という条項が「安全保障戦略」の中に入っているのにはかなり驚いた。よその国のケースは知らないが、国民にそういう心を養うことが「戦略」に位置付けられるっていうのは、まず作った連中は国民にそう教育したいと思ってるということでもあるし、実はてんで信用していないってことでもあり、かなりの上から目線に見える。そのうち「国体の大義」なんかが出てきそうな空気すら感じて寒気を覚えた(いや実際、森元首相が「国体」と口にしたことがあった)。安倍さん、特定秘密の件で騒がれてる最中に新築された読売新聞本社の式典に顔を出して「渡辺会長の部屋は特定秘密」などとギャグを言ってたが、そもそも「特定」のマスコミのそういう場に顔を出すというのがどうかと思うし、NHK経営委員に自身の人脈をどっと送りこんだり、教科書に「政府見解」を入れる姿勢を強めるなどそもそも言論統制をしたがってるとしか思えない。今年の12月という異例の遅さで発表された再来年の大河ドラマが「吉田松陰の妹」というかなり微妙な、かつ安倍さんとは「長州」つながりになる素材になったのも偶然なのかどうか。
 「他国に敬意を表しつつ」とついてるのは申し訳みたいなもんだが、そこをちゃんとやる気なのか怪しいもんだし、「郷土」ということなら、僕なんか日本国と茨城県の間で対立が起こった場合はどうすりゃいいのさ、という話にもなる。自民と公明の連立政権だからいろいろすり合わせてそういう文面になってるんだろうが、言葉がどんどん曖昧になっていく便利な政治用語は時としてかなり危険なことにもなる。

 特定秘密保護法でも国家安全戦略でも個人より国家の安全優先、という姿勢が強く見えて来る(これは自民党が出した憲法草案にも濃厚に漂う傾向だ)。で、その「国家」ってなんなのさ、ということを個人個人は常に問うていなきゃいけないと思う。それをやらないと「国家」とは支配階層そのもののことになってしまい、その行き着く先は今の北朝鮮だ(あれほど「愛国心」に満ち、個人より国家や元首を優先した国はないだろう)。今回取り上げたマンデラが27年も獄中にいたのは「国家反逆罪」の罪名であったことも忘れちゃいけない。何が国家かなんて結局支配する側が決めてしまうことなのだ。


2013/12/22の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>

史激的な物見櫓のトップに戻る