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2014年7月5日

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◆今週の記事

◆イラク情勢三国志

 気が付いたらイラクが大変なことになっていた。いや、もちろんその前から大変なことにはなっていて、一ヶ月一度か二度くらい「自爆テロでウン十人死亡」というニュースが、日本国内のありふれた交通事故並みの扱いで報道されていたような記憶もある。そしてこの6月、イラク北部にあるイラク第二の都市モスルがスンニー派系過激派武装組織「イラク・シリアのイスラム国(イラク・レバントのイスラム国とも。後述するが現在は「イスラム国」に改称)に占領され、首都バグダッドへも迫る勢い、という状況になって、世界が大騒ぎしているわけだ。

 アメリカのブッシュ前政権が、「大量破壊兵器がある」とインネンをつけてイラク戦争を起こし、サダム=フセイン大統領の独裁政権を倒してから10年が過ぎている。結局「大量破壊兵器」は見当たらず、アメリカの事実上の占領下で「フセイン後」の「民主的」な国づくりが進められ(日本での「成功の前例」が意識されてた、なんて話もあったな)、選挙をやれば人口的には多数派(全人口の6割という)の南部在住のシーア派が当然のように勝利し、マリキ首相によるシーア派中心の政権が誕生、ブッシュの後を受けたオバマ政権は選挙時の方針もあってイラクから全面的に撤退した。しかしその後シーア派中心のマリキ政権に対するスンニー派の不満がたかまり、フセイン時代から活動していたイスラム原理主義系のスンニー派の武装組織も一定の支持を集めて、マリキ政権の不安定化を狙って自爆テロ攻撃を繰り返していた。

 ここに来て動きが急になって来たのは、隣国のシリア内戦の影響、というか「飛び火」と説明されている。シリアではシーア派系のアサド大統領の独裁政権を「アラブの春」の流れで打倒しようとする各勢力が活動して内戦状態に突入、ひところアサド政権が化学兵器を使用したとの話も出てイラク戦争同様にアメリカが介入か、という場面もあった。結局オバマ政権は踏みとどまったが(イラク戦争と同様に情報源がかなり怪しくもあった)、基本的にはアサド政権を打倒するため反政権側に支援をする方針をとり、アサド政権を支援するロシアやイランと対立、そこへアルカイダの流れをくむ過激派武装組織も乱入してくるというシッチャカメッチャカな状況になっていたのだが、こうした過激派武装組織の中で有力になったのがこの「イスラム国」で、シリア内戦で得た勢力を今度はイラク国内へまわし、あっという間に支配地域を拡大しちゃった、というわけだ。

 今やイスラム圏のどこでも、政治的に不安定な地域にはこの手のイスラム過激原理主義組織が入り込んで来て(実際、どこでも外国人の参加者が多いとされる)、意外に豊富な人員・武器・資金で支配地域を拡大して、支配地域で必ず「イスラム法の厳格な徹底」を実行して、「偶像」とみなした文化財の破壊、女性の肌露出の禁止や学校教育の禁止などの施策を進めている。伝えられるところでは「イラク・シリアのイスラム国」も占領地域で芸術家などの銅像を破壊、ヒゲをそった男性を銃殺するなど、やっぱり同様のことを実行しているようだ。
 どうやらこの手の人たちはサッカーのW杯も「非イスラム的」ととらえているようで、シリアの「イスラム国」支配地域ではラマダン(断食月)中にW杯の決勝リーグを見るのがけしからんと電気そのものを使用禁止にする(病院とパン屋は除く)との報道も出ている。そういえばナイジェリアやケニアなどでW杯観戦に集まった人を狙った爆弾テロが起きているのもそうした考えと連動しているのかもしれない。

