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2014年4月1日

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「バカッター」は昔から?

 昨年流行った言葉の一つに「バカッター」がある。迷惑行為、あるいは悪ふざけの画像をスマートフォンなどで撮影してSNSなどにアップしてしまう行為で、当人は仲間うちのネタとして面白がってるのだが、それがネット上の誰でも見られる状態になっていて大炎上を巻き起こしてしまうことにもなる。特にバイト先でこれをやらかしてバイト先の店をつぶしてしまうなど、自分自身の首を閉めるだけでは済まないところまで迷惑が及ぶケースもあって、ちょっとした社会問題となった。みんなが撮影と拡散を即座にできる手段を持ってしまった時代ならではの現象と言えよう。

 この手の話になると「近ごろの日本の若者のモラルが…」ウンヌンという話に持って行く人も多いのだが、この手のバカッター騒ぎは日本だけでなく世界中で起きている。オーストラリアで「直立不動のうつ伏せ」状態をあちこちの場所で行い、その写真を投稿するという変な「流行」が起こってベランダから転落死した人もいたし、つい先日にはペルーのマチュピチュの遺跡でヌード写真撮影をするという変な「流行」が起こっていて観光当局が根絶に躍起になっている、なんて記事を読んでいる。

 観光地での「バカッター」のルーツを明治以前の古写真まで探してみると、右のようなものがある。これはご存じ鎌倉大仏だが、よく見るとその上に人間が何人か乗っかっている。特に真ん中のやつなんて直立不動でポーズまでとってしまっており、写真に撮られるのを意識しての行動なのは間違いない。今日こんなのがネット上にアップされたらそれこそ炎上必至だ。

 さらにさかのぼって探してみれば、左の写真も有名。映っているのはこれまた誰もがご存じのエジプトのスフィンクス。そのスフィンクスをバックに記念撮影しているのだが、よく見れば後列の何人かはスフィンクスに乗ってしまっており、一人はさらに上に腰かけてしまっている。
 すでに崩壊しかかっていて必死に保存が呼びかけられている世界遺産のスフィンクスに乗って記念撮影してしまった不届き者たちは、よく見れば日本のサムライたち。これはまだ日本がサムライたちが支配する江戸時代の末の段階で、江戸幕府が欧米に派遣した使節団がついでにエジプト観光に立ちよって撮影してしまったものだ。江戸時代のサムライといえば、鎖国前の江戸時代初期にやはり世界遺産のアンコール・ワットに自分の名前入りの落書きを残してきたやつもいる。これらの行為だって、今日ならネット 上で大炎上を巻き起こしているところだ。

 さて、この4月1日に、さらなる「バカッター」写真が発見された。それが右の写真である。見るからに幕末の古写真だが、よくある記念撮影のような静的なものではない。明らかに激しいチャンバラが行われている生々しい現場写真。雪が降る中の大勢のチャンバラで、右側に壊れた大名籠のようなものが見える。
 はて、どこかで見たような…と思った方は鋭い。そう、どう見てもこれは大老・井伊直弼が襲撃され殺された名高い「桜田門外の変」としか思えない。良く見れば写真の奥に警視庁の建物が映っていることから、ここが桜田門外なのは間違いない。
 これは「バカッター」とは違うんじゃない?という声もあろうが、この凶悪事件を目の前にして止めることも通報もせず、見物人よろしく写真撮影していたというだけでも「バカッター」扱いしていいんじゃなかろうか。そういえばみなもと太郎の漫画「風雲児たち」でも、桜田門外の変の場面で見物人たちがケータイでパシャパシャ撮影しているカットが描かれていたが、この写真もその一例なのかもしれない。

 さらに兵庫県赤穂市の旧家の土蔵から、左のような写真も発見された。これまたどこかで見た覚えのある場面。そう、浅野内匠頭吉良上野介に切りつけた、江戸城松の廊下の刃傷事件の決定的瞬間の写真としか思えない。いわゆる「忠臣蔵」の事件の発端となった一幕だが、キレた若者が刃物を持って公共の場でいきなり通りかかりの人に襲いかかる事件は昔からあったのだなぁ、と思わされる。
 また、この写真を良く見ると後方に廊下を走ることを禁じる貼り紙があり、当時の殿中では刀を抜くのはもちろん、走ることも禁じられていたことが分かる。喧嘩両成敗ではなく事件のその日のうちに浅野だけが切腹、という重い処分が下された原因は浅野がその両方のタブーを犯してしまったとの推測もできよう。

