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2014年1月24日

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◆今週の記事

◆年末年始小ネタまとめ

 お正月気分もすっかり抜けてしまった頃ではありますが、あけましておめでとうございます。今年で実に15年目に突入する「史点」、本年もよろしく。
 しっかしまぁ、もう2014年ですよ。NHKのBSで大みそかに「バック・トゥ・ザ・フューチャー」3部作を立てつづけに放送していたが、あの映画では「30年後の未来」として2015年が描かれていた。もう来年である。あそこに描かれたような空飛ぶ車も走ってないし、空中に浮くスケートボードもありはしないが、その一方でインターネット社会らしきものはまったく描かれていない。情報通信技術に関しては80年代のSFでも全然予測できないほどの急進展があったことがあの映画からもよく分かる。
 まぁそんな話題を枕に、この年末年始の小ネタをまとめてみた。


◇受賞してれば違った展開も?

 これは前からそうだろうと確実視されていたけど、ようやく公式に確認された話。あの三島由紀夫が生前にノーベル文学賞の最終候補の一歩手前までいっていたという事実だ。ノーベル賞の選定経過は半世紀の間は公表されない決まりになっていて、昨年末に半世紀前の1963年のノーベル文学賞の選定経過が公表され、その事実がようやく公式に確認されたわけだ。
 当時すでに三島は世界的名声を得ており、本人も含めて「いつかはノーベル賞」と目されてはいた。最近の村上春樹みたいなもんかもしれない。今回確認されたのは1963年の選考だが、もしかするとこれから毎年のように候補になっていた事実が確認されたりするかもしれない。
 だがこの1963年の選考で、三島は最終候補3人ではなく、その一歩手前の6人に入ったが落選している。当時の選考委員会委員長は三島に着いて「日本人候補者の中で最も大きな受賞のチャンスがある」と評価しつつも、「今後の発展を継続して見守っていく必要がある」とコメントをつけていたという。要するにまだ若くて先もあるんだし、もっと良い作品を書くかもしれない、という判断もあったかもしれない。チラッと考えてしまうのが、この時期すでに目立ち始めていた三島の右翼的傾向が敬遠されたかも、という憶測だが、今のところそれは確認されていないみたい。ただこの年以降、三島の右翼的活動が積極的になっていくのも事実で、それで結局その死まで授与が見送られた可能性はあるかもしれない。
 また他の委員からは「他の日本人候補と比べて優先されるほどの作家性がまだない」とのコメントもあったという。「他の日本人候補」とは誰かというと、この時期ノーベル文学賞候補にしばしば名前があがっていた谷崎潤一郎川端康成なのは確実。実際今回公表された1963年の選考でも谷崎・川端、そして詩人の西脇順三郎が推薦を受けていた80人の中に入っていた。結局谷崎・西脇は受賞できないまま、川端は1968年に日本人初の受賞者となった。川端の方が年上であり三島とは師弟関係みたいなものだったから順当と言えば順当なのだが、三島が取らずに川端が取ったことが微妙に両者の関係に影響したのでは、との憶測もある。三島が衝撃的な切腹事件を起こしたのは1970年、川端がガス自殺(事故死説もあるけど)したのは1972年だ。三島がノーベル賞先にとっちゃってたらいろいろ展開が違っていたのかもなぁ、と思ったニュースだった。