 「イスラム国」はしばしば「アルカイダ系の流れをくむ過激派組織」と紹介されるが、実情はもう少しややこしい。ひとくちにアルカイダ系といっても内部の意見対立や分派はあるようで、実は「イスラム国」はその姿勢の強行ぶりから他のアルカイダ系勢力とも対立している。また他の組織がシリアはシリア、イラクはイラク、という別々の作戦を展開しようとしているのに対し、「イスラム国」は「シリアもイラクも、地中海東岸アラブ地域も一帯」ととらえる志向があるという。
 象徴的、というか、彼らもその志向のアピールを狙ってやったパフォーマンスなのだろうが、「イスラム国」の連中がシリアとイラクの国境の土塁を破壊している映像も流された。そしてこう宣言したのだ。「サイクス=ピコ協定の国境を打ち壊した!」と。

 さて、ここでいきなり世界史の授業の復習。「サイクス=ピコ協定」とは、第一次世界大戦時にイギリスとフランス、そしてロシアが交わした密約で、当時ドイツなど同盟国側についていたオスマン帝国の中東領土を三国で分割しようとひそかに取り決めたものだ。ユダヤ人にパレスチナのユダヤ国家建設を約束した「バルフォア宣言」、アラブ人にオスマン帝国への反乱をけしかけてアラブ国家建設を約束した「フサイン=マクマホン協定」と並べて「イギリスの三枚舌外交」として悪名高いものだが、第一次大戦後、オスマン帝国が滅亡したあとの中東地域はこの「三枚舌」を微妙にミックスした分割が進められた。大雑把に言えば、現在のイラクの領土はこの「サイクス=ピコ協定」でイギリス勢力圏、シリアの領土は同協定でフランスの勢力圏とされた地域だ。つまり英仏両国によって勝手に分割されて作られた国家であって、「イスラム国」の主張のとおり本来「別の国」ではないのだ。

 そういう事情で勝手に線引きして作られた国家だから、イラクの中には大きく三勢力が存在する。メソポタミア地域に集中的にいて人工的には多数派のシーア派、そしてかつてフセイン政権を支え、今は「イスラム国」になびきがちとも言われるスンニー派、それからトルコ・イランにまたがる北部山岳地域にいて独立国家建設をめざしているクルド人だ。
 このクルド人、フセイン政権下ではひどい弾圧を受けていたが、イラク戦争でフセイン政権が倒れると北部油田地域を支配下において実質的な独立状態になっていた。そして今回、「イスラム国」の攻勢によりマリキ政権の軍が撤収を余儀なくされると、言い方は悪いがドサクサに紛れる形で北部油田地域のキルクークをクルド人勢力が支配下に置き、いっそう独立への姿勢を強めてマリキ政権側と対立を始めている。そしてこうしたクルド人の動きに、国内にクルド問題を抱えるトルコが警戒、一方でスンニー・シーア双方を牽制したいイスラエルが支持を表明したりしていて、周辺国の思惑が複雑に交錯して事態は中東全域を巻き込んで混沌としてきている。

 イラクの隣国イランはイスラム革命以来アメリカや西欧諸国と敵対(ソ連など東側諸国にも敵対したけど)、アメリカがフセインをけしかけてイラン・イラク戦争へと突入させたこともあった。イランはシーア派国家なのでマリキ政権を支援する姿勢を示しており、イランの戦闘機(ロシア製)がイランの国旗を消してイラク軍に納入される映像には何やら「時代の変化」を感じもした。
 そして今度の事態は、これまで激しく対立を続けてきたイランとアメリカや西欧諸国の関係に変化をもたらしつつある。シリア内戦でも対立関係にあった両者だが、まさに「敵の敵は味方」というやつで、表面的にはボカしているものの水面下ではいろいろと接近がはかられているらしい。イラク情勢が緊迫化したとたんに2011年以来閉鎖していたテヘランのイギリス大使館が急遽再開されたのも象徴的だし、アメリカとイランが別々にとはいえそろってイラク政府に軍事支援をしてるという構図がなんとも皮肉。これまでの経緯が経緯だけにアメリカもイランもそう簡単には関係修復はできないと思うのだけど、そんなこと言ってられない情勢ってのも確かだ。といって、オバマ大統領もアメリカ国民の多数も本格軍事介入なんてしたくないから、いっそイランにやらせれば、という気分もあるのかも。
 ついでながら日本の首相が「集団的自衛権」の例として何かと「ペルシャ湾のホルムズ海峡が機雷でふさがれたら掃海」という話を持ち出してるが、それって明らかにアメリカとイランが戦争状態になった場合を想定してるのだが、なんだか戦前に独ソ不可侵条約をみて「欧州情勢は複雑怪奇」とか言って辞任しちゃった首相がいたのを思い出す。他にも日本の外交感覚って都合のいい幻想にひたってるうちに現実においてけぼり食うケースが多いような気がして…