 見つかった写真はこれだけではない。さらにこの瞬間の続きと思われる写真も発見された。それが右の写真。この写真ではこの決定的瞬間を撮影したカメラとその撮影者が映りこんでおり、浅野が人に斬りつけた直後だというのに、カメラに気付いて思わずニッコリとポーズをとってしまっている様子が映っている。やはり浅野は精神的に問題があったのでは、との説を裏付ける写真である。
 カメラがバカに大きいが、携帯電話だって昭和末期に世に出たころはランドセルみたいに背負わなければいけないほどのサイズだった。元禄時代ともなればカメラもこれほど巨大だったということだろう。撮影者はそんな時代にそんなカメラを持ち、松の廊下に入れるくらいだから大名クラスの武士であろうと見当がつく。

 写真も時代と共に、というわけだが、人間やってることはほとんど進歩がない、ということでもある。

(本記事の作成にはこちらのサイトを参考にしました)



◆「三種の神器」盗難

【東京/USO通信=ナンノ・コッチャネン記者】 日本の天皇・皇后夫妻が20年ぶりの式年遷宮を終えた伊勢神宮を訪問したが、その際に20年ぶりに持ち出され伊勢神宮まで携行された天皇家の宝物「三種の神器」が、保管場所に乱入したグループによって盗み出されていたことが、宮内庁と三重県警の発表により4月1日に分かった。久々に三種の神器が皇居から持ち出されて三つそろったタイミングを狙った犯行とみられている。
 宮内庁の発表によると、「三種の神器」の盗難は1443年に起こった「禁闕の変」以来、571年ぶり2回目。

 日本の天皇家は14世紀に「南朝」「北朝」の二つの系統に分裂して「南北朝時代」と呼ばれる動乱を引き起こした歴史があり、「三種の神器」は皇位の正統性を示すものとして争奪の対象となった。
 南北朝時代は1392年に南朝の天皇が北朝の天皇に「三種の神器」を引き渡すことで終結したが、その後は北朝の子孫が皇位を継承し続けたため、南朝の正統性を主張する「後南朝」の運動が続いた。「禁闕の変」も後南朝運動のグループによる犯行で、赤松家復興のために赤松家臣団が「長禄の変」で神器奪還までに14年の歳月がかかっている。

 こうした前例から捜査関係者の間では、今回の犯行も後南朝の運動家によるものではないかとの推測が出ている。「長禄の変」の際に後南朝の皇統子孫は全て殺されたとするのが通説だが、第二次世界大戦直後に南朝子孫を称する「熊沢天皇」が出現したほか、明治天皇は実は南朝の子孫にすり替えられていると主張する本は最近でも出版されている。「明治天皇の玄孫」と必ず枕詞のように冠せられてメディアに積極的に露出している竹田恒泰氏も著書『怨霊になった天皇』の中で、「最近後南朝の人々に話を聞いた」とごく当たり前のようにサラリと書いており、後南朝勢力が今も存在している可能性は高いとみられる。

 「三種の神器」が後南朝勢力の手にわたったとなると、北朝の子孫でありながら明治以来神器所有を根拠に南朝を正統としてきた皇室の正統性を揺るがす事態に発展するおそれもある。さらには南朝支持者が各地で蜂起するような事態になれば、「南北朝時代」再燃の可能性もある。


<用語解説>三種の神器

 「三種の神器」とは日本の皇室が所有する宝物で、「白黒テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」の三つがある(右写真は1989年、皇位継承儀式の模様)。いずれも日本を象徴する家庭電化製品で、それぞれ『古事記』『日本書紀』といった日本神話の書物の中に由来の伝承が記されている。
 日本神話によれば、太陽神である女神・アマテラスが天岩戸に隠れて世界が真っ暗になったとき、神々が岩戸の前に白黒テレビを持ち出して女神アメノウズメのストリップショーを映して大騒ぎし、その騒ぎを耳にして岩戸から覗き見したアマテラスを外に引きずり出したとされる。日本におけるテレビ放送開始は1953年であるが、皇室にはもともとこの神器が所有されていたため、当時は高価であったにも関わらず天皇家が受信契約第一号となったという。
 日本神道では汚れをはらう「清め」が非常に重視されており、死んだ妻のイザナミを追って黄泉の国へ行ったイザナギが洗濯機で衣服を洗い、そこからアマテラスやツクヨミスサノオらの神々が生まれたとされる。以後、皇室の宝物として清めの儀式に利用され、神功皇后が遠征の最中に九州で応神天皇を産み、洗濯機で「おしめ」を洗った場所が福岡県の「志免(しめ)」という地名の由来ともされている。
 「冷蔵庫」はスサノオがヤマタノオロチを退治した時にその尾の中から発見したとされ、食料の保管に重宝されたほか、ヤマトタケルの英雄伝承では敵の計略で火に囲まれた際にその中に入って難を逃れたことにもなっている。
 これら神器をめぐる「南北朝時代」の激しい争奪戦の経緯はキンジ=フカサク監督の実録映画「神器なき戦い」シリーズ(「第1部」「鎌倉死闘編」「内裏戦争」「籠城作戦」など)でも描かれている。
 