☆「名銃」の製作者死去

 昨年の12月23日にロシアのミハイル=カラシニコフ氏が94歳で死去した。その名を聞けばピンとくるように、この人、旧ソ連製の傑作銃「AK47」、通称「カラシニコフ」の設計者である。
 カラシニコフ氏が銃の「カラシニコフ」を開発したのは、第二次世界大戦終結直後の1946年のこと。なんでもあの過酷な独ソ戦のなかで、ドイツの自動小銃の威力に衝撃を受けたカラシニコフ氏が、「ナチスに負けない銃を作ろう」と研究・開発したものだという。カラシニコフ銃は扱いやすく壊れにくい銃として旧ソ連軍はもちろん冷戦下の東側諸国でも採用されたが、冷戦終結と社会主義陣営の崩壊後はコピー品も含めて世界中の犯罪組織やテロリスト集団に流れて「愛用」されてしまい、一部で「史上最悪の大量殺害兵器」などというあだ名までたてまつられることになってしまった。そういやその方面に流れている拳銃「トカレフ」ももとはと言えばソ連製だ。
 カラシニコフ氏本人は、自分の開発した銃がそのように扱われていることに忸怩たる思いであったようで、かつて朝日新聞の取材に「悲しい。私はナチスドイツから祖国を守るため、優れた銃をつくろうとしただけなのに」と発言していたこともあったという。訃報が流れてから間もなく、当人が晩年になるにつれますます罪悪感を抱き、精神的救いを求めていたとの報道もあった。昨年4月に彼はロシア正教会のキリル総主教に手紙を出し、その中で「私は魂の痛みに耐えられない。一つ解けない問題がある。私の自動小銃が人々の命を奪ったとしたならば、農民の息子で正教徒である93歳の私、ミハイル=カラシニコフが、その罪に問われるのだろうか。それが敵の死だったとしても」とつづっていたというのだ。銃の開発者がその銃によって引き起こされる結果にまで責任を負う必要はないと思うのが一般的信条だと思うし、、当人も「責任は平和的に問題を解決できない政治家にある」と発言したこともあったようだが、やはり心に重くのしかかっていたのだろう。かつて書かれた自伝の中では「『私はもうすぐ世を去るが、遺産は人類に貢献する未来の優秀な発明家のために使ってくれ』などと言えたらどんなに幸せだろう」とも記していたという。もちろん彼に銃の特許料が入るわけもなく、特に大きな遺産などはなかったそうだが。
 それにしても「AK47」って、今になってみるとアイドルグループの名前みたいだ(笑)。


◇座高測定は無意味?

 12月はじめに各新聞で報じられていたが、学校で行われる身体測定の定番項目のひとつ「座高」について、文部科学省の有識者会議で「活用されていないし、測定する意味もなく、いじめの原因ともなりすい」といった意見がつき、来年度以降は廃止される方向で決まりそうだとのこと。実は20年くらい前にも同様の話が出たそうだが、当時の文部省は「机や椅子の長征に必要」として堅持してきたという。だが実際には座高のデータをそんなものに浸かっている例はほとんどなく、単に「昔からやってることはやめられない」という役人根性によるものだったみたい。
 「昔から」っていつからかというと、なんと座高が身体測定に追加されたのは1937年(昭和12年)。ずばり日中戦争が始まった年であり、当時の文部省のことだから身体測定は究極的には「健康な兵隊」を作ることを目的としていたと思われる。当時は座高が長いと内臓の機能がよく健康的である、との考え方があったらしく、それで座高測定がこの年から加わったらしい(日経新聞記事のイラストでも軍人が座高が長い方がいいと主張してるように描かれていた)。そういう意味では意外に「戦時色」の強い項目だったのだ。それがズルズルと続けられてきたのは、米の食糧管理制度みたいなもんだろう。座高が長いということは「胴長」で「短足」ということになり、子ども時代に座高測定がトラウマになってる人も多いと思うが、実はてんで意味のないことだったわけだ。
 座高が長いと内臓の機能がいいかどうかについては僕も分からないが、「草食動物」的な人間は腸が長くなり、必然的に「胴長短足」になりやすく、それが日本人の典型的体型となった…ってな言説は良く聞く。そこへいくと確かに戦後、現代に至るまで「肉食化」が進んだ日本人の体格は胴が短く足が長くなったのかもしれない。


◇古代ローマ人の食生活

 ポンペイと言えば、西暦79年にヴェスビオス火山の爆発で火砕流に埋もれてしまった都市。近代になって発掘が進み、杯の下に埋もれたローマ帝国時代の都市がそのまんま出土し、当時の生活の貴重な手掛かりとなっていることもよく知られる。特にこの町はある日突然、日常を中断されて一気に埋もれてしまったため、その「日常」がそのまんま時間を止めたように残されている。この手の日常生活というのは文献資料ではなかなか残されないので貴重だし、中でもそもそも消化するために作っている「食べ物」はなおさら残りにくい。
 年明けに報道されたところによると、アメリカのシンシナティ大学の研究チームが10年もかけてポンペイの調査を行い、当時のポンペイ市民が何を食べていたかについて、さまざまな手掛かりを得たという。それもポンペイ市内の飲食店が20軒ほど集まっている地区の下水やトイレ、ゴミ捨て場などを入念に調査した。つまり消化された後の方の食べ物を調べたわけだ。その結果、穀物、魚、果物、卵、オリーブといった、今と変わらぬ食材も確認されたが、なんとアフリカのキリンやフラミンゴまで食べていた形跡があったのだという。まぁ人間なんだって食べちゃうから、キリンやフラミンゴぐらいで驚いてちゃいけないのかもしれんが。しかしキリン一頭でずいぶん肉がとれそうだな…
 そのほか、スペイン産の魚の塩漬けのほか、地元産ではない貝やウニも食っていたらしい。さらにはインドネシア方面でとれる香辛料も確認できたそうで、はるか遠くからの食材貿易ルートの存在もうかがわせる。昔からそう言われていたが、古代ローマ人はやっぱりグルメだったのですな。