 それにしても、あの空爆大好き(笑)のアメリカが、「空爆してくれ」と一国の大統領から頼まれてるのにしない、というのがまた面白い(面白がっちゃいけないが)。アメリカが本格軍事介入に消極的な理由の一つに、ここでシーア派政権に肩入れするとアメリカと仲良しのサウジアラビアなどスンニー派諸国の機嫌を損ねてますますややこしいことになりかねないから、と言われている。だいたい「イスラム国」の支配地域急拡大の背景に、実は「イスラム原理主義国家」の総本山でもあるサウジアラビアの支援があるとの見方もある。サウジ政府は否定してるけど、非政府レベルでは大いにやってる可能性ありで、これがまたアメリカの頭を痛くしている様子。
 こうして歴史的経緯も含めて眺めてみると、こんな領域をまとめて支配していたかつてのオスマン帝国って凄かったんだな〜とヘンな感慨も持ってしまう。オスマン帝国崩壊後、ここ100年近くの欧米列強の思惑にふりまわされまくった中東の歴史の矛盾がここにきてまたいろいろと噴き出してきた、とまとめることもできるかもしれない。だからこそ「過激」とは思われつつも「イスラム国」が一定の支持を得てしまうのだろう。

 さて6月29日、「イラク・シリアのイスラム国」はイラクからシリアにまたがる支配地域に「イスラム国家」を樹立したと宣言、その正式名称もずばり「イスラム国」とした。まぁここまでは予想の範囲だったが、指導者のアブバクル=バグダディ「カリフ」に指名し、「全世界のイスラム教徒は彼に忠誠を誓え」と言い出したのにはさすがにビックリ。
 だって「カリフ」だよ!またまた世界史の授業になってしまうが、「カリフ」とはイスラム教の預言者ムハンマドの後継者のことで、四代目のアリーまでを信徒から選ばれた「正統カリフ」と呼び、その後はウマイヤ朝、アッバース朝などイスラム国家の世襲君主の称号として引き継がれた。その後世俗君主である「スルタン」が実力を持つようになってカリフの地位は宗教指導者にとどまるようになり(この辺の事情は日本の天皇と将軍の関係とよく比較される)、モンゴル帝国がバグダッドを占領した際にアッバース朝のカリフは断絶、その後エジプトのマムルーク朝によりアッバース一族がカリフとして擁立される。その後、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国のスルタンが「カリフから禅譲された」という伝説をデッチあげて自称するようになったが、オスマン帝国の滅亡と共にそれも途絶えた。先述の「フサイン=マクマホン協定」のフサインが一時カリフを自称したこともあったが、イスラム世界からは完全に黙殺されている。それ以来の「カリフ」自称ということになるわけだが、とても全世界のイスラム教徒が忠誠を誓ってくれるとは思えない。それよりも「お前がカリフかよ!」とかえって反発を買うんじゃなかろうか(フサインは一応ムハンマド一族の血は引いていたが、バグダディはさすがにそうではあるまい)。さすがにこれは暴走の気味があるように感じるなぁ。