(訳:徹夜城)



◆嗚呼忠臣楠子之墓

 このタイトルを見てすぐにピンと来た人は南北朝通である。戦前に「忠臣」としてやたら称揚された反動で戦後は研究者と歴史オタク以外にはとんと忘れられた存在になってる気がする楠木正成の墓に刻まれた文字列だ。揮毫したのは徳川光圀、そう、あの「水戸黄門」本人である。朱子学的な思考から南朝を正統と見なし、その南朝のために大活躍したあげく散華した正成を「大忠臣」と民族英雄みたいに持ち上げたのは光圀から始まるのだが、そういう考えに影響を与えたのが明からの亡命者・朱舜水。朱舜水がどのように正成を知ることになったのかは知らないが、光圀の正成称揚は多分に朱舜水の影響を受けたものであったらしく、その「嗚呼忠臣」の墓碑の裏面にある文章は朱舜水が起草したものだ。

 さてこの光圀のせいで「大忠臣」とされてしまった正成、『太平記』でも智将として活躍するのもともと庶民人気もあったのだが、歴史的に検証するとホントに謎だらけの人物。史料上確認できる実質的な活動期間は1331年から1336年までの5年間だけ。それ以前の行動はまったくといっていいほど記録がなく、歴史上にまさに唐突に登場する。父親の名前にすら諸説あり、先祖も一族の出身地もほとんど分からない。
 それでいていきなり登場してからの活躍ぶりは大変なもの。赤坂城・千早城での鎌倉幕府の大軍相手の山岳ゲリラ戦が有名だが、それ以外でも天王寺方面での平地戦や、建武の乱での足利軍相手の京都での市街戦でも神出鬼没の見事な戦いぶりを見せている。「和製諸葛孔明」なんて声もあるほどで、後世軍略の天才と称えられて「楠木流軍学」なるものまで出現した。

 しかしこの正成、湊川の戦いでは敗北が確実な戦いにわざわざ出向き、これといった工夫もなく足利の大軍にひたすら突撃を繰り返し、長時間の奮闘こそみられるものの結局は自決に追い込まれている。足利方も正成の智略を恐れていたというが、この戦いでその智略が発揮された様子はない。智将・正成がなぜこの戦いでこんな戦い方、死に方をすることになったのかも彼の生涯をめぐる大きな謎だ。しかし「泣ける話」にとことん弱い日本人の大半は「桜井の別れ」だの「七たび生まれ変わる」といった名場面に酔ってしまい、事実関係はどうでもよくなってしまった観も否めない。

 さて4月1日、正成ゆかりの地である千早赤坂村の教育委員会は、この謎に迫る古文書を発見したと発表した。それはやはり正成ゆかりの寺であり一時南朝の皇居が置かれていたこともある観芯寺の文書箱の奥から発見された書状で、文末に「楠木河内守」の署名と花押があることから正成本人の直筆と断定された。

 左がその文書である。何やら図形がいっぱいあってとても文書には見えないのだが、文末にあるのは確かに正成の署名と花押。図形と共にびっしりと書き込まれた文を解読・分析した専門家によれば、これらの図形は千早城・赤坂城のあった河内・金剛山とその周辺の地形を単純化して書いたもので、正成が幕府軍を相手にした作戦の構想をまとめた「指示書」あるいは「設計図」のようなものとみられるという。しかしそこに書かれた文章は非常に抽象的で、こんな図形と指示をもとに兵士たちが実際に作戦を進めたとは考えにくい。