◇毛沢東生誕百年

 もう一ヶ月経ってしまったわけだが、昨年の12月26日は毛沢東の生誕120周年にあたっていた。現在の中華人民共和国の建国者ながら、苦労して天下をとっちゃってからおかしくなるという朱元璋豊臣秀吉に見られるパターンを踏んでしまい、文化大革命という「災害」も引き起こしている。現在の中国共産党政府でも建国の功労者ではあるが重大な過ちも犯した人物と規定されていて、生誕120周年も特に盛大に祝われた様子もない。むしろ「特定の個人の崇拝はよろしくない」というニュアンスのコメントが出されていたくらいだ。
 だが近ごろ資本主義化が進む中国でも「格差社会」が問題となっていて、毛沢東が掲げた徹底した平等社会に郷愁を覚える声も少なくない、との話もよく聞く。この25日夜から26日にかけてという一日遅れのクリスマスにも、湖南省韶山市の毛沢東の生家には数千人の人々が集まったのだが、観光気分の人たち以外に左派系(つまりは保守派)の活動家らも集まって革命歌を歌ったり毛沢東像に献花したりしていたという。その中には昨年完全に失脚し無期懲役が決まった保守系の大物・薄熙来の支持者も入っていて、「薄熙来は無実だ」と叫んだりもしたそうで、その薄熙来を失脚させた現政権としてはちょっと気にかかるところではあるだろう。


◇「昭和実録」いよいよ刊行

 今年は平成26年。元号に「0年」はないので、「平成」もきっかり四半世紀が経ったわけだ。昭和天皇が死去して昭和が終わったのが1989年の1月7日。もうそんなに経ったか、と驚くと同時に、思い返せばすでに平成もいろいろあって、「歴史」がずいぶん積み重なって来ている。
 さて、四半世紀も経ったからということなのか、今年の3月に「昭和天皇実録」がついに完成するとの発表があった。「実録」とはもともと中国で歴代皇帝の日常の言動や政治活動などを日記風の編年体で記録したもので、皇帝一代ごとに作成され、いわゆる「正史」は次の王朝でこの実録をベースに作成される。中国では明・清代の「実録」は完全に残っているし、朝鮮王朝でも歴代の「実録」は全部残っていて(そのうちのコピーの一つを日本が持って行ってしまい、関東大震災で焼失させたりしてるが)、僕も倭寇の研究では両国の実録にずいぶんお世話になっている。
 日本でも古代に「実録」を作っていた形跡はあるのだが、ちゃんと残っているのは江戸幕府の「徳川実紀」から(もちろん天皇ではなく将軍の記録)。天皇についてきちんと「実録」を作るようになったのは明治以後で(明治になって「孝明天皇実録」を編纂)、一世一元同様に「中国化」した例でもある。いまどき君主の実録なんてものを作ってるのは日本くらい、という言い方もできる。
 「昭和天皇実録」は1990年度から作成作業が開始され、当初は16年で完成予定だったが、結局24年かかってしまったとのこと。だが最初聞いた時「意外に早いな」と僕が思ってしまったのは、昭和の前の「大正天皇実録」が割と最近公開されていたからだ。ただしこちらの場合はとっくに完成していたのだが、内容が公開されたのはなんと2002年のこと。それも一部「黒塗り」であったことから批判も起こった。その反省(?)もあって今回は黒塗りせず全て公開し、順次刊行してゆくつもりだという。
 昭和天皇に関してはそういった「公式」なもの以外でもかなりの数の証言が出ているので、この「実録」でこれといった新事実が出て来るようにも思えないが…


☆戦国日本人、海外で結婚式?