 そんなことを書いていたら、この記事のアップ直前になって「イスラム国」がFIFAに対して「2022年のカタールW杯を開催するな」と警告を発した。その年までにはカタールも「イスラム国」の領土となっているから、そこでW杯開催は認められん、という理屈だ。「計画を進めるなら自爆テロ、スカッドミサイルで妨害する」とも言ってるそうで…イラクも含めて中東の人たちもサッカー大好きだそうだし、意外とこんなところから人心が離反するのかもしれない。



◆スペイン国王も生前譲位

 「も」とつけたのは、昨年はローマ法王、オランダ国王で「生前譲位」があったから。ヨーロッパで国王の生前譲位はないわけではなく、割と簡単な手続きでできる印象もあるのだけど、そう多いわけでもない。日本なんかは完全に死ぬまで退位できないことに決められてるけど…中世には割とコロコロと退位して、「上皇」になってから院政を敷いて本当の支配者になれる、なんて訳のわからんシステムがあった国でもあるのだけど。
 今からほぼひと月前の6月2日、スペインのフアン=カルロス国王(76)が国王の位を退き、息子のフェリペ皇太子(46)が新国王に即位することが発表された。在位39年のフアン=カルロス国王は高齢でもあるし、自国が財政危機の折にアフリカでハンティングをして負傷したことが発覚して国民の批判を買っていて、さらに娘のクリスティーナ王女が夫ともども脱税や資金洗浄の疑いがかかるというスキャンダルもあり、昨年の世論調査で国民の国王への支持率が激しく低下して王室そのものの必要性さえ疑問視する声が高くなっていた。そうした情勢を受けてフアンさんも不安になったようで、ここは国王も代替わりして気分を一新する方が得策、と考えたようだ。

 6月18日にフアン=カルロス国王が退位に関する法律に署名、日付が変わる深夜0時をもって新国王フェリペ6世が即位した。フェリペさんといえば、自国で開催されたバルセロナ・オリンピックでヨット選手として出場し(父親もそうだった)旗手を務めたお方で、昨年にオリンピックのマドリード開催のためにスペインの「切り札」としてロビー活動で大活躍していたのも記憶に新しい。この人が「王族」の看板しょってロビー活動するんで「マドリード有利」なんて憶測が流れたりもしたのだが、こういうの、アテにならないもんである。

 ところでスペイン国王で「フェリペ」といえば、どうしてもスペイン絶頂期の君主であり、絶対君主の例として名高いフェリペ2世(1556-1598)が思い起される。そのフェリペの息子がフェリペ3世、そのまた息子がフェリペ4世になったのだが、そのまた息子のカルロス2世は後継ぎを得られず、ハプスブルグ家のスペイン王家はここで断絶。それを見てフランスのルイ14世がそこそこスペイン王家の血を受け継いでいる孫を押し込んで即位させたのがフェリペ5世だ。この件をめぐってスペイン継承戦争が起こったりするのだが、ともあれ現在に至るスペイン王室はこのフェリペ5世の直系の子孫であり、本家フランスでもすでにいないブルボン家の国王であるわけだ。その新国王がフェリペの6世、となると、ちょいと因縁めいたものも感じる。

 6月19日にマドリード国会でフェリペ6世は宣誓式に臨み、憲法の尊重を誓った。そして「多様な人々が団結したスペインであれば、すべては受け入れられる」と発言している。これは現在のスペインでバルセロナ周辺のカタルーニャ地方の独立気分が少なからずあること、時々思い出したように活動を展開するバスク地方の人々のことなどを念頭に置いたものと思われる。どうもヨーロッパは狭いくせにどこの国でもこの手の問題がありますな。その後、定番のオープンカーに乗ってのパレードやら宮殿のバルコニーからの挨拶やらが行われているが、それこそ「税金の無駄遣い」と国民から批判されないようにと、式典はいたって質素、諸外国の要人を呼ぶこともしなかった。
 ところで気の早い話だが、さらに次のスペイン国王の予定者、すなわち王位継承権第一位は、フェリペ国王の長女レオノールちゃん(8)である。ここも他のヨーロッパ王室同様に男性優先の継承はとうにやめてしまっているわけですね。200年ほど前だったらそれこそ継承戦争が(笑)。