 南北朝時代に詳しい大覚寺尊治・吉野山大学教授(日本中世史)は、「智将とされる正成だが、軍記物語である『太平記』を除いてしまうと、実際に戦いが上手だったことを示す史料は乏しい。諸葛孔明も実際には戦下手だったと歴史書にも書かれているから、正成も実像はかなり違うのではないか」と話す。「正成の作った設計図をもとに、実際の作戦は他の人物が立てていた可能性がある。正成は神秘性をまとった天才軍師として表に立ち世間の注目を集めるようにしていたが、兵法などをきちんと学んでいた形跡もなく、実際の作戦はゴーストライターに任せていたのでしょう」

 では、正成のゴーストライターとは誰だったのか。大覚寺教授は大胆な推理を提示する。「そもそも『太平記』によれば、正成の登場は後醍醐天皇が夢の中で「南の木」を見て「楠」という名前のものを探したという神秘的な話になっています。それが事実とはもちろん思えず、後醍醐が正成をデビューさせるために仕組んだ『やらせ』に違いありません。だとすれば正成のゴーストライターは、後醍醐当人であった可能性が高い。実際の戦場には正成が出るので設計図は彼が書き、裏方の後醍醐が実際の作戦書を書いたのでしょう」

 また、この新説では前述の「湊川の戦いの謎」も解ける大覚寺教授は話す。「足利側から書かれた『梅松論』では、正成が尊氏を九州に追い落とした直後、後醍醐と尊氏の和睦を進言したとの逸話が紹介されています。当然、後醍醐は不愉快だったでしょう。そして湊川の戦いの直前にゴーストライター関係の暴露と解消を持ち出した。驚いた正成は「もしこのことが明らかになれば私たちは死にます」と土下座しましたが、後醍醐は聞く耳を持たなかった。やむなく正成は自身で作戦を立てて湊川に向かったがやはり死んでしまった、ということでしょう」

 聞く耳を持たなかった後醍醐は、正成の戦死後、吉野にナンチョウを開くこととなる。



◆江戸幕府第五代将軍に関する一考察

 Background

 徳川綱吉は江戸幕府の第五代将軍である。名前はまだない。親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。木曽路はすべて山の中である。国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。山路を登りながら、かう考へた。「おい地獄さ行ぐんだで!」メロスは激怒した。桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。石炭をば早や積み果てつ。山の手線に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。


 1.徳川綱吉の位牌

 徳川綱吉は極端な動物愛護政策「生類憐みの令」を出し、特に犬を強く保護したことで知られる。こうした奇矯な政策を実行した理由については、男子の夭折以後、男子出生を願ったためとか、綱吉が犬年生まれだったからといった説明がなされてきたが、万人に納得のいく説明とは言い難い。
 
 ここで、綱吉について歴史学ではなく、生物学的なアプローチを試みたい。
 徳川氏のルーツである三河の岡崎にある「大樹寺」には家康以前の松平氏当主も含めた歴代将軍の位牌が収められている。左の写真がその歴代将軍の位牌であるが、写真中央にあるのが綱吉の位牌である。左右を比べれば一目瞭然、綱吉だけ極端に短い位牌となっているのである。他の位牌が150〜160cm台であるのに対して、綱吉のものだけは124cmしかないのである。
 あくまで一説に、であるが、この大樹寺の歴代将軍の位牌は当人の死亡時の身長と同じ長さに作られているという。事実、歴代徳川将軍のうち、芝の増上寺に埋葬されていた遺体を改葬時に確認した例では、ほぼ推定身長と位牌の長さが一致したとされている。では綱吉の身長は124cmしかなかったというのだろうか?当人の遺体を確かめたいところだが、綱吉の遺体は上野の寛永寺に埋葬されていて、調査されたことはない。

 実際に綱吉の身長が極端に低かったのなら、同時代の証言が何かありそうなものだが、それは確認されていない。そのためあくまで俗説の域を出ない話なのであるが、奇矯な行動を起こした将軍の位牌だけが異様な特徴を持っていることは注目されるべきである。


 2.「犬公方」綱吉

 良く知られるように、徳川綱吉は庶民たちから「犬公方(Inu-Kubo,Dog Shogun)」と呼ばれていたとされる。これは犬を極端に保護したため揶揄を込めて呼んだものと一般的に説明されるが、綱吉の動物愛護は何も犬に限ったことではないので不自然さも感じられる。大名たちは幕府ににらまれることを警戒して口を閉ざしていたが、もしかすると庶民たちは「揶揄」という形をとることでひそかに綱吉の正体を喧伝したのではあるまいか。「犬公方」という名前をそのままに解釈してみれば、一目瞭然であろう。「犬の将軍」である。そう、綱吉は実は犬そのものだったのではないだろうか