 倭寇を中心に16世紀の海の世界の歴史を研究している僕にはえらく興味深い話。1月16日に読売新聞に載った記事だが、1573年にポルトガルの首都リスボンで日本人の男女が神父と証人の立ち会いのもと、結婚を教会に承認されていた記録がみつかったというのだ!かの天正少年使節より10年は早い話で、かなり早い段階から多くの日本人がヨーロッパまで行っていたことが確認されたわけだ。
 この日本人夫婦は夫がギリェルメ=ブランダオン、妻がジャシンタ=デ=サという。全然日本人らしくないが、もちろんこれはキリスト教徒としての洗礼名。残念ながらこの手の資料では本来の日本人名は記録されない。この夫婦の他にも三人の日本人男性の結婚記録も見つかったといい、うち一人は解放奴隷で1586年に国籍不明の奴隷女性と結婚、残り二人は自由民とされいずれも自由民のポルトガル人女性と1590年代に結婚していたとのこと。
 ここで「奴隷」とあるのがやはり気になる。最近メキシコに渡っていた日本人の記録も出て来たのだが、それもやはり奴隷として日本を出た例で、今度の記録に出てきた日本人たちも実はみんなもともと奴隷だったのではないか、との見方もできる。実際九州はヨーロッパ人が来る以前から倭寇に絡んだ奴隷貿易は盛んに行われていて、そこにもともと奴隷貿易をしていたポルトガルやスペインの商人たちが乗っかって来た経緯がある。これら日本人たちも自らの意思で望んでポルトガルまで来たかどうかは正直怪しいところだ。
 もちろんザビエルが1553年に日本人キリスト教徒をリスボンに留学させた例もあるので、キリスト教の洗礼を受けての「留学」だったという可能性もある。自由民の日本人がポルトガル人女性と結婚していることから、ある程度身分のある人だったのでは、との指摘も記事では出ていた。奴隷と言っても年季奉公のようなもので期間が過ぎたり金を支払えば自由になれるような程度のものだったともいい、結婚記録もちゃんとあるところを見ると、これらの記録に出て来る日本人たちはちゃんとリスボン市民として認められていたということでもあり、少しホッとさせられもする。
 もっとも、居住地が変わらなければ彼らの死亡記録も子どもの出生記録も残るはずだが、それは確認できなかったという。よその土地に移住したのでなければ、16世紀末にリスボンを襲ったペストで死に、集団埋葬の混乱により記録が残らなかったのかもしれない、とも書かれていて、今度は暗澹とさせられてしまった。



◆この物語はフィクションであり

 新約・旧約をふくめた「聖書」は、「歴史上最大のベストセラー」と呼ばれることがある。それぞれユダヤ教とキリスト教の経典であり、聖書に重きを置くプロテスタントの登場と活版印刷の普及とでその「部数」は一気に増大し、今日でもキリスト教徒なら一家に一冊といっていいくらいにコンスタントに売られている。その中で語られる物語は、かつては誰もが知る「常識」といっていいほどに良く知られていて、ハリウッド映画の題材にされることも多かった。「聖書」というと堅苦しいイメージがあるが、読んでみれば物語としてなかなかに面白く、また同時にかなり人道的にひどい話や矛盾する話も含まれていて、良くも悪くもバラエティに富んでいる。欧米の敬虔なキリスト教信者の中には「聖書を読めばみんな良くなる」みたいなことを言ってる人も多いのだが、実のところ当の彼らが聖書をよく読んでいないのではないかと思わされることもある。

 さて、産経新聞が1月13日に記事にしていたのだが、アメリカの大型量販店「コストコ」で売られていた聖書に「14.99ドル・フィクション」というラベルが貼られていたのを牧師が見つけ、その理由を店員に聞いても満足な回答が得られず、ツイッター上に写真入りで公開した。牧師が何にカチンと来たのか、それはもちろん値段のほうではなく、「フィクション」とされていたことにだ。
 「フィクション」というラベルは普通に考えれば創作された物語である「小説」に貼られるものだろう。コストコ側もそう言ってるようだし僕もそうだと思うのだが、恐らく単なる作業ミス。しかし聖書の中身をそのまま信じることを前提にしているであろう敬虔な牧師としては我慢がならなかったようで、この「告発」に踏み切ったわけだ。ご本人いわく、「聖書を信じないというならそれでもいいが、少なくとも“宗教”とか“啓発”といったラベルにしてほしい」とのこと。まぁ確かに。