◆波紋を呼ぶ破門

 またその話かよ、とお思いの方も多いでしょうが、やっぱり「ゴッドファーザーPART3」を連想しちゃいますよね、このニュースには。ローマ法王フランシスコさんが、マフィアのメンバーたちに対して「破門」を宣告したのだ!
 以前このコーナーでも触れたが、フランシスコ法王は先ごろにもマフィアの被害者らに面会してマフィアを鋭く糾弾し「悪行をやめねば地獄に落ちるぞ」とまで口にしていた。それだけ明確にマフィアへの対決姿勢を示したわけだが、6月21日に法王はイタリア南部のカラブリア州を訪問、25万人も集めた野外ミサを行って、その場で「マフィア構成員のように悪の道を進む者は神との交わりがなく、破門される」と述べたという。報じられるところでは、歴代法王でマフィアに「破門」とまで言っちゃったのは現法王が初とのこと。

 さらに凄いと思うのは、このカラブリア州というのが、イタリア・マフィアでも最大勢力とされる「ンドランゲタ」の本拠地であり(イタリアにも「ん」から始まる言葉があるんだな)、この演説の中でも法王は「ンドランゲタは悪をたたえ、善を軽蔑する」と名指しで批判しているという事実だ。
 フランシスコ法王は、かねてマフィアやらマネーロンダリングやらの噂のある「バチカン銀行」の改革にも手をつけており(抵抗も強いようで微妙に後退してるが)、今度の「マフィア破門」発言の全面対決姿勢は、その件とも絡んでいるのではなかろうか、と推測させる記事も見かける。「ゴッドファーザーPART3」ではまさにそのバチカン銀行とマフィアが絡んで、その調査に手をつけようとした法王ヨハネ=パウロ1世が毒殺されるという展開になっており、実際にそういう背景があったのでは、と疑われる事実もあるため、どうしても「法王さん、大丈夫かな?」と思ってしまう。実際にマフィア捜査にあたる検事の中にはマフィアによる法王暗殺を警戒する声もあがっているとのこと。
 それにしても「破門」とはねぇ。世界史で有名なのは「カノッサの屈辱」の神聖ローマ皇帝の破門と、宗教改革のきっかけとなったルターの破門が思い浮かぶが、マフィアも「破門」となったら宗教改革起こして新宗派でも作っちゃったりするんでしょうか。


 その宗教改革で生まれた新宗派が「プロテスタント」で、その中のピューリタン(清教徒)が移住して作られた歴史を持つアメリカ合衆国は今でもプロテスタントが一応の多数派。その中で有力宗派の一つとされるのが「米国長老派教会(PC(USA))」。この「長老派教会」が、6月20日に教会が保有するコンピュータ大手「ヒューレット・パッカード」。通信機器「モトローラ・ソリューションズ」、建設機器の「キャタピラー」といった有名大企業の株式、合計2100万ドル(約21億円)分を売却すると決定したと報じられた。
 21億円と聞けば確かにデカい額だが、この宗派の株売却がなんでニュースとして報じられるかと言えば、実は背景に政治・外交的な動機があるからだ。実は長老派教会はこれらの企業がイスラエルと取引していることを問題視している。周知のとおり、イスラエルはパレスチナの入植地を拡大しようと強硬姿勢をとっており、長老派教会からするとこれら大企業はイスラエルと取引することで間接的にイスラエルの入植地政策に加担していることになる。だからこれら企業に圧力をかけることでイスラエルに歯止めをかけたい、という狙いなのだそうだ。
 報道によると、この手の動きはヨーロッパではすでに見られていたそうだが、国内に少なからぬ影響力をもつユダヤ系国民をかかえ、何かにつけてイスラエルの後ろ盾になるアメリカで起こったことが注目される。長老派の信者には歴代大統領にもいるし、アメリカ政界にも一定の影響力があるとされ、最近イスラエルの突っ走りぶりにアメリカ政府も眉をひそめてチビチビとイヤミを言うようになってきたこととも無関係ではないのかも。
 もっとも、長老派教会でこの件についての投票は賛成310に反対303という、かなりの僅差だったといい、長老派の中でも意見は二分されているのだろう。