 4月1日に徳川美術館が、秘蔵されていた将軍綱吉の未公開肖像画(土佐光起筆)を公開した。それが右図である。上記の大胆な推理がまさに的を射ていたこと示す明白な証拠である。身長124cmというのも、彼の正体が犬ということであれば納得がいこう。

 犬が将軍になれるのか、という疑問の声もあがるであろう。確かに江戸幕府の憲法にあたる武家諸法度にも「犬は将軍になれない」とは書かれていないが、いきなり犬を最高権力者の地位につけることには問題があろうし、そもそも犬に政治をみることができるとは思えない。綱吉は問題のある政治家とはされているが、貨幣改鋳や赤穂事件への対応など、とても犬にできるとは思えない政策を手掛けているのは事実だ。綱吉といえば柳沢吉保を取り立てた側用人制度を始めたことでも知られ、綱吉はただの犬で、実際の政治は全部吉保がやっていた、という可能性も考えられるが、それだけではいきなり犬を将軍に仕立てた理由が説明しきれない。

 近年、日本の携帯電話のCMで声が北大路欽也に良く似た人語を話す犬が出演して人気となっている。そのCMではその犬はもともと人間の姿であったことが示唆されており、このことは綱吉の問題を考える上でも大いに示唆的である。綱吉も最初から犬だったわけではなく、徳川家の血をひく人間には違いなかった、それがある時期から犬に変身した、と考えられるのである。


 3.「変身」に関する科学的考察

 人間が動物に変身する、という逸話は「狼男」など世界各地の民話に見られる。この現象は生物学的には身体を構成する細胞が各種生物に分化する前の状態に「初期化」され、そこからまったく違った能力をもつ動物になることだと説明できる。
 分子生物学の一部の研究者によると、こうした現象は個体が物理的・精神的に強いストレスを受けることで起こる可能性があるという。例えば狼男の場合は夜中に丸い月を見ることで精神的にストレスが与えられ、人間の細胞がいったん初期化されて狼の細胞に変わるものだという。

 綱吉が犬に変身したかどうかを実験で確かめることは、当人がとうの昔に死んでいるために不可能である。しかし変身問題に詳しい府蘭津過負荷教授によると、逆の変身、すなわち犬を綱吉に変身させることは可能だという。その実験は犬に寝ることを許さず、餌も与えずに24時間ぶっつづけで綱吉が登場する時代劇ドラマを鑑賞させてストレスを与えることで起こるといい、実際に細胞が初期化されて万能性を持ち、綱吉に変化する現象が確認できた。ただし鑑賞させたドラマにより違った綱吉に変身するという(Fig.01参照)
 府蘭津教授はこの歴史ドラマを見ることにより変身能力を獲得した細胞を「史劇惹起性多能性獲得細胞」と名付けている。犬から綱吉への変身が可能なら、逆も十分可能であり、綱吉が犬に変身したことは間違いないとみられるという。とくに使用された史劇のうち、中央のものについては製作スタッフも綱吉の正体に気付いていたのではないかとも主張する。タイトル画面にわずかな改造を加えると、真相がうかびあがってくるからだというのだ(Fig.o2参照)

Fig.01「犬に与えた史劇による変身の状況」Fig.02

 結論

 以上の検証から、綱吉が犬に変身したことは事実と断定してよかろう。また、こうした変身能力は、徳川家代々に伝わっていた可能性もある。とくに「タヌキおやじ」と言われた徳川家康にもタヌキへの変身能力があったとみられ、さらには徳川家ではないが豊臣秀吉もサルに変身した、あるいはサルから変身した可能性が考えられる。それを検証するために、今後はタヌキやサルに歴史ドラマを見せる実験が必要となろう。

脚注 References

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Totman, Conrad. (1967).Politics in the Tokugawa Bakufu, 1600-1843. Cambridge: HarvardUniversity Press. OCLC 279623


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◇編集部より◇
いったん掲載した上記論文ですが、その後本文の「Background」や「脚注」に他の文献やサイト内文章からの大量のコピペがあると指摘されたほか、画像の無断流用、切り貼りや差し替え、改造の疑いが指摘されました。執筆者に質問したところ「やってはいけないとは思わなかった」と話しており、ただいま事実関係を確認中です。



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