 しかしこれがネット上で、牧師の思惑を越えて大きな議論を呼んでしまった。なにせアメリカって国はあれでヨーロッパ以上に宗教的にコチコチの保守が多く、聖書に書かれていることをそのまま信じるという人が多数いる。進化論にかみつく声がいまだに強くある国だし、神による世界と生物の創造を学校で教えると宗教教育として否定されるってんで、「ID論」などという形を変えた創造論を学校で教えろという運動もある国だ。この話題がFOXニュース(これまた保守的メディアと認知されている)で報じられると、「聖書をフィクション呼ばわりするとは!」と激怒する声が多くあがったものらしい。一方で「正しいジャンル分けだ」「聖書は人類最高のフィクション」と賛同する声もあったそうで、いくらかホッとするところもある。

 ただこの話題、よその国の話と笑ってもいられないんだよなぁ。記事自体はそう聖書絶対論者よりでもなかったけど、この話題を取り上げた産経新聞は以前「ID論」に好意的な記事を載せたこともあったし、戦前同様に「神話」を学校で教えろと主張していたこともある。今のところ分裂騒動のために力が弱まった「つくる会」も「神話を歴史の教科書に載せる」ことを教科書の基準とするよう各地の議会にはたらきかけ、一部で採択されてしまったりしている。聖書や神話を「物語」として楽しむのは大いに結構なのだが、それを「ノンフィクション」だと言い出す人がいるから困ったものなのだ。しかもそう主張する連中に限って、実は聖書も神話もよく知らなかったりするんだよな。
(この記事はノンフィクションであり、実在の人物・団体と大いに関係があります)



◆「最後の日本兵」死去

 ひと月も更新が遅れているうちに、日本現代史におけるちょっとした有名人の一人の訃報が届いた。フィリピン・ルバング島に敗戦後も実に29年間ずっと「戦争」を続けてしまっていた「最後の日本兵」、小野田寛郎氏が1月16日に91歳で死去したのである。
 小野田氏は1922年の和歌山県生まれ。貿易会社に就職したために中国語や英語を会得していたため、軍隊に入っていた1944年9月に抜擢されてかの陸軍中野学校の二俣分校に入った。陸軍中野学校というとスパイ養成機関として有名だが、この二俣分校の方は短期間でゲリラ戦教育を行うところで、小野田氏はここで3ヶ月ゲリラ戦を仕込まれて、その年の暮にはルバング島に向かっている。
 この時期、すでに日本軍は敗色濃厚で、フィリピンもアメリカ軍に奪い返されそうになっていた。当然そういう戦況については小野田氏も上官から聞かされてはいたが、「いずれ日本軍がまた戻って来るから、それまで『残置諜者』としてアメリカと戦い続けるように」と指示されていて、この指示のためにずっとジャングルの中で「ゲリラ戦」を続けることになってしまった。日本敗戦時に命令の解除と撤収を命令すべきだったのだが、ゲリラとして山の中にもぐりこんでしまっただけに命令を伝えられなかったのだ。かくして彼と部下たちは戦後もフィリピン軍相手に散発的なゲリラ戦を延々と続けることになった。

 今度の訃報で「終戦を知らずに…」と紹介するものが多かったが、必ずしも正確ではない。小野田氏は日本政府がポツダム宣言を受諾したことも、戦後の日本がアメリカに占領されたことも、その占領後の日本が経済成長して繁栄していることも情報としては知っていた。ただ日本本土以外、例えば満州や東南アジア、中国に日本軍がまだ健在で、日本本土の「傀儡政府」と戦っているのだ、という認識をしていたらしい(ルバング島に来る前に上官からそういうことになる可能性を吹きこまれていたから)。だから太平洋戦争後の朝鮮戦争やベトナム戦争の動きを、かの地にいる「日本軍」の動きだと解釈していた、との話もある。
 もっともそうは言ってるけどうすうす「真実」を分かっていたけど認めるのが嫌でそう思い込んでいたんじゃないのかな、と思わせるところもある。実際帰国後に小野田氏の著作のゴーストライターをつとめた人物は、小野田氏が現地フィリピン人を多数殺しており、その中にはとても「戦争」の範疇とは思えぬ事例もあって、彼は敗戦など百も承知だったが周辺住民の報復を恐れて出て来なかった可能性を指摘している。

 一方日本側でも小野田氏ら残存兵の存在は割と早くから分かっていた。敗戦直後に小野田氏の戦死公報も出されたのだが、1950年に彼の部下の一人が投降したことで、小野田氏と二人の部下の生存が確認された。そうこうしているうちに1954年に小野田氏の部下の一人・島田庄一がフィリピン警察軍との戦闘で死亡。当然日本政府も山中にビラをまくなど投降の呼びかけは行ったが、小野田氏らはそれも敵の策謀と教育されていたため出てこようとしなかった。以後しばらく彼らの消息は途絶え、1959年に小野田氏とその部下小塚金七の「死亡公報」が出されて両名とも日本では「死んだ」ことにされた。