 さらにキリスト教がらみの話題をもう一つ。元記事はCNNから。
 キリスト教は1世紀前半にイエスが説き始め、その後ペテロパウロといった後継者たちがローマ帝国内に広めた。しかしその初期には信者たちは周囲から不気味がられ、非合法な存在として徹底的に弾圧された歴史を持っている。しかしそれでも信者はじわじわと増え続け、ついに4世紀にはローマ帝国で信仰を公認され、さらには帝国の「国教」にまで昇格してしまうことになった。
 その「じわじわと増える」一つのキッカケだったとされているものに3世紀半ばに大流行した「キプリアヌスの疫病」がある。当時カルタゴでキリスト教の司教をしていたキプリアヌスが記録していることからその名がある疫病で、その症状からすると天然痘だったのではと推測されている。このときローマでは1日に5000人もの死者が出て皇帝もこれで死んでおり、エジプトのアレクサンドリアでは人口の3分の2までが失われたとの推計もあるほど、凄まじい被害が出ている。この疫病がキリスト教の説く「世界の終末」を予感させ、キプリアヌスも含めたキリスト教徒たちが「キリスト教信者は恐れなくてよい」(病気にかからない、ということではなく世界終末における「最後の審判」で天国に行かせてもらえるということ)と主張したこともあって、地獄に落ちたくない一心でキリスト教に入信する人が増えたというのだ。災厄を「予言」して信者を増やすというのは宗教の常套テクニックなのだが、これもその一例であろう。

 さて、この「キプリアヌスの疫病」の「証拠」ではないかとみられる発見があった。エジプトのルクソールの墓地遺跡を調査していたイタリアの調査団がその時期と思われる人骨を発見したのだが、その骨には石灰が厚くかぶせられ、近くには火葬の跡や石灰生成のための窯も発見されたという。当時は疫病の感染防止のために石灰が使用されていたので、この人骨も疫病による死者ではと推測された、ということなのだ。
 結局この時も「世界の終末」は来なかったものの、キリスト教の信者増大には確かに後押しになったらしい。それが神の意志であったかどうかは、それこそ神のみぞ知るだ。
 


◆あの事件から1世紀

 もうあれから100年が立つのか…などと、この目で見たわけでもないのに言っちゃうのだが、やはり「サラエボ事件」と聞けばあまりにも有名なものだから、なんだか自分の体験の延長上にあるような気もしてくる。ちょうどこの時代を扱っているアルセーヌ=ルパンの研究なんかしてるからかもしれない。
 1914年6月28日。オーストリア皇太子フランツ=フェルディナント夫妻がボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪問、オープンカーで移動中に沿道で待ちうけていたセルビア人青年ガブリロ=プリンツィプに狙撃され、その場で絶命した。当時オーストリア・ハンガリー帝国はバルカン半島へ領土を拡大し、ボスニアを併合したため、この地にいたセルビア人らの激しい憎悪をかきたてていたのだ。なおプリンツィプは単独で行動したわけではなく仲間数名とグループを組んでオーストリア皇太子を狙っていて、事件直前にも他のメンバーが未遂に終わったり、爆弾を投げて失敗したりしている。プリンツィプは暗殺グループの最後の順番待ちになってた若者であり、皇太子一行のルート変更もあってたまたま「成功」してしまったわけである。

 すでに「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたバルカン半島に火花を投げ込んでしまったこの事件をむしろ好機とみて、ちょうど1カ月後の7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦、セルビアのバックには同じスラブ民族のロシア帝国が控えていて、オーストリアのバックには同じゲルマン民族のドイツ帝国がいた。そしてこれがドイツを中心とする同盟国と、ロシア・イギリス・フランスの協商国という対立構図のまま8月あたままでに多国間の戦争に突入、「第一次世界大戦」となった。当然当時は「第二次」があるとは思ってないので「第一次世界大戦」とは呼んでないわけだけど。