 それからおよそ18年後の1972年。この年の1月にグアム島のジャングルに潜伏していた横井庄一が発見され、帰国を果たした。そして同年10月に小野田氏と長年行動を共にしてきた小塚がフィリピン警察軍との戦闘で死亡(すでに50歳を越えていたが、これが日本兵最後の「戦死者」である)。小野田の生存も確実視されるようになり、捜索活動が開始された。このとき冒険家の青年・鈴木紀夫(1986年にヒマラヤ登山で死亡)が単身で密林に乗りこみ小野田氏との接触に成功し、「上官の命令があれば」と小野田氏も投降を承知する。かくしてかつての上官である谷口義美元陸軍少佐が呼び出されて小野田氏に任務の解除と帰国命令を伝え、小野田氏はフィリピン軍に投降した。この投降式典には当時のマルコス大統領も参加し、小野田氏が戦後も「戦争」を続けてフィリピン人を殺したりしていることについても刑事責任を問わない「恩赦」を与えている(意地悪く見れば、「恩赦」を受けるために「終戦を知らなかった」と主張したとも言える)
 なお、この「最後の日本兵」の生存は世界的に報じられ、このたびの彼の訃報も世界的に結構大きなニュースとして扱われている。前から思っているのだが、映画「ランボー」の一作目のラスト、暴れ回るランボーが上官の命令を受けて投降するあの展開は小野田氏の話をヒントにしてると思うのだが、どうだろう(ランボーが射殺される別のラストも撮っておいて試写会の反応見てそっちに決めたらしいけどね)
 
 帰国後の小野田氏はブラジルに渡って牧場経営をしたり、本物のサバイバル経験を生かして自然塾を開いて青少年育成も手掛けたりした。しかしさすがに中野学校仕込みというか、思想的には非常に保守的で、今度何を血迷ったか都知事選に出ている田母神俊雄氏が例の陰謀史観論文で更迭された際には彼を支援する団体の発起人になっているところを見ると、歴史観もかなりひんまがっていたとしか思えない。ジャングルの中で長年よく頑張った、ってなことで好意的な評価をする訃報記事が世界的に少なくなかったが、彼が意固地で頑張っちゃったせいで(しかも実際は正確な情報を知っていた可能性が濃厚)現地人や部下たちを無駄に死なせた側面も考慮しておかねばいけないだろう。

 「最後の日本兵死去」とタイトルをつけたが、本当にこれが「最後」になればいいが、と思いつつ次の話題へ。



◆迷惑賞は受け継がれ

 不謹慎と承知の上で「やっと死んだか」とつぶやいてしまったのが、1月11日に報じられた、イスラエルの元首相アリエル=シャロンの訃報だった。なにせ2006年1月に脳出血で倒れて以来ずっと人事不省の生ける屍状態で、しばしば「あれ、まだ死んでいないよな」と思い返して確認してしまう人物だった。そしてなおかつ、パレスチナ問題においてロクなことをしないアブない男として記憶に残ってしまった政治家でもあったので、正直なところその訃報に素直に哀悼の意とかを捧げる気にはなれない。イスラエルではさすがに元首相ということもあり国葬にするんだそうだが、先月のマンデラなんかとは比べれば、集まる外国要人も当然比べ物にならない。

 なんといってもシャロンは当「史点」の連載初期において、何かと登場してはお騒がせな話題を投じてくれた人物だった。彼の顔のイラストも二度は描いてるはずだ。
 もともとシャロンは四度の中東戦争で軍人として武勲を立て、その時点ですでに国民の人気を得ていた。その後政治家に転身して右派政党リクードから立候補、歴代内閣で閣僚を歴任して対パレスチナ強硬派として名を馳せる。特に国防相時代にはレバノンの民兵によるパレスチナ人虐殺を見て見ぬふりをしたとして非難を浴び、住宅建設相の時には国際法違反を承知でユダヤ人入植地の拡大にいそしんだ。

 国家基盤相と外相を経て、リクードの党首になったのは1999年のこと。そして2000年9月に東エルサレムのイスラム聖地「岩のドーム」を護衛1000人を引き連れて強硬訪問し、エルサレム全部をイスラエルのものと宣言し、露骨なまでにパレスチナ人イスラム教徒を挑発した。これによってパレスチナ人たちの蜂起(インティファーダ)が発生、シャロンの目論見通りイスラエルとパレスチナの和平交渉はぶっ壊され、テロの報復攻撃の連鎖の嵐となった。当時「史点」でシャロンに「ノーベル迷惑賞」を勝手に授与したのもこの時のことだ。
 しかしこういう強硬姿勢をとる奴が国民の支持を得てしまうという困った現象もよく起こる。翌年行われたイスラエル首相の直接選挙でシャロンは大差をつけて首相に選ばれてしまう。事態をややこしくした張本人が国のトップに立ったんだからたまらない。「テロとの戦い」ということでパレスチナ自治区に何度も武力攻撃をかけ、ハマス幹部の暗殺を進め、テロを取り締まれないという理由でパレスチナ自治政府のアラファト議長を監禁に追い込んだ(アラファトは2004年11月に死去)。さらには自爆テロ実行者の侵入を阻止するためとしてパレスチナ自治区の占領地に「分離壁」設置を強行、これまた国際的な非難を浴びた。オスロ合意で決まったことはほとんど吹っ飛び、対するパレスチナ側の態度硬化も招いて、パレスチナ問題はさらにグチャグチャになってしまった。

 もっとも一国の首相としては現実的判断もせざるをえなかったようで、かつてはやはり強硬派だったがパレスチナ側との共存の道を選んだラビン元首相のような路線も見せた。ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地については強硬路線を貫いたが、ガザ地区の入植地からは国内の反対を押し切って2005年に撤収を強行した(こういう面でも「強行」するところがあった)。そしてこの年の11月にイスラエル首相として初めてパレスチナ国家の存在を承認し「二国共存」の姿勢を示したことは世界を驚かせもした。
 当然ながらこれは自身の率いる右派「リクード」からは「裏切り」ととられ、シャロンは自らリクードを離脱して「中道」寄りの政党「カディマ」を結成、良くも悪くもその剛腕ぶりをまたも見せつけた。この先どう振る舞うのだろうと注目されたが、直後に脳出血で倒れてそのまま昏睡状態になり、政治家としては事実上「死去」してしまうことになった。ラビンの例からいくと、あのままパレスチナとの共存方向で「強行」を進めていたら右派勢力の手で暗殺されてたかもしれないなぁ…

 現在のイスラエル首相ネタニヤフはシャロンの訃報に対し「一番勇敢な兵士であり、最も偉大な軍司令官の一人だった。彼の記憶は国民の心に永遠に残るだろう」と最大限の言葉で称えていたが、ネタニヤフ首相自身かなりの強硬派で、シャロンとはいろいろと複雑な対立こみ共存関係(なんだかパレスチナとイスラエルみたいな)で、内心思うところはいろいろと複雑なのではないかな。一方、シャロンに幹部暗殺作戦をされまくったハマスの方は「暴君に神が与えた運命。手がパレスチナ人の血で汚れた犯罪者が死んだ歴史的瞬間だ」と最大限の罵倒の弔辞を送っている。どっちにしても「歴史的存在」には違いなく、今後も議論のタネにされ続ける人物なのだろうな、と思う。日本人的感性だと、今ごろあの世でアラファトとどう語り合っているやら、と思っちゃうところだが。


 さて、もう一ヶ月が過ぎちゃってるのだが、年末に日本の安倍晋三首相がいきなり靖国神社に「電撃参拝」したのには正直驚かされた。そのあとのシャロンの永眠だけに、「ノーベル迷惑賞の後継者の登場で安心したからかな」などと思ってしまったりして(笑)。シャロンがやった岩のドーム訪問なんてどっかの首相の靖国参拝とかどっかの大統領の独島訪問とかみたいなもんだ、と。
 なお「迷惑」についての連想話をすると、かつて田中角栄が訪中した際に、日本側が「中国国民に多大な『迷惑』をかけた」と表現したことに中国側が反発して一時モメたことがある。このとき日本語における「迷惑」の翻訳が「ちょっと失礼」程度の軽いニュアンスになったから、との話もあるが、そもそも「迷惑」という熟語は漢字そのままでも日本語と中国語でだいぶニュアンスが異なり、中国では古代以来漢字の意味そのままに「迷わせる、惑わせる」の意味になる。これについて田中角栄は日本語における「迷惑」の意味を「心からのおわびの気持ちである」と根気よく説明し、中国側を納得させたというエピソードがある。