 サラエボ事件100年の節目ということで、ヨーロッパ各国の首脳たちがサラエボに集まって不戦と平和を誓いあうイベントが行われた。第一次のあとも第二次の世界大戦、さらに冷戦をやらかしてしまったヨーロッパはEU統合の道をここまで進んできたわけだが、ギリシャ問題など加盟国間の経済格差の問題もあるし、それを受けての先の欧州議会選挙で各国の極右が躍進し、相変わらずの民族対立や排他主義を見せつける事件が次々起こるなど、ヒヤヒヤするような状況もある。それでもここまで来ればなかなか流れは変わるまいとは思うのだが、そうした懸念があるからこそこういうイベントで歴史を再認識する必要もあるわけだ。
 しかしここでも少々ミソがついた。記念行事の場となったのはサラエボの国立図書館で、ボスニア紛争の際にセルビア人勢力によって放火・破壊された場所だったのだが、再建時につけられた銘板に「セルビア人犯罪者らに放火された」と刻まれていることにセルビア側がカチンと来て、セルビアの大統領も首相も出席を取りやめてしまっている。

 サラエボのあるボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア系・クロアチア系・ムスリムといった民族・宗教の雑居状態で、1990年代にユーゴスラヴィアが崩壊する際、またまた激しい民族紛争の舞台となって「バルカンの火薬庫」をまた見せつけてしまった国だ。どうにか多民族国家として統合し、今年のワールドカップにも代表が出たりもしているのだが、まだブスブスと対立の根はくすぶっているようだ。
 やはり、と思ったのが、暗殺犯プリンツィプの評価についてボスニア・ヘルツェゴビナ国内でも大きく意見が割れている、との報道を読んだ時だ。ボスニア国内のセルビア人たちはやはりプリンツィプを「オーストリアからバルカンの民族を自立させた英雄」とみなす声が多く、ユーゴスラヴィア時代には暗殺現場にプリンツィプの足形がかたどられていたり彼の名を冠した橋があったりもしたし、100周年を期してその銅像までが建てられたりしているのだが、「被害者」側であるオーストリア外相も「何を国家的な記念とするかは自由だが、それは欧州統合の価値観に貢献するものであるべきだ」と、やんわりとではあるがプリンツィプ称揚の動きに苦言を呈していたし、セルビア人と対立したクロアチア人やムスリムたちからは「妊婦を射殺した非情なテロリスト」と突き放す声も多いという。この辺り、最近ハルビン駅に記念館が建った安重根の評価論議とも通じるものがある。
 どっかの記事で見たのだが、プリンツィプの甥にあたる人が78歳で生きていて、プリンツィプらをセルビア民族のみの枠でとらえることにも反対していた。その根拠として暗殺チームにムスリムも含まれていたことを挙げていたが、信仰はともかくセルビア民族主義者には違いなかったんじゃなかろうか。

 結果的に人類史にその名をしっかり残してしまったプリンツィプは事件当時19歳(7月25日生まれなので成年まであとひと月を切っていた)。暗殺成功直後に自殺を図ったが死に切れず、他のメンバーと共に逮捕されたもののギリギリ未成年であったため実行犯にも関わらず死刑は免れ20年の懲役刑を受けた。しかし獄中にいる間に結核を患い、片腕も切断され体重も40キロにまで減った末に1918年4月28日に死去。第一次世界大戦が同盟国側の敗北で終結したのはその年の11月のことだ。
 その後も性懲りもなく第二次世界大戦が起こってしまうが、来年はそれが終わってから70周年の節目になる。とりあえず大惨事ではすまなそうな第三次は起こさないままその節目に行きそうなのだが、今年も相変わらず戦争・紛争はあっちゃこっちゃで起こっている。


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