 それにしても、安倍さんのいきなりの参拝は漢文的な意味での「迷惑」ではあった。直前まで「年内は見送る方向」との報道を流れていたので、「あれ?」と思った人も内外で多かったはず。一部の国では戸惑うというよりも「ほれ見たことか」と格好の攻撃材料の投下に喜んでるフシすら見えたけど。もしかして前回の「史点」で安倍さんがアメリカから釘刺されてるのでそれはやらない、とか書いたのでカチンと来たのか(汗)。だとしたら僕も「戦犯」みたいなもんだが。
 もちろんそんなことはなく、相当に前から時期を模索していたものらしい。特にアメリカがどう反応するか、安倍さんの側近たちが早い段階から探りを入れ、一時は「無理」との反応を得たが別の側近が「可能」と判断してやっちゃったんだとか。うーん、最近アメリカ側はずいぶん釘をさしてるようにしか見えなかったんだが、外交面で何かと甘い判断に傾いてしまうのは、そのむかし仏印進駐でアメリカの反応を見誤ったこととか、大戦末期にソ連に和平仲介を頼めると判断しちゃったこととか、いろんな前例を思い出してしまう。そしてアメリカ側から「がっかりだよ」と言われて一部に逆ギレする声が上がったり(そもそも太平洋戦争ってどこと戦ってどこに降参してどこに「A級戦犯」を処刑されたのか忘れてるような人がいるような)、「民主党のアメリカだから」と必死に勝手な解釈で納得しようとする声が聞こえてきたりするあたりも、やはり戦前における失敗外交のケースを連想してしまうんだよな。

 あと、安倍首相が参拝に当たって少しでもイメージを和らげようとしてだろう、「不戦の誓い」をするために参拝した、という文言も、彼とその周辺にいる人たちのこれまでの言動からすると素直にそのままには受け止められない。だいたい「不戦」と口では言っておいて、実際に進めてることは「積極的平和主義」という名の下の戦時体制のようにしか見えない。そしたら年明けに発表された自民党の今年の運動方針における靖国参拝の意義に触れた部分から「不戦の誓い」と「平和国家」といった言葉が削られ、あっさりと「本音」がさらけだされてしまった。なんでも「靖国神社は不戦の誓いや国家の平和を祈るところではない」という意見が会議で出されてそう決まったのだそうだ。首相が必死にごまかそうとしてるのに、党内ではあっさりとそう言っちゃってるのだ。ついでに言えば、いま都知事選に立候補している田母神俊雄も「安倍首相とは歴史観・国家観が同じ」という発言をしており、表向きのことを言えば安倍さんには「迷惑」だったりする(笑)。
 これまでの言動やその周囲の人物たちの言動を見れば、安倍さんが先の戦争における日本を肯定したがっているのは明らかだし、不戦の誓いなんて本気で考えているとは思えない。靖国神社にしてもさんざ言われていることだが、慰霊ではなく「神に祭る」ことで顕彰をしている施設で(安倍さんが先日海外マスコミに「靖国にヒーローはいない」と発言してたが、本気でそう信じてるとすれば当人からして本質を理解できてない)、遊就館の展示も明白に日本の戦争を「聖戦」として肯定してるわけで、政治家がそこに参拝することが「政治外交問題にしてはいけない」などと言って通るはずがない。それでも外国に向けてはそればっかり言ってるってことは、「内と外の使い分けは可能」と考えているということなのか。どうも日本人って、「日本語は難解」「日本事情は外国人には理解できない」という思い込みが昔から強いらしく、内輪でやってることはよそにはバレないと思ってる人が多い気がするんだよな。

 あれだけ釘を刺されていたのに参拝を実行したことには不気味さも感じる。前回の安倍政権では本来の右カラーを隠して現実的にふるまっていると評価されていたほどだが、今回は一度政権失陥してからの復活ということもあっていっそう理念優先でイケイケドンドンのつもりなのだろうか。どうも自民党内でも政権を奪還して経済的成功から支持率も高いせいかタカ派的な言動が幅を利かせてる空気があり、これまでやりたかったことを一気に次々やってしまおうとしているようにも見える。今のところ「継承」と表明している村山・河野談話についても、こうなってくると本当に「破棄」をやりかねない気配がある。彼らの作った憲法改正案なんか見てるとこれでは「迷惑」するのは日本国民の方だとしか思えないし。とかくあぶなっかしい政治状況になってるな、と思う年明けだ。


2014/1/24の記事

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